アニメレビュー

執筆順(2013年〜)に約200本のアニメレビューが列挙してあります(最新レビューは最後尾)。評価基準についてはトップページで説明しておきましたが、ポイントは「大人が観たとき、どれほど人生の糧となるか」です。大半は、1980年以降の日本のテレビアニメかOVAですが、アニメ作家一人につき1本の劇場用アニメも含めています。また、評価基準の参考になるように、外国アニメ2本(『アナと雪の女王』と『羅小黒戦記』)、実写ドラマ1本(『仮面ライダー555』)もレビューしました。長文のレビューを書くのが億劫な作品に対する短評を集めたコーナー『短評』もあります。

作品数が多いので、作品目録年表人名索引のページから作品を探してください。

英國戀物語エマ

【評価:☆☆☆☆☆】
 第1期・第2期とも全話視聴済み、原作全巻既読。
 日本のマンガやアニメにしばしば登場するメガネっ娘メイド−−メイドの本場である19世紀後半のイギリスではお目にかかれそうもないキャラだが、「もし、そんなメイドが実際にいるとすれば」という設定で描かれたのが、主人公のエマである。
 当時のイギリスでは、鉱工業の発展に伴って都市化が進行しており、農村に基盤を持つ世襲貴族が没落する一方で、富を蓄えた資本家の中には、貴族風の生活を楽しむ者も現れた。例えば、第2期に登場するドイツ出身の富豪は、世襲貴族でないにもかかわらず、郊外に構えた広壮な館で数十人の使用人を雇い、実質的な貴族生活を送っている。エマが生きたのは、こうした末期的兆候を示す階級社会である。
 貴族の館における使用人の実態は、『図説メイドと執事の文化誌』(エヴァンズ著、原書房)に詳しい。それによると、使用人社会の中にも階級があり、執事・ハウスキーパー(メイドたちを管理する)・コック・ナニーら専門職からなる上級使用人に比べると、メイドやフットマンなどの下級使用人の生活は、かなり苦しかった。メイドのトップは、女主人の身の回りの世話をするレディス・メイドで、彼女だけが主人と会話することが許される(アニメには、エマがいきなり女主人に意見を述べて、ハウスキーパーを慌てさせるシーンがある)。その下に、清掃などの家事を行うハウスメイド(上下水道が整備されておらず、屋内便器の始末や階上への水運びもしなければならないので、かなりの重労働だった)、コックの補佐役であるキッチン・メイド、子供の世話をするナース・メイド、洗濯担当のランドリー・メイドらがいた。その姿は、第2期第1話で活写される。
 下層階級出身であるメイドたちは、一通りのマナーを教えられただけで、大部分はかろうじて読み書きができる程度だった。レディス・メイドやコックに出世し、小金のある男と結婚するか自分の店を持つのが夢だが、それが叶うのはほんの一部にすぎない。男を連れ込んだり盗みを働いたりして解雇され、身を持ち崩すメイドも少なくなかった。メイドたちを見る貴族の目は冷たく、生まれつき卑しい人間だという差別意識も根強かった。
 そうした中、ミドルクラス(貴族と庶民の間の階層で庶民よりは裕福)の出身で、若くして未亡人となり良家の家庭教師を勤めていたストウナー夫人は、人格を形成するのは教育だという信念を持っていた。彼女は、身よりのない孤児だった少女を引き取り、オールワークス(家事全般)のメイドとして自宅に住まわせながら、上流階級の子弟と同等の教育を施した。少女が近視だと気づくと、高価で庶民には手が届かなかったメガネも買い与えた。こうして、シェークスピアを諳んじフランス語も読める、教養と淑やかさを備えたメガネのメイド・エマが誕生する。
 アニメが始まってすぐ、かつての教え子・ウィリアムが近況伺いにストウナー夫人のもとを訪ねたときのことである。主人の客であるにもかかわらず、エマは、ごく自然にウィリアムと会話を始める。「ああ、この人は、身分や財産で差別しないのだ」とわかる素晴らしいシーンである。裕福な実業家であるウィリアムの父親は、成り上がりとの陰口を払拭すべく、息子を子爵令嬢と結婚させて貴族の仲間入りをしようと画策する毎日だった。そうした階級のしがらみに嫌気がさしていたウィリアムは、エマの真情に心を打たれ、恋に落ちる。
 原作となる森薫のマンガは、偶然と策謀が織りなす韓流ドラマばりの大メロドラマ(ただし傑作)だが、アニメ化に当たって不自然なストーリーが整理され、かわって、周囲の人々の人間性が積極的に描き込まれている。例えば、第2期には、レディス・メイドでありながら、恋人の士官にたぶらかされて盗みを働くナネットという女性(アニメのオリジナルキャラ)が登場するが、こうした脇の人物が生き生きと描かれているため、「階級を越えた恋」といういかにも型にはまったプロットでありながら、古くささが感じられない。逆に、階級制度と人間性の問題を直視する重厚な傑作となった。
 冬馬由美が担当するエマの声は、大人びた淑やかさを感じさせて、心地よい。梁邦彦の音楽も、作品にマッチしている。

RIDEBACK

【評価:☆☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作既読。
 日本のテレビアニメには、国家権力とテロリズムの問題を真っ正面から捉えた硬派の作品が少なくない。本格的なものとしては、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』『FLAG』などがあるが、本作は、“闘う美少女”の要素を加えて、より娯楽性を増している。
 舞台となるのは、ライドバックと呼ばれるオートバイ型ロボットが実用化された近未来。少し以前まで、核兵器を保有する超大国が覇権を握っていたが、ライドバックで武装したレジスタンスが大陸間弾道ミサイル基地を奇襲し無力化することに成功して以来、支配体制が一変、レジスタンスグループが姿を変えた対テロ武装集団GGP(以下ではAと記す)が軍事的な力を持ち、各国政府内に入り込んで権力を掌握しつつあった。日本では、対テロ兵器として政府予算で無人ライドバックを導入、独断で戒厳令を敷くなどの専横体制を強めていた。一方、レジスタンスの残りはライドバック部隊を擁するテロ組織BMA(以下ではB)を結成、反GGP運動を繰り広げる。さらに、Aに対抗する政府内勢力A'、レジスタンス出身でありながらテロをためらうB'も加わり、(A-A')-(B-B')という二重の対立図式が成立した。これが作品の背景となっている。
 ヒロインの尾形琳は、天才バレリーナの娘として将来を嘱望されながら、舞台上での怪我がもとでバレエを断念、普通の大学生を目指すが、学内の部活動でライドバックと出会い、天才的な操縦スキルを発揮する。当初はレースに出場して当たり前の青春を謳歌するかに見えたものの、Bの仕掛けたテロに遭遇した際、ライドバックを操って窮地を脱する姿がテレビで放映され、AとBの双方から目を付けられる。さらに、ライドバック部の関係者がA'とB'にいたことから、否応なく国家権力とテロの争いの中に引きずり込まれていく。
 …と、ここまでは原作(カサハラテツローのマンガ)とアニメはほぼ同じ設定となっているが、ここからは、別作品と言って良いほど異なった展開になる。
 原作マンガの琳は、AとBの間を行きつ戻りつした後、しだいにテロに肩入れするようになり、闘士へと変貌していく。しかし、アニメでは、最後まで両者いずれにもくみせず、無人ライドバック部隊に追われる立場になってはじめて、武装闘争とは別の試みを実行する。このため、アニメは原作のような激しいバトルシーンに乏しく、また、琳の煮え切らない態度はいかにももどかしい。このアニメに対して批判的な論評が少なくないのも、充分に頷ける。
 しかし、私は、琳の行動は美しいと感じる。9.11テロからイラク戦争に至る国家権力とテロの恐怖の連鎖を見てしまった目には、どちらにも肩入れしないことこそ正しい態度に思えるからだ。ライドバックにまたがって銃弾をくぐり抜けることに快感を覚えながらも、テロの恍惚に身をゆだねて一線を越えることはせず、人を殺傷することを嫌悪し続ける琳は、決して優柔不断という訳ではない。
 最後に琳が試みたのは、人間にのみ許されたパフォーマンスによって無人ライドバックを無力化することである。この無人ライドバックとは、対テロ装備とは名ばかりの殺人マシンで、その無機質な姿は、米軍がアフガンやイラクに投入した無人攻撃機プレデターを思い起こさせる。彼女は、バレエで培ったしなやかで優雅な動きにより、プログラムに基づく機械的な動作しかできない無人ライドバックを破壊していく。その行為は、社会的には何の実効性もない。アニメのラストで、急転直下、事態が収拾されるのは、A'がAに仕掛けた裏工作が奏功したからであり、琳の試みとは無関係である。しかし、非人間的な兵器を前に、自分が人間としてできるのはこれだけだという試みを敢えて実行することは、社会的に実効性があるかどうかを越えて、美しい行為だろう。

【小論】「答えのない問い」を突きつける予言的な傑作
 きっかけは、10年ほど前に大陸の片隅で始まった小さな戦争だった…。国際的なパワーバランスが崩壊し秩序が一変した社会情勢を背景に、錯綜した状況に翻弄される少女・尾形琳の姿を描くアニメ。2009年制作とは信じられないほど予言的である。ちなみに、琳のテーマとして作中で何度も繰り返される旋律は、ムソルグスキー作曲「キエフの大門」。
 政治的に微妙な問題を扱っている上、残酷なシーンもあり、子供向きではない。だが、世界秩序について考えようとする大人の視聴者には、多くの示唆を与えてくれる傑作である。

【作品の舞台】
 作品の舞台となるのは、局地戦での核兵器使用をきっかけに、国際情勢が大きく揺れ動いた世界。一時は核を保有する超大国が主導的だったが、新たに開発された分散型兵器によって基地が制圧され核兵器が事実上無力化されると、強大な軍事力に頼ってきた世界の秩序が一変する。日本は核の傘を失った上、続いて起きた巨大地震の打撃で社会が混乱、頻発するテロを抑えきれなくなったため、もともと海外のレジスタンス部隊だったGGPを治安維持の目的で駐留させる。
 本アニメの設定によると、核兵器を無力化したのは、ライドバックと呼ばれる「オートバイに手が付いたような」ロボットとされる。ただし、これはアニメ的な視覚効果を狙った便宜的設定と考えた方が良いだろう。近未来の戦争が、巨大な破壊力を持つ大型兵器ではなく、サイバー攻撃による敵兵器の無力化や、多数の自律型ドローンによる分散攻撃(ガメラに小型レギオンが取り付くような)をメインとすることは、多くの軍事専門家が指摘する通り。人間が操作しなくても、AIによる顔認識機能を使って要人を暗殺できるドローンは、2020年頃に実用化されたらしい(アニメ後半で登場する無人ライドバックは、このドローンの地上走行版と言える)。ライドバックは、安価で大量生産可能な民生品でありながら、容易に兵器に転用できるPCやドローンなどのアレゴリーである。
 GGPは「Global Government Plan」の略称で、超大国主導の国際政治を再編することが本来の目的だが、日本に駐留するのは、司令官ロマノフに率いられた事実上の軍隊。警察を傘下に置き政府に無断で緊急事態宣言を発令するなど、強権的な体制作りを進める。当然の結果として反GGP運動が盛り上がる中、GGPとBMA(反GGPを掲げるテロ組織)は、ともに軍用ライドバックを導入し武力対決に踏み切る。

【脚本の素晴らしさ】
 物語は、GGP対BMAの争いを軸にしながら、その周辺の動きを含めて多面的な展開を見せる。GGPとBMAいずれにも主流派・反主流派があり、複雑な内部抗争が陰に陽に進行する。驚くべきは、こうした策動をきちんと描ききった脚本の妙。ストーリーに直接関わる主要人物だけで1ダースを超えるのに、各人が従う指導原理が明確に叙述され、それぞれの行動方針に納得がいく。
 私が好きなのは、GGPで副官的な立場にある女性士官の描写。ふだんは感情を見せず実務的なのに、ロマノフが退席すると、書類をさっさと片付けながら自分でパラパラめくり、不敵な笑みを浮かべる。この女性が陰で何かしていることを匂わせ、終盤における急展開の伏線となる。登場人物の多くがただの賑やかしにすぎない水増しアニメとは一線を画する、本格的な群像劇と言って良い。
 全体の中心にいるのが、ヒロインの琳。彼女は、震災で早世した天才バレリーナの娘として過度の期待にさらされ悩んでいたが、舞台上での怪我を契機に、バレエからきっぱり引退。何の目標もなく進学した大学で、スポーツとしてのライドバック競技に出会い、バレエで鍛えた身体能力を生かして好成績を収める。そのまま楽しい学園生活を送れるかと思いきや、親友をテロから救うためにライドバックを超絶技巧で乗りこなす映像がテレビで放映され、運命が一転。GGPとBMA双方から目を付けられ、両者の狭間で翻弄され続ける。
 琳は、もともとモラトリアム型で社会問題に関心がなく、バレエという閉ざされた世界で生きてきた。そのせいでGGPやBMAについての知識が乏しく、しばしば優柔不断に思える言動を示す。しかし、そのことが逆に、2つの勢力を善と悪に分ける教条的な解釈をいましめ、人間らしい生き方の何たるかを教えてくれる。このような描写を正しく読み解くことができれば、最終局面で彼女がある選択を行う理由がはっきりとわかるだろう。
 興味深いことに、こうした琳の姿は原作漫画と大きく異なっており、アニメ独自のものである。脚色を行ったライターの貢献か、監督が作品の方向性を指示したのか、具体的な経緯はわからない。

【高度な演出テクニック】
 アニメ『RIDEBACK』最大の眼目は、練り上げられた脚本を完璧に映像化した演出テクニックだろう。新人監督・高橋敦史の力量には端倪すべからざるものがある。
 例えば、何度も挿入されるテレビの報道番組。第5話では、テロ騒動から脱出するライドバックの映像を紹介しながら、いかにも聡明そうな解説者が、乗っているのが二人連れの女性であり、民間人が軍の包囲網を突破したことを、驚きを押し殺した口調で指摘する。時間軸に沿って繰り広げられるアクションを堪能してきた視聴者は、その瞬間、自分たちの目にした光景が、客観的にはどう認識されるかを察知する。このように視聴者の理解を映像でコントロールするのは、きわめて高度な技術を要するのだが、高橋は、いともやすやすと実行している。
 アクションシーンも素晴らしい。ライドバックは、近未来の乗り物であるにもかかわらず、エンジンを吹かす音やタイヤの軋みがオートバイそっくりで、妙に生々しい。これは、SFの世界に視聴者の知悉する現実を適度に混ぜることで、リアリティを増す手法である。よくよく目を凝らすと、走行中に車輪の位置が変わったり、かなりの高さから無事に着地したりと、工学的に無理のある動きも散見するが、エンジンやタイヤのリアルさが際だっているので、あまり気にならない。近未来的な操作パネルと旧式のハンドルやペダルが混在する外観も、印象的な音響と相まって臨場感を増幅する。
 人間が搭乗する二足歩行型巨大ロボットは、技術上の障害が多く高速走行は困難である。ロボットアニメでは、(『コードギアス 反逆のルルーシュ』のように)脚部に車輪を取り付けたり、(『新世紀エヴァンゲリオン』のように)あえて人工物には不可能な動作をさせて逆に非現実感を強調したりすることで、表現上の問題を回避する。『RIDEBACK』は、オートバイ型変形ロボットという独自の解決法を提示した訳である。オートバイのようにスピーディに動き回って視聴者に高揚感を味わわせた後、変形して人型に近い形態になる(こうした工夫は、オープニングアニメで集約的に表現されている)。
 ロボット同士のバトルもある。特に、第6話と第11話の終わり近く、琳が軍用ライドバックと闘うシーンの迫力は凄まじい。どちらも数秒で終わる一瞬の闘いなので、子供には物足りないだろうが、状況を把握できる大人は、息を殺して画面を見つめ、終わった後はしばし呆然としてしまう。

【作品に込められたメッセージ】
 アニメは、最終回でストーリーラインが分裂したように見える。GGPとBMAの対立は、陰で暗躍していた勢力が事態を収める。一方、琳は独自の行動に出て、自律型殺人ライドバックを、バレエを思わせる華麗な動きで破壊していく。このラストは、ハッピーエンドのようで、どこか煮え切らなさを感じさせる。
 ある意味、それは当然のことである。世界秩序が一変したのに、すべてがあっさり解決するはずがない。「こんな解決法もありますよ」と提示するにとどめたと考えるべきだろう。
 力に頼る秩序は意外なほど脆く、簡単に壊れてしまう。現代人は、その危険性を至る所で目にしているはずだ。では、どうすれば良いのか。答えはない。しかし、アニメの中で琳は、答えがないなりに、決して踏み越えてはいけない一線、揺るがしてはならない原則があることを示す。それは、「命を守る」ということだ。時に力への憧れに身を任せそうになりながらも、彼女がこの原則を失念することはない。
 琳は、大切な家族や友人を助けようとするとき以外、他人に暴力を振るわない。第6話で弟を守るために警官を負傷させてしまうと、その警官が夢に現れ彼女を責めさいなむ。それほど、命を守るという原則を重んじているのだ。BMAのリーダー・キーファが、抜群の技量を持ちながら優柔不断で行動を起こそうとしない琳をなじったとき、彼女はこう答える。
「人の命をなんとも思わない人たちと一緒にいるだけで、吐き気がします」
 素朴で情緒的だが、人間らしく力強い答えである。

【どうでも良いことですが】
 琳は、幼い頃から短いチュチュを穿いてクラシックバレエを踊ってきたので、パンツが見えても恥ずかしくないのだろう……多分。

うる星やつら

【評価:☆☆☆☆】
 ほぼ全話視聴済み、原作一部既読。以下のレビューは全話分のもの。
 『うる星やつら』には、今や日本を代表するアニメ作家となった押井守の成長過程が、如実に現れている。
 原作者である高橋留美子は、突拍子もないギャグを繰り出しながらも、作品の骨格は緻密に構成し、しばしば見事な仕込みオチを見せる名ストーリーテラーである。こうした知的なマンガをアニメ化するに当たり、チーフディレクターとして、なぜ『ニルスのふしぎな旅』などで無難な演出を見せただけの押井守が抜擢されたかは、よくわからない。だが、初回から相性の悪さは明らかだった。押井は高橋による考え抜かれた伏線を生かすことができず、ストーリーを遮るような無意味なアクションギャグを挿入するばかりだった。
 押井が最後まで仕込みオチを使いこなせなかったことは、幽霊民宿のエピソードを見るとよくわかる。原作は、「幽霊のお玉は何が未練で成仏できないのか」を突き止めようとするあたるたちの混乱を描写した後、最後の1コマで、未練の中身と同時に彼女の不可解な行動の理由を全て明かすという見事な仕込みオチになる。ところが、アニメでは、お玉が真相を語ろうとする瞬間、それを遮ってラムとあたるが騒ぎ出し、派手なアクションが続いた挙げ句の爆発オチとなる。高橋が押井の演出をひどく嫌っていたという話を漏れ聞いたことがあるが、納得できる。
 原作の面白さを生かし切れない状態は改善されなかったが、半裸(たまに全裸)の美少女にアクションをさせる演出が受けたのか、かなりの視聴率を稼いだため、テレビ放映は長期にわたって続けられる。ところが、そうこうしている間に、押井の側に変化が生じる。
 まず、唐突だったアクションに持続性を与えることで、力強さを表出する方法をマスターした。その成果が最初に花開いたのが「戦りつ! 化石のへき地の謎」(47回)で、後半では、畳みかけるような追跡劇からクライマックスとなる吊り橋のシーンまでを一気呵成に見せる。
 現実をわずかにたわめることで異界を作り出す絶妙の演出法も、『うる星やつら』で編み出されたものである。「決死の亜空間アルバイト」(53回)では、前半(およびラスト)の亜空間の描写が押井独自のものであり、これを、アニメ後半における原作テイストそのままの場面と比較すると、彼の個性がはっきりする。
 さらに、押井の作品に欠かせない不条理性も現れる。「そして誰もいなくなったっちゃ!?」(75回)は、『機動警察パトレーバー』の「特車二課壊滅す!」(脚本:押井守)と並ぶ究極の不条理アニメだろう。
 これ以降は、まるでマジックのように、驚くべき傑作を立て続けに発表する(ただし、制作の遅れに伴って、総集編が何本も挿入されるが)。ディズニー版『ふしぎの国のアリス』の過激なパロディ「ダーリンが死んじゃう!?」(77回)、劇場版第2作『ビューティフル・ドリーマー』の別バージョンとも言える「みじめ! 愛とさすらいの母!?」(78回)、アクションギャグの頂点「面堂家サマークリスマス」(79回)、頭を大きくするギャグが見事に決まる「かがやけ! あこがれのブラ!!」(96回)、パセティックな「サクラ・哀愁の幼年期」(102回)など、日本アニメ史を飾る傑作群である。
 しかし、押井は106回をもって、突如チーフディレクターを降板、多くのスタッフが入れ替わる(理由は不明)。これ以降は、やまざきかずおがチーフディレクターを担当し、作風は一変する。
 4年半にわたって、作品の質は大きく浮き沈みする。放送開始からしばらくの間は星2つ程度だが、その後、しだいにパワーアップし、押井が担当した最後の2クールは、文句なく星5つを付けられる。やまざきに交代してからもしばらくは好調で、星4つ程度の作品が続いたが、数ヶ月過ぎた頃から急激に質が低下し、最後の1年は、星2つ以下の凡作を垂れ流す状態になった。単純に平均すればせいぜい星3つだが、絶頂期の圧倒的な傑作群に敬意を表し、作品全体の評価として星4つを付けたい。

恋風

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作未読。
 日本のTVアニメは、欧米のものと異なって、同性愛のような標準的でない性的嗜好を好んで取り上げる傾向にあるが、それでも、血のつながった近親間の性愛については心理的障壁が大きいようで、妹萌え・兄萌えという遊戯的な擬似恋愛としてではなく、その内実に真剣に向き合った作品は、必ずしも多くない。そうした中で、『恋風』は、兄妹の一線を越える愛情を描いた秀作である。しかも、高校1年生の妹がいかにも幼い容姿なのに対して、12歳年上の兄は無精ひげを伸ばして中年男のように見えるため、二重にタブーを犯しているような錯覚を覚えてしまう。
 この作品の特徴は、ゆっくりと進んできたストーリーが、ある瞬間に急転換するところにある。前半では、10年以上も離ればなれになっていた兄妹が久しぶりに同居することになり、当初は(特に兄の方が)気まずさを感じていたものの、次第に心を通わせあうようになる−−という過程が淡々と描かれる。そのままホームドラマとして完結しそうな内容である。ところが、穏やかに進むかと見えた二人の関係は、いつしか少しずつ変調をきたしていく。まだ何とかなる、引き返せる段階だと思っているうちに、ふと気がつくと、もはや宿命にがんじがらめにされて身動きもとれない。
 こうしたストーリーラインは、谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』や成瀬巳喜男の『乱れる』を思い起こさせる。谷崎の小説ではコミカルな宮中譚が、成瀬の映画では大学生と未亡人のありがちなメロドラマが、ある瞬間に、ギリシャ悲劇のような凄絶な物語へと一変する。悲劇への転換を、谷崎は引き上げられる御簾の即物的な描写で、成瀬はどこまでも白一色の雪の映像で、鮮やかに表出する。そこに立ち会うわれわれは、ただ固唾を呑むばかりである。『恋風』には、さすがにそこまでの鮮やかさはないが、妹が持ってきた蜜柑の映像が、場面転換のきっかけとして効果的である。
 このアニメは、悲劇では終わらない。悲劇で終わってくれれば、観る者は、少し涙を流してすっきりする。しかし、兄と妹は、まるで子供のように、泥だらけになりながら公園で遊び回るばかりである。その姿は、楽しんでいると言うよりも、捨て鉢な思考停止状態のように見える。この後、本人たちだけでなく、二人の父親をはじめとする周囲の何人かは、確実につらい思いをすることになる−−それがわかるだけに、見終わった後、重く苦いものがいつまでも腹の底に残る。

青い花

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 女性同士の親しいつきあいをテーマにしたアニメは日本では珍しくないが、『マリア様がみてる』や『咲-Saki-』のように過剰に理想化(もしくは、『ゆるゆり』のように戯画化)されたものが多く、現実味に乏しい。そうした中で、女子高校生同士の友情と恋愛をリアルに描いた傑作が、この『青い花』である。
 十年ぶりに出会った幼なじみの万城目ふみ(ふみちゃん)と奥平あきら(あーちゃん)。寂しがり屋のふみちゃんは、優しくされるとすぐに相手に恋してしまう性格で、従姉妹につれなくされた後は、凛々しい杉本先輩に心を奪われている。あーちゃんは、同性に恋する親友を「よくわからない」と言いながらも真剣に応援する。
 この真剣さの描写がすばらしい。あーちゃんは、元気で世話好きだが、ちょっと鈍感な上にジョークが滑るタイプで、他のアニメならば、コミックリリーフとして使われがちなキャラクターである。しかし、ここでは敢えて笑いを取るような演出はされない。どうしようもない悲しさに涙をこぼすふみちゃんを、事情が飲み込めないまま抱きしめて、「よしよし、よしよし」と赤ん坊をあやすように慰める。その姿は、わからなくてもゆるがせにしない真剣さを感じさせる。あーちゃんが単なるコミックリリーフとして描かれていれば、女性同士の恋愛が閉鎖的な空間の中で繰り広げられる陰々滅々たる物語になってしまったかもしれないが、彼女の真剣さによって、ベクトルの向きが異なる生き方が描き出され、人生の奥行きにもつながる拡がりが作品に生まれた。
 あーちゃんに限らず、『青い花』の登場人物はみな真剣であり、それが彼女たちの個性となっている。他のアニメでは、奇矯な振舞いを通じて個性を表現しようとするケースがまま見られるが、これは、むしろ個性のなさを覆い隠しているにすぎない。個性とは内面的なものであり、個性を描き出すには細密な心理描写が必要となる。『青い花』はそうした心理描写をていねいに行い、派手さはないが個性的な登場人物の内面を浮かび上がらせる。人当たりが良く誰にでも好感を持たれるが、心の内では明確な人生目標を見据える杉本先輩。杉本先輩を慕う井汲さんは、いかにも上品なお嬢様タイプに見えながら、強い意志で自分を律している。脇役である演劇部の生徒たちにも、はっきりした信条が窺える。自分を見失って泣き喚いたり、常軌を逸した行動をとったりする人は、ここにはいない。せいぜい、はらはらと涙をこぼすくらいである。誰もが、自分の内なる声に真剣に耳を傾け、一度きりの高校生活をひたむきに生きている。その真剣さが、見る者の共感を呼び起こすのである。
 何かが起きそうな予感に満ちて、結局は何も起きない、しかし、何も起きなかった時間がとてつもなく貴重なものだったと後になって気づく……『青い花』には、そんな切ない時間がつづられている。
 水彩のような塗り残しのある淡い背景は、高畑勲の往年の名作『セロ弾きのゴーシュ』に似て美しい。

十二国記

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作全巻既読。
 かつて、日本の文化的土壌から優れた異世界ファンタジーは生まれないと言われた時代があった。確かに、欧米で20世紀半ばに、『指輪物語』『ナルニア国物語』『ゲド戦記』など異世界を丸ごと創造するファンタジーが誕生したのに対して、日本には、現実世界に異分子が入り込むタイプのファンタジーなら『竹取物語』から『ドラえもん』に至るまで数多くの傑作があるものの、これという異世界ファンタジーはなかった。ところが、70〜80年代の少女漫画界に『夢みる惑星』や『銀の三角』のような異世界を扱う名作がいくつも登場してから、状況は変わる。おそらく,こうした少女漫画の影響なのだろう、90〜00年代に掛けて,女性作家を中心に優れた異世界ファンタジー文学が続々と生み出される。その最高峰と言えるのが、上橋菜穂子の守り人シリーズと小野不由美の十二国記シリーズだろう。
 二人の名を並記したが、上橋と小野では作品の味わいが全く異なっている。上橋菜穂子は、味覚や痛覚などの身体的なリアリティを重んじ、異世界に生きる人々の真情に迫る。この身体的リアリティが映像に移し替える際に障碍となるのか、アニメ化された作品を見ていると、どうしても「原作はもっと面白いのに」と感じてしまう。守り人シリーズ第1作をアニメ化した『精霊の守り人』は、神山健治という俊才を監督に迎えたにもかかわらず、社会体制や生態系などに向かう神山の知的な関心が原作の方向性と食い違い、あたら大傑作になり損ねたとの感が強い(傑作ではあるが)。
 一方の小野不由美は、ロール・プレイング・ゲームを思わせる人工的な作品構成を特徴とするが、こちらの方が映像との相性が良いのかもしれない。アニメ版『十二国記』はアニメ史に残る作品となった。
 十二国記シリーズは、6編の長編(他に短編・外伝あり)から構成されるが、アニメ版では、このうち4編が取り上げられた。ただし、作品の出来は一様ではない。
 シリーズ第1作(外伝の『魔性の子』を除く)をアニメ化した『月の影 影の海』(第1-14話)は、視聴者に作品世界を説明しなければならないせいもあって、全体にややぎこちなさを感じさせる。例えば、日本から異世界に渡る人物を、原作の陽子1人から3人に増やし、彼らの会話を通じて(言葉が通じたり通じなかったりするなどの)十二国の実態を明らかにしているが、結果的に、異世界にたった1人取り残される絶望的な孤独感が薄らいでしまった。また、さまざまな妖魔や怪異を原作以上に派手に描こうとするものの、かえって平板な映像になっている。原作では、異世界に渡る瞬間は、次のように描かれる。「ごく薄い布で顔を撫でる感触がして目を開けると、そこは光のトンネルだった。少なくとも陽子には、そのように見えた。音もなく風もない。ただ冴え冴えとした光だけが満ちている」(講談社文庫版p.59)。この文章力に、映像は遠く及ばない。
 しかし、シリーズ第4作『風の万里 黎明の空』のアニメ版(第23-39話)は、見違えるほど優れた作品となった。視聴者が十二国の実態に馴染んだと判断されたのだろう、余分な説明が省かれスピード感が増した(そのため、第1話からきちんと見ていないと、話に取り残されてしまう)。また、妖魔や怪異の出現は十二国では日常的であり、あえて派手に描く必要のないことにアニメーターたちが気づいたようだ。おどろおどろしさを抑えて、ドラマを盛り上げることに専念している。
 『風の万里 黎明の空』では3人の少女が登場、各人のエピソードが少しずつ描かれるうちに、次第に1つにあわさっていく。この、はじめはせせらぎにすぎなかった流れが、徐々に勢いを増して、押しとどめようのない滔々たる歴史になるまでの描写がすばらしい。演出上のさまざまな工夫も、臨場感を高めるのに効果的である。例えば、各地に散らばった人々を描く前に、画面に地図を提示して位置関係を示しているが、これが、今まさに進行中の歴史をさまざまな視点から見つめているという実感を生み出す。
 人物描写にも厚みがある。悪役である郷長も、単に憎らしげな人物としてではなく、信条に従ってあえて悪事を遂行する人物として描いており、行動に必然性が感じられる。脇役にも気を配っていて、陽子の正体に気づいた人と気づかない人をきちんと描き分けている。こうした描写は伏線にもなっており、後半に入って、それぞれの人物がなぜあのように行動したかがはっきりとする。このため、二度・三度と見直すたびに味わいが深くなる。
 特に優れているのが、主人公・陽子の描写である。前半に見られる自信のないおどおどした姿から、後半で責任を自覚した強固な意志の持ち主へと変貌していく過程に、無理がない。最大のクライマックスはラストのスピーチであり、初勅の内容が明らかにされた瞬間、それまでのさまざまな出来事が脳裏によみがえり、胸が熱くなる。まさに、ビルドゥングス・ロマン(成長物語)の傑作である。

ターンエーガンダム

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 私はガンダムが苦手で、TVシリーズで通して見たのは『ファースト』(UHF局での再放送)と『ターンエー』(DVDレンタル)だけ。あとは『シード』『ダブルオー』の一部と『ゼータ』の劇場版、いくつかのOVA作品(『ポケットの中の戦争』など)しか見ていない。したがって、ガンダムについて論じる資格はないのだが、この『ターンエー』は、ガンダムシリーズの枠を越えた作品として高く評価したい。
 他のガンダム作品が戦争中のエピソードを描いているのに対して、『ターンエー』は、戦争の始まる前から終わった後までを描く点に特徴がある。時代設定は『ファースト』の頃から数千年を経た遠い未来、文明水準は大幅に後退し、人類は、20世紀初頭のアメリカを思わせる地球世界と、それよりかなり高度な文明を維持している月の世界に分かれている。物語は、月の女王ディアナ・ソレルが地球への帰還を決めたことから動き出す。当初は平和的に領土の一部を割譲してもらうつもりだったが、月の急進派と地球の保守派が不穏な動きを見せ始め、ついに突発的な事件をきっかけに戦端が開かれる。ほとんどの人が望んでいないにもかかわらず、歴史の歯車が無慈悲にかみ合って戦争に突入していく過程は、人類がこれまで体験してきた数多くの戦争の始まりを思い起こさせる。
 もっとも、この作品が、冒頭から優れていたとは言えない。最初の何話かは、演出の方針が定まらなかったのか、登場人物をやたらと裸にしたり、ストーリーがぶつ切り状態になるなど、作劇のまずさが目立つ。モビルスーツのデザインは、巨大ロボットに全く興味のない私が思わず「ダサッ!」とつぶやいたくらいだから、ガンダムファンの嘆きはいかばかりだったか。本格的に面白くなるのは、第10話辺りからである。地球の有力者の娘キエル・ハイムはなぜかディアナ・ソレルと瓜二つで、戯れに服を交換し互いに相手を装っているうちに、戦闘が激化して離ればなれとなる。新たな視点で戦争を見つめ直す二人の言動が、実に示唆的である。自分が起こした戦争で犠牲になった人の墓前に娘としてひざまずく月の女王は、死者に何を語りかけるのか。侵略者の長として建国宣言をすべき立場に置かれた地球の娘は、高揚する兵士たちを前にどんなスピーチをするのか。彼女たちの言葉に耳を傾けると、作者・富野由悠季の言いたかったことが鮮明になる。
 『ターンエー』には、他のガンダム作品の売りである派手な戦闘シーンが少ない。人々が戦闘を回避するために真剣に努力するからだ。彼らの力が及ばずに始まる戦いは、華麗さの欠片もなく、ぶざまで無惨である。作品の後半で戦場は宇宙に拡がるが、戦闘は常に短い局地戦にとどまる。最後に好戦的な愛国者が敗れて、ようやく平和が戻ってくる。
 戦争が終わった後、生き残った人々は、またそれぞれの生活へと帰っていく。「ああ、この人たちは、さらに続く人生を生き抜き、そして死んでいくのだ」としみじみ実感する瞬間である。その後の静かなラストシーン。全50話を見てきた人は、これまでのさまざまな場面が瞼の裏によみがえり、圧倒的な感動を覚えることだろう。

【小論】人類史の一コマとしての戦争
 アニメで戦争を扱うのは難しい。アニメ画では戦闘の実態を表現しきれず、必然的に、戦争をドラマの舞台として利用するだけのケースが多くなる。壮絶な戦闘に駆り出される男性と、悲惨な境遇に苦悩する女性−−こうしたドラマチックな物語を盛り上げようと利用するうち、クリエーターからすると、いつしか戦争が好ましいものに思えてくる…。
 おそらく、『ターンエーガンダム』の作者(クレジットでは原作・総監督・絵コンテ)である富野由悠季にとって、この問題は深刻だったろう。ガンダムシリーズ第1作『機動戦士ガンダム』は、もともと戦争に巻き込まれた少年少女の逃避行という設定だったにもかかわらず、しだいにアムロやシャアがヒーローとして活躍するストーリーに変質していく。富野は、『Z』の主人公カミーユを精神崩壊させたり、『ZZ』で戯画的な語り口を採用したりと工夫を重ね、劇場版『逆襲のシャア』では戦略的な思惑によって遂行されたジェノサイドまで描くが、「好ましい戦争」という逆説を克服できたとは言いがたい。結局、『Vガン』というちょっと“壊れた”作品を発表した後、いったんガンダムから離れる。
 『ターンエー』は、神話的な『ブレンパワード』を経て心の安寧を取り戻した富野が、久しぶりにガンダムに復帰した作品。「シリーズ20周年記念作品」らしさを願った経営陣の思いに反して、ヒーローものとは程遠い女性的な優しさにあふれている。
 戦争は、決して英雄の活躍する場ではない。営々と続けられる人類史の中に刻まれた、ほんのひとときの過ちなのである。「戦争とは何か」という問いに真摯に向き合いつつ、戦争の始まる前から終わった後までを描ききった作品であり、『銀河英雄伝説(1988年版)』や『FLAG』などと並ぶ、戦争アニメの最高傑作と言いたい。

【物語】
 舞台となるのは、人類絶滅の危機となった大戦争が終結してから長い年月(1000年とも1万年とも言われる)を経た世界。人間は、20世紀初頭の文明水準に後退した地球人と、より高度な文明を維持するムーンレイス(月の民)に分かれている。物語は、月の女王ディアナが地球への帰還を発案したことから転がり始める。
 もっとも、冒頭の何話かは、富野の調子が出なかったのか、ストーリーはギクシャクし登場人物が無意味に裸になるなど、演出にブレが見られる。面白くなるのは、ディアナ本人が地球に降り立って以降であり、紛れもない傑作であることが明らかになるのは、第10話あたりから。
 当初の計画によると、ムーンレイスは、地球に残る広大な未利用地を借り受けて生活圏を築くつもりだった。しかし、地球人の間では、自分たちより遥かに高度な文明を有する民族の移住に不安が高まる。ムーンレイスにも、地球人に対する抜きがたい差別意識があり、両者の反発が強まる中、偶発的な事件を機に戦端が開かれる。誰も望んでいないにもかかわらず、歴史の歯車が無慈悲にかみ合って戦争が始まる過程は、世界の現実を思い起こさせる。

【何が描かれるか】
 「ガンダム20周年企画」だったことから、これまでに登場したキャラを結集して決戦を行うという案もあったようだが、富野はこれをきっぱりとはね付けた。『ターンエー』で描かれるのは、地球連邦とジオン公国のような大国同士の戦争ではなく、あくまで偶発的な局地戦である。しかし、それでも一つの街が壊滅し、核兵器の恐怖が迫る。個々の戦闘が小さなエピソードでしかない大戦争の物語とは異なり、個人の生活が破壊される苦悩と、そこから立ち直ろうとする人々の力強さがリアルに(生々しく/生き生きと)描写される。
 多くの人が戦闘回避に尽力するため、他のガンダム作品に比べて『ターンエー』のバトルシーンは少ない。散発的に起きる戦いは、MS(モビルスーツ)同士の泥臭いどつきあいが繰り返される無様なものであり、多くのロボットアニメのようにカッコよくない。そこに作者・富野の思いを感じ取れるかどうかが、この作品の評価を分けるポイントだろう。
 本作の最大の魅力は、戦闘シーンではなく人間の描写にある。特に、二人のヒロイン・ディアナとキエルは、いつまでも心に残る。
 地球の有力者の娘キエル・ハイムは、なぜか月の女王ディアナ・ソレルと瓜二つであり、戯れに服を交換し相手になりすましている最中に戦闘が始まる。こうして、相手の立場から戦争を見つめるという新たな視点が生まれた。自分のせいで犠牲となった男の墓前に娘として跪く月の女王は、死者にどんな言葉を掛けるのか(第10話)、あるいは、敵国の女王として建国宣言をする立場に置かれた地球の娘は、昂揚する兵士を前に何を語るのか(第18話)−−こうした言葉を真剣に受け止めるならば、このアニメの持つ底知れぬ魅力が感じられるはずだ。
 興味深いのは、当初は懸命に互いの真似をしていたディアナとキエルが、まるで相手と溶け合うかのように、しだいに演技を超越し統一された人格になっていくところ。地球人とムーンレイスという民族の差違が、自然と消え去るのである。『ターンエー』とはディアナとキエルの成長物語であり、彼女たちの軌跡を軸として捉えると、作品の構造が実に単純明快だとわかる。

【セクシュアリティ】
 『ターンエー』は、「男が英雄として戦闘に赴き、女が悲惨な環境にじっと耐える」といった、類型的な性役割を前提とする安直な物語ではない。そのことを最も明確に表すのが、主人公ロランのセクシュアリティである。
 作品の構想を練っていた富野は、ガンダム・パイロットを英雄にしない方法をあれこれと考えるうちに、ロランが時にローラと呼ばれる女性として登場する展開を思いつく。そこで、ライターの一人に具体的なストーリー作りを頼んだところ、バイオテクノロジーを使って性転換するという話を提案してきたため、激怒する。「…セックスをコントロールできるという物語をやってしまったら、身勝手なセックス志向を喚起するだけで、病人をつくるだけだ。オスメスが同居するという怪しさをのみこんでしまう人間、そういう人々の暮らしというのは、本来われわれが共有していたものであるはずなんだ。…(中略)…同性愛もあって当然、だから、人間というのは、怪しくも楽しい生物なんじゃないのか」(『ターンエーの癒し』(富野由悠季著、ハルキ文庫)p.21)。
 ロランが女性的な心優しいキャラ(ガンダムの男性主人公としては初めて女性が声を当てた)で、彼に同性愛的な好意を示す男性が現れるのも、「男性原理に支配された戦争」というありきたりなイメージを覆すための意図的な作劇術である。
 実際、『ターンエー』では、しばしば女性の方が好戦的である。特にサブヒロインの立場にあるソシエは、可能な限り戦闘を回避しようとするロランよりも遥かに積極的に戦う。こうした性格の違いは、最後まで二人の関係に影を落とす。
 型にはまった男性性・女性性の否定は、脇役にまで徹底される。「泣き虫」ポゥは、巨大MSを操る攻撃的で有能な女性士官でありながら、戦闘中にミスを犯しては泣き、敬愛する上官から叱責されては泣く。第31話で、体調を崩したポゥがハリー大尉から口移しで薬を飲まされた際、あまりの苦さに滑稽なほど狼狽する姿が可愛い。女性ジャーナリストとして戦争の真実を冷静に見据えるフランと、男らしく彼女を守ろうと粋がりすぎて失敗するジョゼフも、男女の役割が逆転する『ターンエー』に相応しいキャラだ。
 型どおりの行動パターンではないため、人生体験の乏しい子供にはわかりにくいストーリーだろうが、逆に大人の女性には好まれる。
 男女関係が曖昧になる中で、ただ一人はっきりと恋愛感情を表に出すのが、キエルである。 第38話で、突如それまでの冷静さをかなぐり捨てて愛を語り出すシーンの、何と美しいことか。テレビアニメで描かれた最も感動的な告白である。

【MSデザイン】
 放送当初からMSのデザインがダサいと酷評されたが、このデザインには富野の意志が反映されている。
 ガンダムをはじめ、巨大ロボットをフィーチャーするアニメでは、舞台が地上であろうと宇宙であろうと、ほぼ同サイズの二足歩行ロボットばかりが登場する。これは、工学的な機能性を無視し、ロボット同士に肉弾戦を行わせることを想定したデザインである。富野は、こうした便宜的なやり方を反省し、あえて日本アニメに疎いデザイナーを起用したのだろう。
 MSのデザインを担当したシド・ミードは、もともと工業製品を紹介するカタログのイラストで人気を得たデザイナーであり、現実の製品から少し乖離した近未来的なビジョンを提示する。そのセンスに感銘を受けたリドリー・スコットが、映画『ブレードランナー』の世界観を具現するために抜擢、以後、『2010年』『エイリアン2』『ショート・サーキット』などで各種デザインを担当した。2019年には大規模な「シド・ミード展」が東京で開催され、改めて多くの人に感銘を与えた(私もその一人)。
 ミードのデザインは、工学的な実現可能性とSF的な斬新さを併せ持つ。『ターンエー』では、用途に応じて大きさや外見が全く異なるMSが登場するが、単にアイキャッチ効果を狙ったものではない。巨大な体躯を支えるための現実的な工夫が脚部を中心に施されており、工学の知識に裏打ちされていることがわかる。後年のMSには、フリーダムガンダムなどやたら突起物の付いたものが目立つが、工学的には邪魔なだけの過剰装飾であり、本作のように工学的な観点からデザインされた方が好ましく感じられる(もっとも、∀ガンダムの“ヒゲ”には、私も最後まで馴染めなかったが)。

【最終回の意味】
 『ターンエー』の感動は、最終回で頂点に達する。
 『ターンエー』をどのように落着させるかについては、放送が始まってから半年近く経った1999年9月のミーティングで検討されたという。この時点では、途中のストーリー展開に未定の部分が多く、ミードの提案によるターンXのデザインについての説明などが中心になったようだが、後半には、実際に最終第50話の脚本を執筆した浅川美也をはじめ、出席したライターが意見を出し合った。ガンダムを戦争ものとして捉えると、対立勢力がどう動くかを巡って、さまざまな決着の仕方が考えられる。しかし、富野によれば、ディアナとロランの関係性を見据えた彼の腹案を、全員が承認したそうだ(『ターンエーの癒し』p.187-)。その上で、キエル、ハリー、ソシエら他のキャラの帰趨が熟考され、ラストの大筋が決定された。
 最終回のシナリオが出来上がりかけた頃、菅野よう子から『月の繭』が届けられる(『ターンエーの癒し』p.202)。曲の素晴らしさに感銘を受けた富野は、予定を変更して台詞を大幅に減らすことにした。第41話から、それまでBGMとして使われていた『月の繭』をエンディングに採用、これが布石となり、第50話の終盤では、曲がフルサイズでゆったりと流れる中、ほとんど台詞のない映像によって後日譚が綴られていく。戦争がどのように始まるかを緊迫した調子で語った序盤と照応させるべく、戦争が終わった後の情景を淡々と描くのである。残された台詞をどこに配置するかが改めて検討され、「ディアナ・ソレル、また皆様とともに、ここにおいていただきます」という重要な台詞が、あるべき場所にすっきりと収まった。
 そして、最終カットでロランが発する一言。さりげないようで、その思いが切々と伝わり、『ターンエー』の世界に没入していた視聴者に、文字通り圧倒的な感動を与えてくれる。

図書館戦争

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作第1巻既読。
 小説やマンガをアニメ化した作品の中には、基本的なコンセプトが原作と異なっているものが少なくないが、結果的に面白くなるケースは稀であり、多くは惨めな失敗に終わる。『図書館戦争』は、そうした失敗の例と言わざるを得ない。
 作品の舞台は、「メディア良化法」によって言論統制が進められ、公序良俗を乱すと認定された図書がメディア良化隊によって駆除されている近未来の日本。図書館は、図書防衛のために武装化された図書隊を組織し、メディア良化隊との対決姿勢を強めている。
 こうした設定を原作者・有川浩が思いつくきっかけになったのが、日本図書館協会が採択した「図書館の自由に関する宣言」を読んだことだという。これは「図書館は資料収集の自由を有する」「図書館は資料提供の自由を有する」「図書館は利用者の秘密を守る」「図書館はすべての検閲に反対する」という4つの宣言を柱とするもので、図書館の自由が守られなかった時代の苦い体験から生み出された。例えば、太平洋戦争の際、特高警察は、図書館の閲覧記録を利用して思想犯を探り出していた。これを教訓に、現在では、たとえ警察の捜査であっても、裁判所の令状がない限り、図書館側が貸出記録を提出することはない。埼玉での連続幼女誘拐殺害事件のとき、ビデオレンタルショップの店員が、容疑者が借りたビデオについてマスコミにべらべらとしゃべっていたのとは対照的である。また、戦争中には多くの思想書が言論弾圧によって出版禁止となったが、現在の図書館は、たとえ(主に盗作疑惑などで)出版元が回収した作品であっても、資料として貸し出しを行う。これが「資料収集・提供の自由」である。図書館とは、税金で運営される貸本屋ではなく、高い理念に基づく文化施設なのである。
 ただし、小説『図書館戦争』は、こうした図書館の理念を声高に訴えるものではない。近未来の法律や図書隊の組織などをあれこれ記しているので、まるで近未来シミュレーションのように見えるが、理詰めで考えれば、何も撃ち合いをしてまで本を守る必要はない。ブラッドベリ/トリュフォーの『華氏451(度)』のように、コンテンツを保存することの方が大切なはずだ。あえて武装をしてまで本を守ろうとする態度は、それほど本が好きだという心情の具象化と見なすべきだろう。つまり、この作品はSFではなく、「本の貸し出し手続きを行っているお姉さん・お兄さんが、実は裏で猛訓練をしており、いざというときには銃を取って本を守る」というファンタジーなのである。そこを見誤ると、著者の思いが理解できなくなる。
 アニメ『図書館戦争』は、その誤りを犯した作品である。原作に溢れていた本への愛情は雲散し、図書館業務に関する描写もわずかしかない(第5話「両親攪乱作戦」で多少語られる程度である)。単に、撃ち合いを正当化する根拠として、「本を守る」という大義名分が掲げられているだけである。これでは、本に対する想いのベクトルが原作とは正反対であり、武器オタクが創った新兵ものとしか言えない。
 図書館を舞台としたアニメはかなり多く、『神のみぞ知るセカイ』第9-11話(「大きな壁の中と外」〜「おしまいの日」)のように、本好きの心情を丹念に描き出した佳作もある。『図書館戦争』のスタッフは、こうした作品を見て、自分たちの作ったものに何が欠けているかを勉強してほしい。

GUNSLINGER GIRL

【評価:☆☆☆☆☆】
 第1期・第2期とも全話視聴済み(以下のレビューは第1期に対して)、原作第6巻まで既読。
 このアニメに対する好悪は、人によって大きく分かれるだろう。嫌いな人は吐き気を催すほど嫌い、好きな人は抱きしめたいくらい好きになるはずだ。
 オープニングで、バイオリンケースを手にした少女が歩いてくる。その足下には、影法師が映っている…と思いきや、よく見ると、歩いてくるのは影法師で、足下に映る方が少女の実体である。この映像が、少女の置かれた状況を象徴している。
 舞台は現代のイタリア。テロの横行に手を焼いたイタリア政府は、超法規的な手段に訴える。身よりのない少女をサイボーグ(義体)に改造、薬物によるマインドコントロールで担当官の言いなりにして、テロリスト抹殺の任務に当たらせたのである。殺人マシンに改造された思春期の少女たちは、担当官に従順であらねばという植え付けられた感情を恋心と錯覚し、嬉々として人殺しに明け暮れる。
 こうした設定を、あまりに非現実的だと批判する人もいるかもしれない。だが、主人公を極端なシチュエーションに置くことで人間の本質に迫ろうとする文学作品なら、これまで数多く書かれてきたではないか。魔女にそそのかされて権力欲に目覚めたマクベス、白鯨に片足をもぎとられて復讐の鬼となったエイハブ、悪魔と契約を結んで欲望を実現するファウスト−−かれらは、非現実的なシチュエーションゆえに、リアルな人間の姿をあらわにする。作品の価値は、設定が現実的かどうかではなく、結果として見えてくるものが人間の本質にかかわるかによって決まる。
 では、『GUNSLINGER GIRL』はどうか? 戦うために作られたサイボーグの苦悩を扱った作品なら、『人造人間キカイダー』をはじめ、昔からいくつも書かれてきた。こうした従来作品との決定的な違いは、『GUNSLINGER GIRL』の少女たちが、その殺伐たる人生にもかかわらず、自分は幸せだと感じている点である。彼女たちは本当に幸せなのか? いや、そもそも幸せとは何なのか? 少女のほほえみを見ているうちに、いままで当たり前と思っていた常識が揺らいでくる。見る者にこうした思いをさせることこそ、傑作の証である。
 監督の浅香守生(『カードキャプターさくら』『NANA』『ちはやふる』など)は、登場人物の感情表現を抑制し、音楽を最小限にとどめた静かな演出によって、凡百の戦闘美少女ものとは異質な作品を作り出した。「少年」(第3話)「約束」(第5話)などのエピソードでは、その方法論が最高の効果を上げている。フォーレの「夢のあとに」を用いたエンディングもすばらしい。
 ただし、一種のアイデアストーリーなので、話を長引かせると設定のアラが気になってくる(例えば、義体の存在は隠しておくべきなのに、通常警護の任務にも就かせており、秘密がダダ漏れになっている)。原作も第3巻辺りからネタ切れになったようで、義体に対抗する少年テロリストを登場させてバトルを演じさせるなど、緊迫感を欠いた展開になる。そのせいもあって、アニメ第2期は第1期に遠く及ばない出来となった(第2期ではスタッフが総入れ替えされており、何らかのトラブルがあったのかもしれない)。

今日の5の2

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 最近はテレビアニメの本数が増え、毎年100本をはるかに越える新作アニメが放送されるため、よほどヒットしなければ人々の印象に残らないだろう。『今日の5の2』も、小学生のエッチネタを扱ったアニメとしてのみ記憶され、具体的な内容は忘れられていくかもしれない。しかし、それではあまりにもったいない佳作である。
 確かに、このアニメにはエッチなエピソードが多い。ヘマをするのは主に主人公のリョータで、女子が着替え中の教室にうっかり入ってしまうとか、転んだ拍子にスカートをめくってしまうといったたわいもないエピソードが続き、少々うんざりさせられる。しかし、原作が尽きてテレビ版オリジナルのエピソードが始まると、俄然面白くなる(エッチネタの中にも、「サコツ」のような面白い作品があるが)。
 私が好きなエピソードは「コンコン」(放送12回、第45話)。雪が降り始めたのを見た5年2組の子供たちは、雪遊びに充分なだけ積もったら、他のクラスに先駆けて外に飛び出そうと気もそぞろ。そんな中で誰かが「雪だコンコン」と歌い出す。リョータが「コンコンって何だ?」と聞くと、「キツネの鳴き声じゃないか」「でも歌詞にはイヌとネコしかない」と教室は大騒ぎになる。ふだんは物静かな女子が手元の本を調べて、「「雪だコンコン」ではなく「雪やこんこ」が正しい」と指摘すると、さらにケンケンゴウゴウとなって、結局、雪遊びに出遅れる。そう言えば、小学生の頃はクラス中で大議論になることがよくあったと、妙にノスタルジックな気分になる。このほか、大雨の中でつい我慢できずにドッジボールを始める「ユウダチ」、プールに1羽舞い降りたカモを巡って子供たちが奔走する「カモ」、小春日和があまりに気持ちよく立ったまま眠ってしまう「ウトウト」など、数分のエピソードの中に小学生の姿をリアルに描き出し、大人の視聴者を懐かしい気持ちでいっぱいにさせる。
 小学生を主人公とするアニメには、「大きなお友達」を意識して妙に媚びた描写をする作品が少なくないが、『今日の5の2』は、エッチネタをベースにしているにもかかわらず、媚びがあまり感じられない。これは、スタッフが登場人物を親身に感じているからだろう。スタッフの気持ちは、小学生の描き分けにも現れている。多くの女子は、毎日違うしゃれた服を着て登校するが、そんな中で、いつも同じTシャツを着ている元気な女の子がいる。トラブルが起きるとキリッとした表情で場を仕切る子や、休み時間に机の木目をそっと指でなぞっている子がおり、ちょっとしたことに子供の個性が表れる。こうした細部を観察することが、『今日の5の2』を見る楽しみでもある。(同じ原作でスタッフの異なるOVA版もあるが、作品の出来が全く違うので混同しないように)

Roberta's Blood Trail

【評価:☆☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 日本のアニメがアメリカのカートゥーンと大きく異なっている点は、単純な善悪二元論に収まらない対立関係を見据えている点である。多くの勢力が対立しながら一つとして正義がないという状況は、日本のアニメでは珍しくないが、『Roberta's Blood Trail』はその極北だろう。
 このOVAは、テレビで2クールにわたって放送された『Black Lagoon』の続編である(第8-10話のキャラが再登場するので、事前に視聴しておく必要がある)。『Black Lagoon』は、日本では珍しい物語性が濃厚なハードボイルドで、情念を揺さぶる傑作ではあるが、血が苦手な私には刺激が強すぎた。「Vampire Twins」や「Fujiyama Gangsta」のエピソードは、3度見たが3度ともクライマックスで目を背けてしまい、いまだに何が起きたか知らない。しかし、『Roberta's Blood Trail』は、残酷シーンが続くにもかかわらず、強い信念を持って描かれているので、目を背けることなく最後まで見通すことができた。
 テレビ版での主役ロックとレヴィは、このOVAでは脇役に回る。主役となるのは、復讐の鬼と化した元テロリストのメイド・ロベルタ、彼女の標的となる米軍グレイフォックス部隊のリーダー・シェーン、そして、ロベルタを連れ戻そうとするガルシア少年とメイドのファビオラである。彼らの動きに応じて、麻薬集積地にしてテレビ版の舞台ロアナプラで多くの勢力がぶつかりあい、バッカーノ的状況を呈する。
 興味深いのは、ほぼ全ての勢力が、ダブルスタンダードに基づいて行動していることである。ブレがないのは、荷物が何であろうと運送業に徹するラグーン商会くらい。バラライカ率いるホテル・モスクワ一味は、第3次大戦で米軍と戦うことを最終目的としたソビエト精鋭部隊の残存兵で、アフガンでの違反行為により部隊が解体された後も鉄の軍紀を守ろうとするが、実際には麻薬やポルノを扱う“マフィアごっこ”に明け暮れている。コロンビア革命軍は、民衆のための闘争を唱っているものの、裏では麻薬カルテルと結託して暴利をむさぼる。マニサレラ・カルテルはギャングを気取っているが、やっていることはチンピラ稼業そのもの。丘の上のカソリック教会では、破戒尼僧が酒と金儲けにうつつを抜かしながら、同時に××の手先である(真相はアニメか原作でどうぞ)。ついでに言えば、凄腕の賞金稼ぎとして登場するレヴィの仲間たちは、平然と惨殺を繰り返す一方で、コミックリリーフの役を見事に演じる。
 ダブルスタンダードの最たるものは、グレイフォックスだろう(ちなみに、作中でこの部隊は国家安全保障局NSAの指令で動くとされるが、NSAは諜報機関であり、戦闘部隊に指令を出しているとは考えにくい)。どんな場合でも子供を助けることを優先するリーダーのシェーンは、まさに毅然たる正義の兵士そのものである。しかし、彼らの真の使命は、アメリカの国益を守るために要人を暗殺することであり、血塗られた秘密部隊なのである。だからこそ、女子供を含む多くの一般人を無惨に殺した過去を持ちながら、今は少年に慕われるメイド長となったロベルタと、ある意味、対等な立場にあるのだ。
 ロアナプラに集結した勢力の中に、正義は一つもない。だが、自分以外に守るべきものがあるかどうかで、決定的な違いがある。守るべきもののない勢力は、“死のダンス”の舞台から次々に弾き出されていき、最後に残るのは、ロベルタとグレイフォックスである。彼らが守るのは、家族や民主主義という幻想ないし欺瞞にすぎない。そのことを知りながら、彼らは敢えて命を懸ける。幻想であれ欺瞞であれ、命を懸ける価値があると信じているのである。それゆえに、ロベルタとグレイフォックスの最後の闘いは、凄絶でありながら、美しさをも感じさせるのだ。

バカとテストと召喚獣

【評価:☆☆☆☆☆】
 第1期・第2期とも全話視聴済み(以下のレビューは第1期に対して)、原作未読。
 テレビアニメは、人間の心理を描くのが難しいメディアである。セル画やCGでは、『街の灯』のラストシーンで花売り娘が見せたような翳りを帯びたまなざしを描出することはできない。また、もともと子供向き番組が多かったためか、人間関係も、あまり錯綜したものは好まれない。結果的に、心理描写はどうしても深みに欠けてしまう。しかし、中には、即物的な描写にほんのわずかの差異を与えることで、こうした制約をやすやすと乗り越えていく作品もある。『バカとテストと召喚獣』はその最良の例であり、監督・大沼心の的確な演出テクニックによって、学園ものラブコメという枠からは想像もつかないほど深く心理の綾を表現している。
 「即物的な描写のわずかな差異」の意味が理解しにくいならば、オープニングで次々登場するキャラの顔を見ていただきたい。他の全員が瞬きしているのに、霧島翔子だけしっかりと目を見開いている。この表情が、彼女の意志の強さと戦略的な行動原理を象徴する。あるいは、最終回で主要キャラが床に腰を下ろすシーン。各人が思い思いにあぐらをかいたり正座したり横座りしたりする中で、姫路瑞希は、ミニスカートなのに無防備な体育座りである。その姿は、他人にどう見られているかを自覚しない無意識の官能性を感じさせる(第2期第12話の肝試し大会で、彼女が何を召喚したかにも注目されたい)。こうしたちょっとした描き分けが、各人の心理を表現する上で効果を発揮する。
 『バカとテストと召喚獣』では、ほとんどの登場人物が、思いと行動、あるいは、自己像と他者が抱くイメージの間に大きなズレを抱えている。このズレは、描き分けによって視聴者に確実に伝えられ、心地よい緊張感を生み出す。例えば、主人公・明久の姉が登場する「キスとバストとポニーテール」(第9話)のエピソード。姉は、8歳年下というからかいがいのある年齢差の弟に対してさまざまな悪戯をするものの、内心では心優しく見守っている。姉の本心は、視聴者にすぐわかるように描写されており、明久の家を訪ねたクラスメートも直ちにそれと悟るが、明久本人だけはなかなか気づかない。このことが、後に続くささやかな諍いの伏線になると同時に、諍いはすぐに収まるはずだという予測も可能にする。これが、心地よい緊張感の源である。
 ついでに言うと、ギャグのセンスも秀逸である。私が好きなのは、「ユリとバラと保健体育」(第2話)の試験召喚戦争で、口では嫌そうにしていながら、秀吉がきっちりとラウンドガールをこなしているのが笑える。
 近年のラブコメには、面白い設定で始まりながら、途中から人間関係がグズグズになる鬱展開の作品が少なくない。しかし、『バカとテストと召喚獣』は違う。学園内での試験召喚戦争という枠組みを守りながら、ストーリーが快調に進行する。これは、最初の設定に基づく心理描写に深みがあるため、あえて人間関係を変更する必要がないためだろう。最も感動的なのは、最終回である。まさか、ギャグが横溢するラブコメで、感動のあまり泣くことになろうとは…。

【小論】卓越した心理描写
 いわゆるギャグアニメはいつの時代も人気があり、「笑えればそれでいい」と考える視聴者も少なくないようだ。しかし、ギャグがちりばめられた中に、生き生きとした人間の姿を描き出すことができれば、笑いだけに留まらず、深い感動をもたらしてくれる傑作となる。『バカとテストと召喚獣』は、そうした作品である。
 舞台となるのは、成績に応じて徹底的に差別化したクラス編成を行う進学校の文月学園。そこで、最下位クラスの生徒たちを中心とした学園ラブコメが繰り広げられる…と聞くと、笑いオンリーのギャグアニメかと誤解されそうだが、心理描写がしっかりとしており、見ていて心地よい。アニメーターが登場人物一人ひとりに寄り添い、その内面を洞察しながら作画していることが窺える。
 例えば、主要登場人物が横並びで床に座るシーン(第13話)。このとき、行動的な雄二は立て膝、几帳面な秀吉は正座、実は常識人のムッツリーニはあぐら、女性っぽさをアピールする美波は横座り、そしてヒロインの瑞希は、なんとミニスカートなのに体育座りで、人からどう見られるかに無頓着であることが示される。全員をきちんと描き分けているのだ。
 ギャグ満載とはいえ、その表現は過剰によって笑いをとるタイプで、いかにも型が古い。胸がないと揶揄された美波は明久の背骨をリアルにへし折り、瑞希の巨乳を目の当たりにしたムッツリーニは輸血が必要なほど大量の鼻血を噴出させる…。80年代アニメを思わせる、こうした古めかしいギャグは、かえって、アニメーターがどこに力を入れているかを教えてくれる。笑いはあくまでおまけであり、作品の眼目は、各人の内面を浮き彫りにすることにある。
 わかりやすいのが、明久の姉・玲(あきら)の言動。汗をかいたので電車内でバスローブに着替え、そのまま往来を歩いて明久のマンションを訪れる。冒頭に置かれたこのギャグによって、「常識のない、ちょっとエッチなおねえさん」というイメージを視聴者に与え、その後、弟にキスしようとするのも、同じようにエロティックなギャグかと思わせる。だが、よく見ると、どの場面でも明久に逃げ場を用意しているので、性に関して奥手の弟を優しくからかっただけだとわかる。ギャグではなく、姉としての思いやりを描いたのである。
 こうした姉の心遣いは、家を訪れた同級生の全員が察知したのに、明久本人だけが気がつかない。このことが、後に玲との間にちょっとした波風が立つ原因となるものの、二人の心情が視聴者に伝わるように描かれているので、すぐに仲直りできるはずだという安心感を与える。
 召喚獣を使った学園内バトルを取り上げながら、常にほのぼのとした穏やかさを感じさせるのは、アニメーターが、すべての登場人物の内面に暖かいまなざしを向けているからだろう。最終回における瑞希の台詞「一箇所、大きな間違いをしてしまいました。訂正させてください」には、彼女の本心があらわになっており、本気で泣いてしまった。
 私が特にシンパシーを感じるのが、学年トップの才媛・霧島翔子である。
 雄二のお嫁さんになることを夢見てストーカーのようにつきまとい、雄二と親しくする男女に厳しく当たる。アニメの終盤では、強引にサインさせた婚姻届を手に雄二を伴って市役所に赴く。ところが、日本における結婚可能な年齢(婚姻適齢)は女性16歳に対して男性18歳であり、すごすごと引き返す羽目に。さて、翔子ほど高い知性の持ち主が、自分にとって大問題であるはずの婚姻適齢を知らないことがあるのだろうか?
 視聴者を笑わせるためのギャグはギャグとして割り切り、その一方で、人間の描写を大真面目に行うのが、アニメ『バカテス』の特徴である。だとすれば、突飛に見える翔子の行動も、彼女の内面を慮った上での演出だと考えるべきだろう。
 オープニングアニメでは、次々と登場するキャラがいずれも瞬きをするのに、翔子だけがじっと目を見開いており、意志の強さを感じさせる。彼女の行動は、高い知性と強い意志に裏付けられた戦略的なものであり、決して思いつきで過激に突っ走るわけではない(もちろん、目を突いたりスタンガンで痺れさせたりと雄二を虐待するのは、独占欲の強さを表す象徴表現である)。したがって、婚姻届にサインを強要するのも、それほど雄二が好きだと伝えるための手段であって、本気で今すぐ結婚したいのではないだろう。婚姻届を受理されなかった翌日の翔子がサバサバしているのも頷ける。
 神童と呼ばれるほどの頭脳の持ち主である雄二も、そうした翔子の本心はわかっていたはずだ。結婚を巡る二人の大騒ぎは、暗黙の了解の下で行われた一種のゲームだったのかもしれない。雄二が異様なほど大げさに嫌がったのは、自分の役割を心得た見事な演技なのだろう。

のだめカンタービレ

【評価:☆☆☆】
 第1期から第3期(フィナーレ)まで全話視聴済み、原作一部既読。
 アニメを作成する場合は、何を動かし何を動かさないか意識的になる必要がある。アメリカ大手の3Dアニメで、全てを動かそうとしてかえって作品世界を矮小化してしまったケースを見ると、動かさないことも重要な選択肢の1つであることがわかる。『のだめカンタービレ』では、多くのシーンが原作マンガそのままであり、動きに乏しい。これは、原作が優れたギャグマンガであり、1コマの中でいくつものカットを対比させるモンタージュが巧みなので、あえて絵を動かさず、そのまま紙芝居のように見せた方が効果的だからだろう。動かさないからこそ面白いアニメの好例である。
 もっとも、これだけでは、アニメ化のメリットは大きくない。アニメ『のだめカンタービレ』の最大の長所は、クラシック音楽をフィーチャーしながら音が出せないという原作のジレンマを克服した点である。その効果は、絶大である。紙芝居的なギャグアニメの随所に流麗な音楽シーンが挿入されることで、展開に緩急がつき、話に引き込まれやすくなった。
 私もかなりクラシックが好きな方だが、このアニメを見ると、音楽シーン担当の演出家がクラシック音楽をよく理解していることがわかる。アニメの少し前に放映された実写版ドラマでは、上野樹里の名コメディエンヌぶりが堪能できたものの、音楽の扱いがどうにも気に障った。例えば、尺の関係で楽曲を切り貼りしたり台詞を挿入したりすることがあるが、これが曲の流れとバッティングしがちだった。これに対して、アニメでは楽曲の扱いが丹念で、流れを遮らないように配慮されている。曲にあわせて作画できるというアニメの強みがうまく生かされた結果でもある。また、実写版と異なり、アニメ版ではBGMとして音楽を垂れ流しにせず、演奏シーンに限定することで、曲を効果的に聴かせてくれる。
 曲につけられたの映像も秀逸である。(1)演奏の実写をコンピュータで変換した動画、(2)原作マンガを利用した静止画、(3)象徴的な映像(水面の波紋に見える抽象的なものから、宙を舞う指揮棒のような具象的なものまで)−−が組み合わされ、興奮を高める。最高のシーンは、中盤のクライマックスであるラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」の演奏(第11話)で、それまでに何十回も聴いた曲であるにもかかわらず、ゾクゾクするような感興を覚えた。また、エルガー「バイオリン・ソナタ」の場面では、この曲を「かっこいい」と言う千秋の祖父のエピソードをうまく絡めながら、知られざる名曲の真髄を明らかにしてくれた。
 アニメ用に収録されたと思われる演奏もなかなかのもので、ベートーヴェンの「春」では、峰による前半の崩し弾きが千秋の伴奏を得て後半のきちんとした演奏に変貌する過程を、巧みに再現している。要所を心得た金春智子(第1期シリーズ構成担当)の脚本もうまい(第2期・第3期は第1期ほど楽しめなかったが、脚本のせいかもしれない)。個人的な好みを言えば、もう少し音楽シーンが多い方が嬉しいが、それでは、のだめと千秋の恋の行方に関心を持つ視聴者の不興を買うので、仕方ないだろう。

宇宙のステルヴィア

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 ゼロ年代に放送されたテレビ東京のSFアニメには、『無限のリヴァイアス』『蒼穹のファフナー』『創聖のアクエリオン』など、似たタイトルを持つ力作が並ぶが、その中のベストと思えるのが『宇宙のステルヴィア』である。何よりも、脚本がすばらしい。
 『宇宙のステルヴィア』のストーリー展開で特徴的なのが、最大の見せ場であるグレートミッションを全24話の半ばである第9-10話(後日譚が何話か続く)に置きながら、それ以前のエピソードで、あえてクライマックスに向けて盛り上げようとしない点である。グレートミッションとは、200年近く前から到来が予測されている超新星爆発の衝撃波に対して、太陽系内に巨大なバリアーを設置して地球を守ろうとする試みである。並の脚本家ならば、恐怖におののいて右往左往する市民や、悲壮な面もちでミッションに向かう隊員たちを描くだろう。しかし、『機動戦艦ナデシコ』のような一ひねりした作品を得意とする佐藤竜雄(監督・シリーズ構成)は、そんなありきたりの話にはしない。前半の大部分は、グレートミッションのために建造された宇宙ステーションで生活する訓練生の日常を描き出す。テストの成績や体育祭の演技のことばかり気にする少年・少女の姿を見ると、グレートミッションのことなど忘れてしまったかのように思える。
 しかし、こうした穏やかな日常生活の描写が、作者が最も言いたかったことを示している。人類を絶滅させかねない衝撃波の到来は、単に巨大な自然災害というだけでなく、人類のレゾンデートルを問い直すものとなるはずだ。佐藤竜雄は、人類がこの災厄を冷静に迎えるというビジョンを提示したのである。
 このビジョンの意味は、第9話でステルヴィアの教師が語る言葉に明確に示される。「あと1日で世界の終わりが訪れるかもしれないというのに、誰もが落ち着いて行動している。人類とは何と理性的な種族かと驚きますね」−−グレートミッションを迎えても、司令官同士が翌年の体育祭について談笑するような穏やかな日常的光景は、人類の理性に対する作者の信頼を表している。この言葉に応じて、もう一人の教師が口にする。「もし人類が、その文明の真価を問われるときが来るとすれば、それは、この試練を乗り越えた後でしょうな」
 『宇宙のステルヴィア』後半では、「文明の真価を問われる」との予想通り、グレートミッションを乗り越えた人類の間に不協和音が生じ、しだいに争いが拡大していく。加えて、エイリアンとの接近遭遇や、人類を襲うさらなる災厄など次々と大事件が出来し、ハードSFとして見応え充分である(SFファンにとっては、パングボーンの古典的名作『オブザーバーの鏡』を思わせる展開が楽しい)。ラストに関しては異論もあろうが、これはこれで良いのではないか。
 一つ気になる点を上げれば、キャラクターデザインである。キッズアニメに出てくるようなデフォルメされた登場人物には、どうにも感情移入がしづらい。しかし、せっかく脚本が優れているからと、現代的なキャラクターを使って頭の中でシミュレーションしてみたところ、グレートミッションを迎えて冷静でいる人々の姿が、何とも嘘っぽく思えてくる。あえてキッズアニメ風にした方が、理想主義的な内容に適しているのかもしれない。
 angelaの歌う主題歌「明日へのbrilliant road」は、作品の内容にふさわしい名曲で、グレートミッションのシーンでこのメロディが流れると、興奮を抑えきれなくなる。また、白い航跡を残して宇宙ステーションから無数の宇宙船が発進するシーンは、アニメ史上に残る名シーンと言っても良いだろう。

クレヨンしんちゃん アッパレ!戦国大合戦

【評価:☆☆☆☆☆】
 第6回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞受賞作。同芸術祭の第5回には、劇場版クレヨンしんちゃんの前作で、『戦国大合戦』に勝るとも劣らぬ傑作『大人帝国の逆襲』がエントリーされていたが、この年は、他にも『千と千尋の神隠し』と『千年女優』という超弩級作品があったため、審査委員会推薦作品に留まった。
 メディア芸術祭は、お役所主催だとは信じられないほど作品を正当に評価するイベントで、シンポジウムなどの企画も充実している。『戦国大合戦』が大賞を受賞したときには、上映前に原恵一監督のトークショーがあったが、これがとても興味深いものだった。
 監督第1作『暗黒タマタマ大追跡』のタイトルを口にするとき少し恥ずかしそうにしたところとか、クレしん人気の理由を尋ねられた中国人が「誰でも下ネタが好きですから」と答えた話なども面白かったが、最も驚かされたのは、「監督・脚本とクレジットされているが、自分は脚本は書いていない」という発言。原監督に言わせると、書いたのはストーリーラインだけで、具体的な内容は他のスタッフと話し合いながら決めていったという。
 不出来なアニメでは、脚本とアニメーションがかみ合っていないことが多い。話の展開は、棒立ち状態のキャラがセリフで説明するだけ。アニメーターは、バトルや爆発の激しい動き、クリーチャやガジェットの凝った造形など、脚本と絡まない部分に力を入れて鬱憤を晴らそうとする。制作現場のすきま風吹く光景が想像されて、暗澹たる気持ちになる。しかし、原監督の方法論が功を奏したのだろう、『戦国大合戦』は、脚本とアニメーションの幸福な結合が実現されている。
 例えば、戦国時代にタイムスリップしたしんちゃんが、又兵衛に連れられて春日城に赴くところ。脚本を頭で書いていると、未来から来たことを殿様に納得させようと一悶着起こす場面を挿入したくなる。だが、アニメーターからすると、こうした説明的なシーンは絵にならない。アニメーションの力を信じて絵にならないシーンを大胆に省略した結果、『戦国大合戦』は展開が緻密で、観客をアニメ世界に一気に引きずり込む作品となった。
 映画ファンならすぐ気がつくことだが、原監督とアニメーターたちが場面を構想する際に参考にしたのか、過去の名作(『七人の侍』『乱』『雨あがる』など)と類似するシーンが随所に現れる。これは、単なる模倣ではない。さらなる高みに達するために、先行作品を踏み石としたのである。「模倣は独創の母である。唯一人のほんたうの母親である」という小林秀雄の至言が思い出される。
 セリフも良くできている。しんちゃんには独特のセリフ回しがあるが、それに縛られてしまうと、ギャグ主体となって話が拡がらなくなる。原監督のトークによると、声優の矢島晶子と密接にやりとりしながらセリフを決めていったそうだが、おそらく、その過程で台本の練り上げができたのだろう。重要なセリフは、しんちゃんが口にしても違和感がないにもかかわらず、きちんとした日本語になっている。又兵衛に父親は侍かと問われたしんちゃんは、きっぱりと答える−−「違う、侍はもういないよ」。では国は誰が守るのだと問いただす又兵衛に対して、廉姫が言葉を添える。「又兵衛、しんのすけの住む世界は平和なのだ。侍はもう必要ないのであろう」。この後、さらに廉姫がしんちゃんの時代の恋愛事情を尋ね、自由恋愛に興味を示すと、今度は又兵衛が諭す。「姫さま、違う世界の話です」。練り上げられた脚本とアニメーションがかみ合った名シーンと言えよう。
 『戦国大合戦』では、良い作品にしようとスタッフが力を合わせているのがわかる。合戦シーンでは、石つぶてや槍ぶすまの描写が、これまで観たどの実写映画よりもリアルで迫力がある。戦が不可避となったときに庭木(モクレンか?)の花がポタポタと散る不吉な光景は、強烈な印象を残す。終盤で又兵衛を気遣う廉姫が居室から飛び出したとき、周囲の人々が示す反応は、血の通った人間であることを感じさせる。こうした場面には、作画や音響を担当したスタッフの思いがあふれている。
 優れたアニメはどのようにして誕生するのか−−その解答を教えてくれる傑作である。

新世界より

【評価:☆】
 全話視聴済み、原作既読。
 放映時に見たものの全く面白さが感じられず、「日本SF大賞受賞作のアニメ化なのに、なぜ?」と不思議だったが、原作を通読してようやく理由がわかった。端的に言えば、脚色の失敗である。
 舞台は千年後の日本。結界に守られた小さな集落における平穏でのどかな日常世界が、実は徹底的な管理の下に作り上げられた虚構であり、背後に恐るべき秘密が隠されていることが、主人公・渡辺早季の体験を通じて、次第に明かされていく。それとともに、5人いた早季の友人が一人また一人と減っていき、最後に、巨大なカタストロフィーが訪れる。
 貴志祐介による原作は、H.G.ウェルズ『タイムマシン』、オールディス『地球の長い午後』、映画『禁断の惑星』などの先行作品のアイデアを巧みに換骨奪胎しており、ストーリー展開や世界観に新味はないものの、ホラーを得意とする作家らしく、語り口に迫力があって引き込まれる。
 ここで重要なのが、全ての事件が終わった後の早季の回想という形でストーリーが語られる点である。この形式を採用したことによって、主観的な語りによるリアリティを確保しながら、超能力や未来社会の実状に関して、適宜、情報を補うことが可能になった。
 ところが、アニメでは、一部に主観的な語りを残しているものの、大部分は客観的な描写にとどめている。このため、原作の魅力のかなりの部分が失われてしまった。友人が姿を消していく過程も、単に、画面に登場する人数が減っただけで、切実な喪失感が感じられない。
 最大の問題は、随所に説明不足のシーンが生まれたことである。例えば、14歳になった早季たちが、突然、同性愛に目覚めるシーンがある(第8話)。原作では、それに先立つ章で、類人猿のボノボの習性として、緊張が高まったときには同性同士でも性的な愛撫を行って緊張を解消することが説明され、早季たちの集落では、この習性を子供に植え付けて紛争を回避していることが示唆される。思春期の自然な感情と思えるものが、実は社会に管理された虚構であることを示すエピソードなのだが、アニメでは、肝心の説明が欠けている。
 超能力に関する説明不足は、ほとんど噴飯ものである。雪山で仲間を探索するシーンで、早季はふつうに走っているのに、友人はピョンピョン飛び跳ねている(第13話)。実は、この友人は空中浮遊ができるのだが、それには精神集中が必要なので、持続が難しい。原作では、「一度に4,50メートルずつ、緩やかなジャンプを繰り返しながら、後ろについてくる。ずっと浮遊し続けるよりは、その方が楽なのだ」と説明される。しかし、この大ジャンプでは画面に収まらないためだろう、次のページにある「バッタのように飛び跳ねていた」という描写を絵に置き換えた結果、ひどく滑稽な映像になってしまった。
 アニメには、原作の視覚的な描写をそのまま絵にしたシーンが多いが、意図的に変更した部分もある。例えば、ミノシロモドキと呼ばれるクリーチャの形態は、原作では巨大なウミウシに擬態したものだが、アニメでは、妙に凝った人工的な外見になっている。これは、悪い兆候である。脚本の世界観や演出意図に納得できないとき、アニメーターたちは、細部にこだわって鬱憤を晴らすからだ。どうも、彼らは、何をどう描くべきかがわからなくなっていたらしい。後半に登場する“悪鬼”は、原作では「天使のように美しく整った顔」と記され、美しいことが深刻な悲劇の現れなのだが、とてもそうは見えないキャラクターデザインになっている。
 シリーズ構成を担当した十川誠志は、かなりの実績のある脚本家で、これほど脚本の出来が悪いのは不思議である。これは私の推測だが、脚本執筆に用意された時間がひどく短かったのではないか。テレビ朝日は、『新世界より』のマルチメディア展開を図ろうと、イベントやグッズ販売(コスプレ用の衣装まである!)を企画していた。この予定から逆算して脚本の締め切りを設定したために、練り上げに必要な時間がなかったのかもしれない。小説からアニメ用の脚本を作るのは、ふつうの人が想像する以上にエネルギーを要する大仕事である。説明が必要な場面で主人公のモノローグを挿入するか、会話や説明的な絵を利用するか、脚本家は大いに悩まされる。その練り上げができないまま、原作の視覚的なシーンを連ねた脚本にせざるを得なかったとすると、いろいろと腑に落ちる。
 これからアニメを見ようという人には、その前に原作を読むことをお勧めする。

DARKER THAN BLACK-流星の双子-

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 契約者と呼ばれる超能力者たちの暗闘を描く『DARKER THAN BLACK』シリーズの第2作。設定や登場人物の一部が引き継がれているので、あらかじめ第1作『黒の契約者』(テレビ放送分の25話)を見ておく必要がある。もっとも、主要キャラの大半がほとんど感情を持たない『黒の契約者』は、あまりに酷薄で、私は好きになれなかった。それに比べると、感情豊かな思春期の少女を主人公とする『流星の双子』は、第1作と同じくらい多くの人間が死ぬにもかかわらず、残酷であっても薄情ではない。何度見ても胸が熱くなる秀作だ。
 主人公は、ロシア在住の中学生スオウ。対戦車ライフルを操る凄腕のスナイパーでありながら、ひどく泣き虫で、ちょっとリュック・ベッソンのニキータに似ている。ストーリーは、スオウの双子の弟シオンが持つ秘密を巡って進行するが、秘密そのものよりも、多彩な人物との交流が面白い。特に、ロシアを出て北海道から東京に向かう中間部は、ロードムービーの趣も加わり、いろいろな視点から楽しめる。
 『DARKER THAN BLACK』 シリーズの最大の特徴は、契約者の持つ超能力の限定性である。
 超能力ものが数多く制作されているとは言え、実は、アニメと超能力は相性が悪い。小説のような地の文による説明がなく、超能力で何ができ何ができないかを視聴者にきちんと伝えるのが難しいからである。このため、アニメでは、超能力の実態を具体的に描かず、爆発や破壊のシーンばかり派手に見せることが多い。しかし、これでは単なるアトラクションであり、心理的な迫力に欠ける。一方、『DARKER THAN BLACK』 の契約者は、自身の体験と何らかの関わりがある限定的な能力しか持っていない。能力を行使する際は、「対価」と呼ばれる特定の行動を取る必要がある。例えば、スオウの友人だった金髪の美少女ターニャは、契約者となって無数のゴキブリを自由に操る能力を獲得したが、対価として自分の髪の毛を引きちぎらなければならない。能力が限られているだけに、超能力者同士の対決は、いかに相手の攻撃をかいくぐるかという戦略的な要素も絡み、(少なくとも大人の視聴者には)すさまじい迫力を持つ。
 中でも凄いのは、第3話「氷原に消える…」のシーンである。ここでは、スオウとターニャを含む4人の契約者がそれぞれの能力を行使するが、「超能力で人を殺すとはこういうことか」とリアルに感じさせ、見ていて胸が苦しくなる。
 あまりに多くの人が死ぬので、うっかり登場人物に感情移入していると、ショックを受けることもある。第4話からは幼くして母親と生き別れになった青年が登場、歳を感じさせない母親との短い再会シーンで和んだ気分にさせるが、その後でショッキングな事件が起きる。それでも、『黒の契約者』ほど酷薄ではない。「真に恐ろしいのは死ぬことではなく,死んでも誰も悲しまないことだ」という至言の意味が実感されるエピソードである。
 『流星の双子』で最も議論が分かれるのは、ラストだろう。このラストは、ある有名なアニメとほとんど同じである。岡村天斎(原作・監督)は、おそらく批判覚悟で確信犯的にこの終わり方を選んだのだろう。私にとって決して好きなラストではないが、原作者があえてこれを選択したことの重みを尊重したい。

四畳半神話大系

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作既読。
 第14回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞受賞作。監督の湯浅政明は、2004年に初監督作品『マインドゲーム』で第8回の大賞を受賞しており、アニメファンの間では、それなりに名が知られていた。作品の特徴は、作画崩壊と言いたくなるほどの極端なデフォルメ、モノクロームから派手な原色にわたる自在な色使い、長い静止から全速力での疾走に突如変転するダイナミズムなどにあり、実験アニメに適していても、ストーリーテリングには不向きで商業的ではない。それだけに、フジテレビのノイタミナ枠で湯浅の作品が放映されると聞いたとき、期待3割不安7割だった。
 冒頭2話は湯浅らしさが抑えられており、メジャーデビューで自粛したかと思ったのも束の間、次第に隠していた鷹の爪を見せ始め、後半で本領を発揮して自由奔放なアニメとなった。
 『マインドゲーム』は、終盤の疾走感がやや極端すぎて私は好きではないが、『四畳半神話大系』は、極端に走らず緩急がついた構成になっており、なかなかに楽しめた。これは、原作との相性が良かったからだろう。
 原作は森見登美彦の小説で、大学3回生である「私」の惨めな生活が描かれる。最大の特徴は、パラレルワールドのアイデアを採用したことである。大学1回生のときにどのサークルを選ぶかによって未来が分岐するが、いかなる選択をしても妖怪じみた悪友・小津と出会って、結局は惨めな生活に陥る。
 原作では、4つの選択に応じた4つのストーリーが描かれるが、アニメは、その内容を自由に組み換え、原作で数ページの挿話を膨らませたり、オリジナルエピソードを挿入したりして、全11回構成となった。別のパラレルワールドに移るたびに、いったん話をリセットするので、『マインドゲーム』のようにひたすら突き進むのではなく、ストーリー展開に緩急が生まれた。しかも、原作と異なって、あるエピソードが次のエピソードを導く形になっており、話に発展性があって、おもしろい。
 何と言っても、「私」の独白がユニークである。文体模写と言って良いほど原作に近い言い回しで、膨大な台詞が延々と続く。この脚本(湯浅政明+上田誠)は、見事としか言いようがない。
 原作は、現実にいそうな奇人・変人(少なくとも私が通った大学には、小津や樋口の同類がいた)をカリカチュアライズしたエピソードが3つ続いた後、第4話で、それまでのパラレルワールド全体を相対化するという構成になっている。アニメでは、原作第4話のメインエピソードを放送第10回に持ってきており、そのまま原作と同じような相対化が行われて終わるかと思いきや、ラストに驚くべき仕掛けがあった。
 アニメ最終回は、常に悲惨な生活に陥る無数のパラレルワールドから「私」が離脱するハッピーエンドのように見える。しかし、これがハッピーエンドでないことは、この分岐に至るきっかけが、「小津はたった一人の私の親友らしかった」という根本的な誤解であることから明らかだ。そもそも、原作と異なって、なぜ「私」と明石さんはなかなか結ばれないのか? 小津はなぜ、妖怪と見まごう人間ではなく、完全な妖怪としてキャラクターデザインされているのか? 答えは、最終回のラストシーンにある。その瞬間、「私」と小津の立場は反転し、別のパラレルワールドに突入したのである。原作を踏み台にして自分の世界を勝手に作り上げる湯浅政明の面目躍如と言うところか。
 知性は日本テレビアニメ史上屈指の傑作と訴えるが、独特の作画に感性がついていけなかったので、4つ星評価にしておく。

ベン・トー

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 放送前にタイトルが文字通り「弁当」の意味だと知ってちょっとためらったが、見て良かった。味わいのある拾いものの佳作である。
 ジャンルで言えばギャグ・アクションであり、スーパーの半額弁当を巡って“狼”たちが繰り広げるバトルがメインになる。こう書くと、たわいもないコメディに思えるかもしれない。だが、当事者たちはいたって真面目であり、その真面目さが面白さの源泉となっている。人類の存亡を掛けた戦いと口先で言いながら、戦時下なのに恋愛にうつつを抜かし、仲間が死んだときだけ泣き喚く戦争ごっこアニメにうんざりさせられる昨今、たとえ目的はささやかであっても、信念を持った「ベン・トー」のバトルの方に心惹かれる。「礼儀をもちて誇りを賭けよ」「狼の矜持を忘れるな」−−バトルに臨む心構えは、真剣そのものである。
 特に、「氷結の魔女」なる二つ名を持つヒロインは、生真面目すぎるところがたまらなくいとおしい。戦利品の半額弁当をすぐに食べようとした主人公に対して、ちゃんと「頂きます」を言うように諫め、こう言葉を継ぐ−−「作った者、値を半分にしてくれた者、食材となった命、そして、欲していながらもお前に取られてしまった者たちへの敬意と感謝を込めてだ」。
 真面目さが高じてギャグになるところも楽しい。ヒロインはなぜ氷結の魔女と呼ばれるのか? ライバルとの死闘に勝利しながら、力つきて路上に倒れたウィザードの傍らに空の弁当箱が落ちていた理由は? あまりにばかばかしい解答を知ったとき、本気で笑ってしまった。
 登場する弁当があまりに美味しそうで、深夜にこのアニメを見るのは美容に良くない−−要注意!!

