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日本アニメ、絶賛衰退中(2)−−プロデューサーたちの死角

(「日本アニメ、絶賛衰退中 (1)−−マルチメディア展開からサブカル複合体へ」から続く)

○ビジネス主導というくびき

 アニメ制作は、結集したクリエーターたちによる創造的な仕事である。彼らは、ビジネスのくびきを好まず、そこから平気で逃れ出て、プロデューサーを嘆かせる。

 宮崎駿は、作詞・松本隆、作曲・細野晴臣という豪華メンバーによる『風の谷のナウシカ』“主題歌”を、「作品にそぐわない」と突っぱねイメージソングに格下げした。宮崎が、『ナウシカ』制作中から音楽にこだわり、民族音楽を使いたがったことは、勝川克志「まんがルポ 宮崎駿の1日 どなってごめんね」に記されている。アイドル歌謡のような“主題歌”が気に入らなかったのは、当然である。

 『ふしぎの海のナディア』では、「失われた海底文明の心優しきプリンセスが、科学に憧れる少年とともに潜水艦ノーチラスに乗って、心躍る冒険を体験する」というストーリーをNHKが用意したにもかかわらず、制作を任されたGAINAXの庵野秀明や岡田斗司夫が脚本を徹底的に書き直し、全く別の作品に仕立ててNHKのプロデューサーを激怒させた。

 しかし、こうした自由が許されたのは、アニメがビジネスとしておいしくなかった時代の話である。昨今では、製作委員会に集まった企業人が睨みをきかせ、クリエーターを束縛する。

 2017年最大のヒット作である『けものフレンズ』は、原作に当たるスマホ用ゲームアプリが配信終了になったオワコンで、元々あまり期待されていない低予算アニメだったため、脚本・監督を担当したたつきが、SF的発想に基づくディープなバックストーリーを自由に付け加えて、奥深い秀作に仕上げることができた。だが、人気が出て金蔓になってからはプロデューサーたちの目の色が変わり、第2期制作に当たっては、製作委員会の言いなりにならないたつきを平然と切り捨てた(この問題に関しては、別の機会に書くつもりである)。

 アニメのクリエーターに創作の自由がないことは、「企画が通らない」という嘆き節に端的に表れる。『進撃の巨人』で大ヒットを飛ばした荒木哲郎ですら、次回作として提案する企画がプロデューサーに却下され続けたという(『甲鉄城のカバネリ』のレビュー参照;もっとも、アニメ作家の企画が通らないのは、昔からだが)。

○プロデューサーは何をなすべきか

 そもそも、アニメのプロデューサーとは、何をするのが役目なのだろうか(私は、アニメ制作の現場については全く知らず、キネマ旬報映画総合研究所編「アニメプロデューサーの仕事論」(キネマ旬報社)などの書籍から推測するだけなので、以下の主張は、あくまで私の個人的な見解に過ぎないことを断っておく)。

 アニメのプロデューサーには、制作サイドと出資者サイドの2種類がある(らしい)。制作サイドのプロデューサーは、アニメ制作会社に所属し、クリエーターたちがアニメ作りに専念できるように、外部との交渉や金回りの心配を引き受ける。最近は、メディアミックスが進んでビジネス関連の仕事が複雑化したせいか、××プロデューサーという名前だけ立派な役職が増えており、制作進行の元締めは制作プロデューサーと呼ばれるようになったが、プロデューサーは日本語で「制作者」だから、完全な冗語である。

 一方、出資者サイドのプロデューサーは、儲かるビジネスを目指して奔走する。以前は、テレビアニメに金を出すのは主にテレビ局で、他には、提携する玩具メーカーと原作の出版社程度だった。だが、サブカル複合体が形成されてからは、利害が複雑に絡んだ多くの企業が出資するようになり、それに伴って、必ずしもアニメ好きでない企業人がプロデューサー(ないし、それに類する役職)の立場から首を突っ込んでくる。彼らが望むのは、自分たちが版権を持つマンガ・ラノベ・ゲームをアニメ化して販促に利用したり、著名アーティストとコラボした売れ筋の楽曲を販売することで、優れた芸術作品を創り出すことではない。その結果、どう考えてもアニメ向きでない原作を忠実に映像に起こし、人気声優のアニメ声と派手な作画で粉飾した上、そぐわないアニソンが添えられただけの、実に不格好なアニメが増えた−−そう嘆くのは、私だけだろうか。

