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アニメ化で失われるもの---伊藤潤二作品から学ぶ
世界的に著名なホラー漫画家である伊藤潤二の作品は、これまで何度も映像化されている。テレビアニメとしては、伊藤潤二『コレクション』(2018年)と伊藤潤二『マニアック』(2023年)があり、前者は、WOWOWで先行放送されたすぐ後に、さまざまなメディアで放送/配信が行われ、後者は、まずNETFLIXで配信、翌年テレビ放送という形で紹介された。いずれも田頭しのぶ監督、澤田薫脚本、スタジオディーン制作によるオムニバスであり、作品のテイストは共通している。
スタッフが伊藤の特異な恐怖世界をアニメで再現しようと尽力したことは、それなりに理解できる。しかし、空間的・時間的制約がある映像のフレームにこぢんまりと収められた感が強く、原作が持つ破天荒な魅力は失われてしまった。私が伊藤の原画展(「伊藤潤二展 誘惑」2024年、世田谷文学館;ちなみに、世田谷文学館はここ10年ほど年1回のペースで充実した漫画展を開催しており、漫画ファンの聖地となりつつある)で驚嘆したのは、ストーリーから切り離した1枚の絵だけで見る者の心を鷲掴みにするパワーである。
伊藤がいかにして圧倒的な迫力を持つ絵を生み出すのか、その秘訣はNHK「浦沢直樹の漫勉」で明かされた(2017年3月9日放送分)。ここで紹介されたのは、傑作「恐怖の重層」で何層にも重なった少女の表皮を剥がし続けた帰結(!)を描いた1枚。原作を読んだ人は、おそらく誰しも数十秒間(吐き気を抑えながらも)目が離せなくなる衝撃的なコマである。伊藤は、この1枚を描くのに、ペン入れから完成まで9時間掛けた。突拍子もないアイデアを具体的なビジョンに落とし込むのだが、ありきたりなベタは使わず、ペンをゆっくり細密に動かしながら、際限なく余白を埋めていく。現実にはあり得ない状況が具現されるとどうなるかという思いに取り憑かれたかのように、執拗なまでに描き込みを積み重ねることで、恐怖のイメージをじっくりと膨らませる。その結果「どこを見ても怖い」絵が生まれるのである。
こうした作品をアニメ化するには、どうすれば良いのか? 漫画の読者が目を離せなくなるからと言って、アニメで同じ絵を延々と流しても、押しつけがましく視聴者の心を動かすことはできない。今回のアニメでは、ライターがストーリーを補完し物語として一貫するように工夫している。しかし、わかりやすくはなったものの、かえって絵自体の訴求力は削がれ衝撃は希釈された。そもそも、伊藤作品の場合、敢えて言えばストーリーは“後付け”であり、そこを工夫しても得るものは少ない。
濫作気味のアニメブームが続く中、漫画のアニメ化は頻繁に行われているが、原作を超えるケースは稀である。理由は明らかだ。漫画家が命を削りながら1枚の絵に込めた思いを、時間の中で流れていく動画で再現するのが困難なのだ。『ヒカルの碁』における盤上でのせめぎ合いや『蟲師』の音響効果のように、アニメならではの要素を付け加えない限り、原作漫画の“劣化コピー”にしかならない。
それでは、伊藤作品のように個々の絵が作者の思いの結晶として力を持つ漫画は、アニメ化不可能なのだろうか? そうとばかりは言えない。NHKは、散発的に放送される『怖い絵本』のシリーズで伊藤潤二の作品を取り上げたが、これは悪くなかった(2024年8月28日放送の「こっちをみてる。」で、伊藤は、となりそうしちの文に絵を付けた)。このシリーズは、タイトル通り絵がほとんど動かない“絵本的な”作品であり、ほんのわずかに動かすことによって、恐怖のスパイスを少々付け加える。絵を動かすのがアニメだという発想に囚われず、映像というメディアにどんな可能性があるかを熟考することが大切なのである。
(2024年11月25日)