狼と香辛料

【評価:☆☆☆☆】
 第1期・第2期ともテレビ放送分全話視聴済み、原作第2巻まで既読。
 中世ヨーロッパ(とおぼしき世界)を舞台に、“賢狼”の化身ホロと行商人ロレンスの旅を描く。ファンタジーではあるものの、魔法もドラゴンも登場せず、ただ、人間に姿を変えた動物が人目を忍んで生きる世界の物語である。
 欧米の人は、“賢狼”という表現に少し違和感を覚えるかもしれない。日本などの農耕文化圏において、オオカミ(=大神)は、森の生態系の頂点に立ち、家禽や農作物を食い荒らす害獣を捕食する存在として、崇拝の対象となってきた。一方、狩猟・牧畜が盛んだったヨーロッパでは、羊を襲うオオカミはひどく嫌われており、人間に従って狩猟の手助けをするイヌに比べて、愚かなケダモノと見下されていた(最近の研究によると、イヌは、残飯をあさりにきたオオカミの成れの果てであり、そのせいか、多くの農耕文化圏では、オオカミよりイヌの方を卑しむ)。もともと遊牧民族の宗教だったキリスト教でも、オオカミは異教徒の象徴として嫌忌の対象となっている。北部ドイツなどヨーロッパの一部地域では、オオカミを穀物の神として崇める風習があったが、キリスト教が広まるにつれてこの風習も失われていく。『狼と香辛料』で、ホロが自分たちへの崇敬の念が失われたことを悲しみ、オオカミ信仰が残っている北方に帰りたがっている背景には、こうした事情があるのだろう。
 『狼と香辛料』の最大の特色は、経済ネタを前面に押し出したことである。第1期前半では、貨幣に含まれる銀の割合が変更されるという情報を巡って、一儲けをたくらむ商人たちの奮闘が描かれる。現代に置き換えるならば、為替レートの変動に関するインサイダー情報を得たディーラーの話というところか。このほか、先物取引、信用買い、バブルとその崩壊などが取り上げられるが、いずれも、商取引の法制度が未整備で儲けも損失も商人の才覚次第という状況下での際どい駆け引きがポイントとなる。
 ライトノベルとしては重厚な原作1冊分を半クールで扱うので、どうしても説明不足に陥りがちだが、見ていてさほど不満は感じられない。どの程度の儲けないし損失かは、ロレンスやホロの言動を見れば察しがつくからである。経済ネタについてもっと知りたいという人には、原作を読むことをお勧めする。「弱った商人は兎のようなものだ。その柔らかいところにずぶりと牙を突き立てられても、悲鳴ひとつ上げられない」(『狼と香辛料II』電撃文庫版p49)といったわかりやすい文章で、しっかり説明してくれる。
 アニメは、あえて経済ネタの詳細な解説を避け、小説で描ききれなかった部分の描写に力を入れている。例えば、第1期後半のクライマックスとなる「狼と若僧の群れ」(放送第11回)で雨中にオオカミの群に囲まれるシーンは、原作にない緊迫感に満ちている。作画も丁寧で、中世ヨーロッパ風の市街や森の光景が美しい(地下水道が立派すぎるといった気になる点もあるが)。ただし、いくつかのエピソードで、知謀家でもあるはずのキーパーソンを子供のような可愛い顔立ちに描いたのは、いかがなものか。心理面でもう少し踏み込んだ描写を行えば、より深みのある作品になったろう。
 ロレンスに対するホロの態度はツンデレにも見えるが、むしろ、駆け引きを楽しむ程良い大人の関係と言った方が良いだろう。ホロは、数百年を生き抜いた賢狼らしく、商人としてはひよっこのロレンスを見守りながら時に適切な助言を与え、取引に失敗して窮地に陥ったときには身を挺して助ける。このつかず離れずの関係が、見ていて快い。
 第1期オープニングの「旅の途中」(歌:清浦夏実)、エンディングの「リンゴ日和」(歌:ROCKY CHACK)は、ともに名曲である。

電脳コイル

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 第29回日本SF大賞受賞作。この賞は日本SF作家クラブ主催なので、受賞作には文学作品が多く、中には「これが?」という作品もあるが、アニメ(本作の他、『新世紀エヴァンゲリオン』『イノセンス』)・マンガ( 『童夢』『バルバラ異界』)・映画(『ガメラ2 レギオン襲来』)は傑作揃いである。
 『電脳コイル』はキッズアニメ風に始まるが、騙されてはいけない。取りあえずNHKの会議で通るような企画書を提出しておき、当初は企画書通りに見せかけておいて、途中からやりたい放題という『ふしぎの海のナディア』方式の作品である。原作・脚本・監督・その他もろもろを担当した磯光雄の面目躍如である。
 主人公の3人イサコ・ヤサコ・ハラケンはいずれも小学生だが、後半になると、5歳はサバを読んでいるかのような言動を見せる(ついでに言うと、“オバちゃん”と呼ばれるキャラは、「実は女子高生」という設定が冗談にしか思えないほどたくましい)。イサコとハラケンは、以前に愛する人を失ったことがトラウマとなっており、そのせいで、イサコは周囲に対して攻撃的に、ハラケンはひどく臆病になっている。一方、ヤサコには、おぼろげながら不思議な体験をしたという記憶があり、その本当の意味は最終話で明らかにされる。彼らの心に重荷を負わせたのが、本作のタイトルでもある「電脳コイル」現象であり、情報技術の過剰な発展が生み出したテクノロジーの影の面である。
 ここで問題となるのが、現実の光景に情報を重ねて表示する拡張現実の技術である。1990年代に提案された際には、自動車のフロントガラスにカーナビの映像を投影するといった現実的な技術だったが、だんだんと夢が膨らみ、「ゴーグル型のウェアラブル・コンピュータを身につければ、パーティ会場で見知らぬ人に目を向けるだけで、どこの誰かが表示される」というアイデアまで出された。これを実現するには、高度な顔認識技術と膨大な容量を持つデータベースが必要となるため、現在なお夢物語でしかない。しかし、もし実現できれば、現実の世界が単に肉眼に映る以上のものへと変容することは確かだ。
 おそらく、礒光雄は、こうした技術的な話題をどこかで目にして興味を持ったのだろう。『電脳コイル』で描かれるのは、さらに進化した拡張現実が日常的となった社会である。電脳メガネを掛けたときに表示される情報は、文字や記号ではなく、具象的なアバターや器物となっている。ただし、ここで示されるのは、決して明るい未来ではない。技術がはらむ潜在的な危険性が、初めのうちは子供たちの間で都市伝説として囁かれ、しだいに全編を覆う暗い影となっていく。
 『電脳コイル』に登場する拡張現実の技術は、当初から不完全性が強調されている。メタバグ(利用価値のあるバグ)やイリーガル(電脳ペットに感染するコンピュータ・ウィルス)が登場し、子供たちが遊びに利用しているが、実は、遊びで済ませられることではない。後半で示されるように、電脳メガネを開発した企業は、動作原理が不明なまま製品化したものの、まもなく深刻な技術的欠陥があると気がつき、必死に隠蔽を図っているのだ。動作原理を知らずに製品化することなどあるのかと思うかもしれない。だが、遺伝子組み換え作物は、染色体のどの部位に遺伝子を挿入すれば形質が発現するのかすらわからないまま、大量に栽培されているのである。最先端技術は、一般の人が考えるよりも恐ろしい。
 アニメ終盤には、電脳空間が意識と直結し、人の心をむしばむ可能性も示唆される。これは、アニメ世界のフィクションとは言えない。例えば、ウェアラブル・コンピュータを介して他者を見たとき、そこに、ネットショッピングで何を買い、グーグルでどんな言葉を検索しているかまで表示されるならば、われわれは、いかなる人間観を抱くことになるだろう? さらに、こうした情報が突然失われ、ただ “NO DATA” と表示されるだけとなったとき、どのように反応するのだろうか? 『電脳コイル』には、そんな思いを抱かせるような問題提起のシーンがある。
 キッズアニメのように始まって大人にも難解な内容で終わるので、決してバランスの良い作品とは言えない。しかし、小学生の視聴者を想定して高度な技術を扱うのが子供だけという設定にしたことは、子供にしか見えない幽霊が登場する怪談を思い起こさせ、結果的に不気味な魅力を高めた。電脳空間で行う情報操作も、破壊光線や魔法陣、御札といったファンタジーのガジェットを使って描かれており、SF的な堅苦しさを感じさせない。内容はハードSFでありながら、描写は型破りというアンバランスな面白さと言えようか。
 毎回冒頭で語られる噂話は、作品の謎を解く鍵になるばかりか、それ自体が一種のアフォリズムでもある。例えば、第20話の噂話は、「私の古い記憶によると、最初に用意された身体は、命のない空っぽの器だったそうです」。池田綾子によるOP「プリズム」とED「空の欠片」は、ともに哀愁を帯びたメロディで心に残る。

【小論】技術の過剰な発展がもたらす恐怖
 原作・監督を担当した磯光雄渾身の力作。拡張現実(AR)技術の過剰な発展がもたらす恐怖を、2007年の時点で予言した先駆的な作品で、アニメとしてのみならずSFとして高く評価され、日本SF大賞や星雲賞メディア部門賞を受賞した。ちなみに、アニメ作品で日本SF大賞を受賞したのは、本作の他に『新世紀エヴァンゲリオン』と『イノセンス』という異形の傑作2本だけである。
 絵柄からキッズアニメと思われそうだが、さにあらず。『けものフレンズ』や『宇宙のステルヴィア』などと同じく、「子供向け」という衣をまとった、大人のためのアニメである。子供の頃に一度見ただけだという人は、是非再見してほしい。「こんなに陰鬱な作品だったの!」と愕然とするだろう。
 第1話冒頭、いきなり「子供たちの噂によると、大黒市では最近、ペットの行方不明事件が多発しているそうです」と、ヒロイン・ヤサコによるナレーションが入る。毎回、こうした噂話、都市伝説、言い伝えが提示され、不穏な雰囲気を醸し出す。『電脳コイル』とは、実は、きわめて不穏で陰鬱なアニメなのである。第6話では、自動運転中の車が事故を起こしたことが紹介される。電脳ナビに欠陥が見つからなかったことから、被害者が急に飛び出したのが原因だとして処理されたが、事故死した少女は、電脳を誤作動させるウィルスについて調べていたとか。何やらゾクリとする展開である。
 舞台となるのは、金沢にほど近い架空の地方都市・大黒市。202X年現在、子供たちの間では、電脳ネットからの情報を現実に重ねて映し出すAR機器・電脳メガネが流行中。なぜ子供だけが高度なAR機器を使っているのか、「実用上のトラブルがあったため大人は使わなくなった」といった想像が可能だが、明確な説明はない。ただ、子供が遊びに利用するシステムには、多くの欠陥が存在することが示唆される。電脳空間にはいくつものバージョンがあり、古いバージョンのままのドメインは、空間管理室と呼ばれる公的な管理者でもコントロールしきれていない。そのせいでコンピュータウィルスが蔓延しており、常駐するセキュリティソフトが手当たり次第に駆除するものの、後手に回りがち。子供たちは、電脳世界で独自の裏技を考案して遊びを続けるが、しだいに精神を病む者が現れる…。
 『電脳コイル』の特徴は、こうしたネット内部の出来事を、ARによって視覚化された目に見える事象として描いた点。コンピュータウィルスは電脳空間に蠢く黒い生物「イリーガル」、セキュリティソフトはゆるキャラ風のロボット「サッチー」、裏技として利用可能なバグは宝石の形をした「メタバグ」、対ウィルス防御やバグの修正を行う未公認パッチはお札を思わせる「メタタグ」として表現される。さらに、ハッカーは「暗号屋」と呼ばれ、魔方陣のような図形を描いてハッキングを行い、時にはメガネビーム(メガビー)を発して邪魔なセキュリティソフトを停止させる。こうした具象的な視覚表現を利用したため、まるで子供同士の魔法合戦といった映像が展開され、アクションアニメとしてもそれなりに楽しめる。
 しかし、本作の真髄は、派手なアクションの描写にとどまらず、ARという技術そのものに内在する恐ろしさを取り上げた点にある。「道案内をするアバターの映像を現実に重ねて表示する」といった程度なら既存のAR技術でも実現可能だが、その遥か先を行く『電脳コイル』の世界では、当たり前のように、現実の光景にデータが常時重ねられている。そんな世界で人間の手に負えない技術の暴走が起きるとどうなるのか。後半(第14話〜)では、そうした問題に目が向けられる。
(次の段落に重大なネタバレがあります)
 『電脳コイル』の世界では、人間ですら、生身の肉体とネットから提供されるデータとが一体化した存在となっている。こうした状況下で何らかの原因により肉体とデータに食い違いが生じると、「電脳コイル現象」と呼ばれる精神的トラブルが発症する。時には精神が「アッチの世界」に行ってしまい、「NO DATA」と表示された植物状態の肉体が残される。
 何よりも恐ろしいのは、高度なARがいかにして実現されるか科学的解明ができていないにもかかわらず、この技術を実用化し大儲けした大企業の存在。ARが精神を蝕む可能性に気がつきながら、欠陥を懸命に隠蔽しており、社会インフラが単一企業に独占されることの恐ろしさがじんわりと伝わってくる。ちなみに、第18話冒頭のナレーションは、「ネットの噂によると、メガネの設計や開発の過程は、複雑な利権と歴史に彩られているそうです」。
以下、余談。

【中間の独立エピソード】
 本作では、子供たちの楽しげな描写の陰で少しずつ謎を提示する前半と、真相解明を進めるシリアスな後半の間に、3つの独立したエピソード「沈没!大黒市」「ダイチ、発毛ス」「最後の首長竜」が挟まれる(第11〜13話)。3本ともやたらに面白く、『電脳コイル』と言えばこれらを思い出す人が少なくない。しかし、イリーガルの設定などが本編と異なっており、あくまで本編とは別のスピンオフ作品として鑑賞していただきたい(私も「ダイチ、発毛ス」に出てくる股間のモザイクが気になったクチだが)。

【登場人物の年齢】
 『電脳コイル』の主要登場人物であるイサコやハラケンは、ヤサコと同じく小学6年生だが、愛する人を失ったトラウマに苛まれ、そのせいで周囲と協調できずにいる姿は、とてもその年齢の子供には見えない。オバちゃんと呼ばれるハラケンの叔母が、実は17歳とかで女子高生の制服を着て登場したときには、ギャグとしか思えなかった。
 想像するに、磯光雄の当初の構想ではいずれももう少し年長のキャラだったものを、土曜夕方という子供向け時間帯に放送するNHKの方針に合わせて、4〜5歳ほど低年齢化したのではないか。そう考えると、ヤサコの回想における「4423」との交流やイサコの嫉妬心の描写が、素直に納得できる。

【「プリズム」誕生秘話】
 シンガーソングライター・池田綾子が作詞・作曲・歌を担当したオープニング曲「プリズム」は、心に染みる名曲である。その誕生にまつわるエピソードが、彼女がゲストとして登場したNHKFM「アニソン・アカデミー」で紹介されていた(2019年4月20日放送分)。
 それによると、池田は、まず磯監督から描きかけの絵コンテを見せてもらい、オープニング曲は「朝日をテーマに書いてください」と言われたという。それならと希望に満ちた明るい曲(CDには「旅人」というタイトルで収録)を書き下ろしたものの採用されず、再度行われたミーティングで、監督による朝日のイメージが「不安なものの象徴」であり、「また光が差して自分の後ろには影ができて、この1日をどう生きていくんだろう」という捉え方だと知らされる。そこから生まれたのが「プリズム」である。
 この話を心に止めながらオープニングアニメを見ると、心をかき乱すような音型が響き、霧が立ち上りノイズがちらつく中、ヤサコが不安そうな面持ちで中空を見上げる冒頭シーンが、実に示唆的に感じられる。

【アニメ作家の気概】
 アニメは、情報技術の過剰な発展に対して、早くから警鐘を鳴らしてきた。社会インフラとして必要不可欠なOSが実はトロイの木馬だったという『機動警察パトレイバー the Movie』、ネットゲームに耽溺するあまり抜け出せなった者の行く末を見つめた『.hack//SIGN』、徹底した監視体制によって犯罪を犯す前に人々を取り締まるディストピアを描く『PSYCHO-PASS サイコパス』、テロ対策に導入されたAI搭載の自律型殺人ロボットが暴走する『RIDEBACK』…。就活学生の閲覧記録から内定辞退率を算出して企業に知らせたという最近のニュースは、『ルパン三世 PART5』のヒトログを想起させる。
 クリエーターはきわめてセンシティブで、炭鉱のカナリアのように、何かおかしなことが起きつつあるとき、真っ先に反応する。そうしたクリエーターの思いが結晶したアニメを、子供の娯楽と侮ってはならない。大人ならば、『電脳コイル』に込められたメッセージを正しく読み取ってほしいと思う。

魔法の天使クリィミーマミ

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 『ミンキーモモ』とともに変身少女ものの先駆け的作品。ミンキーモモがあらゆるタイプの女性に変身するのに対して、『クリィミーマミ』のヒロインは特定の人物にしか変身できず、しかも、変身によって常に夢が叶えられる訳ではないというリアルな設定で、大人にも興味深い作品となった(星3つは、大人が見るアニメとしての評価である)。脚本・構成を担当した伊藤和典の功績が大きい。
 「大人にも…」と書いたが、始まって暫くの間は類型的な「夢見る少女のファンタジー」に留まっており、大人が見ると気恥ずかしくなる。特に、第1話は出来が良くないため、これだけを見て作品全体を評価しないでほしい。面白くなるのは1クールを過ぎた頃からで、優れたエピソードは後半に集中している。これらのエピソードは、2つのタイプに分類できる。
 第1のタイプは、変身と夢の成就にかかわるもので、途中でも(「優のフラッシュダンス」(第31話)などで)部分的に触れられるが、主に、前半のクライマックス(第25-26話;当初の予定ではここで終わるはずだった)と全編の大団円(第50-52話)で集中的に取り上げられる。元気いっぱいの小学生・優(10歳)は、同じ学園の中等部に通う俊夫(14歳)のことが好きだが、俊夫の方は(小学生とベタベタしていると同級生に囃されることもあって)優を敬遠している。ひょんなことから魔法の力を与えられた優は、美少女のマミ(16〜17歳)に変身、アイドル歌手となって俊夫の憧れの的になる。しかし、マミとして俊夫に好かれれば好かれるほど、かえって優としては疎んじられる結果になり、そのジレンマに苦しむ。優がこのジレンマをどのように乗り越えるかが終盤のテーマであり、最終的な解決はラストの台詞で示される。
 秀作エピソードの第2のタイプは、SFなどさまざまな分野にわたる独立した短編である。中でも優れているのが、「SOS! 夢嵐からの脱出」(第44話;脚本:伊藤和典)。芸能プロの社長が操縦するヘリコプターで東京見物としゃれ込んだマミだが、突然の異常現象に巻き込まれ、魔法の通じない異世界へと飛ばされる。伝説的テレビドラマ『ウルトラQ』の佳作「206便消滅す」を彷彿とする内容だ。「206便…」は、制作上の方針からオリジナル脚本にない怪獣を登場させたため、ストーリーが破綻してしまった(しかも、利用された着ぐるみが、映画『妖星ゴラス』で経営陣のごり押しにより無意味に登場させられた怪獣マグマの使い回しというのが情けない)。「夢嵐…」は、「206便…」の脚本家の無念を晴らすかのように、さまざまなSFの道具立てをうまく組み合わせ、最後まで飽きさせない緊密な構成になっており、短編脚本のお手本と言って良い出来である。
 その他、芸能界の裏面を暴露する「鏡のむこうのマミ」(第13話)、ミステリタッチの「マリアンの瞳」(第37話)、映画『ゴジラ』最高のオマージュ「ジュラ紀怪獣オジラ!」(第39話)、SFテイストあふれる「走れ優! カメよりも速く」(第43話)、切ない初恋物語「私のすてきなピアニスト」(第46話)などは、大人にも見応えがある(と言うより、その真髄は大人にしかわからない)。
 1983〜84年制作のアニメなので、古さを感じさせる部分もあるが、いつまでも受け継がれてほしい古典である。

氷菓

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 「古典部」に所属する4人の高校生が体験したささやかな謎を描く日常ミステリ。日本における日常ミステリは、戸板康二の好短編「グリーン車の子供」を嚆矢とし、北村薫の円紫シリーズが人気を博して以降、ミステリの一ジャンルとして定着した。もっとも、誰にでも書けそうに見えながら、普遍的な面白さを持つ謎を案出することは難しく、最近のブームに乗って執筆された作品に成功したと言えるものは少ない。
 アニメ『氷菓』は、米澤穂信原作の3つの長編『氷菓』(第1-5話)『愚者のエンドロール』(第8-11話)『クドリャフカの順番』(第12-17話)、短編集『遠まわりする雛』の全作品、および、単行本未収録短編「連峰は晴れているか」をアニメ化したものだが、日常ミステリの長所と短所を同時に体現している(『氷菓』『愚者の…』『遠まわり…』は原作既読)。
 はっきり言って、長編はどれもあまり面白くなかった。米澤穂信の処女作となる『氷菓』は、せいぜい習作と言った出来で、謎も単純すぎ人間描写も甘い。導入部を含むためアニメシリーズの冒頭に持ってこざるを得ないとは言え、脚本家はさぞ苦労しただろう。短編のエピソードを織り交ぜて何とか5話に引き延ばしているが、私なら余分な脇筋をカットして2話程度に圧縮し、原作ファンの怒りを買ったところだ。長編はいずれも文化祭に絡む出来事を素材としており、作品世界の拡がりも小さい(文化祭と全く縁のない“ぼっち”だった私のひがみかもしれないが)。
 3本の長編でトリックが最も優れているのが、『愚者のエンドロール』である。あるクラスで文化祭に向けたミステリ映画の撮影を進めていたものの、殺人シーンまで撮った段階で脚本家が病に倒れ、犯人と密室トリックがわからなくなった。そこで、古典部の4人が呼ばれ、結末を推理することになったのだが…。未完作品の結末を探るミステリだと思わせておいて、実は…という話であり、真の謎の所在は、英語のサブタイトル(アニメではBパート末に提示)の "Why didn't she ask EBA?"(クリスティのミステリ "Why Didn't They Ask Evans?" のもじり)に示唆される。キーパーソンとなる入須先輩(「いりす」という名前はギリシャ神話の女神に由来)の設定にも工夫が凝らされて興味深いが、直截的でない表現が緩衝材となっている原作小説に比べると、アニメでは人間関係のとげとげしさが前面に出て、後味が悪い。
 人間関係について言えば、『氷菓』に出てくる古典部は、「仲良しクラブ」ではない。仲の良い何人かがこれといって目的のない部や同好会を結成し、まったりと時を過ごすという学園ものアニメの定番とは異なり、古典部のメンバーは、全員がヤマアラシジレンマに悩んでいるかのごとく、互いに微妙な距離を取ろうとする。特に、ヒロイン・千反田えるの距離感は独特で、物理的・知的な面では他人の領域に平気で入り込む一方、感情は決して明かそうとしない。「大罪を犯す」(第6話)では、つい感情的になったことに自分で驚くさまが描かれる。この微妙な人間関係をとげとげしくならないように表現できるかどうかが、成功と失敗を分ける鍵となる。
 長編に比べると短編は圧倒的に面白いが、それは、日常の謎を解明する話の流れに、人間関係がうまく溶かし込まれているからだろう。中でも傑作と言えるのが、「連峰は晴れているか」(第18話)である。主人公・折木奉太郎は、窓から聞こえるヘリコプターの音を耳にして、ふと、ヘリ好きだった中学の英語教師を思い出す。ところが、同じ中学を出た古典部の他の二人には、その教師がヘリ好きだという記憶がない。疑問を感じた折木は、千反田と図書館に赴いて真相を探るのだが、この図書館のシーンが実に素晴らしい。棚の本について感想を述べ合う折木と千反田の何気ない日常の一場面に、もう会うことのないだろう教師の人生の影が差し掛かる−−それは、自分にとって脇役でしかない人々にも、それぞれの思いを持って歩んできた長い道のりがあると実感させる瞬間である。
 コミカルな「あきましておめでとう」(第20話;見ながら「そこで帯締めはまずいだろう」と画面に突っ込んでしまった)や少しエロティックな「正体見たり」(第7話;ラストで姉妹が登場するシーンは原作になく、心優しい脚本家の贈り物である)も素敵だが、もう一つあげるとすれば、最終回の「遠まわりする雛」だろう。「連峰は…」が単独でも楽しめるのに対して、この作品は、全22話の最後に見てほしい。急な道路工事で地元の伝統行事である雛祭り行列がルートを変えるというだけの話だが、そこから、この郷土に生まれたことの意義や将来に向けての展望に話が拡がり、ラストでは、千反田に対する折木の思いが自然に表出される。そこには、北村薫の「六月の花嫁」や「山眠る」のような最上の日常ミステリを読み終えたときと同じ余韻が漂い、しみじみと実感させてくれる。人生は意外に奥が深い−−と。

おおきく振りかぶって

【評価:☆☆☆☆】
 第1-2期全話視聴済み、原作第12巻まで既読。
 勝負の世界を描くスポーツ漫画やアニメでは、どちらが勝つかは作者が恣意的に決められる。ひとたびそれに気付くと、弱小チームが強豪を相手に大番狂わせで勝つというスリリングな展開でも、作者のご都合主義が鼻について楽しめない。「怪我を隠して奮闘する」「窮地に立って初めてチームが一丸となる」といったありがちな展開は、なおさら鼻白んでしまう。こうした本質的な問題に対して、「理詰めで納得させる」という新しい切り口を示し、スポーツ漫画・アニメに新しい地平を拓いたのが、『おおきく振りかぶって』である。ここでは、アニメ第1期後半で描かれる西浦対桐青戦に絞って見ていこう。
 三橋・阿部バッテリーが所属する県立西浦高校硬式野球部は、1年生10人だけの新設チームで、監督は軟式野球部マネージャーだった女性。対する私立桐青高校は、 前年に甲子園に出場した強豪校。どう考えても西浦が圧倒的に不利である。しかし、西浦は、地元テレビで露出の多い桐青のプレーを徹底的に研究し、互角の戦いを見せる。
 桐青のエースは、130キロ台の球を投げる技巧派で、決め球となるフォークとシンカーは打ちづらいが、直球とスライダーはそれほどでもない。そこで、西浦の選手は、この2つに絞ってバッティングマシンで練習を繰り返した。さらに、試合では、捕手の配球パターンと試合の流れをもとに、監督が次の球種を予測して選手にサインで伝える。こうすれば、実力の乏しいバッターでも、ある程度は打てる。
 一方、桐青側には西浦のデータが全くない。三橋は正規の投球指導を受けなかったせいで、球に体重を乗せられず妙な回転を掛けてしまい、100キロちょっとの異常に遅いクセ球を投げる。これだけなら、目が慣れれば簡単に打ち崩せるはずだが、阿部が球筋を覚えさせないようにコースを散らすため、桐青のバッターは打ちあぐねる。こうした事情がきちんと説明されているので、互角に戦えることが不自然でない。
 西浦対桐青戦はやたらと面白く、各話とも5〜6回は視聴し、アラ探しのようなことまでしてみたが、不自然なのは田島の最終打席くらい(あのフォームではああいう打球にならない)で、後は全て現実に起きてもおかしくない。
 理詰めの展開は、監督同士が読み合いを競うシーンで最高の効果を上げる。5回表西浦攻撃でワンナウト1塁3塁。ふつうならスクイズの好機だが、桐青の監督は、3塁ランナーが投手であり、本塁に突入して怪我をすると代わりがいないことから、スクイズと見せかけてボールを投げさせ、満塁にしてタッチプレーを回避すると読む。ところが、西浦の監督はさらに裏を読んで…と話が進む。ありきたりの野球漫画・アニメでは、打者がヒットするかどうかは作者の恣意に任され、見る側はそれを受け容れるしかないが、ここまで理詰めだと、見ている方もつい読み合いに参加して頭を働かせるので、凄まじいサスペンスが生まれる。
 こうした長所は、主に原作者・ひぐちアサの功績で、漫画だけでも充分に面白い。だが、アニメには、さらに効果を高める仕掛けがいくつもある。特にすばらしいのが音響効果。ランナーがスタートを切る際のスパイクの音や、泥まみれになって滑り込むときの水しぶきの音は、おそらく実際にプレーさせて収録したものであり、迫力満点だ。
 水島努の演出は、ケレン味はないがうまい。8回裏、緊迫したプレーの後、突然、はるかな高みから球場全体を見下ろす視点となり、雨滴が落下する中を野手がポジションに戻っていくシーン。あるいは、9回裏、「夏祭り」(破矢ジンタ)の静かなイントロをBGMに、カメラがバットのゆっくりした動きを追っていた次の瞬間、大音響となって打者の姿が大写しになるシーン。記憶に残る名場面である。
 『巨人の星』『ドカベン』『タッチ』が楽しめず、自分は野球漫画・アニメと相性が悪いと思っている人に、特にお勧めしたい。

銀河英雄伝説

【評価:☆☆☆☆☆】
 本伝110話・外伝52話(長編2・短編7)・劇場版3作全て視聴済み、原作第3巻まで既読。
 とにかく面白い。言うなれば、宇宙世紀の『平家物語』か『戦争と平和』(どちらも極上のエンターテイメント)である。1988年、ビデオカセットが毎週配送されるという変わった方式で発表された作品で、金欠気味の私は見ることかなわず、すごい作品が出たという噂を耳にしては涎を垂らすばかり。だいぶ後になってDVDレンタルで一気に全編を視聴し、ようやく積年の鬱憤が晴らせた。
 田中芳樹の原作は、専門用語を交えたやや大仰な文体、情緒を排した戦闘描写、地の文や登場人物の台詞による歴史観の開陳など、多くの点で『平家物語』よりも(其角に「月も見ず」と評された)『太平記』に近い。例えば、アムリッツァ会戦を描く章は、次のような文章で始まる。「恒星アムリッツァは無音の咆哮をあげ続けていた。核融合の超高熱のなかで、無数の原子が互いに衝突し、分裂し、再生し、飽くことのないその繰返しが、膨大なエネルギーを虚空に発散させている」(『銀河英雄伝説1 黎明篇』トクマノベルズ p.215)。読書好きには魅力的だが、あまり一般向きではない。これに対して、アニメは、情緒的な描写や美形キャラで原作に月と華を添え、わかりやすく楽しめる作品に仕立ててある。
 超光速航行が実現された未来、人類は、銀河帝国と自由惑星同盟の二大勢力に分かれて、百年を越える戦争を続けていた。『銀河英雄伝説』は、帝国側のラインハルトと同盟側のヤン・ウェンリーという戦略・戦術の天才の事績を中心に、戦争の終結を描く物語である。
 未来の話ではあるが、設定は全般に古めかしい。星間戦争でありながら、エイリアンは登場せず、超光速軍艦が宇宙潮流に流されたり、航行可能な領域が狭い回廊に限定されていたりと、まるで百年前の海戦である。可燃性ガスが充満しているときには火器が使用できず、戦斧を手にしての白兵戦も行われる。艦隊戦では陣形が重要であり、各種軍艦の配置に応じて攻撃力・防御力が大幅に変動するため、司令官の戦術が勝敗の鍵を握る。こうした設定のため、戦争シミュレーション・ゲームのようで楽しい。
 アニメとは言え、多くの人が死ぬ戦争の話を面白がるのは不謹慎だという批判があるかもしれないが、筋違いである。非難すべきは、悲惨な戦闘における一兵卒の英雄的な行為を称揚してアジテーションの具と成り下がった作品だろう。戦略・戦術を重視する戦争シミュレーションを楽しむ人は、ボクシング愛好家がどつきあいの喧嘩を嫌悪するのと同じように、現実の戦争をいやがるものである。
 ストーリー展開の上でポイントになるのが、人材をどのように生かすかである。特に、帝国側には個性の強い提督が揃っているので、ラインハルトが彼らをどう扱うかに注目してほしい。例えば、ビッテンフェルトは、攻撃を仕掛けているときはむやみに強いが、ひとたび守勢に回るとあっけなく敗退する。前の戦闘で大敗したこの使いにくい提督に、ラインハルトはどんな名誉挽回のチャンスを与えたか(第48話)? 手兵シュワルツランツェンレイターが低音の砲声を響かせてビーム兵器を発射する(!)シーンでは、思わず笑いながら拍手してしまった。それぞれの提督には独自の趣があり、視聴者は、その中から自分のお気に入りを見つけることができるだろう(ちなみに、私の好みはファーレンハイトです)。
 楽しいばかりではなく、胸を衝かれるシーンもある。敗北が決定的となり自殺しようとする司令官に対して、副官は、戦後に開かれるであろう戦争裁判で責任を果たすようにと諫める。「閣下と私、それに××と、制服組から三名くらいは軍事法廷の被告が必要でしょう。このあたりで、他に累が及ぶのをくい止めねばなりません」。これを聞いて、司令官は自殺を思いとどまる。
 強いて欠点をあげるならば、帝国側に比べてキャラクターの個性に欠ける同盟側のエピソードが今ひとつで、3度目・4度目に見るときはつい早送りをしてしまうことと、ある重要人物がかなり早い段階で死ぬため、その人に思いを寄せているとショックを受けることくらいか。
 話数があまりに多く、ためらいを感じる人もいるかもしれない。そこでお勧めなのが、劇場版第1作『わが征くは星の大海』(60分)である。もともとOVAのパイロット版として制作されたものなのでまとまりが良く、しかも、完成度がきわめて高い。ラヴェルのボレロを使った戦闘シーンは、まさに感涙ものである。もう1つ上げるならば、外伝第3期の『奪還者』(全4話)。知略を尽くして敵中突破を図るという宇宙版『隠し砦の三悪人』(もちろんオリジナルの方)で、爽快にして感動的だ。この2本を見て興味が湧いたなら、本伝第1話から順に見ていくのが良い。じきに、全て見終えないうちは死ねないという気持ちになってくるだろう。

人狼 JIN-ROH

【評価:☆☆☆☆☆】
 見るたびに胸が潰れるのでまだ4回しか見ていないが、間違いなく日本の劇場用アニメ史上最高傑作の1本である。
 この作品は、「ケルベロス・サーガ」の一環と見なされることが多いが、気にする必要はない。ケルベロス・サーガとは、押井守が構想した作品群で、第2次大戦で日本がドイツと戦って敗れたパラレルワールドを舞台に、装甲服を着用した警察機動隊(通称ケルベロス)の活動を描くとされる。しかし、実際に押井が手がけた作品は、ケルベロスのほとんど登場しない不出来な実写映画『紅い眼鏡』と『ケルベロス−地獄の番犬』、それに、欧州戦線を背景に兵器に関する蘊蓄が延々と語られるだけの趣味的な作品『ケルベロス 鋼鉄の猟犬』(小説既読、ラジオドラマ版は未聴)のみで、いずれもサーガの辺縁に位置するものでしかない。『立喰師列伝』で言及される立喰師の民族学的研究書と同じように、ケルベロス・サーガも、現実には存在しない架空の作品だと思った方が良い。
 おそらく、全共闘世代である押井には、1960年代の左翼運動がさらに激化したらどうなっていたかという疑問があったのだろう。彼自身は、この疑問と真摯に向き合った作品を手がけることはなかったが、押井から偽の歴史というオブラートにくるんだ原作を提供された若い世代の作家たちは、オブラートをはがして本来の疑問と対峙した。その成果が、マンガ『犬狼伝説』(作画・藤原カムイ;日本出版社1990年版既読)とアニメ『人狼』(監督:沖浦啓之)である。
 『犬狼伝説』や『人狼』で描かれるのは、日本人同士が組織の論理に基づいて殺し合う姿である。エイリアンやカルト教団のような理解不能な敵ではなく、同じ日本人と争わなければならないという状況は、1960年代に現実に起きたことの延長線上にある。
 ここで重要な役割を果たすのが、顔全体を犬を思わせるマスクで覆い、表情を隠してしまう装甲服である。顔の見えない兵士が一般市民を虐殺する姿は、ゴヤの「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」や、『戦艦ポチョムキン』のオデッサ階段のシーンで描かれてきたが、装甲服をまとった機動隊員が銃を撃ちまくる際には、同じような非人間性を感じさせる。ところが、『犬狼伝説』や『人狼』では、装甲服の着脱シーンが繰り返し描かれ、その下に血の通った人間のいることが明らかにされる。人間が人間を殺しているのである。
 それでも、機動隊員が犬(=権力の走狗)というイメージでくくられ、一般市民との対立が明確にされている『犬狼伝説』は、まだ悲劇性が薄い。これに対して、登場人物の立ち位置が二転三転し、かすかな希望すら容赦なく翻弄する『人狼』は、徹底的な悲劇として見る者の心を引き裂く。
 『人狼』というタイトルは、物語終盤で口にされる「われわれは、犬の皮(=犬面の装甲服)をかぶった人間じゃない。人の皮をかぶった狼なのさ」という台詞に由来する。この台詞の真意は1回見ただけでは理解できないかもしれないが、2度3度と見て理解が深まると、そこに秘められた底知れぬ恐ろしさに身震いするだろう。
 押井守の脚本は、知的と言うよりは衒学的で、不条理劇としては面白くてもリアリティに欠ける。沖浦啓之は、これにリアリズムに徹した映像を併せることで、脚本と映像の化学反応を引き起こすことに成功した。ここで言うリアリズムとは、単に1960年頃とおぼしき日本の光景を巧みに再現するといった技巧的なものに留まらない。日本人体型の少女が畳の上に寝そべる姿の官能性や、狼が肉を食いちぎる幻想場面の凄絶さのように、現実を直視することで初めて見えてくるものを忠実に映し出す方法論である。その最高の例が、地下水道で男たちが集まってくるのを少女が見つめるシーンである。その表情は、驚きでも恐れでもなく、ただ呆けているように見える。これがリアリズムというものである。常識的な感情表現にとらわれず、心の底から驚きおののいたときに人がどんな表情になるかを考え抜いた上での作画なのだ。このシーンで少女が何を感じているかに思い至ったとき、私は胸が苦しくてどうしようもなかった。
 2010年4月に池袋・新文芸坐で開催されたケルベロス・サーガ特集を見に行ったときのこと。上映前の座談会で、『人狼』の主人公を演じた藤木義勝がクライマックスについて語るのを聞いた。台詞がなく「嗚咽する」とだけ書かれた台本に困惑しつつ、歯を食いしばって無我夢中で演じた後、藤木は、コントロールルームにいた音響監督から「今、歯が欠けたでしょう」と声を掛けられたという。
 この場面で耳を澄ましてほしい。歯とともに心の砕ける音が、はっきりと聞こえるはずだ。

Fate/stay night

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作(PCゲーム)コンプリート済み 。
 Fateシリーズは、2004年に発売されたPCゲーム『Fate/stay night』に始まる。この作品が絶大な人気を博して記録的な売り上げになったことから、ゲーム(アクションゲームやRPG)、小説、漫画、アニメとマルチメディア展開された。アニメには、最初のPCゲームに基づく2006年のテレビ版と2010年の劇場版(スタッフはテレビ版とほぼ同じ)、スピンオフ小説『Fate/Zero』に基づく2011年のテレビ版、スピンオフ漫画『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ』に基づく2013年のテレビ版と、都合4作品ある(さらなるアニメ化の予定もあり)。特に、2011年の『Fate/Zero』が新たなファン層を開拓したため、Fateシリーズをどの順番で楽しむかが問題になってきた。
 悩ましいのは、『Fate/stay night』と『Fate/Zero』が、互いに相手とネタバレの関係にあることだ。前者は後者のバトルで誰が勝ち残るかを示し、後者は前者で謎とされるセイバーの正体を早々に明かしている。
 私のオススメは、まず、アニメ『Fate/Zero』を見ることである。セイバーが誰かを明かしてはいるが、ゲーム『Fate/stay night』最大の謎であるアーチャーの正体はばらしていない(アニメ『Fate/stay night』の場合、この謎は劇場版で取り上げられる)。小説版『Fate/Zero』も面白いが、表現がやや晦渋なので、先にアニメ版を見た方が楽しめる。
 その次には、アニメ『Fate/stay night』よりも原作のゲームをプレイしてほしい(ただし、PCゲーム版は18禁のエロゲーなので、良い子のみなさんはPS2に移植された骨抜き版で楽しむように)。
 原作のPCゲームに比べると、アニメにはいくつかの欠点がある。
 (1) ゲームは3つの独立したシナリオから構成されるが、アニメでは、このうち初めの2つを混ぜて使っているため、山場がはっきりせず構成の緻密さに欠ける。
 (2) セイバーを萌えアニメ風に造形しており、ゲームでの凛とした美しさ(一部シーンを除く)が失われた。
 (3) 肉体を持っているセイバーには出来ないはずのことを実行するシーンがあり、もともとの設定と矛盾する。
 故国でのセイバーの姿を描いたシーンやゲームのBGMを活用した川井憲次の音楽はなかなかのものだが、アニメ『Fate/Zero』の圧倒的なクォリティと比較すると、どうしても見劣りする。このアニメ単独でなら星3つを付けても良いが、原作から後退した作品は厳しめに評価するという方針に基づいて、2つ星評価としたい。

Fate/Zero

【評価:☆☆☆☆☆】
 テレビ放送版全話視聴済み、原作既読。
 アニメーターがノッている作品はおもしろい。『涼宮ハルヒの憂鬱』『進撃の巨人』『クレヨンしんちゃん アッパレ!戦国大合戦』などは、ジャンルこそ異なれ、良い作品にしようというアニメーターたちの気迫がビシビシと伝わってくる。『Fate/Zero』も同じだ。UHFアニメなので予算は限られ、制作環境も万全ではなかったと推測されるが、その中でこのクォリティを実現したことに、敬意を表したい。
 「過去の英霊をサーバントとして召喚した7人のマスターによる聖杯の争奪戦」という設定は、まるでPCゲームであり、放映開始後の何回かはそれほど凄いとは思わなかったが、第4話「魔槍の刃」におけるセイバーvsランサーの闘いで一気に引き込まれた。アニメのバトルシーンでこれほど燃えたことは、他には『北斗の拳』のジュウザvsラオウ(古っ!!)くらいしか記憶にない。「アスファルトが捲れあがって砂利も同然になっていた足場に、ごくささいな支障があったのだろう。わずかにランサーの下肢に力がこもり、その動きが停滞する。見逃すセイバーではなかった。ばん、と破裂する大気の咆吼。それまで不可視だった黄金の宝剣が、その輝きで夜闇を反転させる」(星海社文庫版第2巻p.94)−−華麗で装飾的な虚淵玄の叙述と比較すると、アニメーターたちが原作を尊重しながら、さらに力強く雄渾に映像化したことがわかる。
 私は、バトルアニメが好きではない。「なぜ闘うか」という根本的な問いが欠落していることもあるが、より気に掛かるのはバトル自体に迫力がない点であり、主に、加速度の表現が不十分なことに起因する。重量のある物体に大きな力が加わると、ゆっくりと動き出し次第に加速されていく。この速度変化が重量感をもたらす。人生体験を積んできた大人ならば、動き始めの段階で次に何が起きるか予測でき、それがカタストロフィだと察した場合は、直ちに恐怖を覚える。9.11テロの光景を生放送で見ていた人は、WTCがゆっくり沈み始めた瞬間、胸に突き刺さるような痛みを感じたはずだ。
 ところが、アニメでは、重量感をもたらすような加速度の表現が難しい。原画の間に動画を入れる中割りで調整しなければならないのだが、現時点では技術的な制約が厳しい(将来的には、加速度表現を容易に実現するソフトが開発されるだろうが)。アニメーターは、激しい動きを表現しようとして、目にも留まらぬ速さで動かしたり、爆発や光の明滅で装飾したりするが、肝心な加速度が描き切れていないので、アイキャッチ効果はあってもエモーションをかきたてるところまではいかない。ビデオゲームばかりしている子供なら面白がるかもしれないが、実体験や映像体験を通じて加速度の持つ意味を了解している大人には通用しない。
 そこで重要になるのが、擬似的な加速度感を生み出す演出である。これがうまくいくかどうかは、原画・動画スタッフの協力体制と、全体を統率する演出家の力量に掛かっているが、『Fate/Zero』は数少ない成功例の一つである。例えば、ライダーがゴルディアス・ホイールを駆ってバーサーカーに立ち向かうシーン。まずスローモーションで神牛を正面から捉えた後、視点を横に移動して、一瞬のスローモーションから疾走までを描ききる。この絶妙な間合いが、チャリオットの巨大な破壊力を実感させる。ライダーvsセイバーのバトルでは、神牛の前足が重々しく宙を掻き、それに呼応するかのようにセイバーはゆっくりとエクスカリバーを振り上げる。力勝負であることを思い知らせる演出だ。
 加速度表現に限らず、『Fate/Zero』のバトルシーンは細部まで神経が行き渡っており、見る者の情念を揺さぶる。後半の大一番となる「最果ての海」(第23話)のバトルは、時間的には短かったものの、描写に力が籠もっているためインパクトは圧倒的だった。ラスト、「忠道、大儀である」の一言が胸を衝く。
 作画の素晴らしさについては、多言を要しないだろう。単に絵が美しいというだけではなく、アニメーターが何を描くべきかを正しく理解しているのだ。前半の白眉「聖杯問答」(第11話)に登場するアイオニオン・ヘタイロイの兵士たちを見よ。彼らの面構えが、英霊としてのライダーの格の高さを物語っている。
 音楽の梶浦由記も最高の仕事をしている。後半のオープニング曲「to the beginning」は、何十回聴いても涙ぐんでしまう名曲である。

涼宮ハルヒの憂鬱(第1期)

【評価:☆☆☆☆☆】
 第1期・第2期全話視聴済み、原作全巻既読。
 2006年に放送が開始されたとき、先入観を持たないように予備知識を入れないまま第1回「朝比奈ミクルの冒険」を見始めた私は、学生の自主制作映画のような映像に愕然とした。しかも、途中であり得ないことが映っていたような…。情報を得ようとネット検索でSOS団のサイトに行き着いたものの、「何だこのしょぼいホームページは」と唖然。その後も、予告でハルヒが口にする「第何話」という告知のズレに憮然、放送第4回でストーリーが突然飛躍して呆然……要するに、スタッフが掘った落とし穴に全て落ちたのである。
 それでも、録画を何度も見返しているうちに、放送第3回(DVD第2話)で長門がキョンに渡す本が『ハイペリオン』であり、その少し前まで読んでいた続編の『ハイペリオンの没落』ではないと気がついたときには、深夜に一人でガッツポーズを取った(挟んだ栞を見せるのが目的なので本は何でも良いのに、初めて渡すのが続編では具合悪いと考えるところが、長門らしい律儀さの現れである)。それ以来、完全にはまってしまい、録画した全28話を延べ百数十回は見ている。最も多いのは「射手座の日」(放送第11回、DVD第12話)で、20回くらい視聴した結果、心眼で長門の微笑みが幻視できるようになった。
 『涼宮ハルヒの憂鬱』は谷川流のライトノベルをアニメ化したものだが、必ずしも原作そのままではなく、アニメーターたちが、さまざまな思いを込めて作品世界を広げている。放送順の入れ替えといった仕掛けも、強い思い入れがもたらした茶目っ気のせいだろう。近年のアニメは、視聴者の好みを想定し、各場面での反応を先読みしながら作っているように見える。ギャグやアクション中心の作品ならばともかく、ストーリー展開のある作品の場合、それでは物語性が希薄になって、どうにも物足りない。これに対して、『ハルヒ』は、視聴者が気づかないような作品世界の細部まで作り込まれ、それに基づいて登場人物の心理が緻密に描かれているので、学園ラブコメであるにもかかわらず、見る者に深い充実感を与えてくれる。
 例を挙げよう。第1期放送最終回で、キョンは「ポニーテイル萌え」で、以前に見たハルヒのポニーテイルが似合っていたと告げる。さて、ハルヒがポニーテイルになったのはどの場面か? 原作では、ハルヒが曜日ごとに髪型を変えるというエピソードの中で、火曜にポニーテイルにすると記されているが、アニメでは、曜日ごとの髪型の中にポニーテイルはない(木曜の髪型は一瞬ポニーテイルに見えるが、フィッシュボーンに編んでいる)。実はその少し前に、原作にないポニーテイルのシーンが追加されており、キョンはそこで見惚れているのである。ポニーテイルが似合うのに頻繁に髪型を変えるのが気になって、一度は厳しく拒絶されたにもかかわらず、懲りずにハルヒに話しかけたわけだ。ところが、キョンのポニーテイル萌えが明かされるのは最終回なので、この時点で、なぜキョンがハルヒに話し掛ける気になったのか、視聴者にはわからない。視聴者にわからない心理の流れをあえてきちんと描写したのは、アニメーター(脚本家か?)が抱く深い思い入れのなせる業であり、さらには、自分たちと同じようにキャラクターを愛する視聴者は、必ずや繰り返し見て、この仕掛けに気づくはずだという予想もあったろう。
 キョンだけではなく、ハルヒの心理描写も秀逸だ。彼女が最も忌み嫌うのは、平凡ということである。成績はトップクラス、スポーツ万能で歌もうまい彼女は、望めば容易に学園の人気者になれる。しかし、それは、地方の一県立高校での出来事にすぎない。世界に膨大な数の人間がいることを肌で実感した経験のあるハルヒは、社会の物差しで計られる限り、たとえ一時的にトップになれたとしても、より広い社会に出ると凡人の大群に紛れてしまうことがわかっている(このことは、放送第13回・DVD第5話で語られる)。社会の物差しでは計れない独自性を獲得しなければと思うのだが、もともと常識人である彼女には、せいぜい変人扱いされる程度のことしかできない。その苛立ちが、彼女を刺々しく見せていたのだ。
 なぜハルヒがキョンに対して心を開いたか、私にはわかるような気がする。「曜日で髪型変えるのは宇宙人対策か?」−−髪型を話題にしながら、タレントやモデルと比較するのでもなく、かわいいとか似合っていないといった常識的な評価でもない。社会の物差しにとらわれることなく、ハルヒがそこに独自性を込めようとした点をピンポイントで突いてきたのである。私がハルヒでも、この一言にはグッとくる。ハルヒは、さらに髪をバッサリと切ってキョンを試した上で、彼が社会の物差しから自由であり、自分を理解してくれる人間だと判断する。
 このハルヒが髪を切るところまでが、第1話(放送では第2回)Aパートの内容である。『涼宮ハルヒの憂鬱』が、いかにみっちりと描き込まれた作品かがわかるだろう。この後、長門・朝比奈さん・古泉ら重要キャラが登場、作品世界は驚くべき拡がりを見せ、心理描写はさらにディープになっていくのだが、それを論じるには作品の本質的な部分に触れる必要があるので、第2期のネタバレレビューとしたい。

涼宮ハルヒの憂鬱(第2期)

【評価:☆☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 『涼宮ハルヒの憂鬱』の特徴は、キョンという語り手の視点で一貫されていることだが、ここで重大な問題が生じる。キョンの語りは、どこまで信用できるかである。
 「信用できない語り手」を意識的に利用した作品としては、ナボコフの小説が有名である。小説『アーダ』の冒頭には『アンナ・カレーニナ』の誤った引用があるが、ロシアからの亡命貴族であるナボコフが自分たちの国民文学を間違えるわけがなく、明らかに、主人公である語り手が信用できないことを示す暗号である。実際、『アーダ』では、地理や歴史の記述が現実と食い違い、真に受けるには妖しくも怪しすぎる情事が語られていく。「語りの騙り」という手法はナボコフのおはこで、『青白い炎』や『ロリータ』でも繰り返される。
 『涼宮ハルヒの憂鬱』で、キョンはハルヒを「稀代の変人」(アニメでの表現)と呼び、自分は「普通の男子高校生」だと語った。キョンが植え付けたこのイメージを、多くの人は深く考えずに信じているようだが、果たしてそうなのか。ナボコフばりの「語りの騙り」にだまされてはいけない。私の見る限り、むしろハルヒの方が普通の女子高校生であり、キョンこそが高校生離れした変人である。
 ハルヒは、抜群の美貌を持ち、成績はトップクラス、スポーツ万能、音楽は演奏も歌も得意だが、詰まるところは、それだけの平凡な少女にすぎない。彼女が奇矯な行動を取るのは、自分が平凡でないことをアピールする場面に限られており、日常生活はごく常識的である(本当の変人は、日常生活からしてずれている)。宇宙人・未来人・超能力者に対する彼女の偏愛をキョンが強調するので錯覚しがちだが、ハルヒ自身は、こうした超常的存在を本気で信じているわけではない。実際、目の前にいるのに見えないという状況は、『ピーターパン』などで描かれた童話の基本設定−−その実在を信じていない大人には妖精が見えないこと−−と同じである。
 一方、キョンは、高校生にはあり得ないような自由な発想をし、社会をシニカルに見つめる隠者の視点を獲得している。外見は派手だが内面は平凡なハルヒが、自分と相補的なキョンに惹かれるのは、きわめて自然である。『涼宮ハルヒの憂鬱』とは、萌えアニメなどではなく、「語りの騙り」のテクニックを華麗に駆使した芸術作品なのである。
 キョンの語りだけではない。原作となる小説『涼宮ハルヒ』シリーズには、登場人物の言葉が信用できないケースが多々ある。ただし、それは意図的と言うよりも、最初の設定に無理があって修正を重ねた結果だろう。シリーズで最初に発表されたのは、短編「涼宮ハルヒの退屈」だが、そこには、長門が普通人の見ている所で超常的な能力を発揮する場面がある。アニメ化されたこの作品を見たとき、他のエピソードと明らかに異質でひどく気になったが、こうした状況が常態化すると、緊迫感が失われてシリーズが長続きしないのは明らかである。作者もそれに気がついたのだろう、その後、長門はキョン以外の普通人の前では能力を発揮しなくなる(コンピ研に対しては、プログラミング技術の極致を示しただけで、超常的な能力は使っていない)。小説『涼宮ハルヒ』シリーズは、当初から綿密に構想されていたのではなく、周囲に宇宙人・未来人・超能力者がいるのに気がつかない脳天気な女の子の話として始まったものが、徐々に修正されて奥深い作品に変貌していったのである。思いっきり風変わりな設定で始まりながら、面白かったのは最初のうちだけ、途中で辻褄が合わなくなり、グダグダ状態に陥ったまま終了した漫画・アニメ・ラノベは少なくない。『涼宮ハルヒ』シリーズにもその危険があったが、幸いキョンの一人称で話を進めていたので、地の文で書いた場合には言い逃れができないような内容でも、語りの虚偽ということで切り抜けていった。
 『涼宮ハルヒの憂鬱』で、古泉は、ハルヒが神のように世界を作り替える能力を持つと説明した。しかし、『涼宮ハルヒの溜息』の終盤になると、宇宙人・未来人・超能力者の各組織が関与する陰謀論が展開され、古泉の説明は必ずしも信用できないことが示される(アニメでは、この場面で明るかった雰囲気が一転して陰鬱になり、見る人に鮮烈な印象を与える)。何も知らされていないように見えた朝比奈さんにも、後付けの設定で、秘められた使命があることになった。さらに最近の作品になると、歴史の作り替えやパラレルワールドへの分岐も可能とされ、語り手がどの世界に属すかによって真実が変わってくる。こうなると、もはやどの語りも信用できず、ほとんど何でもありの状況になる。これでは、作品世界が維持できなくなるのがふつうである。
 ところが、小説はともかく、アニメの世界は盤石である。登場人物に強い思い入れを持つアニメーターたちが個々のキャラクターにアニマ(生命・魂)を吹き込んだ結果、たとえ作品世界が虚偽に満ちているとしても、人物の存在感は揺るぎなく、作品全体を力強く支えるからである。
 このことを如実に示すのが、『エンドレスエイト』(全8話)である。これは、アニメの(鑑賞眼というより)鑑識眼を試される作品だろう。私は、(第1話を除く残りの7話を)何度も繰り返し見ているが、見飽きることがない。それぞれのエピソードには微妙な相違があり、それに応じて、アニマを持ったキャラクターが生き生きと動くからである。特に、第2話の長門が凄い。そこには、虚構の中の真実という芸術の本質にかかわる問題に関して、一つの明確な解答が示されている。

【小論】平凡なハルヒと鬱屈した仲間たち
 アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』は、表面で繰り広げられるSFタッチのラブコメという枠から大きく逸脱し、必ずしも明示されない形で人間の本質に切り込んだ傑作である。
 こうした特色を示す例として、第1話「涼宮ハルヒの憂鬱 I」(話数は第2期での放送順を示す)で、キョンが髪型についてハルヒに話しかけ、それに対してハルヒが独り語りのように答えるシーンを上げたい。キョンは以前に、しょっぱなの自己紹介についてハルヒに問いただし、けんもほろろの応対をされている。なのになぜ、自分でも「魔が差した」と言いながら、「曜日で髪型変えるのは宇宙人対策か?」と尋ねたのか。また、この奇妙な質問に対して、ハルヒはどうして、前とは打って変わった穏やかな態度で答えたのか。
 実は、初めて見たとき、このシーンに胸がキュンキュンして『ハルヒ』に取り憑かれてしまったのだが、これほどまでに心惹かれる理由がわからず、「涼宮ハルヒの憂鬱 I〜VI」を何度もループするうちに、漸くアニメーターの巧妙な企みに気がついた次第である。
 「涼宮ハルヒの憂鬱 VI」の終盤、キョンはハルヒに自分がポニーテイル萌えだと明かし、「いつだったかのお前のポニーテイルは、反則的なまでに似合っていたぞ」と語る。さて、彼はどこでハルヒのポニーテイル姿を見たのか。
 原作では、曜日が進むごとに髪の結び目を増やすと述べた際、結び目1つの火曜日に「どこから見ても非のうちどころのない」ポニーテイルでやってくると記される(角川スニーカー文庫p.23)。ところが、アニメの同じ場面、火曜日のハルヒはポニーテイルでない。その代わり、体育の授業中、ポニーテイルで短距離走をする(原作にない)ハルヒが描かれており、キョンはその姿に見惚れている。
 キョンが懲りずに再度声をかけたのは、ポニーテイルがいちばん似合うのに、それ以外の髪型ばかり選ぶことが気になったからだろう。しかし、キョンのポニーテイル萌えが明らかになるのは(第1期の)最終回なので、はじめて見る視聴者にキョンの心の動きはわからない。このシーンは、キャラに心を奪われ繰り返し見るようなディープなマニア向けの伏線なのである。
 一方、ハルヒがキョンの問いに答える姿には、心の内がにじみ出ている。まず、顔をキョンに向け、少し視線を上げつつ「いつ気付いたの」と言い、キョンの返答に「あっそう」と気がなさそうに横を向くと、ほとんど無表情で語り始める。原作には「面倒くさそうに頬杖をついて」(p.28)とあるが、そうは見えない。
 ハルヒが髪型を変えるのは、そこに自分の独自性を込めようとしたからだが、「どうせアホな男子は真意に気づかないだろう」と見くびっていた節がある。にもかかわらず、キョンは、たった一言でハルヒの狙いを言い当ててしまう。そんな瞬間に、人はどんな表情をするのか。私ならば、動揺を隠すために視線を逸らし、懸命に無関心を装う。ハルヒは、まさにそんな姿を晒したのである。

 アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の面白さは、原作者が充分に顧慮しなかったキャラの内面をアニメーターが深く掘り下げ、丹念に見ればそれとわかるように描き込んだことにある。
 ライトノベル『ハルヒシリーズ』で最初に活字になったのは、短編「涼宮ハルヒの退屈」で、そこに基本プロットの原型が示されていると考えて良いだろう。登場するのは、宇宙人・未来人・超能力者がすぐそばにいるのに気づかず、我が儘に振る舞う自己中心的で脳天気な女の子ハルヒ。彼女の望みを叶えるため、長門が一般人の前で超常的な能力を発揮しているのに、ハルヒは全く無頓着である。笑えることは笑えるものの、さして深みのないSFコメディにすぎない。
 さすがに、作者の谷川流も、これでは物足りないと感じたのだろう、長編『涼宮ハルヒの憂鬱』になると、SOS団結成前の不機嫌で刺々しいハルヒを描写する。しかし、私には、SOS団メンバーをいいように弄ぶ姿との落差がありすぎて、一貫した人間性が感じられない。他のキャラも似たようなもので、原作のストーリーや台詞をそのままなぞってアニメ化したならば、単に笑えるだけの凡庸な作品になったろう。
 石原立也に率いられた京都アニメーションのスタッフは、そんなありきたりのアニメにすることを肯んじなかった。キャラ設定に不自然な断絶がある原作を作り替え、それぞれの人物を統一された人格の持ち主として再構成して見せたのである(私には、キャラごとに専属のアニメーターがいるように感じられたが、実態は不明)。

 ハルヒの場合、原作における分裂した姿は、「思いっきり背伸びをする平凡な少女」という一貫した人物像に変更された。
 ハルヒは、かなりの美貌と優秀な頭脳を持ち、運動能力はトップクラス、歌唱や楽器演奏もこなせる。とは言え、この程度なら、少し偏差値の高い高校には、学年に一人くらいいる人材にすぎない。学生時代は人気者になれるかもしれないが、社会に出ると、凡人の大群に紛れてしまう。ハルヒ自身、平凡であることへの恐れを、第5話「涼宮ハルヒの憂鬱 V」で生々しく語る。
 ところが、平凡さを恐れているにもかかわらず、彼女はどう見ても根っからの常識人で、規格外の非凡な人間ではない。夏休みの宿題は最初の何日かで片付け、きちんと予習・復習をしてテストでは時間を持て余す。第20-24話「涼宮ハルヒの溜息」に登場する自主映画の台本は独創性の欠片もなく、第26話「ライブアライブ」では、ステージで熱唱し歓声を浴びたことが嬉しくて堪らないようだ。ハルヒの平凡さが何よりも明瞭になるのが、第12-19話「エンドレスエイト」(正当に評価されていないが、紛れもない傑作)で、何度チャンスが訪れても、盆踊りとか昆虫採集といった当たり前のイベントしか思いつかないところ。原作の場合、ギャグのネタか、せいぜいハルヒの天真爛漫さを示す事例として扱われるこれらの出来事は、アニメでは、ハルヒの人物像を浮き上がらせる重要なポイントとなる。
 ハルヒがどんな人間かを知る上で、最もわかりやすい手がかりが、彼女が、自身の発言とは裏腹に、宇宙人・未来人・超能力者の実在を信じていない点である。実際、すぐそばにいるのに気がつかないというプロットは、『ピーターパン』などのおとぎ話で、妖精を信じていないと目の前にいても見えない状況と酷似する。「エンドレスエイト」で、「人類が火星に到達したときには、地下に隠れていた火星人が歓迎してくれるはず」と語るハルヒだが、学業トップクラスの高校生が真面目に口にする言葉とも思えず、単に「そうだったらいいのに」という夢想を語っているだけだと知れる。
 自分が平凡でないことをアピールしたいハルヒは、時々、あえて奇矯な行動を取ろうとする。しかし、実際に彼女が行うのは、バニーガール姿でビラ配りをしたり、校庭に宇宙人へのメッセージを記すなど、誰にでも思いつきそうなことでしかない。隠者の視点から世界を見つめるキョンに比べると、なんとも平凡な発想である。平凡でありたくないと足掻き無理に背伸びをするあまり、いかにも非常識そうな行動や宇宙人を信じるそぶりを繰り返す姿は、ちょっと痛々しい。結局、自分の周りに個性的な人材を集め、彼らを防壁とするサークル内で好き勝手に振る舞うだけで、満足してしまう。

 ハルヒに限らず、SOS団のメンバーは、いずれも複雑な人間味を感じさせる。中でも印象的なのは、第24話「涼宮ハルヒの溜息 V」の後半、突然、背後に蠢く陰謀について語り始める古泉の姿。「疲れ気味の皮肉な笑み」(p.256)と記される原作と比べると、アニメの古泉は憔悴しきった様子に描かれており、シーン全体に重苦しい雰囲気が漂う。原作の古泉は、作者を代弁して状況説明をしていたものの、話が長引いて辻褄が合わなくなってきたので、作者がわざと混乱気味の発言をさせたと解釈できる。ところが、アニメになると、本人が実際に混乱しているとしか思えない。耐え難いほど苛酷な役割を背負わされながら、仮面のような笑顔で本心を隠す、影のある高校生の素顔が見える。
 アニメの朝比奈さんや長門も、原作とは異なる鬱屈した内面を垣間見せる。特に劇場版アニメ『涼宮ハルヒの消失』の長門と古泉は、鬼気迫るものがある。

 アニメは、原作者に加えて、複数のアニメーターや声優、音楽家による共同作業を通じて制作されるため、単一のクリエーターが創造する個人芸術に比べて純粋性に欠けると思われるかもしれない。しかし、実は、多人数の参与を通じて内容を膨らませ、豊かな芸術性を獲得することが可能なメディアなのである。『涼宮ハルヒの憂鬱』は、特に傑出した作例である。この作品が、現代の古典として長く愛されることを切に望む。

少女革命ウテナ

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 1997年放送当時に、毎週ワクワクしながら見ていた。放送後は録画したエピソードを何度も見直し、数年後にレンタルビデオで初めから全て再見、10年後にレンタルDVDでまた全て視聴、今年ネット配信で十数話を改めて鑑賞した。これまで見た千本を超えるテレビアニメシリーズの中でも、5指に入るお気に入りである。
 いわゆるセカイ系の典型的な作品。小中高大が併設された学園を舞台としているが、授業シーンはせいぜい体育か調理実習くらい、教師も生徒指導部か管理職の姿がごくまれに描かれるだけ。学園の敷地は異様に広く建物も巨大で、牛を放牧する牧場や秘密の研究所まである。多くの生徒が学外の寮から通ってくるものの、生活感は全くない(細田守が脚本を書いた「若葉繁れる」(第20話)には、珍しく授業の様子や外で買い物をする場面がチラリと登場する)。学園モノではなく、学園が一つのセカイを構成するのである。生活実態が描かれないと、登場人物がステレオタイプ化されて面白みがなくなることが多いが、『ウテナ』では、それぞれの特異な性格と心の闇が濃密に描出され、他に見たことのない独自のセカイとなっている。セカイ全体を描き出そうとする試みは、ピンチョンの全体小説を彷彿とするが、私の見る限り、ピンチョンのどの小説よりも『ウテナ』の方が芸術的完成度が高い。
 全体は4つのパートからなり、第1〜3部末には総集編が挿入される。ただし、第3部末の「夜を走る王子」(第33話)ではラストに衝撃的な展開があり、総集編といえども侮れない(ついでに言えば、第36話末のようなケースがあるので、次回予告も見逃せない)。さらに、第1〜3部には、七実をフィーチャーする思いっきりぶっとんだ番外編が1本ずつ挿入される(「カレーなるハイトリップ」「幸せのカウベル」「七実の卵」)。
 第1部(第1〜13話)は、正義感の強い男装の少女や少女同士の友情、古式に則った決闘など、少女マンガ的な要素が散りばめられた普通に近いアニメである。しかし、サブキャラが決闘に参加する第2部(第14〜24話)に入ると、異常さがエスカレートする。 「黒薔薇の少年たち」(第14話)冒頭に置かれた姫宮の不在シーンから不穏な雰囲気が横溢、根室記念館の屋内に入ってからは、椅子の上に置かれた無数の案内プレート、エレベータの面会室、卵に帰っていく蝶の標本など、『ウテナ』独自のギミックが炸裂し、視る者をトランス状態に陥れる。異常さと美しさが頂点に達するのは最後の2部作「根室記念館」(第22話)と「デュエリストの条件」(第23話)である。第2部には謎が多く、難解だとも言われる(例えば、根室記念館に関するミッキーの説明が、はじめと終わりで全く異なるのはなぜか?)。だが、「デュエリストの条件」のラストでは、映像にはっきり描かれていても事実とは限らないこと、このセカイが欺瞞に満ちていることが示されており、その点に注意すれば、悩むほど難解ではない。
 第3部(第25〜33話)では、第1部に続いて生徒会メンバーとの決闘が描かれるが、そこに秘められた情念の濃密さは尋常でない。特に、全編を通じて私が最も好きなエピソードである「空より淡き瑠璃色の」(第29話)はすさまじい(絵コンテは細田守)。決闘のラスト、樹璃が踊るような足取りで決闘広場を歩み出るシーンは、何度見ても泣いてしまう。突然の豪雨の中、近づいた瑠果は「樹璃、心配ない。心配ない、樹璃」と呟く。この場面ではわからないが、次の病院のシーンで呟きの背後にあった情念が明らかになると、また胸を掻きむしられる。それに続く樹璃のモノローグは、一言も聞き逃さないようにしてほしい。
 第4部(第34〜39話)は、もうドロドロである。テレビ東京は、こんなアニメを、よくも平日の夕方に放映したものだ(子供が見てトラウマになっていないか心配だ)。1970年代、萩尾望都や竹宮恵子らによる少年愛のシーンを堂々と掲載し、文化人まで巻き込んだ少女マンガブームをもたらしたのが別冊少女コミックだが、1990年代のテレビ東京は、テレビアニメ界で別冊少女コミックの役割を果たしていた。ポケモンショックを機に自主規制が厳しくなったのが残念の極みである。
 『ウテナ』には、少女マンガとともに1970年代にブームとなった小劇場演劇の影響が色濃い。私は、寺山修司や唐十郎の舞台を見る機会こそなかったが、彼らの影響を受けた月蝕歌劇団や新宿梁山泊は見ている(月蝕歌劇団では、かぶりつきで見ていて頭から血糊を浴びるという貴重な体験をした)。これらの舞台は、高踏的な台詞や虚実の境界を無視したドラマツルギーなどの多くの点で『ウテナ』と共通する。『ウテナ』では、劇団・天井桟敷で寺山修司と共同作業をしたJ.A.シーザーが音楽を担当、小劇場独特の雰囲気を盛り上げた。戦後日本文化の最も独創的な成果は少女マンガと小劇場演劇だと思うが、『ウテナ』は、この2つを合体させて、比類ない高みに到達したと言えよう。
 後半のエンディング(影絵風のアニメ+上谷麻紀が歌うJ.A.シーザーの「バーチャルスター発生学」)は、私がこれまで見た最高のエンディングである。

serial experiments lain

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、同時にマルチメディア展開された他の作品は見ていない。
 深夜アニメ黎明期の秀作。私は、1997年の『吸血姫美夕』辺りから深夜アニメを見るようになったが、質的に平日夕方のアニメに及ばないと感じていた。しかし、翌年『美夕』と同じ枠で『時空転抄ナスカ』に続いて始まった『lain』の登場により、深夜アニメの進化に瞠目させられる。マニアックで難解な『lain』は、『新世紀エヴァンゲリオン』『少女革命ウテナ』とともに、私の中で「ヤバいアニメはテレビ東京」というイメージを定着させるきっかけともなった。
 当時は、Windows95の発売を機に、一般の人が趣味でPCを使い始めた時期である。スマートフォンのような携帯用の小型コンピュータが普及した現在、『lain』で描かれるPCの使い方−−大型のデスクトップを何台も重ねたり、エンドユーザがマシンの蓋を開けて改造したりする−−は異様に思えるかもしれないが、あの頃のPC愛好家にとってはごく普通の行為だった。そうした中で、ネットにアクセスすると人格が変化するという現象に、社会心理学的な注目が向けられるようになる。現在でも電子掲示板やブログのコメント欄で見られることだが、相手の反応が窺えない状況で書き込みを行う際には、攻撃的で下品なペルソナ(=仮面、表面的な人格)が形成されやすい。『lain』は、こうした“ネット人格”が、もう一人の自分として登場する恐怖譚である。
 主人公・玲音(れいん)は、おとなしく化粧っけのない中学生だが、ある時、自分とそっくりの容姿ながら、派手で勝ち気な少女がディスコに出入りしていることを知らされる。それ以来、リアルとワイヤード(wired; 相互に連結されたネットの世界)の境界が曖昧になり、異様な事件が次々と起こり始める。
 ネット内部に現実と同じくらい現実的な世界が構築され、そこで普段とは異なる自分が活躍するという話ならば、『.hack//』シリーズや『ソードアート・オンライン』にもつながるもので、さして斬新ではない。『lain』の怖さは、ネット人格の具現をきっかけに、現実の方が徐々に壊れ虚構化されていくところにある。玲音の部屋がマシンで埋め尽くされたり、家族が突然驚くべき告白を始めたりするのは、果たして現実なのか? そもそも、われわれが現実と呼んでいるものは、ワイヤード以上にリアルなのか?
 こうした現実の虚構化は、実は、孤独な人間の願望でもある。現実でコミュニケーション不全を起こし疎外感に苦しむ人には、やむを得ず被っている社会人としてのペルソナを捨てたい、いや、現実そのものがワイヤードに変容してほしいという思いが、常につきまとっているだろう。だが、『lain』の中で待っているのは、現実が完全には変容しきれないという宙ぶらりんの事態である。
 ある日、登校した玲音は、自分の席がなくなり、クラスメートから完全に無視されていることに気がつく。「あたしリアルだよ、あたし生きてるよ、あたしここにいるんだよ」−−そう繰り返しても、誰も反応しない。最後に、彼女はポツリと呟く。「あたしが肉体を持ってちゃいけないのかな」
 私にとって、『lain』は途轍もなく怖い作品である。その怖さは尾を引き、多分、死ぬまで忘れられないだろう。

灰羽連盟

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読(原作が載った安部吉俊の同人誌は、今や入手困難である)。
 ヨーロッパの古都を思わせる小さな町を舞台に、灰羽(はいばね)と呼ばれる不思議な存在の生活が描かれる。灰羽は、どこからともなく現れる巨大な繭から子供の姿で生まれてくる。頭に光輪をいただき背中に小さな羽が生えた外見は天使に似ているが、羽は純白ではなく灰色にくすんでいる。生まれる以前の記憶はなく、繭の中で見た夢に基づいて名前が付けられる。何人か集まって共同生活をしながら町で働いており、光輪と羽を除けば、ふつうの人間とほとんど変わりない。だが、“巣立ち”の時が来ると、人知れずひっそりと消えていく。
 主人公のラッカは、灰羽とは何かを何度も自問するが、答えが出ない。「私はずっと、この町は楽園なのだと思っていた。でも、みんなこんなにも優しく、誰かのために精一杯生きているのに、悲しいことは起きる。呪いを受け、苦しむ者もいる。灰羽って何だろう」
 『灰羽連盟』は、寓意性はあっても寓話ではなく、シンボリズムとリアリズムが程良く調和している。灰羽たちは、仕事をしても給料はもらえず、店での支払いの際には、灰羽連盟から支給される灰羽手帳のページを破って証文とする。新しい服を買うことは許されず、古着屋で古着を分けてもらわなければならない。こうした設定は、異界からの来訪者を敬遠しながらもてなすという多くの民族に共通する民話を連想させるが、『灰羽連盟』に登場する町の住民は、民話の世界よりももう少し親密で、冬なのにサンダル履きなのを見てブーツをプレゼントする古着屋や、好奇心から光輪を指でつつく女性も登場する。視聴している方も、いつしか灰羽を身近に感じるようになっており、こうした場面では、胸が熱くなったりイラッとしたりする。
 灰羽が身近に感じられるのは、衣食住がきちんと描写されているからでもある。例えば、仲間といるのがいたたまれなくなったラッカが、町で一人食事を摂るシーン。ここで、豆のスープ(テイクアウト用の竹の器に入っていて美味しそう!)が描かれる。このスープがなくても話の上で何の支障もないが、これがあることによってリアリティが増し、引き続いて起きる出来事の痛切さが身に沁みる。
 大きな事件もないまま淡々と進んできたストーリーは、第6話後半から悲しくも荘厳な展開となる。遺跡の前で灰羽たちが頭をうなだれる傍ら、レキが一人ポツンと佇むシーン。あるいは、カラスに導かれるまま、ラッカが涸れ井戸に降りていくシーン。そんなことは決してないはずなのに、自分も同じ体験をしたという思いにとらわれ、悲しみの思いがこみ上げる。
 終盤には、ラッカとレキの苦悩と救済がテーマとなる。はっきりとは描かれないが、この二人は、灰羽として転生する以前、どうしようもないほどの孤独の中にいたらしい。それでも、ラッカにはまだ手を差し延べる人が近くにいたが、レキには誰もいなかった。繭の夢に現れる石ころだらけの道とは何か、レキという名前は本当は何を意味するのか−−この謎が明かされる最終回は、かなり衝撃的である。いつまでも眠っていたというネムや、川魚のように泳いでいたというカナの夢にも不吉な連想が生じ、灰羽が途轍もない重荷を背負っていることが感じられる。それと同時に、彼女たちを救うには何が必要か、灰羽を守るという町がなぜ存在するかもわかってくる。
 アニメは、繊細な芸術である。多くのスタッフがあれこれ手出しするので、作品の世界観に共鳴しない人がいると、些細なことで壊れてしまう。しかし、優れた原作に打たれたスタッフが心を一つにして丹念に制作したとき、奇跡のような傑作が生まれることがある。『灰羽連盟』とは、そうした作品である。これを見ることができる幸せを、しみじみと噛みしめてほしい。

【補記】2002年、フジテレビで『灰羽連盟』が深夜アニメとして放映されたとき、VHSで予約録画して見ていたが、何度か放送中止になった後、やけに話が飛躍するようになり、しかも、アレッと思うほど少ない回数で終了してしまった。だいぶ後になって、同じ夜に2話連続で放送されたことが複数回あったと耳にし、DVDレンタルで全回を視聴して、ようやく真の姿を知ることができた。フジテレビは、他にも、楽しく見ていた『蟲師』や『サムライチャンプルー』を途中で打ち切ったことがある。今でこそノイタミナ枠を設けて深夜アニメに力を入れているように見せかけているが、アニメファンは、フジテレビの黒歴史を決して忘れない。

【追加レビュー】奇跡のような傑作

 2002年の初放送以来、DVDや動画配信で繰り返し鑑賞したが、何度目であっても、数分おきに涙ぐみ、時には、抑えきれずにポロポロと涙をこぼしながら見た。もし、無人島に島流しされるとき、アニメを1本持参して良いと言われたら、この作品か『青い花』を携えて行く(あ、でも、無人島でどうやって視よう)。
 物語は、周囲を高い壁に囲まれた古風なグリの街を舞台に、一般の人間に混じって生きる灰羽たちの日常を描き出す。灰羽とは、人間の少年少女とほとんど変わらない外見で、ただ、天使のような光輪と羽を持つ存在。しかし、その羽は、天使の純白ではなく、灰色にくすんでいる。灰羽たちは、巨大な繭からさまざまな年齢の姿で誕生するものの、過去の記憶はない。人間社会で穏やかに暮らしながら、いつしかひっそりと消えていく。

 『灰羽連盟』の素晴らしさは、シンボリズムとリアリズムの絶妙な調和にある。
 グリの街には、灰羽たちを支援する組織・灰羽連盟があり、さまざまなルールが定められている。例えば、灰羽は新しい服を着ることが許されず、古着屋で入手しなければならない。金銭は使えず、買い物には、連盟が支給する灰羽手帳のページを破って証文とする。社会から守られながらも行動が制約される姿は、民俗学で謂う所の「まれびと」を連想させる。そうしたシンボリックな側面を持つ一方で、灰羽たちは、ケーキが好きでニンジン嫌いだったり、急に寒くなると風邪を引いたりと、実に人間的だ。
 文学に馴染みのない視聴者は、象徴的な作品に接するときのスタンスがわかりにくいかもしれないが、この手の作品は、鑑賞する側が自由に解釈してかまわない。ミステリ的な作品ならば、作者が用意した“真相”がある。文学で言えば、エーコ『フーコーの振り子』やナボコフ『ロリータ』は、随所に伏線が張り巡らされており、読者がそれを読み解かないと、秘められた真実に驚愕できない。
 これに対して、象徴的な作品には、真相や正解がない。カフカ『審判』のヨーゼフ・Kは罪を犯したのか、ホフマンスタール/シュトラウス『影のない女』で影がないことと子供が産めないことにどんな関係があるのか−−あれこれ詮索しても、納得のいく答えは得られないだろう。『灰羽連盟』も同様である。
 もっとも、真相や正解がないとしても、表現されたものの背後に「何かがあるのでは」と思いを巡らすことは、豊かな人生体験となる。ラッカがセーラー服に似たワンピースを選んだのはなぜか、壁の中の水路で流されるとどこに行き着くのか−−自分がその場にいて登場人物と同じ体験をするところをイメージすると、さまざまな思いが沸く。そうした思いは、決して“正解”ではないだろうが、作品世界の拡がりを感じさせるとともに、作品の内側から実人生を観照する方途を示してくれる。
 見る者に多くの思いを抱かせるのは、作品が持つリアリティの賜である。『灰羽連盟』では、衣食住の細部に至るまできちんと描写されるので、視聴者は、実体験と結びつけながら、自然と作品世界に没入できる。例えば、ラッカが初めて古着屋を訪れたとき。箱に詰められた古着の山をあさる灰羽たちの脇で、吊しの服を選ぶラッカの戸惑いが微笑ましい。あるいは、クウの部屋を掃除していたラッカが、ふと机の上を撫でると、指先に埃が付くシーン。その瞬間、非情な時間の流れが感じられ、胸が詰まる。
 特に私が好きなのは、第7話に登場する豆のスープ。クウが働いていたカフェの店主が、テイクアウト用の竹の容器に注いでくれたもので、何とも美味しそう。このスープにリアリティが感じられるからこそ、続くシーンのどうしようもない悲しさが心を打つ。

 『灰羽連盟』の作画は実に繊細で、同時に力強い。例えば、月明かりの下、ラッカがバルコニーで物思いに耽るシーン(第5話)。薄暗い背景に比べて、中央はくっきりと影を映すほどの月明かりが冴え、佇むラッカの姿を優しく浮き上がらせる。制作状況が逼迫して慌ただしく描いたのか、シリーズ後半では、時に人物の描線がゆがむこともあるが、「これを表現したい」というアニメーターの思いが画の隅々にまで溢れているので、気にならない(逆に、表面だけ派手に美しく描いても、何を表現したいのかわからない画は、下手だと思える)。
 音楽も素晴らしい。深い象徴性を持つ場面には、押しつけがましくない、心をそっと撫でていくような音楽が付随する。灰羽が西の森に足を踏み入れるシーンが何回かあるが、5人の灰羽が遺跡を訪れる場面(第5話)では荘重な管弦楽が、ラッカが鳥に誘われるように迷い込む場面(第8話)では不安を感じさせる独奏ピアノ風の音楽が、いつまでも鳴り続ける。

 優れた芸術作品は、個人作家が自分の内奥の最も深いところから生み出すという考え方があるが、偏見に過ぎない。多くのスタッフの共同作業であっても、全員が心を一つにして制作したときには、奇跡のような傑作が生まれることがある。『灰羽連盟』は、そうした作品である。これを見ることができる幸せを、噛みしめてほしい。

BLOOD THE LAST VAMPIRE

【評価:☆☆☆☆】
 第4回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞受賞作。当時はまだメディア芸術祭の知名度が低く、上映会会場はガラガラだったが、この1作でBloodシリーズの礎が築かれた記念碑的作品である。
 元になるアイデアがどのように生まれたかは、『神山健治の映画は撮ったことがない』(INFASパブリケーションズ )のLesson3 「企画の正体」や、aniplexのホームページに掲載された神山健治と藤咲淳一の対談に記されている。それによると、プロダクションIG内で開催された押井守主催のワークショップ「押井塾」(神山曰く「押井の暇つぶし」)で、毎週出されるテーマに沿って企画書を提出するという試みが行われており、テーマ「ヒットラー」に対する藤咲の「四丁目のヒトラーくん」や、テーマ「ロボット」に対する神山の「活断層戦士プルバイス」(主役ロボットが一歩も歩けないらしい)など、中身が知りたくなる企画書が次々と提出されていた。そんな中、テーマ「伝奇」に対して藤咲が提出したのが「月光鬼譚」という企画で、セーラー服を着た少女が日本刀でモンスターを倒すというもの。これに押井が関心を持ち、関連させて出したテーマ「吸血鬼」に対して、神山が「LAST VAMPIRE Desmodus rotundus」という企画を提出する。従来の吸血鬼物語がファンタジー色の濃厚なロマンだったのを改め、人類と共進化し人間に擬態する生物としての吸血鬼像を示した(Desmodus rotundus は吸血コウモリの学名)。この2つはモノになるということで企画を練り上げるための合宿が開催されたが、アドバイザーとして参加した北久保弘之と押井が熱い議論を闘わせて、神山と藤咲が口を挟む余地はほとんどなかったようだ。結局、北久保と押井が2つを合体させたプロットを作り、それに基づいて神山が脚本の第1稿を2週間で仕上げたという。
 企画の成立過程からもわかるように、『BLOOD THE LAST VAMPIRE』には、2つの異質なアイデアが盛り込まれている。1つは、夢枕獏・菊池秀行・半村良を読みまくったという藤咲の妖艶な伝奇ロマン。もう1つは、吸血鬼(翼手)の生物としての側面を追求した神山のハードSF。本来なら水と油のアイデアを、監督を務めた北久保が息もつかせぬアクションを媒介として強引にまとめたが、結果的に、これが謎めいた雰囲気が漂う緊迫した物語を生み出すことになった。
 成功の鍵は、くだくだしい説明を避けたこと。日本刀を持つ少女(小夜)については、作品が始まってすぐに登場人物が口にする「残った唯一のオリジナル」という一言だけで、それ以上の説明はいっさいない。この一言にゾクゾクし、これだけで充分だと感じる人は、作品世界にすんなりと入っていけるだろう(そうでなければ、ノンストップの展開に置いてけぼりにされる)。ラスト近くでの翼手と小夜の意味ありげな交流は、SFマインドを持つ視聴者の想像力をかき立てる。
 …と言うことで、ストーリーとアクションは素晴らしいのだが、一昔前のアメリカのカートゥーンを意識したようなキャラクターデザインは、どうしても馴染めなかった。特に、小夜がかわいくないのが私にとって致命的で、あのタラコ唇は何とかならないかというのが、正直な感想である。もっとも、この作品はアメリカでは高く評価されており、タランティーノもファンらしい。そう言えば、『ピーターパン』のティンカーベルもタラコ唇だが、アメリカ人には、あれがキュートに見えるのだろうか?

BLOOD+

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 BLOODシリーズ第2作。第1作の劇場用アニメ『BLOOD THE LAST VAMPIRE』のレビューでも書いたが、BLOODシリーズのアイデアは、翼手と呼ばれる吸血鬼の生物としての側面に注目した神山健治のハードSFと、セーラー服の少女・小夜が日本刀でモンスターを倒すという藤咲淳一の伝奇ロマンを合体させたもので、劇場用アニメならばノンストップ・アクションによって強引に一つにまとめることもできる。しかし、全50話のシリーズとなると、視聴者の疑問に答えるために、具体的な説明を加えながら話を展開しなければならない。その結果、『BLOOD+』は、神山のハードSFと藤咲の伝奇ロマンの相性の悪さが表面化し、パッチワーク的な様相を呈することになった。これを、「多面性のある面白い作品」と感じられる人もいるだろうが、私は、どうにも収まりの悪さを覚えてしまう。
 1年にわたる長丁場をもたせるために、『BLOOD+』の舞台は、沖縄−ベトナム−ロシア−フランス−イギリス−アメリカと転々と変わり、そのたびに、新たな登場人物が導入される。このうち、沖縄編とベトナム編の後半が、主に神山のアイデアに基づいており、人間に擬態する翼手の恐怖と、これを兵器として利用しようとするアメリカ軍の陰謀が描かれる。硬派のアニメファンには、この部分が最も面白いだろう。
 ベトナム編前半とロシア編以降は、監督・シリーズ構成を担当した藤咲流の伝奇ロマンである。私には、名門女子校で起きる怪事件を扱ったベトナム編前半「ファントム・オブ・ザ・スクール」(第8話)〜「ダンスのあとで」(第11話)が、特に楽しめた。美しい吸血鬼や青いバラといった耽美的なゴシックロマンの世界に、ベトナム戦争の惨劇が交錯する。「ダンスのあとで」に登場する血染めのパーティドレスをまとった小夜の姿は、ゾクゾクするほど妖しい。もしかしたら、萩尾望都の吸血鬼漫画『ポーの一族』が好きだという押井守(企画協力)が、何らかのサジェスチョンをしたのかもしれない。『ポーの一族』は、全寮制の学園やバラのイメージなどの点で、ベトナム編前半と共通するものがある。
 ロシア編もそこそこに面白く、中でも「約束おぼえてる?」(第17話)は、作劇上のトリックも効いて興味深かったが、私が『BLOOD+』に惹かれたのはここまで。これ以降の展開は、どうにも馴染めなかった。
 神山と藤咲のアイデアはもともと水と油で、両者の対立が緊迫感の源泉になるのであり、無理に調和させようとして過剰な説明を追加していくと、作品が平板化してしまう。『BLOOD+』の後半では、翼手に生じる遺伝子変異についての擬似科学的説明や、それを利用して生物兵器を作り出す陰謀が語られるが、やはり謎は解かれない方が面白いと実感させられる。翼手の女王や彼女を守るシュヴァリエたちを頻繁に登場させたことは、ストーリーを華やかにはしたが、謎めいた伝奇ロマンがありきたりの因縁話に堕してしまった。ことに残念だったのは、シフのエピソードである。日光に弱く死の運命を背負ったシフたちは、主役を張れるキャラクターであったにもかかわらず、ディーヴァと小夜の対決を描くストーリーの脇役として登場したため、充分に活躍の場が与えられないまま退場させられたという感が強い。
 個人的な感想を言わせていただければ、4クール50話はあまりに長すぎた。2クールにまとめていれば、もっと緻密で心を揺さぶる話になったかもしれない。

BLOOD-C

【評価:☆】
 全話視聴済み。
 私は辛口批評は嫌いで、つまらないアニメは単に無視するだけだが、きちんと批判しなければならない場合は、容赦しない。『BLOOD-C』には、以下に示すように、批判すべき理由がいくつもある。
(1) BLOODシリーズを標榜してはいるが、完全な別作品である。
 シリーズ第1作『BLOOD THE LAST VAMPIRE』のレビューでも書いたが、このシリーズは、吸血鬼の生物としての側面に注目した神山健治のハードSFと、セーラー服の少女・小夜が日本刀でモンスターを倒すという藤咲淳一の伝奇ロマンを合体させたところから生まれており、両者の間に生じる緊迫感が要となる。ところが、小夜の戦う相手が「古きもの」と呼ばれる未知の怪物である『BLOOD-C』には、神山のアイデアは全く生かされておらず、「日本刀でモンスターと戦う少女」というよくある設定を踏襲しただけであり、BLOODの名を冠したことは、完全な羊頭狗肉である。
 『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、国内で文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞をはじめとするいくつもの賞を獲得しただけでなく、海外でも高く評価され、アニー賞にノミネートされた。また、香港・フランス共同制作で『ラスト・ブラッド』なる実写版も作られた。おそらく、そうしたことがきっかけになったのだろう、『BLOOD-C』の劇場版に対しては、文化庁の国際共同製作映画支援事業の対象作品として5000万円の補助金が支出された。この支出の不透明さに関しては、もう少し議論されても良い。
(2) 萌えとスプラッタを安易に混淆している。
 『BLOOD-C』は、メガネを掛けたドジッ娘が登場して萌えアニメ風に始まるものの、しだいに血しぶきが飛び散るスプラッタシーンが多くなり、終盤は完全なグロアニメと化す。萌えとスプラッタを併せたアニメとしては、2004年の『エルフェンリート』(最初の2話しか見ていないが、思い出すだけでムカムカする嫌な作品だ)が有名だが、最近、この手の作品が増えているのは、『魔法少女まどか☆マギカ』のヒットがきっかけになっていると思われる。ただし、『まどマギ』は、絵柄とオープニングアニメで視聴者を錯覚させているだけで、内容自体は冒頭から沈鬱である。萌えと残虐さを混淆させているわけではなく、ましてや、スプラッタシーンはない。
 「アニメで血を流すのはダメ」とは言わない。流血に必然性があり、信念を持ってそれを描くならば、優れたシーンになり得る。『進撃の巨人』では、人類が捕食対象になることの意味を考えさせるため、『BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail』では、暴虐さを正当化する正義があり得るかどうかを問い質すために、流血シーンが必要である。しかし、『BLOOD-C』にそうした必然性はなく、単なる扇情的な見せ物にすぎない。
(3) クリーチャの造形にばかり腐心して脚本がおざなりである。
 『BLOOD-C』の制作には、女性漫画家集団CLAMPが参加しており、脚本は、CLAMPのライター大川七瀬の手になる。大川は、ミスリードのうまい作家で、終盤で意表をつく展開になることが多い。気心の知れた漫画家たちと一緒に仕事をするときには、『東京BABYLON』など、きちんと伏線を張ったなかなか優れた作品をものする。しかし、オリジナルアニメということでスタッフとの連携が取れなかったのか、『BLOOD-C』の場合、伏線はずさんで、どんでん返しと言うよりも単に前提をひっくり返しただけである。
 主旨不明の脚本にノレなかったのだろう、置いてけぼりにされたアニメーターたちは、クリーチャの造形にばかり凝るようになる。ここで造形美と言えるものがあれば少しは救いになるのだが、次々に登場するのは、統一性のない、ちょっと風変わりな怪物でしかない。
 『BLOOD-C』は、こんなものを作っていたら日本のアニメはダメになるという見本のような作品である。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない(第1期)

【評価:☆☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 第1期全話視聴済み、原作一部既読。
 2010年、全12話のアニメ(第1期と呼ぼう)として放送され充分に楽しんだ作品だが、12年に、第1期から第7-8話を削除し、第12話の別バージョンと新たな3話を追加したスペシャル版(新作部分は前年にWeb配信されたもの)が、13年には第2期13話がテレビ放送され(追加3話が後にWeb配信された)、第1期と人物設定がかなり異なっていることに混乱した。その後、原作何冊かと脚本家のインタビュー記事を読んで、ようやく作品成立のからくりがわかってきたので、その点をレビューしたい。
 原作となる伏見つかさのライトノベルは、優秀過ぎる妹にアンビヴァレントな感情を抱く兄・京介と、兄を邪険に扱いながらも抑圧された想いが見え隠れする妹・桐乃の関係を軸とする、インセスト・タブーをはらんだコメディである。物語は、京介が桐乃のオタク趣味(特に妹もののエロゲーが好き)に気づいたことから動き出す。当初は、兄が妹を応援する話として順調に進んでいくが、登場人物が増えるにつれて、ストーリーは次第に支離滅裂でアブないものになっていく。
 いろいろな意味で問題の多いこの小説をアニメ化するに当たり、制作サイドは、脚本家として倉田英之に白羽の矢を立てた。倉田は、短い台詞の中に人間性を浮き上がらせるのが巧みな名脚本家で、『かみちゅ!』のゆりえや『神のみぞ知るセカイ』の栞のように、内気で口べたな少女を描かせたら右に出る者はいない。
 倉田がどのような方針で脚本を執筆したかは、「ウェブニュータイプ」のホームページに掲載されたインタビュー記事「【短期集中連載】脚本家・倉田英之」(2011.03.01-2011.04.01)から見て取れる。それによると、倉田は、最初に依頼された段階では、ラストの落としどころが見えないなどの理由でいったん断ったものの、その後に出た原作第4巻が面白く、桐乃のアメリカ留学を巡る話でシリーズをまとめられると判断して引き受けたという。ただし、原作に惚れ込んだわけではない。別のアニメに関するエピソードとして、「(脚本依頼に対して)もしやるとしたら、原作から変わっちゃいますよ、っていう。もう、まったく『俺の妹』と同じ流れなんですけど」と語っていることから、原作の改変は最初から意図していたようだ。
 原作における兄と妹の抑圧された感情は、主に、京介の内的独白によって(本人は気づいていないが読者にはそれとわかる形で)語られる。しかし、自身で妹属性がないと語る倉田の脚本では、内的独白は大幅に削られ、桐乃は単にわがままで独りよがりの妹に、京介はふつうに妹思いの兄になっている。その結果、インセスト・タブーに由来する緊張感が薄められたが、それを補うように、脇役の人間性が深く掘り下げられている。いかにもババくさい女子高生から、地味だが実務と人間観察に優れた知性あふれる女性へと変貌を遂げた麻奈実をはじめ、多くのキャラ設定が原作から変えられた(あやせに至っては、もはや別人である)。
 こうした設定変更によって桐乃に並ぶ第2のヒロインとなったのが、黒猫である。原作では、ネコ耳姿でウッーウッーウマウマ(←何のことかわからずネット検索で調べて納得)を踊ってニコニコ動画に投稿するなど、ライトなサブカル全般に関心を示すオタク少女だったが、アニメでは、そうした属性の大部分が削除され、ディープなファンタジー愛好家として描かれている(対戦ゲームに強いという設定だけは、第4話で必要になるため残された)。中学生離れした教養と文章力を持ちながら、ファンタジー世界に過剰にのめり込むあまり、現実と協調できない。孤高と言うには痛々しすぎるその姿は、(私を含む)あるタイプの人の深い共感を呼ばずにはいない。
 桐乃に対する黒猫の心情は、かなり微妙である。このことは、第7話Aパートでの桐乃と黒猫の台詞から窺える。「あの黒猫…クソ猫が」とわざわざ言い直したことからわかるように、黒猫に対する桐乃の悪態は、意識的にそう装わなければならないもので、本心ではない。一方、黒猫はと言うと、メルルの過激な映像に京介が「やばくねこれ!? こんなもんテレビで流していいの!?」と慌てたとき、「これはDVD版だけど、放送版では大量のリボンが幼女の裸身を隠したそうよ」と発言して、桐乃から「幼女って言うなー」と返されている。爆笑できる台詞だが、指摘は的確で、しかも悪意が感じられる(原作ではその場に桐乃はおらず、幼女という語も使われない)。原作と比較するとわかるが、桐乃に対する黒猫の台詞は、全般に、より過激で棘のあるものに変えられている。後に、アニメのオリジナルエピソードである第8話で、黒猫の胸の内に桐乃に対する嫉妬が隠されていたことが判明し、彼女の言動の意味がはっきりする。
 アニメ第8話に相当する原作のエピソードでは、自分の書いた小説(マスケラの二次創作物)をプロの編集者に手厳しく批判され、黒猫が泣き出すシーンがある。原作者は、どうもあまり黒猫に共感していないようだ。だが、アニメ(第1期)の黒猫は、どんなときにも矜持を失わず、毅然として自分の道を貫き通す。そこには、脚本を書いた倉田の強い思いが感じられる。
 私から見ると、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の面白さの半分以上は、倉田の脚本に由来する。それだけに、倉田の寄与が大幅に減った第2期の出来は、実に残念である。

【小論】原作者と脚本家の狭間で…
 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(第1期)』は、さして面白くない原作を、脚本家とアニメーターが力業で傑作に変貌させた作品である。ただし、第1期の成功を受けて制作された第2期は、同じスタッフの作品とは思えないほどだらしなく、まるで緊張の糸が切れたかのようだ。
 ここでは、第1期で原作がどのように作り替えられたかを中心にレビューし、併せて、第2期制作に際して何が起きたかについても触れたい。

【原作とアニメ脚本の関係】
 原作となった伏見つかさの同名ライトノベルは、読者からかなり支持されていたものの、アニメ化する上で多くの問題を抱えていた。インセスト・タブーに触れそうな兄妹関係がメインプロットで、美少女たちによるハーレム展開がサイドストーリーとして加わる。おまけに、妹萌えエロゲーに対する偏愛とオタクたちのディープな生態の描写…。原作では、こうしたアブない要素は、主人公・京介の一人語りを通じて間接的に表現されるため、笑いを誘うキッチュなものとして扱うことができたが、映像を伴うアニメで描くにはどうすれば良いのか。
 そこで白羽の矢が立ったのが、『かみちゅ!』『かんなぎ』で知られる名脚本家の倉田英之。当初、倉田は「落とし所が見えない」などの理由でいったん執筆を断るが、その後に出版された第4巻のエピソードを使って話をまとめられると判断し、最終的には引き受ける(【短期集中連載】脚本家・倉田英之|WebNewtype)。ただし、原作に惚れ込んだ訳ではない。「もしやるとしたら、原作から変わっちゃいますよ」との条件付きである。
 その言葉通り、「妹属性がない」と自認する倉田は、本質的な部分で改変を行った。
 原作では、優秀すぎる妹・桐乃に対する兄・京介のアンビヴァレントな感情が、しだいに歪んだ愛情へと変質していくが、アニメの京介は、(第8話や第11話で明確に示されるように)ふつうに妹思いの兄でしかない。一方、兄を邪険に扱いながらも抑圧された想いが見え隠れする原作の桐乃は、思春期によく見られる自己表現の下手な女の子に変更された。その結果、原作のメインプロットだった兄妹関係は遥かにマイルドなものとなる。インセスト・タブーを覆い隠すのに必要だった京介の独白は大部分が削られ、文庫本4冊分を併せても1クールに届かなくなって、オリジナル・エピソードが2話加えられた。
 兄妹の親しすぎる関係を描くことは、真剣ささえ失わなければ、かまわないと考える。アニメでは、『true tears』や『恋風』が、この問題を真剣に取り上げた秀作である。ほかのジャンルに目を向けると、山岸凉子『日出処の天子』、今村昌平『神々の深き欲望』、トマス・マン『選ばれし人』など、数多くの傑作がある(最後の作品は、妹が実の兄と結ばれて息子を生み、さらに、実の息子と気づかずに交わって再び子供が生まれるという凄まじい内容だが、私には、大らかなヒューマニズムが感じられて楽しめた)。しかし、小説『俺の妹…』における兄妹関係は、読者を面白がらせるための単なる仕掛けとしか思えない。アニメ化に当たって変更するのは、適切な措置だろう。
 京介と桐乃の関係を後退させた代わりに、倉田は、周辺人物の人間性を深く描き込んだ。原作の場合、次々と登場するのはちょっと常軌を逸した美少女ばかりで、しかも、なぜか全員が京介に好意を抱く。だが、倉田の脚本になると、こうした不自然な設定が取り除かれ、一人ひとりにリアリティが付与された。特に、黒猫は原作とは大きく異なった設定を与えられ、桐乃よりも目立つサブヒロインとなった。

