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監督、総監督、チーフディレクター…

 テレビアニメのクレジットに関して、最近は、用語の統一が進んだようだ。若き宮崎駿が活躍した世界名作劇場などでは、さまざまな仕事を一手にこなす彼の役割を表現する肩書きがなく、「場面設定」とか「画面構成」などという曖昧な言葉が使われていた。シリーズ全体のストーリーラインを決定する「脚本のボス」の意味で「シリーズ構成」という役職名が使われるようになったのは、比較的最近のことである。そうした用語の変遷で興味深いのは、現在は「監督」と呼ばれることの多い、アニメ制作のトップを表す役職の名称である。

 昔のアニメについては、放送で流されたクレジットを確認するのが困難なので、Wikipedeaで調べた。それによると、1963〜64年に放送開始された作品の場合、次の通り。

  • 『鉄腕アトム』−表記なし
  • 『狼少年ケン』−演出(多数)
  • 『エイトマン』−監督:河島治之
  • 『鉄人28号』−監督(多数)
  • 『0戦はやと』−演出:星野和夫
  • 『少年忍者風のフジ丸』−演出(3名)
  • 『ビッグX』−表記なし

 これからわかるように、表記は一定していない(『鉄腕アトム』と『ビッグX』は、原作者の手塚治虫が実質的に監督役を務めたのだろう)。

 その後の有名作品をピックアップしてみよう(括弧内は放送開始年)。

  • 『リボンの騎士』(67)−総監督:手塚治虫、チーフディレクター:赤堀幹治、勝井千賀雄
  • 『宇宙戦艦ヤマト』(74)−監督:松本零士、演出:石黒昇
  • 『機動戦士ガンダム』(79)−総監督:富野喜幸
  • 『赤毛のアン』(79)−演出:高畑勲
  • うる星やつら』(81)−(チーフ)ディレクター:押井守、やまざきかずお
  • 『超時空要塞マクロス』(82)−チーフディレクター:石黒昇

 テレビアニメで監督という名称が定着するのは、90年代に入ってから。庵野秀明の場合、90年の『ふしぎの海のナディア』では総監督(後半のエピソードでは樋口真嗣が監督を担当)だったが、95年の『新世紀エヴァンゲリオン』では監督(他に副監督2名)という肩書きになっている。なお、総監督という呼び名は現在でも時折使われるが、別に監督がいて実質的に監修の役割だと思われるケース(多数あり)と、総監督だけがいる場合(『妄想代理人』『正解するカド』など)があって、ややこしい。

 テレビドラマになると、通常、監督ではなく演出という用語が使われる。ここには、どうも力関係の問題があるようだ。監督という言葉には、プロジェクト全体を指揮するトップというニュアンスがある。だが、テレビドラマの場合、最も力があるのは、予算やキャスティングを決定するプロデューサーであり、ドラマ制作の現場で俳優の演技やカメラワークを指揮するいわゆるディレクターは、その下で働く立場にある。このため、ディレクターを監督とは呼ばず、演出という限定的な肩書きにしたのだろう(アニメでも、アニメーターに具体的な指示を出す仕事は、監督とは別に演出と呼ばれるが、どこまでが演出担当者の役割かは、よくわからない)。

 「プロデューサーの方がディレクターよりも上」という力関係は、アメリカの映画界では、ごく一般的である。ザナックやセルズニックに代表される往年の大プロデューサーたちは、キャスティングやファイナルカットの権限を持ち、ディレクターを雇って演出させる絶対的な支配者として君臨した。これに対して、日本の映画製作現場では、撮影・録音・美術・大道具・小道具・衣装などの各部門が、それぞれ自分の技に自信を持つ職能集団であるため、全てを束ねるのにカリスマ性を持つ指揮官が必要だった。日本で映画ディレクターが監督と呼ばれる所以である。

 テレビドラマは、局内で制作されることが多いので、企業内序列がそのまま反映され、ディレクターはプロデューサーの下に位置づけられる(したがって、監督とは呼ばれない)。一方、テレビアニメは、細かな職人技が必要とされることから、下請けに丸投げされる(近年では、テレビ放送はあくまで商品展示の場であり、ディスクとグッズの販売を主たる目標として制作されることが多い)。アニメ制作を行う会社は、ほとんどが中小(しばしば零細)企業であり、リーダーが全体を見渡す立場から指揮を取る。こうした事情があるため、ドラマと異なって、アニメのディレクターが監督と呼ばれるようになったのだろう。

 アニメの制作が、監督による強力な指揮の下で行われることは、商業作品に作家性を与える効果をもたらす。ディズニーアニメの監督が誰か、ほとんどの人は知らないだろう(通常は複数の共同監督)。宮崎駿や細田守のように名の知られたアニメ作家は、アメリカには少ない。ヨーロッパには、チェコのカレル・ゼーマンやロシアのユーリ・ノルシュテインのように、際だった作家性を持つ著名なアニメ作家がいるものの、芸術性が強すぎて商業的でない。ところが、日本には、誰の作品かすぐにわかるほどの明確な作家性を持ちながら、同時に商業的にも成功しているアニメ作家がかなりいる。これは、彼らが、小さな制作会社で全体を見渡しながらアニメ作りを行い、創造性を発揮すると同時に、他のアニメーターのために商業的な成功も収めなければならないという立場に置かれているからだろう。アニメの現場は、仕事量が多く収入が少ないという厳しい状況にあるものの、小さな集団による制作体制が優れたアニメを生む苗床になっている。皮肉な話である。

(2017年09月16日)