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キャラ萌えの系譜

 アニメなどのサブカル作品を特徴付ける表現として、「萌え」という言い回しがある。これは、登場するキャラクターを、コンテクストから切り離して偏愛の対象とする態度である。80〜90年代には、一部のオタクが同人誌などを通じて萌えていただけだったが、00年代からはマスコミが盛んに使い始め、世間でも広く認知されるに至った。

 「萌え」は、一般的な「好き」とは異なり、対象に関する情報や表現形式が制限されるために生じた空白部分に、ファンが自分なりの思い入れをする点に特徴がある。生身の人間に対する恋愛ならば、付き合ううちに相手の生活習慣や個人的な嗜好をいやでも目にして、時にはひどい幻滅を味わう。しかし、サブカルのキャラとなると、身体的特徴や経歴などに関して制作者が提供できる情報はごく一部であり、それ以外については自由に想像を膨らませられる。ファンは、そこに自分の嗜好に叶う特性を作り上げることで、片思いに近い熱烈な愛情を持続的に抱くのである。こうした自由な想像が、2次創作として作品化されることも少なくない。

 現実世界における「人生は一回限り」という制限に束縛されないサブカルキャラには、原典とは異なる人生を与えることも許される。唯一性の否定は、『機動警察パトレイバー』のようにOVA・テレビアニメ・漫画で設定が大きく異なったり、『Fate/stay night』のファンディスクで日本に居着いたセイバーが平穏な日常生活を送っていたりという形で、制作者自身が、新たな作品作りを可能にする手法として利用することもある。


 日本人のキャラ萌えは、今に始まったことではない。江戸時代には、『平家物語』に登場する薄倖の美少年・平敦盛が、熊谷直実に討ち取られることなく女装して逃げおおせ、後に直実と再会して妖しい仲になるというBL系2次創作が作られ、江戸の腐女子(および腐男子)の胸を焦がした。義経×弁慶、蘭丸×信長なども、人気のカップリングである。

 日本に限らない。特に、古代ギリシャのキャラ萌えは本格的で、アフロディテやアキレウスが人気の的だった。当時、多くの彫刻、壁画、壺絵などが作られたが、その大半が、女神や英雄の姿態を蠱惑的に描いた2次創作である(英雄たちの男性器が壺絵でどのように描かれたかを見ると、ギリシャ人の好みがよくわかる)。演劇の大半は神話世界を扱っており、現存しないが、おそらく音楽も神話キャラを賛美する内容だったろう。こうした萌え文化は古代ローマにも継承され、絵画や彫刻における描写はさらにエロティックになる。

 ヨーロッパ人の思い込みに反して、ギリシャ・ローマ文明とヨーロッパ文明の間には、大きな文化的断絶がある。最もわかりやすいのが萌え文化の有無で、ヨーロッパには、萌え文化がほとんど見られない。わずかに、マリア崇拝やシャーロック・ホームズ人気に、それと近いものが感じられるが、性的な面における潔癖さを考えると、やはり別物と言うべきだろう(ホームズとワトソンがゲイのカップルだったという説は、シャーロキアンに嫌悪されている)。


 もっとも、日本におけるキャラ萌えの様相は、近年、かなり変質してきた。2010年以降、アニメがビジネスとしてもてはやされるようになり、ファンの歓心を買うために、制作する側が、意図的に“萌えキャラ”を導入するようになったのである。

 萌えキャラとは、視聴者が萌えやすい類型的な設定(ドジッ娘メイドや大人びた口調の幼女など)を採用し、フィギュアやキャラソンなどの商品を作りやすくしたキャラ。特に重要なのは、作品の中で成長しないことである。

 20世紀のアニメには、『機動戦士ガンダム』『銀河漂流バイファム』『太陽の牙ダグラム』といった大河ドラマ的SFや、『ロミオの青い空』などの世界名作劇場に代表されるように、キャラが成長する作品が少なからずあった。00年代に入ってからも、『十二国記』の陽子や『ヒカルの碁』のヒカルのように、作中でのさまざまな体験を経て人間として一皮むけるキャラがいた。しかし、10年代から多く見られるようになった萌えキャラの場合、こうした成長物語(ビルドゥングス・ロマン)は意図的に避けられる。

 ビジネスを目指すプロデューサーからすると、人気が出たキャラは、下手にいじらずにいつまでも使い回した方が、投資効率が高くなって好ましい。最も単純なやり方は、キャラを固定して続編を作ることである。キャラ固定という方法論は、以前は『ドラえもん』などのギャグ漫画や一部のアクション漫画に限られていたが、しだいにストーリー漫画や一般的なアニメにも拡がる。ライトノベルに至っては、キャラを固定し、人気がある限り同じキャラで続編を書き続けるのが当たり前という風潮がある。

 成長しないキャラだけで、どうやって物語を組み立てるか? 見え方を変えれば良い(というのが、プロデューサーにとっての正解)。例えば、『化物語』に登場する数多くの女の子は、作中で何があってもキャラとしては変化しない。八九寺真宵は、当初は迷子の小学生のように登場し、少しずつ正体が明かされるのだが、それは語り手である阿良々木暦にとっての見え方が変わるだけで、迷える怪異という設定は不変である。こうした不変性があるからこそ、どのキャラも続編で何ら障碍なく再登場させられる。

 キャラの成長が必須だとは言わないが、成長しないキャラばかりでは、大人の心を打つ作品はなかなか生まれないだろう。キャラ萌えは日本のサブカルを豊穣なものにした。だが、それをビジネスに応用した萌えキャラの多用は、逆に文化的な衰退をもたらしつつある。

(2018年09月15日)