【黒猫のキャラ設定】
 原作の黒猫は、ネコ耳姿で「ウッーウッーウマウマ」を踊ってニコニコ動画に投稿するなど、ライトなサブカル全般に関心を示すオタク少女だった。だが、アニメになると、こうした嗜好の大半がカットされる一方、文学に関して中学生とは思えない深い造詣を持ち、難解な用語を駆使した膨大な文章を執筆する異才の持ち主として描かれた(第4話の展開に必要なため、ゲームの達人という設定だけは残された)。自分の才能を信じ切れず不安に苛まれ、突飛なコスプレと言葉遣いで自我を守ろうとする姿は、孤高と言うにはあまりに痛々しい。
 倉田は、『R.O.D』の読子・リードマンや『神のみぞ知る世界』の汐宮栞に代表されるように、いわゆる「文学少女」に強い愛着を持つ。桐乃の書いた軽薄なケータイ小説に対して黒猫が示す嫌悪感は、倉田自身の思いの現れだろう。そのケータイ小説が、原作無視のメチャクチャな脚色が施されてアニメ化されそうになったとき、京介らとともに制作会議に顔を出した黒猫は、こう語り始める(第8話;花澤香菜による声の演技が素晴らしい)。
「その小説がつまらないことには同感だわ。設定は馬鹿だし、物語は行き当たりばったりだし、文法はメチャクチャ。なのにベストセラーですって! アニメ化ですって! 冗談じゃないわ」

 傍らに『プロになるための脚本入門』などの参考書を山積みにし、執筆にいそしむ回想シーンがインサートされる。
「あたしだって、何年も勉強して投稿してきたの。悔しいわ。羨ましくて妬ましい。(アニメ監督に向かって)あなただってそうでしょう。あなた、小説も何冊か書いてるわね。でも、どれもこれも鳴かず飛ばずで全部絶版。この原作の10分の1も売れてないわ。女子中学生の書いた原作をありがたく脚本に書き写すには、さぞかしプライドが邪魔なことでしょう」

 そうは言いながらも、筋はきちんと通す。
「あーあ、気に入らない気に入らない。この世のすべてが気に入らないわ。いっそ爆弾が何もかも吹き飛ばしてくれないかしら。…だけどね、それはそれよ。…(中略)…その本は、私たちがどんなに悔しくて妬ましくて気に食わないからと言って、どうにかしていいものではないはずよ。お願いだから、もう一度考えてちょうだい」

 この第8話は、倉田が創作したオリジナル・エピソードである。原作では、自身の書いた作品を出版社に持ち込んだ黒猫が、編集者に厳しく批判されて泣き出すエピソードが描かれており、伏見と倉田の芸術観の相違(および、黒猫というキャラに対する好悪)が如実に表れる。私にとっては、倉田の熱い思いがこめられた第8話こそ、全編のクライマックスであり、文学とアニメの本質に関わるクリエーターの真剣な問いかけとして、登場人物の言葉に耳を傾けなければならないと感じる。
 ついでに言えば、このエピソードの終盤では、桐乃に対する京介の思いも表白されており、“妹萌え”とは全く異なる誠実な姿に、深く感動させられる。

【新垣あやせのキャラ設定】
 黒猫と並ぶサブヒロイン・あやせについて。原作のあやせは、一見、真面目で清楚な美少女でありながら、時々キレて恐ろしい側面を見せつける。これに対して、アニメのあやせは、外見だけではなく、言葉遣いや他者への思いやりなど、言動のあらゆる面で品行方正にして真摯である(こうした性格は、早見沙織の見事なアテレコによって浮き彫りにされる)。ただし、モラルに関して異常なほど潔癖で、自分が正しいと信じる規範を親しい人が逸脱したときには、人が変わったように反感を露わにする。
 夏コミ会場近くで自分を避けようとした桐乃を詰問し、「逃げたわけじゃ…」と言われたときの台詞(第5話)。
「嘘、それは嘘。嘘、嘘、嘘、嘘、嘘。嘘吐かないでよ。だって、逃げたじゃない。逃げたでしょ。逃げたよね」

 「いま、逃げたよね? わたしから、逃げようとしたよね?」(電撃文庫版第2巻、p.284)と言うだけの原作に比べると、倉田が、あやせの人物像を内面から抉り出すように表現したことがわかる。こうした人物描写の妙味が、アニメ『俺の妹…』の魅力である。
 このほか、原作で、いかにも婆臭く桐乃から「地味子」と呼ばれる田村麻奈実が、アニメになると、ややスローモーでおっとりしているものの、掃除や料理などの実務に優れ、他人の思いを即座に酌み取れる有能な女性として描かれる。類型的な原作キャラを倉田が豊かに肉付けしたことに、感服させられる。

【アニメーターの力】
 脚本による肉付けに加えて、アニメーターの力の入れ方もかなりのもの。
 京介が麻奈実の家に“お泊まり”した晩、自宅に残った桐乃がトイレから(人の目がないのでたくし上げたまま出てきたナイトウェアを直しながら)自室に戻る際に、京介の部屋の扉に軽く蹴りを入れて通り過ぎた後、引き返して、二度三度と強く蹴っ飛ばす場面がある(第11話)。おそらく、脚本の指示ではなくアニメーターが考案した描写だろう。何かモヤモヤしたものを感じて自然に体が動いてしまい、それをきっかけに怒りに形が与えられ爆発するという、思春期の子供にありがちな行動パターンが丁寧に表現されている。
 アニメーターの力量が存分に発揮されたのが、第10話「俺の妹がこんなにコスプレなわけがない」。桐乃が好きなアニメ『星くず☆うぃっちメルル』のコスプレ大会で、桐乃の友人・加奈子がメルルに扮して歌って踊るのだが、その作画が驚異的な水準に達している。生身の人間がコスプレをし、アニメでは表現不可能な動きや表情を付けることで、アニメキャラが現実に降臨したかのような感覚をファンに与える−−そんな状況を、「アニメの中」で完全に描ききったのである。神作画と呼ぶに相応しい(最初に見たときには、初めから終わりまでケラケラ笑い通しで、酸欠になりかけた)。

【ラノベをアニメ化する方法論】
 近年、ラノベを原作とするアニメが大量に制作されているが、成功作は少ない。ラノベ作者は経験の乏しい若手が中心で、メインターゲットである中高生の共感を呼ぶ設定なら思い付けても、物語を膨らませたり人物像を練り上げたりするのが苦手。これをそのままアニメ化すると、最初の1,2話は面白そうに思えても、その後が底の浅い話にしかならない。
 ラノベ原作のアニメで成功したものは、多くの場合、原作を大きく改変している。『バカとテストと召喚獣』や『中二病でも恋がしたい!』では、原作第1巻の設定だけ利用して大半はオリジナル・エピソードに差し替えられたし、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』『僕は友達が少ない』の場合は、ストーリーはそのままにして登場人物の性格付けや人間関係を変更した。『涼宮ハルヒの憂鬱』『バッカーノ!』のように時系列を入れ替えたものもある。
 ラノベには固有のファンがいるため、原作の改変に対しては批判的な意見もあるだろう。しかし、文学とアニメは全く異なるメディアであり、優れたアニメを作るためには、原作を大きく改変することが必要不可欠なのである。
 アニメ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(第1期)』は、原作ファンの気に障らないように改変部分を巧みに隠蔽してあり、ラノベのアニメ化として、特にうまくいったケースと言える。しかし、第2期制作に当たっては、ラノベを原作とすることの問題点が噴出する。

【第2期の問題点】
 ストーリーに脈絡のない原作を1クールアニメにまとめるため、倉田は、原作第4巻にある桐乃のアメリカ留学の話を、「直前になって取りやめる」という展開に変更、その際の桐乃の決断を描くことで全編の締めとした。しかし、これでは、さらに話が続く原作と整合性が保てず、アニメの続編が作れない。
 どの時点で決定したのか判然としないが、プロデューサーたちは、アニメを強引に継続しようと画策、第1期の締めとなった第12話を作り替えることにした(同じような手は、『STEINS;GATE』の第2期制作に当たっても用いられ、人気作引き延ばしのための便法となったようだ)。
 2010年12月に第1期の放送が終了した後、翌年2月から5月にかけて、桐乃がアメリカに出立するように作り替えられた第12話と、それに続く3つのエピソードが、「TRUE ROUTE」の名の下にWeb配信の形で発表された。2012年秋には、第1期から第7,8,12話を省略し、「TRUE ROUTE」の4話を付け加えたバージョンがテレビ放送された。
 さらに、翌2013年春には第2期全13話がテレビで、引き続いて夏には、原作の最終第12巻をアニメ化した全3話がWebで発表された(制作会社は、AIC BuildからA-1 Picturesに変更になったが、主要スタッフは第1期と共通)。
 こうして、原作の終わりまですべてアニメ化されたものの、その出来は一様ではない。一言でまとめるならば、第1期は原作を改変して傑作になったが、第2期は原作を忠実にアニメ化して凡作に留まった(このレビューでは、「TRUE ROUTE」の4話とテレビ版第2期13話、Web配信された最終エピソード3話を、併せて「第2期」と呼ぶ)。
 第1期は、思春期特有の不安定さを持つ桐乃を京介が支えるというストーリーラインに沿って、桐乃の表の友人・あやせと裏の友人・黒猫のエピソードが描かれ、全体的な構造がしっかりしている。個々のエピソードも、人間性に対する洞察力を感じさせる優れた内容である。ところが、第2期になると、原作そのままに、さまざまな個性的キャラが入れ替わり立ち替わり登場して大騒ぎをする、妹萌えとハーレムものの要素が混在したドタバタコメディとなる。
 桐乃は兄に対してやたらコケティッシュだし、あやせは些細なことでキレまくり、黒猫は文学に対する関心を喪失した様子。登場する女性たちは、第1期で幼馴染み以上の関係に踏み入ろうとしなかった麻奈実を含めて、誰も彼もが積極的に京介にアプローチする。
 第1期から第2期への落差がこれほど大きくなった理由は明らかではないが、私には、脚本を書いた倉田が、途中でやる気を失ったせいのように感じられる。
 有能な文筆家である倉田からすると、伏見の原作は、あまり出来の良くない未熟な小説に思えただろう(少なくとも、私はそう思う)。才能と経験に勝る倉田が、いろいろと手を加えて、ようやく1クールアニメとして恥ずかしくないストーリーに仕立てたのである。ところが、せっかく見つけた落とし所を変更し、原作に沿って話を続けるように言われてしまう。もしかしたら、原作からあまり離れないようにと釘を刺されたのかもしれない。
 倉田は、第1期第8話で、(おそらく自身のオリジナル脚本がゆがめられた体験に基づいて)原作を勝手にいじるアニメ制作のやり方を批判した。しかし、それを、自分が原作を大幅に改変した脚本の中で行ったのは、やはりまずかったのだろう。「TRUE ROUTE」を付け加えた第1期再編集版の放送に際して、1クールに収めるために2話分減らす必要が生じたとき、原作者の伏見がオリジナル脚本を書いた他愛のない第9話でなく、倉田が全力投球した第7,8話が削除されたことは、彼のプライドをいたく傷つけたに違いない。
 メインの脚本家がやる気を失い、原作をそのまま脚本に起こすだけに終始したため、完成したアニメも、面白みに欠けた作品に留まったようだ。

【全くどうでもいいことですが…】
 「TRUE ROUTE」2話目に出てくる黒猫の極小パンチラには、かなりドキッとしました。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない。(第2期)

【評価:☆】
【ネタバレあり】

 第1期全12話は抜群に面白かった『俺妹』だが、第2期はがっくりするほどつまらなくなった。その原因は、主に脚本にあると考える(第1期に関しては、直前のレビュー参照)。
 第1期の脚本を担当した倉田英之は原作(伏見つかさのライトノベル)における人物設定を大幅に変更し、兄と妹のアブない関係をふつうの兄妹関係に変えるとともに、脇役の人間性を深く掘り下げた。その結果、黒猫や新垣あやせは、原作よりも遥かに複雑で奥深い魅力的なキャラとして登場することになる。第1期で、第9話「俺の妹がこんなにエロゲー三昧なわけがない」が面白いながら妙に浮いていたのは、この作品だけが、原作者・伏見の脚本によるからである。ところが、第2期になると、人物設定は原作通りに戻され、多くの登場人物が入れ替わり立ち替わりバタバタする支離滅裂な内容になった。
 こうした変化が生じた原因ははっきりしないが、1つ考えられるのは、倉田が行ったアニメ批判の影響である。原作にないオリジナルエピソードである第1期第8話で、倉田は、原作を大幅にねじ曲げるアニメ制作の実状を、かなり批判的に述べている。しかし、そうした批判を、自分が原作を変更しながら書いている脚本を通じて展開したことは、さまざまな軋轢を生み出さずにはおかないはずだ。その結果が何らかの圧力を生み、第2期では、より原作に沿った脚本を書かざるを得なくなったのかもしれない。
 別の理由も考えられる。同じ時期に倉田は、『神のみぞ知るセカイ 女神篇』をはじめ異常に多数の脚本を執筆しており、しかも、それらが悉く精彩を欠く。何らかの事情でオーバーワークを強いられ、パンクした可能性もある。
 倉田は、名前で視聴者を呼び込める数人の脚本家の一人であり、短い台詞で人間性を浮き彫りにするテクニックは天下一品である。脚本家志望の人は、是非、『俺妹』第1期で原作とアニメを比較してほしい。彼の台詞によって、登場人物がいかに生き生きとしたものになっているかがわかるだろう。第1期第2話、メルルとマスケラのアニメグッズを巡って桐乃と黒猫がかわす会話(「XXL!」「メンズ?」など)は、ほとんど漫才である。こうした有能な人材を生かせないとしたら、日本アニメの将来は暗いだろう。

あにゃまる探偵 キルミンずぅ

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 小学生女子をメインターゲットとする変身魔法少女もの。2009年にテレビ放送された際、大人の自分が本気で楽しむのはいかがなものかと思いながら、結局、1話も漏らさず見たばかりか、特に面白い10話ほどはDVDに焼いて永久保存版にしてしまった。
 物語の舞台は、架空の都市・神浜市。双子の姉妹リコとリム、彼女らの姉ナギサと同級生の男子2人の計5人が、「きるみん」と呼ばれるアイテムを使って動物に変身、探偵団「神浜キルミンズ」を結成し、この地域で多発する動物がらみの怪事件に立ち向かう。変身が魔法ではなく遺伝子発現の変化に起因する、習熟するにつれて多様な変身能力が身に付く−−などの設定は、マクロスシリーズなど変形ロボットもので知られる河森正治(原案)のアイデアだろう。
 子供向けとは言え、ストーリーの骨格はしっかりしている。怪事件の犯人は、生得的に動物への変身能力を持つ種族アニマリアンの組織と、彼らと協力関係にある巨大企業だが、両者は必ずしも一枚岩ではない。企業のトップは、科学技術を用いて生態系そのもののを改変しようとするマッドサイエンティスト風の男で、純血種による革命を目指すアニマリアンのミサとは、微妙に対立する。ミサの娘カノンは、当初は母親に盲従していたものの、リコやリムとつきあううちに、しだいに革命の正当性に疑問を感じ始める。さらに、着々と陰謀を進める中枢部とは対照的に、組織の末端にいる実働部隊の牙組はかなりトホホな面々で、たびたびドジを踏んではミサに叱責される。このように、探偵団と対決する《悪の組織》が多様な側面を持つため、話の展開に起伏が生まれ、最後まで飽きさせない。
 この作品が成功した最大の理由は、アニメーターたちが作品世界の中で楽しんでいる点にある。視聴者を喜ばせようと企めばあざとさが目立ってしまうし、どんなに面白いギャグであってもキャラに馴染んでいないと単なる悪ノリにしかならない。しかし、作品世界の中に入り込み、登場人物に寄り添いながら自分も楽しめる物語を思い描いていけば、自然と優れたものが生まれてくる。ウケ狙いでドジッ娘を転ばせても鼻で嗤われるだけだが、犬の着ぐるみに変身したナギサ姉が犯人を追っている最中にフリスビーを投げられ、思わずワンと言ってくわえてしまうとき、そのドジ振りはむやみに可愛い(第18話)。文字通り一匹狼のパルスは、常にクールでギャグとは無縁だが、それでも第34話の空想シーンで何気に編み物をしているのを見ると、笑いがこみ上げてくる。リコとリムの担任は、授業中はいかにもやる気がないのに、「アニマリアン化ガス」で手足だけクマになった自分を見て冷静に呟いた教師っぽい一言には、爆笑してしまった(第45話)。この先生には、もう一つ、「これは夢ではなく妄想ですね」という名(迷)言がある(第28話)。いずれも、キャラクターに共感していなければ作れないシーンである。
 『あにゃまる探偵 キルミンずぅ』は、日本と韓国のアニメ会社が共同で制作している。脚本は全て日本人が執筆したが、それ以外では韓国人スタッフの寄与が大きい。例えば、シリーズ中の名作「キキカイカイ! ヒョウ仮面現る!?」(第38話)では、演出を担当した3人のうちの2人と絵コンテが韓国人である。数人の作画監督が全員韓国人というエピソードも多い。日本人と韓国人が混在する中で、どのように意志疎通が図られていたのか興味深いが、作品の質の高さからすると、全員が心を一つにして作品を練り上げていったものと想像される。

クレイモア

【評価:☆☆☆☆】
 全話鑑賞済み、原作第18巻まで既読。
 半人半妖の女剣士クレイモアたちが、人を襲う妖魔と闘うダーク・ファンタジー。残虐シーンが多く、血の苦手な私は、顔を手で覆うだけでは足りずに、しばしば部屋を飛び出して扉越しに音だけ聴いていた。それでも最後まで(見たとは言えないものの)鑑賞したのは、作品が持つ只ならぬ迫力を感じたからだ。
 原作は八木教広の漫画。人間を捕食するモンスターが現れ、モンスターと人間の中間的存在がこれに立ち向かうという構図は、岩明均の『寄生獣』や諫山創の『進撃の巨人』を思い起こさせるが、『クレイモア』では、『寄生獣』などのように人間の絡むドラマが濃密に描き込まれることはない。登場する人間は、妖魔に怯えるだけの住民か、クレイモアを手駒として利用する打算的な「組織」のメンバーばかり(わずかな例外はいても、登場シーンが残念なほど少ない)。妖魔は、ほとんどがおぞましい姿で、人間性の欠片もない。クレイモアたちは、外見は若く美しい女性でありながら、表情に乏しく、おしなべて性格が悪い。性格の悪さは、主に幼少時にトラウマとなる体験をしたことに起因するが、そうした体験はドラマとしては描かれず、あくまでキャラ設定の一要素として回想や会話の中で触れられるだけである。登場するのが共感しにくいキャラクターばかりなので、バトルシーンは、いきおい情動的ではなく感覚的になる。クレイモアたちは再生能力が高いという設定があるため、ヒロインといえども、容赦なく手足が切断され肉がえぐられる。露骨に性的陵辱を連想させるシーンもある(こうしたシーンに対する耐性があれば、充分に楽しめるのかもしれないが、私には耐性がなかった)。もっとも、アクション描写にはかなり迫力があるものの、闘いの決着は不意打ちや特殊能力の発露で付けられる場合が多く、ドラマとして見ると、どうもすっきりしない。
 『クレイモア』の魅力は、ドラマとは別の所にある。ネタバレになるので詳しくは述べないが、半人半妖のクレイモアたちは、戦う際にある一線を越えないように常に自制しなければならない。この制約が、バトルの感覚的な描写と相まって、見る者に口が渇くような焦燥感を与える。単に扇情的なのではなく、センシュアルな魅力とでも言うべきか。
 アニメでは、こうしたセンシュアルな魅力は若干そがれたが、抑制された色調の画面は絵画のように美しく、作品世界にスムーズに入っていける。先に原作漫画を読んだ人はともかく、アニメだけ見てもさして不満はないだろう。
 ただし、アニメ『クレイモア』には、連載中の漫画をアニメ化する際につきまとう問題が大きな影を落としている。アニメは、「北の戦乱」を描く第22話までは原作にかなり忠実だったが、そこで連載に追いついたせいか、戦いの終幕は原作と大きく異なるものになった。さらに、ラスト2話では、本来の設定とは食い違うかなり強引な展開で、ストーリーを落着させている。
 これは、全体的なシリーズ構成の問題でもある。ラスト2話を除く24話を5つの部分に分け、アニメの話数と原作(「北の戦乱」が終結するSCENE61まで)のページ数を比較して圧縮・伸張率を概算すると、次のようになる(平均値となる「オフィーリア他編」を基準としたときの原作からの増減の割合)。
 (1)序章(アニメ4話)−24%、(2)テレサ編(4話)−18%、(3)オフィーリア他編(6話)±0%、(4)リフル編(3話)−11%、(5)北の戦乱編(7話)+56%。
 この数値を見ると、前半で原作を大きく圧縮し、「北の戦乱」に入ってから急に引き延ばしていることがわかる。最初にアニメを見たとき、序盤の話が充分に展開されていない段階で、急にテレサが登場する過去のエピソードに移行したことに違和感を覚えたが、連載中であることに配慮して後半に余裕を持たせようとした結果らしい。そのため、ヒロインのクレアが登場する重要なエピソードが第1話Aパートに押し込められる一方で、終盤では、戦いのシーンばかりが延々と続くことになった。
 制作サイドとしては、できるだけ原作に忠実でありながら、きっちりと作品を終わらせるように構成したいという気持ちが強かったのだろう(シリーズ構成担当の小林靖子だけでなく、主要スタッフの合議による方針だと思われる)。しかし、安直な大団円よりも、深遠な未完成の方が結果的に優れた作品を生むことも、考慮してほしかった。

蟲師

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作第4巻まで既読。
 未だにアニメ(特にテレビアニメ)は文学や演劇より格下だと考える人がいるが、こうした人の蒙を啓くにはどの作品を見せれば良いのか?『涼宮ハルヒの憂鬱』や『輪るピングドラム』は、ナボコフの小説やベケットの戯曲と並べても遜色のない傑作であるものの、その本当の凄さを理解するには、アニメに関してある程度以上の素養が必要である。それでは、素養がなくても深遠さを実感できるテレビアニメに何があるかと考えたとき、『灰羽連盟』や『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』などとともに思い浮かぶのが、この『蟲師』である。
 蟲とは、動植物とは異質の生命体で、至る所に存在するが限られた人にしか見えず、しばしば超常的な現象を引き起こす。そうした蟲の世界に分け入り、ヒトと蟲との調和を図る蟲師・ギンコが体験した出来事を描いた作品が、『蟲師』である。とは言っても、よくある怪異譚・妖怪譚ではない。ここで描かれるのは、蟲に憑かれたり取り込まれたりした人々の人間としての悲しさである。
 例えば、「雨がくる虹が立つ」(第7話)。河原から生えていた虹(実は虹に擬態した蟲)を掴んだ男は心を病み、雨模様になると「あめがくる、にじがたつ」と呟きながら徘徊するようになる。そんな父に付けられた「虹郎」という名をうとましく思っていた息子は、仕事に失敗して彷徨う中で虹の根元を目にしたとき、漸く父親の真情に気がつく。あるいは、「柔らかい角」(第3話)。周囲の音を集める蟲に寄生され、頭に流れ込み続ける音に苦しめられ衰弱した女性が、いまわの際に娘に示した行動は何を意味するのか? 同じ病に罹った娘が思い出した最後の言葉−−「ほら、お前もやってごらん。お前の中にも溶岩が」−−は、見る度にせつせつと胸に響く。私が最も好きなエピソードは「暁の蛇」(第16話)で、記憶を喰う蟲に冒された母親が登場する。辛く苦しい体験とともに、決して忘れてはならない大切な思い出も失った彼女が、心を漂白され童女のようになっていく様を、息子は何もできずにただ見守るしかない。
 もっとも、心の襞に入り込むこうした描写は、漆原友紀による原作漫画(講談社漫画賞受賞作)を忠実に再現したもので、必ずしもアニメならではとは言えない。画面のフレームと実時間の流れに束縛されるアニメとは異なって、漫画は、コマの枠を変形・消去したり、コマとコマの間やコマの中で流れる時間を伸縮したりでき、表現の自由度が大きい。このため、優れた漫画をアニメ化した作品は、多くの場合、原作の劣化コピーにしかならない。『蟲師』も、絵とストーリーだけ取り出すと、たとえ奥行きのあるカラー画面がどんなに美しくても、原作には敵わない。
 しかし、アニメ『蟲師』には、原作にない決定的に優れた点があり、この作品を唯一無二の傑作たらしめている。それは、音である。「海境(うなさか)より」(第8話)を例に説明しよう(海境とは、わたつみと人の世界を隔てる境界のこと)。原作漫画の冒頭は、枠をつけたコマと地に直接描いた絵の組み合わせでリズム感を出しているが、アニメでは、波と風の音をバックに落ち着いた楽曲と深みのあるナレーションが重ねられ、見る者を幻想的な作品世界に誘い込む。サクサクと砂を踏む足音とともにギンコが現れ、波と風の音が続く中、海岸に腰を下ろした男と会話が始まる。「あれは二年と半年ほど前になるか」という台詞をきっかけに、海鳥の声が甲高く響いて男の回想シーンに転換、低い打楽器の音が不穏な雰囲気を募らせる。楽曲は映像の邪魔にならないように抑制されており、音が鳴ることで逆に静寂を感じさせるほどだ。後半に入り、靄の奥から舟が現れるクライマックス(この場面は、溝口健二『雨月物語』の琵琶湖のシーンとそっくりである)では、舟の軋みや波風の音に重なって、ウィンドチャイムのような打楽器音が、魂をそっと撫でるかのように響きわたる。男の感情が高まるにつれて美しい旋律も現れるが、ギンコが重大な事実を告げるや音楽が止み、寒々とした現実が襲ってくる。ラストでは、心を癒す美しい旋律が流れる中、「見て、これ」「ああ、きれいだな…」という短いながら万感の思いがこもった台詞が交わされる。
 アニメにとって、音響が脚本・作画に匹敵する重要な要素であることがわかる作品である。

機動警察パトレイバー旧OVA

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 数年にわたって業界で干されていた押井守が復活を遂げるきっかけとなった作品である。
 前半に限れば、押井の経歴は宮崎駿と共通点が多い。人気漫画(うる星やつら/ルパン三世)のアニメ化でディレクターに抜擢(宮崎はノンクレジット)され、同じアニメの劇場版(『オンリー・ユー』/『カリオストロの城』)で監督デビュー、1984年に公開された監督第2作(『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』/『風の谷のナウシカ』)がアニメファンを二分する人気となった(私は、映画館で『ナウシカ』を11回見て11回とも泣いてしまったが、それでも断然『ビューティフル・ドリーマー』派である)。しかし、その後の押井と宮崎は明暗を分ける。『カリ城』の興行的失敗が原因で干されていた宮崎が、『ナウシカ』以降は順調に劇場作品を制作できるようになったのに対して、押井は逆に『ビューティフル・ドリーマー』で浮き彫りになった難解な作風がプロデューサーに嫌われ、テレビ版『うる星やつら』のディレクターを降ろされてメジャーの仕事を失う。OVAに活路を求めた押井は、『天使のたまご』や「迷宮物件 FILE538」(中絶したOVAシリーズ『トワイライトQ』の第2話)を作るが、マイナー感は否めない。押井自身も焦燥の念に駆られていたのだろう、『天使のたまご』が大森キネカで上映された際のスピーチではいきなり激しい宮崎駿批判を始め、ゲストの金子修介と激論になったのを覚えている。
 押井が暇を持て余していた頃、漫画家ゆうきまさみの思いつきに端を発した『機動警察パトレイバー』の企画が、出渕裕や伊藤和典を巻き込んで徐々に形を取りつつあった。この企画が膨らみ、警察を舞台にした実生活重視のロボットアニメという基本コンセプトができあがった段階で押井が合流、OVAとして制作が開始される。アニメ制作からあぶれたゆうきまさみは、同じコンセプトに基づいて少年サンデー誌上に漫画を発表、期せずしてマルチメディア展開の走りとなった。
 OVA全6話は、脚本・伊藤和典、監督・押井守の黄金コンビで作られた(吉永尚之が監督した第7話は、後で追加されたおまけ)。最初の4話は、このコンビとしてはまあまあの出来(第4話の「Lの悲劇」が頭一つ抜き出た秀作)だが、最大の見物は、何と言っても第5-6話の「二課の一番長い日(前後編)」だろう。政治的にかなりアブない題材を取り上げているものの、伊藤和典の透徹した歴史観のおかげで、決して際物になっていない。脚本と演出が見事にかみ合い、OVAの長編として屈指の傑作と言える。
 「二課の一番長い日」では、それまでの4話と比べて、年齢がやや高めの登場人物が重要な役割を果たす。特に、以前には印象的な脇役にすぎなかった南雲さんの活躍は嬉しい。彼女が警察上層部に向かって啖呵を切るシーンは、何度見ても溜飲が下がる。その一方で、本来の主要キャラにも、短いながら、それぞれの持ち味を出した見せ場が用意されている。中でも香貫花は、最初のホールドアップから中盤の(よもやの)変装、最後の暴走に至るまで、テレビ版を含む全エピソード中で最もワクワクする姿を見せてくれる。
 キャラの描写もさることながら、「二課の一番長い日」の最大の魅力は、脚本構成の見事さである。
 物語は、ゆったりとした時間の流れで始まる。主要登場人物が所属する特車二課第2小隊は休暇中で、若い隊員は各地に散り、後藤隊長だけが警察庁舎に残っている。そんな中、庁舎を見張る不審人物の姿が目撃され、少しずつ不穏な影があらわになる。初めのうちは小さな異変に過ぎなかったが、大型トラックが検問を強行突破したのをきっかけに事態が動きだし、遂には国家の存亡にかかわる大事件が勃発する。各地に分かれていた第2小隊の隊員たちは、いくつかの拠点に集まり、それぞれが可能な方法を模索しつつ事件に立ち向かう。物語が大詰めになると、バラバラだった若い隊員たちと後藤隊長の行動は、時間の流れが加速されたかのように激しくなりながら、しだいに一つの流れを形成していく。ラスト残り2分で最大のクライマックスが訪れ、残り20秒で急転直下の決着が付けられると、キーパーソンが一言決め台詞を口にして終わる。
 脚本家が一生のうちに一度は書きたいと願う、神懸かり的な脚本である。

機動警察パトレイバーTV版

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 80年代テレビアニメ(OVAは含まない)のベストは何かと問われたとき、私なら、『ダーティペア』『うる星やつら』『魔法の天使クリィミーマミ 』とともに、この作品を上げる。いずれも伊藤和典が脚本に加わっており、彼が日本アニメの興隆にいかに大きな貢献をしたかがわかる(単に、彼の脚本が私の趣味に合うだけなのかもしれないが)。
 『機動警察パトレイバー』は、漫画家ゆうきまさみのアイデアをベースに、関心を持つアニメ関係者が次々加わって企画を立ち上げたもので、出渕裕(メカニックデザイン)・高田明美(キャラクターデザイン)・伊藤和典(脚本)・押井守(監督)がOVA制作に携わり、そこからあぶれたゆうきまさみが漫画を掲載した。テレビ版『機動警察パトレイバー』は、OVA(および劇場版)と漫画が人気を博したのを受けて制作されたもので、多くのスタッフがOVAと共通するが、監督には、トラブルメーカーの押井ではなく吉永尚之が起用された。内容は、OVA版と漫画版を部分的に取り込みながらも新しい物語として構想されており、例えばヒロインの野明が特車二課に着任するくだりは、OVA版・漫画版・テレビ版で全て異なっている。
 全47話の大半は独立した短編だが、その合間を縫うように、軍事にかかわる巨大企業シャフトと特車二課の角逐を描く長編が1本織り込まれている。長編の脚本は、主に伊藤和典が担当しており、レーザー砲を搭載した無人ロボット・ファントムが登場するファントム篇(第10-11、20-21話)と、格闘戦にやたら強い有人ロボット・グリフォンに野明の操縦するイングラムが挑むグリフォン篇(第28、30-35話)から成る。ロボットアニメのファンには、黒くて格好いいグリフォンがウケるだろうが、社会派アニメの好きな人は、軍需企業の怖さを滲ませたファントム篇に魅せられるはず。特に、警察・自衛隊・軍需企業の思惑が交錯する中、例によって太田と香貫花が暴走する「亡霊(ファントム)ふたたび」(第21話)は楽しめる。
 短編では、それぞれ香貫花と熊耳さんが個性を見せる「ジオフロントの影」(第19話)、「闇に呼ぶ声」(第27話)なども面白いが、何と言っても凄いのが、押井守が脚本を書いた5本のエピソード。中でも「特車二課壊滅す! 」(第29話)と「地下迷宮物件」(第38話)は別格で、前者は、カフカも真っ青となる極北の不条理アニメと言うしかない。延々と中華料理のメニューが口にされるものの、誰も食べることのできないまま、時間だけが経過していく。不気味な整備員二人組が注文するのは、最初が「にんにく入り肉ネギ四川炒めとニラたまライス」「にんにくとニラ抜きで同じやつ」、時間が経って空腹感が増してからの注文は「にんにく入り肉ネギ四川炒めとニラたまライス大盛り、生卵3つ」「私、それのにんにく増量、生卵5つ」−−二番目のやつは何が食べたいんだ! 最後に料理が登場する場面は、何とメアリー・セレスト状態で……。熊耳さんが、理知的な表情のまま思いっきりボケるのが可愛い。

機動警察パトレイバー新OVA

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 テレビ版『機動警察パトレイバー』の好評を受けて制作された全16話のOVA。テレビ版では(作画の乱れもあって)やや不満の残る終わり方だったグリフォンとの闘いに、きっちりと決着を付ける伊藤和典脚本のエピソードが4話、残りの12話が独立した短編である。
 後藤隊長と南雲さんが共に過ごす一夜が何ともサスペンスフルな「二人の軽井沢」、押井守脚本の不条理アニメ「その名はアムネジア」も面白いが、最高なのは、何と言っても「VS」。あらゆるアニメ作品の中で、私が最も笑い転げた一編である。主役を張るのは香貫花と熊耳さんで、出会ってはいけない二人が出会った末に何が起きたかが描かれる。
 この二人がなぜ出会ってはいけないのか、説明しよう。『機動警察パトレイバー』は、同じ設定に基づいて、OVA版と漫画版が同時並行的に制作されたが、6人一組となる第二小隊のメンバーのうち、あらかじめきちんと設定されていたのは5人だけで、残りの一人をどうするかは、それぞれの作者に委ねられた。その結果、OVA版では香貫花、漫画版では熊耳さんが、6番目のメンバーとして登場する(テレビ版では、1年の放送期間のうち、前半で香貫花、香貫花がアメリカに帰った後半で熊耳さんがメンバーとなる)。アメリカから研修の名目でやってきた香貫花は、抜群の美貌の持ち主で文武両道に秀で、工学の知識も豊富。レイバーの操縦にも卓越した手腕を見せる。ただ、極度の負けず嫌いで、緊迫した局面で暴走するという欠点もある。派遣されていた香港から帰ってきた熊耳さんは、抜群の美貌の持ち主で文武両道に秀で、社会的な知識も豊富。レイバーの操縦にも卓越した手腕を見せる。ただ、常に正論を口にする学級委員長タイプで、心霊現象に対して異常に恐がりという欠点もある。要するに、この二人、キャラがかぶるのである。このため、アニメでも漫画でも、二人が深くかかわるシーンは避けられてきた。
 ところが、「VS」では、温泉旅館に繰り出した第二小隊の慰安旅行に、なぜか香貫花と熊耳さんが二人とも参加する。案の定、宴会の席で二人の相性の悪さが露呈、雰囲気はしだいに剣呑なものに。そもそも、負けず嫌いと正論派が対立した場合、諍いは無限ループに陥らざるを得ない。香貫花と熊耳さんも、初めのうちこそ高尚な議論をしていたが、天正遣欧使節の辺りから中学生レベルのケチの付けあいになり、しまいには早口言葉を競う小学生レベルに成り果てる。周囲の人は口を挟むこともできず、酔って無責任になろうと酒を飲み続けるものの、悪酔いするばかり。遂には熊耳さんが、理知的な表情のまま泥酔して………。
 「VS」の脚本は、伊藤和典と横手美智子(伊藤の秘蔵っ子でテレビ版『パトレイバー』で脚本家デビューした)の共同執筆とクレジットされているが、女同士の意地の張り合いに見られる異様なまでのリアルさは、横手によるものではないか。そうでなければ、香貫花が熊耳さんに「おあいこね」と言う怖くておかしいシーンが、どうして創れよう。

魔法少女隊アルス

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 2004年にNHK教育テレビの(子供向けながら大人も結構見ていた)番組「天才ビットくん」の1コーナーとして、各回10分弱ずつ放映されていたアニメ。91年の東京ファンタで感服した『ゼイラム』(実写版・戦闘美少女ものの最高傑作!)の監督・雨宮慶太が原作者と知って見始めたのだが、各エピソードがあまりに短くてストーリーの流れがつかめず、散漫な印象しかないまま終わってしまった。最近になって全話を続けて鑑賞し、ようやく全貌を把握することができた。
 正直な感想を言うと、ヒロインであるアルスの性格の悪さもあって、あまり楽しめなかった。背景と音楽は美しく、また、あえて醜く描かれた妖精は、ケルト民話などの古来の伝承を思わせるデザインで興味深いが、肝心のドラマ部分が弱い。思うに、雨宮慶太の原作がかえってストーリーラインを撓ませる要因になったのではないか。
 映画監督の黒澤明が、脚本執筆における最も重要なポイントとして、次のように指摘している(何かのインタビューでの回答だったと思うが、詳しく覚えていないので、記憶に基づいて記す)。曰く、「脚本は冒頭から終わりに向かって順に書いていくべきだ」と。黒澤は、最高の脚本家ではないが、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』などで橋本忍や小國英雄ら最高の脚本家との協同執筆を重ねており、それだけに脚本の要諦を心得ている。「ラストはこうなる」と先に決めて書き始めると、そこに向かうように無理に流れを作ってしまい、話が不自然になる。冒頭で登場人物の性格とシチュエーションをきちんと決めておき、後は、自然な流れに従って書いていった方が、面白い作品が生まれる−−これが黒澤の脚本論である。実際、『七人の侍』ではそのように執筆を開始し、途中で流れが止まったときには、冒頭に戻って設定を変えたそうだ(農民と侍をつなぐ菊千代という役を新たに創造した)。
 ところが、『魔法少女隊アルス』では、先に雨宮慶太の原作があったので、脚本家(小原信治)は、与えられたラストに向かって話を作らざるを得なくなったようだ。その際、クライマックスの展開があらかじめ決まっているので、それと対照的になるように、登場人物の性格設定と前半のエピソードを具体化していったのではないか。これは、私が「安直なバランス感覚」と呼ぶ悪しき方法論である。実際、前半における主要キャラの言動は、かなり硬直的である。アルスは、魔法が常に人間を幸福にすると本気で信じており、自分の信念を周囲に強要する。一方、シーラは体制に従順でまじめな優等生として、エバは物事を深く考えないボンボンとして、あまり好意的でない描かれ方がされる。おそらく、脚本家の脳内アニメは、こんな風に登場した3人がクライマックスではあんな風に変化して…と、大いに盛り上がったことだろう。だが、現実の観客からすると、独善的だったアルスが途中で豹変し、おいしい役割をさらっていったようにしか見えない。そのせいで生じる不快感が、このアニメを、どうにも後味の悪いものにしている。
 もっとも、画面は美しくアクションも迫力があるので、アルスが登場するときには目と耳をふさぎ(ついでに、キャラの顔立ちが急に変わるといった作画の乱れにも目をつぶり)、シーラとエバに意識を集中してその成長を見つめるように努めれば、充分に楽しめるだろう。アニメ鑑賞の高等テクニックである。

中二病でも恋がしたい

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 放送された全12話視聴済み、原作未読。
 前半では、中二病を発症し「邪王真眼」の使い手になりきっているヒロイン・六花と、ダークフレイムマスターを自称した中二病の病歴を黒歴史として封印しようとする勇太の交流が快調に繰り広げられるが、第7話以降は急にシリアスな色調を帯び、軽い鬱展開となる。六花と勇太の掛け合い漫才風のやり取りや、具現化された空想と現実の間の著しい落差の描写が、すこぶる付きで面白かっただけに、後半の停滞はどうにもいただけない。原作のライトノベル(虎虎著『中二病でも恋がしたい!』(KAエスマ文庫))は(近所の図書館や古本の安売りコーナーになかったので)読んでいないが、ネットでの情報によると、アニメとは設定やストーリーが大幅に異なっており、六花のなりきりぶりや後半のシリアスな展開は、アニメのオリジナルらしい。
 近年、ラブコメを中心に、途中まで明るい話が快調に続きながら、ある段階で急に暗く重くなる作品が少なからず見受けられる。全体を俯瞰する観点から構想を練り上げ、きちんと伏線を張った上での展開なら、何ら問題はない(例えば『輪るピングドラム』のように)。しかし、せっかく作り上げた魅力的な作品世界を自分で否定するような不合理な展開の場合は、厳しく指弾せねばなるまい。
 悪しき鬱展開に陥る要因としては、次の3つが考えられる。
 (1)安直なバランス感覚:現実に比して軽快すぎる描写が続いたとき、信念に欠ける作家は、一面的な見方を押しつけているのではといらぬ心配をし、シリアスな内容に転換したくなる。このとき、バーチャルよりもリアルの方が重要だという皮相な世界観を抱いていると、それまでの設定をぶち壊して、作品を台無しにしてしまう。
 (2)構想力が未熟故のネタ涸れ:ラノベや漫画の新人ないし作家の卵の中には、編集者の目に留まりやすいように他との差別化を図るべく、思いっきり風変わりな設定で書き始める人が少なくない。ところが、経験が乏しく長期的な構想を練り上げる力が未熟だと、1冊目は何とかなっても、同じ設定のままで2冊目以降を書き進めることができず、グダグダ状態に陥りがちである。これを原作にアニメ化すると、半クールほどは面白いが、それ以降は…という結果になる。
 (3)キャラ萌え対応:キャラを立たせるために、ドラマそっちのけでギャグから愁嘆場まで取り混ぜて演じさせる。私のようなドラマ重視派からすると、最も腹立たしいケースである(『舞-HiME』では、苦労して全話視聴した自分を呪いたくなった)。
 原作を読んでいないので断定はできないが、『中二病でも…』は(1)のケースだろう。第7話から第11話までを30分のエピソードに圧縮し全8話の作品としてまとめれば、かなりの秀作なのだが。
 誤解のないように言って置くが、鬱展開そのものが問題だというわけではなく、あざとく底の浅い鬱展開が批判されるべきなのである。優れた鬱展開の作品は、決して少なくない。文学から例を引こう(どちらも古典なので、ネタバレは許されるだろう)。谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』は、「この物語はあの名高い色好みの平中のことから始まる」なる一文に続いて軽い色事の話が綴られていくが、全体の3分の1ほど経過したところで大事件が出来し、一転してギリシャ悲劇のような深刻な事態に陥る。正に鬱展開−−とは言え、冒頭の一文にすでに示唆されるように、全てが谷崎の手の内にある。前半と後半の文体の差異、喜劇から悲劇への転回点となる即物的な描写など、小説技法の到達点を示す傑作である。もう1冊、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』では、ジョバンニとカムパネルラの夢幻の如く美しい物語が続いた後、最後に悲劇が訪れる。しかし、この悲劇は唐突ではない。冒頭近くに描かれたカムパネルラとの別れと再会のシーンに、すでに悲劇の予兆がある。さらに、銀河鉄道の描写は、あまりに美しいが故に、このまま幸せになれるはずがないという儚さを読者に感じさせる。鬱展開を考えている脚本家は、執筆する前に谷崎と賢治の爪の垢を煎じて飲むべきだろう。

けいおん

【評価:☆☆】
 第1期(『けいおん!』)・第2期(『けいおん!!』)放送分全話視聴済み、原作第2巻のみ既読。
 自分の個人的な評価が世評とずれている場合、どう判断すべきか迷うことがある。『魔法少女まどか☆マギカ』や『TIGER & BUNNY』は、世に言われるほど面白いと感じられなかったが、おそらくこれは、私の感性に欠陥があるせいだろう。私は無理にがんばる人間が嫌いであり、そうした人に肩入れする作品が苦手だ(無駄にがむばる人間は好きだが)。それゆえ、これらの作品を敢えて批判しようとは思わない。しかし、『けいおん!』や『化物語』に関しては、自分の感性が信頼できるので、容赦する気はない。
 『けいおん!』は、ギャグアニメの骨格に“萌え”の衣装を被せた作品であり、その結果として、いかんともしがたい不調和を内部に抱え込んでいる。この点は、かきふらい(何たるペンネーム!)の原作と比較するとよくわかる。
 原作は、最後のオチで軽い笑いを取る4コマ漫画が緩やかにつながった連作もので、ギャグと萌えを合体させた点はアニメと似ているものの、4コマ目でいったん流れを断ち切ることで、不調和感が払拭される仕組みになっている。例えば、唯(ゆい)の異常なギターテクニック。彼女は可愛いからとギターを購入したものの、軽音部では練習もせずにティータイムを楽しむばかり。ろくに楽譜も読めずコードも知らないのに、なぜか本番ではプロ級の名演をして聴衆を圧倒する……。これはギャグであり、読者が「おいおい」「そりゃないだろう」と突っ込むところである。4コマ漫画の連作ならば、いったん軽く突っ込むことで不調和を笑い流してしまい、次の4コマに進むことができる。ところが、アニメでは、こうした出来事を一連の流れとして描くので、突っ込むきっかけを逸したまま、(天賦ではなく)天然の才が開花したと受け容れざるを得ない。それどころか、一種の成功物語として爽快感を覚える視聴者も出てくるほどだ。
 第1期冒頭の何話かは、原作4コマ目に相当するシーンを止め絵にするなど、ギャグを意識した演出がなされていた。だが、しだいに滑らかな流れを重視するようになり、第2期に入ると、本来ギャグだったことが完全に覆い隠されてしまう。紬(むぎ)の場合、実家が現実にあり得ないような大金持ちで、本人も下々の生活に疎い−−というのは、笑いを取るための設定だったはずなのに、アニメでは、夏期講習や駄菓子屋のシーンでわかるように、「世間知らずのお嬢様、カワイイ!」と思わせる描き方になる。『けいおん!』のファンは、こうした描写を違和感なく受け容れているようだが、私には、どうにも気持ち悪い。
 これは、エポケーを前提とする“萌え”の本質にかかわる問題でもある。エポケーとは、判断中止を意味する哲学用語で、決して悪い意味ではなく、特にフッサールの現象学では、世間一般で通用している意味連関にとらわれずに本質を直観するための方法論として重視される。アニメで“萌え”を実感するためには、キャラクターが置かれた社会環境に関する判断を抑制して、その場面におけるシチュエーションとの相互作用に意識を集中する必要がある。こうすれば、人類の命運を賭した戦争の最中に恋愛沙汰にうつつを抜かすようなキャラに対しても、“萌える”ことができる。しかし、その方法論は同時に、作品が抱える不調和に対しても目をつぶらせることになる。
 『けいおん!』の主要キャラ4人は、いずれも、もし現実にいたらかなり不愉快な人物である。中でも唯は、無知で無責任、自己チューかつ怠惰でありながら、才能があって結果だけは出せるという腹立たしい存在だ(もっともこれは、あずにゃんが高1の頃の自分を思い出させる−−可愛いところではなく、やる気が空回りするところが−−ので、彼女の立ち位置から唯を見てしまい、特にそう感じるのかもしれないが)。彼らは、ある意味、ギャグ仕立てならばこそ容認できるキャラのはずである。しかし、ギャグの骨格が見えなくなったアニメでも、“萌え”のエポケーによってファンは彼らに狂喜する。私には、それが少々不気味に思えるのである。
 …ところで、二人でケーキを食べようとしたとき、「一口交換しよう」と相手がショートケーキを差し出したら、てっぺんのイチゴをフォークで刺して食べますよね? 私なら必ずそうするけれど。

輪るピングドラム

【評価:☆☆☆☆☆ 】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 放送終了後少し経って、また第1話から見直そうとしたが、始まって数分で胸が苦しくなり、涙があふれて見続けることができなくなった。と同時に、このアニメが、いかに緻密に構想されたものか実感した。冒頭、「僕は運命という言葉が嫌いだ」というモノローグ(このモノローグのヴァリエーションは、語り手を変えながら何度も繰り返される)とともに、天蓋付きの豪華なベッドに眠る美しい少女の姿が映し出される。ところが、よく見ると、周囲には豪華さとは縁遠い家具や本が雑然と並んでおり、ひどく調和を欠いている。この不調和感は、以後のシーンで次第に強まり、見る者に、何か尋常ならざる物語が始まったという思いを抱かせる。
 なぜ、公園の脇にあるバラックに、子供たちだけが住んでいるのか? なぜ、バラックは、内も外もカラフルに飾り立てられているのか? なぜ、表札に消された名前があるのか? なぜ、二人の兄は(後で同じ年齢とわかるのに)顔も性格も全く異なるのか? なぜ、妹はあんなにも素直で明るいのか? 全ては伏線であり、同時に悲劇の予兆でもある。
 Aパートに入ってしばらくの間、難病の妹を抱えた家族愛の話を装っていた『輪るピングドラム』は、Aパート末の妹の死とともに、異常な本性をあらわにする。死んだ妹が突然よみがえり、狂騒的なギャグやシュールな光景と深刻な悲劇が共存する独自の世界が繰り広げられるのだ。狂騒によって悲劇性を際だたせようと試みた映像作品はこれまでにいくつか作られたが、このアニメは、数少ない成功例と言って良いだろう。
 前作『少女革命ウテナ』で社会と全くつながりのないセカイを作り上げた監督の幾原邦彦(文化庁メディア芸術祭で見たヴィジュアル系のお姿が忘れられない)は、本作では、現実の池袋の街並みを忠実に再現するなど、第1話から背後に社会が存在することを強く感じさせていた。しかし、シリーズ半ばに明かされる悲劇の正体は、私の予想をはるかに超えたものだった。
 ここで描かれるのは、オウム真理教の地下鉄サリン事件をモデルにしたテロである。オウム事件は、言葉の本来の意味での確信犯、すなわち、自分は正しいと確信する人たちの犯罪であり、人類のために殺人を犯し社会の転覆を企てたものである。オウムとは、果たして何だったのか?−−何人もの作家が、この問いに対する解答を模索する作品を著した。小説家の村上春樹は、ノンフィクション『約束された場所で』において、大学のサークルのようなオウムの日常を明らかにした。映画監督の是枝裕和は、テロを実行したにもかかわらず(オウムと思しき)教団への信頼を捨てない物静かで知的な信徒を、塩田明彦は、教団の中に自分の居場所を求める少年少女を、映画『ディスタンス』と『カナリア』に登場させた。ドキュメンタリー作家の森達也は、マスコミや警察に追い回されながらも近隣住民と不思議な交流を行う信徒の姿をカメラに収めている(『A』『A2』)。これらの作品は、いずれも、オウムがわれわれときわめて近しい存在であることを示している。
 しかし、多くの人々は、オウムを自分とは異質のものと見なし、蛇蝎のごとく忌み嫌った。そのことを如実に示すのが、教祖の子供たちが小中学校に転入しようとしたとき、地元住民が反対運動を起こし、学校側も転入に難色を示したことである。オウムが犯した罪の大きさを考えれば、これは、きわめて当然の反応かもしれない。だが、テロと直接の関わりがないのに、教祖の子供というだけで社会から爪弾きされ、もはや何者にもなれないことを運命づけられたという事実は、社会が異物を排除する際の苛烈な不寛容を感じさせて恐ろしい。
 おそらく、幾原は、この出来事に衝撃を受けたのだろう。『ウテナ』以来12年ぶりに作ったアニメ『輪るピングドラム』には、テロ実行犯の子供として原罪を背負わされた3人の兄妹(高倉冠葉・晶馬・陽毬)が登場する。犯していない罪は、いかにして贖えば良いのか? 理不尽で残酷な神しかいないこの世界で、どうすれば救いが得られるのか?−−『輪るピングドラム』がひどく難解に見えるのは、答えのない問いを追求しているからである。
 ここで重要なのが、荻野目桃果の不在である(桃果は、その不在が意味を持つキャラクターであり、彼女自身が何かを象徴しているとは考えない方が良い)。彼女は、「運命の乗り換え」を行う力を持っていたが、16年前のテロで死んだ。彼女の不在によって、高倉兄妹の運命を魔術的な力で乗り換える道が閉ざされてしまう。それだけではない。姉が築いたであろう理想の家族を代わりに実現しようと空しく願う桃果の妹・苹果、弟を救うために桃果の力の源泉と思われた運命日記を苹果から奪い取ろうとする夏芽真砂子、桃果への強い思い故にテロリストの係累を憎悪する多蕗桂樹と時籠ゆり−−彼らは皆、桃果の不在に起因する運命に縛られている。桃果を欠いたまま運命を乗り換えようとする彼らの足掻きは、最終回まで続く。
 『輪るピングドラム』の最終回では、何かが解決されたのだろうか? 何も解決されないまま、別の運命が始まっただけのようにも見える。だが、少なくとも、最も悲痛でのっぴきならない運命だけは回避されたはずだ。そう考えないと、あまりにもやりきれない話である。
 オープニング曲「ノルニル」と「少年よ我に帰れ」は、やくしまるえつこの抑制された歌声が作品の雰囲気と絶妙に調和して、印象に残る。


【補記】第9話「氷の世界」では、陽毬が図書館で「かえるくん、東京を救う」という本を探すシーンがある。初めて見たときには、漠然と、子供向けの童話か何かかと思ったのだが、後になって、村上春樹の短編小説であると知った(改めて見直すと、図書館に返却する本が『スプートニクの恋人』であるなど、この作家の影がそこここにちらつく)。「かえるくん」が東京の地下に巣くう「みみずくん」と闘って、巨大地震を未然に防ぐ話なのだが、タイトルやストーリーとは裏腹に、陰鬱でおどろおどろしく、途中でニーチェが引用されるなど、完全に大人向けの寓話である。
 『輪るピングドラム』には、たびたび数字の「95」が提示されており、私は、オウム事件が起きた年を表すものと解釈していた。しかし、1995年には、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件と、未曾有の大事件が立て続けに起きており、「95」がそのうちの一方だけを示すと考えるのは、いささか早計に過ぎたようだ。
 『村上春樹全作品 1990〜2000 短編集II』(講談社)末尾の(村上自身が執筆した)「解題」によると、「かえるくん、東京を救う」を含む連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』の諸作は、いずれも1995年2月という「不安定な、そして不吉な月」に起きた出来事として、あえて三人称を用いて描かれたそうだ。連載中の副題「地震のあとで」(および、英訳された短編集のタイトル『after the quake』)は、こうした創作の背景をより明確に表している。
 村上は、すでに『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』という2つのノンフィクションでオウムを取り上げたが、それだけでは片手落ちだと感じたという。オウムと阪神大震災は、2つ一組で戦後50年の歴史に終止符を打つ「巨大な不吉な里程標」なのだ。どちらも、「我々の足下深くから」やってきた。地震は、地下のマグマ活動によって。オウム真理教は、人々の意識のアンダーグラウンドを把握し、組織化することによって。こうした問題意識の下で書かれた「かえるくん、東京を救う」は、象徴的でありながら生々しく、読む者に底知れぬ不安を抱かせる。
 この語り口は、そのまま『輪るピングドラム』にも当てはまる。“オウム以後”に炙り出された日本の不寛容が、あたかもマグマのように社会のアンダーグラウンドに蓄積されていったとき、いったい何が起きるのか? この作品が東日本大震災の年に発表されたのは、何とも象徴的である。

僕は友達が少ない

【評価:☆☆☆☆】
 第1期・第2期とも全話視聴済み(第2期は主要スタッフの交代に伴って質が大幅に低下したので、以下のレビューでは扱わない)、原作第1巻のみ既読。
 何とも身につまされるアニメである(本当は『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の方が身につまされるが、見られていたかと思うほどリアルすぎて怖いので、無視)。第1話開始早々、放課後の教室でエア友達(!)と楽しげにひとり語らう光景が描かれるが……私もやった……青春の汚点。
 友達のいない高校生が「隣人部」を結成して友達作りを目指す物語。地毛の金髪と親譲りの強面のせいでヤンキーと思われ友達のいない少年(羽瀬川小鷹)が一応の主人公なのだが、この設定は(よく似た『とらドラ!』とは異なり)作中であまり生かされていない。キャラクターデザインはむしろ美少年で、圧倒的な負のオーラを放つ二人の少女に挟まれた犠牲者という役どころ。少女の一人、読書好きで表情のきつい三日月夜空は、人と交わらずにエア友達とばかり親しむので、友達がいない。もう一人の柏崎星奈は、とびきりの容姿と学年トップの頭脳を持ち、いつも男どもを侍らせるリア充の極みに見えながら、あまりに子供っぽい自己愛ゆえに友達ができない。この3人の三角関係が作品の骨格になるのだが、小鷹−夜空−星奈が「友達少ない」の原級−比較級−最上級を体現し、結果的に小鷹がふつうの高校生に見えてくるところが可笑しい。例えば…
  • ケータイに登録しているのが家族だけ−登録する人がいない−ケータイは持っていない(必要ないし)
  • しばらくカラオケに行っていない−カラオケにはエア友達と行く−カラオケ店の入り方を知らない
そしてもちろん、
  • 友達が少ない−エア友達だけで満足−友達ができるわけないことに気付かない
 最上級の私としては、同類の星奈に共感せざるを得ない。
 原作となる平坂読のライトノベルは、隣人部に入ったことで逆に周囲から敬遠される結果となった小鷹を中心に話が進むが、アニメになると、トムとジェリーのように喧嘩ばかりしている夜空と星奈のやりとりにスポットライトが当てられる。性格の悪い夜空がウィークポイントを確実に突いてくるので、星奈は何度も「夜空のバカ〜!」と泣き叫びながら部室を飛び出す。それでもめげずに、翌日には部室に戻って平然と美少女ゲーム(星奈からすると同性の友達を作るゲーム)をプレイしているのだから、打たれ強いのか弱いのか。夜空が単なる悪罵として「肉」と呼んだのに、「あだ名って初めてだったから…その、ちょっと…う、嬉しくて」と受け容れてしまうズレっぷりが、あまりに切なすぎて笑える。
 演出もうまい。その最高の例が、第2話の「電脳世界は神様が居ない」で、ゲームの世界に入り込む小鷹ら3人の姿が見事。特に、「きらめきスクールライフ7」で長田有希子がせもぽぬめ(「いいお名前ですね」「何という残念な感性…」)に冷たくする場面は、これぞアニメという名シーンである。
 ミュージックビデオ風のエンディングも素敵で、夜空が何気にエアギターを弾いているところがイイ。

キャッツ・アイ

【評価:☆☆☆】
 第1期・第2期全話視聴済み、原作全巻既読。
 私は中学の頃から都内の上映会に足を運ぶ映画ファンで、テレビアニメには見向きもしなかったが、ある時、偶然付けたテレビで見た『CAT'S EYE』第2期の「プレゼントはパパのワイン」(第11話)を「意外に面白い」と感じ、そのまま原作漫画を全巻読むほど入れ込んでしまった。その後、『うる星やつら』(再放送)や『ダーティペア』などを通じてアニメ鑑賞眼が肥えてくると、当初感じたほどの秀作ではないとわかってきたものの、思い入れの強い作品であることに変わりはない。
 美術品や宝石ばかりを狙う窃盗団キャッツアイ−−レオタードに身を包んだ美女3人組の正体は、同名の喫茶店で働く泪・瞳・愛の3姉妹で、時刻まで指定した犯行予告をするのに、毎回、鮮やかな手口で警察を煙に巻いていく……。もっとも、これだけの話なら、アルセーヌ・ルパンをセクシーな女性に置き換えた単なる怪盗譚にすぎない。『CAT'S EYE』の最大の面白さは、ヒロイン瞳の高校時代からの恋人である俊夫が、彼女の意に反して警察に就職し特捜班でキャッツアイを追い続ける点にある。犯行中に顔を一目見られるだけで恋愛関係が破綻するという緊張感が、ピリッとしたスパイスとなって全編を引き締める(「覆面をすればいいのに」と突っ込むのは野暮である)。
 この緊張感を一編のドラマとして昇華させたのが、シリーズ中の最高傑作と言って良い「一度だけあなたに会いたい」(第1期第21話;脚本:金春智子)だろう。俊夫がキャッツアイと電話で言葉を交わすクライマックスは、何度見ても幸せになる。
 原作は、まだ新人だった北条司が慌ただしく作ったプロットに基づいているため、辻褄の合わない点が少なくない。当初は、美を愛でる粋な怪盗として美術品や宝石を盗んでいたが、それでは、危険を冒してまで犯行を続ける動機に乏しいので、途中から後付けの設定で、行方不明になった父親を探すという裏の目的があることになった。しかし、原作やアニメの展開を見る限り、父親探しのプロットが成功したとは言い難い。むしろ、動機など気にせず、ルパン三世と銭形警部のように、美人泥棒と彼女の恋人である刑事が、エンドレスに追いかけっこを続ける物語として楽しんだ方が良いだろう。
 よけいなプロットを気に掛けなければ、『CAT'S EYE』のさまざまな魅力を素直に味わえるはずである。何よりも、北条司の画力に注目したい。次回作『CITYHUNTER』になると、北条漫画の特徴である八頭身の偉丈夫が活躍するが、『CAT'S EYE』では、対照的に女性のボディラインの美しさが際だつ。近年のアニメに多い胸だけ大きな少女体型のヒロインとは異なり、成熟した女性の魅力を感じさせる。また、メガネの鼻バッドのようなポイントとなる細部をきちんと描くことで、画面全体のリアリティを高めている点にも注目してほしい(鼻バッドをここまで描き込んだ漫画・アニメが『CAT'S EYE』以前にあっただろうか?)。
 個人的には、浅谷さんが好きだ。いろんな意味で彼女がフィーチャーされる「あなただけに今晩は」(第1期第19話)は、浅谷さん萌えの私にはたまらない。

トップをねらえ!

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 『王立宇宙軍 オネアミスの翼』制作のために岡田斗司夫が中心になって設立したガイナックス(会社の体をとっているものの実態はオタク集団)が、『オネアミス』で出た赤字を埋めるために企画したにもかかわらず、凝りすぎたためにかえって借金を増やしてしまったという曰く付き作品。冒頭、巨大ロボットが縄跳びや腕立て伏せをするシーンがあり、笑いを取る軽いパロディ作品かと思わせるが、そうではない。心を込めて真剣にパロディを実践した熱血アニメである。
 このアニメがどのように制作されたかは、岡田斗司夫の著書『遺言』(筑摩書房)に詳しい。例えば、ある場面でドヴォルザークの「家路」に似たメロディが流れるが、これは「家路」そっくりのメロディをわざわざ田中公平に作曲させたもの。ドヴォルザークの著作権はすでに切れているので、シンセで「家路」を演奏しBGMにした方が遥かにお手軽で安上がりである。にもかかわらず、作曲家の沽券を傷つけてまであえて新規に作らせたことについて、岡田は「「手抜きでパクリやってるんじゃない。大まじめに努力を重ねて技術の粋をかけてパロディやってるんだ!」という音楽が欲しかった」と記している(前掲書p.111)。ここに、『トップをねらえ!』制作の基本姿勢が見て取れる。
 巨大ロボットを操縦して戦闘に参加する少女は、『トップ』以前にも『機動戦士ガンダム』のセイラ・マスなど何人かいた。しかし、『トップ』のヒロイン・タカヤノリコのようなアニメ顔・アニメ声の美少女がノリノリでメカを操るというのは、他に例のない斬新な演出だった。彼女が、「スーパー・イナズマ・キーーックーー」などと絶叫しながら技を掛ける場面では、思わず笑みがこぼれてしまう。当時、メカものと美少女ものが人気アニメの2大潮流だったが、『トップ』ではこの2つを強引に合体させており、「その手があったか」と多くのアニメーターを悔しがらせた。
 あまりにもコテコテの演出なので、初めのうちは、とてもついていけないと感じるかもしれない。だが、第3話辺りまでくると、アニメの世界にどっぷり浸かって抜けられなくなるだろう。私自身、「笑いながら拍手したくなるこの感覚は何?」と訝りつつ見ていたが、岡田の『遺言』の中に的確な指摘があった。第5話ラストでのノリコのモノローグ−−「ごめん、ごめんねスミス。もう泣かない約束だったよね。でもキミコは褒めてくれるよね。パパ」。ひどく変な台詞であり、シナリオを読んだスタッフもあれこれ文句を付けたのだが、これに対して、山賀博之(クレジットされていないが実際の脚本執筆者)は、力強く「タカヤノリコはバカなんです」と答えたという(前掲書p.124)。「ああそうか、ヒロインがバカで作ったのもバカ、見ているこちらもバカになり、全員が真剣にバカやるから楽しいんだ」と、思いっきり納得してしまった。
 パロディ満載の熱血アニメとして快調に話が進む『トップ』だが、第6話に入ると、突然、画調が一変する。ここは、見る側も居住まいを正すべきである。特に、ラストの数分間は、突っ込みを控えて素直に画面を見つめてほしい。既に多くの模倣作が作られた現在、制作された当時と同じように感動するのは難しいかもしれない。だが、バカになってタカヤノリコと心をシンクロさせることができれば、最後に暗闇の中から浮かび上がる映像に言い知れぬ感動を覚えることだろう。

ふしぎの海のナディア

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 1990年の初放送以来、再放送やレンタルで繰り返し見た作品であり、最も愛着を覚えるアニメの1つだが、“島”編を含む構成上の問題から、やや控えめの評価とした。
 『ナディア』のもともとのアイデアは、『未来少年コナン』制作後に宮崎駿がNHKに提案した企画に由来する。この企画をもとにNHK側が独自のプロットを作成したが、制作を請け負ったガイナックスの岡田斗司夫や庵野秀明が「面白くない」と徹底的に練り直したという。こうして、失われた海底文明のプリンセスで動物と会話もできる心優しい少女ナディアを主人公とするファンタジックな物語は、NHKの当初の意図に反して、ワガママで自分本位な少女と彼女に振り回される少年を軸に、ドロドロの人間関係をはらみながら、終盤には宇宙船同士の戦闘シーンまであるごった煮的なアニメに変貌した。ガイナックスは、初期予算の大半を第1話と第2話で使ってしまったり、放送開始までに13話を納入せよという契約に反して4話しか作っていなかったりとやりたい放題で、NHKのプロデューサーは相当振り回されたようだ(岡田によれば、怒りのあまり口から泡を吹いて入院したとのこと)が、結果的に、ガイナックス・カラーが強く打ち出された秀作が生まれたわけである。
 『ナディア』は、大きく3つの部分に分けられる。ノーチラス編(第1-22話)は、おそらく宮崎の原案にかなり近い内容で、科学技術文明が急速に発展する19世紀末の世相を背景に、科学による明るい未来を信じる少年ジャンと、故郷アフリカへの帰還を望む褐色の肌の少女ナディアが、潜水艦ノーチラス号に乗ってさまざまな冒険を体験する。主人公の二人に、ネモ船長とエレクトラ副長らノーチラス号の乗組員をはじめ、ナディアが持つブルーウォーターを狙うグランディス一味、世界征服をもくろむ秘密組織ネオアトランティスが絡み、冒険活劇として無類に面白い。特に、「ナディア救出作戦」(第8話)と「走れ!マリー」(第13話)は、意表をつく展開、ギャグを交えたアクション、衝撃的なクライマックスを備えた出色のエピソードである。
 第1部の掉尾を飾る「さよなら…ノーチラス号」(第21話)と「裏切りのエレクトラ」(第22話)は、それまでの痛快な冒険活劇から一転して、深刻な悲劇となる。前者の激しい戦闘シーンも見応えがあるが、それ以上に凄いのが後者であり、人間の内面に深く切り込んで、テレビアニメの枠を越えた傑作となった(ちなみに、エレクトラとはギリシャ悲劇の登場人物で、娘が父親に抱く近親相姦的な愛情を指すエレクトラ・コンプレックスの語源となった)。
 これに続くのが、問題の“島”編(第23-34話)である。現在の視聴者はネットなどで情報を得て心構えもできているだろうが、初放送時に視聴していた私は、回を追うごとに作画が荒れ内容が空疎になっていくのを、ただ呆然と見守るしかなかった。岡田斗司夫の『遺言』(筑摩書房)によると、資金や人材が絶対的に不足しており、最終5話にリソースを振り向けるためにあらかじめ予定されていた手抜きだったらしい。これから見る人は、よほど暇でない限り、ナディアたちが“島”に漂着する第23話、“島”の正体が明らかになる第30話(登場人物が急に増えるが、話の流れでわかるはず)、“島”からの脱出を図る第31話だけで充分だろう(第24-25話にはナディアが本性をあらわにする場面があるので、彼女に深い関心のある人は楽しめるかもしれない)。
 N-ノーチラス編(第35-39話)は、かったるい“島”編とは打って変わって、異常なテンションの高まりを示す。途中、『宇宙戦艦ヤマト』を意図的に模倣したシーンがあるが、これはパクリではなく、『ヤマト』を乗り越えてみせるという庵野監督の挑戦である。実際、N-ノーチラス号の登場シーンは全て最高にカッコ良く、オリジナルの『ヤマト』はもとより、私がこれまで見た同種のシーンを全て凌駕する(『宇宙戦艦ヤマト2199』のスタッフにも庵野のような気概を持ってほしかった)。
 最終回「星を継ぐ者…」は、神懸かり的な完成度である。脚本を執筆した岡田は全く別の終幕を構想していたのだが、キャラを立てることを主眼とする庵野の執念が、この感動的な最終回を生み出した(この辺りの事情は、岡田の『遺言』に詳しい)。特に、ラスト2分間のエピローグは心にしみる。私は、このエピローグを思い出すだけで、いつでもどこでも泣くことができる。

新世紀エヴァンゲリオン

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 アニメファンとしての私のささやかな自慢は、『エヴァ』の全エピソードを初放送時にリアルタイムで見たことである。第14話「ゼーレ、魂の座」は、1月3日の早朝に放送されたため見逃した人が多いが、私は寝ぼけ眼でテレビに向かい、お化け綾波のシーンでは、文字通りのけぞって後頭部を壁に打ち付けた。第14話は『エヴァ』の転換点となる重要なエピソードで、これ以前の戦闘では勝利が爽快感を与えてくれたのに対して、第15話以降の戦いは、勝ち負けにかかわらず、ひどく苦い思いを残すようになる。
 すでに多くの模倣作が現れた現在、若いアニメファンにとって、初めて『エヴァ』の世界に接したときの驚きを想像するのは難しいかもしれない。だが、われわれには、全てが新鮮だった。例えば、綾波レイ。今でこそ、「職務には有能だが無口で感情を表に出さない」という女性キャラは1つの類型となり、アニメで描かれる女性グループに綾波タイプが一人含まれるのが当たり前だが、当時は、それまで見たこともない人物像だった。しかも、彼女が最初に登場するシーンでは、全身に包帯を巻いた痛々しい姿でありながら、なおも命令されるままに戦い続けようとし、同情を峻拒する厳しさを示す。抑揚がないにもかかわらず明瞭に言葉が聞き取れる林原めぐみの見事な口跡と相まって、あっという間に多くの視聴者を虜にした(ちなみに、赤い目、薄い色の髪というアルビノのような外貌のヒロインには、萩尾望都『スターレッド』のレッド星という先例がある)。
 こうした斬新さは、決して奇を衒った結果ではない。庵野秀明(脚本・監督)が、それまでのアニメのパターンにとらわれず、自分の率直な思いを作品にぶつけたからこそ生まれたのである。前作『ふしぎの海のナディア』のナディアも、意地っ張りで自分本位という従来のヒロインには見られない性格設定だったが、これが庵野自身の女性観を反映させたものであることは、岡田斗司夫らが証言している。同じように、綾波、アスカ、シンジ−−そして、誰よりもカヲル君−−ら『エヴァ』の主要キャラも、庵野の強い思い入れに則って造形されたと推測される。終盤になって異様なほどに彼らのキャラが立ってくるのも、頭でこしらえた人物像ではないからだろう。
 キャラクターに限らず、『エヴァ』には、至る所に庵野自身の心情の吐露が見られる。SF的なガジェットのように思えるATフィールドやコアも、孤独な人間が周囲に対して張り巡らす心理的バリアや、他人に触れられたくない最も内的な部分として見ると、ATフィールドの侵食や反転、コアの破壊などの描写が、妙に生々しく感じられる。『エヴァ』が持つきわめて強い訴求力は、生々しい心情を神話・宗教・科学に由来する換喩的な表現に溶かし込むことによって生じたものである。
 それにしても、第18話「命の選択を」から第24話「最後のシ者」までの胸が苦しくなる緊張感は、何とすさまじいことか。個人的な体験で言えば、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』で秘められた事実が明かされる瞬間、あるいは、マーラーの第9シンフォニー第1楽章で輝かしいクライマックスが突如くずおれる瞬間にも、これと似た感覚を覚えたが、『エヴァ』では、それが1ヶ月半にわたって持続されたのである。毎回毎回、心身共に疲労困憊する思いだった。
 『エヴァ』は、企画書ができてから準備に1年半を掛けながら、放送開始時点で完成していたのが8話程度しかなく、後半には、制作時間の不足が深刻になっていたという。そのせいか、終盤では、戦闘シーンなどを除くと、大半が静止画にごく単純な動きを加えただけとなるが、にもかかわらず、テンションが異常に高いという不思議な状況が生まれた。見る側からすると、まさにライブ感覚であり、アンプや楽器が次々に壊れる中、生歌と手拍子だけで必死に演奏を続けるバンドを目の当たりにしたようだった。動画を作る余裕がないからと言って、手抜きにはしない。人類補完委員会の場面では、人物の代わりに「sound only」と書かれた不動のモノリスを登場させることで、かえって非人間的な不気味さを際だたせた。絵が動かないことを逆手に取った演出は、第21話のベッドシーンや第22話のエレベータのシーンでも効果を上げるが、最も強烈なのは、第24話でバックに歓喜の歌が流れるところだろう。見ているだけで、神経が焼き切れそうになった。
 …もっとも、神経が焼き切れたのは、スタッフの方だったようだ。不可解としか言いようのない最終回の終了後、私は、1時間ほど床に倒れ伏していた。しかし、これもまた、2度と味わえない貴重な「エヴァンゲリオン体験」だったのかもしれない。

彼氏彼女の事情

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 1990年代に活躍したテレビアニメ監督として、多くのアニメファンは、まず庵野秀明の名前を挙げるだろう。1988年にOVA『トップをねらえ!』の監督を務めて以降、所属するGAINAXのテレビ進出に伴って『ふしぎの海のナディア』(90年)、『新世紀エヴァンゲリオン』(95年)という2本のヒット作を監督する。しかし、『彼氏彼女の事情』(98年)を最後にテレビアニメから遠ざかり、しばらく『ラブ&ポップ』などの実写映画の制作に携わった後、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』4部作の仕事に向かう。宮崎駿や押井守も、何本かテレビアニメの演出を担当した後、劇場用アニメに専念するようになるが、彼らがテレビアニメよりも劇場用アニメで真価を発揮し、強烈な個性を感じさせる傑作を作り上げたのに対して、庵野は、テレビアニメ時代が最も輝いていたように見える。それでは、彼はなぜテレビアニメから遠ざかったのか? 謎を解く鍵は、『彼氏彼女の事情』における過剰なまでに技巧的な表現にあると思われる。
 『エヴァ』には、庵野自身の心情が窺える場面がいくつもあった。例えば、NERV湯でのカヲル君との会話−−「そう、好意に値するよ」「好意?」「好きってことさ」−−を、少し後になって、シンジは微妙に異なった言い回しで回想する。こうした一見ささやかな、しかし、根本的な誤解をさりげなく描くことは、似たような実体験をしていない人には難しい。庵野は、自分の体験に根ざす思いのたけを『エヴァ』を投入しており、その結果として、強烈な切迫感を持つ作品が生まれたと言えよう。だが、『彼氏彼女の事情』になると、もはや作品世界にのめり込んでおらず、明らかに登場人物との間に距離をとっている。その間隙を埋めるために、唐突なギャグ、わかりにくいパロディ、実写映像や劇メーションの使用など、さまざまな工夫を凝らしたのである。「ああ、いろいろやっているな」と感じられるのは、監督がノッておらず、表面的なテクニックが浮いているからである。何度も『宇宙戦艦ヤマト』や『鉄人28号』の楽曲を威勢良く響かせるが、『ナディア』におけるヤマトの模倣がオリジナルを越える劇的なシーンになっていたのと対照的に、空疎でわざとらしい。
 アニメ『彼氏彼女の事情』は、第1-3話辺りはかなり面白く、第13話まで順調にストーリーが展開するが、後半に入ると、繰り返し総集編が挿入され、演劇を巡るエピソードもほとんど進展しないまま、中途半端な形で終了する。その原因は、アニメが原作に追いついたせいだとされるが、私には、脚本を執筆していた庵野が途中で投げ出してしまったようにしか思えない。第16話からは佐藤裕紀との共同監督となり、どのように役割分担したかも不明である。庵野がテレビアニメに見切りをつけたのは、『彼氏彼女の事情』の経験を通じて、テレビアニメというメディアによって自分の思いを表現することが、もはや困難になったと実感したからではなかろうか。

東京マグニチュード8.0

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 東京を襲った巨大地震による深刻な被害と、帰宅難民となった主人公3人(中学生の姉と小学生の弟、彼らと行動をともにするシングルマザーの女性)の苦闘を描いた佳作。自然災害を取り上げた実写映画には、パニック状態になって逃げまどう被災者を描く作品が少なくないが、『東京マグニチュード8.0』に登場する人々は、(揺れや建物の崩落が収まった後は)おしなべて落ち着いた行動を示す。専門家の報告(例えば、ソルニット著『災害ユートピア』(亜紀書房)など)によると、未曾有の災害を体験した人は、感情的にならず利他的な行動を示すとのことなので、このアニメの描写は、かなり現実的だと言えよう。
 東日本大震災で津波の被害が大きかったのに対して、東京など大都市圏で懸念されるのは、むしろ建物の損壊と火災による被害である。アニメの中で起きる地震の種類ははっきりせず、作中では東京湾北部を震源とする首都直下型、公式ホームページでは(おそらく相模トラフを震源とする)海溝型とされるが、いずれにせよ、震度6強〜7クラスのきわめて激しい揺れが広範囲にわたって発生したと仮定し、綿密なリサーチに基づいてアニメ化したようだ。首都圏の地震被害に対して楽観的な人もおり、「1981年に設けられた耐震基準を満たしていれば、震度6強でも倒壊しない」と言われることがある。だが、建物の耐震設計は水平加速度に対する応力に基づいて行われるので、気象庁が発表する震度とは必ずしも結びつかない。地盤の状態や振動パターン(直下型のように横揺れと縦揺れが同時に襲うケースなど)によっては、耐震基準を満たしていても、深刻なダメージを受けかねない。耐震性が高いとされる高層ビルや橋梁などの大規模建築であっても、悪条件が重なると倒壊する危険が生じる。アニメでは、放置された車両の火災が長時間にわたって続いたため、鉄材が弱体化してレインボーブリッジが崩落するさまが描かれたが、これも現実に起こる可能性がある。このほか、帰宅困難者の大量発生、救援活動の不備、医療現場で行われるトリアージ(助かりそうな人を優先する負傷者の選別)などもきちんと描写されており、都市部における地震災害のシミュレーションとして参考になる。
 ただし、1本のアニメ作品として見た場合には、欠点が少なくない。地震被害のリアルな描写は見事であり、また、終盤には人間ドラマが急速に盛り上がる(不覚にも泣いてしまった)ものの、主人公3人が自宅を目指して移動する途中の場面は、不必要な繰り返しやくどい描写が多く、ひどく間延びしている。ノイタミナ枠で放送された際にはかなり退屈し、正味4時間の本編を3分の1程度に圧縮すればもっと面白くなると感じたものである。もっとも、文化庁メディア芸術祭優秀賞受賞後にフジテレビで放送された52分の特別編集版を見たときには、少し刈り込みすぎという印象を受けた。イベント上映用に95分版、110分版などいくつかの再編集版が作成されたとのことなので、できれば見てみたいが、DVD化はされないのだろうか。

よみがえる空 RESCUE WINGS

【評価:☆☆☆】
 全話(テレビ未放映の第13話含む)視聴済み。
 このアニメで描かれるのは、航空自衛隊航空救難団という「救助のプロ」の姿である(航空救難団は、本来は墜落した自衛隊機の救助を行うためのものだが、サイドビジネスとして、急患の空輸や遭難者の救助も行う)。救助のプロとは何かを教えてくれる、こんな実話がある。阪神大震災のとき、瓦礫の下敷きになった人を救出するために派遣された自衛隊は、号令に従って組織的に行動し、定期的に休息を取りながら救出活動を行った。地元民は、こんなときに休んでいられないとひたすら瓦礫を掘り返していたが、間もなくばてて動けなくなる。一方、自衛隊員はたゆまずに効率的な作業を続け、結果的に、より多くの被災者を助け出したという。これがプロというものである。時に非情とも思えることがあるが、組織として救助を行っていくために何が必要かをふまえた上での行動なのである。
 救助のプロにとって特に重要なのが、二次遭難を出さないことである。自らの危険を顧みず命懸けで救助に当たる行為は、傍目には立派に見えるが、二次遭難がたびたび起きると隊員の士気が低下し、組織的な救難活動を維持できなくなる。二次遭難のリスクがある場合は、たとえ目の前に要救助者がいても、諦めて帰投しなければならない。このため、現実における救助のプロの活動は、見た目には、あまりドラマチックでない。救助の過程で、隊員が生命の危険にさらされてハラハラする場面はほとんどなく、救助可能なときは、拍子抜けするほど簡単に助けてしまう。実際には、一般の人が気がつかないところで、きわめて高度な「プロの技」を駆使しているケースが少なくないのだが。
 救助のプロを取り上げる場合、「見た目にドラマチックでない」活動をそのままリアルに描くかどうかが問題となる。海上保安庁による海難救助を扱った映画『海猿』では、現実には行われない命懸けの救難活動が描かれ、そのハラハラ感のせいかヒット作となったが、アニメ『よみがえる空 RESCUE WINGS』は、そうした作り物のドラマを避け、プロによる救助の実態をきちんと描き出した。それゆえ、間一髪のところで人を助けるという爽快なドラマではない。遭難者を助けられなかった隊員や残された遺族の苦悩、あるいは、救助はされたものの周囲に迷惑を掛けたことに対する遭難者の悔恨など、決して楽しいとは言えない話が続く。しかし、作り物のドラマでないからこそ、われわれが救助のプロを必要としていることが強く実感され、彼らに対する信望の念が湧いてくる。それだけでも成功した作品と言えるだろう。
 私が好きなのは、第6-7話の「Bright Side of Life (前後編)」である。海に墜落した自衛隊機のパイロットを救出するエピソードで、挿入歌として使われる「ひょっこりひょうたん島」の主題歌が感動的である。

コードギアス 反逆のルルーシュ

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 第1期・第2期とも全話視聴済み。
 『コードギアス』第1期は、2006年10月から深夜枠で2クールにわたって放送されたが、25回枠のうち2回が総集編に当てられ、第23話までという中途半端な形でいったん終了、2007年7月にエンディングと思われた第24-25話が放送されたものの、内容的にはストーリー半ばで中絶する形となっており、ファンの期待は、直ちに制作が予告された第2期に託された。しかし、日曜夕方の枠に移動して2008年4月から始まった第2期で、作中時間は1年後に飛んでおり、第1期エンディング後の出来事は回想を通じて簡単に説明されるに留まった。こうした経緯から推察するに、『コードギアス』は、当初から全50話の構想があったわけではなさそうだ。脚本を執筆した大河内一楼のインタビューによると、もともと夕方放送のロボットアニメとして企画されたが、諸般の事情で深夜枠に変更になったため、CLAMPのキャラクターデザインだけ活かして他は全て作り直し、ロボットの活躍場面を減らす一方、主人公ルルーシュの策略家としての面を大きくしたという(バンダイチャンネル「オリジナル特集〈月刊〉アニメのツボ Vol3 クリエイターズ・セレクション 脚本家・大河内一楼」)。おそらく、深夜枠での放送中にルルーシュのキャラクターが人気を博したので、2クールで終わらせずに第2期に続けたのだろうが、結果的に、第1期は「話は面白いのに中絶」、第2期は「大味な展開だがラストはきれいに決まる」という評価しづらい作品となった。
 舞台となるのは、神聖ブリタニア帝国が世界の3分の1を支配するパラレル・ワールド。母親を謀殺されたことで皇帝に強い恨みを抱くブリタニアの皇子ルルーシュは、他者を絶対的に服従させられる特殊能力(ギアス)を手にしたことから、これを利用して帝国の転覆を謀る。第1期前半、ギアスを巧みに利用して圧倒的な軍事力を持つブリタニアを翻弄するルルーシュの知略は、何とも小気味良い。第8話「黒の騎士団」ラスト近く、ルルーシュが仮面をかぶった謎の人物ゼロとして「力ある者よ…」で始まる決め台詞を口にする場面では、いかにも大時代的な言い回しであるにもかかわらず、つい興奮してしまう。ここから第11話「ナリタ攻防戦」辺りまでが、第1期の白眉だろう。
 もっとも、絶対遵守のギアスだけで超大国に対して軍事的な勝利を収めるというプロットには、現実的に考えるとかなり無理がある。このため、ルルーシュの行動が具体的に描かれるのは初めの頃だけで、途中からは、あらかじめ裏で仕込んでいた策略が全てうまく奏功し、あれよあれよという間にルルーシュが軍事的な主導権を握るというやや安易な展開となる(知略の内容が具体的に描かれない点は、同じく策略家が主人公の『DEATH NOTE』とは大きく異なる)。このほか、強力な新兵器があり得ないほどの短期間で開発されたり、まるで用意されていたかのような逃げ道があったり(第19話「神の島」の展開たるや!)と、アラ探しを始めるとキリがない。
 だが、困ったことに(いや、困るのはドラマ重視派の私だけだが)、それでも『コードギアス』は面白い。プロットには無理があり、ストーリーにはほころびが目立つが、見ている間はそうした難点を忘れさせるほどエキサイティングである。その最良の例が、第22話「血染めのユフィ」だろう。ここでは、いかにも唐突に悲劇が起きる。ベテランの脚本家ならばきちんと張っておくはずの伏線もなく、子細に検討すると辻褄の合わない点も多い。にもかかわらず、見ている間は、胸が苦しくなるほど感情移入してしまう。
 思うに、大河内の脚本は、アニメ的状況の扱い方が巧みなのだろう。アニメは、小説のように、言葉を使って細かな説明をすることができず、漫画のように、読者に特定のコマを見つめさせて滞留時間を引き延ばすこともかなわない。動画と台詞、効果音で状況を提示するが、説明が充分でなく時間も限られるため、状況に関する視聴者の捉え方は、それまでの体験と重なるようにパターン化されやすい。ところが、このパターンが情念を強く揺り動かすようなものだと、作中のストーリーから離れて、与えられた状況だけに共感することが可能になる。「血染めのユフィ」でユフィが体現する状況は、まさに共感を引き起こすパターンなのである。視聴者がナイーブに共感できるアニメ的状況を随所に用意することで、『コードギアス』は、飛び抜けて面白い作品となったと言える。
 第2期に入ると、さまざまなギアスを持つ新キャラや、戦局を一変するほどの威力を持つ兵器が次から次へと登場し、華やかであってもドラマ性に欠けた大味な展開になる。しかし、第1期終了後に構想を練る時間的余裕があったおかげか、ゼロレクイエム計画が実行に移される終盤は、完成度が高い。ゼロレクイエム計画で要となるのが、現実のルルーシュと虚構のゼロという表裏の関係である。ルルーシュが復讐という個人的な目的のために行動していたにもかかわらず、その過程でゼロという虚構の存在が一人歩きし始め、いつしか、ルルーシュではなくゼロの方が民衆の信望を集めるようになっていた。途中でプロットが空中分解しそうになりながら、『コードギアス』が感動的な大団円を迎えることができたのは、虚構の英雄が作り出すアニメ的状況に、われわれがナイーブに共感するからだろう。

フラクタル

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 テレビアニメの中には、私が高く買うのに世間的評価の低い作品もあるが、特に気になるのが、この『フラクタル』だ。ヒロインの“フリュネ”は、開始早々、いきなりメーヴェを思わせる小型飛行機に乗って現れ、シータのように空から落ちてくる。その丸みを帯びた容貌は、どこか宮崎アニメとの共通点を感じさせ、見る者に、彼女が清純で行動的な少女だというイメージを植え付ける。“フリュネ”を追う3人組は、『ふしぎの海のナディア』に登場するグランディス一味とそっくりだ。しかし、こうした類似に基づいて以後の展開を予想すると、ひどく裏切られることになる。こうしたはぐらかしが『フラクタル』に批判的な人を増やす原因になったのだろうが、先行作品をパクったかのような表現は、むしろ、外見に基づく思いこみの弊を視聴者に痛感させるための手段と言うべきだろう。
 『フラクタル』では、外見と内実の食い違いが繰り返し語られる。典型的なのが、社会的インフラであるフラクタルシステム。体内にフラクタル端末を埋め込まれた住民は常に拡張現実だけを目にし、コミュニケーションもアバターを通じてしか行わない。もはや労働の必要はないとされ、誰もが個人的な趣味に埋没し安逸をむさぼる。しかし、稼働後1000年近く経過したフラクタルシステムは劣化し、住民が気がつかないうちに、もはや維持が困難な状況に陥っていた。
 フラクタルシステムのこうした危機を正面から扱えば、『フラクタル』は面白いSFアニメになったろう。だが、監督の山本寛は、あえて正攻法を採らなかった。システムの実態は明確にされず、生活に必要な最低限の消費財がどこから供給されているかもわからない。システムに批判的なロストミレニアム運動を描きながら、何が問題で何を実現したいかという展望は語られず、行動に一貫性が欠如している。
 ここからは憶測になるが、フラクタルシステムについて突っ込んだ説明がないのは、原案を提供した東浩紀と山本監督の間に見解の相違があったせいではないか。東は、山本よりも社会科学的に緻密な考証を行ったようで、未来の視点からフラクタルシステムとは何だったかを分析する小説『フラクタル/リローデッド』の執筆に着手したが、第1章(月刊『ダ・ヴィンチ』2011年2-5月号)だけで中絶した。山本は、東のアイデアの一部にだけ興味を抱き、そのイメージを膨らませる一方で、具体的なストーリーは、シリーズ構成の岡田麿里に一任したと思われる。ところが、岡田は東の考証も山本のイメージも充分に把握しないまま、類型的なストーリーにまとめることしかできなかった。アニメーターたちにも監督の意図が伝わらなかったようで、戦闘シーンが不調和なほど派手だったり、悪役の表情が過剰に歪められていたりと、おかしな作画が目に付く。
 これだけの混乱があると、『フラクタル』はアニメ作品として破綻してもおかしくないが、そうはならなかった(と思う)。確かに、フラクタルシステムを巡る展開は杜撰だが、山本の興味は外見と内実の乖離に集中しており、この点でのブレはないからである。山本は、東が提供した原案の中に、外見と内実を巡る格好の素材を見いだした。それが、“フリュネ”とネッサの分裂であり、これを描くことを目的として『フラクタル』を作ったのだ。
 技術的な詳細は語られないが、おそらくフラクタルシステムの中枢マシンは一種の生体コンピュータであり、その起動には、システム設計に利用された少女フリュネが必要とされる。システムが不安定になったときのため、開発者は、再起動に必要なフリュネの肉体と精神を、前者はクローンとして、後者はデータとして用意しておいた。ところが、開発後数百年経ってシステムを再起動させようとしても、クローン・フリュネの肉体とネッサと呼ばれる精神のデータはうまく融合しない。システム管理者の一人がようやく見い出した原因は、オリジナルのフリュネが父親による性的虐待の影響で退行を起こし、肉体年齢と精神年齢が一致しないことだった。そこで、彼は自らクローン・フリュネの一体を陵辱し、精神的に不安定にして融合を可能にしたのである。このクローンがヒロインとして登場した“フリュネ”であり、宮崎アニメに登場する清純な少女とは全く異質の存在なのである。
 “フリュネ”とネッサの融合は、分裂していた肉体と精神が再び一つに戻ることではあるが、必ずしも幸福を意味しない。“フリュネ”の肉体は、主人公クレインとの交流を通じて内なる精神を成長させており、もう一つの精神であるネッサが取り込まれることは、必然的に、何らかの喪失をもたらさずにはいないからだ。最終回のラストシーンに注目してほしい。長く眠りについていた“フリュネ”の肉体が目覚め、ネッサの口調でしゃべり始めたとき、クレインはひどく当惑した表情を見せる。それに続くきわめて微妙な言葉。この場面の解釈は人によって異なるだろうが、私には、とても悲しいシーンのように感じられる。