 本来、プロデューサーがなすべき最も重要な仕事は、才能を出会わせることだろう。これまでにない魔法少女ものを創りたがっていた新房昭之に、ダークで骨太なシナリオを執筆できる虚淵玄を引きあわせ、名作『魔法少女まどか☆マギカ』を誕生させたのは、アニプレックスのプロデューサー(=出資者サイド)・岩上敦宏である。

 バンダイのホビー事業部から「宇宙船モノをやろうよ」と言われたサンライズのプロデューサー(=制作サイド)・南雅彦が、社会問題に透徹した理解力を持つ渡辺信一郎に声を掛けて始まった『カウボーイビバップ』のプロジェクトは、映像に音楽を付ける方法論に自覚的な作曲家・菅野よう子と、人間性を掘り下げる台詞が得意な脚本家・信本敬子を起用したこともあり、世界的に高い評価を得て日本アニメの代表作となった(もっとも、宇宙船が脇に追いやられたせいでバンダイに嫌われ、日本での扱いは散々だったが)。

 アニメに関して深い理解を持つこうしたプロデューサーが、現在のアニメ界に何%位いるのか、なんとも心許ない。

 クリエーターが表現に行き詰まって過激な方向に走ろうとしたとき、手綱を引き締めるのもプロデューサーの役目である。性的・暴力的なシーンは必ずしも否定されるべきではなく、その必要があれば描写してもかまわない。浅香守生『青い文学シリーズ・人間失格』のセックスシーン、片渕須直『BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail』の残虐シーンは、プロットの本質に関わる重要な要素であり、欠かすことができない。しかし、昨今のアニメ作品には、単に視聴者に媚びただけの扇情的な描写が増えており、プロデューサーの見識が疑われる。

○プロデューサーたちの死角

 多くのプロデューサーが、現在のアニメビジネスは好調だと思っているようだ。しかし、これは完全な誤解である。売れ行きが好調なのは、アニメに金を出すことをいとわない大人が増えたからで、優れたアニメ作品が消費者を引きつけたからではない。ここ数年、テレビアニメの質は、低下の一途を辿っている。久しぶりにアニメを見て興味をそそられた購買層が金を出しているものの、彼らが「今のアニメはつまらない」と気がつけば、途端に、もっと面白いことへと向きを変えるだろう。

 それ以上に恐ろしいのが、制作現場の疲弊である。企業人は、過去の実績を基にコスト計算をするので、「アニメ制作に掛かる費用はこの程度」と考えて現状維持を図る。しかし、クリエーターの側からすると、「自分の手で優れた作品を生み出せた」という満足感が無形の報酬となり、少ない給料でも我慢できたのである。苦労させられた挙げ句、できたのが評価の低いつまらない作品だったとなると、給料の安さは決定的に意欲を削ぐ。

 近年、『GOD EATER』『レガリア』『ブレイブウィッチーズ』『ろんぐらいだぁす!』など、予定通りに放送できないケースが相次いだが、アニメを知らないプロデューサーが押しつける無理難題に、クリエーターがやる気を失った結果のようにも思われる。


 私の主張がおかしいと感じる人がいたら、00年代半ばから10年代初頭のテレビアニメを改めて見直してほしい(私の「年表」を参考に)。一つひとつのシーンにクリエーターが魂を込めたと感じられる作品が、年に何本も生み出されていた。その上で、現在のテレビアニメと比較すると、根の深い問題があることがわかってくるだろう。

(2017年11月18日)