化物語

【評価:☆☆☆】
 テレビ放送分全話視聴済み、原作既読。
 西尾維新の作品には何か引っかかるものがあり、テレビ放送されたアニメ化作品−−『化物語』『偽物語』『猫物語(黒)』『〈物語〉シリーズ セカンドシーズン』及び『刀語』−−を全て見ただけでなく、『化物語』ほか何冊かの著書を読んでいる。しかし、どうしても好きになれない。個々のエピソードで言えば、「まよいマイマイ」や「ひたぎエンド」はそこそこ面白かったものの、繰り返し見るほど熱中はしなかった。
 私が西尾作品の世界に入り込めない最大の理由は、ドラマの欠如にある。例えば、『化物語』の「つばさキャット」や『猫物語』のヒロイン羽川翼−−成績は常にぶっちぎりのトップである上、美人で優しく面倒見の良い完璧な学級委員長である。ところが、彼女の人生は、まるで漫画のような不幸の連続で、現在では、全く血縁のない“両親”と同居しているという。妻との確執を延々と綴って1冊の小説(『死の棘』)にしてしまった島尾敏雄ならば、家庭内悲劇として大長編を生み出せそうだ。だが、この設定を西尾はわずか2ページほどで説明してしまい、最後に「誤解していた。羽川みたいな善人は恵まれているのだろうと。神様に愛されているのだろうと。…(中略)…しかし、そうではなかった」(『化物語(下)』(講談社)p.301)という文章で締めくくる。若い読者には、この一文の方が、生々しいドラマよりも強い訴求力を持つのだ。壮絶でありさえすれば、不幸の中身は何でもかまわない。ひとたび設定がなされた後は、膨大な言葉遊びと戯画的な描写で話を進めていく。西尾の小説では、このように、ドラマを描かず設定だけを記述し、後は鑑賞する側に委ねるという方法論が徹底されている。もちろん、これは文学における一つの方法論であって、良し悪しを論じるべきものではない。『死の棘』のような純文学は退屈だと感じる人も少なくないはずである。だが、私にとっては、『死の棘』の方が遥かにスリリングでサスペンスフルであり、『化物語』はどうにも退屈である。
 アニメでは、監督を務めた新房昭之が、装飾的な演出によって、西尾の言葉遊びと戯画的描写をさらに過激化する(私が「ひたぎエンド」に好感を抱くのは、語り手が阿良々木暦から貝木泥舟に代わったことにより、言葉遊びがかなり抑制されたからだ)。新房演出の特色は、『化物語』第1話の「ひたぎクラブ」が始まってすぐ描かれる戦場ヶ原ひたぎの落下シーンに見て取れる。原作では、「丁度踊り場のところで、空から女の子が降ってきた」と記された後、「正確に言うなら、別に空から降ってきたわけではなく、階段を踏み外した戦場ヶ原が後ろ向きに倒れてきただけのことだったのだが」と説明が続く。ところが、アニメでは、後半の説明は無視され、文字通り空から降ってくるという演出になっている。あり得ないほど巨大な校舎内部に異常に広大な吹き抜けがあり、その周囲に設置されたとてつもなく壮麗な螺旋階段から『天空の城ラピュタ』のシータのように戦場ヶ原が落ちてくるのだ。こうした過剰な描写が、時にコミカルに時にエロティックに繰り広げられるのが、『化物語』の特徴である。
 『化物語』のように、華やかで装飾的なアニメがあっても、別にかまわない。ジョアン・ミロの絵画、ダリウス・ミヨーの音楽のようなもので、高度なテクニックと独創性があってそれなりに楽しめる。しかし、私はフェルメールやマーラーの方が好きであり、誰かがフェルメールよりミロの方が偉大な画家だと主張するなら、おずおずと反論するだろう。
 ついでに言うと、西尾維新原作のアニメは、どれもOP/EDの音楽が素晴らしい。特に、『化物語』の「君の知らない物語」と「恋愛サーキュレーション」は、アニメから離れても楽しめる名曲である。

【補記】本レビュー執筆後に鑑賞した全5話の短期シリーズ『花物語(「するがデビル」)』(14年)は、(私には酷く軽薄に見える)阿良々木暦がほとんど登場せず、代わりにヒロイン・神原駿河の内面を深く掘り下げており、シリーズ中、特に好感を覚える佳作だった。しかし、『終物語(「おうぎフォーミュラ」など)』(15年〜)以降になると、設定に溺れる作品が多く、あまり評価できない。

うさぎドロップ

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 「子供のいなかった人が、ひょんなことから小さな子供を育てるようになる」という物語は、洋の東西を問わず好まれる筋立てである。欧米の作品では『赤毛のアン』や『小公子』などが思い浮かぶし、日本になると、古くは『竹取物語』『一寸法師』などの民話・お伽噺、新しいところでは、山岸凉子の「雨の訪問者」やNHKドラマにもなった『ニコニコ日記』など、さらに多くの作例がある。しかし、こうしたメジャーな作品では、ほとんどの場合、子供を育てるのが老人か女性であり、若い男が幼い女の子を育てるという設定は避けられる。この組み合わせでは、アブない話になりそうだからである(日本には、『源氏物語』における紫の上のエピソードや萩尾望都の「ピカデリー7時」など、「ある目的意識を持って幼女を育てる」というアブない領域に踏み込んだマイナーな傑作も存在するが)。
 30歳の独身男(大吉)が6歳の少女(りん)を引き取って育てる苦労を描いたアニメ『うさぎドロップ』は、そのアブなさを巧みに回避し、さわやかな感動作に仕上がっている。この仕上がりは、原作(宇仁田ゆみの漫画)とはかなり違う。原作では、りんが成長して男女の問題に直面するまでが描かれる。これに対して、アニメは、大吉とりんが出会ってからの1年間に話を限定しており、性的な葛藤は気配すら感じさせない。むしろ、大吉を見るからにまじめな人物として描くことによって、一緒にお風呂に入ってもいやらしくならない誠実な育児の話としてまとめている。余白が多く描き込みの乏しい原作と比して情景や人物の描写も丁寧であり、作品としては、アニメの方を高く評価したい。
 「若い男が幼い少女を育てる」というプロットを聞くだけで、欧米の人は眉を顰めるかもしれないが、それは、欧米と日本で子供についての見方が根本的に異なるためである。欧米人は概して子供嫌いであり、粗野な子供を矯正して文化的にするのが大人の役割だと思っている。一方、日本人は全般的に子供好きで、子供であること自体に価値があると信じる。稚児行列から七五三、小学校の入学式に至るまで、日本人はいつの時代にも子供を着飾らせて楽しんできたが、こうした風習は欧米には見られない(ヨーロッパの名家にも子供に豪華な衣装を着せて肖像画を描く伝統があるが、これは、跡取りがいかに立派かを宣伝するための手段にすぎない)。欧米で子供が参加する祭りと言えば、ハロウィンのように子供だけ集まって勝手に騒ぐのがふつうであり、日本における雛祭りや端午の節句のように、大人が子供にサービスをする行事は、欧米人にはかなり奇妙に映るようだ。子供の価値を認める伝統のない欧米人は、「大人の男が小さな子供に関心を持つとしたら性的欲求からでしかあり得ない」と考えがちだが、これが偏見にすぎないことを日本人はきっぱりと主張すべきだろう。
 アニメ『うさぎドロップ』の中で私が特に好きなのは、第5話Bパートのエピソードだ。大吉はりんを養子にすべきかどうか迷い、彼女に「俺が本当のおとうさんになるのはどうだろうか」と尋ねる。私は、このときのりんの返答を聞いて、泣いてしまった。小さな子供でも、いや、小さな子供だからこそ、本当に重要な問題は心の底で真剣に考えていると実感したのだ。この返答に対する大吉の反応も、りんを自分と対等な存在と認めていることがわかって感動的だ。欧米人に理解できるかどうか怪しいが、これこそ、子供に接する日本人的な態度の典型だろう。

紅 -kurenai-

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 最初に見たとき、裏社会における過剰に暴力的な描写と、高校生の少年が預かった幼女に翻弄されるというユーモラスなエピソードが同居しており、妙に分裂した印象を受けたが、原作のライトノベル(片山憲太郎著『紅』集英社スーパーダッシュ文庫)を読んで、何となく理由がわかった。原作は、日本社会が九鳳院家などの影の権力者に支配されているという陰謀論めいた設定で、汚れ仕事を請け負う暗殺者集団が登場したり、九鳳院家奥の院では近親相姦による後継者作りが密かに進められていたりと、徹底して現実離れしたストーリーが展開される。それに伴って、裏社会の暴力もあどけない幼女の振舞いも同じようにマンガチックな筆致で描写され、分裂感はない。ところが、アニメ化するに当たって、監督・シリーズ構成・音響監督を担当した松尾衡(『ローゼンメイデン』)は、原作に忠実であるよりは、リアルな映像作りを心がけたようだ。例えば、主人公の高校生・紅真九郎は、原作では、肘に移植された“角(つの)”によって超常的なパワーを発揮できるとされていたが、アニメでは、“角”は単に肘から突き出す刃物でしかなく、これを使用するのも、ラストのクライマックスから中盤の小規模な闘いに変更された。真九郎に預けられる九鳳院家の娘・紫も、アニメでは、他の女性と真九郎を奪い合う大人びた一面を見せることなく、あくまで特異な教育を受けた幼い女の子として振舞う。このように、個々の場面でリアリティを重視したため、暴力的なシーンとユーモラスなエピソードが水と油のように分離する結果となったのだろう。
 ストーリーも人物設定も原作とかなり異なるため、原作ファンには不評のようだが、私には、あまりに非現実的な−−背後からピストルで撃たれても、鍛え上げた背筋でくい止めてしまう!−−原作よりは、アニメの方を好ましく感じる。残虐な場面は(私の好みに合わないので)ともかく、幼い紫が真九郎をはじめとする大人たちと交わり、しだいに心を許していく過程は、なかなかに感動的である。風呂屋や学校の場面では、紫のかわいさを強調する演出が少々わざとらしさ−−あえて言えばあざとさ−−を感じさせるが、第8話の「自愛と臆病と」で描かれる七五三のお参りのシーンは素晴らしい。狛犬の由来についてワイワイと語り合ったり、写真撮影のためにさまざまなポーズを取ったりと、いかにも現実にありそうな光景が繰り広げられ、その中で、紫の心情もごく自然に浮かび上がってくる。
 高校生の少年が幼女を預かるという設定は、ややアブなさも感じさせ、人によってはNGだと言うかもしれないが、私は、二人が一緒に入浴するシーンも含めて、ギリギリでセーフだと思う。これは、真九郎が、隣に住む女子大生の卑猥な冗談に真顔で反論するなど、男女問題に関してひどく奥手でまじめなことがきちんと示されているからだ。
 暗殺者集団の一員でありながら真九郎に思いを寄せる夕乃を、アニメ的なキャラではなくリアルな女子高生として描いたところも楽しめる。真九郎の前で可愛く振舞おうと、かなり奇妙なビーズ製ストラップを自分のお気に入りだと勧め、ついには強引にケータイに取り付けようとして、思いっきり鼻白まれるシーン(第2話)では、つい「あるある」と頷いてしまった。

獣の奏者エリン

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作既読。
 上橋菜穂子の小説『獣の奏者』は、世界に誇れる異世界ファンタジーの傑作である。
 異世界ファンタジーを成立させるのに欠かせないのが、リアリズムである。魔法やドラゴンを描けば良いという訳ではない。魔法が使えるなら、人々の倫理観や価値観、社会や行政のあり方が、われわれの世界とは大きく異なるはずだし、ドラゴンを含む生態系は、ダーウィン進化に基づく食物連鎖のシステムからは懸け離れた構成になるだろう。こうした点についてリアリズムの観点から徹底的に考え抜き、異世界を基盤から作り上げなければ、整合的な物語は構築できない。作家に力業が要求されるため、優れた異世界ファンタジーは稀少である(漫画やライトノベルの作家には、安易な思いつきから異世界ファンタジーを書き始め、途中で辻褄が合わなくなってジタバタする人が少なくない)。トールキンの『指輪物語』やル・グウィンの『ゲド戦記』が有名だが、『獣の奏者』もこれらに引けを取らない出来である。
 『獣の奏者』には、闘蛇と王獣という異形の生物が登場する。闘蛇は、巨大なトカゲに似た獰猛な生き物で、野生種は湖沼地帯に生息する。リョザ神王国では、採取した卵から育てた闘蛇を使い、人が騎乗する闘蛇軍を組織して、国家防衛に当たらせている。闘蛇軍はきわめて強大なため、他国の侵略を許さないが、そのままでは、闘蛇軍を管轄する大公が軍事独裁をしきかねない。そこで利用されるのが、闘蛇の天敵で、一匹で闘蛇軍の大隊を全滅させる力を持つ王獣である。王獣は、オオカミのような顔と鷲のような翼を持つ巨獣で、頂点捕食者が常にそうであるように、絶対数がきわめて少なく人にも慣れないため、飼育には真王一族だけが持つ特殊な技術が必要となる。リョザ神王国は、大公と真王のパワーバランスによって際どい平和を保ってきた。だが、このバランスは、いつ崩れてもおかしくなかった。
 『獣の奏者』は、闘蛇飼育の職能集団・闘蛇衆の村に生まれた少女エリンの物語である。闘蛇飼育という軍事機密を巡って陰謀が動き出す中、彼女を悲劇が襲う。かろうじて逃れたエリンは、病気の王獣を治療するカザルム王獣保護場の付属学舎に入り、そこで王獣がどのように扱われているかを目の当たりにして、闘蛇と王獣を巡る真実に目覚めていく…。
 …というのが、上橋の小説『獣の奏者』のストーリーだが、問題は、この小説をNHKがどのようにアニメ化したかである。NHKでは、以前に『十二国記』や(上橋が原作の)『精霊の守り人』などの異世界ファンタジーをアニメ化しているが、これらが高校生以上を対象とするのに対して、『獣の奏者エリン』は、おそらく視聴者として小学校高学年から中学校の生徒を想定したと思われる。上橋の原作を子供向きに作り直したと言っても良い(もっとも、原作の書籍自体、図書館で児童書のコーナーに置かれていて、自分で読むために借りるのは少し気が引けるのだが)。とても笑えない緩いギャグが使われたり、王獣が闘蛇を食い殺す残虐シーンが絵本風にデフォルメされた作画で表現されていたりと、大人のアニメファンには不満の残る部分も多い。
 作品の雰囲気が変わったことに関しては、自身がアニメーション監修を務めた上橋本人が説明している(「講談社BOOK倶楽部」より)。それによると、ハードで厳しい原作を子どもにも楽しんでもらえるアニメにしようと監督の浜名孝行やシリーズ構成の藤咲淳一といろいろと話し合い、最終的に(『アルプスの少女ハイジ』のような)「21世紀の名作アニメ」を目指すことにしたという。特に、後藤隆幸のキャラクターデザインについて述べた言葉−−「あの絵の、のんびりとしたふくよかさ、絵本のような良い意味での単純さは、私の物語がもっているシビアな重さを「胸を貫く冷たい刃」ではなく、「胸をしめつける深さ」に変えてくれた」−−は、このアニメの方向性を明確に物語っている。
 確かに、原作は小中学生にはかなり難しいので、こうしたアニメを利用するのも一つの方法かもしれない。しかし、「胸を貫く冷たい刃」を受け入れるだけの度量を持つ大人からすると、原作の持つハードさが失われたのは、やはり残念だと言わざるを得ない。

二十面相の娘

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 昭和前期に出版された少年向けのミステリやSFには、独特の味わいがある。昨今のジュブナイルのように、学校などの閉鎖空間に話を限定することも、逆に現実から逸脱して異世界に逍遙することもない。気球で宙を飛び警察を手玉に取って金銀財宝を盗み取る怪人や、壁を打ち壊し悪党を投げ飛ばす人間タンクが登場、手の届く日常と概念的な社会とのあわいに、現実をわずかに越えた怪異が存在するという感覚をもたらす。江戸川乱歩や海野十三が少年向けに書いた小説は、設定は陳腐、筋立てはデタラメで文学的価値は高くないが、妙に現実感のある夢のようで、何とも魅力的だ。アニメ『二十面相の娘』は、この魅力を現代に蘇らせようとする試みであり、なかなかの佳作と言って良い。ただし、乱歩や海野の物語ほど前向きでない。夢の残骸とも言うべき苦々しさが漂う。
 服部時計店前を都電が走っていた時代(1950年代半ばか?)、豪壮な邸宅で少女(チコ)が怪人二十面相の犯行を報じるニュースを食い入るように見つめている。妙に優しい叔父夫婦がしきりに食事を勧めるが、少女は頑として口を付けない。彼女が友とするのは、ホームズ物などの探偵小説だけ…。『カリオストロの城』にもつながる典型的な「Damsel in distress (囚われの姫君)」の設定で、ワクワクさせる出だしである。
 もっとも、アニメは、この後しばらくパッとしない。ストーリーの展開が性急にすぎ、新キャラが次々と登場しては消えていくため、どうにも落ち着かないのである。第2話には、20分ちょっとの間になんと4つのエピソードが詰め込まれた。この性急さは原作(小原愼司の漫画)の欠点でもあるのだが、月1の漫画よりもコンティニュイティが重視される週1のテレビアニメに移し替える際、シリーズ構成の担当者が、個々のエピソードを解きほぐすなどして調整すべきだった。
 本格的に面白くなるのは、衝撃的な事件を経て話の流れがガラリと変わる第7話「明智登場」からである。再び孤独になったチコは、いったんは痛々しいまでに憔悴するが、「自分で見て聞いて考える」という二十面相の教えを実践し、希望を取り戻す。この第7話は私の大好きな回で、何度見ても飽きない。特に、学校に通い始めたチコのエピソードが面白く、バレーボールをひょいとかわすのも微笑ましい。サブタイトル通り“明智”も登場するが、乱歩の少年探偵団シリーズで描かれるスーツ姿の明智小五郎とは異なって、丸メガネにラフな着物という金田一耕助ばりの飄々とした姿が愉快である。ここから終盤まで、主要人物がほぼ固定され、ストーリーラインがしっかりした構成になる。
 『二十面相の娘』というタイトルはミステリ物を思わせるが、実際には、SF仕立てのエピソードが多い。第2話では、旧日本軍が大戦末期に製造した超巨大戦車が登場して、視聴者を驚かせる。むやみに巨大な兵器というと、海野十三の『浮かぶ飛行島』に登場する自力航行可能なメガフロートがあるが、海野の飛行島が、日本攻撃の拠点としてイギリス軍が製造し、潜入した日本人スパイによって破壊されるという英雄譚を盛り上げるためのガジェットだったのに対して、『二十面相の娘』の戦車は、強大な兵器を作れば戦争に勝てると思う軍人の愚かしさを象徴する。無謀な軍事技術に向ける批判的な眼差しは、終盤に向かうにつれて厳しさを増し、そのまま科学技術全般の暴走を危惧する内容となる。
 ラストは少し辛気くさい気もするが、昨今の萌えアニメとは異質のクラシカルな雰囲気は悪くない。もう少し脚本が練り上げられていれば、秀作と言える出来になったろう。

坂道のアポロン

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 ふだんアニメを見ない中高年にも勧めたい秀作である。
 舞台となるのは、1960年代半ばの九州・佐世保。東京の高校から転校してきた薫は、勉強はできるが人付き合いが苦手で、ストレスから嘔吐することもある繊細な少年である。そんな薫が校舎の屋上で出会ったのが「札付きのワル」と恐れられる千太郎で、二人の交流に千太郎の幼なじみ・律子も加わる。ほっそりした秀才少年と大柄なガキ大将のコンビに美しい女性が絡むというのは、一昔前の学園ものにしばしば見られたシチュエーションだが、一歩誤ると陳腐にもドロドロにもなりかねない三角関係を、ジャズを紐帯とすることでさわやかにまとめ上げた。
 アニメ『坂道のアポロン』は、2つの難しい課題に挑戦し成功を収めている。1つは、近過去の再現である。50年ほど前の出来事というと、スタッフの大半は経験したことがないが、視聴者の中には鮮明に記憶している人もおり、杜撰に描くと誤りを指摘されかねない。しかし、あらかじめきちんと調査したのだろう、学生紛争に翻弄された青年の頽廃的な生活など、60年代の世相が丹念に再現されており、好感が持てる。こうした時代背景が描かれたことにより、ともすれば狭いサークル内の私的な出来事として語られがちな恋愛エピソードが、社会の大きなうねりの中に生きる人間の物語として、強い訴求力を持つことになった。
 例えば、第5話「バードランドの子守唄」で、薫がブルートレインで上京して母親と再会するシーン。当時はご馳走だったカツカレーを食べながら、母親が「失恋、けっこうけっこう」と言ったのに対して、薫が泣き笑いの表情で返答するシーンが素晴らしい。薫の家庭事情を考えたとき、外見上の軽さとは裏腹の言葉の重さが胸を打つ。それとともに、閉塞的な学校での出来事が相対化され、彼が着実に成長していることを実感させる。
 もう1つの挑戦は、ジャズ演奏を全面的にフィーチャーしたこと。楽器の演奏をアニメで描くのは、存外難しい。2004年のアニメ『BECK』では、ロックバンドを結成する若者たちの青春が描かれたが、肝心のコンサートシーンで、登場人物が実演しているように見えず感動が半減した。基本的には、先に録音した演奏に絵を付けていくのだが、単に楽器を弾く格好だけを描いても、今まさに音楽が創られているという感覚は得られず、絵が音に負けてしまう。だが、それから数年の間に、実写映像をCGとしてアニメ化する技術が長足の進歩を遂げたのだろう、06年の『涼宮ハルヒの憂鬱』や07年の『のだめカンタービレ』では、演奏シーンがきわめてリアルに表現された。さらに12年の本作になると、渡辺信一郎(『カウボーイビバップ』『サムライチャンプルー』)の演出のうまさも加わって、ジャズの即興演奏に興じる薫や千太郎の姿が実に生き生きとしている。
 特にすばらしいのが、第7話「ナウズ・ザ・タイム」の文化祭のシーンである。演奏しているうちに少しずつ感興が昂まっていく描写が見事だ。周囲の反応も面白い。青白い秀才と思っていたクラスメートが、突然、こんな即興演奏を始めたら、もう堪らないだろう。携帯電話がなく、人に何かを伝えたいと思うとまず体が動く時代である。何人もの生徒が夢中で駆け出して友人を呼び、しだいに人が集まってくる過程がリアルである。
 後半では暗いエピソードが続き、このままで着地点が見いだせるのかと不安になった。しかし、そんな心配は不要だった。最終回に登場する千太郎の姿には一瞬驚かされたが、少し考えると、きちんと伏線が張られており、これしかないという必然なのである。それに続く至福のクライマックス。最後に「Fine」の文字が現れたとき、「ああ、いいアニメを見た」としみじみ思える−−そんな作品である。

ゲド戦記

【評価:☆】
 この作品についての評価は、もはや必要ないだろう。ここでは、アニメ制作にかかわる3つの問題を指摘しておきたい。
(1) 原作の世界観を生かしていない
 ル・グウィンの小説『ゲド戦記』(既刊5巻+外伝)は、1つの世界を創造したことで高く評価される。舞台となるアースシーは、ドラゴンが生息し魔法が使える異世界でありながら、人々が何を食べ、どんな仕事をし、いかなる習俗に従っているかがわかるようにリアルに描写される。アニメ『ゲド戦記』は、こうしたリアルな世界を映像で再現しようとはせず、どこかで見たようなヨーロッパ中世を思わせる町並みを描くに留まっている。
 「ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと」というスピーチ(『いまファンタジーにできること』(河出書房新社)所収)で、ル・グウィンは、多くのファンタジーが、(1)登場人物たちは白人で、(2)中世っぽい時代に生き、(3)善と悪との戦いを戦っている−−という前提で書かれている(あるいは、ファンタジーとはそういうものだと見なされている)点を批判した。小説『ゲド戦記』は、こうした問題について自覚的に執筆されており、主人公のゲドは有色人種で、戦いの描写もごくわずかしかない(シリーズ原題は“Earthsea”で、邦題の「戦記」に相当する語はない)。さらに、自分が書こうとしたのは、「人が過ちを犯すこと、そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにはいられないこと」だと語った(前掲書p.11)。アニメ『ゲド戦記』が、こうしたル・グウィンの意図に沿っていないことは、明らかである。
(2) ル・グウィンの誤解からアニメ化が許可された
 この作品がどのようにアニメ化されたかについては、鈴木敏夫とル・グウィンがそれぞれ記録に残している(「世界一早い「ゲド戦記」インタビュー 鈴木敏夫プロデューサーに聞く」(YOMIURI ONLINE)と"A First Response to 'GedoSenki'", (Ursula K. Le Guin 公式ホームページ))。
 宮崎駿は、さまざまな事情でアニメの仕事ができなかった時期(おそらく82-3年頃)に、雑誌「アニメージュ」編集部の鈴木敏夫と『ゲド戦記』のアニメ化を企画し、邦訳の出版元である岩波書店を通じてル・グウィンに打診した。アニメといえばディズニー作品しか思い浮かばなかった彼女は、いったんは(他の多くのオファーと同様に)すげなく拒絶したが、十数年経ってから知人の紹介で『となりのトトロ』を見て、たちまち宮崎アニメの虜になり、翻訳者の清水真砂子に宮崎が監督するならアニメ化をOKしても良いと語った。清水は、ル・グウィンの了承を得て、この話をスタジオジブリに伝えた。
 ここで舞い上がってしまったのが、当時、ジブリのプロデューサーになっていた鈴木敏夫である。『ゲド戦記』と言えば、『ナルニア国物語』『指輪物語』と並ぶ3大ファンタジーの1つで、世界的なベストセラーである。よほどの駄作でない限り、興行収入1億ドル超は堅く、ジブリ世界進出の足がかりとなる。にもかかわらず、肝心の宮崎駿は新作『ハウルの動く城』の制作に余念がなく、『ゲド戦記』に対する関心を失っていた。ル・グウィンが、じきじきに宮崎を指名しているのに。
 そこで鈴木が取ったのが、息子の宮崎吾朗を監督に起用するという奇手である。宮崎駿が「あいつ(=吾朗)に監督ができるわけがない」と強く反対するのも聞かず、鈴木はル・グウィンと交渉しにアメリカに赴くのだが、このとき彼は宮崎駿を同道している。なぜ、吾朗の監督起用に反対していた駿がのこのことついていったのか、鈴木のインタビュー記事を読んでも事情ははっきりしない。駿としては、取りあえず吾朗に脚本だけ書かせてみるが、それ以上のことは自分では責任を持てないとはっきり言いたかったのかもしれない。しかし、ル・グウィンの方は、駿が現れたことにより、彼が全面的にサポートすると受け取ったようだ。彼女がホームページに掲載した見解には、"we were given the impression, indeed assured, that the project would be always subject to Mr.Hayao's approval." とある。
 ル・グウィンの誤解が彼女の落ち度なのか、誤解させるような企みがあったのかはわからないが、『ゲド戦記』のアニメ化は、この誤解によって許可されたのである。
(3) 作品への愛ではなく商業主義的な動機から作られた
 宮崎アニメが人気を獲得する過程で鈴木敏夫が果たした役割は大きい。今では信じがたいことだが、『ナウシカ』『ラピュタ』『トトロ』はいずれも1次興行では赤字で、宮崎アニメが黒字になるのは、鈴木が制作補を担当した『魔女の宅急便』からである。鈴木は、作風を観客の好みに合わせるように宮崎に進言し、主題歌として、当時、若い女性から絶大な支持を得ていたユーミンの「ルージュの伝言」を採用させた。さらに、日本テレビと提携して積極的な宣伝を行い、大ヒットにつなげた。
 鈴木はコンテンツビジネスに関して優れた感覚を持ち、ヒット作を生み出してきた。しかし、それが作品に対する愛情に基づいているとは考えにくい。むしろ、徹底的なビジネスマンである故に、作品の質に対するこだわりがなく、儲けを生むようなビジネスを遂行できるのだろう。
 『ゲド戦記』の際にも、過剰とも言える宣伝を繰り返し、日本国内では、興行収入70億円を超えるヒットとなった。しかし、特別招待作品として上映されたベネチア映画祭では酷評され、結果的に、ジブリ世界進出の足がかりとはならなかった。

風の谷のナウシカ

【評価:☆☆☆☆☆】
 宮崎駿というと、若いアニメファンは、力が衰えてもコンスタントに作品を発表できるアニメ界のドンと思っているかもしれない。しかし、彼は若い頃、深刻な苦境に立たされたことがあり、才能と努力で道を切り開いた苦労人なのである。運命の分岐点となったのが『風の谷のナウシカ』であり、この作品の成功によって、アニメ作家としての地歩を築くことができたと言えよう。
 宮崎のフィルモグラフィを見ると、1979年の脚本・監督作品『ルパン三世 カリオストロの城』からほぼ5年間、ぽっかりと穴が開いているが、これが業界で干されていた期間である。干された原因として良く上げられるのが『カリ城』の興行的失敗で、加えて、原作者モンキーパンチが「これは僕のルパンじゃない」と言ったことも影響したかもしれない。私の推測では、これ以外に、78年にNHKで『未来少年コナン』を演出したことも影を落としたように感じられる。『コナン』は、それまでアニメを敬遠していたNHKが初めて手がけた連続アニメであり、民放アニメがPTAなどから俗悪だと批判されたのを受けて、子供向けに良質の作品を作ることを旗印としていた。そこで起用されたのが宮崎だったのである。宮崎は、『ルパン三世』第1シリーズ(71年)の後半でも演出を担当したが、これは、低視聴率のために前任者が解任された後のピンチヒッターであり、高畑勲との共同演出で、しかもノンクレジットだったため、表向きは『コナン』が最初の演出作品である。周囲から見ると、新人演出家が公共放送に大抜擢されたわけで、やっかみの対象となったことは想像に難くない。
 当時、アニメ監督の地位が低かったことも、忘れてはならない。『コナン』は他人の手になる再編集版が映画館で公開されたが、派手な戦闘シーンばかりをピックアップした内容で、宮崎を落胆させた。『カリ城』のビデオ版に至っては、ルパンの大跳躍シーンがないなど、ズタズタにカットされたものだったという(残念ながら、私はいまだにこの珍品ビデオを見る機会を得られない)。
 宮崎は、80年に『ルパン三世』第2シリーズ第145話「死の翼アルバトロス」と第155話「さらば愛しきルパンよ」(最終回)の脚本・演出を担当した。この2話は、短編アニメとして驚異的なクォリティで、後の『ナウシカ』や『ラピュタ』の原型とも言えるものだが、クレジットでは照樹務(アニメ制作会社テレコムとの関係を匂わせる)というペンネームを使用しており、表立って仕事ができなかった状況を反映している。81年からは海外に活路を求め、イタリア国営放送局との共同制作で『名探偵ホームズ』に取りかかるが、権利問題などがこじれて数本作った段階で頓挫、さらに、日米合作アニメ『NEMO/ニモ』制作の際のトラブルが原因でテレコムと喧嘩別れの状態となり、ますますアニメの仕事から遠ざかる。編集部からの勧めに応じて雑誌「アニメージュ」82年2月号から漫画『風の谷のナウシカ』の連載を始めるが、鬱々として楽しめなかったようだ(この漫画はアニメ映画完成後も断続的に描き続けられ、94年に完結する)。アニメージュ増刊「風の谷のナウシカ GUIDE BOOK」(1984年)に掲載された勝川克志の「まんがルポ 宮崎駿の1日 どなってごめんね」では、「自宅にこもって雑誌に描いてられたころはユーウツそうだった」との説明文とともに、机に顎を乗せて「自閉症になりそ…」と呟く宮崎の姿が描かれている。
 幸い、宮崎ほど才能のある人がアニメを作らないのはもったいないと、周囲が動き出した。「アニメージュ」編集部(後にジブリのプロデューサーを務めた鈴木敏夫も含まれる)の後押しもあって、徳間書店の社長がアニメ制作への出資を決めたのである。当時は、テレビシリーズの劇場版やディズニーなどのブランドもの以外、劇場用アニメが黒字になることはほとんどなかったので、英断と言うべきである(『ナウシカ』の1次興業における配給収入は約8億円であり、制作会社の取り分はその半分強となるため、6億円と言われる制作費は回収できなかったようだ)。『ナウシカ』制作に当たって宮崎が出した条件は、東映動画以来の盟友・高畑勲をプロデューサーにすることだったという。アニメーターを外部の批判から守るために、アニメ制作の実状を知り尽くした高畑を必要としたのだろう。
 アニメ『風の谷のナウシカ』が成功するかどうかで、自分の将来が決まる−−『ナウシカ』に漂う胸を締め付けられるような緊迫感・悲壮感は、現実の状況を反映したものだった。

鋼の錬金術師

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作全巻既読。
 2つある『鋼の錬金術師』のアニメ版のうち、先に作られた方である。私は、新作(09年版)を比較的高く評価する一方で、こちらの旧作(03年版)には批判的である。「日本のメディア芸術100選」(文化庁メディア芸術祭10周年企画)のアニメーション部門総合で、『となりのトトロ』と『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』に挟まれた第9位にランクされているが、過大評価としか言いようがない。
 本作のテレビ放送が始まった03年は、2010年まで続く原作漫画の連載3年目である。原作序盤の設定と登場人物はそのままにしながら、原作に追いつかないように、途中の話を膨らましたり独自のエピソードを挿入したりして引き延ばしたものの、20話台後半からは、ほぼ完全なオリジナルストーリーとなった。問題は、このオリジナル部分が原作の基本構想と大幅に異なる点である。
 原作者の荒川弘は、当初、「等価交換」という独自の概念をベースに、超能力を持つ錬金術師と人造人間ホムンクルスとのバトルものとして連載を始めたが、途中から構想を改め、国家による陰謀を正面から取り上げた骨太の作品を生み出した(この事情に関しては、09年版のアニメ『鋼の錬金術師 FULLMETALALCHEMIST』のレビューで述べた)。しかし、03年版のアニメは、原作序盤の設定を受け継いだため、国家の問題にはあまり踏み込まず、人間ドラマを重視する方向に進んでいった。特に、ホムンクルスがどのように生み出されたかは、原作と全く異なり、人間的な因縁にまつわる話にしている。
 この方向性は、主に、シリーズ構成を担当した會川昇(クレジットはストーリーエディター)によるものとされる。『ルパン三世』『攻殻機動隊』などアニメが原作漫画と大きく異なることは稀ではないが、『鋼の錬金術師』のように、原作が続いている最中に、2次創作物であるはずのアニメの方が先に独自の結末を付けてしまったのは異例。人間ドラマを重視したことで優れた内容になったのならば、それでも許せるが、私が見る限り、ドラマとして秀逸とは言い難い。おそらく會川は、原作序盤の設定に適合するように持ち合わせのアイデアを組み合わせ、肉付けしていったのだろう。若い人はともかく、私のようなすれた人間からすると、よく見かけるプロットであり、原作が持つ壮大さも意外性も感じられない。原作者が途中から重視しなくなった等価交換のアイデアをいつまでも引きずり、終盤でひっくり返して見せるが、もともと等価交換の考え方に無理があるので、劇的な効果を生み出したようには感じられない。
 これほど原作と異なるアニメになったことに対して、荒川は納得しているのだろうか? 漫画をアニメ化する場合、アニメの内容に関する権利は、通常、契約によって全面的にアニメ制作サイドに委譲されるので、原作者がクレームを付けるのは難しい。こうしたことは、契約の際に原作者に伝えられるはずだが、まだ20代の女性で『ハガレン』が最初の連載作品だった荒川が充分に理解した上でサインしたかどうか、少々疑わしい。もっとも、アニメ化されたことで連載中の原作が一層の人気を得て、最終的には累計発行部数が6000万部を越える大ベストセラーになったのだから、もって良しとすべきなのか。

鋼の錬金術師 Fullmetal Alchemist

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作全巻既読。
 荒川弘の漫画『鋼の錬金術師』のテレビアニメには03年版(旧作)と09年版(新作)の2つがある。原作の連載中に始まった旧作が、原作に追いついて以降はオリジナルな内容になったのに対して、ここでレビューする新作は、ラストまで原作にほぼ忠実である。
 イスラムから中世ヨーロッパに伝わった錬金術は、熱さや固さといった物質の諸性質が元素に由来すると考え、触媒(賢者の石)を利用して元素の構成比を変えることで金などを作り出せるとする一種の化学である。ルネサンス期には、生命の素を錬成すれば人造人間(ホムンクルス)も可能だと解釈する魔術的な一派も生まれた。『ハガレン』で描かれる錬金術は、魔術化した錬金術にSF的な超能力の要素を混ぜた独自のもので、さらに、不老不死の秘薬を作ることを目的とする中国の錬丹術への言及もある。
 もっとも、連載開始時点で、荒川は錬金術の内容についてあまり熟考しておらず、超能力を持つ錬金術師と彼らに作られたホムンクルスが闘いを繰り広げるという単純なバトルものを構想していたようだ。このことは、冒頭近くで描かれる「壊れたラジオを錬金術で元に戻す」という場面からわかる。主人公のエルリック兄弟は、同じ質量のものなら錬金術で錬成できると説明、その過程を「等価交換」と呼んだが、これはおかしな話だ。現実の世界で壊れたものを直すには、相応の自由エネルギーを投入する必要がある。自由エネルギーを得るには資源を消費しなければならず、世界全体では、常に破壊が創造を上回る。これが「エントロピーは増大する」という自然の摂理である。質量が同じでありさえすれば何でも自在に錬成できるというならば、錬金術師の能力は、自然の摂理を超越して実質的に際限がなくなってしまう。
 おそらく、漫画を描き進めるうちに、荒川も、等価交換という概念のおかしさに気がついたのだろう。作中で自在な錬成能力を持つ錬金術師はエルリック兄弟(および、彼らの師匠)しか登場せず、途中からは、彼らも複雑な構造体の錬成をほとんど行わなくなる。他の錬金術師は、炎を使った攻撃だけが可能な「炎の錬金術師」のように、特定分野に限定された能力しかない。このように能力を限定したことは、結果的に、作品を深化させるきっかけとなった。それぞれの能力者がどんな役回りを演じるかを巡って、ドラマが生まれたのである。さらに、特定の能力しか持たない錬金術師を国家が集めるのはなぜかという問題に作者が自覚的になり、錬金術師の軍事利用という発想につながる。
 漫画『鋼の錬金術師』が傑作に変貌する分岐点となったのは、異質な宗教を信奉する精悍な砂漠の民イシュヴァール(アフガニスタンを連想させる)のエピソードである。イシュヴァール絡みの話がなくても、エルリック兄弟と父ホーエンハイムとの対決を軸としたストーリーは成立する。しかし、軍事大国が小国に殲滅戦を仕掛け、人間兵器として錬金術師を利用するというイシュヴァール戦の設定は、作品のスケールを桁違いに拡大し、国家的規模の陰謀という骨太な構想を生み出すことになった。ここからストーリーがうまく転がり出し、さまざまな能力を持ったキャラが全体的な構想の中で整理されて、雄渾な大河ロマンへと成長していったのである。
 09年版のアニメは、優れた原作をかなり忠実に再現しており、その点は評価できる。炎の錬金術師マスタングとホムンクルスの一人エンヴィーとの対決シーンは、原作より迫力があると言って良いかもしれない。旧作に比べて演出も洗練され、作画もしっかりしている。ただし、誌面を奔放に使って描かれた原作に比べると、画面のフレームにこじんまり収まったとの感は拭えない。アニメ単体で見ると4つ星相当だが、私は、原作より後退した作品は星1つ減じるという評価方針なので、3つ星とした。

さよなら絶望先生

【評価:☆☆☆☆】
 第1期(『さよなら絶望先生』)・第2期(『【俗】−』)・第3期(『【懺】−』)全話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 世紀の変わり目頃から活躍し始めたテレビアニメ監督として、私が神山健治とともに特に高く評価するのが、本作の監督である新房昭之である(他には、浅香守生、渡辺信一郎、谷口悟朗など)。初めて新房作品に注目したのが04年の『魔法少女リリカルなのは』で、06年の『ネギま!?』以降は、監督した全てのテレビアニメを見ている。世評が高いのは『魔法少女まどか☆マギカ』と『化物語』だが、私は、両作品ともそれほど好きではない。私が選ぶ新房のベストはこの『さよなら絶望先生』で、次いで『それでも町は廻っている』である。
 新房を神山健治と並べたが、作風は正反対である。神山が自身で脚本も執筆し、作品世界を重厚かつ緻密に構成するのに対して、新房はあくまで映像作家であり、きらびやかな表現技巧を駆使して作品を飾り立てる。監督作品(総監督を含む)の大部分が原作もので、私が見たテレビアニメ25本のうち、漫画原作が17本、ライトノベル原作が6本。オリジナルの2本は、PCゲームのスピンオフ作品でゲームシナリオを担当した都築真紀が全脚本を執筆した『リリカルなのは』と、脚本を依頼された虚淵玄が独自の世界を創り上げた『まどマギ』であり、どちらも新房は演出に徹したと推測される。原作をより面白くするテクニックは、『さよなら絶望先生』でも遺憾なく発揮されている。
 久米田康治の原作は、社会風俗や時事問題に対する鋭い(時には行き過ぎとも思える)批評性をはらんだネタ中心のギャグ漫画である。ネタを語るには静止画と言葉だけで充分なので、原作を読む限りアニメにする必然性は感じられず、なぜこれをアニメ化しようと考えたのか不思議ですらある。ところが、できあがった作品を見ると、どうしてもアニメでしか表現できない内容なのである。
 例えば、私が特に好きなエピソードである「恩着せの彼方に」(第2期第5話Cパート)で、ホームレスに傘を貸した少女(絶望先生の教え子で加害妄想の加賀愛)が急に駆け出すシーン。白い背景の中に佇む絶望先生(糸色望)の姿がコマ落としでクローズアップされ、ノスタルジックな家並みをバックに加賀と向かい合う。降りかかる雨のしぶきが美しい。「恩着せがましかったのでは」と自らをさいなむ加賀に、「それはお布施の心だ」と故事を引用する糸色(ここで巻物がスクロールされる映像となる)。突然、情感豊かだったBGMが途切れ、もう一人の教え子(何でも人並みな日塔奈美)が、「先生、私、クッキーを焼いたんで食べてみてください」と現れる。材料や製法にどんなにこだわったかを日塔が得々と語る間、無表情な糸色のショットが重ねられるが、最後に糸色が「恩着せがましい」とポツリつぶやく。見ているだけで、胸がキリキリと痛む場面である。詩的で残酷、夢のような情感と冷たいリアリティを併せ持った映像は、まさにアニメならではだ。このエピソードには、最後に「なるほど、人間、徳を積むと××になるんですね」というもの凄いオチも付く。
 新房の演出は、ネタの面白さを最大限に引き出すように配慮されており、ネタを語る間は静止画中心で、切れ目になると、ここぞとばかり派手に絵を動かす。「さらっと言うな!とメロスはいきり立って反駁した」(第2期第3話Cパート)では、「世間では重要な問題をさらっと言い流してしまう」というネタが振られた後、望の妹の倫が「お絶望なさいましたか、お絶望なさいましたか、お絶望なさいましたか、お兄様」と叫ぶ。このとき、初めの2度の「お絶望…」は顔を左から、最後の「お絶望…」は全身を下からパンで捉え、見る者をハッとさせるアイキャッチ効果をもたらす。また、ネタが面白くないときには、逆に映像の技巧を際だたせて見せる。「津軽通信教育」(第2期第7話Cパート)はその典型例で、ネタがそれほどでもないため、さまざまなアニメのテクニックを総浚え的に並べて、視聴者を楽しませることに徹した。
 1クールずつ3期に分けて放送された『さよなら絶望先生』は、出来に多少のムラがある。第1期前半は、登場人物の紹介に費やされて、あまり面白くない。これは原作も同じで、この段階で久米田は作品の全体的な構想を思い描けていなかったようだ。登場人物が出そろった終盤に入ってかなり面白くなるものの、第1期はそこで時間切れ。第2期になると、第1期を振り返る冒頭話こそ今一つだが、第3話辺りから絶好調となり、そのままラストまで見応えのあるエピソードが続く。第3期も悪くはないが、演出に少し凝りすぎて、全体的な印象は第2期に及ばない。
 糸色の教え子である異常に個性的な少女たちの姿が拝めるのも、『さよなら絶望先生』を見る楽しみの1つである。私は、個人的に(いつもきっちりしている)木津千里が気に入っているのだが、まじめさと猟奇性を兼ね備えた性格に、なぜか共感してしまう。
 ついでに言うと、新房作品はどれも、オープニングとエンディングがパワフルである。『さよなら絶望先生』では、大槻ケンヂの過激な歌詞に載せて繰り広げられるアブないオープニングアニメ(特に第1期の)が必見。

それでも町は廻っている

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作第4巻のみ既読。
 才人・新房昭之が監督したテレビアニメの中で、『さよなら絶望先生』に次いで私の好きな作品である。彼の演出における基本姿勢は、「「面白い」でも「つまらない」でも「怖い」でもなんでもいいから、観ることで感情が動く作品がいいよね。外すなら思い切り外すのがいい」という発言(ぷらちな「アニメ新表現宣言!新房監督作品の奥にアニメ表現の最先端を見た!」)に示される。技巧のための技巧ではなく、技巧を駆使することで見る者の感情を揺さぶる−−こうしたテクニックは、『それでも町は廻っている』にはっきりと現れている。
 舞台となるのは、東京下町(モデルは下丸子)の少し寂れた商店街。メイド喫茶(と言っても、ウェイトレスがメイド服を着ているだけ)で働くヒロインの女子高生・歩鳥(ほとり)とその周辺人物が繰り広げる出来事が描かれる。日常系アニメと思っていると、だんだんと間口が拡がり、SFありファンタジーありの融通無碍な展開になっていく。
 各回2話ずつさまざまなタイプのエピソードが取り上げられるが、原作でもメインとなる日常系の話が面白い。特に気に入ったのが「実に微妙なカード」(第5話Bパート)で、その原作を読みたくて単行本第4巻を買ってしまった。ここでの主人公は、歩鳥の弟タケル。小学校4年生という設定年齢の時期には、女子の方が心身ともに発育が早く、アホな男子が何も気がつかないうちに、女子は思春期の入り口に立って(現実の恋愛ではなく)恋愛シミュレーションを始める。このエピソードでは、同級生のエビちゃんがタケルをターゲットとしたシミュレーションを実地に移し、思い通りに行動しないとタケルをグーで殴る一方で、異様に可愛い振舞いも示す。どこまでが本心でどこからが演技か、おそらく当人にもわからないだろう。この微妙な乙女心を本気で笑えるストーリーに仕立てたのは原作者・石黒正数の功績だが、新房の演出もうまい。トレーディングカードを買ってタケルに渡すときのエビちゃんの表情や居住まいは、原作漫画よりもアニメの方がリアルである。ラストで原作にない「微妙なカード」が登場するが、その必殺技の項目が可笑しい。
 タケルをフィーチャーした作品には、もう一つ、「ナイトウォーカー」(第7話Bパート)という秀作がある。ふだんはアホなことばかりしている歩鳥が、弟の前では頼もしい年長者として振舞うところが愉快だ。
 歩鳥が中心となるエピソードでは、「全自動世界」(第8話Aパート)が優れている。これは原作にないオリジナルエピソード(脚本:高山カツヒコ)で、どこにでもありそうな自動販売機が、実に未来的で夢のあるマシンに見えてくる。日常系漫画やアニメでは、平凡な日常をいつもとは少しずれた視点から見つめることで、全く異なる情景が浮かび上がってくる場合があるが、「全自動世界」はその最良の例だろう。
 原作には日常系ミステリと言えるエピソードも多く含まれるが、アニメでは「大人買い計画」(第9話Bパート)が出色。古道具屋を営む静は、ある日、じっちゃんが町で見知らぬ男からもらったという「べちこ焼」を食べ、その美味しさに魅了される。しかし、包み紙に書かれた販売元に電話をしても「おかけになった番号は現在使われておりません」、記載された住所は実在せず、ネットで検索しても何もヒットしない。市外局番を頼りにバイクで探索に出かけるのだが……。謎がしだいに深まる前半では、絵をあまり動かさずモノローグを重ねて緊迫感を高め、後半の民宿のシーンでは、不安定に揺れる映像とどこか懐かしい旋律によって幻想的な雰囲気を醸し出す。まさに、アニメ演出のお手本である。最後に明かされる真相を知って、「なあんだ」と思うかニヤリと笑うかは、人それぞれだろう。
 アニメ『それでも町は廻っている』では、終盤になるにつれてファンタジー色が強まり、しかも、コメディには相応しくない死のイメージがたびたび現れる。最初に見たときには少し違和感を覚えたが、実は、感動的な最終話につなげるための布石だった。高山カツヒコのシリーズ構成は、なかなか巧みだと言わざるを得ない。

かみちゅ!

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 最近では、海外でも日本のアニメを楽しむ人が増えたようだが、『かみちゅ!』の面白さがわかれば本物である。それほど日本的でユニークな秀作だ。『R.O.D』の名コンビ、脚本の倉田英之と監督の舛成孝二の才能が存分に発揮されている。
 この作品の特色は、第1話冒頭を数分見ればわかる。最初に現れるのは、弁当を食べる一橋ゆりえのアップ。外を見ながらゆっくり口を動かし、ごくりと飲み込む−−その一連の動作はあまりに自然で、見られていることに気がつかない女子中学生の日常を実感させる(原画は藪野浩二)。ところが、顔を前に向けた彼女は、箸の先を口に入れたまま「どうしようかなあ」という感じで友達に語りかける。「光恵ちゃん、あたし、神様になっちゃった」。日常と非日常が何の障害もなく渾然一体となっている不思議。それだけで、もうゾクゾクしてくる出だしである。
 神様といっても、八百万(やおよろず)の神々の一柱に過ぎず、大したことはできない。神社では人の願いを聞くが、願いを叶えるほどの神通力はなく、ただ聞くだけ。ふだんはごく当たり前の中学生として生活する。神様なのに自分の恋を成就させることもままならず、中学生としてふつうに悩み、ふつうに楽しむ。でも、時々、本人も驚く力を発揮してしまい、周囲にさざ波を立てる。
 『かみちゅ!』では、他に例を見ないほど、女子中学生の姿が生き生きと描かれる。昨今のアニメでは、生身の人間を真剣にスケッチした経験もないようなアニメーターが、マニエラ(芸術の型・手本)を模倣して済ませる悪しきマニエリスム(英語風に発音すれば、マンネリズム)が蔓延しているが、『かみちゅ!』は違う。例えば、ゆりえの告白を耳にした同級生の一人は、腰を下ろしたまま、椅子を後ろにずらしながらゆりえに近づいてくる。確かに、中学生くらいまではこんな風に椅子を動かしていたなあと思い当たる動作だ。廊下を走ったり階段を駆け上がったりする姿も、多くのアニメに見られる不自然な“女の子走り”ではなく、手を細かく上下させており、リアルな躍動感がある。
 舞台となるのは、尾道をモデルにした架空の町。尾道といえば、『転校生』に始まる大林宣彦の尾道3部作が有名で、海のそばまで山が迫っている独特の景観が美しい。この海山と少し鄙びた町並みを背景に、女子中学生が生き生きとしている姿を見ると、得も言われぬ幸福感に満たされる。
 もっとも、『かみちゅ!』は単なる日常系のほのぼのアニメではない。ゆりえが神様になったことで、現実からほんの少し浮遊し、世界を見つめる新たな視座を獲得している。それが最も良くわかるのが、「ふしぎなぼうけん」(放送第10回)だろう。神無月恒例の神様コンベンションに出席するため、1ヶ月だけ出雲の高校に転校することになったゆりえは、クラスに馴染めずつらい思いをする。決して、いじめがあったわけではない。悪意によるいじめは、深刻な社会問題でもあるので、安易に取り上げる脚本家が少なくないが、加害者対被害者という単純な人間関係しか描けず、掘り下げの浅い凡作につながりやすい(深刻な問題を取り上げれば深い内容になると思うのは、未熟な脚本家の陥りがちな誤解である)。これに対して、ゆりえが体験したのは、彼女が神様であることに由来する心のすれ違いである。誰もが善意に基づいて行動しているのに、すれ違いが少しずつ大きくなり、疎外感が生まれる。私は、このエピソードを見ながら、何度も泣きそうになった。悪意がない故に怒ることさえできないつらさは、体験したことのない人にはわからない。
 私が最も好きなエピソードは「夢色のメッセージ」(放送第11回)。正月三が日を神社で忙しく働いたゆりえは、1月4日は朝から晩までこたつでゴロゴロして過ごす。それだけの話なのだが、やたら可笑しくて、何度も何度も繰り返し見てしまう。特に、貧乏神に憑依された飼い猫タマとゆりえの掛け合いが愉快だ。タマ「ご飯残したらバチ当たるわよ。お米の一粒にはね、7人の神様が入っているのよ」。ゆりえ「共食いじゃん」。ブーたれたゆりえの表情が絶品である。
 エンディングアニメで、マラカスを演奏するゆりえの可愛さは、尋常ではない。

神のみぞ知るセカイ

【評価:☆☆☆】
 第1-3期全話視聴済み(ただし、第3期は、監督が交代したせいか雰囲気が大幅に異なるため、以下のレビューでは扱わない)、原作第2巻のみ既読。
 ギャルゲーで天才的な手腕を発揮し「落とし神」の異名を持つ高校生・桂木桂馬が、悪魔少女エルシィの勘違いから、リアル女性を攻略して心のスキマに巣くう「駆け魂」を追い出す羽目になる−−というのが基本的なストーリー。おそらく、原作漫画の作者・若木民喜は、軽いラブコメとして『神のみ』を構想したのだろう。ふつうの人が他者の外面しか見ていないのに、ゲームで女性攻略のノウハウを学んだ桂馬の方が、表に現れない内なる悩みを理解できる−−これが逆説的な面白さとなって盛り上がると期待したのではないか。実際、当初は、タイムが思うように短縮できない陸上選手や、親の会社が倒産して貧しくなったのに見栄を張って金持ちぶる元社長令嬢など、比較的単純な悩みを持つ女性を対象とし、軽いノリで楽しめる作品に仕上がっていた。しかし、回を重ねるうちに、深刻な問題を扱う重いエピソードも現れる。ここでは、そうした重いエピソードの1つで、他人とまともに会話することのできないコミュニケーション障害の図書委員・汐宮栞をフィーチャーした栞編(原作第2巻FLAG.13-16;アニメ第1期第9-11話)を取り上げよう。
 アニメでは、まず、アバンタイトルでたくさんの本が積み上げられた図書室受付の机が映し出され、静謐な雰囲気が拡がる。クレジットタイトルの後、桂馬とエルシィによる軽いギャグに引き続いて栞が登場するのだが、その瞬間、胸がキュンとしてしまう。栞は、わずかに俯いて、手にした本をじっと見つめている。小林秀雄はエッセイ「モオツアルト」の中で、ピアノを弾くモーツァルトを描いたランゲによる肖像画に触れ、「人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。…(中略)…二重瞼の大きな眼は何も見てはいない。世界はとうに消えている」と記しているが、この言葉は、そっくりそのまま栞に当てはまる。彼女は、本の中に生きている。他人と会話したいという思いはあるものの、声を掛けることができない。その悩みが心のスキマとなって駆け魂に巣くわれながら、本の中があまりに居心地よく抜け出せないでいる。
 週刊連載の漫画をアニメ化する場合、原作2週分を1話にまとめることが多いのだが、栞編では(その前のかのん編と同じく)4週分が3話にわたって展開され、ゆったりとした流れの中で話を拡げることが可能になった。『R.O.D -READOR DIE-』でも読書家の主人公を登場させた脚本家の倉田英之は、このゆとりを利用して、本を愛する栞の心の声を存分に描き尽くす。原作では、「人とふれあうのは苦手…でもいいの…本さえあれば…ここにいれば…私は大丈夫…この城のなかで…私は生きて行くんだ…」とのモノローグが1ページで描かれるが、アニメでは、さらに、「あたしは本が好き…ここが大好き…1冊の本は1つの世界…異なる言葉の異なる世界…1つの棚は1つの宇宙…無限に広がる空想の空間…ここにいれば私はどこにでも行ける…誰にでもなれる…何でもできる…本は紙と文字…そして人が奏でるアンサンブル…遥かな時を越えて思いを伝える魔法」と語られ、以下、「本は」で始まるフレーズが延々と続く。
 アニメーターも倉田の偏愛に感じるものがあったのだろう、気合いを入れて描いているのがわかる。モノローグのシーンでは、本を抜き差しする栞の手が、実に美しい。動きがスムーズなので、おそらく実写で撮影してからCGでアニメ絵に変換したと思われる。棚から取り出すときに、背表紙の上端に指を引っかける人がいるが、それでは本が傷んでしまう。アニメでは、ページの最上部に指を乗せて少し手前に引いてから、両側を挟んで取り出している。これが、真に本を愛する人の手つきである(本を食べてしまうどこぞの“文学少女”とは違う)。
 2話目では、「本は私を急かさない…」で始まる原作で半ページのモノローグが華麗な空想シーンとして描かれるが、栞が一糸纏わぬ妖精の姿で登場し、ドキドキさせられる。声を担当した花澤香菜も、うまく会話できない栞を巧みに演じている(あの「あほぉおぉ!」が真似したくて、練習までしてしまった)。
 栞編以外では、学生時代は首席だったのに、世に出てからはかつての劣等生にも追い抜かれるハクアの悩みを取り上げたエピソード(第2期第3-4話)が、なかなか面白かった。また、第1期最終回の「神以上、人間未満」は、サブタイトル通りの桂馬の姿があまりに痛々しくて笑える(「久々に神様が気持ち悪いです」というエルシィの台詞は、実感籠もりすぎ)。それ以外のエピソードが今イチなので、全体的な評価はやや低めにつけたが、栞編は、永久保存版にして今後も繰り返し見ていきたい。彼女は、我がソウルメイトである……2次元の。

ヒカルの碁

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作全巻既読。
 若者が優れた指導者と出会い、秘められた才能を開花させるストーリーは、成長物語(ビルドゥングス・ロマン)の王道である。青少年向けの漫画にもこうした作品が数多く見られるが、その中で屈指の傑作と言えるのが、ほったゆみ(ネーム)と小畑健(画)による『ヒカルの碁』だろう。
 小学生のヒカルは、祖父の家で血染めの碁盤に触れたとき、そこに宿っていた藤原佐為の霊に憑依される。佐為は、平安時代に天才を謳われた棋士だったが、若くして無念の死を遂げ、成仏できないまま千年の時を過ごしていた。「神の一手」を目指す佐為の強い思いに動かされ、ヒカルは、それまで何の関心もなかった囲碁の道を歩み始める。
 『ヒカルの碁』が成功した大きな要因は、佐為の設定にある。成長物語に登場する指導者(例えば、映画『赤ひげ』の赤ひげ)は、しばしばあまりに立派すぎて煙たく感じられる。これに対して、佐為は、囲碁の棋力こそ圧倒的だが、子供のように拗ねたり、怒りや悲しみの感情を露わにしたりと、実に人間的で親しみが持てる。ただし、人間的ではあっても弱くはない。囲碁に関しては、いかなるときも真剣さを失わず、対局で行われる不正には毅然とした態度で臨む。それほど囲碁を愛していながら、肉体を持たないが故に碁石を手に取ることもかなわず、ヒカル以外には誰にも存在を認めてもらえない。こうした佐為の姿に、読者はいつしか心を動かされ、その思いに共鳴するようになる。院生と若手プロが対局する若獅子戦で、ヒカルに特別なものを感じ取った緒方九段がその対局を見に来たとき、佐為は、相手に聞こえないのを承知の上で、自分の思いをそっと語りかける(原作第7巻、アニメ第28話)。胸が締め付けられる名シーンである。
 ほったゆみによるストーリー展開は、実に巧みだ。例えば、作品が始まってすぐ、終生のライバルとなる塔矢アキラとヒカルが初めて碁を打つところ。並の作家ならば、ヒカルの経験不足や佐為とのコミュニケーション障害によるちょっとしたエピソードを挿入したくなるが、ほったは、そうした余計な寄り道をしない。ここは、アキラが(ヒカルの内にいる)佐為に自分の目標を見いだし、自身とヒカルの運命を大きく変えるきっかけとなる重要な場面なので、ストレートに話を進めるのが正しいやり方なのである。画を担当した小畑も、ほったの意図を見事に具現する。アキラが佐為の力を感じたことは遥かな高みから見下ろす佐為の姿で表されるが、「ヒカルの碁 ネームの日々(2)」(原作第2巻所収)によれば、ほったのネームに画は描かれておらず、小畑が創案したものだという。
 もっとも、ヒカルがアキラと出会ってからしばらくの間は、学校周辺での出来事ばかり取り上げられ、今ひとつ盛り上がりに欠ける。これはおそらく、少年誌に掲載され小中学生が読者の中心となることに配慮したためだろう。本格的に面白くなるのは、連載打ち切りの危機を乗り越えた頃からで、特に、ネット碁が登場する原作第30話(アニメ第15話)以降は、作品世界が一気に拡がって怒濤の展開となる。佐為が正体を隠したままネットの強者たちを次々と蹴散らしていくさまは、実に爽快である(ネットの闇に潜む正体不明の天才って、何か憧れません?)。この後、全編のクライマックスとなる塔矢名人(アキラの父)と佐為の対決まで、緊張の糸が緩むことはない。
 原作漫画に比べると、アニメ『ヒカルの碁』は、畳み掛ける展開による迫力や画の繊細さがかなり失われ、より穏やかでファミリー向けの作品になっている。漫画とアニメの画の相違がはっきりわかるのは、幽玄の間の描写である。原作第6巻p.83-86では、まず目を白く抜いた佐為のアップがあり、続いて見開きで幽玄の間の全景が描かれ、ページをめくると、「(ここの空気はピリピリと痛い。つい、)武者震いで笑みがこぼれるほど」という内的独白と並んで、抑制されたトーンによる僅かに微笑んだ、だが鬼気迫る佐為の顔となる。一方、アニメ第23話の同じ場面では、一連の流れの中で佐為の顔や部屋の光景が描かれるが、フレームの大きさや濃淡に変化が付けられないため、漫画ほど迫力のある画面になっていない。
 しかし、アニメ『ヒカルの碁』は、原作漫画の劣化コピーに甘んじたわけではない。確かに、ストーリーが展開される部分は原作に及ばないが、対局のシーンは、むしろアニメに軍配が上がる。盤面に碁石が次々と打たれる過程では、一角でせめぎ合いが続いたり、いきなり離れた場所に石が打たれたりと、囲碁のルールを知らなくても、激しい攻防が繰り広げられていることがわかる。これに効果的な音楽が付随し、いやが上にも緊迫感が高まる。競技カルタを描いたアニメ『ちはやふる』でも感じたことだが、文科系競技は、身体の描写に限界のあるスポーツよりもアニメとの相性が良いようだ。中でも、塔矢名人と佐為が対局する「sai vs toya koyo」-「千年の答え」(第56-57話)では、アニメ表現の一つの極限を見ることができる。

カウボーイビバップ

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。初放送はテレビ東京だったが、ポケモンショックをきっかけに強化された自主規制のせいで、アクの少ない一部エピソードだけをピックアップするに留まった。
 SFとハードボイルドの骨格に、コメディ・ロマンス・アクション・ホラーなどさまざまな要素を盛り込んだごった煮的な秀作。舞台となるのは、壊滅的な災害によって地球上での居住が困難となり、やむを得ず火星やタイタンへの移住を進めた未来。超光速航行をも可能にした高度技術社会と、急激な人口移動のせいで生じた猥雑なスラムが同居する(この取り合わせは、1980年代の映画『ブレードランナー』やギブソンらのサイバーパンクSFでお馴染みのものだが、本アニメを含む多くの作品で、スラムの光景が日本や中国など東アジア諸国の都市をモデルにしていることは興味深い)。スラムを根城とするマフィアが勢力を持ち凶悪犯罪が多発するため、犯人に賞金を掛けて一般人の賞金稼ぎ(カウボーイと呼ばれる)に捕まえてもらう方法が普及している。このアニメでは、二人組の賞金稼ぎスパイクとジェットが乗る宇宙船ビバップ号に、女イカサマ師フェイ、天才ハッカー少年(少女?)エド、とある研究機関で作られた実験犬アインが同乗して各地を訪れ、いろいろな出来事に遭遇する様子が描かれる。
 よく似たパターンのアニメには『ルパン三世』や『ダーティペア』などがあるが、さまざまな作風のエピソードが盛り込まれたシリーズを作るには、有能な脚本陣が必要となる。『ルパン三世』では大和屋竺を中心とする実写畑のライターが、『ダーティペア』では伊藤和典、星山博之、井上敏樹、金春智子ら日本アニメ界を支えてきた錚々たる面々が作品を盛り上げた。それでは、『カウボーイビバップ』は?
 全編の骨格となるハードボイルド系のエピソードを担当したのは、主に信本敬子。彼女は『白線流し』などのテレビドラマで知られる脚本家で、味のある台詞が多い(第1話が始まってすぐ、スパイクが「肉のないチンジャオロースなんて…」と小言を言うが、これに対するジェットの返しが見事)。チャイニーズ・マフィアの構成員だったこともあるスパイクが、同じ組織にいたビシャスから執拗につけねらわれる緊迫した物語は、彼女の筆から生み出された(ビシャスが初登場する第5話のみ横手美智子の脚本)。もっとも、ハードボイルドは私の趣味に合わず楽しめなかったのだが…。
 私が好きなのは、信本敬子の9話に次ぐ8話を担当した横手美智子の回。中でも、第11話「闇夜のヘヴィ・ロック」と第17話「マッシュルーム・サンバ」は最高だ(第17話は渡辺信一郎との共同脚本)。「マッシュルーム・サンバ」ではビバップ号の乗組員が毒キノコに当たって幻覚を見るが、『うる星やつら』の傑作エピソード「壮絶! 謎のまつたけなべ!!」(脚本は、横手の師に当たる伊藤和典)に匹敵する、可笑しくて、バカバカしくて、少し切ない話である。第24話「ハード・ラック・ウーマン」のラスト、男2人が5人前のゆで卵を黙々と食べ続けるシーンでは、思わず泣いてしまった。
 設定を思いっきりひねるのが得意な佐藤大の脚本回(全3話)も楽しめる。第14話「ボヘミアン・ラプソディ」は、実行犯が残したチェスの駒をもとに真犯人を探っていくミステリだが、この真犯人が実は…というちょっとアブない展開になって、笑って良いものか戸惑ってしまう。
 これ以外では、第18話「スピーク・ライク・ア・チャイルド」(脚本:稲荷昭彦←すみません、良く知らないライターさんです)が面白い。フェイの秘められた少女時代が少し明かされるエピソードだが、そこに至るまでのスパイクとジェットの無駄な努力が笑える。ビデオの規格を巡る蘊蓄は、今の若い人にどこまで通じるのだろうか?
 この作品を語る上で欠かせないのが、菅野よう子の手になる音楽の素晴らしさである。多くのアニメで流されるのは、「バトルシーンには勇壮な音楽」というように雰囲気を盛り上げるための単なるBGMに過ぎないが、『カウボーイビバップ』では、映像と音楽を意図的に対立させることで、新たな情感を引き出している。わかりやすい例は、第18話冒頭で競馬と釣の映像にドイツリート風の楽曲が被さるシーン。この音楽によって、あと少しのところで幸運を逃す悔しさに、空しさと可笑しさがコラージュされる。あるいは第5話、これぞハードボイルドという物語のクライマックスでいきなり童謡風の歌声が流れることで、過剰な暴力沙汰に過ぎなかった行為が運命に支配された悲壮なバトルへと転化する。
 音楽が最高の効果を上げるのが、第11話のラスト。ビバップ号に謎の宇宙生物が侵入して次々と乗組員に襲いかかるこのエピソードは、映画『エイリアン』を彷彿とするホラーSFとして始まりながら、途中から「あれれ?」という展開になり、 怖がるべきか笑って良いのか不安定な状態に陥った瞬間、絶妙のタイミングでチャイコフスキーの華麗な旋律が流れ出し、方向性がはっきりする。『カウボーイビバップ』は、映像を追うだけでは充分に楽しめない。映像と音楽が一体となった総合的な作品として味わう姿勢が必要である。
 本編並に面白い次回予告も聞き逃さないように。

サムライチャンプルー

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。初放送はフジテレビだったが、深夜アニメに対する局の方針が未熟だったせいで、第17話で打ち切られた(監督の渡辺信一郎としては、『カウボーイビバップ』に続く不運である)。
 全編の骨格となるのは、天涯孤独の少女フウが、寡黙で理知的な剣豪ジンと我流の拳術と剣術で無類の強さを示すムゲンを伴い、「ヒマワリの匂いのする侍」を訊ねて旅をする物語。冒頭4話で3人が出会って旅を始め、ラスト3話で旅の結末が語られるという枠構造になっており、この枠に挟まれた中間部は、さまざまな人に出会う3人の道中を描いたロードムービー風の展開となる。枠の部分とハードボイルドタッチのエピソードは、主にチーフライターの小原信治が脚本を担当(一部は監督の渡辺が執筆)。それ以外では、さまざまな脚本家が多彩な物語を提供しており、タイトル通り、チャンプルー(沖縄料理の名称として知られるが、沖縄方言で「まぜこぜ」という意味らしい)な作品となった。
 幕末の日本を舞台とする時代劇なのだが、時代考証はないに等しく、現代的な風俗が現れたり突如としてホラーになったりする。その自在な内容を受け容れるだけの度量がないと、充分に楽しめないだろう。ただし、剣戟シーンの演出は練り上げられており、私が知る時代劇アニメの殺陣の中で最高である。ジンの鮮やかな刀さばき、ムゲンの激しい肉体の動きは、生身の人間には不可能であるにもかかわらず、力強いリアリティを感じさせる。優秀なアニメーターによる入魂の作画と言って良いだろう。
 フウ・ジン・ムゲンのような女一人・男二人から成るトリオは、どうも渡辺監督の好みらしく、『カウボーイビバップ』や『坂道のアポロン』にも登場するもので、私のような映画好きには、往年のフランス映画『冒険者たち』を思い出させる。映画の3人は、相互に友情以上・愛情未満の感情できっちり結ばれたタイトな三角形を構成する(三角形の1辺は愛情と言うべきなのかもしれないが)。一方、『サムライチャンプルー』の3人の場合は、同情・好意・同類意識・対抗心など友情未満の曖昧な感情が入り混じった紐帯で結ばれている。このため、結びつきがいかにも脆そうだが、3人がセットになると、三角形の1辺が壊れそうになっても他の2辺が支えることで、不思議な安定感が生まれる。この脆そうで実は強固な三角関係に共感できれば、作品世界にすんなりと入っていけるだろう。
 多彩なエピソードのどれが気に入るかは人によって異なるだろうが、私は、5本ある佐藤大の脚本作品が好きだ。特に、第9話「魑魅魍魎」は、『走れメロス』の超絶的なパロディで、見事な肩すかしを食らわしてくれる。無法者によるタギング(スプレーによる落書きで、ストリートアートと見なされることもある)が取り上げられる第18話「文武両道」、あまりにぶっとんだ展開で「超時空時代劇」というサブタイトルまで付いた第22話「怒髪衝天」も面白い。もう1本あげるならば、第15話「徹頭徹尾」(脚本:下船渡上段←おそらく演出を担当した中澤一登のペンネーム)で、冒頭の釣りのシーンで思い切り笑わせた後、重い話が展開される。遊郭に女郎買いに行くシーンもある大人アニメである。

交響詩篇エウレカセブン

【評価:☆☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 1995年に放映された『新世紀エヴァンゲリオン』はアニメ界に圧倒的な影響を与え、エヴァを模倣したような作品が何本も作られた。特殊な能力を持つが人間として欠けたところのある少女、状況を理解できないままがむしゃらに戦う少年、人間に制御可能な機械ではない巨大ロボットに似た何かが登場、正体不明の敵と戦ううちに、次第に世界がなぜかくあるかが明らかになってくる−−こうした特徴を持つ作品には、『ラーゼフォン』『ゼーガペイン』『アルジェントソーマ』などがあるが、私は、どれもあまり好きではない。唯一高く評価するエヴァ模倣作が、この『交響詩篇エウレカセブン』である。
 多くの点で『エヴァ』と似ている『エウレカ』だが、決定的な相違がある。『エヴァ』の登場人物が全て壊れていくのに対して、『エウレカ』は、いったん壊れ(かけ)た人物が再生する物語である。その対比を明確にしたくて、あえて設定を『エヴァ』に似せたのではないか。これは、パクリではなく挑戦であり、創造性を発揮するための模倣として評価すべきものである。
 『エウレカ』制作に当たっては、基本的なストーリーラインを監督の京田知己が作り、それをもとに、シリーズ構成の佐藤大が具体的なストーリーを練り上げて、各エピソードの脚本家に発注したという(『yuzuru sato official website のんびり大陸』掲載の佐藤大インタビューによる)。京田と佐藤のどちらの功績が大きいかは判然としないが、佐藤が抜けた続編『エウレカセブンAO』の出来が良くないこと、佐藤がチーフライターを務めた『Ergo Proxy』に『エウレカ』との共通性がいくつも見いだされることから、『エウレカ』が優れた作品になる上で佐藤の寄与が大きかったと考える。
 『エウレカ』の大きな特色は、登場人物の身体性を強調したところにある。こうした身体性は、当初は、主人公のレントンが度々嘔吐するといった軽いギャグとして現れるが、徐々に作品の本質的な要素となっていく。例えば、サブヒロインのアネモネは、初めて登場するシーンでタラリと鼻血を垂らす。包帯姿で現れる『エヴァ』の綾波が、血痕だけしか見せないのと対照的である。『エヴァ』は、強い情動を心理学や神話の表現で覆い、きわめて観念的な物語として描かれたが、そうした清潔な観念を剥がすことが『エウレカ』の目標だったと言えよう。中盤以降は、肉体の損傷や変容が生々しく描かれ、見る者に痛みを感じさせるほど(こんな作品が、日曜の朝7時に放映されていたとは…)。身体性が明確にされているからこそ、壊れかけた人間が立ち直る過程が、観念的ではなくリアルなものとして、強い訴求力を持ち得たのである。
 全26話の『エヴァ』に対して全50話の『エウレカ』はキャラクターの数が格段に多いが、孤立したキャラばかりの『エヴァ』と異なって、重要人物は、ホランド−タルホ、チャールズ−レイ、ドミニク−アネモネ、ノルブ−サクヤなどのように、ほとんどが男女のペアとなる。男女ペアにならない数少ない人物の一人が、政府軍指揮官として悪役に徹するデューイで、フレーザーの『金枝篇』(タイトルバックに登場するのを見逃さないように)に記された「王殺し」を地で行くことからもわかるように、『エウレカ』の中で唯一、観念的に設定された人物である。デューイとは対照的に、多くの男女ペアで身体的な接触が描かれる点にも注目したい。例えば、第25話にしか登場しないのに深く記憶に刻まれるウィルとマーサ。マーサの口からこぼれたスープをウィルが優しく拭き取るシーンは忘れられない。この印象的なシーンがあるからこそ、「君にはいるかい? 世界の終わりが来ようとも、一緒にいようと思う人が」という(ややもすれば歯が浮きそうな)台詞に実感が籠もるのである。
 男女ペアの中で特に鮮烈なのが、中盤で実質的な主役となるチャールズとレイである。この二人は、『機動戦士ガンダム』に登場するランバ・ラル−ハモンと立ち位置が似ているが、ランバ・ラルが決して内面を見せない職業軍人で、ハモンとの実生活について何も語られなかったのに対して、チャールズとレイが示す生き様は、実に生々しい。自由気ままに踊るレイの身体や、磨き上げられた食卓に並ぶ美味しそうな食事の描写は、その後に起きる出来事の悲劇性を視聴者に強く実感させる。
 全50話と長く、しかも、始まって暫くは、聞き分けのないガキでしかないレントンの愚行につきあわされるので、途中でギブアップする人もいるだろう。だが、第12話の「アクペリエンス・1」までは我慢して見てほしい。「アクペリエンス」と題されたエピソードは4つあり、いずれもコーラリアンと呼ばれる不可解な存在との接触を経て話の流れが大きく変わる転換点となる(「アクペリエンス・2」と「−・3」の後ではエウレカの髪型が変わるので、違いがはっきりする)。各転換点を経て内容は段階的に深化していき、「アクペリエンス・3」(第41話)以降で明かされる世界の真実に、視聴者は瞠目させられるだろう。
 …もっとも、私個人は、第43話辺りから急速に盛り上がるドミニクとアネモネのストーリーに心奪われて、同時並行的に描かれる世界の真実などどうでも良くなったが。特に、ドミニクがアネモネの過去を知る「イッツ・オール・イン・ザ・マインド」(第44話)では、胸が潰れる思いだった。常に身を挺してアネモネを守ろうとするドミニクは、あらゆるアニメの登場人物の中で、最も理想的な男子である。彼が断固として口にする台詞−−「いえ、道は一つです」(第45話)、「私情の何がいけない!」(第48話)−−の何とカッコイイことか。それ故、私にとって『エウレカ』のクライマックスは「バレエ・メカニック」(第48話)である(第50話で描かれるレントン−エウレカの行く末など、ただの付け足しとしか感じられない)。このエピソードでアネモネが口にする「もし、この戦いが終わっても…」というモノローグはあまりに感動的で、何度も繰り返し見ているうちに、暗唱できるようになってしまった(もしかしたら自分はオタクかもしれないと、ふと不安の念がよぎった瞬間だった)。

Another

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作既読。
 私が以前から、「アニメでミステリは描けるか?」という疑問に悩んできた。こう言うと、『名探偵コナン』や『金田一少年の事件簿』があるじゃないかと思われるかもしれない。しかし、これらの作品で扱われる謎はパズルであり、ミステリではない。パズルとは、正解の一部を隠したり組み換えたりしてわかりにくくした謎かけで、正解が得られれば、そこで終わりとなる。これに対して、ミステリとは、単に正解が求められる謎ではない。英語の mistery は、もともと宗教的な意味合いを持つ言葉で、表面的には不条理で謎めいた出来事に見えながら、背後には(神の意志のような)明確な条理が隠されていることを表す。それ故、真相が明らかになったとき、人は(その作品で描かれた)世界をより深く理解できるようになる。こうした条理は言語によって最もわかりやすく表現されるので、ミステリ芸術は文学の独壇場だった。背後の条理が経験的に理解できる日常系ミステリを別にすると、映像でミステリを表現するのはきわめて難しく、ミステリ映画で傑作と言えるものはほとんどない(『ユージュアル・サスペクツ』か『情婦』くらい)。それでは、アニメはどうか?
 幸い、ミステリ小説の傑作である『魍魎の匣』と『Another』が2008年と12年に相次いでアニメ化されたため、冒頭の疑問に関して具体的に考察することが可能となった。ここでは、綾辻行人原作の『Another』を取り上げたい(『魍魎の匣』については、別にレビューした)。
 綾辻行人は、島田荘司に続く新本格派の旗手として知られる(私の敬愛するファンタジー作家・小野不由美の夫でもある)。エラリー・クイーンの国名シリーズを思わせるパズルに近い論理的ミステリを得意としており、私はその大半を読んだが、トリックと犯人をたいがい当てられることもあって、それほど高く評価していなかった。しかし、21世紀に入って作風に拡がりを見せる。04年の『暗黒館の殺人』は、(謎はともかく)読み応えのあるゴシックロマンである(二階堂黎人『人狼城の恐怖』、笠井潔『オイディプス症候群』と併せて、19世紀的ゴシックロマンが世紀変わり目の日本で狂い咲き的に花開いたのは、何の符合だろうか?)。『Another』は、長編としては『暗黒館の殺人』に続く作品(ジュブナイルの中編が間に挟まる)で、ゴシックロマンの次は何とオカルトホラーだった。
 ミステリは、「謎に対する真相を描く」という形式さえ守れば、さまざまなジャンルに越境することができる。よく知られているのが、ロボットが実用化された未来社会を舞台とするアシモフの『鋼鉄都市』で、ジャンルとしてはSFに属しながら、殺人を犯せないと科学的に証明された者が殺人者たり得るかを解明する本格ミステリでもある。『Another』も同様に、オカルトホラーの体裁を取っているものの、越境したミステリと見なすことができる。
 主人公・榊原恒一が転入した夜見北中3年3組には、不思議な雰囲気を持つ眼帯の少女・見崎鳴(みさきめい)がいた。しかし、クラスの他の生徒は、なぜか鳴が存在しないかのように振舞っている。そして、恒一と親しい看護婦は、彼が転入する直前、病院でミサキという名の少女が病死していたことを伝える…。この作品における謎は、前半では「3年3組で何が起きているか」、中盤から「××は誰か」であり、謎の解明を主眼とするミステリとしてストーリーが展開される。
 『Another』は、2つの点で成功を収めた作品である。1つは、本格ミステリとしての原則を守った点。オカルトホラーという枠さえ認めれば、解明された真相は合理的で、非現実的ではあっても論理の飛躍はない。初見の際は、(原作を読んでいたにもかかわらず)あまりの怖さにアワアワして良くわからなかったが、再見したところ、伏線がきちんと張られ、手がかりも与えられていた。重要なポイントとなる親等数(姉妹か従姉妹かなど)にも、矛盾はない。最終回で真相が明かされると、ジグソーパズルのピースが全てあるべき所に填ってすっきりする。私が最も好きな伏線は、九官鳥が繰り返す「どうして?」という言葉だ。その本当の意味がわかったとき、切なくて涙が出そうになった。
 成功と言える第2の点は、原作の雰囲気をさらに盛り上げた映像の見事さである。霊安室に通じる暗い廊下、赤錆が浮いた校舎屋上の手すりなどを見ていると、しっかりした作画のおかげで、ゾクゾクするほどの恐怖感が這い上がってくる。中でも特筆すべきは、恒一が訪れる人形館の描写。ここで描かれるのは球体関節人形と呼ばれるもので、『ローゼンメイデン』や『イノセンス』にも登場した。04年には東京都現代美術館で押井守が監修した「球体関節人形展 〜DOLLS OF INNOCENCE〜」が開催されたので、多くのアニメファンが実物を見て驚嘆したことだろう(私も足を運び、高いので滅多に買わない図録まで購入してしまった)。『Another』には、シュールレアリストであるベルメールの有名作品も現れるが、多くは、天野可淡や恋月姫の作品を思わせるドールである。ただし、オリジナル作品が妖艶な美しさを示すのに対して、アニメの人形からは、不気味にひねた印象を受ける。意図的なデフォルメか、アニメ絵でエッジが強調され結果的にそうなったのかはわからないが、この不気味さは、どこまでも尾を引いて離れない。
 冒頭の疑問に対する答えだが、『Another』を見る限り、筋の通った脚本と優れた演出・作画があれば、アニメでも、かなりの程度までミステリを描けると言って良いだろう。
 ただし、『Another』には大きな欠点がある。人が死ぬシーンが、あまりにグロテスクなのである。この点を割り引いて星3つとしたが、こうした描写に耐性のある人は、もう少し高い評価を与えるだろう。

魍魎の匣

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作既読。
 私は、本格ミステリとアニメは相性が悪いと考えているが、この作品と綾辻行人原作の『Another』は、比較的うまくアニメ化できたケースとして評価したい。
 原作は、京極夏彦による京極堂シリーズの第2作。日本推理作家協会賞を受賞したミステリ史上屈指の傑作−−と言うより、ほとんど小栗虫太郎の諸作しか比べるものがない、規格外の超絶的ミステリである。シリーズ中で最も人気が高く、また、第1作が映像化不可能なトリックを使用しているため、京極作品のアニメ化に当たってこの作品が選ばれたのだろう。
 京極堂シリーズには、ワトソン役が1人、探偵役が3人登場する。幻想作家・関口巽は、3人称で書かれた本編中に突然語り手として1人称で割り込んでワトソン役を演じるが、鬱病で妄想癖があるため、状況を客観視することができない。刑事の木場修太郎は、現場に足を運んでコツコツと証拠を集めるものの、事件の全体像を思い描く想像力に欠ける。華族出身の美丈夫・榎木津礼二郎は、千里眼(他者の視覚的記憶を読みとるテレパシー能力)の持ち主で真相を誰よりも早く“見る”にもかかわらず、能天気な性格故に理解には達しない。いかにも名探偵らしいのが、京極堂こと中禅寺秋彦。古本屋を営む書痴であると同時に、妖怪に関して異様に造詣の深い祈祷師(拝み屋)でもある。自宅に籠もる典型的な安楽椅子探偵で、他人が集めたデータを元に推理するが、その内容をなかなか語らず、しばしば事態が手遅れになる。
 いずれの作品も、中核に超絶的トリックに支えられた比較的単純な事件があり、これに偶然と必然が織りなすさまざまな出来事が絡まりあって、複雑怪奇な様相を呈している。しかも、上述の登場人物が各人の立場から事件にアプローチするため、複数の視点から重層的に描かれた、きらびやかで錯綜した物語が現出し、読者は目眩にも似た感覚を覚える。これが京極堂シリーズの魅力である。
 シリーズの舞台となるのは、戦争の災禍から漸く立ち直りつつあった日本。『魍魎の匣』では、冒頭に対照的な2人の美少女が登場、家庭に対する反発から一緒に家出を試みるが、その途上、中央線の駅で1人が重傷を負う事故に会う。同じ頃、少女をバラバラに解体する連続殺人事件が世間を騒がせていた…。
 『魍魎の匣』最大の謎は、犯人がなぜ少女をバラバラにするかであり、それに伴って、箱にきちんと収められた手足、病室から掻き消されたように失踪する瀕死の少女、そして、屋敷に鳴り響く奇妙な音(アニメ版ではほとんど触れられない)などのギミックが描かれる。ストーリーが進行するにつれて、順序の混乱(なぜ、あの事件の前にこの出来事が…)や数の不一致(××と××の個数が合わない)といった解釈不能な事態も出来する。こうした互いに無関係に思えるジグソーパズルのピースが、ラストでただ一つの真相の下にまとめられる−−これが、ミステリの醍醐味である。
 装丁に石燕の妖怪画を用いているせいで妖怪小説と勘違いする人もいるが、作中、オカルト的な出来事は何も起こらない(同じ作者による『嗤う伊右衛門』が幽霊の登場しない『四谷怪談』であるのと同断である)。まるで妖怪の仕業としか思えない不可解な事件でも、その背後に合理的な真相があることが示される。「この世に不思議なことなど何もないのだよ」−−しかし、京極堂の口癖とは裏腹に、解き明かされた真相は、妖怪の仕業などよりもはるかに奇怪で恐ろしい。
 アニメ化に当たって、スタッフは、戦後間もない時期の世相を再現することに力を注いだようだ。人々は、卒然と蘇る戦時のおぞましい記憶にさいなまれている。人間性を踏みにじって行われた蛮行が、戦争終結後もなお尾を引いているのでは…という思いが、名状しがたい不安を醸す。そんな時期に起きた連続バラバラ事件。そこに否応なく戦争のイメージが重なるさまを、アニメは丹念に描いている。
 もっとも、アニメがオリジナルの作品世界を忠実に再現しているわけではない。CLAMPのキャラクターデザインは私の趣味に合わず、OPとEDのナイトメアの楽曲も原作の雰囲気にそぐわない気がするが、これは好き嫌いの問題なので、文句は言わない。それよりも、原作に横溢する浮遊感−−どこか現実離れした事態が進行しているという感覚−−が欠落しているのである。
 例えば、冒頭に登場する2人の少女。京極夏彦による描写は、昭和初期における耽美派文学や蕗谷虹児の絵画に登場する少女のような、現実にはあり得ない儚さを感じさせる。だが、アニメでは、授業中に教師の誤りを指摘するリアルな少女でしかない。そこに、繊細なガラス細工の少女像にペンキで目鼻を描いたような、いかんともし難い違和感を覚えてしまう。
 シリーズ構成の村井さだゆきは、『パーフェクトブルー』『千年女優』『スチームボーイ』『蟲師(実写版)』の脚本を担当した人で、アニメ史上に残る傑作と、箸にも棒にも掛からぬ駄作をともに手がけたという良くわからない脚本家である。『魍魎の匣』では、原作を少しずつ改変しており、登場人物の心象風景を挿入したり、関口と榎木津が少女の1人と出会うシーンを視点を変えて2度描いたりするなど、原作の心理描写を掘り下げたシーンがある。その一方で、時間が行きつ戻りつする構成や、(シリーズ第2作なので)登場人物の説明を省略する点は原作のままにしており、視聴者には不親切だ。私は、この作品を映画化する場合の脚本を自分なりに構想したことがあるのでわかるが、時系列を整理すれば、時間が前後に飛ぶのは2ヶ所に絞ることが可能で、後は作中時間の流れに沿ってストーリーを展開できる。読者が本を傍らに置いて考えることのできる小説と異なり、現実の時間に束縛されたアニメでは、こうした工夫も必要だろう。
 最大の問題は、中核となるトリックの描き方である。このトリックは、小栗虫太郎ばりの超絶的なもので、現実に遂行するのは無理がある上、原作通りに映像化すると正視に耐えない。そこで、アニメでは、トリックの仕組みをかなり変更し、さらに、その内容をネタバレの形で前半から小出しにして、ラストのショックを和らげている。しかし、この改変は、小説の終盤で驚天動地の思いをしたミステリファンからすると、どうにも物足りない。
 結論を言えば、『魍魎の匣』はミステリのアニメ化としてかなりうまくいった部類に属すものの、やはり、偉大な原作には遠く及ばない。ミステリファンはまず原作を読むべきであり(と言っても、ミステリファンを自認するなら、原作を読んでいないはずはなかろうが)、アニメは、あくまでイメージを補完するためのものと思った方が良い。ミステリにあまり関心のないアニメファンが、ミステリ風に味付けされたアニメとして楽しむには、申し分のない出来である。

機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 戦争は、表現者にとっての麻薬である。国家の存亡に関わる戦いは勇壮な英雄譚の舞台に相応しく、死と隣り合わせになりながら運命にあらがう姿は万人の胸を打つだろう。ガンダムシリーズにしても、「運悪く戦争に巻き込まれた若者たちの逃避行」という富野由悠季による当初の設定は次第に後退し、いつしかアムロやシャアを英雄視する戦争ヒーローものへと変質していく。だが、これは、戦争の魅力にとらわれ惑溺することではないか。富野は、登場人物の悲惨な末路を描くことで軌道修正を図るが、悲惨さを強調するほどヒーローが輝きを増すという逆説に直面、神話的な『ブレンパワード』を経由して、戦争を長大な人類史のほんの一コマとして捉える『ターンエーガンダム』の境地に行き着く。それでは、富野の手を離れた最初のガンダム作品である本作はどうか?
 『ポケットの中の戦争』の舞台は、地球連邦とジオン公国による戦争に対して中立を保つコロニー・サイド6で、シリーズで重要な役割を果たすニュータイプ(特殊能力を持つミュータント)も登場しない。このため、MS(モビルスーツ)同士の戦闘シーンは少なく、オールドタイプが操縦するガンダムの動きはやや鈍重である。事態は、地球連邦軍が新型ガンダムをサイド6に無断で搬送したことから動き出す。ジオン軍は、この機体を奪取ないし破壊すべくサイクロプス隊を送り込むが、相次ぐ激戦で隊員が隊長以下3人にまで減ったため、補充兵として新米のバーニィが派遣されてきた。このバーニィと、戦争を知らないまま兵器に憧れるサイド6育ちの少年アルとの交流が、作品の骨格となる。
 山賀博之(『トップをねらえ!』『アベノ橋魔法☆商店街』)による脚本は、愚直と言って良いほどストレートで、「戦争の実態を知らなかった少年が現実に直面する」という小説・映画・漫画で繰り返し描かれてきたストーリーをなぞる(類似性が指摘されるスピルバーグの『太陽の帝国』は、それ自体が先行作品のオマージュである)。ただし、これは正しい方法論である。斜に構えた視点や意表をつく場面転換が効果的なのは、ファッショナブルな軽い話の場合であり、重い主題を扱うときには、ストレートな展開こそが力を持つ。監督の高山文彦も、何の衒いもない正攻法の映画的演出で勝負する(ちなみに、高山は作品の数が少なく、私はシリーズ構成を担当した『青い花』や『よみがえる空 RESCUE WINGS』などから才能を推測するだけだが、アニメ界では有名人物で、『機動警察パトレイバー』(TV版)の「地下迷宮物件」に登場する迷宮の主は、ほとんど高山そのままらしい)。
 若い視聴者は、いかにも80年代アニメっぽい作画を「古くさい」と感じるかもしれない。だが、こうした表面的な要素は単なる流行の違いであり、慣れれば気にならなくなるはずだ。それよりも、登場人物の台詞や視線に注目し、作者の思いを読み取るべきである。一度見ただけでは、わからないかもしれない。しかし、二度三度と繰り返し見れば、時の流れに朽ちることのない普遍的なものが明らかになるだろう。
 特に考えてほしいのが、登場人物がそれぞれ何を知り、何を知らないかである。例えば、サイクロプス隊の隊長は、戦争が終結間近で、自分たちが派遣された本当の目的を察していた。それだけでなく、サイド6でバーを営むジオンの諜報員から、軍上層部が何を計画しているかを聞かされ、事態がどうしようもないところまで来ていることを知る−−「この戦争はもうすぐ終わる」「ジオンは負けるな」「ああ」。遠くを見つめるその目は、諦観を感じさせる。古参の兵士である部下のミーシャとガルシアも、ジオンの敗北が近いことに気がついていたはずだ。そう考えると、乾杯するように酒瓶を掲げてミーシャが口にする「滅びゆくもののために!」という言葉は、実に重い。部隊の中で何も知らないのは、バーニィだけである。
 『ポケットの中の戦争』というタイトルは、おそらく、戦争の帰趨には何の影響もないちっぽけな戦闘を意味するのだろう。それ故、この物語は英雄譚になるべくもない。ただ、事実を目撃した少年だけが、その思い出をポケットの奥底にいつまでも隠し持っている。

RDG レッドデータガール

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 2013年春アニメは『進撃の巨人』を初め秀作揃いだったが、放送前に私が最も期待していたのが、この作品である。原作者の荻原規子は、1988年に刊行されたデビュー作『空色勾玉』によってファンタジーの新時代を切り開いたことで知られる。彼女がいなければ、上橋菜穂子や小野不由美ら女性作家による日本ファンタジーの黄金時代は訪れなかったかもしれない。その荻原の人気シリーズを原作とするのが、アニメ『RDG レッドデータガール』である。角川文庫創刊65周年記念作品と銘打たれ、名脚本家・横手美智子がシリーズ構成を担当、『true tears』『花咲くいろは』『Another』などの良質な作品で知られるP.A.WORKSが制作するのだから、期待するなという方が無理だろう。
 結論から言えば、冒頭3話は期待に違わぬ素晴らしい出来だったが、舞台を山奥の中学から小洒落た私立高校に移した第4話以降は腰砕け状態になり、ラストはかなりガッカリさせられるものだった。ここでは、冒頭3話を中心にレビューしたい。
 この手の作品で面白さを左右する最も重要な要素が、怪異の描写である。怪異を取り上げるアニメ−−『夏目友人帳』『化物語』など−−の多くは、日常世界の中に実体化された怪異を描き出すことを主眼とする。だが、このようにして描かれた妖怪や怪現象は、むしろ興味を呼び覚まされる“面白い”対象と感じられ、あまり不気味ではない。真に恐ろしいのは、実体として把握できない「名状しがたいもの」である。妖怪そのものよりも妖怪の気配、怪現象よりもその兆しの方が、恐怖を感じさせる。こうした気配や兆しを効果的に描ければ最高の怪異譚となるのだろうが、具体的な事物を明確な描線を使って描くアニメにとって、これが難しい課題であることは容易に想像されよう。この難しい課題にかなりの程度まで応えて見せたのが、『RDG』冒頭3話である。
 熊野の山奥にひっそりと立つ玉倉神社で、宮司の孫として育てられた主人公の泉水子(いずみこ)−−彼女は、引っ込み思案な性格を変えたいと思いながらも、なかなか最初の一歩が踏み出せずにいた。彼女が手を触れるや、パソコンや携帯電話が急におかしくなってしまうこともあって、自分がどこか普通ではないという感じがするのである。それでも、親に言われるまま何年も伸ばし続けた髪を少し切ってみたところ、それが何らかのきっかけとなったのか、両親の友人の息子で泉水子の幼なじみである深行(みゆき)が、彼女の中学に転校させられてくる。それから間もなく、泉水子は修学旅行で東京に赴くのだが、そこでジワジワと恐怖が高まっていく描写が秀逸である。
 東京に向かう飛行機の中で、泉水子は早くも異常を感じる。機内や空港に、得体の知れない黒い影がいるように見えるのだ。しかし、周囲の誰も異変に気づかず、黒い影の正体は判然としない。泉水子は、長く会っていない母親を訪ねるために、教師の指示に反して深行と街に出るものの、通り抜けようとした自動改札機が突然誤作動し、タクシーに乗ると目的地と異なる場所で降ろされてしまう。群雲が沸き上がって周囲は夕暮れ時のように暗くなり、大粒の雨が落ちてくる。他の人が何も気がつかないまま、自分だけがのっぴきならない状況に追い込まれ、名状しがたい怪異に直面する−−視聴者はその恐怖感を泉水子と共有して身震いする。この後、事態が一転して、泉水子が普通の人間とは異なる理由が明らかになっていくのだが、その頃には、視聴者は完全に作者の術中にはまり、作品世界にどっぷりと漬かっている。
 このように、冒頭3話でゾクゾクする展開となったものの、第4話以降は雰囲気がガラリと変わり、明るい高校生活(と言っても、同じ学年に、一人はすでに死んでいる三つ子や式神を操る陰陽師がいるが)の物語となる。この急変はアニメの問題ではなく、(前作『西の善き魔女』にも見られるように)学園の話になると筆が滑って書きすぎる荻原の悪い癖が出た結果である。怪異も名状しがたいものではなくなり、戸隠の神がお茶目な龍の姿をとって降臨したり、泉水子に憑依した姫神がクドクドと愚痴をこぼしたりする。なかなか姿を見せなかった泉水子の母親が、実は普通のオバさんだったのには笑ってしまった。作画は美しく、憑依された泉水子が舞を舞うところなど優れたシーンもあるので、もう少し何とかならなかったかと残念だ。

ローゼンメイデン

【評価:☆☆☆】
 旧作第1-2期、特別編、新作(2013年版)全話視聴済み、原作(幻冬社版)全巻既読。以下では、旧作第1期についてレビューする。
 ツンデレ、ゴスロリ、おまけにアンティ−クドールと、ある意味、アニメ史上最強のヒロイン・真紅が登場する本作は、ドールたちの狂騒と引きこもり少年の再生を平行して描くややアンバランスな内容ながら、時に甘美、時に残酷な描写によって、記憶に残る佳品となった。
 原作漫画とアニメの関係は少々ややこしいので、簡単におさらいしておこう。女性漫画家ユニットPEACH-PITによる漫画『Rozen Maiden』は、02年から連載が始まり、07年に中絶に近い形で突然終了した。アニメ第1期(『ローゼンメイデン』)は、漫画が連載中の04年に放送されたもので、原作第3巻までの内容をベースにしているため、7体いるドールのうち金糸雀と雪華綺晶は登場せず、ラストは完全なオリジナルである。登場人物の設定やストーリー、全体的な雰囲気も、原作とはかなり違う。05年の第2期(『−トロイメント』)と06年の特別編(『−オーベルテューレ』)は、原作の新たに書き下ろされた部分を取り込みながらも、おおむね第1期の内容と雰囲気を継承する形で作られた。一方、いったん中絶した原作漫画は、掲載誌を変更し、『ローゼンメイデン』という(カナ書きの)タイトルで08年から14年まで連載された。内容は、前作とは別のパラレルワールドの出来事となっている。これをベースにしたのが13年版の新作アニメ(制作会社・スタッフは旧作とは別)で、狂騒的な旧作とは異なって沈鬱で重苦しい。
 旧作第1期のアニメは、原作のかなりビターな味わいとは異なり、良く言えばわかりやすい、悪く言えば型にはまった内容になっている(シリーズ構成は花田十輝)。例えば、主人公の中学生ジュンが引きこもりになった原因として、アニメは、現実によくある出来事を持ってくるが、原作漫画では、滅多にない特殊な経緯が語られる(漫画のこの部分は、アニメ放映後に発表されたものなので、アニメを見た原作者が敢えてひねったのかもしれない)。このため、原作の方が心に深い傷痕を残すトラウマとなり、立ち直る過程として具体的なドラマを描かなければならないのに対して、アニメのジュンに必要とされるのは、傷ついたプライドを癒してくれるささやかな達成感である。アニメの中で、最も幼いドールである雛苺に大好物のイチゴ大福を買ってあげようと、それまで自宅に引きこもっていたジュンが意を決して外出するシーンは、行為の持つ意味が視聴者にも容易に理解されるので、素直に共感を呼び起こす。
 アニメと原作が最も異なるのは、ドールたちのバックストーリーである。人形作家ローゼンによって生み出された「生きたアンティークドール」である彼女らは、人間の魂の相当するローザミスティカを互いに奪い合うアリスゲームに参加し、最後の一人になるまで闘う宿命を負わされている。原作では、この重い宿命をさらにむごいものにするかのように、それぞれのドールと(ドールに生命力を与える)契約者の間で、陰々滅々たる物語が展開される。ところが、アニメでは、こうしたドールごとの話は、たとえ描かれるにしても(第8-9話の蒼星石のエピソードのように)あまり深刻にならない形にすっきりまとめられており、原作のドロドロ感からは程遠い。バックストーリーがない分、ドールたちのキャラは徹底的に類型化され、幼い雛苺は駄々をこねてばかりの聞き分けのない子供として、双子の蒼星石と翠星石は、前者がひたすら真面目なのに対して後者が口の悪いただのひねくれ者として、黒い衣装をまとった水銀燈は好戦的で憎々しい敵役として描かれる。こうした類型化によってキャラは明確になったものの、ドラマとしての深みに欠けることは否めない。もっとも、原作の方は、話が拡がりすぎて収拾がつかなくなってしまったのだから、一概にどちらが良いとも言えないのだが。
 個々のドールの話が膨らまず1クール枠が余ってしまったせいか、アニメには埋め草のような類型的描写が多く見られる。第5話「階段」は、原作の短いエピソードを引き延ばし、ドールたちのバカ騒ぎを20分にわたって繰り広げて見せるが、これが実につまらない。この部分で漫画とアニメを比較すると、両メディアの表現力の差がよくわかる。漫画では、コミカルな部分で絵をカリカチュア風に簡略化したりフレームを変形することで、みっしり描き込まれたシリアスな部分との差別化が図れるが、アニメではそうした差異をつけられず、強弱のない単調な表現となってしまう(ついでに言うと、アメリカで流行している3Dアニメは2Dよりさらに表現力が乏しく、優れた作品を生み出しにくい←誰かアメリカ人に教えてあげて!)。第11-12話では真紅と水銀燈の対決となるが、バトルの描写は(水銀燈の翼がドラゴンに変形するなど)無駄に派手で、演出はいかにも凡庸である。
 ただし、こうしたつまらない描写の合間に、心にじわりと沁みる印象的な映像が挟まれるから侮れない。クライマックスにおけるバトルそのものはさして面白くないが、その前後に挿入された「ジャンク」にまつわる出来事は、心を揺さぶる。第10話「別離」では、白雪姫についての中身のないオリジナルエピソードの後に、真紅がジュンにドールの死について語る感動的な場面が続く(ここでは、いろんな意味でドキドキさせられる)。
 『ローゼンメイデン』は、バランスが悪くアニメとしての完成度は必ずしも高くないが、いくつもの忘れがたいシーンがあり、それだけでも、多くの人にとって宝物となる作品である。

デュラララ!!

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 多彩な人物(化け物を含む)が登場する祝祭的な群像劇。ごった煮の魅力を感じさせる点は、同じく成田良悟のライトノベルを原作とする『バッカーノ!』と共通するが、『バッカーノ!』が1930年代のアメリカという異邦の地における出来事なのに対して、『デュラララ!!』は、池袋という(特に東京人にとっては)身近な街を舞台とする。
 主人公(と言うよりは第三者的語り手)の竜ヶ峰帝人が戸惑ったように、池袋は不思議な所だ。駅から徒歩10分圏内に、都市のあらゆる要素が含まれる。超高層ビルを見上げるところに低家賃のアパートがあり、乙女ロードと風俗街が近接する。コンサートホールや劇場の多い文化の街である一方、サラリーマンがたむろする居酒屋も同じくらい多い。駅の西口に東武、東口には西武の巨大デパートがあるかと思えば、その向かいに、どこの地方都市かと突っ込みたくなる小店舗が並ぶ(最近では減ってしまったが)。純然たる日本の町のようでありながら、アジア系(ないし出身地不明)の外国人も目に付く。山手線に駅のある他の副都心と比べても、渋谷より遥かに雑然とし、品川のように取り繕っておらず、歌舞伎町側・都庁側に二極分化した新宿よりも多様性が大きい。『デュラララ!!』のみならず、『DARKER THAN BLACK -流星の双子-』や『輪るピングドラム』など、池袋はいくつものアニメの舞台になっており、かつて私のテリトリーだった(と言っても、文芸坐やシアターグリーンなどに足繁く通っただけだが)こともあって、映像に現れる実在の建物や公園はどれも馴染み深い。
 『デュラララ!!』には、現実に存在するわけがないのに、なぜかリアルに感じられる登場人物が多い。交通標識を引っこ抜いて投げ飛ばす人間離れした怪力の持ち主で「池袋最強」(日本ではなく池袋限定なのがイイ)を謳われる平和島静雄は、バーテン服が似合いすぎるせいもあって、池袋の風俗街でひょっこり出会いそうな雰囲気を湛えている。「ロシア寿司」なる怪しげな食べ物を供する店の客引き・サイモンは、さまざまな事情で日本に流れ着く外国人の姿を象徴する。地味で大人しい優等生でありながら、クラスメイトによるイジメの対象となり、さらに恐ろしい裏の顔をも併せ持つ園原杏里は、イジメられっ子の妄想を具現した存在かもしれない。
 『デュラララ!!』の中で最も印象に残るのは、何と言っても、漆黒の衣装を纏った首なしライダー・セルティだろう。もともとはアイルランドの妖怪デュラハンのはずなのに、馬をバイクに乗り換えて、池袋で運び屋をやっているところが微笑ましい。日常生活では、恋人とともに暮らすごくふつうの女性である(首がない点を除けば)。セルティの実像が最も良くわかるのは、第8話「南柯之夢」だろう。彼女の夢に始まり夢に終わるこのエピソードは、私の大好きな一編で、見るたびにセルティがいとおしくなる(レジ袋から一瞬ネギがのぞくところなど、キュンとしてしまう)。彼女が友人の平和島静雄と池袋の一角にできた空き地を眺めるシーン、フォーチュンクッキーから出たおみくじの文言に嬉しそうにするシーン(しかし、恋人のおみくじには…)などは、いつまでも記憶に残る。失われた頭部に思いを馳せながら、彼女は声にならない呟きをもらす。「私は涙を流せない。こちら(=首のない体)が悲しいとき、あちら(=頭部)で涙は流れるのだろうか? そうでなくていい」−−これに続く思いの籠もった一言で、私はいつも泣いてしまう。

バッカーノ!

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作第2巻のみ既読。
 ギャング同士の血なまぐさい抗争を描きながら、妙に祝祭的でウキウキした雰囲気の漂う作品。血が嫌いな私なのに、あまりの面白さに自分でも意外な高評価を付けてしまった。
 この作品の基本的なスタンスは、第1話において、新聞社副社長と助手の会話という形で明確に述べられる(この第1話は、全編視聴後に改めて見直すと、その含蓄が良くわかる)。「1930年の11月に始まった、あの一連の奇怪な物語」について語ろうとする助手に対して、副社長は、それが18世紀から現在に至る未完の出来事の一部に過ぎず、誰が主人公であってもかまわない話だと諭す。二人の会話の合間に挿入される映像には、ナイフや銃で殺すことのできない不死者が登場、これから描かれる事件が、不死者の存在によって死の恐怖が無効化された世界で起きる、時間や空間を超越した馬鹿騒ぎ(バッカーノ)であることが示される。
 20冊以上に及ぶ成田良悟の原作小説では、大きく分けて1700年代、1930年代、2000年代の出来事が描かれるが、アニメ化されたのは、このうち、最初に発表された1930年代編前半に相当する4冊分(1930年編、1931年編×2、1932年編)。アニメでは、この3年の間を何度も行き来する(1度だけ1700年代に飛ぶ)ため、最初は面食らうかもしれない。しかし、年代が変わるたびに字幕が出る上に、作画が丁寧で状況がきちんと描かれているため、アニメ慣れしている人はそれほど混乱しないだろう。頻繁な場面転換が苦手な人は、1930年と32年の部分は不死者を巡る散発的なエピソード(あっちでもこっちでもバッカーノ)だと割り切り、1931年に列車内で起きる出来事に意識を集中してストーリーを辿るようにすれば、それなりに楽しめるはずだ。この出来事は、第1話後半から特に重点的に描かれており、登場人物も多彩で面白い。
 事件の舞台となる列車は、シカゴ発ニューヨーク行きの豪華特急フライング・プッシーフット号。ちなみに、「プッシーフット」とは、もともと猫の足のことで、転じて、忍び足(で歩く人)ないし禁酒主義者を指す。卑猥な意味はない(私、誤解してました)。この列車には、全くの偶然により、それぞれ黒服・白服・ボロ服をまとった3つのギャング団が乗り合わせており、なぜか同時に食堂車に乱入、そのままバッカーノ的状況となる。以後は血みどろの騒動が続くが、あまり嫌悪感を覚えなかった。私が流血嫌いなのは、登場人物に感情移入するあまり痛みまで感じてしまうからだが、この作品では、誰にも感情移入できないので、まるでコミックを見ているような安心感がある。
 脚本家志望の人を対象とするシナリオ講座では、登場人物の相互関係を構造化し、各キャラクターに専用のポジションを与えることが重要だと教えられる。実際、『七人の侍』のシナリオでは、頭の切れる司令官とその補佐、最も強い剣豪、ロマンス担当の若武者と恋人、侍と農民の仲介役となる道化が、明確に書き分けられていた。ところが、『バッカーノ!』の作者は、そうした常套的な手法をあざ笑うかのように、全員を同じようにとがったキャラとして描く。何しろ、超人的な身体能力を有し、文字通り必殺の技を持つ天才的な殺し屋が3人も登場して闘うのだから。良く似たタイプの人物が何人も現れるので、私も「これ誰だっけ?」と思うことが度々あった。ギャング団のメンバーなら服を見ればわかるが、そうでないキャラも多い。しかし、少々混同してもかまわない。殺されても死なない(あるいは、自分だけは死なないと信じている)人たちの殺し合いは、まるでお祭りのように、ひたすら騒々しく無意味なのだから。この祝祭的な雰囲気は原作でも感じられるが、アニメの方がより明確で、何も考えずに楽しめる。
 『ルパン三世』、『カウボーイビバップ』の系譜につながるスタイリッシュなオープニングにも注目。
 なお、DVDには登場人物のその後を描く特別編が付属しており、特にレイルトレイサーに関しては、「エッ、そうだったの?」と吃驚させられる場面もあるが、どこか祭りの後片付けのようで、見なくても本編の評価に影響はない。

桃華月憚

【評価:☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作(PCゲーム)未プレイ。
 放送開始とともに何の予備知識もなく見始めたものの、数週間は話の流れが全く掴めず困惑した。何話目かで、ラストシーンが前回の冒頭につながることに気がつき、ようやく、各エピソードを終わりから初めに向かって逆の順序で放送する“逆再生”だと理解したが、それまでは、何度視聴を止めようと思ったことか。
 小説好きの人なら、逆再生の例として、キューバの作家カルペンティエールの傑作短編「種への旅」を思い出すだろう。ある人物の死から誕生までを時の流れに抗して記述する手法は、因果連鎖とは何かを問い掛ける文学的動機に根ざしている。『桃華月憚』でも、「この選択があの結果を招いたのか」と視聴者に考えさせる場面があれば、逆再生が効果を生んだはずだ。しかし、脚本はそれほど練られておらず、時間の遡行は単に煩わしいだけ。視聴し続けたのは、単に習慣になったからに他ならない。それでも、登場人物がだんだんと減り、ややこしい人間関係のしがらみが次第に薄らいで、主人公二人の心が漂白されていくように見える後半では、少しずつ面白さを感じるようになり、「ああ、この二人はこうして登場したのか」とわかる最終回では、ほんの少しだけ感動してしまった。
 原作のPCゲームはプレイしていないが、オカルト系バトル物を装った18禁アダルトゲームで、ストーリーはあってなきがごときものらしい。おそらく、アニメ化を委嘱された監督・山口祐司(『Fate/stay night』)とシリーズ構成・望月智充(『海がきこえる 』『絶対少年』)のコンビは、中身のないストーリーを持て余し、窮余の策として実験的な手法を採用してみたものの、結果的にうまくいかなかったのではないか。もっとも、このコンビは、同じ制作会社のアダルトゲームを原作とする『ヤミと帽子と本の旅人』でも時間軸を入れ替えるという実験をし(て失敗し)ているので、無謀な実験が好きなのかもしれない。
 逆再生でわかりにくくなったのだから、最終回から遡って見ようと思う人がいるかもしれないが、お勧めできない(あえて順再生で見る場合は、第19話と第25話が総集編なので、これを飛ばすこと)。優れた作品では、最初の設定から無理なくストーリーが展開していくが、『桃華月憚』の場合は、設定が杜撰で、いちいち新しいキャラやアイテムを導入しなければ話が進まないため、順再生に直して視聴しても、流れがスムーズにならず楽しめない。特に、クライマックス(放送では第2話)はかなり強引で、無理に決着を付けたという感が強い。
 アニメとしては欠点が多く人気も乏しかったため、このまま忘れ去られる可能性が高いが、それではいささかもったいない実験的な試みがいくつかあるので、ここで紹介しておきたい。まず、第19話「幕」は、過去の出来事を振り返る手法としてなかなか面白いテクニックを採用しており、総集編を作る場合に参考になる。また、女性声優に脚本を書かせたエピソードが6話あり、少しエロティックな第18話「海」(脚本:清水愛)や、いじめの描写が生々しい第22話「陰」(脚本:山本麻里安)は悪くない。
 中でも素晴らしいのが、能登麻美子が脚本を執筆した第21話「園」である。能登は、『地獄少女』の閻魔あいや『君に届け』の黒沼爽子などを演じた人気声優だが、このエピソードを見る限り、ライターとしての実力もなかなかのもの。実写映画では何回か使われた映像的手法を巧みに取り入れ、素直に感動できる佳編となっている。映像に仕掛けがあるので、他のエピソードを少なくとも1話先に見てから視聴するのが良い。

戦闘妖精雪風

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作既読(以下のレビューは、原作のネタバレも含む)。
 アニメは、思弁的な内容を表現するのが困難なメディアである。そのことは、神林長平の思弁的SF小説をアニメ化したこの作品に何ができ、何ができなかったかを考えればわかるだろう。
 原作は、1979年から30年以上にわたって断続的に発表されている連作短編で、『戦闘妖精・雪風』(書籍タイトルには「・」が付く)『グッドラック』『アンブロークンアロー』の3冊が既刊。作中の時間で33年前、後に「ジャム」と呼ばれることになるエイリアンが南極を出口とする超空間通路を開き、地球に対する攻撃を開始する。幸い、軍事技術は人類の方がジャムを上回っていたため、超空間通路を通じて敵基地があるフェアリー星まで押し返し、そこに前線基地を設営するに至る。物語は、この前線基地を本拠地とする偵察部隊−−戦闘には参加せず必ず帰還するので「ブーメラン部隊」と呼ばれる−−の最新鋭機「雪風」とそのパイロット・深井零を中心に展開される。
 …というあらすじを聞いて、エイリアンによる地球侵略を描いた類型的なSFだと早合点してはいけない。途中から、ジャムとは何かを巡る答えのない議論に突入し、ストーリーがなかなか進行しなくなる。
 人類は、ジャムによる攻撃を地球侵略と解釈し、反撃を試みた。しかし、ジャムにとって、この行為は、異星に干渉したときの反応を調べる単なる実験ではないのか? 人類が最新兵器を次々投入しているにもかかわらず、戦力が常に(ジャム側がわずかに劣勢のまま)ほぼ拮抗するのも、そのことを裏付ける。そもそも、ジャムが人類の存在を認識しているかどうかも疑わしい。興味の対象はむしろ機械の方であり、人間は機械に付着する有機物だとしか思っていないようだ。いや、ジャム自体が機械知性体であり、認識や思念といったものを持たないのかもしれない。
 機械知性体というアイデアは、スタニスワフ・レムの傑作『砂漠の惑星』を思い起こさせる。この小説では、とある惑星に残された自己複製する機械が独自の進化を遂げたことが描かれ、最終的に意識を獲得する可能性まで示唆された。神林がレムの発想をベースにしながら、さらに先に進もうとしたことは間違いない。『戦闘妖精・雪風』では、高度な人工知能を備えた雪風に関心を持ったジャムが、雪風と親密な関係で結ばれた零を通じて、人間に探りを入れ始める過程が描かれる。当初は、人類が製造した戦闘機そっくりの模擬機を戦線に送り込んでいたジャムだが、零と接触後は、人間と同じ化学組成を持ち、神経活動まで完全にシミュレートする人間もどきを作り出すようになった。この人間もどきに意識はあるのだろうか? 人間と同等に振舞っているのに意識を持たない(チャルマーズのいわゆる)「哲学的ゾンビ」なのかもしれないし、逆に、自分が擬態だと気がつかないまま生活しているのかもしれない。
 こうした思弁的な内容が地の文で延々と語られると、かなり鬱陶しい小説になるが、さすがに神林はそうした愚は犯さない。如上の思弁は、登場人物(主に零の上司であるブッカー少佐)の言葉を通じて断片的に語られるだけで、それ以外の部分は即物的な描写が中心となる。例えば、雪風が燃料補給のために日本海軍の空母アドミラルに着艦するところは、次のように記述される。「雪風、超音速でアドミラル56上空を通過。アドミラル56所属の監視機は追いつけない。旋回した雪風は、今度は低速でアドミラル56の着艦デッキ上を飛び抜ける。再び旋回し、ギア−DN。フラップ−DN。アレスティングフック−DN。マニュアルアプローチ」(ハヤカワ文庫版『戦闘妖精・雪風〈改〉』p.315)
 小説『戦闘妖精・雪風』のアニメ化に挑んだスタッフは、おそらく、過剰なまでに思弁的な会話よりも即物的な記述に着目し、これを迫力ある映像で具現しようと意気込んだのだろう。アドミラル着艦シーンはアニメ第4話で描かれるが、確かに、無機的な原作よりは遥かに臨場感があって引き込まれる。原作では、艦長をはじめ乗組員はいずれも雪風に対して冷淡だが、アニメでは、雪風の勇姿に驚嘆する人々の描写もあり、その背後に、戦闘メカを偏愛するアニメーターの存在が感じられる。その一方で、思弁的な部分は、会話ごとバッサリと切り落とされ、登場人物は異常なほど寡黙になる(説明を欠くためストーリーが把握できなくなる箇所も多い)。第4話までは原作(単行本第1巻をベースにしつつ、第2巻『グッドラック』の内容も取り込む)に沿っているが、第5話はオリジナルな展開となり、原作から大きく離れて壮絶な戦闘シーンが描かれる。
 はっきり言って、このアニメには、原作を豊穣にしていた思弁は跡形もない。原作の即物的な記述ではイメージが膨らまない読者のための「動く挿し絵」、あるいは、思弁に関心のないミリタリーマニアのためのBGVだと割り切るならば、美麗な作画を楽しむことができるだろう。おまけとして、二人の男と機械による妖しい三角関係の物語も付いてくる。

ef-a tale of memories.

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作(PCゲーム)未プレイ。
 1996年12月、NHKで、多くの人に生涯忘れられない鮮烈な印象を与えた1本のドキュメンタリーが放送された。『記憶が失われた時… 〜ある家族の2年半の記録〜』と題されたこの番組は、前向性健忘と呼ばれる記憶障害を患った男性を取り上げたもので、後に映画監督として有名になる是枝裕和の手になる。術後管理の不備から脳に傷害を受けた男性は、新たに長期記憶を形成することがほとんどできなくなり、どんな体験も30分から1時間程度で忘れてしまう。自分に記憶障害があることも記憶できないため、撮影に訪れた取材陣を前に、自分が何も覚えられないと改めて気づかされてショックを受ける。「正直言って、震えているんですよ」−−男性の頬が痙攣しているのを、カメラは冷徹に映し出す。手術直後と思っていた朝、妻から事情を知らされて驚き、子供たちがいつのまにか成長していることに混乱する…。そんな日常が、何ヶ月も、何年も続く。
 人間は、体験内容をまずワーキングメモリの形で一時的に保持した後、大脳辺縁系の海馬で長期記憶として定着させるが、この領域が侵された(一過性でない)前向性健忘の患者は、長期記憶の定着ないし想起が困難になる。『記憶が失われた時…』に登場する男性の場合、エピソード記憶の想起ができなくなっており、記憶障害発症後に子供が生まれたという知識は保持できたものの、その子供を抱いたときの思い出は全くない。「記憶ができないとは、自分の中に自分の存在を確認できないことだ」−−ナレーションが冷たく響く。
 おそらく、このドキュメンタリーが直接間接に影響を及ぼしたのだろう、21世紀に入って、日本で前向性健忘を扱った作品がいくつも生み出される。最も有名なのが、小川洋子による小説『博士の愛した数式』(03年)で、記憶できない日々の出来事と時間を超越した数学の成果が対比的に描かれる。この他にも、私の知る限りで、前向性健忘の患者を登場させた日本映画が4本、アニメが2本ある。記憶できないまま時間が積み重ねられていくという点では、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」にまで影を落としているかもしれない。前向性健忘の症例自体は以前から知られており、アメリカでも、クリストファー・ノーラン脚本・監督の『メメント』という映画が作られた。ただし、『メメント』が、記憶されなかった時間に何が起きたかを探るミステリなのに対して、日本の作品は、いずれも、患者を家族や友人が支えるという内容になっている。この点にも、『記憶が失われた時…』で描かれた家族の姿が反映されているのだろうか。
 前向性健忘を扱った映像作品の中で私が最も高く評価するのが、『ef-a tale of memories.』である。原作は『ef-a fairy tale of the two.』というPCゲーム(18禁アダルトゲーム)で、何組かの男女のエピソードが含まれるが、アニメではこれを1クールずつ2期に分けて放送、第1期に当たる『ef-a tale of memories.』では、それぞれ新藤千尋と宮村みやこをヒロインとする2つの物語が交互に描かれた。みやこ編も悪くはないが、圧巻は、前向性健忘を患う千尋の物語である(記憶が13時間しか保持できないという、やや機械的な設定になっている)。思い出を作ることのできない千尋は、自分という存在を確認するためにいかなる決断をするのか? 最終話に向かって突き進むストーリーは、見る者の胸を掻きむしる。
 大沼心(『バカとテストと召喚獣』)のテレビアニメ初監督作品で、『月詠-MOON PHASE-』などで一緒に仕事をした新房昭之が監修を務めた。新保の影響なのか、静止画を用いた装飾的な心象風景の表現が随所に用いられ、効果を上げている。音楽の使い方もうまい。原作がアダルトゲームということもあって露出度の高いシーンも(主にみやこ編に)あるが、話の流れに必然性があるので、不快感はなく美しい。
 第2期の『ef-a tale of melodies.』では、さらに技巧的になった表現に飾られながら、雨宮優子を中心とする陰々滅々たる物語が展開される。同じシーズンに『とらドラ!』『CLANNAD AFTER STORY』『喰霊-零-』『とある魔術の禁書目録』などの人気作が放映されたために影が薄くなったが、アニメに表面的な面白さ以上のものを求める人には、『ef』の方が見応えがあるはずだ。

ヒャッコ

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 小中高を併設した巨大な学園を舞台とする(ややぬるい)日常系ギャグアニメ。つんく♂がOP/EDの楽曲をプロデュースしたことでも知られる。つんく♂とアニメの関わりは古く、最初のヒット曲である「シングルベッド」は、アニメ『D・N・A2 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜』(94年)のED曲である。日本テレビでの放映中、本編終了後にシャ乱Qの他のメンバーとともに登場、半分ふさげながら曲の宣伝をしていったことを覚えている(ちなみに、このアニメのOPを歌っていたのは、やはりブレイク前の L'Arc〜en〜Ciel である)。
 「世界との関わりが乏しい空間に個性的な人物が集まり、日常生活の範囲内でさまざまな出来事を体験する」というのは、多くのアニメで見られるお馴染みの設定だが、実は、シリーズ構成がかなり難しい。『らき☆すた』『けいおん!』『みなみけ』などの人気作は、主要登場人物を3〜4人に絞り込み、早い段階で彼らに視聴者を引きつける行動を取らせることで、成功を収めた。しかし、それが可能なのは、ピックアップしやすいエピソードが原作に多く盛り込まれている場合であり、多彩な出来事が次々と描かれる4コマ漫画が最も扱いやすい。これに対して、まとまった分量が掲載されるストーリー漫画は、一般にかなりゆったりとした展開で、登場人物も多くなりがちなため、そのままアニメ化すると、登場人物がいかに個性的かを紹介するだけで1クールの大半を費やしてしまい、作品が“暖まる”前に時間切れとなってしまう。『ヒャッコ』はその典型で、主要キャラは4人だが、個性的な脇役が何人もいるため、それぞれをフィーチャーするエピソードをぶつ切り状態のまま積み重ね、キャラが出揃ってそろそろ面白くなるか…という段階で終了してしまった。同じようなケースに『さよなら絶望先生』があるが、こちらは3期まで続いたおかげで、結果的にかなりハイレベルな内容を実現することができた。
 アニメとしては煮え切らない残念な出来の『ヒャッコ』だが、それでも、終了間際に面白いエピソードが滑り込んだ(第11話「虎口を逃れる」)。担当教諭の急用で時間が空いたため、クラス担任の計らいで体育の自習(!)となり、女子だけで楽しくドッジボールをするはずだったのに、まずチーム分けで一悶着。何とか試合が始まったものの、メンバーに砲丸投げの選手がいたことから、しだいにバトルロイヤル風の死闘になっていく…。顔面セーフ(ぜんぜんセーフじゃない)や盗撮用カメラのギャグも効いた佳作である。
 このように、シリーズ全体を通観するのはしんどい作品であっても、突出して見応えのあるエピソードが含まれるケースは少なくない。文学ではSFやミステリのアンソロジーが出版されているが、同じように、特定のエピソードを(鑑賞に必要なあらすじやキャラの紹介とともに)集成したマイナーアニメのアンソロジーは作れないだろうか。アニメの動画配信が普及すれば、有料会員向けにアニメの見巧者がアンソロジーを作成、当該作品にリンクを張るという方法が考えられる。私なら、『桃華月憚』の「園」(第21話)、『あそびにいくヨ!』の「いだいなるさいしょのあしすとろいど?」(第9話)、『RD潜脳調査室』の「至高の話手」(第10話)、『もっけ』の「エンエンラ」(第9話)、『屍姫』の 「安らぎ」(第8話)など、半ダースくらいはすぐに思いつくのだが。

夏目友人帳

【評価:☆☆☆☆】
 第1-6期全話視聴済み、原作未読。
 ウェルメイドな妖怪もの。特に作画が美しかったりストーリーが斬新だったりするわけではないのに、つい作品世界に引き込まれ、何度も泣かされてしまう。
 妖怪を扱った作品は、あやかしと人との相互理解が可能か否かによって分類できる。民間伝承に登場する妖怪は、予測できなかった不運のあり得べき原因や、名状しがたい事象の実体として案出される場合が多く、必然的に理解不能な対象となる。アニメ『もっけ』で主人公の静流が見る妖怪は、主にこのタイプである。これに対して、『夏目友人帳』に登場する妖怪は、(泉鏡花などの近現代文学に登場する他の妖怪と同じく)人間と類似した感情や欲望を持ち、その行動原理が比較的捉えやすい。彼らが人間を襲うのは「美味しそうだから」であり、食欲さえ抑えられれば、人間に好意を抱くこともある。こうした人間的な妖怪たちと、彼らを視ることのできた祖母・レイコの能力を受け継ぐ夏目との交流が、作品の基本的な骨格となる。
 もっとも、妖怪と人間(主に夏目だが、エピソードによっては別の登場人物)との2項関係を描くだけならば、平板で深みのない物語になったろう。『夏目友人帳』の特徴は、この2項とは別の関係性を有する第3項を設定することで、作品世界に奥行きを与えた点にある。
 例えば、「水底の燕」(第1期第6話;ラストに登場する写真を思い出すだけで、涙が溢れて困ってしまう)。過去に恩を受けた人にもう一度逢いたいと願うツバメと、その思いを叶えようと奮闘する夏目の話がメインストーリーだが、これだけでは単なる美談でしかない。しかし、ここにタルサルというもう1人の妖怪が関わることで、事態を俯瞰する視点が生まれた。ダム湖に沈んだ土地で眠っていたタルサルは、日照りで水が干上がった機会に夏目のもとを訪れ、ツバメの存在に気づく。ツバメと夏目を見つめるタルサルの、当初は冷ややかだが、その後、少しずつ変化していく眼差しがあるからこそ、単なる美談が普遍的な物語へと昇華したのである。水底に沈む土地に執着する理由を夏目に問われて、「何者にも離れがたいものはあるのです」と答える姿は、人間以上に人間的だ。
 「桜並木の彼」(第2期第9話)では、フリーマーケットで売られていた絵画を巡る夏目と巳弥(みや)のやり取りが縦軸として展開される一方で、巳弥が好意を寄せていた八坂の思い出が横軸となり、作品に拡がりを生み出す。特に、巳弥と八坂の物語は示唆的だ。八坂は本当に巳弥を人間だと思っていたのか、巳弥は八坂が姿を消した真の理由に気が付かなかったのか−−わざと曖昧に描かれている故に見る者は想像力をかき立てられ、いつしか彼らに深い共感を覚えるようになる。この共感があって初めて、夏目と巳弥に訪れる結末を素直に受け容れられるのだ。巳弥と八坂の関係からは、はっきりした情愛と言うよりも、どこか非現実的なふうわりとした感じを受けるが、こうしたふうわり感は、「子狐のぼうし」(第1期第7話)の子狐と夏目や、「蔵にひそむもの」(第3期第5話)の小さなあやかしたちと慎一郎の関係など至る所に漂い、作品全体を包む柔らかい雰囲気の素になっている。人間と妖怪の対立をダイナミックに描こうとすると、どうしても後味の悪いストーリーになりがちなのに対して、豊かで柔らかい拡がりを持つ『夏目友人帳』は、どのエピソードも優しく、見ていて心が癒される。
 「儚い光」(第1期第8話;ホタルが地味に眩しく浮かぶ姿が美しい)や「呪術師の会」(第2期第11話;私のお気に入りキャラである柊が、いろんな姿で楽しませてくれる)、「幼き日々に」(第3期第4話;ラスト近くで、一瞬、あやかしの顔を隠す布が翻るところを見逃さないように)など名作の多い『夏目友人帳』だが、「水底の燕」と並んで感動的なのが、「仮家」(第2期第10話)である。私は、神話性が失われるようで、レイコが活躍するエピソードはあまり好きではない。しかし、彼女が何を感じながら生きていたかがわかる「仮家」だけは別だ。ここでは、ふうわりした関係で結ばれていた小学生・滋を助けるため、レイコが妖怪カリメと対決するが、その直前にふと漏らす「こんなおうちが荒らされるのは不愉快だわ」という言葉は、ふだんは顕わにしない彼女の心の内を感じさせて切ない。そうしたレイコの胸中に思いを馳せながら、夏目が「でも、レイコさん、普通はそういうのは…」と呟く台詞は、今でも思い出すだけで涙が出てくる。

もっけ

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 日常世界に現れる妖怪を描く作品。(妖怪を視る能力を持つ)しっかり者の姉・静流と、(憑依体質の)やんちゃな妹・瑞生のコンビが、『となりのトトロ』を思わせる。瑞生が妖怪と絡むエピソードは、子供向けと言って良いおもしろ怖い話が中心だが、静流をフィーチャーする回は、妖怪と共存することの意味を考えさせる深い内容のものが多い。ここでは、後者を中心にレビューする。
 日常に妖怪が現れるという『もっけ』の設定は、人気作『夏目友人帳』と共通する。しかし、『夏目』では、登場人物があやかしの世界に入り込み、実に人間的な妖怪の姿が顕わになるのに対して、『もっけ』の場合、多くの妖怪はその一面を見せるだけであり、彼らが何を考え、どのような行動原理に従っているかはほとんどわからない。この不分明さのせいでどこか割り切れなさが残ることが、『もっけ』が『夏目』ほどの人気を得られなかった一因だろう(キャラの魅力にも差があるが)。しかし、怪異とは本来、その因果が人間に理解できないはずのもので、日常を歪めることによってのみ姿を現すからこそ怖ろしいのである(このことを叙述の手法として徹底させたのがアラン・ガーナーの傑作『ふくろう模様の皿』であり、上橋菜穂子と佐藤多佳子の対談で二人ともその怖さを語っていたことが思い出される)。あまりに人間的な『夏目』よりも、妄執や遺恨がそのまま実体化したかのような『もっけ』の妖怪たちに心惹かれる人も少なくないだろう。
 例えば、「ロクサン」(第23話)に登場する土地神。旧家の少女を土地に縛り付け、都会に出たいと考えるだけで祟りをなすその行状は、因習の重みが神として具現したことを感じさせる。「ミノムシ」(第15話)の冒頭には、怨念の化身のような女性の亡霊が登場する。しかし、恐ろしいものばかりではない。「ミノムシ」の後半では、美しく輝く怪火ミノムシが現れ、静流を感動させる(もっとも、ミノムシの正体は水死した人間の怨霊だという説もあるが)。
 楽しい方の代表が、「ソラバヤシ」(第16話)に登場する音の怪異だろう。狸囃子とも呼ばれるこの妖怪は、ひたすら陽気に音楽を奏でるもので、アニメでは、打楽器のタブラをメインとするインドの民族音楽が流され、民族衣装をまとった人や空を舞う蛇のようなものが浮かれ踊るさまが描かれる(興味のある人は、YouTubeなどでタブラの演奏を調べると良い。名人が奏でる音色の豊かさには、驚嘆させられるはずだ)。中盤には、水の滴りや布のはためき、蝉の鳴き声などの「ふだん何気なく聞いていた音が音楽に聞こえる」素晴らしいシーンもある。ただし、楽しいからと音楽にのめり込みすぎると、障りが生じる。静流が障りを免れるきっかけの描写は、なかなか見事だ。
 優れたエピソードはいくつもあるが、中でも、あやかしを目にしたいと願いながら見ることの叶わぬ少女の惑いを描いた「エンエンラ」(第9話)が素晴らしい。アニメの冒頭、霧の中から少女(佐保)が歩み出てくるシーンは、何度見てもゾクゾクする。佐保と静流が会話する際には、静流は相手が年上なので、佐保は育ちの良さから、互いに敬語を使うが、美しい日本語で交わされる会話が心地良い。こうして落ち着いた静かな雰囲気が醸される中、佐保の一見穏やかな、しかし、根深い惑いが少しずつ明らかになっていく。
 石燕の妖怪画に登場する煙々羅(えんえんら)は、「しづが家のいぶせき蚊遣の煙むすぼほれて、あやしきかたちをなせり。まことに羅(うすもの)の風にやぶれやすきがごとくなるすがたなれば、烟々羅とは 名づけたらん」と説明される煙の妖怪で、どうやら石燕の創作らしく、実態ははっきりしない。『もっけ』原作者の熊倉隆敏は、これを惑いの具象化として描いたが、何であるかわからないことが、却ってさまざまな思いを引き起こす。妖怪らしい妖怪が登場せず、怪異と呼べるような現象が何も起きないこのエピソードはきわめて地味で、おそらく子供にその面白さはわからないだろう。だが、これが傑作であることは、私が保証する。

妖狐×僕SS

【評価:☆☆☆】
【重大なネタバレあり】
 全話視聴済み、原作第4巻まで既読。
 幼児体型ながらいかにも人を見下した高慢そうな少女と、少女に無私の奉仕を続けるSS(シークレット・サービス)の青年。彼の正体は、実は九尾の狐だという−−こうした設定から『黒執事』の少女版かと早合点し、当初は軽く流し見していたが、シリーズの半ば過ぎ(第8話「お茶と距離」辺り)から引き込まれ、終盤では涙ぐむほど感動してしまった。原作(藤原ここあの漫画)はかなりひねったプロットで、何世代にもわたる遠大なストーリーが展開されるのに対して、アニメは、原作における第1世代の途中(単行本第3巻の初め)までで終わる。だが、それで充分だろう。私の判定では、凝った仕掛けの原作よりも、人間性を掘り下げたアニメの方が優れている。
 舞台となる「メゾン・ド・章樫(あやかし)」は、先祖から受け継ぐ妖怪の血が強く現れた「先祖返り」の人間が住む(表向きは普通の)マンションである。先祖返りは妖怪に狙われやすいため、1人ずつ専属ボディガードのSSが割り当てられており、鬼の血を引くヒロイン・凜々蝶(りりちよ)には妖狐の双熾(そうし)が仕える。2人の間に何か因縁があることは、早い段階から匂わされていたが、それが何かは第11話「陽炎」で明かされる。以下では、このエピソードについて語りたい(アニメ視聴後に読んでほしい)。
 妖怪の資質を畏れられ幼時から自宅軟禁されていた双熾は、自由を手に入れようと、策謀を通じて鬼の先祖返りである蜻蛉の家に入り込み、そこで、蜻蛉の婚約者である凜々蝶からの手紙に、ゴーストライターとして返事を書かされる。こうして2人の文通が始まるのだが、この手紙のやりとりに心を揺さぶられてしまう。アニメーターも、この場面には力を入れて描いている。そのことは、凜々蝶の手紙に貼られたネコやウサギのシール、双熾が使う時代物の万年筆など、原作にはないアニメオリジナルの描写からわかる。
 同級生からいじめられ家族ともうまくいっていない凜々蝶は、趣味の世界に没頭し、純文学やクラシック音楽を好んで話題にした。初期の手紙では、ある小説を取り上げ、「…すっかり感動してしまいました。蜻蛉さまはご存知でしたか?おすすめしますので是非ご覧に…」と書いている(アニメの画面から)。小説の題名は記されていないが、アニメでは、双熾がプルーストの『失われた時を求めて』を読む姿が映し出される。表紙のタイトルは「時」ではなく「刻」で、著者名もナッオカーツ・フォン…(判読不能)となっているが、これは、双熾の本棚に並ぶのが、大宰治『人間不覚』や阪口運吾『脱落論』だったりすることから、本好きのアニメーターのお遊びだろう(「ナッオカーツ」で検索したものの、何もヒットしなかった)。原作には「淡々とした内容の本だ」という双熾の感想しか手掛かりがなく、プルーストを選んだのは、原作者からの指示かアニメーターの独断かはわからない。ただ、私も中学生の頃に背伸びしてプルーストを読んでいたので、凜々蝶に深く共感してしまう。
 後半には、ある出来事をきっかけに、双熾が凜々蝶のことを思いながら「ああ あの本の主人公はこんな気持ちだったのか 世界には 自分と彼女しか 無かった」と呟くシーンがある。ここで言及される「本」が『失われた時を求めて』だとすると、どこを指しているのだろう? プルーストは、こんなシンプルな文章を書かない。だが、第2篇「花咲く乙女の陰に」の終わり近く、主人公がアルベルチーヌにキスしようとする場面で、これと同じ意味の文が数十行にわたって続く箇所がある。「…私の目に映るアルベルチーヌのあらわなのど、赤らみすぎたそのばら色の頬は、すでに私を快い陶酔に陥れてしまって(ということは、私の目に映るそのようなものが、この世の現実を、もはや自然のなかではなく、私におさえきれなくなった感覚の奔流のなかに投げいれてしまったということで)、そのために、私という存在のなかに流転する広大無辺の、破壊できない生命と、それにくらべてあまりに貧弱な外的世界の生命とのあいだの平衡が、やぶられてしまったのであった。…(中略)…私の胸をふくらませているこの広大無辺の呼吸にくらべれば、自然が私にもたらすことのできるどんな生命も、私には、きわめてうすっぺらに見え、海のいぶきも、よほど短いものに思われただろう…」(筑摩世界文学大系57p.602、井上究一郎訳)。
 凜々蝶の手紙には、別の小説への言及もある。「本当にあの小説は思い出す度、切なくなります。ハッピーエンドだったけれど、あの犯人のキャラクターのその後のことを思うと、素直に喜んでいいのか、わからなくなってしまいます」。これは何を指しているのだろう? フォークナーやドストエフスキーの作品など犯罪を描いた純文学は多いが、ハッピーエンドとなると限られる。最初に思いついたのは樋口一葉の「大つごもり」だが、一葉と凜々蝶では(名前は似ているものの)雰囲気が合わない。では、推理小説? 凜々蝶が? まあ、私も中学の頃に、プルースト、カフカ、T.S.エリオットなどとともにエラリー・クイーンを愛読していたのだから、推理小説もありかもしれない。確かに、後期クイーンの名作『××(あえてタイトルは伏す)』は手紙の文面にぴったりだ。ハッピーエンドとはちょっと違うが、北村薫『秋の花』も考えられる。
 凜々蝶はセンチメンタルな音楽が好みで、アンドレ・ギャニオンの『めぐり逢い』やマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』(おそらく、その間奏曲)を挙げている。双熾は、返事を書くために、わざわざ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の全曲版を聴いているが、彼の律儀さの現れだろうか。
 凜々蝶の書く文章は、言外の事情が想像され、惻々と心に迫る。「お屋敷に九官鳥が居ます。口下手な私といつも話をしてくれます」「また春が来ました。クラス替えは緊張します」。時には、(双熾曰く)妙に片寄ったマニアックな話題もある。「やっぱりベッドは、シモンズ社製に限ります。肩こりがだいぶ違います」−−パートと内職で生活費を稼ぐ私には縁のない高級品だ。
 もちろん、私は、こうした感想が深読みの誤解である可能性を認識している。ウンベルト・エーコの『読みと深読み』には、シャーロック・ホームズを思わせる『薔薇の名前』の主人公ウィリアムの描写が「海軍条約事件」を下敷きにしたと主張する批評に対して、その作品は読んだ記憶がないと記されている。『妖狐×僕SS』の原作者や制作スタッフも、このレビューを読んで大笑いするかもしれない。しかし、これもまた、一つの読み方である。芸術とは、作者がひとりで全て作り上げるものではなく、鑑賞者との共同作業で完成させるものだからだ。

あそびにいくヨ!

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 「あそびにいくヨ」とのメッセージに続いてやってきた宇宙人は、なぜかネコ耳・巨乳の美少女だった…。秘密結社のエージェントはメイド服の美女、アシストロイド(人間の補助をするロボット)は3頭身で激プリティと、いかにもマニアックでオタク向けのアニメ(したがって、低い評価にした)。しかし、オタクに迎合した作品ではない。B級映画や海外ドラマを中心とするさまざまなパロディが散りばめられていることからもわかるように、作っているスタッフ自身がオタクなのであり、時折、自分たちの趣味を醒めた目で見つめるのも微笑ましい。
 オタクによるオタク批評が見事に描かれたのが、第4話「さらいきにました」。ヒロインの宇宙人エリスは、地球文化に関する学術研究のために、地球の友人とアシストロイドを引き連れて中野ブロードウェイ(なぜ?)に繰り出す。アニメグッズの店員が、ネコ耳美少女やアシストロイドを前にしても動じず淡々と応対するのを見て、エリスが「思った以上に、異文化との順応性の高い民族なんですね」と見事に的外れの感想を口にするのが可笑しい。日本映画ファンのアオイが『ブルークリスマス』(よりによって!)のDVDや映画に使われた日活コルトを欲しがったり、ガンマニアの真奈美が「モデルガンの神様・六人部さんの削りだした一品」に夢中になったりと、オタクの本性が剥き出しになる場面もある。中野ブロードウェイは、マスコミなどで「サブカルチャーの聖地」と呼ばれるが、実態は、そんな生やさしいものではない。私は、ショップが続々と出店を始めた時期に足を運んだものの、あまりのディープさに気圧されて逃げ帰ってきた。中川翔子と上坂すみれが、NHKで『女神転生』のダンジョンみたいな中野ブロードウェイ4階について語り合ったときの、上坂の一言が思い出される−−「中野ブロードウェイの匂いって…ありますよね、精神に働くものが」(NHKFM『アニソンアカデミー』2013年7月6日放送)。
 最も面白かったのは、第9話「いだいなるさいしょのあしすとろいど?」。アシストロイドは、今でこそ3頭身の赤ちゃん体型だが、1000年前に初めて作られたときには、人に近い姿をしていた。このアシストロイド1号機ラウリィが地球を訪れるところから物語は始まる。彼女は、初の外宇宙探索用の宇宙船に搭乗し主人(男性)とともに地球を目指したが、事故のせいで漂流、全ての人が死んだ後も一人残り、何百年か経ってから救出されたという。他のエピソードとは異質なしんみりした内容で、繰り返しの鑑賞に耐える佳作である。ラスト近く、ソニーのAIBOが登場するが、物質に命を込めようとしたAIBO(第1世代)の夢を失ったとき、ソニーの凋落が始まったような気がしてならない。
 このエピソードで重要な役割を果たすのが、アニメ『キャプテン・フューチャー』の挿入歌「おいらは淋しいスペースマン」である。『キャプテン・フューチャー』は、1940年代にアメリカのSF作家ハミルトンが執筆したスペースオペラだが、本作で使われるのは、1978年に『未来少年コナン』に続く連続アニメ第2弾としてNHKで放送されたもので、私も微かに覚えている。エンディングで、この歌をバックに地球が少しずつ遠ざかっていくシーンは、なかなか感動的である。

PSYCHO-PASSサイコパス

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 見ている間ずっと、ネットリとまとわりつくような不安に苛まれ続けた。この不安は、いったいどこから来るのだろう? 例えば、公安局に配属されたばかりのヒロイン・常守朱が、月見カレーうどんを食べるシーンがある(第2話)。ふつう、新任の若い女性は、職場の食堂でカレーうどんなど注文しない。服に付いた黄色いシミを見とがめられるのが嫌だからだ。ではなぜ、常守は平気でカレーうどんを食べるのか? 同じ回のラストで、彼女は、前日に同僚を負傷させた自分の行為について、毅然として正当性を主張する。何か違和感を覚えるのだが、それが何かわからず不安が募る中でストーリーが進行していく。この時点で、私はすでに、虚淵玄(ストーリー原案・脚本)の術中にはまっていたのである。
 ディストピアを舞台とする多くの作品がそうであるように、アニメ『PSYCHO-PASS』は、全ての市民が幸福を享受できることの逆説的な恐怖を描いたオルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(1932年)をベースにしている。ハックスリーが提示したのは、飢餓や病気が克服された、ユートピアと見紛うディストピア。市民には適性に応じた職業が提供され、貧困による生活苦は一掃されている。仮想現実の技術を用いた気晴らしが普及し、不安が生じたときには直ちに抗欝剤が使用されるので、誰も心理的な葛藤に苦しまず、犯罪もない。ただ、全員が生活に満足する社会では、弱者への同情や不遇な者への共感が決定的に欠落している…。
 もっとも、ハックスリーの新世界には、実現困難な側面がある。ここでは、遺伝子操作とクローン技術によって特定の適性を持つ市民階層を作り出し、幼児教育を通じて現状肯定の世界観を植え付けているが、こうした手法は、現代社会では到底容認されない。代わりに『PSYCHO-PASS』の社会で採用されているのが、市民のメンタリティを科学的に測定する「シビュラ」と呼ばれるシステムである。市民は、シビュラによって適性があると判定された職種に就き、シビュラの指示に従って生きる。シビュラは、街頭に設置されたセンサを通じて市民の精神状態を調べ、心理的葛藤によって犯罪性向が高まっている者に対しては、犯罪に走る前に然るべき処置を施す。アニメ『PSYCHO-PASS』は、この処置を実行する公安局執行官の狡噛(こうがみ)と、彼に指示を与える監視官・常守が、シビュラに管理された社会の転覆をもくろむ槙島−−『機動警察パトレイバー the Movie』の帆場暎一と並んで、アニメ史上、最も天才的かつ魅力的な犯罪者−−と対決する過程を物語の骨格とする。
 タイトルの「PSYCHO-PASSサイコパス」とは、シビュラが測定する精神状態のデータのことで、市民としての自由が許される通行証となるものだが、同時に、精神病質者を意味する「PSYCHOPATHサイコパス」の掛け詞でもある。PSYCHOPATHは、連続猟奇殺人などを犯した最悪の犯罪者の類型として考案されたもので、確かに、こうした犯罪者に対してPSYCHOPATH度を判定するテストを行うと、一般人に比べて高得点をマークする。ところが、近年になって、奇妙な事実が判明した。犯罪者だけではなく、社会で重要な役割を果たしている人物の中にも、PSYCHOPATH度の高い人が少なくないのである。社会倫理学の授業で良く出題される問題−−「無人列車が暴走するレールの先に、縛られて動けない人が5人いる。その手前に転轍機があり、これを切り替えれば5人を救えるものの、代わりに、切り替えた先にいる1人が死ぬ。あなたは、5人を見殺しにするか、1人を積極的に死なせるか、どちらを選ぶか」−−に対して、多くの人はなかなか答えを出せない。しかし、PSYCHOPATHは、躊躇なく5人を救い1人を死なせる方を選ぶ。彼らは、自分以外の人の心情を慮ることなく、数の多寡に基づいて客観的に答えを導くからである。他者の思惑を気にせず、自分の規範に忠実だと言っても良い。PSYCHOPATHが持つこのメンタリティは、「冷静に難しい判断ができる」という側面を持つ一方で、「他者への共感に欠ける」ことも否めない。同じように、PSYCHOPATHは、「カリスマ性−うわべの魅力」「自信−誇大妄想」「説得力−詐欺のテクニック」「行動力−スリルの追求」などの両義的な性質を備える(ケヴィン・ダットン著『サイコパス』NHK出版)。このため、PSYCHOPATH度の高い人は、外科医・パイロット・金融マン・警察官・アメリカ大統領などの職種に就き、両義的な性質の良い面を発揮できれば、しばしばきわめて優れた業績を上げる(私は冗談を言っているのではなく、実際に歴代アメリカ大統領の事績を調べると、サイコパス度が高いと推定される人物が多い)。成功したPSYCHOPATHが犯罪者とならなかったのは、単に運が良かっただけのようにも見える。この事実は、メンタリティの判定によって最悪の犯罪者を探し出すのがきわめて困難であることを意味する。それ故、犯罪性向の高い者を識別する手段としてのシビュラ・システムは、致命的な欠陥を持たざるを得ない(「PSYCHO-PASSサイコパス」というタイトルは、この点に関して、作者の虚淵玄が自覚的だったことを示す)。「科学の叡智は、遂に魂の秘密を暴くに至り、この社会は激変した。だが、その判定には、人の意志が介在しない。君たちは、いったい何を基準に善と悪をより分けているんだろうね」−−槙島が常守に語りかける台詞は、実に示唆的だ。
 『PSYCHO-PASSサイコパス』の構成は、表面的に見ると、整然としてわかりやすい。全体が2部構成になっており、さらに各部が前半と後半に分かれる。第1部前半(第1-5話)では、狡噛と常守がさまざまな事件に遭遇するが、どのケースでもすっきりとした解決は得られない。第1部後半(第6-11話)になってようやく黒幕が明らかになり、事件の全体像が見えてくる。と同時に、この作品の描く犯罪が、単にグロテスクなだけでなく、本質的な恐怖を内包していることがわかってくる。第1部最終話のクライマックスは、私がこれまでに見た全てのアニメの中で最も恐ろしい。見たことを後悔するほどの怖さだ。これに比べると、『ひぐらしのなく頃に』や『Another』の残虐シーンなど、子供だましである。
 番外編(第12話;この回のみ脚本家が異なる)を挟んで第2部になると、個別的な事件から社会的な騒乱へと、物語が一気にスケールアップする。第2部前半(第13-16話)がシビュラ・システムの核心に迫る内容で、第16話で執行官の縢(かがり)が、見てはならないものを見たときに口にする「やってられねえよ。クソが」という台詞は、言葉は軽いが意味するところは重い(私は、第6話で手際よく料理する縢を見てすっかり惚れてしまい、彼に感情移入していただけに、この台詞に胸を衝かれた)。第2部後半(第17-22話)は、主要登場人物が集結しての対決となる。それまでの濃密な演出に比べて、この部分のアクションが平板だと感じる人がいるかもしれないが、それは誤解である。第21話で「やってくれるな、公安局」と呟いた後、槙島が何をするかをきちんと見届けてほしい。ストーリーが停滞するように見える第19話も、狡噛と元教授の会話は(内容をきちんと理解すれば)実にスリリングである。ついでに言うと、ここで登場するウカノミタマ・ウイルスは、バイオテクノロジーの知識のある人には、BT菌を思い出させるだろう。
 第22話で対決に決着が付いて物語の上では大団円を迎えるのだが、ネットリとした不安は払拭されない。この頃になると、さすがに私も気がつかずにはいなかった。この不安はいつまでも拭えないことを。なぜなら、この作品で提示された問題は、人類には決して解決することのできない類のものであり、どこかで苦渋の決断をして妥協に甘んじなければならないのだから。
 21世紀に入ってから、日本文化の偉大な達成として世界に誇れるテレビアニメが(私の判定で)半ダースほどあるが、本作は、その1つに数えられる傑作である。
 ※すでに『PSYCHO-PASSサイコパス』第2期と劇場版の制作がアナウンスされており、それに伴って、2014年夏には第1期の新編集版が放送される予定だが、私は、あまり期待していないので、これらを見て目を曇らされる前にレビューを書くことにした。

【小論】常守朱はなぜカレーうどんを食べるのか
 アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス(第1期)』第2話後半、ヒロインの常守朱は、公安局の食堂で月見カレーうどんを食べる。最初見たときから、ひどく気になったシーンである。ふつう、新任の若い女性は、職場の食堂でカレーうどんなど注文しない。服に黄色いシミがついたとき、同僚に見とがめられるのがいやだからだ。では、なぜ彼女は、平然とカレーうどんをすすり上げるのか? 『PSYCHO-PASS』に対する私の(ちょっと偏った)分析はここから始まったのだが、その前に、このアニメが何を描こうとしたかを説明しておこう。

 脚本家・虚淵玄が構想したのは、ユートピアと見まがうディストピアの物語であり、おそらく2つの小説をベースにしている。
 1つがオルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(1932)で、高度な科学技術によって病気や飢餓が克服され、仮想現実や精神安定剤のおかげで大半の市民が安定した生活を心穏やかに享受できるようになった社会が描かれる。もう1つが、ジョージ・オーウェルの『1984』(タイトルは、執筆された1948年の下2桁を入れ替えたもの。『PSYCHO-PASS』第4話で槙島が読んでいる)。カメラやマイクを通じて常時監視下に置かれ、フェイクニュースによるマインドコントロールが徹底されているため、市民は物資不足に反発することもできない。
 冷戦時には反共産主義のバイブルとして『1984』が、ソ連崩壊後は、技術の進歩を半世紀以上も先取りした驚異の預言書として『すばらしい新世界』が高く評価されたが、近年、再び『1984』の恐怖がリアリティを帯びてきた。理由はもちろん、ITの進歩に伴う監視技術の向上である。
 現在では、麻薬中毒患者や万引き常習者の映像をビッグデータとしてAIに学習させ、同じ動きをする人を探索して警備員に通報する監視システムが実用化されており、海外では一部で導入済み。日本でも、東京オリンピックに向けて、不審者をピックアップするシステムが開発中だという。また、SNSやネット検索での入力データをもとに、個人の特性を推測して効率的な広告表示を行う技術も開発されているが、これを応用すれば、反社会的な人物(SNSを炎上させたがるような)を割り出すことは容易だろう。スマホのGPS機能と監視カメラを組み合わせれば、どこで何をしているかも調べられる。ほとんどの人が気がつかない中、シビュラシステムの実現に向けて、社会は着々と歩みを進めている。
 ただし、こうした監視システムでは、万引き犯や愉快犯を未然に捕らえることはできても、最悪の犯罪者を見つけるのは難しい。そこには、精神医学上の理由がある。
 残虐な殺人を繰り返すシリアルキラーや、無差別テロを計画・指導するリーダーなど、現代社会における最悪の犯罪者はどのようなメンタリティの持ち主なのか。犯罪者に対する心理テストなどをもとに、「Psychopath サイコパス」という類型が提案された。しかし、間もなく、この類型が犯罪者の分類に使えないことが判明する。
 シリアルキラーなどの冷酷な犯罪者には、Psychopath度を測定する心理テストで高い得点を獲得する者が少なくない。しかし、その一方で、きわめて有能で社会的に大きな貢献をしている外科医・パイロット・政治家・警察官(!)などにも、Psychopath度の高い人が多かったのである。彼らの特徴は、他者の心を思いやって情に流されることがなく、自分が正しいと考える信念に忠実な点。生理学的な理由はわからないが、大脳の前頭前野と扁桃体の結びつきが弱いためではないかと推測される。現実の犯罪者になるかどうかは、主に環境に依存する。
 現在の精神医学では、Psychopathという類型は用いられない。精神科の虎の巻と言われる『精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)』の分類では、「反社会的パーソナリティ障害」が Psychopath に近いものの、本質的な相違点がある。最悪の犯罪者を犯行前に特定することは、心理テストはもちろん、CTスキャンやPETなどの技術を用いても、ほぼ不可能だと考えられている。
 この判定不能性が、本アニメでキーワードとなる「免罪体質」と密接な関係を持つことは、想像に難くない(そもそも、「サイコパス」という用語自体が一種の掛詞である)。第17話で、公安庁局長・禾生(かせい;難読キャラ多すぎ!)の姿を借りた藤間が、システム構成員の資格として、「いたずらに他者に共感することも情に流されることもなく、人間の行動を外側の観点から俯瞰し裁定できる−−そういう才能が望まれる」と語るが、これは、Psychopathの最も主要なメンタリティである。

 アニメ『PSYCHO-PASS』を、「常守や狡噛(こうがみ)ら公安局の刑事が、力を合わせて稀代の犯罪者・槙島を追い詰める物語」と思える人がうらやましい。すでにダークサイドに墜ちている私は、第1話から、全く異なるストーリーだと理解した。
 狡噛と槙島は、高度な知性と頑強な身体を持ち、社会のあり方を俯瞰できるなど、多くの点で似通っているものの、「他者の心を思いやって共感することできるか」という重要なポイントで、決定的に異なる。二人ともシビュラを嫌っておりシステムに組み込まれないが、シビュラに勧誘された槙島が自分の意志で拒否するのに対して、狡噛は共感性が強すぎるゆえにシビュラから爪弾きされる。シビュラを軸に、この二人を対称的・対照的に描くことが、アニメ『PSYCHO-PASS』の基本プロットなのである。第22話のクライマックスがこの二人の対決として描かれ、途中まで懸命に二人を追ってきた常守があっさりと退場させられるのは、必然的な帰結だと言えよう。
 それでは、作品全体の構図において、常守朱はどんな立ち位置にいるのか? ここで、冒頭に記した「なぜカレーうどんを食べるのか」という問いに戻りたい。彼女は、他者が自分のことをどう思うか、まったく忖度しないのである。この事例に限らず、脚本を執筆した虚淵は、他者の気持ちよりも自分にとっての正義を優先する彼女のメンタリティを、これでもかと見せつけてくる。

 (1) 社会の脱落者である縢(かがり)を前に、自分がどんな職業にも就けるトップクラスの成績だったことを得々と語り、「あんた、なんで監視官なんかになったんだ」と凄まれる(第2話)。友人の女性二人に対しても、しばしば同様の態度を示す。
 (2) 相手の心中を顧慮することなく、「もっと落ち着いて考える暇があったら、狡噛さんだって、彼女を撃とうとはしなかったですよね」と言って同意を求める。そのすぐ後、先輩である宜野座(ぎのざ)に対しても、自分の判断の正しさを断固として主張する(第2話)。
 (3) ネットに関する常識的な解説をして、征陸(まさおか)に「さすがに説明がうまいな。教師みたいだ」と言われたとき、皮肉だということに気がつかず、本気で喜んだ(第6話)。
 (4) 親友の必死の願いにもかかわらず、シビュラの判定を優先するあまり、ライフルで槙島を狙うことができない(第11話)。その姿を見た槙島は、「決断ができない人間は、欲望が大きすぎるか、悟性が足りないのだ」というデカルトの言葉を引用し、システムが機能していないのにシステムに忠実でありたいと思う常守を批判する。
 (5) 槙島を昏倒させたとき、目の前で親友が殺されたことを含めて、さまざまな出来事がフラッシュバックしたにもかかわらず、情に流されず手錠をかけるにとどめた(第16話)。「殺せ」という狡噛の指示にも従わなかった。

 明らかに、常守は Psychopath度がかなり高く、シビュラに好まれるタイプである。第21話で「今の私は、システムの望み通りの人間なんですよ」と自嘲気味に言うが、皮肉でも何でもなく、実際にその通りなのだ。彼女は、シビュラに反発した狡噛や槙島とは異なり、シビュラの側に立っている。
 『PSYCHO-PASS』の全体的構図を簡潔に表すならば、一般の人が考えるような
  [狡噛、常守]→[槙島]
という図式ではなく、
  [狡噛]→[シビュラ〜常守]←[槙島]
となるだろう。
 常守は、決して正義のヒロインではなく、狡噛と最良のコンビを組んだわけでもない。この点を理解しないと、『PSYCHO-PASS』の真の恐ろしさがわからないだろう。

以下、余談。

【引用される書物】
 『PSYCHO-PASS』では数多くの書物が引用されるが、単に衒学的なお遊びではなく、キャラの内面を描く小道具として利用される。中でも、狡噛と槙島は、紙の本を読むシーンが何回も挿入され、二人がどのようなメンタリティの持ち主であるかが示される。
 狡噛が読むのは、『闇の奥』や『スワン家の方へ』など、人間の心理を深く描き込む小説。一方、槙島は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『ガリバー旅行記』など、社会批判を込めた寓意的・象徴的な小説を好む(何と『新約聖書』まで読んでいる)。狡噛がペーパーバックの翻訳で読むのに対して、槙島は高価な原書を手にしており、書物に対するディレッタンティズムには、かなりの差がある。
 しかし、思想に関して、二人は似たもの同士である。第16話で、槙島によるパスカルの引用を狡噛がオルテガで切り返したとき、槙島は自分でも同じ返しをしたろうと口にした。また、第19話で、雑賀(さいが)教授がシビュラの特性をウェーバーをもとに説明したのに対して、狡噛は、槙島がこの場にいれば、即座にフーコーを引用して返すはずだと述べたが、その口調からは、槙島の発想法に親近感を覚えているとわかる。万人の理性を信じるパスカルと反理性的な大衆の暴挙を恐れるオルテガ、官僚による合理的な施政を高く評価するウェーバーと権力による締め付けに批判的なフーコー−−対になる思想家のどちらが狡噛でどちらが槙島に当たるかを明示せず、あたかも交換可能なように描いたのは、脚本を書いた虚淵玄が、狡噛と槙島を同じ考え方をする人間と見ていたからだろう。
 一方、常守はあまり本を読まないようだ。第6話で征陸がルソーを引用したとき、慌ててネットで調べようとした。虚淵はかなりの本好きと思われるので、常守は嫌いなタイプの女性だろう。
 脚本家に愛されていたのは、シェークスピアの悲劇を耽読しキェルケゴールを引用する王陵璃華子ではないか。私も、学生の頃、『タイタス・アンドロニカス』の残酷さに陶然となり、『死に至る病』の不合理なロジックにうっとりしたクチなので、彼女には心の底から親近感を覚える。彼女が惨殺されたとき、本気でゾクゾクしてしまった(かなりアブないかも)。

【ミステリとしての『PSYCHO-PASS』】
 『PSYCHO-PASS』は、ミステリとしても一級品である。
 ミステリとは、不条理とも思える謎の背後に合理的なロジックが存在することを描く作品である(ミステリという言葉は、もともと、神の秘蹟を表す宗教用語)。本アニメの場合、取り付く島のないように思える出来事の連鎖を、論理的な推理を通じて解きほぐし、どのような意図に基づくかを明らかにする場面がいくつもある。こうした謎解きは、かなりのミステリファンをも唸らせるだろう。
 タリスマン事件で、アバターの中の人が誰と入れ替わったかを、アクセスパターンの変化から解明する(第6話)、あるいは、シビュラが分散型システムではなくスタンドアローンであることを、データの流れとエネルギー消費量から突き止める(第15話)といった話は、見ていて身を乗り出すほど刺激的である。
 特に私が好きなのは、死体を公園に飾る連続猟奇殺人に「オリジナリティが致命的に欠けている」と気づき、何らかの元ネタが存在すると推理する場面(第8話)。死体をオブジェとして描く絵画や映像に類似作がないか、矯正保護センターに隔離された“患者”の意見を聞きに行くシーンは、映画『羊たちの沈黙』最高のオマージュと言って良いだろう。世間を捨てたはずの“患者”が、王陵璃華子の写真を食い入るように見つめる姿にも、注目してほしい。
 ミステリ風に味付けしただけで、論理性も意外性もない凡百のアニメ(タイトルは言わないでおく)とは、まさに格が違うのである。

【SFとしての『PSYCHO-PASS』】
 近未来の犯罪を扱うアニメらしく、さまざまなSF的ガジェットが登場するが、ITとバイオテクノロジー以外の描写は技術の実態に忠実ではなく、文学的なアレゴリーとしての性格が色濃い。
 典型的なのが、刑事たちが使用する大型銃ドミネーター。ターゲットの犯罪係数を即座に読み取り、その値に応じて変形する奇妙な銃で、通常の犯罪者に対してはパラライザーとして作動するが、対象によっては、エリミネーターやデコンポーザー(反物質砲?)と呼ばれる、メカニズムがよくわからない強力な破壊兵器となる。こうした機能は、一般市民に対するシビュラシステムの圧倒的優位性を示すアレゴリーであり、技術的な観点から批判するには及ばないだろう。
 象徴的なガジェットは、作中の至る所に見出される。槙島が計画するバイオテロに関連した話で、日本の食糧自給を支える穀物が米ではなく麦(ハイパーオーツ)であるのは、『新約聖書』にある毒麦のモチーフを使いたかったからだろう。
 ちなみに、ハイパーオーツの病虫害対策に利用されるウカノミタマ・ウイルスのアイデアは、バチルス・チューリンゲンシス(BT菌)にルーツがありそうだ。BT菌が産生する毒素の遺伝子を組み込むと、農作物自体が殺虫剤を分泌するようになり、農薬散布をしなくても害虫が駆除できるため、アメリカをはじめ、遺伝子操作作物を栽培する地域では、この技術が広く使われている。だが、BT毒素に耐性を持つ害虫が大量発生すると、同一品種に頼る穀倉地帯で、壊滅的な被害が生じる危険性もある。
 こうした話題をどこかで聞いた虚淵が、『PSYCHO-PASS』の終盤で採用したのだろう。

【深読みの誤解かも】
 最初に見たときから気になってしかたなかったのが、第21話で、槙島が宜野座に投げつける爆弾。槙島は、鍛え抜いた肉体による武術と、カミソリを用いた鮮やかな殺戮を得意としており、爆弾を使うという野暮な戦術を取ったことが不思議だった。
 この爆弾は、ウカノミタマ・ウィルスの調整を行う装置の前で槙島が手にしていたもの。水筒ほどもある大きさといい、これ見よがしに長く伸びた導火線といい、エレガンスに欠ける代物である。もちろん、突然の爆発で視聴者が驚かないように、見てすぐにそれとわかる、いかにも爆弾らしい爆弾をアニメーターが描いたとも解釈できる。だが、爆弾を見つめて不敵な笑みを浮かべる槙島の姿とは、どうにも釣り合わない。
 もう一つ、バイオテロのために遺伝子操作を施したウカノミタマ・ウィルスを大量に培養する作業を行いながら、電力をストップされただけで、あっさりと計画を放棄したことがいただけない。槙島は、テロによる破壊行為そのものではなく、社会がどのように対応するかに興味があるので、小規模テロないしテロの予行演習だけでもかまわないはずである。ところが、非常用電源も利用せずに、直ちに公安局との対決に向かう。そんなに狡噛と勝負したかったのか。
 ここで、再び爆弾の形状に注目してみよう。槙島は、バイオリアクターらしき装置(ただし、現在使用されるものとは外見がかなり異なる)を操作していたが、これは、パイプ状の部品が数多く組み合わされた構造をしており、それぞれのパイプ内で遺伝子操作したウィルスを増殖させた後、麦の生産地にパッケージを送ると推測される。槙島が使った爆弾は、このパイプと似た形状をしているのだ。とすると、爆発するのは端っこの一部だけで、残りはウィルスの詰まったパイプだったのかもしれない。導火線は、刑事たちに見せつけるために、わざと目立たせたのではないか。
 もちろん、爆発の熱で、ウィルスが死滅する可能性も高いだろう。しかし、生き残ったウィルスが周囲にばらまかれ、増殖してハイパーオーツを壊滅させる可能性もある。槙島は、そんな偶然に委ねられた危険性を面白がったとも考えられる。
 これは、単なる深読みの誤解で、脚本家の意図と全く異なるかもしれない。しかし、そんな深読みをしたくなるほど『PSYCHO-PASS』の世界が奥深いことも、また確かである。

【第2期がつまらなかった理由】
 『PSYCHO-PASS』の第1期は、日本アニメ史上に残る圧倒的な傑作だった。しかし、その後がぱっとしない。
 2013年3月に2クールに渡った第1期の放送が終了した後、1年半の間を置いて、まず、14年7月から第1期新編集版が放送された。これは、第2期放送に先立って、第1期を見ていない視聴者向けに作成されたもので、第1期の2話分を1話にまとめ、OPとEDが1話分不要になった穴を埋めるために、新作カットが追加された。しかし、この追加部分は、動きの乏しい画面に説明的な台詞をかぶせただけの手抜きであり、色調調整もずさんで他のシーンと整合せず、第1期を堪能した人が見る価値はない。新編集版第6話では、全編中最も緊迫した第1期第11話と、別の脚本家が執筆した番外編の第12話が前半・後半に並べられており、感興を削ぐ。
 新編集版に引き続き、14年10月から1クールの第2期が放送され、その放送終了を受ける形で、翌年1月に劇場版が公開された。しかし、どちらも第1期とは比べものにならないほどつまらない。
 つまらなかった理由は明らかだ。脚本を練り上げる時間が足りなかったのである。
 『PSYCHO-PASS』第1期の脚本(番外編の第12話を除く)には二人のライターがクレジットされているが、キャリアから推測するに、おそらく虚淵玄がメインであり、深見真は虚淵の指示に従う助っ人だったと思われる。
 虚淵は、11年の『魔法少女まどか☆マギカ』から『PSYCHO-PASS』第1期の間に丸々1年半の余裕があり、脚本に充分な時間を掛けられた。しかし、その後は、2013年に『翠星のガルガンティア』の原案・シリーズ構成を、13年から14年にかけて『仮面ライダー鎧武/ガイム』全47話の脚本を担当しており、『PSYCHO-PASS』に割ける時間はあまりなかった。したがって、たとえ深見と二人がかりであっても、第2期と劇場版両方の脚本を執筆することは、現実問題として不可能だった。
 その結果、第2期は、全体の骨組みを作るシリーズ構成を作家の冲方丁が担当し、脚本は熊谷純が執筆、劇場版は、虚淵が原案を作った上で、深見と共同で脚本を執筆という形になった。だが、(おそらく急遽起用された)冲方は『PSYCHO-PASS』の世界観を充分に理解できないまま、常守のメンタリティもシビュラの本性もおざなりな扱いで済ませてしまう。一方、劇場版はと言えば、さしもの虚淵もネタが尽きたらしく、狡噛にさまざまなアクションをさせただけの、空疎なスピンオフ作品にとどまった。
 ここで問題とすべきは、脚本家に余裕がないことが明らかなのに、なぜ、2014年から15年にかけて、続けざまに第2期と劇場版を発表するというタイトなスケジュールを組んだかである。気になるのは、「総監督」という曖昧な肩書きで参画した本広克行の役割だ。
 本広は、『踊る大捜査線』などフジテレビの人気ドラマを中心に、映画や舞台にも進出した有名ディレクターである。ただし、『PSYCHO-PASS』のようなシリアスな作品はほとんどなく、(私が見た10本足らずの範囲では)ドラマも映画も、人気俳優を起用し、ギャグとアクションを緩くつないで大衆受けを狙ったものばかりである。クリエーターというよりは興行師に近い。
 Wikipediaに掲載された『PSYCHO-PASS』の製作経緯によると、本広は、「現代版パトレイバー」を作りたかったらしい。『機動警察パトレイバー』は、近未来を舞台に警察チームが繰り広げる群像劇である。基本プロットは、固定されたメンバーがさまざまな事件に遭遇し、反発と協力を繰り返しながら解決していくというもの。したがって、本広の頭の中では、第1期で組織内におけるチームの位置取りができあがれば、後は、どんな事件が起きるかを考案するだけで、話がトントン進むように思えたのかもしれない。
 しかし、『PSYCHO-PASS』は、これまでにない世界観をベースに、登場キャラの内面を突き詰めていく作品である。最後の落としどころまできちんと構想して脚本を組み立てなければ、首尾一貫した内容にはならない。自分がドラマを作ったときの方法論は、通用しないのである。
 第2期と劇場版の出来が悪かったのは、本広の責任ではないのかもしれない。だが、何が原因であったにせよ、第1期で築いた作品世界という資産を、ずさんな企画で蕩尽してしまったわけである。何とももったいない話である。

【おまけ】
 『PSYCHO-PASS』に登場するキャラは、全員に味があり愛着が湧く。寡黙で知的な弥生がラスト近くで見せたベッドシーンには、笑ってしまった(ベッドに横たわる姿態から、二人のうちのどちらが主導権を握っていたかが見え見えなので)。
 特に好きなのは、ちょっと悪ガキ風の縢秀星。彼は、私的評価基準による「アニメに登場するカッコイイ男子ランキング」の3位である。ちなみに、2位は『交響詩篇エウレカセブン』のドミニク・ソレル、1位はもちろん……

花咲くいろは

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 働くことの意義を若い人にもわかりやすく伝える秀作である。P.A.WORKS BLOG「花咲く舞台袖・Q&A(2) 温泉旅館」によれば、当初は「地方都市の小さな宅配企業で働くヒロインが、宅配用特殊小型飛行機に乗って、誰かのために色んなモノを運ぶ話」だったが、シリーズ構成・岡田麿里の発案で、舞台を温泉旅館に変更したという。場所と人物が固定されたことにより、背景や内面を深く掘り下げることができたので、この変更は成功だったと言えよう。ちなみに、岡田は、同じ2011年に『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『放浪息子』『GOSICK -ゴシック-』『フラクタル』のシリーズ構成も担当しており、充実した年だった。
 母親の夜逃げに取り残された主人公の緒花(おはな)は、祖母が女将をしている温泉旅館・喜翆荘(きっすいそう)に住み込んで仲居として働くことになる。喜翆荘には、他にも、口べたで引っ込み思案な仲居の菜子と、勝ち気だが自分の思いをうまく表現できない板前見習の民子がおり、緒花と同じ高校に通う。この3人に、学校と仕事場でさまざまな人が絡んできて、成長物語としてのみならず群像劇としても面白い。
 緒花は、喜翆荘での生活を始めてすぐ、働くとはどういうことか思い知らされる。母親に代わって家事全般をこなしてきた彼女は、旅館の業務にも自信を持って家事と同様の姿勢で当たるものの、すぐに厳しく叱責される。接客業では客が第一であり、たとえどんなに誠実に行ったとしても、客を不快にすることは最悪の行為だからである。子供の世界では努力さえすれば取りあえず評価されるが、大人の世界では結果が全てなのだ。緒花は、こうした事情に当初は反発するものの、しだいに社会で働くことの意義に目覚め、仕事に前向きになっていく。
 全編を通じて、仕事の厳しさを示すエピソードが多い。例えば、第5話の回想シーンでは、喜翆荘で板前修行がしたいと懇願する民子が腕前を見せるように言われ、魚を3枚におろすところが描かれる。この歳の少女としてはかなりの手さばきなのだが、その少し前に本職の板前の鮮やかな手腕が紹介されていたので、視聴者もつい「まだまだだな」と思ってしまう。それだけに、周りで見ていた女将や板前が厳しい意見を述べたとき、意地悪ではなく仕事に真剣な者の正当な見解だと納得し、さらに、敢えて民子を板場に迎える覚悟がいかほどのものかがわかってくる。
 もちろん、仕事は単に厳しいだけではなく、人々のつながりを生むものでもある。緒花・菜子・民子の3人は、高校の修学旅行や学園祭で自然にチームを組み、仕事での体験を基に事態に対処していく。私が好きなのは、修学旅行の宿泊先となる旅館の廊下で、乱雑に脱ぎ散らされたスリッパを見た緒花と菜子が、つい揃えてしまうシーン(緒花がバスの中で客に教わったド演歌を歌い出すシーンも好きだが)。こうした行為がごく当たり前に実践できるのは職業意識が身に付いているからであり、そのことがきちんと描かれているからこそ、後々の緒花たちの行動が押しつけがましく感じられない。学園祭でも、カフェで出す料理を巡って民子が窮地に陥ったとき、緒花と菜子が手を差し伸べる。彼女らは、上辺だけの「友達」ではなく、職場での共同作業を通じて作り出された「仲間」なのである。
 重要なのは、喜翆荘に若い人を成長させるメンター(良き師)がいることだ。民子にとっての板前の蓮二と徹、菜子にとっての仲居頭・巴(ちょっと頼りないが)、そして何よりも、緒花にとっての女将・すいは、本人がそれと意識していないにもかかわらず、彼女たちのメンターとして、人間として花開くためには何が必要か−−花咲くいろは−−を教えてくれる。
 アニメとして欠点は少なくない。人間としてそれはダメだろうと突っ込みたくなる母親、純文学作家崩れのエロ小説家、あまりに教条的な経営コンサルタント−−いかにも類型的なキャラが絡むドタバタ劇は、コミックリリーフとは言え、いささかやりすぎの感がある。こうしたエピソードがアニメ開始早々に続けざまに描かれるため、最初の2〜3話で見るのを止めた人がいるかもしれない(本格的に面白くなるのは、第4話後半辺りから)。全体にオーバー気味のアクションや、不必要に多い肌の露出も、やや不快に感じる。さらに、終盤でのはぐらかすような展開−−シリーズ構成の岡田は、『あの日見た花の名前を…』でも同じ手口を使っているので、確信犯的に採用したのだろう−−は、あざとさが鼻について楽しめなかった。それでも、ぼんぼり祭りを描いた最終回が感動的なので、許そうという気になってしまうのだが。
 仕事を通じて若い女性が人間的に成長していく過程がきちんと描かれた作品としては、漫画では、佐々木倫子の『おたんこナース』や岩明均の『風子のいる店』などが思いつくものの、テレビアニメでは、『花咲くいろは』以外にあまり見あたらない。『WORKING!!』はファミレスで働く男女を描いた作品だが、専門的な仕事の内容よりもバイト同士の交流が中心になっていて、私には物足りない。『働きマン』は仕事の能力に男女差がないことを熱く訴えているが、ジャーナリストという職種の特殊性が強調され、普遍性に欠ける。それだけに、『花咲くいろは』は貴重である。多くの若い人(あるいは、若い人と職場で接触する人)に見てほしい。

のんのんびより

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 田舎を舞台とする癒し系アニメ。まるでテーマパークのような田舎の楽しさが描かれるが、おそらく原作者あっとの実体験に基づくものではなく、都会人が夢想する田舎の幻影だと思われる。私が親の里帰りの際に体験したド田舎の暮らしは、可愛がっていた鶏を祖母が締めてご馳走を作ってくれたり、(幼児の)掌サイズの蜘蛛が壁を這っていても「害虫を食べてくれる」とそのままにしていたりと、衝撃的な日々だった。それに比べると、『のんのんびより』の田舎は、照明のないトンネルや「牛横断注意」の標識など田舎風アイテムはあるものの、集落には小洒落た文化住宅が建っていて、全体的に都市郊外を思わせる佇まいである。想像するに、学園ものという枠を保ったまま少数の女の子だけが登場する状況を構成したくて、小中学生併せて5人だけの分校(唯一の男子は最後まで口を利かない)という設定を思いつき、この設定が現実的に見えるように田舎を舞台にしたのだろう。
 主役となる女子4人のうち、最年少のれんげは、小1とは思えない感性と技能を身につけたユニークな少女だが、それ以外の3人(小5の蛍、中2の小鞠と中1の夏海の姉妹)は、体格の大小はあるものの、内面的にはごく普通の子供である。数人の集団を主役とする日常系アニメとしては、ユニークなキャラが登場する『らき☆すた』『ゆるゆり』とは異なり、現実の女子高生のフワフワ感を的確に描き出した『Aチャンネル』のテイストに近い。少し変わって見えるのは、過剰なほど発育の良い蛍が、身長140cmに満たない小鞠を異常に可愛がるところだが、これは同性愛というよりも、小さいものを可愛いと感じる女の子らしい自然な感情と言った方が良いだろう(『WORKING!!』における「男子が小さいもの好き」という設定の不自然さとは違う)。小鞠から遊びに誘われた蛍が、張り切りすぎて大人にしか見えない服装をしてしまうところなど、いかにも子供っぽくて微笑ましい(第2話「駄菓子屋に行った」)。
 原作は、癒し系と言うよりもギャグ漫画に近い。アニメでの癒し効果は、主に、台詞がなく音楽に乗ってゆったりと映し出される情景によってもたらされるが、これは、アニメで付け加えられた部分である。例えば、第5話「水着を忘れたふりをした」。原作漫画は、れんげがコミカルな動作を見せるラジオ体操のシーンから始まるが、アニメの冒頭では、「ここに引っ越して初めての夏休みです」という蛍のナレーションをバックに、他に車のない道路をゆっくり走るバスの映像などが映し出される。この冒頭部分があることにより、それ以降の展開が、単なるギャグではなく田舎の大らかさを感じさせる出来事に思えてくる。こうした癒しの映像が最も効果的に使われたのが、第3話「夏休みがはじまった」でれんげが都会から訪れた同い年の女の子と出会う場面だろう。アブラゼミのうるさい鳴き声が響く中、里山をゆっくり散策するれんげの姿に始まり、橋のたもとでの出会いを経て、カラフルなひまわり畑や水の澄んだ小川、緑深い神社の境内で遊ぶ二人のショットが積み重ねられる。特に印象的なのが、突然の夕立に見まわれて雨宿りするところ。二人並んでぼんやりと雨を眺めている姿は、自分のことではないのに、なぜか懐かしさを感じさせる。一連のシーンの終わり、出会った橋のたもとで「また明日ね」と別れる際、背後ではヒグラシが鳴いており、夏の終わりが近いことを感じさせる…。
 癒しとは別に私が好きなのが、第10話「初日の出を見た」で駄菓子屋(とあだ名される女性)が赤ちゃんだった頃のれんげの面倒を見るエピソード。私も一度だけ知人の赤ちゃんの世話を任されたことがあり、臭い・うるさい・面倒だと思っていたが、やれミルクだ入浴だと手を掛けていると、何か無性に楽しくなってくるというアニメの駄菓子屋と同じ体験をした。もっとも、私の場合、なぜか二度と抱かせてくれなかったが(確かに、粉ミルクを溶いたつもりが哺乳瓶の底で固まりになっていて、水みたいなものを飲ませてしまったのは事実だ)。

電波女と青春男

【評価:☆☆☆】
 テレビ放送された全12話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 両親が海外赴任するため、叔母・女女(めめ)の家に間借りすることになった丹羽真は、訪れた女女の家で引きこもり少女の藤和エリオと出会う。親戚が知らないうちにシングルマザーになっていた女女は、娘であるにもかかわらず、エリオをいないものであるかのように扱っていた。一方、エリオは、日がな布団を体に巻き付けたまま、宇宙人を自称し電波な内容ばかり口走っている…。『電波女と青春男』は、明るい色調とは裏腹に悲劇を予感させる状況設定で始まり、冒頭4話は快調に進む。
 引きこもりの少年・少女が登場するアニメは、『絶対少年』『ローゼンメイデン』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『.hack//SIGN』『CHAOS;HEAD』『神様のメモ帳』『N・H・Kにようこそ!』『ささみさん@がんばらない』『アウトブレイク・カンパニー』など、かなりの数に上る。その描き方も、深刻な問題として誠実に取り上げたケースから、話を面白くするための添え物扱いまで多様だ(上のリストは深刻さの順)。私は週1回は外出するので引きこもりではないが、引きこもりの気持ちはかなりわかるつもりであり、いくつかの作品では、涙ぐむほどキャラに深く共感してしまう。『電波女と青春男』に登場するエリオの場合、冒頭話で示される神経症的な行動は、きわめて深刻な心理状態であることを窺わせる。
 都会での新たな生活を始めた真は、転校した高校で可愛い女子と知り合いになったこともあり、引きこもりで電波系、しかも食事の仕方が汚いエリオに冷たく当たっていた。しかし、エリオがなぜ自分は宇宙人だと主張するに至ったか知るにつれ、彼女に目を向け始める。「無能を封じて、言い訳の藁にしがみつく。それ自体は否定しない。ただ、それに宇宙人を利用していることが、負の琴線に触れる」(小説『電波女と青春男』(電撃文庫)p.187;アニメ第3話)−−エリオを評した彼の言葉は、問題の本質を突いている。そこで真が試みたのは、エリオに対する荒療治だった(このエピソードは、スピルバーグの映画『E.T.』を踏まえているので、内容をきちんと理解するためには、事前に映画を視聴しておいた方が良い)。荒療治のつもりがとんでもないことになる第3話のラスト、真とエリオが改めて自己紹介しあう場面は、なかなか感動的だ。
 もっとも、原作者の入間人間には、引きこもりを主題にする気がなかったようで、引きこもりの話は、原作第1巻、アニメ第4話で打ち切られる。原作は第1巻のみ読んでみたが、はっきり言って、あまり出来の良い作品ではない。主人公の一人称で話が進むが、作品世界に拡がりがなく、大して面白くないジョークを交えながら身辺の出来事を呟き続けるといった体のもの。筒井康隆や町田康の作品に見られる強烈な独白に比べると、毒にも薬にもならない。登場するキャラもほとんどが平凡な人間で、主人公自身、才能の限界を自覚して凡庸に甘んじているようだ。そうした中で、ただ一人、エリオだけが興味深い存在であり、アニメでは、彼女の姿を美しく儚げに映像化していた。このため、エリオの個性が後退した後(アニメ第5話以降)は、私から見ると何の面白さも感じられなかった。アニメ終盤になると、エリオに代わる電波女が登場するものの、二番煎じの感は否めない。原作では、宇宙人ネタを引っ張り続け、実は宇宙人が実在したという話になるらしいが、どう考えても、後付けの設定である。私の判定では、原作よりもアニメの方が優れており、それも、第4話まで見れば充分である(ただし、美少女キャラに惹かれる視聴者は、中身のない後半でも楽しめるかもしれない)。
 OP曲の「Os-宇宙人」(歌はエリオ役の声優・大亀あすか)はインパクトが強烈で、一度聞くと、しばらく頭の中で響き続ける。

キルラキル

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 2007年にガイナックスで『天元突破グレンラガン』を作ったシリーズ構成・中島かずきと監督・今石洋之らが、新会社TRIGGERに再結集して制作したバトルアニメの快作。私は『グレンラガン』の異様なハイテンションに付いていけず、歳のせいで感受性が衰えたかと悲しんだが、『キルラキル』を見てそうでないとわかった。『グレンラガン』における男同士の絆が鬱陶しかっただけであり、ライバルの女子高生二人が熱く闘う『キルラキル』には完全にはまった。やはり、バトルは女のものである(2次元では)。
 主人公のスケバン・纏流子は、父親が殺された真相を探るため本能字学園に乗り込む。貧民街の中央にそびえ立つ学園は、鬼龍院財閥の跡取り娘・鬼龍院皐月が会長を務める生徒会に支配されていた。流子は、皐月を父の仇と推測して闘いを挑む。
 『キルラキル』の最大の特徴は、意識と戦闘能力を持ったセーラー服・鮮血が、流子のバディ(相棒)となる点。人ならぬバディとしては、これまで、小動物・人形や乗り物、装身具(指輪・ステッキほか)、体を持たない霊などがあったが、本作では、遂に衣服−−しかも、女子高生御用達のセーラー服−−のバディが登場した訳である。流子が鮮血を着る、鮮血は流子に着られるという関係になっており、これが、「着るか、着られるか」というキャッチコピーの元になる。さらに、鮮血は流子の血液によって覚醒することから、オールディス『地球の長い午後』のアミガサダケや岩明均『寄生獣』のミギーを連想させる寄生体のバディでもある。鮮血の口調がアミガサダケ(ハヤカワ文庫に収録された伊藤典夫の翻訳による)に似ているのは、偶然だろうか?
 主人公が闘いを宿命づけられているバトルものは、同じような戦闘が繰り返されて単調になる危険がある。単調さを回避しようとして次第に敵をスケールアップしていくと、際限のない“敵のインフレ”が起きてしまい、それでも主人公が勝ち続けるという不自然な展開になりかねない。かと言って、妙にひねった設定を持ち出されると、あざとさに鼻白んでしまう。ところが、『キルラキル』では、(演劇ファンには有名な)劇団☆新感線の脚本も執筆した練達のライターである中島かずきが、ひねりすぎずに単調さを避けた隙のないストーリーを構成してみせた。
 例えば、ライバルである流子と皐月の対照的な設定。この二人の間には明確な差異が設けられている。流子は、バディの鮮血とコミックリリーフ役の満艦飾マコ以外に仲間がなく、(途中までは)孤独な闘いを続ける。対して、皐月には四天王と呼ばれる忠実な手下がおり、戦闘の際には最強の盾にして矛となるものの、鮮血のようなバディはいない。さらに、後半になると、流子と皐月では戦闘能力に大きな格差があることが明らかにされる(これを契機に、闘いの目的そのものが大きく変わることも、ストーリーに緩急を付ける役割を果たす)。終盤には強大なラスボスが登場するが、それ以前のバトルでは、“敵のインフレ”が起きないように配慮されており、各人の状況変化やメンバーの離合集散を通じて単調さを避けている。脚本家志望の人は、ストーリー展開だけを抜き出して、どのような構成になっているかをじっくりと考えてみてほしい。
 中島の脚本を見事に生かしているのが、今石の演出である。同じ脚本を今石以外のアニメーターが作品化したならば、おそらく、シリアスでドラマチックな、しかし、迫力と感動に欠けるアニメとなったろう。異様なハイテンションは『グレンラガン』に勝るとも劣らず、バトルの派手さは70年代の少年向け漫画やアニメを思わせる。激しい戦闘の合間にマコによる脱力系ギャグが挿入されたり、しんみりする場面の直後に下品なネタが登場したりと、何ともハチャメチャである。しかし、これが『キルラキル』の魅力である。「世界は1枚の布ではない。何だかわからないものに溢れているから、世界は美しい」という皐月の台詞は、作品世界の本質を言い当てている。
 登場人物はいずれもキャラが立っていて面白いが、個人的には、皐月への絶対的な忠誠心を持ち、きまじめで矜持が高く、それでいて、いつの間にかマコと仲良くなっている四天王の一人・蟇郡(がまごおり)が好きだ。音楽もすばらしい。前半のOP曲である藍井エイル歌う「シリウス」は高揚感溢れる名曲で、最終回のクライマックスで流れてきたときには感涙ものだった。
 レビュー直前まで本気で星5つを付けようと思っていたが、私にも微かに残る羞恥心に阻まれた(やはり、食い込みはマズいでしょう、食い込みは)。

Ergo Proxy

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 荒涼たる世界を進む空中帆船に、若い男女と幼い少女が乗っている。一見、ふつうの家族を思わせる構成ながら、3人とも特殊な出自を持ち、旅をする過程で遭遇するさまざまな集団との接触を通じて、繰り返し「自分とは何か」という問いを突きつけられる…。
 アニメシリーズの第1話を無料で視聴できるサイトがあり、見逃した良作がないかと片端からチェックする過程で“発見”したのが、この作品である。2006年にWOWOWで放送されただけであまり話題にならなかったが、壮大な世界観、魅力的なキャラ、美しい映像と音楽を備えており、なぜこれほどの作品が知名度の低いままなのか不思議なほどだ。
 人気が出なかった最大の理由は、おそらくストーリーが難解だと思われたからだろう。しかし、それは視聴者が作品の本質を見誤った結果である。
 作品冒頭、ドーム都市内部でオートレイヴ(ロボットに対する作中での呼称)が絡む不可解な事件が勃発、調査していた情報局職員のリルは、自宅で奇怪な化け物に襲撃される。ダークな雰囲気が漂うSFミステリ風の語り口に魅了され、謎が謎を呼ぶ第2〜3話の展開に引き込まれた視聴者は、第4話からストーリーの方向性が急変することに唖然とするだろう。第7話以降は、事件に巻き込まれた影の薄い青年ヴィンセントと、コンピュータ・ウィルスに感染して動作に異常を来した愛玩型オートレイヴの少女ピノが空中帆船に乗り込み、途中からリルも合流してロードムービー風の物語となる。その間、謎を解明する手がかりが小出しに与えられるが、事件の進展を期待する視聴者の思いははぐらかされ続ける。第21話になってようやく最初の事件に戻るが、そこで語られる真相は説明不足でわかりにくく、しかも、「ヴィンセントが実は…」という重大な事実は、後付けの設定としか思えないほど突飛でピンと来ない。次々に勃発する新事件の描写は、ドラマ性を欠いたまま単に出来事を羅列するだけ。最終23話の後半で何とか持ち直したと思ったのも束の間、さらに何かが起きると匂わせたところでいきなり終了する。これでは、SFミステリを期待した視聴者は、憤懣やるかたないだろう。
 実は、『Ergo Proxy』の本質は、SFミステリとは懸け離れたところにある。それっぽい雰囲気を出しすぎた冒頭がミスディレクションとなって期待を膨らませた視聴者には気の毒なことだが、作者(監督・村瀬修功とチーフライター・佐藤大の2人と言って良いだろう)が描きたかったのは、中盤のロードムービー風の部分であり、冒頭3話とラスト3話は、旅が宙ぶらりんにならないための単なる設定にすぎない。そう考えると、ラスト3話での真相解明がいかにもおざなりなのも、納得できる。SFミステリが好きな人は、同じ村瀬監督の傑作『Witch Hunter ROBIN』を見て鬱憤を晴らすのが良いだろう(残念ながら、DVDレンタルはない)。
 作者たちの主たる関心が中盤にあることは、冒頭3話と最終回の脚本も執筆した佐藤大の手になるいくつかのエピソード(特に第11、15、19話)が、本来の設定から逸脱し、佐藤好みの自在なストーリーになっている点からも窺える。中でも、第15話の「悪夢のクイズSHOW」は、『サムライチャンプルー』や『スペース☆ダンディ』の佐藤の回にも通じる過激なまでに馬鹿馬鹿しいパロディである。私が思うに、作者たちは、まず、レビュー冒頭に記したシチュエーションを想定、これを具体化するため、戦争で文明が衰退し、集中管理型のドーム都市が荒野に点在する遠い未来を舞台としたのだろう。さらに、ドーム都市の命運はプラクシーと呼ばれる超越者に支配されており、プラクシーにさまざまなタイプがあると設定することで、旅の途中で遭遇する集団がきわめて多様な理由が説明される。こうして、カルヴィーノの奇想小説『見えない都市』を彷彿する幻想文学的な内容でありながら、SFという枠組みを導入することでリアリズムを維持した独自の作品世界が作られたのである。Wikipedeaによると、さらに細かなSF的設定(モナド・プラクシーの覚醒やブーメランプロジェクトなど)があるようだが、ヒッチコックの所謂マクガフィン(ストーリー展開を促す仕掛けで、中身は何でも良い)だと割り切った方が良い。
 中盤のエピソードには「自分とは何か」というテーマで括られるものが多いが、おそらく、村瀬監督の意向によるのだろう。私が好きなのは、自分の過去が記された本にまつわる第11話「白い闇の中」、自分とそっくりな別人が登場する第14話「貴方に似た誰か」、自分の意識が他者の内部に入り込んでしまう第20話「虚空の聖眼」など。テーマは異なるが、凪のために停止した帆船の中で繰り広げられる日常を描いた第16話「デッドカーム」も面白い。「オートレイヴの利き腕問題、結論は持ち越し」という台詞で爆笑してしまった。
 何と言っても、ヒロインのリルが魅力的である。下着姿で片手腕立て伏せのトレーニングを行うかと思えば、妙に女性的でしおらしい場面もある。『攻殻機動隊』の草薙素子をより知的で繊細にしたような感じだ。おかしな髪型と濃すぎるアイシャドウも個性であり、アニメ史上最も目力のあるヒロインと言って良いだろう(でも化粧を落とすと…愕然!)。

パンプキン・シザーズ

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 戦争は、始めるのは簡単だが終えるのが難しい。パリ和平協定調印後も戦闘が続いたベトナム戦争、和平が実現できず今なお停戦段階に留まったままの朝鮮戦争、独裁者が打倒されるや国内が内乱状態に陥ったイラク戦争など、きちんとした終戦を迎えられず禍根を残したケースは多い。長期間にわたる戦争の場合、たとえ戦闘が止んでも、防衛力の必要性を説く軍部の言いなりになって強大な軍事力が維持され、市民が多大な負担に苦しめられることもある。岩永亮太郎の漫画『パンプキン・シザーズ』は、こうした「戦争を終えられない国」に根を張るさまざまな問題に目を向けた社会派作品である。
 物語の舞台となるのは、前近代的な社会構造と20世紀初頭の技術水準を併せ持つ架空世界。共和国との戦争が停戦を迎えて3年が経過した帝国では、旧弊な貴族制度に守られた貴族たちが贅沢な生活を続ける一方、疲弊した社会には難民が溢れ旧軍人の略奪者も横行、一般市民の不満が高まっていた。こうした不満の受け皿として、軍部は戦災復興を主目的とする陸軍情報部第3課−−通称、パンプキン・シザーズ−−を設立する。あぶれ者を集めた有名無実の部隊となるはずだったにもかかわらず、お飾りとして小隊長に任命された貴族の娘アリス・マルヴィン少尉が、ノブレス・オブリージュを奉じて本気で戦災復興を目指したため、周囲も引きずられて動き出す。そうした中で、アリスは、戦争中に人体改造を施され人間兵器と化したランデル・オーランド伍長に遭遇、彼の過去を知らないまま部隊に迎える…。
 『パンプキン・シザーズ』の設定は、実に魅力的である。他の漫画やアニメであまり取り上げられなかった戦災復興の問題に目を向け、戦災の根源−−戦争を待望する組織の存在−−を糾弾する。勝ち気で凛とした理想主義者アリスと、普段は心優しく気弱な大男でありながら、“スイッチが入る”と狂気の人間兵器に逆戻りするオーランド伍長の姿は、深く印象に残る。この設定に沿って順当に物語が展開すれば、かなりの傑作になったかもしれない。だが、作者の岩永が周辺部分から少しずつ物語を組み立てていったせいか、あるいは、執筆開始時点であまり構想を練り上げていなかったからか、話は遅々として進まない。
 アニメ『パンプキン・シザーズ』は、多くの点で残念な作品である。原作のストックが溜まっていない段階でアニメ化したため、途中で原作に追いついてしまい、終盤では、戦災復興の話を脇に置き、貴族と平民の関係を取り上げたエピソードで引き延ばしを図った。演出もぬるく、ひどく間延びし退屈する場面も多い。それでも、中盤ではそこそこに盛り上がり、オーランド伍長と同じく人体改造された人間兵器ハンスが登場する第14〜17話はかなり面白かった。また、昼行灯のように見えながら、背後で若者にできない“大人の汚れ仕事”をしているハンクス大尉も興味深い。
 2014年現在、後先を考えないアニメの大量生産が招いた当然の結果として優れた原作が払底、あまり出来の良くないライトノベルのアニメ化が繰り返されている。こうした中で、『鋼の錬金術師』という先例を見習って、原作連載中にアニメ化したため中途半端なまま終わった(あるいは、アニメ独自の決着をつけた)作品のリメイクないし続編制作をもう少し真剣に考えるべきだろう。中でも『パンプキン・シザーズ』は、設定の斬新さとキャラの魅力故に、再びアニメ化を試みる価値は充分にあると思うが、どうだろうか?

ARIA

【評価:☆☆☆☆】
 第1-3期全話視聴済み、原作第2巻のみ既読。
 天野こずえによる原作漫画の紹介文には「空と海と風と癒しの物語」とあるが、アニメもこの惹句通り。私は、枕元に10話ほど録画したDVDをセットし、ほぼ毎晩訪れる不眠症の時間に何話かをボーッと眺めているが、同じDVDを1ヶ月にわたって見続けても飽きることなく、心が癒され眠りに誘われる。
 舞台となるのは、テラフォーミングされ水の惑星となった未来の火星。そこに建設されたネオ・ヴェネツィアは、すでに失われた古都ヴェネツィアを忠実に再現した街で、古風な建物の間を運河が縦横に走っている。主人公の灯里(あかり)は、社員がアリシアさん1人だった小さな観光会社ARIAカンパニーに就職、ゴンドラに観光客を乗せて案内するウンディーネとなる。アニメは、指導員なしには客を乗船させられない半人前の灯里が、一人前のプリマを目指す過程で体験する出来事を、淡々と描いていく。大きな事件は何も起こらない。例えば、「その白いやさしい街から…」(第2期第26話)。ネオ・ヴェネツィアに大雪が降った朝、灯里はアリシアさんに「子供の頃、どんな大人になりたかったんですか?」と尋ねる。すると、アリシアさんは笑って答えず、やおら雪玉を作り始める。灯里と二人で雪玉を転がしていると、街の人が次々と手を貸し、やがて3段重ねの巨大な雪ダルマが完成する。その帰り道、アリシアさんは漸く質問の答えを口にするのだが、これだけの話なのに、心がほっこりして何だか涙が出てくる。
 この作品の最大の魅力は、高度なテクノロジーとノスタルジックな家並みがごく当たり前に共存するネオ・ヴェネツィアという街そのものにある。交通手段が限られ商店も少ないため不便な生活を強いられるはずだが、この街が建設された意味を理解して居住しているからだろう、住民たちは全員が心優しく穏やかに暮らしている。タイムスリップした灯里が建設当初のネオ・ヴェネツィアを訪れる「その やわらかな願いは…」(第1期第12話)を見ると、この街の起源と、なぜ街の住民が心優しいのかが少しわかる。
 3期4クールにわたって放送された人気作で、第1期『ARIA The ANIMATION』では灯里とさまざまな人々との出会いが、第3期『ARIA The ORIGINATION』では灯里がいよいよプリマに昇格する過程が描かれ、どちらもなかなかの出来だが、私のお気に入りは、第2期『ARIA The NATURAL』に多い。あちこちに隠された宝の地図をもとに灯里たちがネオ・ヴェネツィアを探索する「その 宝物をさがして…」(第2期第2話;予想通りの展開、予想通りの結末なのに、なぜか嬉しくなってしまう)、ピクニックに出かけた灯里とアリシアさんが思いがけないものを見つける「その 春にみつけたものは…」(第2期第5話Bパート;Aパートも傑作で、1粒で2度美味しい回である)、誰ともすぐに仲良くなれる灯里の人懐っこさが心地よい「その あたたかな街と人々と…」(第2期第10話)などは、何度も繰り返して見てしまう。中でも、ケット・シーが登場するいくつかのエピソードは大好きだ。火星の猫は、地球のものより知能が高く人語を解し人間以上に長命だが、彼らを統べる猫の王とされるのが、人間よりも一回り大きい巨大猫ケット・シー(もともとはアイルランドの伝説に登場する妖精猫)である。「その 猫たちの王国へ」(第2期第7話)では、ゴンドラに乗った灯里たちが、萩原朔太郎の怪異譚「猫町」を彷彿する猫だけの町に迷い込み、ケット・シーの姿を垣間見る。熱中症になりかけた灯里が喫茶店で新聞を読むケット・シーの姿(幻覚?)を見る「その 逃げ水を追って…」(第2期第12話Aパート)は、妖しく懐かしい思いを抱かせる。
 私が最も好きなのは「その カーニバルの出逢いは…」(第2期第1話)で、その原作が読みたくて、『ARIA』第2巻(マッグガーデン)を買ってしまった(温泉回も収録されています!)。誰もが仮面をかぶって浮かれ騒ぐカーニヴァルの日、灯里たちは、音楽を奏でる子供に囲まれた仮面の大男カサノヴァの姿を見かけ、正体を暴こうと後を追っていくのだが…。原作ではカサノヴァに会うのが灯里一人なのに対して、アニメでは、灯里とアイちゃん(第1期第1話で登場するアニメのオリジナル・キャラクター)の二人の体験として描かれ、幻覚とは異なる事実の迫力が生まれた。二人が熱に浮かされたように踊りながらカサノヴァに付いていくシーンでは、高揚感すら覚える。カサノヴァ楽隊のエキゾチックな音楽は心の琴線と共鳴するように響き、灯里が口ずさむ「ズンタカポコテンズンタカポン」という合いの手は、何日も頭から離れなくなる。
 アニメの監督・シリーズ構成は、『メイプルタウン物語』(86年)から監督を務め、『美少女戦士セーラームーン』(92年)で一世を風靡したベテランの佐藤順一。本作の作画は、原作に比べて人物の描線が固く、表情の豊かさがやや失われた(灯里は、原作漫画の方がずっと可愛い)。その代わり、佐藤監督の意向でほぼ毎シーンに美しい音楽が重ねられ、癒しの効果を増している。漫画とアニメのどちらか一方がより優れている訳ではなく、相互に補完的な関係にあると思って良い。
 ついでに言っておくと、アリシアさんは、原作とアニメで随分異なる。アニメでは隙のない優等生だが、原作では茶目っ気があってお酒を嗜む大人の女性で、温泉回では、バスタオルを巻いただけでウィンクしながら未成年に酒を勧める素敵な姿を見せてくれる(オイッ!)。

GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊

【評価:☆☆☆☆☆】
 劇場用アニメのベストワンは何かと問われたならば、「そんなの選べない」と七転八倒した末、最終的にはこの作品の名を挙げるだろう。95年に劇場で観て言葉も出ないほどの衝撃を受けて以来、私にとって、常に心から離れない一編である。文化庁メディア芸術祭「日本のメディア芸術100選」(06年)のアニメーション部門では、第10位(劇場用アニメとしては、宮崎駿の4作品に次ぐ5位)にランクされた。
 原作は、士郎正宗による漫画『攻殻機動隊』(初出89年)で、「ささやくのよ、私のゴーストが」や「ネットは広大だわ」などの名台詞は、そのまま原作にある。舞台となるのは、第3次と第4次の世界大戦を経た2029年のアジア(漫画では日本だが、アニメでは香港をイメージした架空の企業集合国家)。情報化が極限まで押し進められ、社会の隅々までネットワークが張り巡らされた中、過激化した電脳犯罪に対処するため設立された首相直属の秘密組織・公安9課の超法規的な活動が描かれる。リーダーの草薙素子は、脳以外は全身義体化されており、時々「自分はもう死んでいて、今の私は義体と電脳で構成された模擬人格ではないか?」と思うことがある…。
 91年に出版された漫画の単行本には、もともとのタイトル案だった"THE GHOST IN THE SHELL"というサブタイトルが付け加えられたが、この言葉は、アーサー・ケストラーの著書『機械の中の幽霊 (The Ghost in the Machine)』(67年)に由来する。ここで言うghostとは、死者の幽霊ではなく魂ないし心を指しており、ケストラーは、物理法則に従う機械仕掛けにすぎない生物の体になぜ魂が生まれるかを、彼独自のホロンという概念を使って論じた。「〜 in the shell 」は「殻に守られた」というニュアンスで使われる常套句で、漫画/アニメのタイトル「ghost in the shell」は頑丈な人工物で防御された魂のこと(原作の吹き出しでは、「魂」に「ゴースト」とルビが振ってある)。魂が生まれるために何が必要なのかは、物語後半で問題になってくる。
 アニメのストーリーは原作にかなり忠実だが、どちらも見た人はすぐにわかるように、両者は全く異なる印象を与える。アニメが終始緊迫しコミックリリーフもないのに対して、原作漫画は、ギャグが多く遥かに猥雑である(士郎正宗『攻殻機動隊2』はさらにエロい内容で、行きつけの本屋で「あ、続編が出てるぅ」と購入、家で開いて赤面してしまった)。特に、草薙素子は別人のようなキャラ設定で、部下からはメスゴリラと恐れられ、同性とのバーチャルセックス映像を使った違法ポルノ制作を行うなど、アニメに見られるストイックさは微塵もない。しかし、欄外の注(読むのに虫眼鏡が必要)まで使って膨大な情報を詰め込んだ原作漫画は独自の面白さに溢れ、一読の価値がある。
 監督の押井守は、『うる星やつら』に続いて原作を大幅に変更したアニメを作った訳だが、『うる星やつら』の原作者・高橋留美子との間に軋轢が生じたのに対して、士郎正宗は、原作とアニメは別物と割り切ってくれたようだ。先行作品を踏まえながら独自の解釈を施すことが芸術創造の近道なのだから、これは、実にありがたい。原作者が著作権を振りかざして二次創作を縛りつけなかった結果、士郎正宗の漫画、押井守の劇場用アニメ、神山健治のテレビアニメと、3つの驚くべき『攻殻』が世に出られたのである。
 アニメ『GHOST IN THE SHELL』のストーリーは、謎のハッカー「人形使い」が登場する原作第3話「JUNK JUNGLE」、第9話「BYE BYE CLAY」、第11話「GHOSTCOAST」後半をベースに、他のいくつかのエピソードを部分的にピックアップしてまとめられた。伊藤和典の脚本はストレートで力強く、SFの素養さえあれば難解なところはない。劇場公開時のパンフレットに掲載された押井のインタビューには、「僕自身はシンプルな映画を作ったと思ってるんですよ。素子と人形使いの一種のラブロマンス」とあり、かなり韜晦しているものの、ストーリーの骨格がシンプルだという点は事実である。細かなところを気にする人は、草薙素子が船上から見た人影はドッペルゲンガーなのか、ラスト近く天から降りてくるものは何を意味するのか−−などと悩むかもしれないが、これらは、ミステリアスな雰囲気を醸すための映像のレトリックであり、真剣に考える必要はない。原作終盤では「人形使い」による擬似科学的な説明が10ページにわたって繰り広げられるが、伊藤はこの方向に深入りすることも避け、イメージと比喩を用いてわかりやすく話を進める。伊藤による明快な脚本は、ともすれば過剰な技巧に走りがちな押井の映像にリアリティを与え、夢と現実が化学反応を起こしたかのような傑作を生み出す触媒となる(実際、伊藤と決別した押井が思うがままに作った続編の『イノセンス』は、ペダントリーで粉飾された脚本のせいで、ひどく難解なものになってしまった)。伊藤・押井コンビが生み出した4本の劇場用作品−−本作と2本の『機動警察パトレイバー』、それに実写版の『アヴァロン』−−は、日本映画史上の至宝である。
 『GHOST IN THE SHELL』で忘れてならないのは、川井憲次の音楽である。最も印象的なのは、素子が香港を思わせる旧市街を彷徨うシーンに被さる「吾(あ)が舞えば麗(くは)し女(め)酔いにけり」という歌だろう。インタビュー記事によると、まず「太鼓でいこう」ということが決まったが、それだけでは表情が付かないので、唄ばやし・西田社中の歌を入れることにしたという(バンダイチャンネル「アニメのツボ」より)。川井自身、「あの曲のスピリチュアル的なニュアンスがどうしてできたのか、いまだに自分でもよくわからない」と語るが、『2001: A Space Odyssey』でモノリス登場シーンに流れるリゲティの「レクイエム」のような神秘的な効果を上げていた。さらに、終盤におけるバトルシーンのバックに流される音楽。激しいバトルであるにもかかわらず、静謐で哀しい曲なのが印象的だが、絶望的な状況で素子が何を求めて闘っているかを考えれば、この曲調が選ばれたのも納得されるはずである。

ソードアート・オンライン

【評価:☆☆】
 第1期全話視聴済み、原作未読。
 テレビアニメには、特定のターゲット層を狙って制作されたものが少なくない。最もわかりやすいのは、「魔法や超能力が使える閉鎖的な空間/領域があり、そこでは友情や恋愛が何よりも重要とされる」というパターンの作品で、主に中学・高校生の男子を対象としている。具体的には『とある魔術の/とある科学の…』『Angel Beats!』『灼眼のシャナ』などで、多くの人気作が含まれる。私は「作品世界が狭い」と感じられてどれも好きではないが、ターゲット層に属さない人間が低評価を付けるのも大人げないので、この種の作品をレビューするのは控えてきた(レビューして顰蹙を買ったものもある)。しかし、『ソードアート・オンライン』は、趣向を同じくする作品が他にいくつもあり、「作品世界が狭い」ことを説明するのに好適なので、あえて取り上げてみたい。
 このアニメで重要な役割を果たすのが、完璧に近い仮想空間を実現した近未来のアクションRPG「ソードアート・オンライン」。あるとき、アクセスしていた約1万人のプレイヤーは、ゲーム開発者が仕掛けた罠によって、誰かがラスボスを倒してゲームをクリアしない限り、ログアウトできない状況に追い込まれる。しかも、ゲーム内でHPがゼロになったり、現実世界で頭部に装着された端末を無理に外そうとしたりすると、内蔵メカによってリアルな死に至るという。プレイヤーたちは、次々襲い来るモンスターに対して、いつ終わるとも知れぬ絶望的な戦いを挑まなければならなかった…。
 こうした設定は、目新しいものではない。「主人公が夢や空想などの仮想空間に入り込む」というプロットなら千年以上前から存在する物語の定番で、コンピュータが普及した近年では、電脳空間を舞台とする作品が増えている。若い人は、電脳空間に閉じ込められるという設定を映画『マトリックス』(99年)で初めて知ったかもしれないが、この作品は、映像こそ斬新であるもののストーリーは陳腐だ(萩尾望都の短編漫画「ラーギニー」(80年)を読めば、なぜ私が陳腐だと言うかがわかるだろう)。電脳空間への“ジャックイン”は、ギブソンのSF小説『ニューロマンサー』(84年)など、サイバーパンクの十八番でもある。ゲームの話に限っても、ディズニー映画『トロン』(82年;古典ではあるが、現在では見るに堪えない)、岡嶋二人のミステリ小説『クラインの壺』(89年)とその実写ドラマ『クラインの壺』(96年)、クロネンバーグの実写映画『イグジステンズ』(99年;グロい)、押井守の実写映画『アヴァロン』(00年)、メディアミックスプロジェクトの『.hack』シリーズ(第1弾は、テレビアニメ『.hack//SIGN』(02年))などがある。
 『ソードアート・オンライン』に関しては、「ゲーム内の死=リアルな死」という前提が、作中のプレイヤーのみならず読者・視聴者にも緊迫感を与えるという見方がある。しかし、それはRPGに馴染んでいる人の場合であって、NECのPC8801mkIIでウルティマ4をプレイし(あまりのつまらなさにガッカリし)て以来、RPGに手を染めることのなかった私には、何の感興も呼び醒まさない。そもそも、全ての人に現実の死が訪れるという設定では、死のインパクトが希薄化されてしまう。これに対して、『クラインの壺』や『.hack//SIGN』では、「もしかしたらリアルに死ぬかもしれない」という漠とした畏れが、拭いがたい緊張感を生み出す。『アヴァロン』の場合は、ゲーム内の死か現実の死か判然としないという不分明さが、終盤における凄まじいサスペンスの淵源となった。
 物語がゲーム内での出来事に終始しているのも、『ソードアート・オンライン』の短所に思える。『クラインの壺』では、謎めいた事件がゲーム内イベントか現実の陰謀かわからないまま、主人公がゲームのルールを越えた駆け引きを余儀なくされるが、『ソードアート・オンライン』の登場人物は、そうした曖昧さに悩むことなく、常にルールに従順であり続ける。主人公のキリトに至っては、「このゲームはフェアに作られている」と信頼し、NPCを捨て駒として使うことに嫌悪感を示すなどゲーム内で自足している。大人の立場からすると、どうにも理解しがたい発想だ。キリトが第75層攻略戦のメンバーとして出発する際、「もし危険な状況になったら、パーティ全体よりも彼女(=アスナ)を守ります」と決め台詞を口にしても、所詮はゲームのルールに縛られているのだから、カッコイイとは思えない。常識で考えれば、ゲームのルールに従順なままゲーム制作者と競っても勝つことは不可能であり、むしろ、ソフトのバグを探すのが正当な対処法だと思われるが、そうした方途を模索する動きは見られない。
 ゲーム外部との関係性も乏しい。『.hack//SIGN』で、ゲーム内キャラクターとプレイヤー本人との格差−−「ゲーム内で勇気ある大人に見えたキャラが現実では小学生だった」のような−−が重要な意味を持っているのとは、対照的である。
 『ソードアート・オンライン』は、アクションRPGにはまったことのある人が、自分のゲーム体験を重ねながら面白さを増幅していく作品である。こうした人(おそらく中高生男子の過半)が作品のターゲットであり、それ以外の読者・視聴者は、ほとんど楽しめないだろう。これが、「作品世界が狭い」と言ったことの意味である。
 私は、「優れた芸術は万人が感動するものでなければならない」と主張するほど能天気ではない。プルーストの小説は己の内面を省察できる人だけに訴えかけるものだし、崇高なものは変わらぬ形を持つという信念がなければブルックナーのシンフォニーはどれも似たり寄ったりに聞こえてしまうだろう。しかし、同種の作品と比較したときに批判したくなる点がすぐに見つかるならば、高く評価できないことは当然だと考える。

北斗の拳

【評価:☆☆☆】
 全話チェック済み、原作一部既読。
 1980年代、核戦争後の荒廃した世界を舞台に北斗神拳の伝承者ケンシロウと南斗聖拳の使い手たちとの闘いを描いた漫画『北斗の拳』(原作・武論尊、作画・原哲夫)の人気は圧倒的だったが、この種の暴力的な漫画に嫌悪感を抱く私は、たまに置き忘れられた「少年ジャンプ」をパラパラと流し読みする程度。漫画に比べて、描線の美しさや決めポーズの迫力に欠けるアニメにはさらに関心がなく、テレビに映ってもすぐにチャンネルを変えていた。しかし、第3部でリュウガが登場する辺りから少しずつ気になり始め、南斗五車星が活躍する第4部にはかなり引き込まれる。その後、UHF局で再放送された際に録画して冒頭から見直すことにしたが、やはり第1部と第2部は面白くなく、第1部のほぼ全編、第2部の大半は早送りでチェックするに留まった。
 人気漫画家を目指す二人の少年の成長を描いたアニメ『バクマン。』に、彼らのライバルとなる天才漫画家・新妻エイジのバトル漫画『CROW』が登場するが、この作品のイメージは『北斗の拳』にピタリと重なる(『CROW』の主人公がケン「シロウ」ならぬ「クロウ」であるのは、ワザとだろう)。連載が始まったばかりの『CROW』冒頭5話について、他の若手漫画家がエイジに述べる批判的な意見−−「(同じパターンが続くので)面白さが薄れていく」「凄いと面白いは違う」「クロウは読者に訴えかけるものがない、ただカッコイイだけ」−−は、『北斗の拳』第1部(第1-22話)にそのまま当てはまる。
 締め切り前の第5話を書き直すことにしたエイジは、「もっとメリハリを付ける」「ちゃんとその回の山場を作って、読者がその先を読みたくなるような引きで終わる」との改善策を受け容れ、「敵キャラ変えて、もっと強くして、実は仲間?−−で引きます」と答えるが、これは、『北斗の拳』第2部(第23-57話)でのレイの登場シーンそのままである。第2部は、レイとユダの対決に女闘士マミヤが絡み、第1部に比べて起伏のあるストーリーとなった。
 『北斗の拳』は、第3部(第58-82話)に入って作品世界が一気に拡がる。軍事力による統一を目指す聖帝サウザーとレジスタンスの闘士シュウの対決が軸となるが、それとともに、シュウに率いられ社会を復興させようとする人々の姿が描かれ、暴力の支配する救いのない世界に一筋の光明が差し込んでくる。さらに、サウザー編終了後、北斗神拳の兄弟子(ケンシロウの義兄)ラオウとトキが闘う小エピソードをはさんで、ラオウとケンシロウどちらの味方かはっきりしない孤高の拳士リュウガが登場、作品全体の構図を俯瞰する視点が示された。
 第4部(第83-109話)では、仮面を被った南斗最後の将を守る五車星(ヒューイ、シュレン、フドウ、ジュウザ、リハク)が場面をさらう。特に、ケンシロウが南斗の都に到着するまでラオウを足止めするように命じられたジュウザが、文字通り命を懸けてラオウと対決する場面は感動的である。守らねばならないものがあり、決して倒れる訳にはいかないジュウザは、実力で勝るラオウに対していかなる闘いを挑むのか? 30年近く前の古い作品であるにもかかわらず、私は、いまだにこれを越えるバトルシーンを見たことがない。
 第4部の最後、「わが生涯に一片の悔いなし」という名台詞をもって『北斗の拳』は幕を閉じる…はずだったのだが…。
 『バクマン。』の場合、長期にわたってアンケート首位を取り続けたことにより、エイジは『CROW』を自らの手で終了させる権利を得た。しかし、現実の「少年ジャンプ」では、圧倒的な人気を誇る『北斗の拳』終了は許されず、編集長の命令で引き続き『北斗の拳2』の連載が開始される。設定に無理があり内容が混乱している『北斗の拳2』に関しては、目をつぶってあげるのがファンの礼儀だろう。

異国迷路のクロワーゼ

【評価:☆☆☆☆】
 テレビ放送された全12話視聴済み、原作未読。
 2011年はテレビアニメの当たり年で、私が特に高く評価する『輪るピングドラム』『Fate/Zero』、世評の高い『魔法少女まどか☆マギカ』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を初め、『花咲くいろは』『うさぎドロップ』『ちはやふる』『STEINS;GATE』『僕は友達が少ない』『TIGER & BUNNY』などがあった。これに匹敵するのは、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』『十二国記』『灰羽連盟』『Witch Hunter ROBIN』が放送された2002年くらいではないか。傑作・話題作・問題作目白押しの2011年にあって、『異国迷路のクロワーゼ』は、強い自己主張はないものの、清冽な石清水のようで忘れ得ぬ印象を残す秀作である。
 舞台は19世紀末のパリ。日本を訪れた老紳士オスカーに連れられて渡欧し、オスカーの孫クロードが店主を務める鉄工芸品店で働き始めた少女・湯音(ゆね)の日常が描かれる。きれいな振り袖(現在では若い女性の晴れ着だが、かつては子供の普段着)を身にまとい、文化の違いに戸惑いながらも懸命に仕事をこなす湯音の姿には、最近ではもはや死語に近くなった「けなげ」という言葉がピッタリする。
 周囲にいるのは善人ばかりで激しいドラマはないが、それでも、多くの人物は心に影を抱えており、その言動が微かな波風を起こす。例えば、ふだんは淑やかで妹のアリスに限りなく優しいブランシュ家の娘カミーユ。ブランシュ家は、クロードの店が属する商店街ギャルリ・ド・ロアを時代遅れにした巨大百貨店グラン・マガザンを所有するブルジョアジーで、カミーユは少年期のクロードと親しかったが、身分の違いからいつしか疎遠になっていた。ブランシュ家を訪ねてきたクロードが、湯音を人形のように可愛がるアリスに対して批判がましいことを口にしたとき、カミーユは、ゾッとするほど冷たい眼差しを向けて言う−−「あら、あなた人のこと言えるのかしら。…あなたのそういうところ、好きだけど、ちょっと残酷だわ」(第8話「子供部屋」)。このすぐ後で、カミーユが湯音と二人きりで会話するシーンは、表面的には何気ない言葉のやり取りなのに、ハラハラするほどの緊迫感に満ちている。カミーユの棘のある言葉を湯音がどのようにかわすか、じっくり見届けてほしい。アニメは心理描写を行わないと思っている人がいるが、そう思うのは鑑賞する側の怠慢であり、有能な演出家は心理をきちんと描出している。
 私が最も好きなエピソードは、湯音が風邪で倒れる第7話「天窓」。子供が病気になるという設定は、お涙頂戴のあざとい展開になりがちだが、この「天窓」は、以前に湯音が親切にしたストリートチルドレンの話をうまく絡めることで、人情味豊かな佳編に仕上がった。医者を呼ぶためにクロードがブランシュ家に赴いて「湯音が倒れた」と言ったとき、最初に「えっ」と驚きの声を漏らすのが、湯音を猫可愛がりしていたアリスではなく、その背後に無表情で立っていた執事であるところなど、ちょっとした描写に人間性が浮かび上がってくる。
 終盤(第11-12話)になると、湯音とクロードの心に宿る翳りの原因が明らかにされ、作品世界が一気に深化される。特に、第11話「祈り」では、湯音が語る姉・汐音(しおね)の思い出を通じて、彼女が何を求めて遥かヨーロッパまでやってきたのかが次第にはっきりし、感動的である。「いいの、だってその方が、あたし幸せだもの」という汐音の言葉は、思い出すだけで涙が出てくる。
 ところで、湯音の年齢だが、画面の印象から10歳くらいかと思いきや、Wikipediaによると13歳らしい。これには、ちょっとショック。


【補記】アニメ『異国迷路のクロワーゼ』では、日本の「きもの」が重要な小道具として使われる。
 ヨーロッパで日本に対する関心が高まるのは、江戸幕府が正式出品した1867年のパリ万博以降である(62年のロンドン万博でも日本コーナーが設けられたが、美術品から日用品まで雑多な品を並べただけだった)。パリ万博では、浮世絵や漆器などとともに「きもの」も展示され、そのデザインの斬新さが画家や美術商の関心を引いた。
 現在では、きものは帯できつく締めて着付けるというイメージが一般的だが、これはあくまで武家の着こなしであり、一般的な庶民は、緩く帯を巻いただけの気楽な着方をしていた(湯音は良家の子女なので、武家風の着付けをしている)。浮世絵で江戸庶民の姿を知ったヨーロッパ人は、こうした(きもの本来の)ざっくりした着方に注目したのである。19世紀ヨーロッパでは、裁断した布地を身体の形通りに立体的に縫製する衣服が主流で、中でも女性服は、理想の体型(胴回り40センチ!)に合わせるようにコルセットで締め付けるものが多かった。日本のきものは、こうしたヨーロッパ的衣服のアンチテーゼであり、快適さを追求する新時代のファッションに見えたようだ。上流階級では、きもの風のゆったりしたガウンが流行した。
 『クロワーゼ』には、クロードが湯音の持参したきものを美術商に売り払うエピソードが描かれる。アニメの舞台となる19世紀末の時点では、ジャポニスムの流行はまだ上流階級中心だった。フランスの庶民が日本に関心を寄せるのは、芸者の貞奴(さだやっこ)がパリで公演を行った1900年か、日露戦争で日本がフランスの同盟国ロシアに勝利する05年頃になってからである。したがって、クロードにきものの価値がわからず、わずか500フランで売ってしまうというのはありそうな話だ。1フランが今の日本円でいくらになるかははっきりしないが、金価格をもとにすると、19世紀前半で1000円、フランが切り下げられた1928年には200円ということなので、19世紀末の500フランは20万円弱くらいだろうか。
 当時、日本から輸入されたきものの人気は高く、入荷するとすぐに売れてしまうため、多くのきものファンがヨーロッパ製のまがい物で我慢していた。美術商がいくらで転売したかは示されないが、アリスが「クロードには1年掛かっても貯められない」と言っていることから、日本円で100万を遥かに超す金額と見て良いだろう(クロードが、個人店を経営する腕の良い職人であることを忘れないように)。それでも、百貨店を所有する富豪のブランシュ家ならば、日本好きの妹に姉がプレゼントするには適当な価格なのである。
(ヨーロッパにおけるきもの人気については、深井晃子著『きものとジャポニスム』(平凡社)に詳しい)

人類は衰退しました

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 最近のテレビアニメはどこかで見たようなものばかりだと思っている人には、この作品(あるいは『四畳半神話大系』か『妄想代理人』辺り)を勧めたい。童話のようにシュールでほのぼのとした毒に満ちており、類似作を思いつかない。
 人類の文明が衰退した遠い未来のヨーロッパ。人口は激減しビル群は崩壊して、20世紀初頭における農村のような一見のどかな社会が実現されている。もはや気力を失った人々は鈍感で怠惰になり、ろくに仕事もしていない。代わりに地球を支配しているのが、「妖精さん」と呼ばれる不思議な生き物。原作第1巻から引用すると−−「極端に低い頭身、人間用のボタンをひとつだけつけた厚手の外套。三角帽子を乗せた大きな頭。ちんまい手袋とブーツ。…(中略)…全員がやんちゃな男の子のような印象。平均身長10センチ。“彼ら”が何者なのかって? そう−−あのちんまい方たちこそ−−地球人類だったりしますね、このごろは」(ガガガ文庫p.74)。絵本に登場する妖精そのものの外見をした「妖精さん」は、単独ではいかにもトロく弱々しい存在だが、何か“楽しいこと”を見つけると集団になって常識はずれの超技術を発揮、一晩で未来都市を作り上げたかと思うと、あっと言う間に瓦解させたりする。原作は、「妖精さん」と人類の間を取り持つ「国連調停官」という名ばかりの閑職に任命された「わたし」−−外見は清楚な女性だが、実は皮肉屋でちょっと腹黒い−−が、故郷のクスノキの里に帰還するところから始まる。
 原作となる田中ロミオのライトノベルも充分に面白いが、アニメは、世界名作劇場のような穏やかな画面の背後に原作以上に強烈な毒を仕込んでいて、なかなか見応えがある。特に興味深いのが「妖精さん」の描き方。口をポカンと開けたまま幼児のような口調で語る彼らは、外見が可愛いだけに却って不気味である。「わたし」の内的独白も、中原麻衣の絶妙なアテレコによって、皮肉のスパイスが一層辛さを増した。監督の岸誠二とシリーズ構成の上江洲誠は、どちらも私とソリが合わないのか、それぞれ10本以上見た中に好きな作品がほとんどない(上江洲の『これはゾンビですか?』は少し面白い)のだが、この『人類は衰退しました』だけは、演出も脚本も気に入っている。
 アニメ放送に当たって順番が入れ替えられ、インパクトは強いものの内容が理解しづらい「妖精さんの、ひみつのこうじょう」が冒頭話となったため、ここで躓く視聴者がいるかもしれない(私自身、なぜ加工チキンが地球支配をもくろむようになったのか、よくわからなかった)。ストーリー把握力に自信のない人は、原作第1話に当たる「妖精さんたちの、ちきゅう」(放送第10話)から見始め、続いて、最もまとまりの良い「妖精さんの、ひょうりゅうせいかつ」(放送第9話)に移るのが良いだろう。後者は、ジャレド・ダイアモンドの著書を思わせる文明崩壊の寓話でもある。逆に、自信のある人は、「妖精さんたちの、じかんかつようじゅつ」(放送第7-8話)にチャレンジすること。私は、睡眠導入剤を飲んでうつらうつらしたまま何度もリピートして見ているうちに、脳内トリップして無限ループの物語を作り上げてしまった。
 OPとEDは、アニメ・楽曲とも印象に残る。OPアニメのダンスは、動きが単純なので真似できるかとやってみたが、運動神経の鈍い私には無理だった。

探偵オペラミルキィホームズ

【評価:☆☆☆】
 第1-2期全話視聴済み(第3期とされる『ふたりはミルキィホームズ』は別作品と見なした方が良い)、原作(PSP用ゲーム)未プレイ。
 『スペース☆ダンディ』と並ぶ、日本には数少ないパロディアニメの快作である。原作のゲームとは異なってあくまでギャグ重視のコメディで、しばしばパロディを離れてただのバカ騒ぎに陥るが、それもまた楽しい。
 舞台は近未来のヨコハマ。「トイズ」と呼ばれる超能力の持ち主が探偵と怪盗に分かれ、互いに競い合っている。主人公は、ホームズ探偵学院で学ぶシャーロック(愛称シャロ)、エルキュール(愛称エリー)、コーデリア、ネロの4人−−それぞれ名探偵の子孫という設定だが、なぜか姓ではなくファーストネームを受け継いでいる−−で、ミルキィホームズと呼ばれる探偵チームを結成し、トイズを駆使して難事件に当たっていた。ミルキィホームズと対決するのが怪盗アルセーヌ(お約束通り半裸の巨乳美女)と3人の手下、ライバルが明智ココロほか3人の美少女警察官から成る怪盗対策班G4で、アニメでは、トイズを喪失したミルキィホームズの4人が右往左往し、それにG4が巻き込まれ、アルセーヌ一味が高所から見物するという物語が多く描かれる。
 登場人物と設定の紹介に費やされた冒頭3話はさほどの出来ではなく、私も油断して流し見していたが、第4話「バリツの秘密」から俄然面白くなる。「バリツ」はホームズ物の愛読者なら知らない者のいない有名な言葉で、ライヘンバッハの滝から生還できた理由として、ホームズが「自分にはバリツという日本の格闘術の心得があったから」(「空き家事件」より)と語ったのが起源。謎の格闘術バリツとは何かを巡って侃々諤々の議論があり、「武術」の聞き間違えという見方が主流だが、イギリスで柔術をベースに考案されたオリジナル格闘術「バーティツ」のことだという説も有力である。「バリツの秘密」では、マニア向けの高度なパロディ(私は巨大レミングのエピソードが好き)と、誰にでもわかるジブリアニメのパロディが展開され、この2つの流れが「バリツ」の一発ギャグで融合する見事な構成となっている。
 シリーズ中の最高作と言えるのが「王女の身代わり」(第1期第6話)で、『ローマの休日』『王子と乞食』『卒業』など名作のパロディがつるべ打ちされる。その合間に挟まれるギャグも、スクワット1万回や変態王子との王女様ごっこ、「素晴らしき普通の生活」など快調そのもの。極めつけは、ゆとり教育を笑い飛ばすギャグだろう。もっとも、指導要領が改訂されたので、数年後の視聴者には理解不能になりそうだが。
 ミステリ仕立ての作品としては、ルブラン『奇巌城』を彷彿とする偽装された巨大館が登場する「太陽のたわわむれ」(第1期第7話)、クイーン『Xの悲劇』『緋文字』よろしくダイイング・メッセージの謎を名探偵が推理する「MHの悲劇」(第1期第9話)なども面白いが、私が最も好きなのは、クリスティ『オリエント急行殺人事件』のパロディで、列車内という密室で怪事件が起きる「エノ電急行変人事件」(第2期第6話)。カマクラに到着したエノ電車内で意識を取り戻した明智ココロが目にしたのは、ミルキィホームズやG4のほぼ全員(自分を含む)が変わり果てた姿となった光景。いったい何が起きたのか? 証言を集めるうちに、少しずつ真相が明らかになってくるものの、ココロが最も気にする「誰が自分をボコボコにしたか?」はなかなかわからない…。単線の江ノ電にはあり得ないノンストップ急行(江ノ電とノンストップ急行の組み合わせは、黒澤明『天国と地獄』から想を得たのではないか?)を舞台に、ミステリの常道を覆すさまざまな仕掛けが繰り広げられ、『ゴルゴ13』や『エイリアン』などのパロディが随所に挿入される。元ネタを知っているほど笑える一編である。
 ギャグに少々品がないのと、見事なパロディと言えるのが全24話中5〜6話なので星3つとしたが、こうしたパロディアニメが制作されること自体、日本のアニメ産業にまだまだ余力があることの証だろう。

しにがみのバラッド。

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作第2巻まで既読。
 全6話の短期シリーズながら、臆せずに死を題材とした真摯さがいつまでも心に残る佳作である。主人公は、死んだ者の魂を天に運ぶ死神のモモ。死神らしく魂を刈る大鎌を手にし、仕え魔の黒猫ダニエルを連れているが、ふつうの死神とは異なり、白い服と赤い靴を身につけた少女の姿をしている。泣き虫で死者につい同情してしまい、現世に残した思いを実現するため助力を惜しまない。
 原作はハセガワケイスケのライトノベルで、散文詩のような曖昧な表現によって、死の恐怖を柔らかく包み込んでいる。心に沁みる内容ではあるが、死のおぞましさや不条理性から敢えて目を背けたところもあり、死と向かい合った人間にしては不自然に思える言動も少なくない。これをそのままアニメ化した場合、文学とは違って何が起きたかをぼかしながら叙述することが難しいため、どうしても不自然さが浮かび上がってしまう。不自然に見えないように修正を図ると、今度は、死の恐ろしさを覆い隠せなくなり、若い視聴者には刺激が強すぎる。そのせいなのだろう、アニメ化に当たっては、死を直接的に描かず、死者の残した思いをモモが叶えようとするエピソードを中心にピックアップしている。結果的に、原作のストックが充分にあるにもかかわらず、全6話のうち2話がアニメ・オリジナルとなった。
 私が最も好きなのは、オリジナル作品である第4話「あきのまほう。」(脚本は全話とも吉田玲子)。母親を亡くして半年が経つ姉弟のうち、身の回りのことすら独りではできない小学生の弟はいつまでもメソメソしているが、中学生の姉はしっかり者で、父親と弟のために食事の支度や日用品の買い物をこなしている。さて、支えが必要なのはどちらか? 死んだ母親は、ちゃんとわかっていた。モモの優しさが心を打つ感動作で、慰撫するような小林晃子のハスキーボイスが快い。
 第3話「ひかりのかなた。」(原題「ビー玉と太陽光線のかなた。」)も面白い。人生を全うした老人が若者にエールを送る内容になっており、このシリーズでは珍しく、心が浮き立つ明るい話である。『しにがみのバラッド。』には実写ドラマもあり、「ビー玉と太陽光線のかなた。」はアニメ版と実写版の双方で見ることができるが、私は、いろいろと脇筋を付け加えて華やかにした実写版(まだ子供っぽい佐藤健が出ている)よりも、無駄な部分を削ぎ落としエッセンスを抽出したアニメ版に軍配を揚げたい。

涼宮ハルヒの消失

【評価:☆☆☆☆☆】
【重大なネタバレあり】
 われわれは、人生でさまざまな選択を重ね、それによって必然的に多くの何かを失いながらも、選んだ自分の責任として生き続ける。しかし、選択されなかった側の人間は、為す術もなく他人の選択を受け容れるしかないのだろうか? 『涼宮ハルヒの消失』は、選ばれなかった者の悲痛な想いを描いた傑作である。映画館では周囲の目を気にして耐え抜いたが、自宅でDVDを再生したときには、開始後30分ほどで涙が溢れ出し、それからずっと嗚咽しながら見ていた。
 ある日、いつものように登校したキョンは、そこにハルヒが存在せず、他の生徒もハルヒなど初めからいなかったように振る舞っていることに驚く。朝比奈さんはキョンを覚えておらず、古泉は教室ごと消失している。そこで、「最終絶対防衛ライン」にして「ここが陥落したら一巻の終わり」となる長門の元へ向かうのだが…。ウールリッチの「消えたアリス」を思わせるサスペンスフルな状況は、文芸部部室で静かに本を読んでいた長門の姿が画面に現れた瞬間、一転して哀切を極めた人間ドラマに変貌する。
 ここからの物語は、キョンの心情の変化を追いながら展開される。世界が改変され自分だけが取り残されているという絶望的な孤独感に始まり、元の世界に戻る手がかりを得たときの胸の高鳴り、その手がかりがあまりに漠として打つ手がない故の閉塞感、打って変わってしおらしくなった長門への気遣い、次第に強まる諦めの念、そして、決定的な手がかりを見いだしたときの高揚感へと移り変わる。見る側も、こうしたキョンの心情に共鳴し、いつしか作品世界に入り込んで、そこでの出来事を自身の体験のように感じ始める。中でも心動かされるのが、分厚いハードカバー本の中に、元の世界の長門が挟んでいた栞を見つけるシーンだ。たとえ世界全体から疎外されたとしても、たった一人でかまわない、自分を理解してくれる人がいると知れば、人間は立ち直れるものだ−−そんなことを実感させるシーンである。
 公式ガイドブック(角川書店)に掲載された石原立也(総監督)×武本康弘(監督)×高雄統子(演出)の座談会を読むと、作品の方向性について3人の見解に微妙な差があることに気付かされる。石原が、作品のコンセプトを問われて言下に「ラブストーリー」と答えているのに対して、武本は、「僕の考える『消失』はラブ成分がちょっと薄」く、むしろ「キョンの再認識の物語」だと語る。一方、「原作を読んだ時から映像のイメージがはっきり見え」たと言う高雄は、「私は彼女(=長門)を「女」として見てしまう」、「(朝倉は)長門以上に切ない存在」と述べ、女性キャラに深く共感していることがわかる。この座談会では、制作現場の状況もいろいろと語られており、古泉については「女性スタッフ陣の思い入れが強」く総監督も驚く心理描写がなされたとか、ラストの屋上シーンはスタッフの間でも意見が衝突した−−「キョン、ひどい」という声もあったらしい−−といった裏話が紹介された。このように、スタッフがそれぞれ強い思いを抱きながら臨んだからこそ、単純に原作のプロットを追うだけでなく、人間性に鋭く迫った作品が生まれたのだろう。
 キャラに対するアニメーターたちの思い入れは、他のアニメとは比較にならないほど強烈な身体反応の描写から見て取れる。ハルヒのいない世界に改変されたと察したキョンは、教師に促されても足がガクガクして歩けない。その世界でハルヒを見つけた時には、爪先を地面に擦り付けるようにして漸く歩き始める。一方、キョンの口からあり得ない名前を聞いたハルヒは、後ずさろうとして腰から崩れ落ちる。いずれも、情動と身体反応が結びついており、彼らにとって状況がいかに深い意味を持つかがあらわになる描写である。これらのシーンは、原作では、「よろよろと俺は移動を開始する」「膝が笑っているのは気のせいだと思いたい」「不意にハルヒはよろめいた」と記されており、具体的な体の動きはアニメーターが考案したものだとわかる。
 意志にコントロールされない身体表現を通じて人間の内面を描写することは、実写映画でも高度な演出テクニックを要する(例えば、小津安二郎『麦秋』のラスト近く、遮断機が下りて路傍に腰を下ろした父親が、そのまま立ち上がれず空を見つめるシーンなど)。『涼宮ハルヒの消失』では、こうした身体表現がたびたび用いられ、登場人物の内面を浮かび上がらせる。その中でも特に印象的なのが、長門のケースだろう。自宅に招き入れたキョンが帰り際に「あのさ、明日も部室に行っていいか? ここんとこ他に行く場所がないんだ」と言ったとき、彼女は、抑え切れぬ想いに、つい口元をほころばせてしまう。この長門の姿は、これまでに私が見たあらゆるアニメの中で最も切ない一言−−このセリフも原作にない−−を導く。「宇宙人なんか珍しくもない。もっとあり得ないものを見ちまった」。
 物語の終盤、文芸部部室に再集合したSOS団メンバーの前で、キョンは長門に白紙の入部届けを返す。このとき、長門は何を思ったのだろう? ストーリーからすると、この時点での長門は世界が改変されたことを知らず、単にキョンが文芸部への入部を断ったとしか受け取れないはずである。しかし、指が震えて紙を掴めないほど動揺した長門の姿は、自分がキョンに選ばれず、心の内に芽生えたさまざまな感情ごと「なかったこと」にされてしまうと察知したことを窺わせる。彼女は、人生の賭に負けたのである。
 もっとも、私には、キョンが長門よりもハルヒを選ぶような酷薄な男には思えない。実際、この文芸部部室のシーンで、彼は口を挟んできたハルヒを叱責し、長門に対して「すまない」と謝っている。彼が選んだのは、ハルヒではなく「SOS団の存在する世界」と解釈すべきである。それに、彼が選んだ世界の長門も、心に感情を芽生えさせているはずだ。ラストシーンで本に隠された長門の口元は、ほころんでいるのだろうか。

ちはやふる

【評価:☆☆☆☆】
 第1-2期全話視聴済み、原作一部既読。
 これまであまり知られていなかった競技カルタの世界を描く秀作。ヒロインの千早が競技カルタと出会う小学生時代(第1期第1-3話)や、高校生になってカルタ部を設立し、さまざまな個性を持つ部員を集める過程(第1期第4-9話)も面白いが、圧巻は迫力ある競技シーン。第1期では、初出場となる高校選手権(第10-15話)を中心に、埼玉大会(第18-19話)、クイーン位東日本予選(第21-23話)などが描かれ、その前後に、普段の高校生活を含むさまざまなエピソードが挿入される。おそらく競技の描写が好評を博したからだろう、第2期になると、冒頭2話で新入部員を集める話が紹介された後は、(全国大会に望む気概を描いた第7話以外の)全編が高校選手権に当てられた。
 競技シーンが面白いのは、カルタに対する真剣さが伝わってくるから。近年の学園ものアニメには、好きなことをするための部や同好会を設立して日々まったりと過ごすというパターンが多く見られるが、楽しいことを適当にやっていくだけの生き方は、後から振り返った時、どうしようもなくつまらないものに感じられるはずだ。死闘とも言える凄まじい試合が終わった後、千早は、感に堪えたように口にする−−「楽しかったね。今までで一番楽しかったね」(第2期第6話)。この言葉の重みを感じてほしい。厳しくつらい修練を経た後でこそ、初めて真の楽しさがわかるのだ。
 他の登場人物も、競技カルタの真剣勝負を経て、人間的に成長していく。例えば、千早の幼なじみ太一。公式大会での優勝というA級進級の条件をなかなか満たせず、師匠から特例で進級させようかと言われた時に、彼は何と答えるか(第1期第20話)? カルタ部の仲間である肉まん君(とあだ名される男子)は、千早のもう一人の幼なじみである新との対戦後、「瑞沢(高校)の人は…こんな一生懸命なカルタを取るんか?」と問われて、どう返答するのか(第2期第21話;このシーンでは、思わず泣いてしまった)? 真剣勝負だからこそ得るものが大きいと実感される名シーンである。
 競技シーンを盛り上げるのが、浅香守生(『Gunslinger Girl』『NANA』)の抑制の効いた演出である。『ちはやふる』では、重要な試合は全て大熱戦というややわざとらしい展開になる(現実の世界では大勝負ほどあっけないもの)が、演出のうまさのおかげで、あまり気にならない。特に見事なのが、画面上での動きを抑えることで、逆に動きの速さを感じさせる手法である(日本のアニメが持つ長所の1つは、絵を動かさないことの効果をアニメーターが正しく理解している点だろう)。二人とも“感じ”(読み上げられる語句を認知する能力)が良いので高速勝負となる千早と理音(りおん)の対戦(第2期第18話)。「世の中〜」で始まる歌には「世の中は」と「世の中よ」の2首があり、本来は5字目まで聴かないと取りにいけないはずなのに、この二人は、最初の「よの」に込められたニュアンスを感じ取って動き始める。浅香は、その瞬間を描くに当たって、まず画面を分割して二人の耳をクローズアップし、両者の頭が同時に動き出すことで、音に対する瞬発的な反応を表す。次いで、肉眼ではほとんど見えない2コマの手のカットでハッとさせた後、二人が同じ札に手を伸ばす静止画をズームアウト。さらに、解説シーンを経て、千早の静止画を背景に空中でクルクル回る札を描く。手の動きを直接示す動画がないにもかかわらず、見る人が想像力で補うことによって、素早い動きが実感される。これが、演出というものである。
 競技シーンの迫力に比べると、人間ドラマ−−特に、千早・太一・新の三角関係−−の描写は淡泊だが、あれだけカルタに打ち込んでいる人が恋愛にも貪欲であるというのは不自然なので、むしろ好ましい描き方である。ただし、淡泊ではあっても、要所は押さえている。第1期第23話で千早と新が携帯電話で会話するシーンの、何と素敵なことか!
 本筋とは関係ないが、第1期第13話での千早の体調不良についても一言。推測するに、原因疾患は偏頭痛だろう。偏頭痛は、千早のようなスレンダーな女性に多い病気で、発作が始まる少し前に頭重など何らかの前兆が現れることが多い。偏頭痛と言っても症状は頭痛に留まらず、悪心・嘔吐、知覚過敏(音がやたらにうるさく感じられるなど)や知覚異常(耳鳴り・複視など)、自律神経失調、意識の混乱(しばしば白昼夢を見る)を伴う。緊張型頭痛の時に体を軽く動かすと症状が軽くなるのに対して、偏頭痛の場合は、無理をして体を動かすとどんどん悪化し、最後は脳に杭を打ち込まれたような激痛が走って昏倒する(経験あり)。ただし、一晩眠っただけでケロリと治るので、仮病だったかと疑われることも。現在では、著効のある薬が開発されているので、千早に教えてあげたい。

咲 -SAKI-

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 第1期−第2期(阿知賀編)−第3期(全国編)全話視聴済み(以下のレビューは第1期に対するもの)、原作未読。
 『ヒカルの碁』(囲碁)や『ちはやふる』(カルタ)と同じく文科系競技(麻雀)を取り上げた作品だが、熱血アニメというよりは、麻雀をプレイする女の子たちを可愛く描いた萌えアニメと言うべきだろう。(私を含めて)その手の趣味のない人には、それほど楽しめない。ただし、いくつか注目すべきシーンがあり、レビューで取り上げることにした。
 麻雀の魅力は、程良い偶然性にあると言われる。ポーカーや花札は偶然性が高く賭事向き、チェスや囲碁は(先攻・後攻の決め方以外には)偶然性が全くなく勝敗が個人の能力に全面的に依存するが、麻雀は偶然性と戦略性が適度に混交し、素人でも知的な面白さを味わえる(らしい。私はプレイしたことがない)。ルールはポーカーと似ており、4人のプレーヤーは、最初に配られた牌を1つずつ場の牌と交換しながら役を作ることを目標とする。ただし、トランプカードに比べて牌の数と種類が多いので、ポーカーと異なって牌の交換は何巡にもわたって続けられ、そのたびに捨て牌が場に晒される。このため、開始直後は偶然性に支配されるものの、プレイが進むにつれて、牌の捨て方で誰がどんな役を狙っているか推測可能となる。さらに、終盤では残り牌が減り、次に何が出るかを高い確率で予想できるので、戦略的な手法が有効になる。
 『咲 -SAKI-』の舞台は、健全な娯楽としての麻雀が普及し、高校生による全国大会も行われている架空世界。第1期では、その地方予選の模様が描かれる。清澄高校麻雀部には、3年と2年に女子が1人ずつ、1年に男子1人、女子2人がいるが、これだけでは、男女いずれか5人が1チームを組む大会には出場できない。物語は、麻雀の打ち方を知っている咲に入部の誘いが来るところから始まる。
 『ヒカルの碁』『ちはやふる』では、主人公が初めて囲碁やカルタに興味を持つエピソードや、部を設立して部員を集める過程が序盤の見所となるが、『咲-SAKI-』にそうした場面はなく、当初から麻雀に関して相当の知識と技量を持ったメンバーが揃っている。彼らがプレイヤーないし人間として成長する過程もほとんど描かれない。強いて言えば、咲には家族関係のせいで無意識に実力をセーブする性向が、彼女の友人となる和(のどか)には巨乳コンプレックス故に実戦で力を発揮できないという弱点があり、合宿を通じてこれらの弱点を克服する過程が紹介されるものの、ドラマとしては大して中身がない。
 競技シーンも、初めのうちはかなりの緊張感があるが、途中から急速につまらなくなる。その最大の理由は、プレイヤーとして超能力者を登場させたこと。麻雀の特徴は適度な偶然性にあるが、こうした偶然性は、プレイヤーにとってはハラハラ感を増す要因であっても、アニメ視聴者のように外部から競技を見る第三者には、受け容れざるを得ない単なる設定である。この点を改めようとしたのか、作者は、試合の“流れ”を見通したり引き寄せたりする超能力を作中に導入し、偶然性を極力排除する展開を採用した(もしかしたら、超能力の存在を本気で信じていたのかもしれない)。しかし、超能力者たちが活躍する試合は、「何を見通したのでこの戦略を採ったか」などに関して充分な理解力がなければ、面白さが感じ取れない。このことが最も明確に現れるのが、団体戦決勝最終戦である。ここでプレイするのは、自分の望む牌を出させる能力を持った龍門渕高校の衣(ころも)で、限定的な超能力しか持たない咲が彼女にどうやって対抗するかが見所のはずなのに、終盤で咲が次々に繰り出す秘策がどうしても理解できない。麻雀に詳しい人の解説を読むと、かなり驚くべき手法のようだが、その知識がなければ、単なる虚仮威しにしか見えないのである。
 …と、かなり批判的なことを書いてきたが、実は、素晴らしく面白い試合が2つあり、それ故に敢えて星3つを付けた(この2試合がなければ、星2つが妥当だろう)。1つは、第9話「開眼」で描かれた団体戦決勝第1試合で、いつも片目をつぶっている風越高校の福路が登場する。彼女は、異常なほど他人思いの性格で、麻雀部で最高の実力を持ちながら、後輩の練習時間を増やすために進んで雑用を引き受けている。このため、後輩には慕われるものの、同級生からは「うざい」と仲間はずれにされ、コーチも実力を認めず厳しく接する。そんな福路だが、両目を開けると、他のプレイヤーが示す牌の捨て方や視線の向け方などから、持ち牌や戦略まで看取することができる。その性質故にゲームの後半になるまで能力を発揮できないが、開眼後は、超能力を持たないプレイヤーとして最強だろう。彼女がどの段階で目を開き、誰の得点を削り誰に有利になるようにプレイしたか、その結果として最終的にどんな得点配分になったか注目してほしい。得点が受け継がれていく連戦の第1試合であることを考慮し、実に賢明な戦略を採用したことがわかる。
 もう1つ面白いのが、第14話「存在」で描かれる第4試合後半。4人のプレイヤーのうち、和は、捨て牌のデータから次に出る牌の確率を見積もり、数学的に最も有利な手を採用するデジタル打ちに徹する。一方、龍門渕高校の透華は、デジタル打ちをメインにしながらも、自分が目立つ派手なプレイに走ることも多い。この2人の対決かと思いきや、後半で重要になるのが、透華と反対に自分の気配を消すことに長けた鶴賀学園の東横桃子。まるで超能力のようだが、私は、こうした特技を持つ人を実際に知っているので、見ていて思わず「あるある」と呟いてしまった。クラスから孤立していた彼女がなぜ麻雀部に加入したか、東横のプレイに和と透華がどのように反応するかが見所である。

シュヴァリエ

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 ルイ15世治世下のフランスを舞台に、謀殺された姉リアの死の真相を探ろうとする青年デオンが、呪術を操る革命派の秘密結社と守旧派が仕切るブルボン家の絡む政治的陰謀に巻き込まれる歴史ロマン。史実が巧みに織り交ぜられており、主人公は、実在した人物がモデルである。現実のデオンは、リアと名乗る女性に変装してスパイ活動を行い、その功績で叙勲されシュヴァリエ(騎士)となった。後半生では、軍服をまとう騎士でありながら本当は女性だと主張、実際に男装の麗人と思われドレスを贈られることもあったという。アニメでは、デオンの身体に死んだ姉の霊が憑依し、その間だけ女性になるという設定にされた。
 冲方丁によるストーリーは、虚実の使い分けが見事である。例えば、フランス革命の指導者として知られるロベスピエールに関しては、「だいぶ史実と異なるな」と思いながら見ていると、終盤で「実は…」という展開になり、ニヤリとさせられる。ストーリーだけ抜き出すならば、最高水準の作品だと言って良い。
 だが、1本のアニメとして見た場合、優れた歴史ロマンを鑑賞したときの血沸き肉躍る高揚感が得られず、かなりの不満が残る。その原因は、主に演出にある。『シュヴァリエ』にはオカルト的な要素が多く、詩編(PSALMS)の語句を用いた呪術が重要な役割を果たすが、文字が身体や壁に浮き出たり宙を舞ったりする場面は、本来なら見せ所であるにもかかわらず、凡庸な演出のせいで迫力がない。雨宮慶太の実写ドラマ『牙狼-GARO-』における同種のシーンと比べると、差がはっきりわかる。秘密結社の中枢にいるのは実在した錬金術師サン・ジェルマンで、呪術で人間をガーゴイルに変身させる際には体液を錬金術の秘薬である水銀に置き換えるのだが、体から漏れ出る体液の描写に水銀らしい光沢や重さが表現されておらず、ただの水にしか見えない。前半の主要人物であるボロンゾフ(これも実在した伯爵がモデル)がデオンと闘うシーンでは、元貴族の矜持を保とうとしながらもガーゴイルに堕ちていく男の悲しさが描かれて然るべきなのに、キャラクターデザインが不気味すぎて失笑してしまった。
 小説/アニメ『マルドゥック・スクランブル』でも感じたことだが、冲方のストーリーには観念的な情報が多く盛り込まれており、文学的想像力を刺激するものではあっても、アニメ絵が持つ具象性とは相性が悪い。そのことがよくわかるのが、デオンがリアに憑依される過程の描き方である。
 両性具有というテーマは多くの作家を惹きつけ、1人で同時に男女両性を併せ持つケース(フェリーニ『サテリコン』)、外見を同じくする2つの身体が男女に分かれるケース(コクトー『恐るべき子供たち』、樹なつみ『OZ』)、人生のある時期に性分化ないし性転換が起きるケース(ウルフ『オーランド』、萩尾望都『11人いる!』)などが取り上げられてきた。中でも魅力的に感じられるのが、状況に応じてたびたび性転換が起きるという設定で、私の知る限りでは、ル・グウィンの(『ゲド戦記』と並ぶ傑作である)『闇の左手』で初めて採用された。『闇の左手』では、性が曖昧になる瞬間が次のように描写されている。「私たちはしばし黙りこんだがやがて彼は私に優しいまなざしを向けた。赤みがかった光をあびた彼の顔は、物おもいにふけりながら無言であなたを見つめている女の顔のように、なよやかな遠い顔であった」(小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫)。これだけではわかりにくいが、具象的な描写ではなく追想に訴えることで、読者が状況をリアルに感じ取れるように工夫されている。これに対して、『シュヴァリエ』では、頼りない優男が凛々しく活動的な女性に変容するという妖艶なはずの過程が、束ねられた髪の毛がほどけるといった即物的な描写で済まされてしまう。性の越境に伴ういかがわしさは微塵も感じられず、まるでスイッチを切り替えるようにあっさりとしており、視聴者の想像力を掻き立てるものではない。もっとも、これは、アニメーターの力不足というだけでなく、輪郭線を明瞭に描かざるを得ない現在のアニメ技術の限界なのかもしれないが。少女漫画における男女の描き分けは、輪郭をぼかし柔らかい描線を用いた唇や瞼の表現によって行われており、この作画法をCGに取り入れることができれば、アニメはさらに進化するだろう。
 『シュヴァリエ』は、実に惜しい作品である。一通り見終わった後、音楽と台詞だけを聴きながら、シナリオの面白さを生かした映像を頭の中で想像するしかない。

巌窟王

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読(あまりのページ数に臆し、古典文学は相当読み込んでいる私でも抄訳で済ませた)。
 デュマ『モンテクリスト伯』をベースに、舞台を未来の太陽系に移したSF作品。モンテクリスト伯中心の原作と異なって、青年アルベールが体験した出来事として物語が展開されるなど、いくつかのアレンジが加えられているものの、「無実の罪で投獄されたエドモン・ダンテスが莫大な富を持つモンテクリスト伯となって、自分に罪をかぶせた人々に復讐を果たす」というよく知られたプロットは、原作のままである。また、同じくデュマの小説に基づくベスターのSF『虎よ、虎よ』(こちらは既読)から多くのアイデアを借りている。
 この作品を楽しめるかどうかは、2つの点に掛かっている(私は楽しめなかった)。1つは、派手な映像表現(テクスチャを多用した服飾デザイン、CGによる都市や室内の造形など)を美しいと思えるか、もう1つは、大時代的な復讐劇を受け容れられるかどうかである。前者の映像表現に関しては、大胆で野心的ではあるものの、私にはやりすぎと感じられた。いくつかのシーンでは感興を盛り上げるのに効果があり、貴族の生活に見られる虚飾の象徴としても有意味かもしれないが、初めから終わりまで同じように続けられると、かなり辟易する。『魔法少女まどか☆マギカ』で魔女登場シーンに限って独特のビジュアルを採用したように、特定の場面に限定する手もあったのではないか。
 復讐劇としての完成度については議論が分かれそうだが、私は、あまり高く評価しない。復讐というテーマは素朴な共感を呼びやすく、ギリシャ悲劇の時代から数多くの人気作が作られてきたものの、単に行為だけを描いたのでは、大衆演劇のレベルを越えられない。復讐する側の心の揺れ(『ハムレット』)や復讐される側の恐怖と悔恨(『嵐が丘』)、復讐の正当性に関する疑念(『白鯨』)などを適切に表現できるかどうかが、傑作と凡作の分かれ目となる。映像作品で言えば、映画『処女の泉』や『捜索者』のラスト近くで復讐者が示すアンビヴァレントな言動、映画『蛇の道』で物語が進むにつれて復讐する側とされる側の境界が曖昧になっていく怖さ、テレビドラマ『喪服のランデブー』で追いつめられた人が感じる言いようのない空しさ−−そうした深遠な内容が感動の源泉なのである。しかし、『厳窟王』に、そこまでの深みは感じられない。復讐される人物は、人当たりの良い外面と卑怯者としての内面という2つの面しかないように見え、人間として薄っぺらである。復讐に巻き込まれる子供たちは、単なる被害者のように振る舞うだけで、親が犯した罪と真剣に向き合っていない。そして何よりも、復讐者に迷いがなさすぎる。アニメは復讐劇を描くのに不適切なメディアだと主張する人がいるかもしれないが、『Black Lagoon Roberta's Blood Trail』という傑作があるので、そうも言えない。他の優れた復讐劇と比較すると、『巌窟王』はどうにも脚本が弱いと言わざるを得ない。
 この作品はまた、「古典をアニメ化することの意義」という別の問題も提起する。深夜アニメの大量生産が続いて原作が不足する中、古典に手を伸ばすプロデューサーが出てくるかもしれないが、なぜ古典として評価されているかに配慮しながら脚本を練り上げることの重要性を忘れてはならない。『巌窟王』はかろうじて佳作と言える水準だが、同じGONZOがこの3年後に制作した『ロミオ×ジュリエット』は、あまりに杜撰な脚本で見ていて吐き気がした。アニメ向きの古典文学はかなりある−−シェークスピア『シンベリン』、ディケンズ『荒涼館』、ドストエフスキー『虐げられた人々』など−−ので、まず時間を掛けて脚本を検討するところから始めても良いのではないか。

STEINS;GATE

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作(Windows版)コンプリート済み(全CG回収)。
 劇場版も制作された人気作だが、おそらく、SFアニメファンと萌えアニメファンとでは、受け止め方が正反対になるだろう。SFアニメが好きな人には、第1話が最も面白いはず。突如として消える群衆、殺されたはずなのに平然と再登場する女性、ビルの屋上に忽然と現れた人工衛星のような機械−−さまざまなSF作品を連想させる要素が盛り込まれ、センス・オブ・ワンダーをくすぐる。しかし、次々と可愛い少女が登場する中盤では萌えアニメファンが食指を動かす流れとなり、第12話以降の怒濤の展開に対しては、支持層が完全に入れ替わりそうだ。
 この作品で描かれる「過去改変」はSFの定番とも言える設定で、ハインラインの愛すべき青春小説『夏への扉』や、本作といくつも共通点のある映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、ラファティの爆笑パロディ「われらかくシャルルマーニュを悩ませり」など、数多くの先行作品がある。もっとも、過去を変えることは必然的にタイムパラドクスをもたらす−−「過去の自分を殺す」といった露骨なケースでなくても、未来の情報を利用した過去改変はエントロピーの自発的な減少に相当し、物理法則に抵触する−−ので、この設定の作品に正統的ハードSFと言えるものは少ない。『STEINS;GATE』でも、冒頭の数話は擬似科学の体裁を取り繕っているが、後半になるにつれて非科学的な色合いが濃くなる。例えば、現在のいかなる物理学理論にも、アトラクタフィールドなる概念を許容する余地はない(これと良く似たアイデアが使われる萩尾望都の短編「酔夢」は、擬似科学的説明ではなく、「時空のトラウマ」という詩的な表現を用いたファンタジーとして成立している)。原作ゲームの惹句には「99パーセントの科学と1パーセントのファンタジー」とあるが、実際には「60パーセントの科学と40パーセントのファンタジー」といったところか。
 もちろん、非科学的な設定が悪いわけではない。科学的であるかどうかを問わず、SF的な設定が思弁(スペキュレーション)のきっかけとなるならば、優れた作品たり得る。ウェルズ『透明人間』の設定は飲み薬で透明になれるという素朴なものだが、それだけに、余計な回り道なしに社会との紐帯とはいかに脆いものかを考えさせられる。思弁を促すきっかけとしての設定は、単純で直截的なほど効果的だ。ところが、『STEINS;GATE』では、リーディングシュタイナーやアトラクタフィールドといった合理的解釈のできない設定が次々と付け加えられストーリー展開を左右するため、主人公・岡部の行動に関して思弁を巡らすことが困難となる。しかも、岡部以外の登場人物は、いずれもタイムリープによって意識の流れがいったん断ち切られるため、心理ドラマとしての一貫性もない。結局、岡部の立場に自分を置いて、「好きな女性を助けられない」というアニメ的状況に共感できる視聴者だけが、作品世界に入り込めることになる。しかし、それは、女性キャラを一方的な男性目線で眺めることを前提としており、私には馴染めない。
 もっとも、ほとんどのキャラが心理的コンティニュイティを持たない中で、ヒロインの紅莉栖だけは因果律を超えて一貫性を保持しているように見える。ちょうど小川洋子『博士の愛した数式』に登場する数学者が、長期記憶を定着させられない前向性健忘であるにもかかわらず、数学の普遍性を媒介として、アイデンティティを保ちながら前進できたのと同じように。そのせいか、他の女性キャラに何の共感も抱けなかったのに対して、紅莉栖だけはとても身近に感じられた。特に、第20話のラストから第22話までの展開は、岡部よりも紅莉栖の視点から見た方が、胸に突き刺さる内容である。
 原作は、Xbox用に開発されさまざまな機種に移植されたゲーム。トゥルーエンド以外に5つのエンディングがあるが、いずれも基本的なストーリーラインから分岐し特定の登場人物にスポットを当てて終わるもので、『Fate/stay night』や『CLANNAD』のように、話の展開そのものが異なる複数のシナリオが存在する訳ではない。アニメは、トゥルーエンドに至る基本ストーリーを忠実になぞりながらも、コインランドリーのシーンなど小さなエピソードを追加して話を膨らませており、個別エンディングがないことを除けば、むしろ原作よりも面白い(シリーズ構成は、人気作をいくつも手掛けた花田十輝)。ただし、キャラデザについて言えば、紅莉栖はゲーム版の方が断然きれいだ。
 …ところで、岡部が何度も口にする決め台詞「エル・プサイ・コングルゥ」とは、ディラック場ψに関するラグランジュ演算子(記号Lに添字ψがついたもので、エル・プサイと読む)が何かと一致すべし(congrue〜)ということではないだろうか?

絶対少年

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 田菜編(第1-12話)と横浜編(第13-26話)の2部構成。田菜編はよくあるタイプの日常ファンタジーで、素朴な味わいがあって楽しめるものの、特に傑出しているわけではない。しかし、横浜編は、人間に対する深い洞察が感じられる秀作である。
 伊藤和典(脚本)と望月智充(監督)のインタビュー記事(WEBアニメスタイル特別企画)によれば、まずアニメーターの佐藤眞人が作ったマテリアルフェアリーの造形物と「絶対少年」というコンセプトがあり、トイズワークスの加藤智が伊藤和典に「これで何かやりたいんだけれども、話を作ってくれないか」とオファーしたという。もっとも、佐藤のコンセプトは具体的なものではなく、「「大人」「社会」「制約」「体制」等々「文明」に対する拮抗文化のエナジーにもなりうる…(中略)…「絶対」的なスピリット」を「絶対少年」と呼んだだけである(佐藤眞人「絶対少年HP」)。この曖昧さがかえって自由な発想を可能にしたのだろう、伊藤は数年掛けて構想を広げていく。当初は、田菜編をWeb小説、横浜編をテレビアニメの形で発表し、第3部となる劇場版につなげたいと考えたようだが、結局、田菜編と横浜編がテレビアニメ化され、第3部は幻となった。一部の登場人物が共通するだけで、かなり雰囲気の異なる2つの話が並ぶ構成になったのは、こうした事情による。
 世の中にはファンタジーを子供向きのものと思っている人が少なくないが、必ずしも誤解とは言えない。人生体験を重ねたまともな大人は、何気ない仕草やちょっとした言葉から心理を読み取る能力を獲得しており、ひねった設定よりも細部の描写にこそ深いものを感じる。ところが、昨今の漫画・アニメ・ラノベのファンタジー作品では、独自の設定に沿って物語を展開することに作者が気を取られてしまい、細部の描写がおろそかになっている場合があまりに多い。そうした中で、『絶対少年』は、ファンタスティックな出来事が日常生活の細部に干渉する状況をきちんと描き出しており、大人も楽しめる貴重なファンタジー作品である(逆に、子供にはわかりにくくなったが)。
 一般的なファンタジーアニメを見ていて疑問に感じるのは、人智を超えた怪異現象に直面しながら、登場人物が往々にしてそれが何かをたちまち理解してしまうところである。『夏目友人帳』のニャンコ先生のような解説者から教わるならともかく、異世界に放り出されたのに自分は何をなすべきかあっさり察知する主人公を見ると、何とも鼻白む。だが、『絶対少年』には、その弊がほとんどない。作中で重要な役割を果たすマテリアルフェアリーは、人工物特有の硬質感を持ちながら現実にあり得ない浮遊性を示す不思議な存在で、子供や動物、一部の大人にははっきりと見えるものの、それが何であるか誰にもわからない。テレビの女性レポーターが訳知り顔で解説するシーンもあるが、終盤では、その解釈が誤りであることが強く示唆される。横浜編では、引きこもりの希紗がマテリアルフェアリーを見つけて共感を覚えるのだが、「妖精と友達になる」といったファンタジーにありがちな展開にはならず、彼女が状況を正しく把握しているかどうかもわからないまま、事態が進展していく。
 この作品の最大の魅力は、アニメキャラのステレオタイプに当てはまらないリアルな人物像にあると言って良い。希紗は、他人からどう思われているか意に介さない態度を示しながら、強さよりも脆さを感じさせる。工作が好きな理系少女で、自室に少女趣味の装飾はいっさいなく、手作りのオブジェがいくつも並んでいる。彼女を中心に、委員長タイプの“良い子”から脱却しようとする理絵子(りえぞー)、携帯ゲームばかりしているのに誰よりも客観的な状況把握ができる正樹(マッキー)、大人びた外見とは裏腹に壁に突き当たってもがいている成基ら、心の複雑さ・不可解さを体現する高校生たちが登場、不思議な出来事に巻き込まれるうちに、彼らが人生のワンステップを踏み出す過程が描かれる。
 『絶対少年』は、「善と悪の闘い」や「宇宙の危機を救う」といった大仰なテーマを掲げた子供だましのファンタジーではない。目に見えるものとは異なる世界が存在し、皮膜を介してわれわれと関わりを持つことを仄めかしながら、単純な解釈では割り切れない多くの謎を残したまま終わる。物事にけりを付けたがる人には不満の残る幕切れかもしれないが、私には、深い余韻が感じられて快い。

進撃の巨人

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作第10巻まで既読(アニメ化されたのは第8巻3/4まで)。
 作品世界にのめり込むあまり、テレビの前で身をよじったり奇声を上げたりしながら見ていた。舞台となるのは、人間を拒絶するかのような巨大な壁が街を取り囲む世界−−『DARKER THAN BLACK』や『灰羽連盟』にも描かれた黙示録的な光景である。物語の冒頭、そんな壁の向こうから、赤黒いグロテスクな巨人が頭をもたげる。
 放送開始直後から話題騒然となった2013年最大のヒット作。アニメについてよく知らない人は、人気漫画をアニメ化したからヒットしたと思うかもしれないが、そうではない(優れた原作が無惨な駄作アニメに化けてファンにそっぽを向かれたケースの、何と多いことか)。諫山創の原作は、迫力充分で読み応えがあるものの、絵はやや稚拙で話の運びもギクシャクする。この粗削りの原石を彫琢し宝石に変貌させたのは、原作に惚れ込んだスタッフの熱意なのである。
 原作ではしばしば時間が前後し、戦闘シーンの途中でいきなり過去に遡って因縁を語り始めたりするが、これは、緻密な計算に基づいた構成と言うよりも、行き当たりばったりに話を作っているように感じられる。シリーズ構成を担当した小林靖子は、アニメ化に際してストーリー展開を見直し、短い回想シーン以外はほぼ時間順に再構成して緊迫感を高めることに成功した。さらに、激しいバトルの合間に、動きは少ないものの示唆に富んだエピソードを挿入し、緩急をつけるとともに物語を深化させている。その場面の絵を見ると、アニメーターたちも脚本の意味を正しく理解したことがわかる。トロスト区攻防戦最中の回想で、カモの死骸を見た少女時代のミカサの顔に浮かんだ曖昧な表情(第6話)、あるいは、最後のバトルに突入する直前、エレンたちの詰問に対して相手が見せた突然の笑み(第23話)−−動作の抑制された緩やかなシーンであるにもかかわらず、視聴者はそこから登場人物の心理を読み取って胸が苦しくなるような緊張感を覚え、引き続き描かれるバトルで戦士たちが何を感じながら戦っているのかを察することができる。
 あらゆる点で完成度の高い作品だが、中でも、編集の見事さは特筆に値する。見ていて嫉妬するほどのうまさだ。ガス切れでミカサが街路に墜落したシーン(第7話)。「この世界は残酷だ。そして、とても美しい」というモノローグに続く2分ほどの間、迫りくる巨人に対するミカサの反撃が静止画の連続ショットを交えて描かれ、さらに、地面に落ちたイチジクや雲間から漏れる光の描写、感情の昂まりを表す抽象的なイメージショット、エレンが登場する回想シーンが細かく重ねられ、背後からもう一体の巨人が登場するシーンにつなげられる。こうした細かなショットの積み重ねは実写映画ではよく見られるが、撮り貯められた映像素材をふんだんに利用できる実写とは異なり、アニメーターに絵を描かせなければならないアニメで、これだけ複雑なシーンを作り出すのは、かなりの力業である。監督の荒木哲郎が指示したのかもしれないが、彼のフィルモグラフィー(『DEATH NOTE』『ギルティクラウン』など)からすると、それほどの剛腕演出家とは思えない。むしろ、個々のアニメーターが自発的に場面を構成していったのではないか。入れ込んだアニメーターが丹念に描いているからこそ、引き続き現れるシーンが、残虐であるにもかかわらず心に訴えるものになったのである。このシーンは2度登場し、最初はフラッシュカットを用いて激しい動きを、2度目は静止画によって荘厳さを強調した。「このとき、ひたすら困惑した。…そして、微かに高揚した」というミカサのモノローグが被さる2度目のシーンは、魂を揺さぶるような感動をもたらす。
 優れたものを作ろうとアニメーターたちが心血を注いでいることは、随所に見て取れる。例えば、コンスタブルの絵を思わせる雲と、そこから漏れ出る光の見事さ。私は、これほど雲が美しく描かれたアニメを他に知らない。終盤(第24話Bパート1'4")には、巨人が向きを変えて立ち去ろうとする際、雲間から漏れた日差しが上体に遮られて影を作るシーンがある。この影に気が付いた視聴者はそれほど多くないかもしれないが、影があることによって画面に奥行き感が生じてリアリティが増す。おそらく、現場でいろいろと意見を出し合って、作画の完成度を高めていったのだろう。2秒ほどのシーンを良くするために、アニメーターがどれだけ力を尽くしているかが感じられ、胸が熱くなる。
 脇役に至るまで描写が的確であることにも、注目してほしい。トロスト区奪還作戦に向かう精鋭部隊班長リコが壁上を走る姿は、訓練を受けた者らしく、背筋を伸ばして大股で手を大きく振っており、ほれぼれするほど美しい(第11話Bパート5'26")。トロスト区奪還作戦は前半最大の山場で、その激しさは第13話でピークに達する。この第13話では、制作現場が危機的状況に陥ったようで、動画が間に合わず、静止画に声を被せるだけにしたり別の場面の絵を使い回ししたりして、何とかしのいでいる(そのせいか、翌週は総集編が放送された)。だが、出来損ないではない。放送版では、巨人に襲われたジャンをアニが救う場面などで動画が欠落しているが、にもかかわらず、アニメーターの気迫が画面に乗り移ったのか、映像の迫力は圧倒的で動画を補ったDVD版に劣らない。特に私が好きなのは、当初はエレンを見捨てようとしたものの、思い直して最後まで戦い抜くイアン班長の勇姿である。彼が「死守せよ」と命じる姿の、何とカッコいいことか!
 OPとEDも素晴らしく、毎週、スキップすることなく必ず見た。特に、Linked Horizonが歌う「紅蓮の弓矢」に乗せた前半のOPは、じっとしていられないほど興奮する。
 多くの謎が残されたまま終了したので、第2期を期待する声も多い。原作がやや混迷気味なため、第2期が作られたとしても第1期に匹敵する出来になるかどうか微妙だが、既に完成された部分だけでも、アニメ史上に燦然と輝く偉大な傑作であることは間違いない。

MEMORIES

【評価:☆☆☆】
 それまで大幅に再編集された子供向けテレビアニメ(とわずかなアダルト・アニメ)しか知られていなかった日本アニメが、大人の鑑賞に耐える作品として海外でも認知されるのは、1990年代に入ってからである。当時の OTAKU は、 "Japanimation" なる造語を使って、ディズニーアニメなどとの差異を強調していた。1995年に開催された「東京国際ファンタスティック映画祭'95」では、この流れを受けて、「ジャパニメーション」特集が開催されている(この表現にはやや差別的なニュアンスが感じられるため、今では、日本アニメを表す言葉として、 "ANIME" という呼称が一般的になっている)。このとき上映されたのは、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』『マクロスプラス』及び『MEMORIES』の3本−−まさに、日本アニメが新たなステージに突入したことを実感させるラインアップである。これ以降、『もののけ姫』(97年)『新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』(97年)『PERFECT BLUE』(98年)『人狼 JIN-ROH』(00年)『BLOOD THE LAST VAMPIRE』(00年)『千と千尋の神隠し』(01年)『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(01年)と、劇場用アニメの名作が立て続けに制作され、アメリカでは「日本映画第2の黄金期」との評価も現れた。
 『MEMORIES』の製作総指揮に当たった大友克洋は、80年代に『童夢』(80-81年)『AKIRA』(82-93年)などの作品でカリスマ的な人気を得ていた漫画家で、88年には、自作の漫画をアニメ化した『AKIRA』で世界的にも高く評価された(『AKIRA』の受容に関しては、スーザン・ネイピア著『現代日本のアニメ』(中央公論新社)に印象的な記述がある)。ただし、私の見たところ、漫画家としては凄まじい才能を持つものの、アニメ作家としてはそれほどでもない。緻密な描き込みによって表現された終末的光景や内面の醜さまで暴き出す容赦のない人物描写など、それぞれ圧倒的な迫力を持つコマがページの中にギッシリと積み重ねられ、見る者に強く訴えかける−−これが大友漫画の真骨頂だが、アニメに移し替える際には、時間の流れの中でストーリーを展開していかなければならず、瞬間を切り取ったビジョンの持つ訴求力が一気に失われてしまう。アニメ『AKIRA』はまだ佳作と言えるものの、原作には遠く及ばない。おそらく、大友自身、アニメ作家としての自分の限界に気がついていたのだろう、『AKIRA』に続く長編アニメとして企画された『スチームボーイ』では、『PERFECT BLUE』で心理描写に冴えを見せた村井さだゆきに脚本を委ねるが、今度は脚本と映像の乖離が如何ともしがたくなり、悲惨な失敗に終わった(制作サイドの期待を集めた大作だったにもかかわらず、興業も評価もダメだったという点で、私は、この作品を『ゲド戦記』『ファイナルファンタジー』と並ぶアニメ3大失敗作の1つに数えている)。
 『MEMORIES』は、3本の短編から成るオムニバス作品で、大友が監督したのは第3話「大砲の街」のみ。これは、大友自身が脚本を書いたオリジナルアニメで、戦時下にある国家が巨大な固定砲台から砲弾を撃つというだけのきわめて単純な話が、全編1カットという実験的な手法で描かれる。見所は、巨大な大砲や街の無機的な造形と、対比的に描かれた卑小な人間の姿であり、ストーリーの叙述がない分、大友の漫画が持つ力をかなりの程度まで再現して見応えがある。大友は、こうした表現の仕方がアニメ作家としての自分の資質に適していると感じたのか、オムニバス・アニメ『SHORT PEACE』(13年)中の1編「火要鎮」でも良く似た趣向を採用して成功を収めた。
 第2話「最臭兵器」(脚本:大友克洋、監督:岡村天斎)は箸休め的なコメディで軽く笑いを取るだけだが、第1話「彼女の想いで」は、短編アニメとして最高水準の傑作。大友の漫画をベースに、後に『PERFECT BLUE』を監督する今敏が、設定を自由に膨らませた見事な脚本を執筆した。実験的な短編アニメの名手・森本晃司の演出も手堅いが、特筆すべきは菅野よう子の音楽(彼女が音楽を担当したアニメとしては、OVA版と映画版の『マクロスプラス』に続く3本目)。無人に近い宇宙ステーションにオペラアリアが朗々と響くシーンは、まさに圧巻である。

千年女優

【評価:☆☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 見ると幸せな気分になれる作品はいくつもあるが、これは、文字通り、見ると幸福になる映画である。少なくとも、映画ファンにとっては。レビューで何を書こうかと構想していたときには、元ネタの映画について解説しようとか、第5回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞した際の今監督のトークショーについて触れようとか、いろいろ思い巡らせていた。だが、いざ書き始めると、もうどうでも良くなった。ただただ、作品世界に没入して幸福になってほしい。
 『荘子』に「胡蝶の夢」という話がある。蝶の飛び回る夢から目覚めた男が、果たして自分が蝶の夢を見たのか、今の自分が蝶の見ている夢なのかわからなくなるというもので、本来は「無為自然」の思想を説明するための説話なのだが、現実と虚構が入り乱れる多くの幻想作品でアイデアの源泉となっている。現実の世界から虚構を見ていたはずなのに、いつの間にか虚構の方が現実味を帯び、現実と呼んでいたものが虚構から生み出された夢想のように見えてくる−−こうした「胡蝶の夢」構造を持つ作品は多いが、成功作と言えるものは少なく、下手をするとただの夢落ちで終わってしまう。『千年女優』は、往年の大女優が自分の実体験を語っているうちに、しだいに出演した映画のストーリーと混じり合って何が事実かわからなくなっていくという話でありながら、「ここまでは彼女の夢想で、事実はこうなのです」という夢落ちではぐらかすことはなく、まさに「胡蝶の夢」そのものと言える世界が現出する。
 映画ファンである私にとって、映画は現実である。スピルバーグの『ジュラシック・パーク』に登場するのは生きた本物の恐竜であり、USJにある作り物の恐竜など見たいとは思わない。映画は虚構であると同時に現実だという視点があるからこそ、「胡蝶の夢」のプロットが真実味を帯びてくる。ただし、映画が持つ現実/虚構の二重性を描くには、映画を客体化できるメディアを採用しなければならない。映画評論家の佐藤忠男は、本作に対して「実写版でも良かった」という意味のコメントをしたが、これは、自身が映画に惑溺している人間の錯覚であり、ふつうの人は、映画の中で映画を描いた作品を見ると、枠となる映画も作品内映画も同じような作り物にしか思えない。『千年女優』は、アニメという別のメディアで映画を描いたからこそ、現実と虚構が入り混じるという展開が、哲学的とも言える深い意味を持つに至ったのである。
 『千年女優』の中で鍵となるのが、戦国時代のエピソードで登場する老婆である。他の元ネタを解説する必要はないだろうが、このキャラが黒澤明『蜘蛛巣城』で描かれた糸巻きをする物の怪であることだけは、指摘しておかなければならない。『蜘蛛巣城』はシェークスピア『マクベス』の翻案作品で、老婆は、マクベスを「未来の国王」と呼んで王殺しを唆した魔女に相当する。魔女の言葉が事実を言い当てた予言だったのか、マクベスが虚言にたぶらかされて王を殺してしまったのか、本当の所は最後までわからない。同じように、この老婆が口にする台詞は、世界の真実を見通した上での予言かもしれないし、われわれ観客をたぶらかす虚言かもしれない。
 大作のように見えるが実際にはびっくりするほどの低予算アニメで、所々に作画の乱れがあるものの、コストパフォーマンスは驚異的な高さである。アニメの出来だけで評価すると星5つは甘いかもしれないが、映画ファンをこれだけ幸せにしてくれる作品は稀なので…。

みなみけ

【評価:☆☆☆】
 第1-4期全話視聴済み、原作未読。
 日常系アニメの要諦は、日常的でありながら僅かに非現実の側にずれた状況が醸し出すおかしさにある。私の知る日常系アニメ(ハーレム系を除くコメディ限定)を、このずれの小さい順に並べると、「Aチャンネル−あいうら−のんのんびより−ひだまりスケッチ−ゆゆ式−きんいろモザイク−たまゆら−苺ましまろ−けいおん!−らき☆すた−ゆるゆり−ヒャッコ−あずまんが大王−男子高校生の日常−日常」とでもなろうか(最後の2つは、「日常」と冠しているものの、もはや日常系アニメではないが)。非現実性の度合いから言えば、『みなみけ』は、『けいおん!』と『らき☆すた』の間に位置すると思われる。この辺りが、ヒット作を生み出す匙加減なのだろう。
 『みなみけ』の非現実性は、例えば、大人がほとんど存在しない環境に見いだせる。物語の主人公は春香・夏奈・千秋の3姉妹だが、高校生・中学生・小学生の3人だけでマンションの一室に居住、長女の春香が家事万端をそつなくこなしており、両親は影も形もない。(第2期を別にすれば)そもそも大人が登場する場面自体が少なく、重要な役を演じる大人は、従兄弟なのに3姉妹から「おじさん」と呼ばれるイジられ役のタケルくらい。タケルが安い居酒屋で食事を奢ろうとしたところ、健啖家の子供たちが遠慮なく食べまくって、結果的に多額の出費を余儀なくされるエピソード(第4期第10話)は、日常系ギャグの極致だろう。『先生と二宮くん』というドロドロのメロドラマが人気のようで、常にバッドエンドを迎える奇怪なゲーム(第1期第4話に登場)まで発売されている。このように、現実から僅かにずれてどこか書割みたいに見えるのが、『みなみけ』の日常世界である。
 3姉妹は、いずれも「現実にはいないよ…いや、いるかも」と思わせるキャラ。長女の春香は、清楚なしっかり者に見えながらも結構ずぼら。来客が小学生の女の子だと、気を抜いてその前で着替えを始めてしまい、とんでもない結果を引き起こす(実は、夏奈の奸計で女装させられていた男の子だったりして)。妹たちが不在の折、他にすることもないので菓子作りを始め、暇に飽かして苺でデコレーションしたホールケーキを完成させたものの、昼時になって空腹なので、つい…−−というエピソードには、なぜかひどく共感してしまった(第1期第9話)。
 次女の夏奈は、エネルギッシュな自己チュータイプ。しかし、クラスメイトの中学生は(彼女に惚れている約1名を除いて)全員があしらい方を心得ており、悪巧みに巻き込まれるのは、小学生の中でも頭抜けてトロい内田か下心のあるマコトだけ。夏奈が珍しくホスピタリティを発揮して失敗するトウガラシ風呂のエピソード(第3期第11話)が可笑しい。
 無駄に該博な知識を持つ三女の千秋は、頭が良いのにとんでもなくドジなところもある。野菜嫌いの彼女が、テレビの催眠術にかかって猛烈な勢いで生野菜を食べ始めるエピソード(第4期第8話)は、妄想力の強すぎる高校生・保坂の不気味さと相まって、面白怖い。
 『みなみけ』を鑑賞する際に心得ておいて欲しいのが、4つのシーズン(いずれも全13話)で監督・シリーズ構成が異なっており、それに伴って作風がかなり変化するところ。第1期『みなみけ』(監督:太田雅彦)では、最初の数話こそ煮え切らない内容だったものの、途中からグングン面白くなり、日常系ギャグアニメとしてはかなりの高水準に達した。しかし、第2期『みなみけ〜おかわり〜』(監督:細田直人)になると、ストーリー展開に大人が関与し始め、非現実性が適度に混じることによる可笑しさが失われてしまう。3姉妹の性格も、夏奈がやたら攻撃的になるなど本質的な点で変更が加えられ、作品本来の魅力が大幅に減殺された。第3期『みなみけ おかえり』(監督:及川啓)は、(制作会社は第2期と同じなのに)第1期に回帰しようとする傾向が見られ、そこそこに楽しめる。ただし、第1期よりも現実的なエピソードが多く、人によって好みが分かれるだろう。私が最も好きなのは、第4期『みなみけ ただいま』(監督:川口敬一郎)で、非現実性を帯びた日常の描写が鮮やかだ(3つ星評価は全体の平均で、第4期だけなら星4つ)。

侵略!イカ娘

【評価:☆☆☆】
 第1-2期全話視聴済み(以下のレビューは第1期に対して)、原作未読。
 海洋汚染の元凶である人類を懲らしめるため、海からやってきたイカ娘。しかし、海岸に最も近い海の家の侵略にも失敗、そこでバイトとしてこき使われるうちに、周囲の人々と交流を深めていく。良く似た設定の『ケロロ軍曹』には(ひとえに私がカエル嫌いのせいで)馴染めなかったのに対して、こちらは、イカ娘があまりに可愛くて、つい褒めすぎてしまう。
 原作は少年チャンピオンに連載された漫画で、内容からして小学校高学年の男子がメインターゲットだと思われるが、監督・水島努(第2期では総監督)、シリーズ構成・横手美智子という実力のあるスタッフが参加したためだろう、アニメは大人が見ても楽しめる出来となった。生活空間に異世界からの来訪者を投げ込むことにより、日常を見つめ直す新たな視点を設定するという方法論は、ファンタジーの常道と言って良いものだが、イカ娘の素朴さ故に『ケロロ軍曹』などに見られた批評性は薄められ、代わって、小学生時代の自分を思い出させるノスタルジックな情緒が濃厚になった。「ああ、現実はこんなにも驚異に満ちているんだ」という感覚である。海洋汚染という当初の問題提起は途中からどこかに行ってしまい、身の回りで起きる一つ一つの平凡な出来事が、イカ娘の目を通すことで新鮮な驚きを伴って立ち現れる。
 私が最も好きなエピソードは「ささなイカ?」(第8話Cパート)。生まれて初めて傘を手にしたイカ娘は、嬉しさのあまり名前を付け、回したり突き出したりしながら夢を膨らませていく。それだけなのに、何かとても心に沁みる話である。大笑いできる「てるてる坊主じゃなイカ?」(第10話Aパート)や不気味な「人形じゃなイカ?」(第11話Aパート)も楽しいが、もう1つ上げるならば、「飼わなイカ?」(第5話Cパート)だろう。こんなミニイカ娘が傍にいてくれたらと、どうにも切なくなる(以上のエピソードは、全て横手美智子の脚本)。
 イカ娘が口にする「ゲソ言葉」も面白い。大辞林によると、「〜でございます」を簡略化した「〜でげす」ならば、「江戸末期から明治初期へかけての男性語。芸人・職人や通人ぶった者などの用語」として使われたそうだが、イカ足のゲソ(下足の省略形)と掛けた「〜でゲソ」という言い回しは『イカ娘』のオリジナル。やや品のない言葉を可愛い女の子が使うちぐはぐさが、妙に心を揺さぶる。
 残念ながら、第2期になると作品の質が大幅に低下する(監督が交代したせい?)。イカ娘以外のキャラが魅力に欠けるため、テコ入れも難しそうだ。

劇場版“文学少女”

【評価:☆☆☆】
 野村美月の人気ライトノベル『“文学少女”シリーズ』の1編『“文学少女”と慟哭の巡礼者』を原作とする『劇場版“文学少女”』は、『銀河鉄道の夜』など宮澤賢治の諸作を引用し、文学の香りを漂わせた稀少なアニメである。「慟哭の巡礼者」とは、「みんなが幸福になれるユートピアに辿り着けると信じて」巡礼のような歩みを止めなかった宮澤賢治を指しており、全編が賢治作品のオマージュに溢れている。ただし、残念なことに、アニメとしての完成度は必ずしも高くない。
 ライトノベルは、基本的に中高生をターゲットとする娯楽文学であり、中高生にはわかりにくい緻密な心理描写や観念的な議論、濃厚なドラマを避け、SF・ファンタジー風の突飛な設定や特異な性格を持つキャラクターによって読者の興味を引くことが多い。『“文学少女”シリーズ』は、途中に誰のものか判然としない内的独白や手記を挿入、それが何かをラストで明かすというミステリ仕立ての構成によって、それまで描かれてきた外見からは懸け離れた心の闇を暴き出すという手法を採用しており、他のライトノベルより登場人物の心理に奥行きが感じられるが、それでも、終盤に至るまでのストーリー展開が型通りでドラマに深みがないというライトノベルの通弊は免れていない。こうした小説をアニメ化する際には、ミステリ仕立ての構成をどのように映像に移し替えるか熟慮する必要がある。にもかかわらず、この『劇場版“文学少女”』では、肝心な内的独白/手記の部分をほとんど省略し、原作のストーリーをなぞるに留まっている。この結果、話に膨らみが感じられず、全てのキャラがひどく薄っぺらに見えてしまう。ライトノベルが原作のアニメには『涼宮ハルヒの憂鬱』『バカとテストと召喚獣』『俺の妹がこんなに可愛いわけがない 』などの優れた作品があるが、これらは(テレビシリーズの時間的余裕を利用して)アニメーターや脚本家が原作を膨らませており、ストーリーをなぞっただけのものではない。
 宮澤賢治の引用が充分に生かされていない点も残念だ。原作は、賢治のあまり有名でない短編童話を巧みに織り込み、「ああ、かあいそうに」というフレーズをたびたび繰り返すことで雰囲気を盛り上げる。また、主人公のもとに鳥に似た化け物の絵が送られてくる場面では、原稿の余白にこの落書きが描かれた賢治の詩『敗れし少年の歌へる』だけでなく、その原型となる詩『暁穹への嫉妬』の「滅びる鳥の種族のように/星はもいちどひるがえる」を引用し、鳥の絵が持つ意味をはっきりさせる。だが、アニメにはそうした配慮がない。「カムパネルラの望み」とは何だったかと何度も問いかけながら、終盤のプラネタリウムのシーンでは、問いへの解答を感傷的な語りで有耶無耶にしてしまい、銀河鉄道の車内でジョバンニが最後に言葉を発する哀切きわまる場面−−「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。−−と共鳴することもない。ただし、(『銀河鉄道』第3稿までには登場しながら最終第4稿で削除された)ブルカニロ博士に絡めた原作のダメ押し部分は、余計な付け足しに思われるため、アニメで省略したのは妥当だろう(私が子供の頃に読んだ『銀河鉄道』は第3稿の混ざったバージョンで、ラストで突然現れるブルカニロ博士の存在にひどく違和感を覚えたものだが、おそらく野村美月も同じ感想を抱き、その奇妙さを作品に応用してみたと推測される)。
 原作と共通する問題としては、“文学少女”を自称するヒロイン・天野遠子が、どうしても文学少女には見えない点が上げられる。引用符が使われていることから、原作者は文学少女のパロディを意図したのかとも考えたが、どうもそうではなさそうだ。心理学の分野では、音楽が色づいて聞こえるといった「共感覚」の存在が知られているが、遠子は、文学作品の内容が味覚をもたらす異常な共感覚の持ち主で、好きな作品は紙ごと食べてしまうという変態文学少女である。私がイメージする純正文学少女は、小説では、北村薫の『円紫シリーズ』(特に「織部の霊」)に登場する語り手、アニメならば、『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門、『Gunslinger Girl』のクラエス、『神のみぞ知るセカイ』の栞のような女性である。作品だけではなく書物そのものを愛し、生活全般が文学の色に染まっていて、遠子とは似ても似つかない。
 なお、『“文学少女”シリーズ』のアニメには、劇場版の主要キャラ3人にスポットを当てたOVA全3巻があり、そのうち第2巻には、劇場版の展開を理解する上で重要なポイントが描かれているので、原作を読んでいない人は、せめてこれを視聴してほしい(ただし、アニメとしての質は低い)。

イヴの時間

【評価:☆☆☆☆】
 新海誠の『ほしのこえ』(02年)は、才能と時間と少しのカネさえあれが、誰でもハイクォリティのアニメが作れることを示した。『イヴの時間』は、『ペイル・コクーン』(05年)で新海に続く個人アニメ作家として名を馳せた吉浦康裕が、少数精鋭のチームを組んで制作した作品。まず、08年から短編6話(第1〜5話約15分、第6話25分)がネットで順次配信された後、10年に長編として再編集された劇場版が公開された。
 冒頭、「未来、たぶん日本。"ロボット"が実用化されて久しく、"人間型ロボット"(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。」という字幕が出る。歴史的な経緯は描かれないが、10年ほど前に何らかの技術革新があったらしい。それ以前のロボットが、人間が何を考えているか推論できるような高度の人工知能を備えながら、見るからにロボット然とした外見をしていたのに対して、新型のアンドロイドは、人間と見分けがつかない相貌と身のこなしをしている。ロボットと人間を区別しにくくなった状況に危機感を抱いた政治家がロボット法を制定、アンドロイドは人間でない徴となるリングの表示を義務づけられた。便利さ優先でアンドロイドを使用人代わりに使役する人々がいる一方で、ロボットお断りの店や反ロボット団体が現れるなど、人間側のロボット観も揺れている。そんな中、主人公のリクオは、家政婦ロボットのサミィが、外出の際、たびたびどこかに寄っていることに気がつき、後をつける。サミィが通っていたのは、「イヴの時間」という名の喫茶店で、入り口には「当店では、人間とロボットの区別をしません」と掲げられていた…。
 『イヴの時間』は、「もし、人間と良く似た別物が現れたら」という古くから繰り返し取り上げられてきた文学的設定を用いた思弁的な作品(スペキュレイティブ・フィクション)である。したがって、技術革新があまりに急すぎるなどの非現実的な点は、批判するに当たらないだろう(「不気味の谷」をどうやって乗り越えたかと考え始めると、きりがない)。むしろ、ここで提示される問題が近年になってリアリティを増してきたことに、注目すべきである。
 例えば、人間よりも見事にピアノを弾きこなすロボットの存在。現時点では、まだ演奏ロボットの性能は低く、人間のようなしなやかな運指は不可能である。また、音楽に表情を付けるプログラムも未熟で、楽譜をコンピュータに読み込ませてシンセで演奏させると、モーツァルトやショパンの曲でもびっくりするほどつまらなくなる。しかし、人間並にしなやかな人工指と、音楽に豊かな表情を付けるアルゴリズムが開発されれば、将来的には、ポリーニやアルゲリチに匹敵するロボット・ピアニストが登場することもあり得るだろう。『イヴの時間』では、こうしたロボットが現れたとき人間はどうすれば良いのかについて、リクオが一つの解答を示している。
 手塚治虫『鉄腕アトム』以来、多くの漫画やアニメで取り上げられてきたロボットの人権という問題も、『イヴの時間』の重要なテーマとなっている。もちろん、ここで「ロボットはプログラムに従って行動するだけなので人権はない」という常識を持ち出すと、話が進まなくなる。作中でのロボットはあくまでアレゴリーであり、内容を解釈する際には「人と良く似ていて人ならざるもの」と読み替えなければならない。考えてみれば、全人類に普遍的に適用される人権概念が普及したのは比較的最近のことで、ほんの半世紀前、アメリカ南部で「黒人入るべからず」と掲げられた店は珍しくなかった。幸いホモ・サピエンスは全地球規模で交雑が進んでいるため、生物学的な意味での人種は存在しない(黒人も白人も同一人種に属する)が、仮にネアンデルタール人が現存していたならば、彼らの権利はどこまで認めるべきなのだろうか? こうした人権概念の曖昧さを検討する上で、スペキュレイティブ・フィクションは有用な思考実験の場を提供してくれる。
 このように大きなテーマを内包しているものの、『イヴの時間』は常に穏やかな雰囲気に満ち、時にユーモラス、時に哀切である。特に、ネット配信版の第1話に相当する序盤のエピソードは、なかなか感動的だ(技術的な観点からケチを付ける人がいるかもしれないが、上述の読み替えをしてほしい)。特定の主張を声高に訴えると却って空々しく感じられるのに対して、本作のように、静謐さの中にいろいろな問題が見え隠れする作品の方が、心に強く訴えかけてくる。

時をかける少女

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 『デジモンアドベンチャー』で一部アニメファンから注目されていた細田守が、現代日本における最重要アニメ作家の1人として評価されるきっかけとなった長編アニメ第2作(第1作は、前年公開の『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』)。時を同じくして公開された『ゲド戦記』と『ブレイブストーリー』という2本の大作が著しく不評だったのに対して、本作は、NHKが特集を組むほどアニメファンから熱く支持された。国内外で多くの賞を獲得したほか、伝統と最先端技術の融合が生み出す新しい「日本らしさ」の実例として、ASIMOやウォシュレットなどとともに「新日本様式100選」にも選ばれている。私は、本作が第10回文化庁メディア芸術祭でアニメーション部門大賞に選ばれた際、例年のように受賞イベントの開場30分ほど前に足を運んだものの、既に長蛇の列で、結局、あと数人のところで満員札止めとなって細田のトークショーを聞き逃した。このときの悔しさが、作品評価に若干影を落としているかもしれない。
 アニメに関する書物は数多く出版されているが、制作サイドの体験談以外で読む価値のあるものは少ない。評論家・精神科医・社会学者・哲学者の執筆した研究書もどきは、自分の思想を語るための素材としてアニメを利用しているだけで、ほとんどが鼻で嗤えるレベルだ(セカイ系アニメについての笠井潔の評論は少し面白かったが)。そうした中で、アニメファンに推薦できる稀少な学術的著作が、MIT教授イアン・コンドリーの論文「細田守、絵コンテ、アニメの魂」(『日本映画は生きている 第6巻 アニメは越境する』(岩波書店)所収)だろう(単行本『アニメの魂』(NTT出版)も面白い)。この中で、コンドリーは、「物事を共同で解決することの価値」を重視し、「注意深くスタッフの質問や提案に聞き入」る細田の姿を描き出す。『時をかける少女』のアートディレクションに関する5時間に及ぶミーティングでは、ヒロインの部屋をどうデザインするかが中心課題となり、美術監督の山本二三とともに、「少女たちはどんなものを買うのか」について雑誌・テレビ番組やスタッフの体験から探し出したり、何を置くとリアリティが感じられるかを白紙から考えたりしながら、「生きた魂を映像に吹き込むこと」を目指していたという。こうした作業を経ているからこそ、細田のアニメは、人間に関する深い洞察に満ち、心の奥から沸き上がる感動を与えてくれるのである。
 アニメ『時をかける少女』は、高校生の男子2人と女子1人が野球遊びをしているシーンから始まる。女子は肘から上だけを使ったいわゆる“女の子投げ”しかできないが、2人の男子は、一方が彼女の緩い球をバットで巧みに打ち上げると他方が捕球し、実に楽しそうだ。その瞬間、大人は、これがあり得ない光景だと気がつく。普通の男子高校生は、下心でもなければ、こんなふうに女子と遊ぶことはしない。性的な匂いを全く感じさせず、まるで小学生のように戯れる3人は、奇跡のようなバランスを保った関係性の中に生きている。それ故、この穏やかな時間が永遠に続くかのように彼らが振舞っていても、須臾の夢と終わることは人生の必然である。では、夢の終わりは彼らに何をもたらすのか?
 ここで象徴的なのが、ヒロインの女子高生・真琴が獲得するタイムリープ能力である。これをどのように解釈するかは鑑賞者の自由であり、描かれたままのSF的設定として楽しんでもかまわないが、私には、この能力が、大人になる際に失われるものを表すように感じられてならない。自分がタイムリープできると気付いた真琴は、「何があっても大丈夫…何回だってリセットできるもんね!」と豪語し、3人の関係性が壊れそうになるとタイムリープで修復する。だが、リセットは、本来、子供だけの特権である。小さな子供ならば、たとえ失敗しても周囲の大人がサポートし、ほとんどの場合、それまでと同じ生活に戻れる。大人は、そうはいかない。人生の中でたびたび何らかの選択をすべき局面に立たされ、しばしば取り返しのつかない結果を招いて後悔する。とは言え、やり直せれば良いというものではない。やり直しのきかない選択をすることが大人としての義務であり、後悔を繰り返す自分という人間をそのまま引き受けてこそ、大人の使命を果たすことになるのだ。映画の終盤では、真琴もそのことを思い知らされる。それはつらいだけではない。大人になるとは、たった一度きりの人生が持つ意義を見いだすことでもあるのだから。
 『時をかける少女』は筒井康隆の同名短編をベースとしており、大林宣彦による実写映画(83年)をはじめ、映画やドラマで繰り返し取り上げられてきた。細田のアニメもきわめて優れた作品だが、私は世代的に大林版の胸が締め付けられる切なさが忘れられない。トークショーを聞き逃した悔しさと併せて、星4つにした理由である。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 最近よく見かける長いタイトルのラブコメかと思いきや、ラブもコメ(ディ)も気配が漂うだけのシリアスな学園もの。主人公は、小学生の頃から集団生活に馴染めず、今では自主的に気配を消して孤独を決め込む高校生・比企谷。物語は、彼の孤立を気に掛ける教師がやはり“ぼっち”である雪ノ下と引き合わせ、2人に悩み事相談を受ける「奉仕部」の仕事を押しつける所から始まる。教師としては、他の生徒と関わるきっかけを与えたかったのだろう、手始めに、クッキー作りに悩む由比ヶ浜を奉仕部に送り込む。周囲に同調しようとするあまり自分を見失っていた由比ヶ浜は、敢えて孤独の道を歩む比企谷と雪ノ下に惹かれ、そのまま奉仕部に居座る。
 友達作りの下手な男女3人が他者との交流を主目的とした部活動を始めるというプロットは、『僕は友達が少ない』と似ている。『やはり俺の…』でも、初めのうちは、重度の厨二病患者、可愛すぎる男の娘、実は影のある明朗イケメンなどの変人たちが次々と悩みを持ち込み、奉仕部の3人と関わりを深めていく。この調子で話が進めば、『僕は友達が少ない』と同様の明るいラブコメ路線に突入したことだろう。しかし、そうはならない。第6話辺りから方向性が変化し、独特のシリアスな雰囲気が濃厚になる。こうした変化は、奉仕部に所属する3人が、当初設定されたキャラから成長していく過程に由来する。
 渡航の原作を読むと、作者自身の姿が投影されたと思われる比企谷以外は、性格設定が類型的で深みが感じられない。特に、雪ノ下は、美人で成績トップ、運動神経も抜群でありながら、シニカルで物言いが辛辣という「いかにも」なキャラでしかない。作中、雪ノ下自身が壮絶なイジメに遭った体験を語るが、どこか作り話めいている。おそらく、作者の渡航は、雪ノ下タイプの人間と実際に接した経験がないのだろう。現実の世界で彼女のように美貌と知性に恵まれた者が被るのは、悪意によるイジメではなく疎外なのだから。普通に話をしても、上から目線だと反発される。話の輪に加われず、クラス行事などの情報が同級生から伝わってこない。仕方なく職員室で情報収集したりすると、今度は教師とつるんでいると嫌われる。こうした負のスパイラルこそ雪ノ下タイプの優等生が辿りがちな運命なのだが、原作はそうしたリアルな記述に乏しく、雪ノ下は単に辛辣な完璧超人にしか見えない。同様に、由比ヶ浜の描き方もあまりに型通り。これでは、キャラの成長は期待すべくもない。ところが、アニメになると、雪ノ下や由比ヶ浜は、当初の設定こそ原作と同じであるものの、その描写は原作よりも遥かに生き生きとしている。
 例えば、第6話で、由比ヶ浜が、比企谷と雪ノ下のことでちょっとした誤解をする。互いに誤解したまま由比ヶ浜と雪ノ下が会話するシーンは、普通に演出すれば笑いを取れるところだが、アニメはコミカルなトーンを抑え、視線移動などの微妙な仕草で各人の内面を描き出すことに力を注ぐ。由比ヶ浜が気を配りすぎて自分の真情を抑圧する一方で、雪ノ下は頭が良いにもかかわらず相手の心を読めずに用件を述べるばかり。そして、比企谷は2人の誤解に気がつきながら、そのことをなかなか言い出そうとしない。この3人がなぜ周囲とうまくつき合えないかがわかる含蓄に富んだシーンである。こうした繊細な演出は、近作『アオハライド』でも巧みな心理描写を見せた吉村愛(本作が初監督)の手腕によるものと思われる。
 このように各人の心理がきちんと描かれているため、第7話以降で描かれる成長過程が不自然でなく、素直に受け容れられる。過程そのものは、必ずしも心躍るものではない。雪ノ下の場合は、独りでは背負いきれないほどの責任を引き受けながら決して弱音を吐かないだけに、見ていて胸が苦しくなる。彼女がどのようにして苦境を乗り越えるか、その過程で比企谷と由比ヶ浜がどんな役割を果たし、結果として3人がいかに成長するか−−真摯に描かれた内容に注目してほしい。
 私が特に好きなのは、第11話で由比ヶ浜がハニートーストを食べる場面。「そこ?」と突っ込まれそうだが、比企谷に「パン固え、中の方までハチミツ浸みてねー」と酷評されるハニトーを、あれほど美味しそうに食べることの意味を考えて頂きたい。味覚は心理に影響される。好きな人と並んで食事をすることの嬉しさが、そのまま味覚に表れたのである。由比ヶ浜がもはや真情を抑圧せず、人生の価値は自分が主体的に決めていくものだと悟った証である。
 『やはり俺の…』は、視聴者に心理の深読みが要求されるアニメである。比企谷のシニカルな独白など、表面的に見るだけもそれなりに面白いが、キャラの成長過程をきちんと読み取ることができれば、なまじの文学よりも人生の糧となる多くのものが得られるだろう。

NOIR

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 作家性という概念は、批評家にとっての陥穽である。独自の表現スタイルを貫くことで優れた作品を創り出す作家は、それだけで高い評価に値するようにも思われるが、スタイルにこだわりすぎて質の低下を招く場合もあり、強烈な作家性を持つというだけで賞揚することはできない。テレビアニメで言えば、新房昭之や湯浅政明など作家性と作品の質が連動している監督がいる一方で、浅香守生のように、 作家性が希薄であってもコンスタントに秀作を作り続ける監督もいる。では、『NOIR』(01年)の監督・真下耕一はどうかと言うと、ちょっと微妙な作家性の持ち主である。
 私は、これまでに真下が監督(総監督を含む)を務めたテレビアニメシリーズ25本のうち、10本を全話視聴している(さらに数本を部分的に視聴)。タツノコプロで活動していた頃はそれほどでもないが、97年にビィートレインを設立して制作したアクション系作品には、数分見ただけで真下作品とわかるほどの明確な個性が感じられ、見応えがある。ただし、見応えはあっても感動するほどではないと言うのが、正直な感想だ。
 最も真下らしいのが、『NOIR』に始まり『MADLAX』(04年)『エル・カザド』(07年)と続く所謂「美少女ガンアクション3部作」で、見事な銃さばきを見せるロングヘアとどこか神秘的なショートヘアの美少女コンビが登場する。この3部作には、次のような特徴がある(「美少女コンビ」という枠を外せば、これらの特徴は、『AVENGER』(03年)や『Phantom 〜Requiem for the Phantom〜』(09年)とも共通する)。
 (1)主要登場人物の出自が曖昧で、人間関係もはっきりしない。しばしば記憶喪失・記憶改変などの設定が用いられる。そのせいもあって、どの人物も感情表現が乏しいか、あっても形骸化している。
 (2)バトルシーンはきわめてスタイリッシュに描かれ、現実には不可能な動きも多い。特に印象的なのが、梶浦由記によるエキゾチックな音楽をバックとする華麗なガンアクション。『MADLAX』で「ヤンマーニヤンマーニ」という歌声(実際の歌詞は違うらしいが、どうしてもそう聞こえてしまう)とともにヒロインのマドラックスが陶酔した表情で銃を撃ちまくるシーンは、見ていてトリップしそうになるほど刺激的だ。
 (3)当初ははっきりした目的を持って行動しているように描写されるが、しだいに目的の中身が怪しくなる。途中から現れるキーマンが事情を説明するものの、思わせぶりな言い回しばかりで合理的な解釈ができない。謎が謎を呼ぶミステリアスな展開が続くうちに超常的・オカルト的な要素が現れ、多くの謎が解決されないまますっきりしない結末を迎える。
 梶浦由記の音楽を伴うスタイリッシュなバトルは、『.hack//SIGN』(02年)『ツバサ・クロニクル』(05年)でも見られ、真下印として広く認知されている。しかし、私には、真下の作家性の基盤となるのは、(3)の特徴のように思われる。比較的初期の『無責任艦長タイラー』(93年;ドラマとしては真下作品の中で最も面白い)や近作の『へうげもの』(11年)などの原作ものでは(1)と(2)はあまり明瞭でないものの、「すっきりしない結末」という点は共通している。「物語に合理的な決着を付けてはならない」というのが真下の信念だったようだ。(1)と(2)の特徴は、合理的でない物語を構想する過程で真下の趣味が混入し、付随的に生まれてきたのだろう。
 アニメにドラマ性を求める私のような立場からすると、煮え切らないまま終わる真下作品には、かなり不満が残る(伊藤和典がいじりにくい脚本を書いた『.hack//SIGN』だけは、すっきりとした結末を迎えるが)。これに対して、表現の面白さを重視する立場の視聴者は、中盤のスタイリッシュなアクションに魅せられて、真下ファンになるかもしれない。特に『NOIR』は、タイトル通り、美少女の殺し屋が送る非情な日々をフィルム・ノワール(虚無的な犯罪映画)のタッチで描き出しており、好ましく感じる人も多いだろう。

装甲騎兵ボトムズ

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 富野由悠季と並ぶリアルロボットもののパイオニア・高橋良輔が、独立戦争を背景に重厚な政治ドラマを描き出した『太陽の牙ダグラム』(81年)に続いて監督した作品で、ロボットアニメの1つの到達点を示す。
 人間が操縦する巨大ロボットの激しいアクションを描いた作品は、『鉄人28号』(漫画56年、アニメ63年)以来、最も人気のあるジャンルの一つだが、工学的な観点からすると、根本的な問題がある。2足歩行する巨大ロボットは、安定性が得られない上に脚部ジョイントの加重が大きく破損しやすいため、現実的ではないのである。アメリカでジャングルや岩場でのゲリラ戦に対応するために多足歩行型のロボット兵器が研究されたこともあったが、プレデターのような無人攻撃機の機能が向上したため、今では攻撃兵器としての歩行ロボットに対する関心は薄い(兵士が着用するパワードスーツや、地雷除去ないし兵站用の4〜6足ロボットなら一部実用化段階)。『マジンガーZ』(72年)のようなスーパーロボットものならば非現実的でも構わないが、『機動戦士ガンダム』(79年)や『機動警察パトレイバー』(88年)のように政治や軍事、実生活のリアルな側面を追求する作品に2本足で歩く巨大ロボットが登場すると、リアリティが壊れてしまう(『パトレイバー』TV版では、ロボットの外見について冒頭のナレーションで“言い訳”をしている)。この点に関してはいくつかの方向性が模索されており、巨大ロボットに似ているが人の手による工作物ではないもの、足を動かさず脚部に装着された車輪ないしキャタピラで走行するもの、アイキャッチ効果を重視して敢えてリアリティを無視したもの−−などが登場した。そうした中で、『ボトムズ』で描かれるロボット兵器では、2足歩行してもリアリティが失われないギリギリのラインが追求されている。身長は3〜4メートル、装甲は砲弾を防げないほど薄く、移動性を重視して小型軽量化を押し進めたためにパイロットの安全性が二の次にされたことが窺える。ビーム兵器などは使わず、銃撃とどつきあいで泥臭く闘うのみ。まさに、「鎧を着た騎兵」を意味するAT(アーマードトルーパー)という作中での呼び方がぴったりである。カラーリング以外に外見上の差がほとんどない量産型ATは、ヒーローの愛機として擬人化されることはなく、破損すれば何の思い入れもなく使い捨てにされる消耗品である。
 こうしたATの造形に示されるように、『ボトムズ』の世界は、他のロボットアニメとは比較にならないほどリアルである。1年の放映期間中に、舞台は市街地、ジャングル、宇宙空間、砂漠と移り変わるが、中でも、河を移動するシーンから始まるジャングルの戦闘シーンは、ベトナム戦争を連想させて迫力がある。高橋の他の作品と同様に、終盤でオカルト的な設定が導入されて少し鼻白むものの、そこに至るまでは、リアルロボットものとしての緊張の糸が弛まない。若いアニメファンは、いかにも80年代風の作画に違和感を覚えるかもしれないが、何話か見ているうちに気にならなくなるはずだ。また、何度もいたぶられながらその度に立ち直る主人公キリコの姿が女心をくすぐるのか、噎せ返るほどむさ苦しい戦争物でありながら女性ファンも少なくない(ただし、素体と呼ばれる謎の女性・フィアナにかなりイライラさせられるので、高い評価を付けられなかった)。闇商人のゴウトやお転婆娘のココナなどの脇役も、リアルに自己本位で人間味豊かである。全52話は少し長すぎるようにも感じるが、全てを見る価値は充分にある。
 高橋良輔は、『ボトムズ』に続いて『機甲界ガリアン』(84年;未見)と『蒼き流星SPTレイズナー』(85年)という2本のロボットアニメを発表した後、しばらくテレビから離れ、『ボトムズ』続編などのOVAを監督するが、私の見た限りでは、あまり優れた出来とは言えない。テレビアニメの監督に復帰して作った『ガサラキ』(98年)は、湾岸戦争を思わせる前半こそ異様なほどの迫力に満ちて面白かったものの、後半になると、リアリズムとオカルティズムを無理に共存させようとして失敗、ストーリーが破綻してしまう。高橋が完全復活するのは、ネット配信という形で発表された『FLAG』(06年)においてであり、オカルト的な要素を排除し、ロボットものでありながら難しい政治的な問題を正面から見据えた傑作となった(残念ながらDVDレンタルはない)。

残響のテロル

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 日本アニメには、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』『RIDEBACK』『BLACKLAGOON Roberta's Blood Trail』『輪るピングドラム』などテロリストの姿を正面から見据えた傑作が少なくないが、本作の登場で、リストに新たな1本が加わった。ハリウッド映画でテロリストと言えば、問答無用の悪役であるのが当たり前なのに対して、これらのアニメ作品は、テロリストへの共感を感じさせる点に特徴がある。誤解のないように断っておくが、テロ行為を容認している訳ではない。テロリストの内実に迫ることで、彼らがなぜテロ行為に走るのかを考えさせるのである。
 『残響のテロル』には、大胆な犯行予告とともに連続爆破テロを繰り返す若者2人組のテロリスト・スピンクスが登場する。彼らに女子高生・リサが合流することで、渡辺信一郎の監督作品にしばしば見られる男2人・女1人のトリオが形成されるが、前作『坂道のアポロン』のような甘美な物語にはなるべくもない。前半では、スピンクス事件を捜査する刑事・柴崎との頭脳戦が繰り広げられ、後半(第5話〜)に入ると、さらに謎の女・ハイブが加わって、三つ巴の争いとなる。人によっては、前半の頭脳戦に比べて後半は緊迫感に欠けると感じるかもしれない(実際、第8-9話は、展開を急ぎすぎていかにも物足りない)。しかし、あるメッセージを作品に込めるために、後半の展開は不可欠なのである。柴崎は警察官ではあるものの、庶民感覚を失わずに捜査に当たっており、権力よりも市民の側に位置する。彼の人間性が如実になるのが、応用物理学を勉強する娘のアパートを訪ねるシーンで、体のラインが露わな薄着姿の娘を見ないように顔を背けたまま会話する姿が、何とも可愛い。スピンクスが対決しなければならないのは、前面に立つ柴崎ら警察官ではなく、なかなか姿を見せない国家権力の黒幕なのだ。監視網を自在に使いこなすハイブは、NSA(スノーデン事件!)の遣り口を想起させる権力側の人間である(彼女がなぜその立場にいるのか、いろいろと事情がありそうだが、断片的な回想シーンから推測するしかない)。かくして、『残響のテロル』は、テロリスト−市民−国家権力の相克を描きながら、しだいに真の恐怖の所在を明らかにしていく。
 こうしたテーマは、決してわかりやすい形で提示されていない。そもそも、タイトル自体、簡単に解釈できない。「テロル」とは、テロを意味する Terror をドイツ語読みにしたもので、ドイツ思想に傾倒した左翼系の思想家が好んで用いる語である。年長者は、浅沼稲次郎刺殺犯を取り上げた沢木耕太郎『テロルの決算』や、破壊活動の背後にある観念を問題とした笠井潔『テロルの現象学』を連想するだろう。これを「残響」という硬質な響きのある語と重ねることで、人々に何かを考えさせようとする。考えることこそ、あらゆる理性的な行動の出発点なのだから。かつて、911同時多発テロやオウム真理教事件−−両事件の記憶が呼び覚まされるシーンは、『残響のテロル』の随所に見られる−−を目撃した人々は、テロの恐怖におののくあまり思考停止状態に陥り、法律を曲げ人権を抑圧しようとしなかったか? 私は、911の後、コーランに目を通した上でアルカイダが反イスラム的な暴力集団だと判断した(コーランに「聖戦」の理念はない)が、それでも、テロ制圧こそ正義だと言わんばかりに他国に戦争を仕掛けるアメリカ政府のやり方には嫌悪感を覚えた。この世で最も恐ろしいのは、自分は正しいと心の底から信じている人間だ。このことは、テロリストだけでなく、正義の裁きを求める人や憂国の士にも当てはまる。
 作家には、天の邪鬼が多い。人々が皆同じ方向を向こうとしているとき、敢えてそれに異議を唱えることが作家たる者の責務である。渡辺信一郎が毅然とした態度で『残響のテロル』を制作したのも、そんな思いがあったからではなかろうか。

【小論】テロより恐ろしいもの
【ネタバレあり】
 「核テロ」というきわめて難しい題材に果敢に挑戦した、野心的な作品である。
 日本アニメには、テロリストに焦点を当てた傑作が多い。本作をはじめ、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』『GUNSLINGER GIRL』『RIDEBACK』『FLAG』『BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail』『輪るピングドラム』『PSYCHO-PASSサイコパス』などがある。特徴的なのは、どの作品もテロリストを悪人として断罪するのではなく、「彼らはなぜテロに訴えるのか」「無差別テロを防ぐためなら何をやっても許されるのか」といった重い問いを投げかける点である。
 これは、かなり奇妙な現象と言える。『ダイ・ハード』シリーズに代表されるように、ハリウッド映画では、無差別テロリストはナチスと並ぶ絶対悪として容赦なく処断され、彼らを殺害する者が英雄視されることが多い(もちろん、そうでない作品もある)。日本でも、実写映画やテレビドラマならば、「テロリスト=悪」という図式の下に制作されるのが一般的である。ところが、アニメになると、なぜかテロリストに対する見方が一変する。
 その理由を解明するのは容易ではないが、一つの推測を述べるならば、90年代後半、テレビアニメが急激な変貌を遂げる時期に制作を任されたのが、子供の頃に学園紛争の終焉を目にした60年代生まれの世代だったからではないかと思われる。核テロがどのように表現されたかを中心に、この推測を跡づけてみよう。
 核兵器を利用して政府を脅迫し、いざとなればその使用をも辞さないという核テロが作品のテーマとして日本で本格的に取り上げられた最初の例は、長谷川和彦監督の実写映画『太陽を盗んだ男』(1979)だろう。1946年生まれの長谷川は、東大在学中に政治に関心のないノンポリ学生として学園紛争(1960〜70年代半ば)を間近で体験した全共闘世代である。おそらく、多大な犠牲を伴った紛争が結局は何も生み出さなかったという暗澹たる思いがベースにあるのだろう、『太陽を盗んだ男』は、原爆の製造に成功し政府を脅迫できる立場にありながら、実のある要求を思いつかない中学教師の空虚さを描き出す。
(以下、OVA『機動警察パトレイバー』、劇場版『機動警察パトレイバー 2 the Movie』のネタバレがあります)
 全共闘世代後期になると、武力闘争のむなしさがより強烈に意識される。押井守(1951年生まれ)が監督したOVA『機動警察パトレイバー』第5〜6話「二課の一番長い日(前後編)」(1989)では、核兵器を入手した組織がいかにクーデターを実行に移したかがリアルに描かれながら、クーデターが成功した暁に何をしたいのかという将来のビジョンは語られない。こうしたビジョンの欠如は、劇場版第2作『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993)で、「クーデターを偽装したテロ」という象徴的なテーマとして改めて強調される。
 長谷川や押井ら全共闘世代が提示した「目的の曖昧なテロ」という問題は、90年代後半から00年代にかけてテレビアニメの革新を主導した60年代生まれのアニメーターに多大な影響を与えたと考えられる。
(以下、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』『GUNSLINGER GIRL』『BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail』『輪るピングドラム』のネタバレがあります)
 神山健治(1966年生まれ)が監督・シリーズ構成を務めた『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』(2004)では、「難民が核テロを画策している」というフェイクニュースを流すことにより、強権的な立場を確保しようとする政権中枢の動きが取り上げられる。状況を演出するゴーダは、元官僚らしい緻密さで計画を立案しており、ニュースのリアリティを増すためには、核兵器の使用をもためらわない。
 この作品に代表されるように、00年代以降のテロリストアニメでは、テロ行為の持つ社会的機能に目が向けられ、社会がテロと対峙するあり方が考察される。
 浅香守生(1967年生まれ)が監督した『GUNSLINGER GIRL』(2003)は、テロリストを抹殺するために身寄りのない少女を殺人サイボーグに改造する寓話的ストーリーを通じて、テロ対策の許容限界を問題とした。反米的活動家を暗殺する任務を帯びた米軍秘密部隊を、恩人を殺された凄腕の元テロリストが血祭りに上げる『BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail』(2010)で、片渕須直(1960年生まれ)は「人殺しが許されるような正義はあるのか」と問いただす。オウム事件をベースにした『輪るピングドラム』(2011)で幾原邦彦(1964年生まれ)が取り上げたのは、無差別テロに対する憎悪が憎しみの連鎖を生み出し、新たなテロを引き起こす過程である。
 『残響のテロル』(2014)の原案・監督を担当した渡辺信一郎(1965年生まれ)は、これらの先行作品を参照しながら、核テロが社会に与える影響を改めて熟考したと思われる。目的の曖昧さに目を向けた長谷川・押井の作品に対する返答として、彼は、ほぼ同期の神山と同じく、テロへの恐怖が持つ影響力に目を向け、国家権力との関係性を物語の軸に据える。「テロこそが社会にとって最大の脅威であり、核物質はテロリストの手に渡らないように特定の国家が厳重に管理すべきだ」という国際的な常識にあえて異を唱え、「この世にはテロよりもずっと恐ろしいものがある」と訴える。

【物語の構図】
 『残響のテロル』は、テロリスト-市民-国家権力という3項対立の物語として、図式的に読み解くことができる。
(以下、本作のネタバレがあります)
 それぞれの対立項は、性格の異なる二人の人物によって代表される。ネットで予告しては爆弾テロを繰り返す二人組のテロリスト・スピンクスの正体は、怜悧なナインと子供っぽさの残るツエルブ。彼らを追跡するのが刑事の柴崎で、警視庁という国家組織に所属しながら、人々を守ることに徹する市民側の存在。逆に守られる立場の市民として登場するのが、学校にも家庭にも居場所のない女子高生のリサ。権力側には、NSAもかくやという監視網を駆使してナインとツエルブを追い詰めるエージェント・ハイブがいる。もう一人、国家権力の黒幕として間宮なる人物も登場するが、私が思うに、実は彼は手駒となる小者に過ぎず、真の黒幕は、それ自体が人格的存在となった国家理性ではないだろうか。
 ストーリーの前半は、テロリストと警察の頭脳合戦として娯楽色豊かに展開されるが、ハイブが強引な動きを見せる第7話辺りから、深刻な社会派ドラマの様相を呈する。人によっては、痛快さが失われるため後半はつまらないと感じるかもしれない。しかし、渡辺が最も言いたいことは、後半に集約されているので、この部分をしっかりと見つめてほしい。
 注目すべきは、柴崎とハイブの差違である。どちらもテロリストを捕まえる立場にありながら、柴崎の言動が常に豊かな人間性に溢れているのに対して、ハイブは、高い知性を持ちながら、いかにも酷薄で感情を見せない。市民と国家どちらの側にいるかが、象徴的に示される。
 ちなみに、柴崎が最も人間的な姿を見せるのは、大学で応用物理学を勉強中の娘に、一般人にプルトニウム原爆が作れるかと訊ねに行く第8話Aパートのシーンである。体のラインがあらわな薄着姿の娘(一番上のボタンを留めていない)を前に、ずっと目を背けたまま会話し、後で奥さんに「子供ってのは、いつのまにか大人になるもんだな」としみじみ述懐する。お父さん、カワイイ!
 最初に視聴したときには、警察を手玉にとるナインとツエルブに惹かれたものの、二人の心情が充分に表出されておらず、やや物足りなさを感じた。しかし、二度三度と繰り返し見るうちに、二人の外面ばかりが描かれるのは、その行動を柴崎とリサに見せるために設定されたキャラだからだとわかってきた。ナインとツエルブ(あるいは、ハイブを加えた三人)は、対立的な構図を客観視させるための要員であり、それ故に内面が理解しがたい天才として描かれる。その一方で、柴崎とリサという感情移入しやすい普通人を、天才たちの行動を見る立場に配置することにより、事件の全体像が浮かび上がるようにしたのである。そう考えると、柴崎とリサこそ真の主人公であり、この二人の立場に身を置くことが、作品を深く理解する鍵だと言えよう。

【音楽について】
 『残響のテロル』の音楽は、これまで、『マクロスプラス』『カウボーイビバップ』『坂道のアポロン』などで渡辺監督と組み、優れた作品を生み出してきた菅野よう子が担当した。特にEDの「誰か、海を。」は、聞くたびに胸が締め付けられる名曲である。
 作中で重要な役割を果たすアイスランド音楽は、渡辺監督の方から事前に菅野に聴かせたものらしい(TVアニメ『残響のテロル』公式サイト「INTERVIEW 04:菅野よう子」より)。北の音楽を聴いて育ったことを手がかりに、主人公たちの「体感温度を表す音」として、「緊張感があり、研がれていて、冷たい響き」をイメージしたという。

プラネテス

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 リアリティの度合いによってSFアニメを分類するならば、リアルSFの極に来るのがこの作品だろう。衛星軌道上を漂うスペースデブリ(宇宙ゴミ)問題が深刻化した近未来を舞台に、デブリ回収業に携わる若者の夢と現実を描き出す。登場する宇宙船や宇宙服は、細部まできちんと考え抜かれており、例えば、フィッシュボーンと呼ばれる一人乗りデブリ回収艇は、骨組みだけの船体にアームが取り付けられた無愛想な格好だが、それがかえってリアリティを感じさせる。小さなデブリが宇宙船に衝突する事象はすでに発生、対策の必要性が叫ばれている状況を見ると、現実がアニメを後追いしているという不思議な感覚にとらわれる。
 原作は幸村誠の漫画。この原作自体、02年度の星雲賞コミック部門を受賞した名作だが、単行本全4巻と2クールアニメにするには短かいこともあって、アニメ化に当たって内容が大幅に改変された。この辺りの裏事情は、「プラネテス・オフィシャルサイト」に掲載されているインタビューに詳しい。それによると、監督の谷口悟朗は、サンライズ側から『プラネテス』のアニメ化について相談されたとき、「この世界観はTVアニメの現場に対してハードルが高すぎる」などの理由でアニメ化は無理だと解答したが、制作サイドが腹を据えているのを見て思い直した。テレビは間口が広くSFに馴染みのない視聴者も多いので、敢えて“会社員もの”という切り口を採用、「宇宙空間というマクロな視点に対して、バカらしいほど日常の視点を重ね合わせる事によって、人間の小ささや、苦悩、あがき、未来や宇宙への夢、といったものを良い意味で肯定していける作品」を目指したという。
 一方、脚本家の大河内一楼は、『無限のリヴァイアス』を監督した谷口の新作と聞いた時点で即座に執筆を引き受けたものの、「まず一話を読んでみて。……困りました(笑)。おもしろいんです。それも、かなり完璧に。足したり引いたりする必要が全然ないんですよね」と語る。しかし、最終的には、谷口に唆されたこともあって、連作短編ものとしては珍しく、全エピソードの脚本を1人で書き上げる。かなりの曲者である谷口と大河内が独自の見解に基づいてアニメを作り上げたため、原作を離れて、この2人の個性が強く現れた作品となった。
 原作と異なる方向性は、第1話からいきなり露わになる。原作もののアニメの場合、せめて第1話は原作に沿って始めるのが常だが、『プラネテス』は、そんなに安直ではない。原作では第2巻で初めて登場するタナベが冒頭から新入社員として現れ、彼女の目を通して、デブリ回収を請け負うデブリ課の現状−−巨大コングロマリット・テクノーラ社内でお荷物扱いされる弱小セクションで、半端者が集まった「半課」と揶揄される−−が紹介される。いかにも新入社員らしいタナベのフレッシュな姿や企業内カーストの生々しい生態は、谷口が提案した“会社員もの”というコンセプトに基づくアニメ独自の内容で、SFなのに妙にリアルである。安月給という過酷な現実を前に夢が壊れ掛けているハチマキにタナベが少しずつ惹かれていく過程は、彼女の精神的な危うさを強調する原作よりも、アニメの方が受け容れやすいだろう。
 こうした“会社員もの”としての切り口は、当初、上司におべんちゃらを言わなければならない中間管理職のつらさを描いて軽い笑いを取るだけだったが、しだいに内容を深化させ、企業論理の非情さに目を向けるようになる。特に、第11話「バウンダリー・ライン」は感動的だ。長引く内紛のせいで貧困から脱出できずにいる中南米の小国からやってきた技術者が、所長を務める町工場で独自に開発した宇宙服の売り込みを行うというアニメのオリジナル・エピソードで、先進国の巨大企業が独占する分野に開発途上国の弱小企業が挑むことがいかに難しいかを共感をもってしみじみと描き出す。第8話「拠るべき場所」、第14話「ターニング・ポイント」も面白い。
 原作のエピソードをアニメ化したエピソードも、決して見劣りする訳ではない。第7話「地球外少女」は、原作(単行本第1巻:PHASE 2)のストーリーをかなり忠実に辿りながら、月生まれの少女を優しく見つめる。
 もっとも、こうしたリアルSFとしての性格は、木星往還計画が具体化する第17話辺りから少しずつ変質していく。木星往還計画自体は原作にもあるが、アニメではテロリストとの争いが大きく取り上げられ、やや空疎なアクションシーンが多くなる。こうした派手な展開は、谷口−大河内が再びコンビを組む『コードギアス 反逆のルルーシュ』(特に第2期)でも見られるもので、アクションゲームが好きな子供は喜ぶかもしれないが、前半の日常的な描写に好感を抱いていた大人の視聴者を戸惑わせるだろう。私が『プラネテス』に高い評価を付けられないのは、後半の後味の悪さが大きく影響している。
 谷口の演出も、あまり好きになれない。彼が監督したテレビアニメ(シリーズもの)は、初監督作品『リヴァイアス』以降の全5作品(ここまで紹介したもの以外には『スクライド』『ガン×ソード』がある)を全話視聴しているが、いずれも、私がちょうど良いと感じるレベルよりも演出がやや過剰で気に障る。例えば、『プラネテス』第13話で、ハチマキの弟が飛ばした模型ロケットが家の中に突っ込んで部屋をメチャメチャにする場面があるが、原作でギャグとして描かれているこのシーンを谷口はリアルな破壊の過程として描き出す。その後の兄弟喧嘩も、ガラス戸を突き破るような激しさで、ハラハラして楽しめない。谷口が際だった才能を持つアニメーターであることは間違いないが、描写を抑制することで視聴者の想像力に訴えるというテクニックを会得しなければ、突き抜けた傑作をものにはできないように感じられるのだが。

スペース☆ダンディ

【評価:☆☆☆☆】
 第1-2期全話視聴済み。
 これぞパロディの粋という快作である。パロディをおふざけと誤解してはならない。パロディだからこそ、真剣になる必要がある。おそらく、『サムライチャンプルー』のいくつかのエピソードで秀作パロディを作った実績のある渡辺信一郎(総監督)が企画を立案、アニメ・音楽双方にわたる人脈を生かして賛同者を集めたのだろう、驚くほど多彩な人材が集結し、「研ぎ澄まされた適当、磨き抜かれたいい加減」という企画テーマを見事に実践している。
 スタッフの真剣さが端的にわかるのが、第17、20、22話などでの音楽の使い方。例えば、第20話「ロックンロール★ダンディじゃんよ」は、ロックスターを夢見る帝国総帥が身分を隠して酒場に繰り出し、そこでダンディと意気投合してロックバンドを結成する話だが、1曲もできていないのにノベルティを何にするかで喧嘩するなど、ひたすらバカバカしいギャグが続くうちに、突然、90年代ロックを思わせるギターサウンドが鳴り響く。これがつまらない楽曲なら鼻で嗤って終わりだが、あまりにカッコいいので吹き出してしまう(作詞・作曲は、ギタリストの向井秀徳)。最後は××まで登場して…(爆)。
 実は、私も最初のうちは良さがわからず、コテコテの作画が鬱陶しく軽く流し見していたのだが、第4話「死んでも死にきれない時もあるじゃんよ」の途轍もない面白さにのけぞった。ロメロ作品でお馴染みのゾンビもののパロディで、「ゾンビはショッピングモールが好き」などのネタで笑わせてくれる。脚本を担当したうえのきみこについては寡聞にして知らなかったが、新文芸坐のオールナイト「ダンディでカウボーイなナイトじゃんよ!」(14年11月1日)のゲストとして登場、いかにもシャイな若い女性であることがわかった。彼女は、第20話のロック回や第14話のパラレルワールド回(科学好きには有名な「宇宙ひも」を扱った回だが、渡辺の「毛みたいなもの」という言葉を真に受けたうえのが、頭から生えた●ンモウにしてしまった)など全8話の脚本を担当している。
 パロディが突き抜けて本格的なドラマになった回もある。第5話「旅は道連れ宇宙は情けじゃんよ」は、ダメ男が生意気な少女を伴って旅をするというロードムービー風の内容で、映画では何度も繰り返され手垢の付いたプロットだが、大河内一楼が大真面目に脚本を書いたおかげで、パロディと言うよりは素直に感動できるオマージュとなった。アデリーという少女の名は、同じプロットの代表作であるボグダノヴィッチ『ペーパームーン』でテータム・オニールが演じて史上最年少のアカデミー賞助演女優賞に輝いたアディに因むものだろう。第18話「ビッグフィッシュはでっかいじゃんよ」は、押山清高が脚本・演出・原画などを一手に引き受けた回で、ヘミングウェイ『老人と海』を思わせる壮大な作品。第21話「悲しみのない世界じゃんよ」では、死をイメージさせる渡辺信一郎の脚本を、名倉靖博(押井守『天使のたまご』の作画監督と聞けば、アニメファンなら黙って最敬礼するだろう)が荘厳かつ重厚に具象化した。
 若い人には、パロディの元ネタがわかりにくいかもしれない。例えば、第23話「恋人たちはトレンディじゃんよ」(脚本:うえのきみこ)は、バブル期に一世を風靡したトレンディドラマやホイチョイプロの映画(『私をスキーに連れてって』など)をパロったものだが、元ネタを知らない人には、普通の恋愛ドラマに見えてしまうだろう。だが、それでもかまわない。パロディとは言え真剣に作ってあるので、そのままでも充分面白いのだから。新文芸坐オールナイトでは、ゲスト声優(名前を明かせない大人の事情があるので、本人の希望により「掃除機さん」とだけ言っておく)も、「テーブルに指で"Dandy"と書くところが泣けた」と発言していた(渡辺に「あそこは笑うところです」と突っ込まれていたが)。

【小論】最高に贅沢な“お遊び”
 最高に贅沢な“お遊び”。キャビアの茶漬けかフォアグラ炒飯のような味わいだ。
 渡辺信一郎は、神山健治らと並ぶ日本アニメ界屈指の逸材だが、これまで才能を発揮する場に恵まれたとは言い難い。『カウボーイビバップ』(1998)の不完全な放送、『サムライ・チャンプルー』(2004)の放送中断とその後8年に及ぶ活動休止など、さまざまな苦汁をなめさせられてきた。おそらく、自身のそうした体験を踏まえて、他のクリエーターに場を提供する目的で企画されたのが、この『スペース☆ダンディ』なのだろう。渡辺は「総監督」という曖昧な肩書きで加わっているが、企画全体のゼネラルマネージャー的な役割だったと推察される。
 昨今のテレビアニメ業界は、ビジネス主導という軛のせいで、型にはまった安全パイの企画が横行しており、クリエーターの創造性が生かされていない。マンガやラノベを原作に、人気キャラに“あんなことやこんなこと”をさせてファンに媚びを売る作品が目立つ。『スペース☆ダンディ』は、その風潮とは真逆の方向を目指し、決して“萌える”ことのできないキャラを起用したオリジナルアニメとなった。
 主人公のダンディは、かつて粋がっていたヤンキーの成れの果てとでも言うおうか、信じがたいほどダサいオッサン。さしもの私も、第1話でドン引きしてしまった。珍しい宇宙人を捕獲して賞金をもらう宇宙人ハンターという設定だが、科学的な正確さは全く考慮されていない。科学ファンには有名な「宇宙ひも」が頭から生えた●ンモウだったり(第14話)、誰も訪れない辺境の惑星でエイリアンがラーメンの屋台を出していたりする(第2話;亡くなる少し前の永井一郎が店長の声を当てた)。若かりし日にダンディが何をしていたかも、はっきりと決められていない。これだけ枠が緩いので、参加したクリエーターが自由に創作することが可能となった。
 『スペース☆ダンディ』でポイントとなるのは、(1)音楽へのこだわり、(2)真剣なパロディ、(3)逸材の起用−−の3点である。

(1)音楽へのこだわり
 「音楽マニア」を自称する渡辺は、人一倍、音楽へのこだわりを持つ。デビュー作の『マクロスプラス』で、選曲に関して総監督の河森正治や音楽担当の菅野よう子と意見が衝突したこともあって、最近では、選曲からエディットまで自分でするという(「世界的評価を受けるアニメ監督・渡辺信一郎は、なぜ音楽プロデューサーとしても活動するのか?」|週プレNEWS 2018年02月16日)。音楽関係者との人脈もあり、『ミチコとハッチン』(監督:山本沙代)や『マインド・ゲーム』(監督:湯浅政明)には、音楽プロデューサーとして参加した。
 『スペース☆ダンディ』では、こうした人脈を生かして、あまりアニメに関わってこなかったミュージシャンを中心にオファーしたという。その結果、アニメのために結成された「スペース☆ダンディバンド」は、岡村靖幸(OP)、やくしまるえつこ(ED)、向井秀徳、川辺ヒロシらが名を連ねる豪華メンバーとなった。
 音楽が重要な役割を果たしたのが、第17話「転校生はダンディじゃんよ」(ミュージカル回)、第20話「ロックンロール★ダンディじゃんよ」(バンド回)、第22話「同じバカなら踊らにゃ損じゃんよ」(ダンス回)など。
 私が特に好きなのが第20話で、外見に憧れてバンドを結成したダンディたちが、1曲しかない持ち歌をライブでひたすら歌いまくるというバカバカしいエピソードなのだが、向井秀徳が作詞・作曲・編曲した「かんちがいロンリーナイト」が凄い。 素人バンドの曲らしく旋律は単調なのに、ギターの音色が強烈で、最初のフレーズから一気に引き込まれる。
 第17話におけるミュージカルシーンのクォリティもハンパない。音楽は、梅林太郎&ハヤシベトモノリ、向井秀徳、芳野藤丸、☆Taku Takahashi、葛城ユキらが担当。踊りに関しては、まず、プロの振付師に演出家のイメージを伝えて踊ってもらい、その映像をもとに絵コンテを起こす。さらに、できた絵コンテを振付師に見せて、再び踊らせる。キャラの衣装が決まれば、それに似た衣装を着けて踊ってもらう。こうして、踊りの撮影を何度も繰り返しながら、それを作画にフィードバックして質を高めていったという(「「スペース☆ダンディ」伝説のミュージカル回がどうやって生まれたのかをダンディ役の諏訪部順一さん&南Pが熱弁」|Gigazine 2015年10月11日)。

(2)真剣なパロディ
 多くのエピソードは、日本では珍しい優れたパロディとなっている。
 パロディを劣化したモノマネだと誤解する人が少なくないが、何とも嘆かわしい。パロディとは、元ネタの設定を踏襲しながら、内在的なパワーを別の方向に転換することにより、新たな芸術的価値を生み出すものである。例えば、第4話「死んでも死にきれない時もあるじゃんよ」では、ゾンビ映画のルーティンをそのまま使いつつ、ロメロ作品のように襲われる人間の視点に立って恐怖を煽るのではなく、ゾンビ自身の日常に目を向けることにより、見事なコメディに仕立て直してみせた。
 ちなみに、パワーを方向転換するパロディと異なり、同じ方向で深化させたのがオマージュ、方向転換も深化もないのがパクリである。
 第13話「掃除機だって恋するじゃんよ」は純愛ものの、第23話「恋人たちはトレンディじゃんよ」はトレンディドラマのパロディだが、第5話「旅は道連れ宇宙は情けじゃんよ」は、パロディと言うより、『ペーパームーン』の素敵なオマージュである。

(3)逸材の起用 
 『スペース☆ダンディ』には、活動の機会が充分に与えられていない逸材を起用したエピソードがいくつかある。特に、湯浅政明、押山清高、名倉靖博の回は必見。

○第16話「急がば回るのがオレじゃんよ」(脚本・絵コンテ・演出・作画監督・原画・美術デザイン・ゲスト宇宙人デザイン:湯浅政明)
 湯浅は、劇場用アニメ『マインド・ゲーム』、テレビアニメ『四畳半神話大系』『ピンポン THE ANIMATION』などにより、ファンの間では天才的アニメーターとして有名だったが、個性が強すぎて商業作品には向かないタイプ。『スペース☆ダンディ』の担当回は、アクの強い個性がそのまま発揮されることで、逆にシュールで爆発的な傑作となった。
 何と言っても、全く展開の読めないストーリーがすさまじい。終盤、最も悲劇的にして陰惨な事態が、一瞬にして爆笑ギャグに転じた瞬間、肉体が崩壊するような脱力感に襲われた。
 幸いにして湯浅は、このあと『夜明け告げるルーのうた』『夜は短し歩けよ乙女』という2本の劇場用アニメを制作でき、アヌシーやオタワの国際アニメ映画祭で受賞して世界的に知られるようになった。

○第18話「ビッグフィッシュはでっかいじゃんよ」(脚本・美術設定・ゲストキャラデザイン・絵コンテ・演出・作画監督・原画・動画:押山清高)
 原画や作画監督として『電脳コイル』など数多くのアニメに関わってきた押山が、その才能をはじめて集約的に発揮できた作品である。老人が単独で大魚を捕まえようとする内容で『老人と海』を思い出させるが、主人公が最後まで孤独だったヘミングウェイの小説とは異なり、大勢の若者が老人に協力するクライマックスは、見ていて高揚させられる。
 注目すべきは、独特のセンスで描かれた背景。海の大波を線描で表す技法は、琳派を連想させる抽象性の高い表現で、実に力強い(これを粗略な作画と感じないだけの感受性を、アニメを見るすべての人が備えておいてほしい)。突然現れる巨大な青い月や、どこまでも天空に上っていこうとする巨大魚ムーナギの姿は、心を鷲掴みにされるような迫力がある。
 押山は、この2年後にテレビアニメ『フリップフラッパーズ』で監督デビューを果たすが、残念ながら、物語が難解すぎて才能に見合う人気は獲得できなかった。

○第21話「悲しみのない世界じゃんよ」(脚本:渡辺信一郎、絵コンテ・演出・美術設定・ゲストキャラデザイン:名倉靖博)
 名倉は、原画・作画監督としていくつかのアニメに参加してきたものの、キャリアの長さに比して作品の数は必ずしも多くない。しかし、彼の名は、OVA『天使のたまご』(1985、原案・脚本・監督:押井守)を通じて、コアなアニメファンの間で絶対的とも言える尊敬を勝ち得ている。押井守の脚本と天野喜孝のキャラクターデザインという、常人には手が出せないほど硬質な素材を使い、イマジネーションを掻き立てる壮大な美の世界を作り上げたのである。
 第21話での名倉は、渡辺の少し陰鬱な脚本から、想像力の極致とも言える夢幻的な光景を紡ぎ出した。その完成度は、テレビアニメの限界を完全に突き破っており、人的リソースに限りがある中でどうやって制作できたのか、不思議ですらある。ダンディは髪型も変わり、他のエピソードとは別人と言って良い。彼を生と死の狭間に誘う謎の少女は、『天使のたまご』に登場する少女と同じ匂いだ。
 単にシリーズ中の出色エピソードというだけでなく、テレビアニメ史上に残る偉大な傑作である。

放浪息子

【評価:☆☆☆☆】
 放送版・DVD版とも全話視聴済み、原作一部既読。
 社会的な性役割(いわゆるジェンダー)の押しつけに対する中学生の惑いを見つめた秀作。「女の子って何でできてる? お砂糖とスパイスと、すてきな何もかも…そんなもんでできてるよ」と呟く主人公の少年・二鳥修一は、小学生の頃から密かに女の子の格好をしては、母親が押しつける可愛い服を嫌うボーイッシュな高槻よしのと、性役割を交換したデートを繰り返している。2人が中学に入学するシーンから始まる物語は、「性同一性障害」(性の自己認識と生物学的な性が一致しないことに起因する違和感に対する医学的な分類)という呼び方では括りたくない、思春期特有の微妙な心の揺れを、静かに優しく描き出す。
 原作は志村貴子の漫画。アニメ化された志村作品には、女子高生同士の友情以上・性愛未満の関係を美しく描いた傑作『青い花』があるが、本作はそれほどピュアな感動作ではない。これはおそらく、登場人物の年齢と置かれた環境に関係するだろう。女子高では同性愛的な傾向がごくふつうに見られるので、『青い花』のストーリー展開は不自然ではない。これに対して、アニメ『放浪息子』が取り上げる中学1〜2年の頃は、心身の発達に個人差・男女差が大きいため、ジェンダーに関して特定の偏倚を示す少年・少女が同じ中学に何人も在籍しているという状況は、かなり作為的な設定に思える。『放浪息子』の作品世界に入っていくためには、まず、この作為性のハードルを越えなければならない。
 実は、原作漫画の開始時点で二鳥は小学5年生であり、異性装も単に外見を変えたいという欲求から始まる。小学生の頃は、多くの人が異性の服を着てみたいと思ったはずだし、女子が可愛い男子に女装させたがるのもごく当たり前である(と思う、私は)。漫画『放浪息子』は、こうした作為的でない設定から始まり、少しずつ性の役割分担という重いテーマに踏み込んでいく。性の問題に関しては、さまざまな感じ方があるため、性同一性障害という単純な括り方はせず、登場人物も多彩である。例えば、高槻の「男の子になりたい」という思いは、二鳥の「女の子になりたい」という思いとかなり異なっている。この2人と対比できるように、「女の子になりたい」と思いながら女装はしない男子や、別に「男の子になりたい」わけではないのに敢えて詰め襟を着用する女子も登場させた。さらに、他の生徒のジェンダー観をはっきりさせるため、クラス全員に男女の役割を入れ替えた「倒錯劇」まで演じさせている。原作漫画では、テーマを明らかにするためのこうした仕掛けが、時期をずらして段階的に導入されるので、それほど不自然には感じられない。一方、アニメ『放浪息子』は、小学生の時期を飛ばしていきなり中学の入学式から始まり、すぐに多彩なキャラが勢揃いするため、かなり異様な感じを受けてしまう。しかし、この状況を受け容れることさえできれば、それぞれのキャラが示すジェンダーの捉え方に対して共感したり反発したりしながら、いつの間にか作品世界にのめり込み、第9話ラストの急展開で息を飲むだろう。
 登場人物の誰に興味を持つかは人によって異なるだろうが、私は、冷たく見えながらも時に感情を爆発させ、事態を悪化させたと自己嫌悪に陥る千葉さおりに共感を覚えた。彼女が本当は誰に好意を持っているのか、アニメを見るだけではっきりわかるような気がするのだが、私の錯覚だろうか?
 アニメの話数について一言。この作品は、ノイタミナ枠の通例に従って全11話が放送されたが、元々は全12話として構想されており、オンエアに際しては、本来の第10話と第11話を1つにまとめたものが第10話「10+11 -Better half-」とされた。この奇妙なサブタイトルから明らかなように、全12話として鑑賞するのが制作者の意図に適っていると思われる(なぜ1話分短くなったのか、裏事情はわからない)。放送されなかった部分には、第9話ラストの出来事に対する周辺人物の反応や、脇役の1人として登場するニューハーフの過去のエピソードなど、本筋には直接関係しないものの、テーマ上は重要な描写が少なくない。特に、男子服が似合う高槻に対して、「高槻さんは、男に間違われるために男物の服を着るの?」という台詞に続いて千葉が口にする一言は、痛烈である。DVDには、本来の全12話が収録されているので、放送版を見た人も、是非DVD版で改めて確認してほしい。
 映像にも工夫が凝らされている。監督のあおきえいは、『喰霊-零-』『Fate/Zero』『アルドノア・ゼロ』(なぜかゼロばかり)の激しい戦闘シーンとは対照的な細やかな描写を心がけたようで、昼間のシーンは紗が掛かったように白っぽく描き、夜のシーンでは逆に陰影をくっきりと浮き立たせた。作品のテーマを象徴する見事な演出である。

カードキャプターさくら

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 魔法少女アニメの歴史において、さまざまな要素が交錯する結節点的な作品。『魔法使いサリー』(66年)や『ひみつのアッコちゃん』(69年)などごく初期の作品(いずれも、私は一部しか見ていない)では、「魔法で夢を叶える」という基本前提の下に、主に人助けや秩序回復の目的で変身を含むさまざまな魔法が使用された。しかし、次第にリアルな世界の非情さに目が向けられるようになり、『魔法のプリンセスミンキーモモ(第1期)』(82年)では人助けを続けた末に訪れる衝撃的なラストが、『魔法の天使クリィミーマミ』(83年)では「魔法で夢は叶えられない」という抗いがたい現実が、視聴者に突きつけられる。これ以降の主要な(パロディ・幼児向けではない)魔法少女ものにおいては、魔法はあくまで変身や武器調達のための手段にすぎず、何かを実現するためには、魔法少女自身が必死に努力しなければならない。『美少女戦士セーラームーン』(92年)、『魔法騎士レイアース』(94年)、『ふたりはプリキュア』(04年)になると、魔法少女は敵と激しいバトルを繰り広げる。こうした流れの中に『カードキャプターさくら』(98年)を置いてみると、その多面性が如実になる。
 魔法少女ものとしての『さくら』の最大の特徴は、ヒロインが変身しない点だろう。外見の全く異なる別人になって夢を叶えようとする『ミンキーモモ』や『クリィミーマミ』とは異なり、『セーラームーン』以降の変身は、コスチュームとパワーが変化するものの容貌は元のままで、しばしば変身する瞬間に一糸まとわぬ姿になる。これは、社会から押しつけられているペルソナ(仮面、人格)を捨て去って、本来の自分を実現することのわかりやすいメタファーである。ところが、さくらが行うのは、変身ではなく着替えであり、毎回、級友が作ってくれたコスチュームをわざわざ着用する(この少し笑いを誘う設定は、『涼宮ハルヒの憂鬱』でネタにされている)。魔法少女としての活動は、第1話でさくらが散らばらせてしまい、そのままでは災厄の源となるクロウカードの回収が中心で、手に入れたカードに応じてさまざまな魔法が遂行可能となるが、これらの魔法は、カードを集めるための手段としてしか用いられない。バトルを通じての自己実現というテーマがなく、多彩な魔法を使って他者のためにクエストを実行するという点は、初期の魔法少女ものに近い。その一方で、『セーラームーン』などとも通底するドロドロの人間関係が背後に隠されており、90〜00年代に起きた日本アニメの革新をも感じさせる内容である。
 『さくら』に見られるドロドロ面は、原作者CLAMPの趣味が反映されたものだろう。そもそも、『聖伝-RG VEDA-』『東京BABYLON』を著したCLAMPが、素直に子供向きの漫画を描くはずがない。最もわかりやすいのが同性愛の表現で、『東京BABYLON』の星史郎さんを思わせる柔和な美青年・雪兎(ゆきと)を巡る、さくらの兄・桃矢が示す度を超した親密さや、魔力を持つ少年・小狼(シャオラン)の極端なはにかみは、いささか異常である。小児愛と呼びたくなる関係も目立ち、小学生と教師が恋愛に近い感情で結ばれていることを示唆する描写もある。ちなみに、さくらの母親は高校生のときに教師と恋仲になり、16歳で結婚した。さくらの同級生である知世は、友人と言うよりストーカーに近いし、桃矢がさくらに向ける眼差しも、妹に対するものとは思えない(そう言えば、『東京BABYLON』の北都ちゃんも…)。当初から高校生以上の男子をターゲットとして制作された深夜アニメ『魔法少女リリカルなのは』(04年)とは異なり、『さくら』は、NHKが女子小学生向きに制作した“健全な”アニメで、各回のシナリオ(原作をベースとするものとオリジナルがほぼ半々)は小学生が楽しめるような素直なストーリー展開であるだけに、こうした描写は少し不思議な感じがする。
 もっとも、放送当時に『さくら』を見ていた小学生は、ちょっとした描写から人間関係の異常さを理解し、背後に隠された緊迫感を自分なりに嗅ぎ取っていたのではないか。そうでなければ、あれほどの人気を獲得した理由がわからない。世界を救うために魔法が使えるという夢と、ドロドロした人間関係にがんじがらめにされる不安が同居する−−それが『カードキャプターさくら』の世界である。
 70話にわたってストーリーが少しずつ進行する長編なので、全編を見通すのはかなり骨が折れるかもしれないが、その価値は充分にある。さくらの可愛さをフィーチャーした明るい話が大半だが、後半には少し暗いエピソードも現れる。中でも、「さくらと消えた知世の声」(第37話)、「さくらと夢の中のさくら」(第40話)、「さくらとカードとプレゼント」(第61話)などは出色な出来で、小学生の女の子に興味のないノーマルな大人も楽しめるだろう。

シドニアの騎士

【評価:☆☆☆☆】
 第1期全話視聴済み、原作第2巻まで既読。
 ファン待望の本格的なSFアニメである。SF的な設定を採用したアニメは星の数ほどあるが、ほとんどの場合、巨大ロボット同士の戦闘や超能力者の活躍といったアクションを描くための前提として使われるだけで、センス・オブ・ワンダーを揺り動かされるケースは少ない。しかし、本作では、緻密に構想されたSFの仕掛けがドラマを生み出すきっかけとして有効に働いており、実に見応えがある。アシモフやヴァン・ヴォークト、少し遅れてハインライン、ブラッドベリらが活躍した1940〜50年代のSF黄金時代を彷彿させるプロットに、『進撃の巨人』などにも見られる黙示録的な終末観を溶かし込み、ほんの少し萌え要素を加えた味わいとでも言えば良いか。
 『シドニアの騎士』で描かれるのは、紀元3394年という遠い未来。「奇居子(ガウナ)」と呼ばれる外宇宙生命体によって地球が破壊されたのを機に、系外惑星での人類再興を目指して、それぞれ数十万人の移民を運ぶ約500隻の播種船が太陽系を脱出した。そうした播種船の1隻・シドニアは、他の船との交信も700年前に途絶えたまま、単独での航行を続けている。物語は、ガウナが100年ぶりにシドニアを襲うところから始まる。
 ストーリー展開の要になるのは、人型戦闘機・衛人(もりと)とガウナの攻防戦で、女性を含む若いパイロットばかりなのに、他の萌えアニメのような不自然さは感じられない。これは、SF的な設定が巧みに生かされているため。100年前にガウナの侵入を許し全滅寸前に追い込まれたせいで、シドニアの人口構成はひどく偏っている。ごく少数の生き残りは最上位船員の主要メンバーとなり、クローンや圧縮知育などの技術で無理に育成された戦闘員は、人生体験の乏しい若い男女によって占められる。しかも、100年間ガウナとの接触がなかったため、繰り返し行われる訓練はゲームかスポーツのように捉えられ、多くの戦闘員は対ガウナ戦に現実感を抱いていなかった。こうして、激しく非情な戦闘と、穏やかで時にユーモラスな日常の描写が、1つのストーリーラインに無理なく収まることになった。
 大きな見所となっているのが、シドニアのデザイン。資材調達のための小惑星をベースとして建造されたため、ゴツゴツした天体から八角柱の人工物が突き出す形をしている。美術好きの人なら、岩山を改造して作ったブリューゲルのバベルの塔を連想するかもしれない。『マクロス』や『ガンダム』シリーズの宇宙コロニーとは異なって、人工重力が角柱の軸方向に作用しており、中空に近い船内中央部には全貌を捉えきれないほど巨大な塔屋が築かれている。構造力学的には無理があるが、水平方向の拡がりが乏しいことによる閉塞感と、下層部の奥深くに何が潜んでいるかわからないという迷宮の趣を併せ持ち、まるでカフカの「城」のようだ。1000年の航海中に増設されたのだろう、至る所に曲がりくねったパイプが這いまわり、一般人の居住区は上層の司令部とは対照的にスラム化している。
 原作は弐瓶勉の漫画で、それだけで充分に楽しめる優れた作品だが、アニメ化に当たって、ややわかりにくかったストーリーを村井さだゆきが巧みに整理し、よりドラマチックに仕上げた。第5話まで心躍る成功譚として視聴者を引きつけておき、第6話ラストに時間をスキップし急転回で驚かせる手腕など、さすがとしか言いようがない(時間を自在に操るシナリオ術は村井の得意とするところで、『パーフェクトブルー』『魍魎の匣』でも見られる)。
 アニメ『シドニアの騎士』の最大の特徴は、CGを用いた滑らかな動画にある。制作は、押井守『イノセンス』の3DCG部分を担当したポリゴン・ピクチュアズで、CEOの塩田周三が原作の出版元である講談社に企画提案したという(WIRED NEWS2014.7.11)。多数の衛人が掌位(加速力増大のための結合)を行う場面のように、CGを使わなければ描き出せない光景の具象化も見事だが、細やかな心理描写にもCGが力を発揮している。例えば、脱出したパイロットがゆっくりと回転する救命艇の窓から外を見るシーン(第4話)では、微妙な体の動きを描写することにより、何が起きているかを知ろうとする切迫した思いが視聴者にも伝わってきた。
 CGが最高の効果を上げるのが、第9話「眼差」において、無重力空間を漂う人型ガウナが僅かに視線を動かすシーンだろう。私は、このシーンを見るたびに泣きそうになる。この視線の動きがきっかけとなって、『シドニアの騎士』は、エイリアンとのバトルを描く王道的なロボット・アニメを超えて、これまでスタニスワフ・レムや萩尾望都らが取り上げて傑作をものした、SFにおける最も深遠なテーマへと突き進んでいくのだから。CGが単なる表面的な描写に留まらず、表現の本質にかかわる重要な技術であることを如実に示す好例である。

SAMURAI 7

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作(映画『七人の侍』)視聴済み。
 原作は、言わずと知れた黒澤明監督の大傑作である。あの原作から、どうしてこんなつまらないアニメが出来てしまったのかと、情けなくなる作品だ。
 2007年に行われた文化庁メディア芸術祭10周年記念企画「日本のメディア芸術100選」のアニメ部門では、専門家と一般人によるアンケート投票に基づいて、総得票数上位50作品が公表された。部分的に見たものも含めれば、私は全作品を視聴しており、(1)質的に優れた作品、(2)歴史的意義が加味されて入選した作品(『鉄腕アトム』など)、(3)長い年月にわたって各世代に愛された作品(『ドラえもん』など)−−と分類すれば、大部分はランクインしたことに納得がいく。しかし、「どうしてこれが」と首をひねった作品が2〜3本ある。その1つが『SAMURAI 7』だ。敢えて推理すれば、原作を見ていない人が票を投じたのだろうが、「優れた原作をアニメ化するとはどういうことか」を改めて問い直したくなる事象である。
 何も知らずに見ると、『SAMURAI 7』はそこそこに面白い。だが、面白さの大半は原作に由来しており、原作を変更した部分は悉くつまらなくなっている。例えば、人質に取られた子供を救出する場面。原作では、人質が身を守る唯一の手段となった犯人の必死さが描かれ、死に物狂いになった人間は何をするかわからないという怖さが滲み出ていた。さらに、子供を救うためとは言えあっさりと犯人を斬り殺す勘兵衛の姿は、侍が本来持つ非情さをも感じさせるものだった。ところが、アニメでは、犯人が爆薬まで用意しており、集まった人を脅迫する。これでは緊迫感は一気に薄らぎ、カンベイ(アニメの役名はカタカナ書き)の非情さなど微塵も感じられない。「危険度を増せばハラハラ感も高まるだろう」という、未熟な脚本家が抱きがちな初歩的な誤解に起因する出来の悪いシーンだ。この手の誤解は随所に見られ、アクションが派手なだけの空疎なシーンが繰り返される。
 登場人物の描き方も杜撰だ。最も強い久蔵が、原作のニヒルな剣士から金髪のイケメンに変わったのは、まあ笑って許せるが、原作で久蔵が果たした“おいしい役”を他のサムライたちに分散させたため、ストーリーの芯となる部分が軟弱になった。キュウゾウには、代わりに、実は××だという設定が与えられたものの、それでドラマが膨らむこともなく、単に話がややこしくなっただけ。そもそも、全てのキャラの立ち位置が曖昧である。原作では、勘兵衛は司令官なので最終決戦までは前線に立たない、五郎兵衛は参謀、七郎次は補佐役に徹する−−といった各人の役割分担が明確だった。ところが、アニメでは、敵陣地での闇討ちの際に、本陣に残るべきカンベイ・ゴロベエ・シチロージを含む7人全員が繰り出してしまう。当然、知将というカンベイのイメージは崩壊、行き当たりばったりに戦っていることが如実になる。
 アニメの第17話以降は、野伏せり(=野武士)集団には黒幕がいたというオリジナルの展開になるが、この黒幕が実に情けない人物で、野伏せりを束ねられる力量があるようには到底見えない。冒険活劇は、『ナウシカ』のクシャナ、『パトレイバー』の甲斐や帆場のように、敵役に魅力があってこそ締まった作品となる。そうした敵役を思いつかないならば、黒幕を登場させなければ良い。
 小説・映画のアニメ化作品が芸術的価値において原作より明らかに劣っているとき、アニメだから仕方がないと思うような人は、アニメについて語る資格がない。アニメの主たる視聴者が子供だとしても−−いや、子供であるからこそ−−原作を凌駕する優れた作品を目指すべきなのである。

これはゾンビですか?

【評価:☆☆☆】
 第1-2期全話視聴済み、原作未読。
 テレビを見ながら何度も「なぜ私はこんなバカバカしい変態アニメに笑い転げているのか」と自問し、そのたびに「だって面白いんだもん」と自答してしまった。分類するなら、ハーレム系おバカ妖怪アニメ。冥界から来たネクロマンサー(生と死を操る魔術師)のユーによってゾンビに変えられた上、魔装少女(魔法少女とどう違うのか?)ハルナの魔力を吸収して自身が魔装少女になってしまった相川歩が、ユーやハルナ、それに吸血忍者(なぜ吸血鬼が忍者をやっているかは不明)のセラと同居する間に、さまざまな事件に遭遇する。
 他の魔装少女や吸血忍者も含めて、歩と関わるのがいずれも美少女といういかにも趣味的な作品だが、どのキャラも設定を幾重にも重ねることで類型化を回避しており、必ずしも視聴者に媚びていない。例えば、悲惨な宿命を背負った銀髪の美少女・ユーは、いつも静かに正座する可憐な姿を示すものの、筆談で語られる内容はかなり辛辣で、時に歩を「下僕」呼ばわりする。しかも、かなりの大食い。一方の歩は、無口なユーを前に勝手な妄想を膨らませており、脳内で自分好みの台詞をしゃべらせては鼻の下を伸ばす。他のサブカル作品では、ストーリー展開に行き詰まった作者が苦し紛れにいくつもの後付け設定を導入することが少なくないが、本作では、登場時点から多層的なキャラとして描かれており、後付け感がない。
 キャラのみならず、ストーリーも単純ではない。私が好きな第1期第4話「ちょ、俺輝いてる?」は、料理を巡るドタバタから始まり、訪ねてきた冥界人がらみの残忍な殺人事件、自分が背負う宿命についてのユーのしんみりした語りを経て、後半は、空飛ぶクジラとの激しいバトルになる。その合間に、いくつものギャグ(ドーベルマンの顔をした冥界人が、湯飲みで茶を飲もうとして、口の脇からこぼしてしまう場面が可笑しい)が挟まれ、視聴者は、20分少々の間にさまざまな感情を味わうことになる。この振幅の大きさが、『これはゾンビですか』の魅力である。
 もっとも、第1期終盤(第9−11話)では、少し辛気くさい因縁話が中心となり、面白さがかなり失われたように感じる。この手の作品では、ややもすると制作サイドがシリアスな内容を盛り込みたくなるものだが、あくまで一種のスパイスとして各所に分散させた方が効果的なはず。幸い、第1期最終話でおバカぶりが復活、第2期は冒頭から好調で、中でも、ツンデレファミレス(!)を舞台とした第4話「いや、帰れご主人様」は最高だ。プラモデル(『フルメタル・パニック!』)を巡る冒頭のエピソードが、ラストで見事なギャグとして返される。エンディングの後、ユーがネクロマンサーとしての本領を発揮する不気味なショートショートが付くので、見逃さないように。
 多彩な登場人物の中で私が最も共感するのは、吸血忍者の指揮官・サラスで、尊大かつ高飛車でありながら、妙に純情である。第2期第9話「ああ、マイダーリンはロクデナシ」での可愛さは反則的だ。彼女の名言−−「かつてドイツの哲学者ヘーゲルは、馬上のナポレオンを見てこう言った。「見よ、世界精神が行く」。常識、モラル、道徳、そんなものに何の意味がある。私は、私の世界精神たるクソダーリン、相川歩の尻に惚れたのだ。そう、これは尻愛だ」。女の子が尻に惚れないでよ!

機動戦艦ナデシコ

【評価:☆☆】
 全話視聴済み。
 大ヒット作『新世紀エヴァンゲリオン』の終了半年後に同じテレビ東京で放映されたため、当初は『エヴァ』の流れを汲む本格SFかと思われたが、実は、SF的設定を採用した軽いラブコメ。私は、かなり期待して冒頭の何話かを見たものの、ラブコメ展開に付いていけずに途中で挫折、だいぶ後になってから、我慢を重ねて最後まで見通した。同じ感想を抱いたSFファンは少なくないようだが、どうも制作サイドの意図は別の所にあったらしい。監督を務めた佐藤竜雄のブログには、「よくナデシコをエヴァの延長で作られたモノという人がいるけど、実際はエヴァで増えて切り捨てられたライトなアニメファン達の受け皿として企画されたもの」と記されている。確かに、『機動戦士ガンダム』と『宇宙戦艦ヤマト』を混ぜ「大和撫子」という成句をもじって付けられたタイトルは、本格SFと言うよりは軽さが強調されている。
 「萌え」の源流は何かという問いに対しては議論百出で結論は出ないが、戦争を舞台とする萌えアニメに限定するならば、『ナデシコ』が最初の作品ではないだろうか。私が定義する「萌え」とは、コンテクストから切り離して特定キャラを偏愛することで、近年に生まれたものではなく、古くは、15歳で熊谷直実に討ち取られた薄幸の美少年・平敦盛に対する萌えが挙げられる(江戸時代には、女装して逃げ延びた敦盛が直実と再会して妖しい関係になるという、現代の腐女子も驚くBL展開の2次創作が現れた)。視聴者の萌えを引き出すために、作為的にコンテクストから遊離したキャラを登場させるアニメが萌えアニメであり、激しい戦闘が行われているのに、なぜか美少女たちがキャピキャピしているというのが、その典型である。『ナデシコ』の場合、謎のエイリアン・木星蜥蜴との戦いのため開発された秘密兵器を搭載する実験戦艦であるにもかかわらず、艦長のミスマル・ユリカは無鉄砲な戦術が不思議とまぐれ当たりでうまくいく天然系の楽天家、オペレータのホシノ・ルリは無口で無愛想な天才美少女(と言うより幼女)で、とても戦争遂行のための要員には見えない。突然アイドル・コンテストが開催されて艦長が水着姿で歌ったり、女性搭乗員たちの入浴シーンが無意味に挿入されたりと、最近の萌えアニメにつながるシーンも多々ある。
 とは言っても、『ナデシコ』の戦争は単なる背景ではない。話数を重ねるにつれて少しずつ戦況が変化し、終盤には、木星蜥蜴の正体が明らかになって事態が大きく動く。戦争がコンテクストとして機能していることを示す最も重要なポイントは、しばしば登場人物が死ぬことである。軽いラブコメの中に突如として挿入される死のエピソードを、どのように受け止めれば良いのだろうか。私は、こうしたシリアスな展開が理解できず、ある人物が死んだとき、当然ギャグだと思って軽く流し、その後しばらく、「あの人、最近出てこないなあ」と訝っていた(まさか、本当に死んでいたとは)。軽さと重さが同居するストーリーは、どうにも馴染めない。
 私の推測では、會川昇(ストーリーエディターとクレジットされているが、シリーズ構成と同じ意味だろう)が構想したもともとのストーリーは、かなり本格的なSF戦争物だったように思われる。ところが、SF的な設定が『エヴァ』などに比べてあまりにベタだったため、物足りなく感じたアニメーターたちが自分の好きな方向に内容を膨らませ、しばしばウケ狙いに走って、結果的に、軽いラブコメの中にシリアスなエピソードが点在する奇妙な作品になったのではないか。作中、いくつもの謎が提示されながら、その多くは解決されないまま中絶に近い形で終了する。Wikipedia によれば、會川が「考えられる要素を全て入れて」第25-26話の脚本を執筆したものの、分量が通常の1.5〜2倍に膨れ上がったため、謎の説明の大半を佐藤監督がカットしたという。しかし、全編の半分くらいがストーリーとは無関係の遊びのエピソードから成る『ナデシコ』で、説明のための尺が不足したとは考えにくい。監督を初めとするアニメーターたちは、端から謎の説明など必要ないと思っていたのだろう。脚本家の構想とアニメーターの目指したものがちぐはぐになり、さまざまな要素が入り混じったまま出来上がったのが『ナデシコ』で、人によっては型にとらわれない斬新な傑作と感じられるのかもしれないが、私としては高い評価は与えられない。
 ただし、オープニングの楽曲はすばらしい。アヴァンタイトルで静かな前奏曲が流れた後、突然、トランペットを思わせる上昇音型が奏される。胸が高鳴る導入部である。

怪〜AYAKASHI〜 化猫

【評価:☆☆☆☆】
 『怪 〜AYAKASHI〜』シリーズ他作品を含む全話視聴済み。
 2005年からフジテレビ深夜アニメ枠として始まった「ノイタミナ」では、当初、若い女性のファン層を開拓する目的で、少女漫画を原作とする『ハチミツとクローバー』『Paradise Kiss』などが放映された。しかし、第3作『怪 〜AYAKASHI〜』で新しい方向性が模索され、(いったん女性向け路線に戻った後)その第3部「化猫」の続編に当たる第8作『モノノ怪』がファンの間で評判になったこともあり、これ以降は、ディープなアニメファンをも魅了する質の高い作品が多くなる。私は、これまで放送されたアニメ全45作品のうち、41作品を全話視聴した(部分的でも良ければ全作品を見ている)。全話視聴作に対して個人的に付ける評価では、星5つが『PSYCHO-PASS』と『残響のテロル』の2本、星4つが『東のエデン』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『ピンポン』など8本、平均で星3.0個である。私は視聴作品の6割強に星2つ以下を付けるので、かなりの好成績と言える。
 「ノイタミナ」のターニングポイントとなった『怪 〜AYAKASHI〜』は、3部から成るオムニバスの怪談で、作品ごとにスタッフが異なる。なぜ女性向けだったノイタミナ枠で怪談を取り上げることにしたのか、「化猫」を監督した中村健治のインタビュー記事によると、「最初に「怪談をアニメでやってください」と企画書を見せられた」とあるが、それ以上の裏事情はよくわからない。また、中村以外の監督は、大して意気込みを持っていなかったようだ。幸い、それまでの演出本数が2〜3本で「失うものはない状態だった」中村が、「ロウソクのように消えてしまう前に花火を打ち上げておこう」と独特の画面作りを実践したため、画期的な作品が誕生した(中村監督の言葉は、「ノイタミナ クリエーターズインタビュー」001-Aより)。
 オムニバスの初めの2本は、はっきり言ってつまらない。第1部「四谷怪談」(第1〜4話)は、作中に原作者の鶴屋南北が登場する所など、小林正樹『怪談』の「茶碗の中」に学んだかのような脚本(小中千昭)に多少のひねりが感じられるものの、いかんせん演出が凡庸。アニメ絵で人を怖がらせるのは難しく、恐怖以外の要素を取り入れる必要があるのだが、何の工夫も凝らしていない。第2部「天守物語」(第5〜8話)に至っては、作画が乱れてアニメの体をなしていない。『東京ラブストーリー』『ロングバケーション』など大ヒットドラマを手がけた永山耕三が監督したものだが、アニメをなめているとしか思えない。しかし、ここまで我慢を重ねて見続けてきた視聴者には、格別のご馳走が用意されていた。第3部の「化猫」(第9〜11話)である。
 まず、横手美智子によるオリジナル脚本が素晴らしい。余計な前振りをせず、いきなり事件の核心から話を始め、視聴者の心を鷲掴みにする。そこで語られるのは、不運な猫の物語…と思わせておいて、途中から次第に深刻な事態を明らかにし、人間とは何と恐ろしいものかと見る者を慄然とさせる。主人公となるミステリアスな薬売りについても、謎はあくまで謎のままに残し、実に潔い(なぜか色気を感じてしまう)。
 この充実した脚本に、監督の中村が見事な映像を付けた。何と言っても、浮世絵を思わせる派手な絵柄に度肝を抜かれる。しかも、決して脚本から遊離せず、全編に緊張感が漲り画面から目を離せない。余韻のあるラストも感動的だ。
 この作品が、なぜノイタミナの、ひいては日本アニメの歴史を変えたのか、肌で感じてほしい。

CLANNAD

【評価:☆☆☆】
 第1期(『CLANNAD』)・第2期(『− 〜AFTER STORY〜』)全話視聴済み、原作(PCゲーム)既プレイ(コンプリートはならず←分岐多すぎ!)。
 原作は、美少女ゲームで有名なKEYが制作した『Kanon』『AIR』に続く「泣きゲー」シリーズの作品で、前2作とは異なって18禁ではない。授業をまじめに聞かず遅刻を繰り返す“不良”高校生の岡崎朋也を主人公に、演劇部再興を目指す人見知りで虚弱なメインヒロイン・古河渚を初め、学園における何人かの女性たちとの交流が描かれる。選択肢の選び方によってシナリオが分岐し、特定の女性を中心とする異なったストーリー展開となるが、繰り返しプレイして複数のシナリオ(10本?)でトゥルーエンドに到達すると、学園編以上に泣き要素の詰まった AFTER STORY が始まるという仕組み。アニメは、古河渚の物語を基本軸としつつ、第1期では、サブヒロインのうち伊吹風子と一ノ瀬ことみの、第2期では春原芽衣、宮沢有紀寧らの物語が織り込まれる。省略された坂上智代と藤林杏のエンディングは、後に「もし別の選択をしていたら」という番外編として制作された(DVD各期最終巻に収録)。
 はっきり言って、私は、『CLANNAD』の学園編(アニメ第1期および第2期前半)が嫌いである。何よりも、リアリティが全く感じられない。ここで言う「リアリティ」とは、ある状況に置かれた人間が示す当然の反応を直視したときに見えてくるものであり、たとえ状況そのものが非現実的であっても、人間性が確実に描かれていれば、自然とあらわになるものだ。『涼宮ハルヒの憂鬱』や『バカとテストと召喚獣』は、「異能者や召喚獣システムが実在する」という前提の下で、リアリティを感じさせる。ところが、『CLANNAD』では、女性たちの言動から人間的な心理を忖度することができない。例えば、ことみは、科学者である両親の血を受け継いだ天才理系少女という設定であるにもかかわらず、難解な理学書を読むシーンがあるばかりで、行動や会話には知性の欠片もない。「頭が良いのにボケる」という、男が可愛いと思う女の子の姿を極端にカリカチュアライズしただけのキャラである。同様に、いつも突飛なことばかりする不思議少女の風子や、超人的な運動能力を持ちながら妙にしおらしい一面のある智代も、男性目線で都合良く類型化された表面的な人物にしか見えない。ほんの少し共感を誘う要素(ヒトデに対する偏愛や桜並木を守ろうとする情熱)を加えることで人物像を膨らまそうとしているが、私のようなすれた視聴者からすると、いかにもあざとい手法である。このあざとさは、登場人物全てが抱えるつらい家庭事情の描写で極点に達する。
 …と言う訳で、第2期中程までは、「何をやっているんだか」と冷めた目で見ていた。途中、第2期第6話「ずっとあなたのそばに」のような感動的なエピソードもあったが、「まぐれだろう」としか思わなかった。ところが、ゲーム版AFTER STORY でメインとなる汐(うしお)編(第2期第16話以降)に入ると、急に目が離せなくなる。
 アニメ終了後にフルバージョンで聞いて気がついたのだが、第2期OPで Liaが歌う「時を刻む唄」は、この汐編を描いたものである。「僕」の喪失感を語る歌詞の途中で「三人分の朝ご飯」という文言が出てくることの意味がわかったとき、胸が詰まる思いだった。また、第1期からたびたび挿入されてきた「幻想世界」が何を象徴しているかも、汐編で漸く明らかにされる。
 汐編のピークは、第18話「大地の果て」だろう。朋也と旅に出た列車の中、女の子なのにおもちゃのロボットで一心に遊ぶ汐の姿を見たとき、少し不思議な気がしたが、後につながる伏線だったとは。物語の終わり近く、このおもちゃの事で汐が語る言葉を耳にしたとき、「あざとい〜あざとい〜」と呟きながら、声を上げて泣いてしまった。かなり涙もろい私だが、それでも声を上げて泣いたのは子供の頃以来である。私にとって『CLANNAD』は、ほとんどこの1話だけで永遠に記憶に残る作品となった。

魔法少女まどか☆マギカ

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 魔法少女ものの前提を逆手に取ったダークファンタジー。初放送の際には新房昭之監督の新作ということで見始めたが、独特の画風で描かれた魔女やガラス張りの教室などの造形面に多少興味を覚えたものの、内容については「最近の魔法少女ものは陰々滅々だな」と感じたくらいで、さして気が乗らないままボーッと画面を眺めていた。しかし、(他の視聴者と同じく)第3話ラスト近くの展開で茫然となり、そのあと、ドンドコドコドコという打楽器音とともに「Magia」が流れてきたとき、「ああ、やられた」と唸った。
 『まどマギ』の企画がどのようにして生まれたかは、bonetに掲載された「アニメのゆくえ201X→第3回でじたろう氏インタビュー」で明らかにされている。それによると、奈須きのこの伝奇小説『空の境界』がアニメ化された際、パンフレットに奈須と虚淵玄の対談が掲載されたのをきっかけに、アニプレックスの岩上敦宏がニトロプラスに接触してきたという。ニトロプラス社員としてゲームシナリオを執筆していた虚淵には、奈須の大ヒットPCゲーム『Fate/stay night』のスピンオフ小説『Fate/Zero』があり、岩上は『Fate/Zero』をアニメ化したいとオファーしたのだが、同時に「魔法少女もののオリジナルアニメのシナリオを虚淵さんに書いて欲しい」とも申し出た。でじたろうの言葉をそのまま引用すると、「シャフトで新房(昭之)監督が魔法少女ものをやりたいとおっしゃっているのだけれど、普通の魔法少女ものではない、何か面白い作り方がしたい。虚淵と蒼樹うめ先生が参加することで、可愛らしい見た目で、でも底にはダークで骨太な世界が広がっているような、今までに見たことのない魔法少女アニメができるんじゃないか……というお話でした」。
 シナリオを依頼された虚淵は、これまで無自覚に受け容れられていた前提を悉くひっくり返していく。魔法少女ものの出発点は、「魔法で夢を叶えたい」という素朴な思いだったが、虚淵は、魔法という反則的なテクニックを使う以上は、何らかの代償が必要なはずだと考えた(これと似たアイデアは、2003年のテレビアニメ版『鋼の錬金術師』など、多くの先行作品で取り上げられている)。魔法少女につきものの小動物の姿をした使い魔も、単に可愛らしいマスコットではなく、本当は怖ろしい正体が隠されているのでは…と突き詰めていく。また、魔法少女たちの戦いを「自己実現のための努力」のメタファーに終わらせず、誰と戦っているのかという問題にも目を向ける(この点に関しては、第11話の歴史絵巻で、クレオパトラ、卑弥呼に続いて描かれる人物−−彼女は、『Fate/Zero』にも登場する−−が発想のヒントになったのではないか?)。こうして、岩上や新房が意図した「ダークで骨太な世界」が具体化されていったのである。
 もっとも、私が見る限り、虚淵のシナリオはマスターピースと言えるほど練り上げられたものではない。前提をひっくり返すことに意識を向けすぎて、いくつかの設定は剥き出しのままの思弁として投げ出され、ドラマにうまく絡んでいないのである。終盤で登場人物が語る「エントロピー」についての非科学的な説明には、少し笑ってしまった。このシナリオを並の監督が演出していたら、大した作品にはならなかったろう。しかし、すでに『魔法少女リリカルなのは』で王道を踏み外す方法論を会得していた新房は、さすがに並ではなかった。
 演出の要になるのが、劇団イヌカレー(「劇団」とあるが、OPアニメなどを制作するアニメーターのユニット)が創造した異空間のビジョンである。やや思弁的なシナリオと現実離れした異様な光景は見事に化学反応を起こし、視聴者の心を捉えた。個人的には、共感できる登場人物がいない(私は、無理に努力する人間が嫌いである)ために好きな作品ではないが、本作が社会現象といえるほどのヒットを飛ばしたことには、納得がいく。
 もっとも、『まどマギ』が大ヒットした結果、いくつかの誤解が生まれたのは残念なことだ。その1つは、「ほのぼのとした萌えアニメ風に始まりながら、途中から意表を突く展開になったことが視聴者の気を引いた」というもので、この誤解に基づいて作られたとおぼしきアニメもある。実際には、萌えアニメ風なのは蒼樹うめのキャラデザとOPだけであり、本編は冒頭から沈鬱だ。私も、再見するまで、第1話の初めで歯を磨きながら行う母娘の会話がほのぼのしていた記憶があったが、『ふしぎの海のナディア』や『機動警察パトレイバー』で「歯磨き=コミカル」というイメージが刷り込まれていたための錯覚だった。同じように、残虐場面が評判を呼んだというのも誤解で、改めて見直してみると、非情ではあっても残虐行為そのものが描かれている訳ではない。まあ、誤解を生むほどインパクトがあったということだが。

WOLF'S RAIN

【評価:☆☆☆】
 放送版+OVA版全話視聴済み。
 寓話のテイストを湛えたSF。監督の岡村天斎は、『DARKER THAN BLACK』シリーズでも、「突如出現したゾーンの力によって特殊な能力が授けられた契約者は、自己の体験に応じた対価を支払わなければならない」という寓意に満ちたストーリーを展開したが、本作はさらに寓意性が強い。文明の衰退した遠い未来の地球を思わせる世界。その一角にある荒廃した街には、すさんだ人々に混じって、200年以上前に滅びたとされる狼が、人の姿に身をやつしてひっそりと暮らしている。そんな狼の若者・キバは、狼だけに約束された“楽園”への旅立ちを決意する…。
 このアニメの不思議な味わいは、本当はリアルな獣の姿をしているにもかかわらず、他者の目を惑わすことで人間として現出する狼の特性に由来する。多くのアニメに見られるように、獣耳と尻尾だけを隠すのでも、獣から人へと変身するのでもない。人間が行動しているように見えながら、ショットが切り替わると、狼の姿が映し出されるのである。この(現実には無理のある)設定を受け容れられないと、作品世界の入り口で足踏みしてしまうだろう。ストーリーは、当初、植物から実験的に作り出された少女や、軍事組織によって社会を支配する貴族階級など、SF的な設定の下に展開される。途中、いくつかの感動的なエピソード(クエントとブルーの話など)も挿入されるが、しだいにドラマは淡泊になっていき、代わって、民話を思わせる象徴的なストーリーが中心を占めるようになる。終盤は、楽園を目指す狼たちがどこに行き着くかを描いた寓話と言っても良い。ドラマとしてはいささか物足りないが、どこかノスタルジックな雰囲気は悪くない。
 この作品を語る上で忘れてならないのが、納品事故の顛末である。フジテレビは、2クール26話分の枠を用意していたが、おそらく制作が間に合わなくなったせいで、第15-18話では総集編が放送された。その結果、最終回は、本来の第22話を無理にエンディングであるかのようにまとめただけで、実質的には中絶の形で放送終了となる。結局、残り4話は、放送翌年にOVAとして発売されることになった。放送版を見てラストが煮え切らなかったと思っている人は、DVDに収録されたOVA版で制作者が意図した結末を確認してほしい。
 菅野よう子の音楽は、いつにも増して素晴らしい。特に、ED曲の「gravity」は、「月の繭」(『ターンエーガンダム』)、「誰か、海を。」(『残響のテロル』)とともに、私が最も好きな菅野作品である。坂本真綾の歌声をバックに狼がひたすら走り続けるEDアニメは、限りなく美しい。

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 バラバラになっていたかつての仲良しグループが、あることをきっかけに再び集まる過程を描いた感動作。類似のプロットを持つ作品は数多くあり、それ自体は必ずしも出色とは言えない。例えば、ローレンス・カスダン監督のアメリカ映画『再会の時』(83年)は、卒業してそれぞれの道を歩んでいた学生時代の友人たちが、自殺した仲間の葬儀で再び顔を会わせるというストーリーで、社会でもまれて世間ずれしたはずなのに、ふとした拍子に学生の頃に戻ってしまう姿が、逆に時の流れを感じさせて切なかった(映画自体は、取り立てて名作というほどでもないが)。『あの花』は、下手をするとベタであざとい流れに陥りがちなプロットを、脚本の岡田麿里が巧みにコントロールした点が特長だと言える。
 ポイントの1つは、仲良しだったのが小学生、再会するのが高校生の頃という年齢設定。この数年の間に、人は、最も輝かしい何かを失い、代わりに、生きる上で最も重要な何かを手に入れる。多くの再会譚でエピソードの供給源として使われる「社会」という夾雑物を取り除くことで、2つの年代の対比が鮮明になった。すでに子供らしい純粋さをなくしたかつての仲間たちの間に、昔と変わらず純粋なめんまが登場する映像は、実に象徴的である(もっとも私は、2度見て2度とも、めんまは、性格だけでなく体格も小学生のまま成長していないと勘違いしたのだが)。登場人物における変化が生々しく実感できる視聴者は、そこに自分の影を見て心惹かれたことだろう。この作品が、劇場版が作られるほどの人気を呼んだのも、納得できる(私は、地味に自己変革を試みるつるこに少しだけ親近感を覚えた)。
 作劇上のもう1つのポイントは、幽霊の設定である。『ヒカルの碁』『夏のあらし!』『夏雪ランデブー』など、幽霊の登場する漫画やアニメは無数にあるが、幽霊と現実の関係性を明確にしておかないと、作品世界が拡がらない。この関係性を見事に描出した例として挙げたいのが、大島弓子の傑作短編「四月怪談」(79年)である。この作品では、現実に全く干渉できない幽霊のヒロインが繰り広げるコミカルな出来事が、彼女を失った沈鬱な現実世界に重ね描きされる。両者の狭間にいるのが、幽霊を見る能力を持つただ一人の登場人物で、その視座から事態を見つめることによって、現実に関われないつらさと、何の取り柄もないように思える人生の持つ意義が、自ずと浮かび上がってくる。岡田が「四月怪談」を読んでいたかどうかはわからないが、幽霊がどこまで現実に関われるか、幽霊は何をきっかけに姿を現すのかという点の重要性を自覚し、さまざまな先行作品を参考にしながら、自分なりのアイデアを盛り込んで脚本を執筆したことが窺える。
 脚本家として岡田がアニメファンに注目されるのは、おそらく『true tears』(08年)からだろう。私は、それ以降で岡田がシリーズ構成を担当した24作品のうち、(タイトルに「AKB0048」と入っていて見る気の起きなかった2本を除く)22本を(多くは岡田が脚本を書いていると知らずに)見始め、うち20本を完走している。最も好きなのは『花咲くいろは』で、ついで『あの花』『true tears』の順となる。オリジナル作品であるこの3本は、いずれもローカル色を出したリアルな設定に特徴がある。冒頭のシチュエーションから(実は技巧を凝らしているのだが、あたかも自然であるかのように)淀みなく流れ出すストーリーと、それにマッチする身体感覚を伴った岡田独特の台詞が、見ていて心地よい。もっとも、厳格な構想力はあまりないようで、ファンタジーやSFでは、ラスト近くでストーリーラインが乱れてジタバタしているように思える。また、『花咲くいろは』や『あの花』、あるいは、(原作ものである)『とらドラ!』における終盤のはぐらかすような展開も、あまり好きになれない。私が岡田作品に5つ星を付けられない理由である。

黒執事

【評価:☆☆】
 第1-3期放送分全話視聴済み、原作第6-8巻(アニメ第3期原作)のみ既読。
 枢(ずっと「柩」だと思ってました)やなの原作は、私もちょっとだけ好きなBLの匂いがプンプンするダークファンタジー。「命令だ。お前だけは僕を裏切るな。僕のそばを離れるな。絶対に」「イエスマイロード。あなたが望むなら、どこまでもお供しましょう」−−美少年シエル・ファントムハイヴ伯爵に恭しく仕える執事セバスチャンの姿に、ゾクゾクしてしまう。「私はあくまで執事ですから」という洒落の効いた、大人の女性向けの作品である。
 アニメは、それぞれのシーズンで監督が異なっており、それとともに作風も変化する。第1期(監督:篠原俊哉)では、腐女子以外の視聴者も意識したのだろう、原作で瞬間的に挿入されるギャグが緩く引き延ばされ、男性を喜ばせるシーンも見られる。冒頭の何話かと最終話はそこそこに面白いものの、全体的に演出に締まりがなく、原作の持つ華麗でキッチュな雰囲気は再現できていない。ずっしりと心に残る第1期の終幕を覆すように始まる第2期(監督:小倉宏文)になると、おそらく岡田麿里(第1期に続いてシリーズ構成担当)のアイデアに基づいて、原作にないオリキャラであるもう1人の黒執事クロードと美少年アロイスが登場、妖しい雰囲気がより濃厚になる。中盤でコミカルなエピソードも挿入されるが、クライマックスに向かってストーリーは重苦しさを増し、ラストはひどく後味が悪い。これに対して、第3期「Book of Circus」(監督:阿部記之、シリーズ構成:吉野弘幸)は、第2期の続きではない独立したエピソードで、しかも見応えがある。第1期の途中まで見てつまらないと感じた人は、(第1期第21話「その執事、雇傭」によってファントムハイヴ家の使用人とは何かを勉強した上で)第3期に飛ぶのも1つの手だろう。ただし、グランギニョールを思わせるクライマックスは、この上なく残虐にして淫靡で、私もかなりの場面で目を覆ってしまった。
 『黒執事』は、私がキャラ萌え対応と呼ぶタイプに属する。一般にストーリー性のあるアニメ(あるいは、文学・映画・漫画など)の場合、ドラマは、何らかの事件に遭遇した登場人物に内的な変化が起きる過程で派生する。ところが、ファンの萌えを期待する作品では、キャラの内面が変化することは許されない。固定されたキャラをさまざまな状況に晒すことで、ファンの歓心を買うことを目標とする。状況を変化させるために、突然、コメディ(と言うよりはファルス)になったり、残虐シーンが描かれたりするが、そうした状況に遭遇してもキャラそのものは変化せず、ドラマが生まれるべくもない。『黒執事』(特に第1期)でも、「ある人物が実は…」となる展開がたびたび採用されるものの、改めて見返してみても、正体がそうならば確かに腑に落ちると言える伏線がほとんどなく、(視聴者ではなく)登場人物を驚かせるためだけの展開としか思えない。セバスチャンにしても、それこそ無限とも思える調査能力を持っているにもかかわらず、しばしばシエルに命令された調査を完遂できず、主人を危地に陥れるが、これも、リスキーな状況を作るための作劇上の便法と考えれば納得がいく。日本アニメの興隆がキャラに萌えるファンに支えられていることは否定できないので、単に扇情的な、あるいは、原作を酷く歪めたアニメに対するように厳しく指弾することはしないが、やはり私はキャラよりもドラマに興味があるので、こうしたアニメには高い評価を与えられない。
 そうした中で、第3期「Book of Circus」のサイドストーリーは、きちんとしたドラマになっている。特に、ジョーカーの物語は心に残る。彼がケルヴィン男爵の命に従って子供たちのサーカスを見せるシーンでは、顔に描かれた涙の模様が心の内を表しているようで、何とも切ない。

寄生獣 セイの格率

【評価:☆】
 全体の半分強を視聴済み、原作全巻既読。
 一言で言えば、「原作負け」である。アニメ単体で見れば必ずしも悪い作品ではないが、偉大な原作との格差があまりに大きく、高い評価は付けられない。
 原作は岩明均の漫画。私は、連載開始2年目に漫画情報誌「ぱふ」でその存在を知り、一読して魅了された。それ以降、毎月発売日に月刊アフタヌーンを購入すると、入浴して身を清めてから、うっかり先の展開を見ないように目を閉じて、おもむろに掲載ページを開く。自分は今、傑作の誕生に立ち会っているのだという興奮に身を震わせつつ、誌面をなめ回すように1話1時間以上掛けて読み耽った。こんな読み方をした漫画は、他には、月刊LALAに連載された山岸凉子の『日出処の天子』だけだ。
 連載作品が『風子のいる店』しかなかったデビュー4年目の岩明にとって、『寄生獣』はかなり意気込んだ冒険的な作品だったようだ。そのせいか、「モーニングオープン」増刊号に掲載された冒頭3話は、過剰に残虐な描写や意表を突こうと凝りすぎた場面が多く、まだ真価を発揮できていない。調子が出てくるのは、掲載誌がアフタヌーンに変わり、それ以前の内容紹介を終えた第5話後半(アニメでは第3話)からで、田村玲子、後藤、広川、倉森らが登場する中盤以降は、おそらく作者本人の予想をも超えた壮絶な展開となる(後藤が最後に登場するシーンをどうするか、直前まで迷っていたことを、岩明自身が明かしている)。
 アニメ『寄生獣 セイの格率』を見始めたとき、私がまず気にしたのは、中盤以降と調和していない冒頭数話分をどう扱うかだったが、がっかりしたことに、この点についての配慮は全くなされていない(イヌが空を飛ぶシーンは不要だったのでは)。スタッフが気を使ったのは、子供にも馴染めるように、アップテンポで切れの良い原作を薄めること。例えば、学校のシーンでは、まず校舎や教室を映し出し、本筋と関係ない生徒同士の会話を挿入する。さらに、「A」が田宮良子のいた部屋に入った際に酸素ボンベと窓から飛び降りる良子の姿を描くなど、原作にない説明的な場面をいくつも追加した。その一方で、新一の母親が靴を履いたまま家に上がり込む場面(原作第12話、アニメ第5話)に端的に見られるように、原作で大きなコマやイメージショットによって巧みに取り込まれていた“直前の溜め”は、ほとんど省略される。この結果、作中時間の流れはリアルなものに近づき、象徴的な描写を読解する能力に欠ける子供でも、すんなりと作品世界に入っていけるようになった(子供には見せられないシーンも多いが)。ただし、大人のファンにはどうにも物足りない。
 監督の清水健一については全く知らなかったが、『AVENGERS CONFIDENTIAL BLACK WIDOW & PUNISHER』で監督を務めるなど海外作品をメインとする人のようで、経歴には、アクションシーンの作画をいくつも担当したことが記されている。『寄生獣 セイの格率』を見る限り、芸術家肌ではなく、アクションのスケールを拡大することに熱心な職人気質のタイプらしい。島田が校内で事件を起こす場面(原作第23-24話、アニメ第10話)で説明しよう。生徒たちが校舎から逃げ出すシーンで、原作は、白一色をバックとする無音の(オノマトペのない)コマを使って緊迫感を高めるのに対して、アニメでは、男女の騒々しい悲鳴を加え、新一の視線にあわせたガラス越しの光景として具象的に描く。子供は面白がるが、大人には当たり前すぎてつまらない描写である。新一が飛び降りる場所を、原作の2階から3階の窓に変更したため、派手さは増したものの現実感が失われた。突入する警官の数を増やし、銃撃戦はより激しいものとなったが、その一方で、いかにも朴訥そうな警官が島田の正体を見て「何よ…これ…」と呟く印象的なシーンは省かれた。原作の『寄生獣』が、非現実的な事件を描いているにもかかわらず、なぜ多くの読者の心を鷲掴みにしたか、監督にはわかっていなかったようだ。
 キャラデザや声優の好みは個人の趣味に依存するので、あまり批判がましいことは言わない。ただし、アクションシーンでは派手な、しんみりしたシーンでは静かなBGMを流すという音楽の付け方はあまりに能がなく、見ていて腹立たしいほどだ。子供向けテレビアニメとして平均的なレベルではあっても、原作と比較すると、著しく劣化したコピーとしか感じられない。原作には観念的な台詞も多く、漫画慣れしていない人にはわかりにくいところもあるが、(文学や映画を含めて)現代日本を代表する傑作であることは間違いないので、アニメは止めて原作を読むことをお勧めしたい。

空の境界

【評価:☆☆☆☆】
 第1〜7章全話視聴済み、原作未読。
 7章から成る奈須きのこの伝奇小説をufotableが07年から09年に掛けて順次アニメ化した作品で、当初は単館ロードショーの形で公開された。私は、第1章が公開される少し前にチラシを入手したが、ペラ1枚の通常の映画チラシとは異なり、厚手の用紙数ページにわたって印象的なイラストが黒地に大きく印刷されたもので、文字情報は異様なほど少ない。「余計な説明よりも作品を見てくれ」というスタッフの意気込みが伝わってきた。この意気込みは、時に空回りしてわかりにくさの原因ともなるが、それでも、映像と音響のクオリティの高さは圧倒的である。
 奈須きのこの作品では、彼がシナリオを執筆したPC用アダルトゲーム『月姫』(00年)と『Fate/stay night』(04年)が、それぞれ03年と06年にテレビアニメ化(前者はタイトルが『真月譚 月姫』に変更)されていたものの、いずれもアニメとしての質はあまり高くなく、奈須独自の世界を描き切れていない。こうした状況を勘案したのだろう、98〜01年に同人誌に発表された『空の境界』をアニメ化するに当たり、アニプレックスの岩上敦宏(『魔法少女まどか☆マギカ』『Fate/Zero』も担当した名プロデューサー)は、まだ有名作品をほとんど作っていなかったufotableを、敢えて制作会社に選んだ。Wikipedeaによれば、『フタコイ オルタナティブ』(05年)の独自性が岩上の目に留まったからだという。人気作家の作品を任されて燃えたufotableのスタッフは、それまで正当に映像化されていなかった奈須の世界観を忠実に描き出すことに全力を傾注した。
 奈須の作品に共通するのは、目に見えるものが全てではないという世界観。肉体は空(から)の器に過ぎず、魂の入り方によっては異常な能力を身に付けることもある。町の片隅には異能の血を受け継いだ者がひっそりと暮らしているが、彼らとて能力を自在に操れる訳ではない。むしろ、人智を越えた能力に翻弄され、生きにくさに苛まれながら、正気を保とうと必死でもがいている。そんな閉塞的で重苦しい世界が、作品の舞台となる。
 『空の境界』では、和服をまとった異能者・両儀式と、メガネを掛けた平凡そうな青年・黒桐幹也が、猟奇的な事件に巻き込まれるさまが描かれる。血みどろの残虐描写が少なくないので、スプラッターが苦手な人は心構えが必要。各章には、(1)俯瞰風景、(2)殺人考察(前)、(3)痛覚残留、(4)伽藍の洞、(5)矛盾螺旋、(6)忘却録音、(7)殺人考察(後)−−というサブタイトルが付けられている。アニメは、章ごとに異なる監督によってこの順で制作されたが、作中での時系列は(2)→(4)→(3)→(1)→(5)→(6)→(7)なので、人によってはわかりにくいと感じるかもしれない。式と幹也のエピソードをピックアップする形でテレビ放映された際には、(4)→(3)→(1)→(2)→(7)の順に変更されており、こちらの方がストーリーを追いやすい。ただし、映像を読解する力のある人には、制作順に見ることをお勧めする。
 第1章の「俯瞰風景」は、私の見る限り、全編で最も完成度が高い。監督はあおきえい(当時はフリーランスの演出家)で、表面的な派手さを追い求めず、奈須が描く陰鬱な世界をリアルに映像化した。浮遊する霊体が最初に目撃されるシーンでは、引きの映像を数秒流すだけで必要十分なアイキャッチ効果を上げており、抑制された演出が見事だ。式が片手で黙々とアイスクリームを食べる場面も、実に艶っぽい。残虐シーンは墜死体の描写だけで、他のエピソードに比べて少なめ。途中で言及される「あの人」とは誰か、式はなぜ義手なのか−−など、この章だけでは理解できない部分があるものの、難解というほどではない。
 「痛覚残留」も面白い。やや残虐シーンが多く、重要なポイントが台詞だけで説明されわかりにくいといった短所もあるが、ラストは心に残る。これ以外のエピソードは、人によって好悪が分かれそう。激しいアクションが繰り広げられる「殺人考察(後)」や、驚きの萌え展開で始まる「忘却録音」が好きだという人もいるだろう(私の好みではないが)。
 『空の境界』を語る上で忘れてならないのが、梶浦由記による音楽の素晴らしさである。各エピソードごとに異なるED曲(歌:Kalafina)が付くという豪華さだ。特に、「俯瞰風景」の「oblivious」は、神々しいほど美しい。
 なお、『空の境界』シリーズは、全7章が完成した後、さらに3作品が追加制作されている。「終章/空の境界」は、式と幹也の対話だけから成る30分ほどの短編で、全体のエピローグ(納め口上)に相当する。「未来福音」は、90分の長編の形になってはいるが、後日譚やアナザストーリーなどいくつかのエピソードをルーズに束ねたもの。「未来福音 extra chorus」は、10分ほどの掌編3本をまとめたファンサービス用の作品。いずれも、『空の境界』の熱心なファン以外は見る必要がないだろう。

攻殻機動隊ARISE

【評価:☆☆】
 第1-4部視聴済み。
 『攻殻機動隊』には、士郎正宗による原作漫画『攻殻機動隊』(以下、便宜的に士郎版と呼ぶ)、押井守による劇場用アニメ『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(押井版)、神山健治による有料テレビ用のシリーズ2本と単発長編1本(神山版)という3つの驚くべき傑作がある。本作は、「第4の攻殻」として喧伝された劇場用アニメ4部作だが、残念ながら、これまでの作品には遠く及ばない凡作だった。問題点を列挙しよう。
(1) シナリオのスケールが小さい
 リアルとサイバーの双方に活動域が拡がった社会の姿を活写する士郎版、電脳空間における人間存在の問題に肉薄した押井版、ネットの闇に潜む国家規模の犯罪を暴き出す神山版−−これまでの『攻殻』は、いずれも透徹した世界観に支えられた骨太の作品だった。ところが、公安9課に入る前の草薙素子やバトーを描いた本作は、独自の世界観や社会性に欠けており、個別的な追加エピソードでしかない。
 それでも、ミステリ仕立ての第1部は、追加エピソードとしては出色の出来と言える。脚本を執筆した冲方丁は、『シュヴァリエ』や『マルドゥック・スクランブル』でも主人公が殺人事件の真相を探るという展開を採用しており、お得意のプロットだったようだ。偽の記憶を巡るトリックも面白い。しかし、第2部以降は次第にシナリオが杜撰になり、第3部は素子に似つかわしくない恋愛譚、第4部は安っぽいメロドラマとなる。いずれも単純な恋愛ではなく電脳絡みの出来事であり、さらに、バックストーリーとして、内戦に疲弊した砂漠の国における水資源問題を取り上げてはいるが、押井版のような哲学的な深みも、神山版のような国家権力とテロリストの相克を冷徹に見据える視座もない。
 第4部には、ゴーストの所在を巡る議論が現れるが、これは、押井版の脚本を書いた伊藤和典が慎重に避けたテーマである。短い時間でわかったような結論を押しつけられても、視聴者は困惑するだけだ。
 有能な作家である冲方に代わって言い訳をしておくと、おそらく、準備期間が短かすぎたのだろう。『攻殻』の枠組みを逸脱しないように4つのストーリーを構想するのは、並大抵の労苦ではない。脚本の執筆は並列処理ができないので、充分な時間的余裕が必要なのだが、それが確保されていたのか? 本作は、2013年2月に制作発表があり、同年6月に第1部が公開、以後、順に5、7、2ヶ月の間隔を経て第4部までが公開された。制作発表以前にどの程度準備が進められていたかわからないが、公開の日程を見る限り、シナリオ執筆に充分な時間が掛けられたとは思えない。
(2) 映像のセンスが悪い
 押井版と神山版は、抜群の映像センスに支えられていた。神山版第2期のオープニング映像を見ると、その凄さがわかる。冒頭、画面左向きに歩く素子が登場するが、首の傾きや手の振り、足の運びなど、彼女のように勝ち気で凛々しい女性が存在したら、実際にこのように歩くだろうと思わせる姿である。高速道路を走行するタチコマが1機から2機に増える場面、あるいは、公安9課のメンバーが黒っぽい服をまとってズラリと横に並ぶ場面など、わずか1〜2秒なのに、痺れるほど刺激的である。しかし、本作に、こうした刺激的なシーンは見あたらない。
 映像センスの悪さを如実に示すのが、電脳空間の描写である。神山版に登場する電脳空間では、モニター画面を連想させる抽象的な映像がメインとなり、時折、具象的な個物が描き加えられるだけだ。しかも、滑らかに動き回る具象物はコミックリリーフ的な存在であるタチコマに限られ、人間の動きは大幅に制限されている。こうしないと、どちらもアニメ映像であるリアルとサイバーの識別が困難になるからである。ところが、本作では、電脳空間内部で素子がバイクを乗り回したり水中を泳いだりする。映像を派手にしたかったのだろうが、これでは、リアルとサイバーの相互関係が判然とせず、緊迫感が失われてしまう。
(3) キャラデザが無意味に変更された
 士郎版・押井版・神山版では登場人物の顔立ちが大幅に異なるが、その顰みに倣ったのか、本作のキャラデザは、これまでのどの作品とも違う。特に、素子は、単に若かりし頃というのではなく、別人にしか見えない。しかし、敢えて変える必要があったのか? 「第4の攻殻」という当初のコンセプトが実現されていればともかく、実際には追加エピソードでしかないので、キャラクターの共通性が明確でないと、感情移入しにくい。全般に、目が小さくマンガチックな顔立ちになっており、効果を狙ったと言うよりは、作画の稚拙さを感じさせる。
 顔立ちだけではなく、性格も変更されている。神山版でニヒルな凄腕スナイパーだったサイトーが、内股膏薬的な禿の三枚目に格下げされたのは、笑うに笑えない。
 優れた作品の続編を作るのがいかに難しいか、他山の石としたい作品である。

マルドゥック・スクランブル

【評価:☆☆☆】
 全話(第1-3部)視聴済み、原作全巻既読。
 原作は、日本SF大賞を受賞した冲方丁の3部作。高度な技術と猥雑な風俗が混淆した光景や、自在に変形する物質のような技術的実現性を欠くガジェットは、想像力の赴くままに書かれたウィリアム・ギブソン流のサイバーパンクを思わせるが、根幹となるのは、自身が巻き込まれた事件の真相を探る少女娼婦・バロットの成長物語である。ふだんは金色のネズミの姿で、状況に応じて武器や衣服に形を変えられる生体マシンのウフコックが、常に寄り添って彼女を精神的・肉体的に支える。この二人のやり取りが、作品の大きな見所である。
 冲方の原作を映像化する際に注意しなければならないのが、視覚的なイメージのようで実は観念的な叙述が少なくない点である。例えば、次のような文章。「真っ白い服を着た少女がそこにいた。指先からブーツまで白一色で、ひらひら飾りがついている。服は革下着にも見えたし、純白の拘束具でがんじがらめにされているようにも見えたが、それ以上に異様なのは、ともするとそれが豪華でタイトなウェディングドレスにも見えるということだ」(『マルドゥック・スクランブル[改訂新版]』(早川書房)p.167)。これを、明示的に記されたままに、白い服を着たバロットの映像として視覚化しても、大した感興を引き起こさない。自由の喪失と解放への期待を連想させるタイトでひらひら飾りの付いた衣装…その白さは、自分の過去を消したいという願いを象徴するのだから。こうした叙述を、文学的な豊かさを保ったまま映像に移し替えるには、内面を表す具体的な描写−−例えば、「ピッチリした服を身にまとった後、一瞬、宙に視線を彷徨わせてから、ワンポイントの飾りを付け加える」といった−−を行う必要がある。しかし、アニメ『マルドゥック・スクランブル』の映像からは、そうした配慮が感じられない。
 おそらくアニメーターたちは、小説を読んで脳裏に浮かんだ視覚的イメージを忠実に具象化することに全力を傾けたのだろう。時にグロテスク、時にエロティックな場面も、タブーを恐れず、そのまま映像に置き換えていく。バトルシーンでは、現実には不可能な激しい動きを再現して見せた。しかし、このやり方では、どんなに心血を注いでも、せいぜい「動く挿し絵」しか作れない。アイキャッチ効果抜群のスペクタキュラーな映像だが、文字通り目を引くだけで、心を揺さぶることはないのである。
 アニメ公開初日の舞台挨拶で、冲方は、「2年前にこの原作でやりたいという話を聞き、アニメにしやすいプロットを作って、スタジオに持っていったところ、監督やプロデューサー陣から、「原作と違うじゃないですか」と言われて…(中略)…僕自身も覚悟を決めました」と述べている( マイナビニュース[2010/11/07])。実際にどの部分を変えようとしたのかはわからないが、原作で大きな見せ場となっているカジノのシーンのような気がする。もし私が脚色を任されたならば、このシーンの大半をカットするだろう。西部劇やギャング映画などでギャンブルが描かれることは良くあるが、ほとんどの場合、一種の小道具扱いで、駆け引きそのものを主題にした作品は、『BIG DEAL AT DODGE CITY』(『テキサスの五人の仲間』という味気ない邦題は止めてほしい)くらいしか思いつかない。それほどギャンブルの映像化は難しいのである。ところが、このアニメでは、原作に記されたゲーム(それも、イカサマが絡んだブラックジャックという難物)をそのまま映像に起こし、結果的に、さして緊迫感のない場面にしてしまった。原作に対するスタッフのリスペクトが、変に空回りしたのである。カジノのシーンを描くならば、ラストの大勝負までは軽く流し、最後に伏せカードを表にする瞬間に、カードを操れるディーラーがバロットのポーカーフェイスを見破れたかどうか判明する−−といった段取りにすると、映像でも緊迫感が保てるだろう。
 冲方が原作や脚本を提供したアニメには、『蒼穹のファフナー』『シュヴァリエ』『ヒロイック・エイジ』『攻殻機動隊 ARISE』『PSYCHO-PASS サイコパス 2』などがあるが、作家としての才能に釣り合う高い評価を受けた作品が見あたらない。理由の1つは、観念的な要素の多い冲方の文章を映像化する際に、あまりに多くのものが失われてしまうためだろう。文章に記された内容を咀嚼し、その意味するところをいったん自分流に解釈した上で映像を創造していかない限り、「まことに良くできている。が、畢竟それだけだ」と評されるのが落ちだ。

妄想代理人

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 今敏は、5本のマスターピース−−劇場用アニメ『パーフェクトブルー』(97年)『千年女優』(02年)『東京ゴッドファーザーズ』(03年)『パプリカ』(06年)と唯一のテレビアニメ『妄想代理人』(04年)−−を遺し、2010年に46歳で早世した。アニメ界で独自の地歩を築き、これからどんな作品を見せてくれるか楽しみだっただけに、あまりに早すぎる死が悔しい。
 「今敏オフィシャル・サイト KON'S TONE」によると、『妄想代理人』は、『東京ゴッドファーザーズ』制作中の02年夏から企画を練り始めたそうだ。漫画家時代や3本の劇場用アニメを作る過程で作品に盛り込めずに切り捨てたアイデアがたくさん溜まっていたので、バラエティに富んだテレビシリーズの枠を使って、これらをリサイクルするのが企画意図の1つだったという。当初、今は、原作と数本分の脚本のみを担当し、監督は別の人に委ねるつもりだったようだが、結局、脚本の大部分は水上清資が執筆、自分は実質的に監督を務めることになった(クレジットは総監督)。
 有料テレビでの放送だったため私はリアルタイムで見ることができず、第1話のみの無料上映会(確か、第8回文化庁メディア芸術祭)で初めて鑑賞した。大笑いする人物が次々に現れるOPアニメを見たとき、ふとコメディかなと思ったものの、何かおかしい。ビルの屋上で靴を手にして佇む若い女性、雪積む山頂に立つアロハシャツの醜男、豪勢なパーティ会場でテーブルの上に乗ったみすぼらしい老婆……極め付きは、「見事なキノコ雲」を背景にコルコバードのキリストのように手を広げる中年男性。不穏な雰囲気が漂う中で、陰鬱な本編が始まる。
 物語は、人生に行き詰まった人が「こうなったら、いっそのこと…」と思い巡らす妄想が、いつしか実体化していく(ように見える)恐怖を描く。もっとも、これだけならば、『パーフェクトブルー』の二番煎じとなるサイコホラーにすぎない。『妄想代理人』の独自性は、第5話「聖戦士」でたがが外れ、妄想が伝染し変質し越境し暴走することにある。転換点となる第5話の脚本は、制作進行担当だった23歳の吉野智美が生まれて初めて書いたものだという。彼女は、第10話の書き手がいなかったときにも「私やりたい」と手を挙げ、おそらく自身の妄想を込めて、尋常でないエピソードを描ききった(第10話「マロミまどろみ」は、是非、予備知識なしに見てのけぞってほしい)。
 作品の至る所に謎が隠されているが、合理的な解釈を付けようとは思わない方が良い。例えば、奇怪な老人が地面に描く方程式らしき落書き。それは、少年バット事件の謎を解く鍵のようにも見えるが、かといって、この老人が全てを知っているとも思えない。最終回は、皮相的に見ると、不可解な事件を精神分析の手法で解明したものと錯覚するかもしれない。だが、そうでないことは、エンドクレジットの後の意味深な「夢告」でわかる。妄想は、エンドレスにループする。
 EDアニメも怖い。ジャン・ルノワール監督の映画『河』には、人々が午睡するのどかな光景のはずなのに、どうしても死んでいるようにしか見えない気味悪いシーンがあるが、それと共通する不気味さである。

東のエデン

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 テレビ版全話+劇場版2作品視聴済み。
 日本を覆う「もう自分たちじゃどうにもできない重たい空気」(第1話の咲の台詞)を一気に払拭する方法はあるのか−−そんな疑問を投げ掛ける知的でリアルな寓話とでも言うべき作品である。
 物語は、大学の卒業旅行でワシントンD.C.を訪れた森美咲の前に、全裸で記憶喪失の青年・滝沢朗が現れるところから始まる。当初はコミカルなシーンも多くコメディかと思わせるが、しだいにミステリアスな雰囲気が濃厚となり、第2話ラストの陰惨な事件をきっかけに一気に作品世界が深化する。導入部に相当する冒頭3話では、東京にミサイルが撃ち込まれたのに死者が出なかった「迂闊な月曜日」事件、その直後に起きた2万人ニート失踪事件など、次々と謎が提示されて興味を掻き立てられる。中でも気になるのが、有能なコンシェルジュ・ジュイス(知的で明朗な声は、『攻殻機動隊 S.A.C.』でタチコマ役も務めた玉川紗己子)が何でも願いを聞き届けてくれる「ノブレス携帯」。ファンタジーやSFでの魔法・超能力に相当する夢のアイテムだが、ストーリーが進むにつれて、その背後に隠された実態の恐ろしさが明らかになってくる。
 ネタをバラしてしまうと、ジュイスのシステムを開発したのは Mr.OUTSIDE と名乗る正体不明の億万長者で、12人のセレソンを選抜、自身が持つ財力と権力にものを言わせて、1人当たり実行費用100億円の範囲で願いを聞き届けるという「ゲーム」を主催していた。ゲームの目標として「この国を正しき方向へ導く」ことが掲げられてはいるものの、実際には、かなりの程度までセレソンの勝手な願いが叶えられるため、利己的ないし無思慮な要求を出すセレソンも少なくない。そうした中、本気で日本を変えようとする元財務官僚の物部と、他のセレソンによる破壊行為に立ち向かう滝沢という2人のセレソンの対立が、物語の基本構図として浮かび上がってくる。
 『東のエデン』は、フジ・ノイタミナ枠で放送されたが、制作に当たって、プロデューサーから監督の神山健治に「攻殻機動隊からミリタリー要素をのぞいて、女性にウケるような味つけをした上でエヴァ要素を注入し、『24』を入れたエンターテインメント作品」というオーダーが来たという(Gigazine 2011年05月03日)。そのオーダーに応えるつもりだったのか、『東のエデン』は『攻殻機動隊』の要素をいくつも受け継いでいる。例えば、(個人で使うには巨額だが、国家を動かすにはあまりに少ない)100億円という金額は、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』でクゼが難民救済のために調達した資金とほぼ同額である。クゼは、この資金を使ってプルトニウムの入手を画策するが、軍事力によって閉塞状況を打開しようとする発想は、東京をミサイル攻撃したセレソンの1人と共通する。さらに、Mr.OUTSIDE は、日本を改革するという理想を口にしながら、実は、国家規模の犯罪を自身の手で引き起こすことに喜びを感じる自己陶酔的な悪党にすぎないという点で、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』の黒幕・ゴーダの同類である(策謀家としてのスケールからすると、Mr.OUTSIDE と物部を併せてゴーダ1人分と言うべきか)。
 物部は、軍事力を利用して力ずくで国家のあり方を変えようとするが、望んだ結果は得られるべくもない。では、他にうまいやり方があるのだろうか? もし、滝沢がカリスマ的な指導力を発揮して人々を導いていたならば、1つの方法論が示せたかもしれない。だが、作中で滝沢が英雄として描かれることはない。滝沢が重要な役割を果たした「迂闊な月曜日」とニート失踪事件の真相は、具体的な映像ではなく、最終回における咲の台詞で説明されるだけである(想像するに、まず、現代日本の病理を端的に表す事象として多数のニートを登場させることを思い付き、導入部を彩る謎として彼らが忽然と姿を消したという設定にしたものの、セレソンを巡るストーリーに組み込もうとして無理が生じ、結局、台詞でお茶を濁したのではないか)。物部はもとより滝沢ですら英雄たり得ない以上、日本を覆う重苦しい空気を吹き飛ばすには、(自分を含む)平凡な人間による地道な努力に期待するしかない。『東のエデン』を見終わった後に残るモヤモヤ感は、ある意味では当たり前なこの結論に、われわれが不満を覚えるからだろうか。
 劇場版について一言。テレビ版がさまざまな謎を残して終了した後、あたかも解決編であるかのように劇場版が公開されたが、実際には、セレソンのその後やMr.OUTSIDE の実像が描かれたにすぎない。そもそも、『東のエデン』は、「100億円あれば個人の力で日本は変えられるか?」をテーマとする寓話風の物語であり、謎の合理的な解決が求められるパズルではない。むしろ謎を残したままの方が、視聴者にいろいろなことを考えさせるきっかけとなる。私は、テレビ版だけで完結した作品として評価しており、劇場版は見る必要のない蛇足だと言いたい。

精霊の守り人

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作全巻既読。
 上橋菜穂子の『守り人シリーズ』は、異世界ファンタジーの最高峰である。舞台となるのは、人間の世界《サグ》と精霊の世界《ナユグ》が重なった架空の地で、数百年前のアジア(日本・中国のみならず、東南/中央アジアも含む)を思わせる光景が広がる。短槍使いの女用心棒バルサと新ヨゴ皇国の皇子チャグムを軸に、二人の出会いを描く『精霊の守り人』(96年)から始まり、以後、バルサを主人公とする『闇の守り人』『夢の守り人』『神の守り人』、チャグムを主人公とする『虚空の旅人』『蒼路の旅人』の2つのシリーズに分かれ、両者が再会する『天と地の守り人』3部作(06-07年)で完結する大河小説である。児童文学のコーナーに置かれていることが多いが、子供時代から老境期まで、生涯に4度は読む価値のある傑作だ。
 上橋作品の特徴は、痛みや匂い・味など身体感覚にこだわったリアルな描写にある。例えば−−「ジンはうめいた。腋の下に入った槍の柄が、まるで、ねばりつくように左腕をぐるりと巻きこみ、腕の関節を決められたジンは、身体ごとねじられ、うつぶせに、地面にたたきつけられた。ぽきり、といやな音がして、左腕が折れた」(『精霊の守り人』新潮文庫p.115)。「古流柔術を習ったとき、自分もよく痛い思いをしていた」(『三人寄れば、物語のことを』青土社)という“武術オタク”上橋ならではの叙述である。あるいは、「白木のうす板をまげてつくられている弁当箱の蓋をとると、良い匂いが立ちのぼった。米と麦を半々にまぜた炊きたての飯に、このあたりでゴシャとよぶ白身魚に甘辛いタレをぬって香ばしく焼いたものがのっかり、ちょっとピリッとする香辛料をかけてある」(p.76)。こうした描写は、読む人の想像力を刺激し、他では得難い豊かな読書体験を与えてくれる。しかし、原作の豊穣さを保ったまま映像化するのがきわめて難しいことも、また明らかである。
 アニメの脚本・監督を務めた神山健治は、社会や生物のシステムを緻密に描写することで、映像で表現しきれない身体感覚の部分を補っている。人々は、いかなる道具を使い、どんな仕事をしているのか? どのような動植物が生息し、生態系はどうなっているのか? 細部まで考え抜かれた映像は、見るたびに発見があって面白い。第9話「渇きのシュガ」では、薬草師のタンダと星読博士のシュガが、互いの専門知識を基に旱魃の兆候について話し合う(原作にない、私好みの)シーンが挿入されるが、このような知的な語り口によって作品世界を拡げた点に、神山版『精霊の守り人』の特徴が見て取れる。
 もっとも、神山の描き方はやや理に落ち、上橋がわずか3週間で一気呵成に書き上げたという昔語りを思わせる大らかな原作とは、反りの合わない所もある。例えば、町で庶民として暮らし始めたチャグムが賭博のイカサマを見抜くエピソード(第10話)は、頭の回転が速く正義感が強いチャグムの性格を強調しようとする脚本家の意図が透けて見え、楽しめない。子供っぽさと思慮深さが入り交じった原作のチャグムと比べると、アニメのチャグムは、世間知らずの皇族から1ステップずつ成長していく過程があまりに具体的に描かれるため、いささか型どおり過ぎて人間味に欠ける。ほぼ同年齢の少年が声優を務めたが、少々棒読みなところも残念だ。ただし、最終回、宮廷正門脇で起きる出来事は、バルサに対するチャグムの切々たる思いを明らかにし、原作よりも感動的である。
 文庫本1冊に収まる原作と比べると、アニメは全26話という長尺なので、バルサとチャグムが出会って退っ引きならない状況に追い込まれる第5話までと、クライマックスへと一気に盛り上がる第23話以降は、ストーリーラインを変えずに話を膨らませ、バルサとチャグムが一緒に過ごす中間部は、オリジナルエピソードをふんだんに盛り込む−−という構成となった。序盤と終盤には上橋と神山の個性が衝突し、上橋の描く水墨画の余白に神山が油絵の具で細密な背景を描いてしまったかのような部分もあるが、原作から離れて神山が自由に作品世界を拡大した中間部は、アニメとしての完成度が高い。特に私が好きなのは、主要登場人物が集結する第16話「ただひたすらに」から第17話「水車燃ゆ」の展開で、(原作と同じく)悪人が1人もいないにもかかわらず、語り継がれた知識や置かれた立場の違いから、少しずつ思いがズレて対立が生じる。誰もが自分の良心に従い、正しいと信じることを懸命に遂行しようとしながらも、争いが避けられない−−そんな人の世の悲しさが身に沁みる。
 私としては、身体感覚の濃厚な『精霊の守り人』よりも、国家のあり方に目を向けた『天と地の守り人』の方が神山の個性に合っていると思うので、是非、彼にアニメ化してほしいのだが、諸々の事情から無理そうだ(NHKが実写版『守り人シリーズ』の制作を発表してしまったし)。

攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 海外での知名度も高い日本アニメの代表作。代表作と呼ばれる作品は往々にして最高作ではないのだが、『攻殻機動隊S.A.C.』は、脚本・演出・作画・音楽のどれを取っても特A級。監督・シリーズ構成を務めた神山健治は、DVDの特典映像などで紹介されているように、スタッフと徹底的に議論して綿密に作り込む方法論で知られる。その成果が充分に出たのだろう、建物や兵器のビジュアルはもちろん、備品の細部に至るまで実に丹念に描かれる(例えば、第25話に登場するセーフハウスのエクステリアやインテリア)。神山監督を中心に、優秀なスタッフの一人ひとりが熱意を込めて制作したことが窺える。
 舞台となるのは、2度の大戦を経て経済格差が拡大、政治は腐敗し闇組織が幅を利かす2030年の日本(「現在と大差ない」という声も)。脳のすげ替えや意識の乗っ取りも可能になるなど、電脳や義体の技術はあり得ないほど進歩しているが、「もし、こうした技術が実現されたら」というスペキュレイティブ・フィクションと考えれば、問題とするに当たらない。公安9課による犯罪捜査においても、ITの高度化に伴って情報の探索・共有が一瞬でできるため、捜査状況のくだくだしい説明は必要ない。草薙素子ら9課のメンバーは、義体の超人的な能力を使って拠点にやすやすと入り込み、事件の真相を目の当たりにする。こうして、スピーディで歯切れの良い展開でありながら、軽い話に終わらせず、社会の暗部をまっすぐに見据える重厚な内容が可能になった。
 全26話のうち、14話が独立した短編で、12話が「笑い男事件」を扱う長編。短編を主体とするシリーズ内に長編を織り込むという手法は、TV版『機動警察パトレイバー』や『カウボーイビバップ』でも採用されたが、本作は、先行作以上に構成が緻密。第3話までは、高度電脳化に伴う社会問題を描く、きわめてSF的な短編。これに「笑い男事件」の導入部に当たる3話が続いた後、しばらくは短編中心の流れとなり、ラスト7話で一気に「笑い男事件」の顛末が語られる。面白いのは、バラエティに富んだ短編が次々に登場する中間部に長編の核心部分がさり気なく挿入されることで、あるエピソードでは、ラスト近くのワンカットで「笑い男事件」の一部だと判明する見事などんでん返しが使われる(どのエピソードか知らずに見た方が楽しめるだろう)。
 長編は、政治家と企業の癒着を取り上げた社会派作品で、現実に起きたいくつもの事件(厚生省の認可した国産のベストセラー抗ガン剤が、かなり後になってからほとんど効かないと判明した有名なケースも含まれる)に取材したリアルさが素晴らしい。途中までは背筋の寒くなるポリティカルスリラー、終盤は激しいアクションものとなり、広範な視聴者を楽しませてくれる(アクション嫌いの人は、終盤の展開に不満を持つかもしれないが)。最初に見たときには、事件がひどく錯綜しているように思えたが、2度3度と視聴するうちに、根幹部分はきわめて単純であり、それに対するさまざまなリアクションが複雑怪奇な様相を生み出したことがわかってきた。神山監督は、ある出来事が社会的なリアクションを引き起こす過程に関心があるらしく、続編の『攻殻機動隊S.A.C. 2nd GIG』でも取り上げている。もっとも、この部分は、ストーリー展開にやや無理があるように思えて、あまり感心できない(特に、長官暗殺未遂の後で起きるリアクション)。私が最も惹かれたのは、少しおどおどした真犯人の姿。青臭い正義感でも、才能と幸運と協力者があれば、少しは世界を変えられる。あるいは、才能と幸運と協力者があっても、青臭い正義感に基づく限り、少ししか世界を変えられない−−どちらの言い方も可能な結末が胸を衝く。最終回に登場するのは、ボルヘス描くところのバベルの図書館を思わせる書物の迷宮。「情報の墓場」という素子の言葉に実感が籠もる。
 短編は、どれもかなりの高水準。私が好きなのは、第12話「タチコマの家出 映画監督の夢」、第14話「全自動資本主義」、第17話「未完成ラブロマンスの真相」など。第2話「暴走の証明」は、プロットがTV版『機動警察パトレイバー』第5話「暴走レイバーX10」とそっくりで、コミカルでドライな『パトレイバー』とは対照的な、シリアスにしてウェットという『攻殻』の特質が見て取れる。
 …ところで、草薙素子の露出過剰なコスチュームだが、あられもない姿は、寡黙で思索的な押井版(劇場用アニメ『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』)の(色気のない)素子だからこそ似合うのであり、饒舌で活動的な神山版の(チャーミングな)素子には相応しくない(やっとスカートを穿いてくれたと思えば、すぐに破って黒下着を見せたりするんだから!)。

攻殻機動隊S.A.C.2nd GIG

【評価:☆☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 娯楽性と思想性を兼ね備えた−−砕けた言い方をすれば、カッコ良くて奥が深い−−神山健治渾身の力作である。私は、初めから通して3度、好きなエピソードはさらに繰り返し見たが、そのたびに新しい発見がある。アニメ芸術の1つの到達点と言って良い。
 舞台となるのは、前作『STAND ALONE COMPLEX』の2年後に当たる2032年。日本は、21世紀に起きた2度の世界大戦によって大きな被害を受け、東京の中心部は廃墟と化し首都は福岡に移されたものの、世界に先駆けて放射能除去装置を開発したことで経済復興を果たし、中国が拒否した大量のアジア系難民を“招慰難民”なる美名の下に安価な労働力として受け容れた。しかし、復興が一段落して労働力の供給過剰に陥った現在、難民はゲットーに押し込まれて貧困に喘ぐ一方、日本国民の間には、税金で養われる難民への反感が鬱積している。難民問題が、日本の火薬庫となったのである(こうした社会背景は、第1話「再起動」で登場人物が口早に説明するが、少しわかりにくいと感じた場合は、DVD第6巻に特典映像として収録された神山監督のインタビューを参考にすると良いだろう)。
 ストーリーは、当初、ゆっくりと進行する。第4話「天敵」で内閣情報庁のゴーダが登場、難民問題の背後に政府の一勢力が関与していることが示され、その後も、テロ集団「個別の11人」の不可解な集団自決や、そこに見え隠れするゴーダの策謀が描かれるものの、事態の決定的な進展はない。むしろ、新宿原発に絡む殺人事件(第6話)、草薙素子の少女時代の出来事(第11話)など、単発的に見えるエピソードがいくつも挿入され、「少しまとまりに欠けるのでは?」と戸惑う人がいるかもしれない。だが、実は、全てが計算ずくなのである。ゆっくり進んできた物語は第19話で急転回し、そこからラストに至るまでの8話(佐藤大との共同執筆である第22話を除いて、いずれも神山の単独脚本)は、一瞬の弛緩もない怒濤の展開となる。しかも、一見バラバラに思えたそれまでの出来事が、複雑に絡み合う状況の構成要素となっており、事態の尋常ならざる拡がりが実感される。こうした序破急のストーリー展開(および、核兵器を利用したテロのリアルな描写)は、神山の師に当たる押井守が監督した旧OVA版『機動警察パトレイバー』の「二課の一番長い日」(脚本:伊藤和典)とも共通するもので、神山が押井作品から多くを学んだことが窺える。
 深刻な政治問題を扱っている故の取っ付きにくさはあろうが、物語全体の基本軸がゴーダと公安9課の対決にあることを見誤らなければ、難解な点はない。中盤では、カリスマ的な扇動家・クゼが場面をさらう。だが、彼は、具体的なビジョンを欠いた理想主義者であり、「低きに流れる」民衆を何とかして高みへ教導しようとする姿は、革命家と言うより宗教的な予言者に近い。公安9課が全力を挙げて立ち向かうのは、クゼではなくゴーダである。ラスト8話では、政府を後ろ盾とする情報操作によって国際社会をも手玉に取るゴーダに対し、少数精鋭の独立愚連隊である公安9課メンバーはいくつかのグループに分かれ、それぞれ知略の限りを尽くして応戦する。この攻防戦は、実に見応えがある。
 興味深いのは、ゴーダが特定の政治思想を持たない点。シルベストリという架空の思想家を登場させたことも、ゴーダの無思想性を強調する上で効果的である。彼が頑迷な国粋主義者であれば、単なる悪役として叩き潰せば良いだけだ。ところが、ゴーダは、難民問題という火薬庫に火を付けることにばかり熱心で、その後で日本をどうするつもりなのか、曖昧にしか語らない。むしろ、繰り返し「プロデュース」という言葉を使用することから推察されるように、己の手で国家を操ること自体が目的であるように見える。彼は、スタンド・アローンなのである。自分は天才だという自信をちらつかせるゴーダに対し、バトーは、こう言って罵倒する。「個人的な思いつきを他人に強要しているだけでは、人の心を打つことはできない。そこには、善意でも悪意でもいい、何かしら確固たる信念のようなものがない限り、天才とか英雄と呼ばれる存在にはなれない」(第22話)。
 信念のないゴーダと対照的に描かれるのが、茅葺首相である。選挙を有利にする広告塔として担ぎ出された日本初の女性宰相で、情報不足のせいでしばしば優柔不断な態度を取り、官房長官に良いようにあしらわれているが、彼女こそは信念の人である。最終回のクライマックス、ゴーダの奸計に追いつめられた彼女が、最後に使った奥の手とは何か? それまでのストーリー展開を正しく読み取れた人ならば、「もしや彼女は…」という疑念から息の詰まるような緊張感を味わい、何を選択したか明らかになった瞬間、「ああ、国を愛するとはこういうことなのか」と胸を熱くするだろう。(推定される)実年齢とは懸け離れた若々しく美しいその容貌は、作者が彼女に1つの理想を託したことを示している。

【小論】手段のためには目的を選ばない男の末路
 士郎正宗の漫画『攻殻機動隊』の映像化作品には、押井守の劇場版2作、神山健治のテレビ版3作、黄瀬和哉の新シリーズ(『攻殻機動隊ARISE』+新劇場版)、ハリウッド実写版(未見)があるが、押井版第1作『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』と神山版『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』および本作は、いずれもアニメ芸術の到達点を示す偉大な傑作と言って良い。
 神山版第1作の設定を受け継いだ本作(『攻殻SAC2』と略す)では、国家の中枢で暗躍するゴーダの策謀と、これを未然に防ごうとする公安9課の活動が基本プロットとなる。前半では、個別エピソードのように思える話がいくつも挿入され、やや緩慢に話が進むが、後半になると、せせらぎが寄り集まって歴史の奔流となる様が描かれ、終盤8話は、息もつかせぬ怒濤の展開となる。
 日本には、『GUNSLINGER GIRL』『RIDEBACK』『BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail』『輪るピングドラム』『残響のテロル』など、テロリストを登場させた傑作アニメが少なくない。ハリウッド映画では、無差別テロリストは問答無用の悪党として容赦なく処断される。これに対して、日本アニメになると、「彼らはなぜテロに走るのか」「テロを防ぐためなら何をやっても許されるのか」といった問題に着目して深く掘り下げており、遥かに見応えがある。『攻殻SAC2』は、「国家権力によって捏造されるテロ」というアイデアをベースに、難民問題や軍産複合体などにも目を向けた社会派作品である。
 もっとも、扱う問題が大きすぎるため、一度で理解することは難しい。私も、初見の際には、英雄的なクゼに気をとられて途中からストーリーを十全に把握できなくなり、冒頭から何度も繰り返し見て、ようやく真価を感じ取れた。以下のレビューでは、再見しようという人のために、ネタバレ前提で作品の意味を解き明かしたい。

【社会的背景】
 舞台になるのは、第3次・第4次大戦の惨禍を経て、新技術による急速な復興を遂げつつある未来の日本。一時期、安価な労働力として大量のアジア系難民を受け入れたが、復興需要が一段落して労働力が過剰になり、難民を隔離・収容する全国数ヶ所の居住区はスラム化している。一方、国民の間には、難民が自分たちに失業をもたらす原因でありながら、彼らに税金が投入されることに対して不満が募り、反感が高まっていた。
 世界情勢に目を転じると、2度の大戦によってパワーバランスが大きく変わったらしい。もっとも、アメリカ(分裂した一方が「米帝」と呼ばれる軍事大国になる)と中国の冷戦が深刻化する状況は、2004年の制作時よりも現在の世界に似ている。
 こうした中で、親米派の官房長官らが、難民問題という火薬庫にワザと火をつけ、米軍の協力の下、これを一気に鎮圧することで、民意をまとめ強権的な体制を作ろうと思い立つ(断片的なセリフから、そう推測される)。社会が混乱したとき、敵対勢力をでっち上げて力で押さえ込み、主導権奪取を画策するのは、権力者の常套手段である。
 ただし、『攻殻SAC2』で描かれるのは、政治家たちの生々しい実態ではない。「難民問題に火をつける」という1点に全力を傾注するゴーダの姿である。

【ゴーダは何をやろうとしたか】
 ゴーダは、内閣情報庁の要職にある立場を利用し、情報技術(IT)を駆使して社会的な状況を「プロデュース」する。
 彼の策略は、2つの方向で進められる。1つは、コンピュータ・ウィルスを利用して難民排斥を扇動するテロリスト・グループ「個別の11人」を作り、彼らを英雄に祭り上げることで、国民の間にある反難民感情を増幅させること。記憶を改竄する技術(作品世界で開発済みとされる)を使って、「個別の11人」のメンバーに、自分たちは高邁な理想を胸にテロ活動をしていると錯覚させた。現代に置き換えるならば、SNSのフェイクニュースを利用した世論誘導といったところか。
 ここで重要なのは、記憶の改竄によって国民を直接扇動するのではなく、「個別の11人」という媒介者を利用した点である。直接的な扇動は、カラクリが露見したときに民意のベクトルを一挙に反転させる危険がある。しかし、まず媒介となる扇動者を作り上げ、彼らに対するシンパシーを広めておくと、より安定的かつ容易に民意をコントロールできる。ゴーダのやり口(と言うより、神山らによる脚本)は、実に考え抜かれている。
 もう1つの策略は、難民がプルトニウムを利用した核テロを画策中だと国民に思わせること。核に対する根源的な恐怖感が、反難民感情を掻き立てるからである。ロシアン・マフィアがプルトニウムを難民に売り渡すというシナリオを組み立て、手駒として利用できるクゼを動かした(らしい。はっきりとは描写されない)。日本政府側のゴーダがロシアからプルトニウムを調達するのは難しいので、廃墟となった新宿原発から抜き取ったものを利用した。
 2つの策略によって難民排斥の民意が固まり、アメリカの協力を得て一気にカタをつけるべく軍が動き出すところまでが、ゴーダの使命である。その先は、政治家が自分の思惑に沿って事を進める手筈だったのだろう。

【ゴータの人物像】
 『攻殻SAC2』で瞠目させられるのが、ゴーダという人間の姿である。事故で顔面を大きく損傷したのに、あえて修復せず異形のままでいたのは、自分を特別な人間に見せかける自己演出なのだろう。事故前はごく平凡な顔立ちの官僚で、その顔貌の通り、与えられた仕事に素早く対処できる有能な官吏だったと想像される。難民問題に火をつけるための策略は、実に綿密に練り上げられており、本人は天才の技だと思っているようだが、官僚的な処理能力を発揮したに過ぎない。火をつけた後に何をするか具体的なビジョンは語られず、明確な目的を持たないままテロという手段を策謀しただけである。
 連合赤軍事件、オウム真理教事件、911全米同時多発テロなど、現実に起きた事件を調べると、テロ後に何がどうなるかについて、関与した者がきちんと考えていなかったことがわかる。本人は理想のために身を捧げるつもりなのに、その理想を実現する上でテロがどんな役割を果たすのか、理解できていたとは思えない。むしろ、最終的な目的よりも、テロそのものが持つ破壊の美学に陶酔していたように感じられる。
 こうした事情に目を向けたアニメ作家が、自身が全共闘世代で学園紛争の実態を目の当たりにした伊藤和典や押井守である。伊藤が脚本を書き押井が監督した『機動警察パトレイバー』シリーズには、テロという手段だけが共通するテロリストたちの互助会(!)や、軍事力で実権を掌握したのに何の要求も出されない「クーデターを偽装するテロ」が登場する(前者は旧OVA版『機動警察パトレイバー』第2話「ロングショット」、後者は劇場版『機動警察パトレイバー2 the Movie』)。
 押井の薫陶を受けた神山が、テレビ版『攻殻機動隊』シリーズを構想するに当たり、これらの作品を参考にしたことは間違いない。特にゴーダは、「手段のためには目的を選ばない」人間であることが強調される(アメリカが弱腰になったとき、中国と手を組むことも視野に入れていた)。
 こうしたゴーダの特性を象徴的に示すのが、パトリック・シルベストルの著書「初期革命評論集全10巻」に続くとされる、幻の第11巻「個別の11人」である。実は「個別の11人」という著作は実在せず、ネットで探し出して読もうとするとウィルスが発症するという仕掛けなのだが、ウィルスに操られている者は、これを読んで感銘を受けテロリストとして目覚めたという偽の記憶を植え付けられ、心の底から信じてしまう(この状況を描写した第12話「名も無き者へ」のシーンは、肌が粟立つほど恐ろしかった)。テロリストの理想が完全な虚構でしかないという設定は、ゴーダの無目的性を象徴的に表す。
 実は、脚本を執筆した神山は、当初、三島由紀夫の著作を引用しようと考えたようだ。しかし、理想が空っぽだという見解を示すのに、現実の作家を持ち出すのは明らかに不適当である。シルベストルという(現実世界から見ると)架空の思想家の(作品世界において)実在しない著作という二重の虚構性によって、目的がはっきりしないままテロが遂行されるという現実的な恐怖が際立ったわけであり、三島からシルベストルに変更したのは正解だった。
 ビジョンを欠いたまま手段に関して緻密な策略を練り上げ、それだけで自分は天才だと自惚れる小役人的なゴーダを、バトーは、次のような言葉で罵倒する(第22話「無人街」):「お前はやはり、二流だな。…(中略)…個人的な思いつきを他人に強要しているだけでは、人の心を打つことはできない。そこには、善意でも悪意でもいい、何かしら確固たる信念のようなものがない限り、天才とか英雄と呼ばれる存在にはなれない」

【反撃する公安9課】
 『攻殻SAC2』の物語が始まったとき、すでにゴーダの策略は大半が完成していた。内閣情報庁の機能を利用してレールを敷き終えており、いくつかの不確定要素を除くと、後はシナリオ通りに事を運べば良い。
 反難民テロにおける犯人の不可解な行動などをきっかけに、公安9課の荒巻課長は、背後に何らかの謀略が蠢いていると気がつく。草薙素子ら9課のメンバーに調査を命じるものの、全体像がなかなか見えてこないまま、状況は悪化するばかりである。視聴者も、このジリジリするような経過に付き合わされ、少しずつ提示される断片的な情報に混乱させられる。人によっては、この部分が面白くないと感じるかもしれない。しかし、事態の深刻さ・巨大さを納得させるためにも、このジリジリ感が必要なのである。
 ゴーダの策略に対して完全に出遅れた公安9課だったが、情報を集めながら少しずつ体制を立て直し、ある出来事をきっかけに最終的な逆転劇へと突き進む。こうした序破急の展開は、終盤における圧倒的な迫力を生み出す。
 策略が崩壊するきっかけの一つは、難民が核テロを計画しているというデマにリアリティを付与するため、プルトニウムの実物を使ったことである。「ロシアの軍事施設か、原発の使用済み燃料か」といったプルトニウムの出所は、同位体組成を分析すれば突き止められる。草薙素子は、バトーを使ってゴーダの気をそらしている間にプルトニウムを横取りし、一気に形勢逆転を図る。
 さらに、シナリオから逸脱する2つの不確定要素が、ゴーダの策略を狂わせる。1つは、難民のリーダーとなるクゼで、ともすれば低きに流れがちな民衆を教導する宗教的英雄然とした姿を示す。もっとも、核武装して難民居住区を独立させるという発想は、おそらくウィルスに由来するものであり、武力行使を極力回避するという主張も難民に浸透していなかったので、登場シーンが多い割に、その役割はあまり大きくなかったようにも思われる。このことは、神山自身、承知の上なのだろう。クゼは、義体の仕様で口がほとんど動かせないが、これは、その英雄的風貌に視聴者が感化され過剰な思い入れをしないように、敢えて設定した欠陥かもしれない。
 クゼよりも重要なもう1つの不確定要素が、茅葺首相である。最初見たときには、彼女の立ち位置がよくわからず、終盤の急展開で少し混乱したが、再見して漸く、彼女こそが『攻殻SAC2』において決定的な役割を果たすキーパーソンだと気がついた。

【茅葺首相の役割とは】
 日本初の女性首相となった茅葺は、選挙のために担ぎ出された人寄せパンダである。官房長官による裏工作のせいで充分な情報を入手できないため、優柔不断に見える行動しか取れず、内閣ではいいようにあしらわれている。しかし、こうした外見とは裏腹に、明確な信念に基づいて日本のために尽くそうとする、真面目でひたむきな政治家である。
 ラストのクライマックスで、彼女は、ある決断をする。それ以前に、彼女が親中派だと思わせる描写があり、米軍を利用した策謀をひっくり返すため、中国に頼るのではないかという疑念を視聴者に抱かせるのだが…。私は、決断の中身が何かわかったとき、胸が熱くなった。彼女は保守的な愛国者ではあっても、パワーポリティクスに与する権力志向の政治屋ではない。自分の理想を軍事大国に向かってはっきりと主張できる度量がある。
 『攻殻SAC2』では、茅葺首相が思うように事を運べず、官房長官の言いなりかと見える出来事がいくつも起きる。にもかかわらず、決して悪し様には描かれない。草薙素子が「課長の好みのタイプ」と茶化すシーンもあるが、荒巻は、その言葉を素直に肯定する。難しい決断が必要なときには座禅を組み、暗殺者に狙われても意志を揺るがせない彼女の姿は、若々しく美しい顔立ちと相まって、作者が理想を託したことを窺わせる。

ダーティペア

【評価:☆☆☆☆】
 放送版24話+OVA版2話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 『魔法の天使クリィミーマミ』『うる星やつら』『機動警察パトレイバー』などとともに、80年代テレビアニメを代表する名作である。
 原作は高千穂遥のSF小説。22世紀の宇宙を舞台に、WWWA(世界福祉事業協会)に所属するトラブルコンサルタント・ラブリーエンゼル(通称ダーティペア)のユリとケイの活躍(というより暴挙)を描く。私はアニメ視聴後に第1巻「ダーティペアの大冒険」を読んでみたが、能天気なトークとライトなお色気(死語)が売りのスペースオペラで、アニメほど面白くない。
 アニメの素晴らしさは、優秀な脚本陣によるところが大きい(作画は、どうしても年代を感じさせる)。80〜90年代における日本アニメ革新の立役者である伊藤和典をはじめ、星山博之(代表作『機動戦士ガンダム』)・井上敏樹(『仮面ライダーアギト』)・島田満(『ロミオの青い空 』)・金春智子(『NANA』『君に届け』)・平野靖士(『シティーハンター』)・大川俊道らが参加した。序盤の何話かは調子が出なかったものの、ユリとケイのキャラが明確になるにつれて脚本家やアニメーターがノッて来たのだろう、回を重ねるほど作品の質が上がっていく。
 (小説版のイラストを描いた安彦良和に代わって)美少女を得意とする土器手司がキャラデザを担当したこともあって、ユリとケイは、ヌードやパンチラのシーンでもあまりセクシーではなく、強くて可愛い現代的な女性として描かれる。ボーイッシュなケイもそれなりに魅力的だが、私はユリに共感する。12年間ロケットに入れて大切に持ち続ける恋人の写真がただの悪ガキのスナップだったり(第8話)、愛しい人からの贈り物とひたすら可愛がる九官鳥がしゃべる唯一の言葉が「××!」だったり(第24話)と、その強烈なマジボケは、昨今のアニメのボケキャラが敵うところではない。この2人に何をさせようかと、毎回毎回スタッフが真剣に頭をひねったことが窺える。
 優れたエピソードは数多い。良くある遁走劇ながらラストのオチが小気味よい第11話「ホホホ、ドレスと男はオニューに限る」(脚本:島田満)、有名な古典をベースにしたハードSFである第12話「小さな独裁者!触らぬ機密にたたりなし」(脚本:平野靖士)、映画『空の大怪獣ラドン』のメガヌロンのエピソードを彷彿とする第13話「何よこれ!玉のお肌がドロンドロン」(脚本:伊藤和典)、軽いギャグで始まり途中からシリアスな展開となる第18話「ごめんあそばせ 走る迷惑 強行突破!」(脚本:大川俊道;原画スタッフに新房昭之の名が見える)、珍しいコンゲーム・アニメの第23話「不安だわ…!?うちらの華麗なる報復」(脚本:島田満)などが、私のお気に入り。
 テレビ版『ダーティペア』に関しては、放送トラブルについて指摘しておかなければならない。終盤に向かって盛り上がりを見せていたにもかかわらず、日本テレビは、なぜか制作途中の2話を残したまま、サイコホラーのパロディという異色作・第24話「かなりマジ?マンションは危険なアドレス」(脚本:井上敏樹)をもって放送を打ち切った(地域によっては第23話で終了)。制作スタッフはかなり不満を覚えたのだろう、残り2話を完成させて1年後にOVAとして発売したが、この2話は、いずれもシリーズ中屈指の秀作である。第25話「ええっ!洋館の坊やはターミネーター」(脚本:星山博之)は、タイトル通り映画『ターミネーター』のパロディで、本筋はともかく細部は緻密に作り込まれていて見応えがある(私は料理ロボットのギャグが好きで、これによって「エクルヴィスのサラダ」なるメニューを知った)。第26話「ホ、本気!?美女にキャノン砲は脱出のキーワード」(脚本:大川俊道)は、全編の大団円に相応しい重厚な作品。冒頭に登場してすぐに消える新米が泣かせる。現在、DVDや再放送では、OVA版2話を含めた全26話のシリーズとして扱われている。
 なお、『ダーティペア』シリーズとしては、テレビ放送終了後も、劇場版1作・長編OVA2作・短編OVA5巻(全10話)、および、同名の別キャラを主人公とするOVA『ダーティペア FLASH』が制作されたが、いずれもテレビ版には遠く及ばない(短編OVAは、そこそこに面白い)。

FLAG

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 富野由悠季とともにリアルロボットものをリードしてきた高橋良輔(原作/総監督)の、到達点にして新たな出発点となる作品。Web配信という形で発表されたこともあって知名度は高くないが、戦争アニメの最高峰と言っても過褒ではない。多くの人に見てほしい傑作である。
 ここで取り上げられるのは、戦争の虚像と真実というテーマである。戦争の実態をゆがめた情報は、かつては主戦国政府が意図的に捏造したが、現在では、ジャーナリストが報道の名の下に垂れ流している。湾岸戦争の際、米軍はピンポイントで軍事拠点のみ破壊し、市街地を狙ったイラクのミサイル攻撃をパトリオットで迎撃したと報じられたが、戦後になって、ピンポイント攻撃できたのはごく一部にすぎず、パトリオットによる迎撃はほぼ全て失敗したことが明らかにされた。イラク戦争においては、バクダット陥落時に独裁政権崩壊を喜ぶ市民が広場に集まったとされるニュース映像が流されたものの、広場の全景を映した引きの映像がないことから、メディアリテラシーの持ち主は、バクダット市民が米軍侵攻を決して歓迎していないと気づいたはずである。
 『FLAG』の舞台となるのは、国連軍が介入したために内紛が泥沼化した中央アジアの架空の小国・ウディヤーナ(マンダラを用いた密教系の仏教が信仰されていてチベットを連想させるが、あくまで戦闘と宗教を並行して描くために設定された舞台であり、現実のチベット問題と絡めて解釈しない方が良いだろう)。そこに、同じ戦争を異なる立場から見つめる二人のジャーナリストが降り立つ。
 語り手となるカメラマン・赤城圭一は、フリーの立場で戦地に赴き、テロリスト殲滅という大義名分の陰で、国連軍による攻撃が市民に大きな被害を与えている実状を知る。一方、彼の後輩カメラマンである白州冴子は、国連軍の“御用”報道員として、2足歩行型ロボット兵器を擁するシーダック隊に同行、テロリストに奪取された平和の象徴である旗(FLAG)を国連が奪い返す過程を撮影する。このFLAG奪還作戦が、報道でしか戦況を知り得ない一般市民向けの茶番であることは、作品冒頭から示唆される。さらに、二人のジャーナリストの間には微妙な感情の行き違い(一方は恋心を抱いているようだが、他方はそうではない)が存在しており、これが全編に漂う重苦しい閉塞感を醸し出す。
 この作品で特徴的なのは、第三者的な視座が徹底的に排されている点。同じ戦争であるにもかかわらず、赤城と白州が目の当たりにするものは全く異なっており、赤城の体験は、ファインダーから見える光景と赤城自身のモノローグによって、白州の体験は、彼女が撮影した映像ないしモニターや通信の記録によって、それぞれ描き出される。短いカットの中に錯綜した無数の断片が提示され、まるでひび割れた合わせ鏡のようで、知的な面白さも味わえる。
 カメラやモニターなどの機械が切り取った断片的な情報を通じてストーリーが展開されるため、多くの戦争アニメで見られるような、非現実的な激しい動きやまばゆい光の明滅を用いた派手な演出−−いわゆる子供だまし−−はない。戦闘に参加する隊員も、訓練を受けた職業軍人らしく、感情を表に出さず冷静かつ的確に行動するだけである。しかし、彼らの抑揚を欠いた音声からは張りつめた緊張感が滲み出ており、状況を把握できるだけの想像力のある視聴者は、凄まじい迫力を感じられるはずだ。特に、第6話「闇の中の光」における迷宮のような要塞内部での攻防戦は、あまりの緊迫感に見ていて戻しそうになった。アニメで人が死ぬさまを描いても、所詮は単なる絵でしかないためリアリティが感じられない場合が多いが、『FLAG』では、殺戮シーンがモニター画面の抽象的な映像として描かれることで、かえって人を殺す生々しさがひしひしと伝わってくる。湾岸戦争の映像で実戦がゲームのように見える異常さを味わった人は、このアニメから「ゲームのような戦争」が隠し持つ生々しさを感じ取り、戦慄するだろう。
 予算が限られていたからか、画の動きは乏しい。しかし、この制限がある故に、演出家は何をどう動かすべきかを徹底的に考え抜いたようだ。手持ちカメラを思わせる画面の揺れやタイムラグのある焦点補正などを丹念に描いた結果、莫大な予算を投じた大作アニメよりも、奥行き方向の拡がりを感じさせる優れた作画が実現された。この作画を高く評価できない批評家は、アニメを見る目がないと断定したい。
 『FLAG』で最も含蓄があるのは、しばらく離れていた二人のジャーナリストが再会する場面だろう。民衆の側に立って戦争の実態を剔抉しようとする赤城は、国連軍の活動をテロ撲滅のための正義の戦いとして撮影する白州に対して、批判がましい言葉を連ねていた。しかし、だからと言って、赤城の方が戦争の真実を正しく把握していたとも思えない。何よりも、戦闘の現場に肉薄し、隊員の心情を深く感じ取っていたのは白州の方なのだから。再会の場面では、赤城がファインダーごしに白州を見るのと同じように、白州もまたファインダーごしに赤城を見ていた。この状況は、二人の立場のうち一方が優位なのではなく、互いに相対的であることを象徴する。
 アニメ『FLAG』は、曖昧ではないが多義的であり、単純な解釈を拒む。戦争の真実など存在するのか? あるのは、ただ無数の断片的な記録と、しばしば相互に矛盾する人々の記憶だけではないのか? −−そんなことを考えさせる作品である。

Witch Hunter ROBIN

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 2002年にテレビ東京で放映されたものの、映像が地味なせいかあまり評判にならず、低い知名度に甘んじている作品だが、『FLAG』や『ライドバック』などと並ぶ隠れた傑作として高く評価したい。
 この作品で取り上げられるのは、中世ヨーロッパの魔女狩りを思わせる超能力者に対する排斥活動。作中でウィッチと呼ばれる超能力者は、犯罪性向の高い危険な存在として、STN(ウィッチと対抗し得る超能力者を擁する組織)の専従班による捕縛・抹殺が進められている。物語は、STNの日本支部に、失われた超能力者の交代要員として、パイロキネシス(発火能力)を有するロビンが着任するところから始まる。
 魔法使いとは異なるリアルなキャラとしての超能力者は、進化論と遺伝学の知見が普及する20世紀になって生まれたSFの華である。超能力者をフィーチャーした最初期の作品であるステープルドン『オッド・ジョン』(35年;SFファンなら必ず読んでおくべき傑作)で早くも社会から異端視される姿が描かれ、新人類・スランに対する弾圧を描いたヴァン・ヴォークト『スラン』 (46年;今読むと悲しいほど時代を感じさせる)が人気を呼んだことから、「超能力者の排斥」はSFの定番テーマとなった。日本では、竹宮恵子『地球へ…』、萩尾望都『スターレッド』など、漫画に傑作が多い。『Witch Hunter ROBIN』もこの系譜に属する作品だが、『スラン』以降の諸作に目立つ表面的な派手さを追い求めず、排斥がどのように行われるかを淡々と描き出す点に特徴がある。
 前半(〜第15話)では、ロビンを含む対ウィッチ専従班によるウィッチハントのエピソードが1話完結スタイルで紹介されていくが、何を考えているかわからない寡黙なリーダー・亜門をはじめ、事なかれ主義の署長や遅刻サボリの常習者であるギャルなど、特殊犯罪の撲滅を目指すチームとは思えない覇気のなさが目立つ。しかし、エピソードを重ねるにつれて、登場人物の多くに何か裏があることが少しずつ示され、さらに、魔女狩りの歴史に触れたエピソードを経て、第15話「Time to say Goodbye」で話の流れが一変する。視点がハントする側からハントされる側へと変わり、それとともに、STNという組織自体が抱える内部矛盾と、ウィッチハントを巡るさまざまな謀略が明らかになってくる。前半は、後半に備えて伏線を張り巡らす準備段階にも見えるが、それだけでなく、日常的な光景をきちんと描き込むことによって作品世界の奥深さを際だたせ、後半のテーマを明確にする役割がある。この部分で作者(監督の村瀬修功と考えて差し支えない)の意図を正しく読み取れなければ、ミステリアスな雰囲気だけのアニメと誤解し、最終回で明かされる真相を肩すかしだと憤る結果になるだろう。
 『Witch Hunter ROBIN』最大の魅力は、ヒロイン・ロビンのキャラにある。イタリアの修道院で育てられたハーフという設定で、強大な能力を持つにもかかわらず、生真面目でストイック。世間ずれしていない故のささやかなミスも可愛い(私は、第25話でソバを配るエピソードが好き)。ふだんは足下まである黒のロングコートというゴシック風ファッションを身につけているが、邪魔にならないように縛った髪をほどくと、驚くほどあどけない少女の顔立ちになる。夜、全裸で寝る姿は、妙に色っぽい(裸で寝る風習は欧米では珍しくなく、ネグリジェのような虚飾をまとわないという意味もあって、彼女が修道院育ちであることを思い出させる)。後半では、ロフトに敷かれた寝具以外には剥き出しのバスタブと便器しかないガランとした部屋で生活するが、彼女の禁欲的な精神世界を反映しているようで、愛しい。
 ロビンの持つ超能力が、炎を操り全てを焼き尽くすパイロキネシスだという点も重要である。超能力者をメインに据えたアニメは数多くあるものの、私が優れた作品と評価するのは、本作と『DARKER THAN BLACK』くらいで、それ以外(盛り込みすぎの設定が上滑りした『スクライド』『ギルティクラウン』、人物描写にリアリティがない『とある魔術の禁書目録』『新世界より』など)は、あまり高く買わない。このジャンルに優れたアニメが少ないのは、小説や漫画のように地の文で超能力の実態を説明できず、激しい爆発や光の明滅といった視覚効果が優先されて、人間と超能力の関わりに深く踏み込めないためではないかと想像するのだが、その点、パイロキネシスは、何が起きるかイメージしやすく、小説・漫画よりもむしろアニメの方が迫力を出せるので、ストーリー展開を阻害しないというメリットがある。さらに、炎が宗教的な浄化作用を思わせることもあって、ストイックなロビンに相応しい能力である。本作における超能力者同士のバトルが、しばしばあっけないほど一方的になるのも、超能力が何を象徴するかを考えれば、きわめて当然と言える結果である。

四月は君の嘘

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 クラシックの演奏家を目指す少年・少女を主人公とした感動作だが、私のようなすれたクラシックファンは、素直に感動できない。
 原作は新川直司の漫画。クラシック演奏家を取り上げた漫画には、このジャンルの古典と言える竹宮恵子『変奏曲』をはじめ、さそうあきら『神童』、一色まこと『ピアノの森』、二ノ宮知子『のだめカンタービレ』などがある。興味深いことに、これらを映像化した作品は、多くの場合、音の出ない原作に遠く及ばない(上記作品のうち『変奏曲』以外は、いずれも実写映画ないしアニメになっているが、私の見る限り、原作に匹敵するのは、アニメ版『のだめカンタービレ(第1期)』だけだ)。こうした現象の背景には、映像作家の錯覚がある。音楽を取り上げながら音がないのは欠点であり、音を付けることで作品世界はより豊かなものになるはずだ−−そう思って、音楽をたっぷり聞かせるのだが、実は、これは逆効果なのである。原作漫画では、通常、音は読者の想像力に任せ、音以外の要素をいろいろと付け加えている。こうした付加的な要素をフラッシュバックやモノローグの形で演奏シーンにかぶせても、漫画ならば、欠落した音の代わりとしてドラマを盛り上げてくれる。ところが、実際の音が聞こえる映像では、付加的要素が音楽の流れとバッティングし、往々にしてひどく聞き苦しい結果になる。しかも、クラシック音楽を取り上げた漫画では、読者が旋律を思い浮かべやすいようにポピュラー名曲(本作で言えば、ショパンのエチュードや「序奏とロンド・カプリチオーソ」など)が選ばれがちなので、そのまま映像に使うと、音の流れが遮られた際の不快感はいっそう大きなものとなる。
 私がアニメ『四月は君の嘘』を楽しめなかったのは、監督が音楽漫画を映像化する方法論に自覚的でなく、原作の演奏シーンに安易に音を付けてしまったことが大きい。美しい旋律が流れる中で主人公が延々と愚痴をこぼしたり、途中で演奏が乱れて不協和音になったりすると、ほとんど生理的に耐えられない。終盤では、ショパン「バラード第1番」がバイオリンの伴奏付きに編曲されたものが登場するが、まるでムード音楽のようなアレンジで、苦笑してしまった。
 ついでに言えば、人物を極端にデフォルメしたマンガチックな作画が、コミックリリーフに留まらずにドラマの重要なシーン(例えば、主人公のピアノ演奏に心打たれた少女が泣き出してしまうところ)でも採用され、感情移入を阻んでいる。監督は、どうすれば視聴者の感情を揺さぶれるか、あまり考えていないように思える。
 さらに、『四月は君の嘘』は、少年向けの作品としては異様なほど多くのテーマを抱え込んでいる。音楽漫画らしく、楽譜に忠実な演奏と自由奔放な演奏の対比や、思うように上達しない演奏家の苦悩も描かれるが、それだけでなく、高圧的な親による子供の支配、ストレスによる心因性障害の発症、進行性の難病と未成年の自己決定権−−といった深刻な題材が取り上げられ、おまけに、「幼なじみが恋愛対象に変化する」という定番テーマがサイドストーリーとなる。これらが有機的に連係されてドラマを盛り上げれば面白いのだが、むしろ、テーマが乱立して物語を分裂させたという感が強い。事態が深刻化しても、決着を付けないまま別のテーマに転換する場面も多く、「ああ、作者は逃げたな」と思うこともたびたび。漫画ならば、作品の中心部に「音のない演奏シーン」という一種の空白域が存在するので、この空白域の周囲にさまざまなテーマを配置することも可能だが、アニメでは派手な音楽が鳴るため、かえって分裂感が募る。
 もっとも、個別的に見れば、優れたシーンは少なくない。特に、第18話「心重ねる」における連弾の場面では、音楽の流れが遮られたり演奏が乱れたりすることなく、音楽を通じて心を重ね合う過程が素直に表現されており、感動的だ。クラシック音楽に馴染みがなく、深刻な問題を正面から取り上げた文学や映画とあまり縁のない青少年には、人生ドラマ入門編として勧められるだろう。


【補記】音楽を描いた文学を映像化した作品として究極的な傑作が、ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』である。この映画は、トマス・マンの同名小説とともに、同じマンの『ファウストゥス博士』から多くの素材を取っている。『ファウストゥス博士』では、霊感を得るために娼婦エスメラルダと交わって意図的に梅毒に感染し破滅していく作曲家の姿が描かれ、その合間に、音楽についての饒舌な語りが挿入される。下手な映像作家が取り上げると、この語りと音楽を併せて映像化したくなるところだが、ヴィスコンティは、そんな愚は犯さない。マーラーとシェーンベルクの関係を連想させる音楽論議の部分には、(娼館を訪れるシーンと同じく)断片的でそっけない音を付けるにとどめ、主人公の作曲家が美に惑溺して破滅へと向かう最も枢要な場面では、台詞を削ぎ落として映像と音楽の相乗効果を最大限に利用する。オペラの演出を手がけたこともあり、音楽の持つ力を知悉したヴィスコンティの本領が発揮されている。これを手本にせよとは言わないが、せめて、こうした作品があることを認識した上で、音楽漫画の映像化を試みてほしい。

暗殺教室

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 近年、編集者の目に留まりやすくするためか、きわめて突飛な設定で始まるラノベや漫画が増えてきたが、本作の原作となる松井優征の漫画も、クラスの生徒全員が担任教諭の暗殺を狙っているという、斬新と言うよりは馬鹿馬鹿しい設定。学園にいる暗殺者を扱った作品には、4コマ漫画『キルミーベイベー』、PCゲーム『グリザイアの果実』や『ダンガンロンパ 』、漫画『悪魔のリドル』などがあり、これらは本作に先行してアニメ化されていた。そのせいもあって、どうせ二番煎じで設定倒れに終わるだろうと高を括って見始めたのだが、予想は良い意味で裏切られた。
 『暗殺教室』が成功した鍵は、設定は突飛ながら内容は至極まともな教育ものにしたところ。暗殺の標的とされる教諭(殺せんせー)は、月を砕き地球の破壊を予告する超生物なのに、なぜか、名門私立中で落ちこぼればかり集めた“エンドのE組”の担任になることを希望する。その際、契約によって殺せんせーは生徒に危害を加えることが禁じられるが、生徒たちには賞金100億円で殺せんせーの暗殺が勧奨される。こうして、E組の生徒は機会あるごとに暗殺を試みるものの、殺せんせーは一向に動じることなく、落ちこぼれの烙印を押されてやる気をなくしていた生徒たちを目覚めさせるべく、真摯な教育を行う。
 型破りな教師が人生の指針となる優れた教育を行う話と言えば、P.ウィアー『いまを生きる』やM.リット『コンラック先生』などが思い出されるが、今まさに学校に束縛されている現役中高生にとって、これらの“名作”はあまりに教条的で、教育現場の実態から乖離していると感じられるだろう。作中の生徒と同年代の子供からすると、大人の発想でリアルに見せかけた作り物の学園生活よりも、設定を思いっきり非現実的にした方が、内面的な部分に自分なりの思い入れができるため、逆に心に迫るものがある。『暗殺教室』は、設定が突飛であるが故に、かえって従来の名作にはない訴求力を持ち得たのである。
 もちろん、設定が設定なだけに、ストーリーは破綻しまくっている。多くの生徒は殺せんせーにはっきりとシンパシーを示しているのに、平然と殺しにかかる。暗殺者の教師や転校生が散発的に送り込まれるものの、任務に失敗した後のフォローがされない。生徒間差別は、名門中学にはあり得ないほど陰湿。作品の出来も、第4話まではお世辞にも褒められたものではない。ところが、校長までE組いびりに加わる全校集会を扱った第5話「集会の時間」Bパートから、吃驚するほど面白くなる。このエピソードでは、荒んでいたE組生徒がいつの間にか生き生きとしていることが示されるのだが、何かに真剣になることが人々を前向きにし、共通の秘密が連帯を強固にするという、(『金八先生』のような)リアルな学園ものの枠内で描くと教訓臭が鼻につくテーマが、非現実的な設定の中でうまく料理されている。表面的なストーリーとは別の所に、ドラマを用意しているのだ。こうした語り口は、以後のエピソードにも受け継がれ、第7話「修学旅行の時間 1時間目」や第9話「転校生の時間」には、ちょっと涙ぐむほど感動した。
 監督の岸誠二は奇を衒った演出を好み、『天体戦士サンレッド』のようなギャグアニメではそこそこ面白みを発揮するものの、はっきり言って心理描写は下手で人間ドラマには向かないタイプ。『Persona4』『蒼き鋼のアルペジオ』『ハマトラ』などは、中身のない脚本に派手な映像を付けただけの凡作。これまで私が高く評価した唯一の岸作品は『人類は衰退しました』だが、非現実的な寓話風の原作に岸の作風がマッチしたという点で、本作と共通する。
 『暗殺教室』における岸の演出は、他作品に比べると、派手さを抑えて心理に集中している。第13話「才能の時間」では、(1)生徒全員をパンで捉えるシーンでの3段分割(Bパート55";逡巡)、(2)渚が鷹岡に近づく際のコマ伸ばし(3’53";意企)、(3)烏間の静止画に対する背景のズームアウト(4’39";驚愕)など、基本に忠実なオーソドックスとも言える心理表現を見せ、「やればできるじゃない!」と思ってしまった(演出を担当した福岡大生の功績かもしれない)。
 この回のラスト近く、烏間に教育者としてのジレンマを問われたとき、殺せんせーは答える。「答えに迷うでしょうね。ですが、迷わぬ教師などいない。本当に自分はベストの答えを教えているのか、内心はさんざん迷いながら、生徒の前では、毅然として教えなくてはいけない。決して迷いを悟られぬように、堂々とね。だからこそ格好良いんです、先生って職業は」。高校生の頃、思いっきり予習し超難解な議論(ルネサンスの歴史的意義に関してブルクハルトやホイジンガの解釈を持ち出すとか)を吹っ掛ける教師いじめをしていた自分を、少し反省した。

NANA

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作(矢沢あいの漫画)一部既読。
 新幹線の車内で偶然隣り合わせになった小松奈々と大崎ナナ。名前と年齢、さらに、地方から恋人を追いかけて単身上京するという境遇まで共通する不思議な縁で結ばれた二人のNANAは、それぞれの夢を追い求めて、古びたマンションの707号室で共同生活を始める…。冒頭に提示されるこの設定を見た視聴者は、二人が苦難の末に夢をつかむハッピーエンドの物語を予想するだろう。しかし、そんな単純な話にならないところが、『NANA』の面白さである。
 先にアニメ化されていた矢沢あい原作の『Paradise Kiss』は、ファッション業界に生きるデザイナーやモデルを描いたものだが、虚飾に満ちた空疎な日々をさも充実した人生であるかのように振る舞う登場人物は、見ていて痛々しかった。アニメ『NANA』も、前半(〜第21話)では、好きな男性と結婚し愛に包まれた生活を送ることを夢見る奈々と、ボーカリストとしての世俗的な成功を目指すナナを中心に、かなり軽薄なストーリーが展開され、少々うんざりさせられる。ベッドシーンや(未成年を含む)飲酒・喫煙シーンも多く、アニメに対する規制の厳しい欧米ではX指定になりそう。大崎ナナは、それでも前向きに音楽活動に励み、前半の白眉となる第15話「ブラスト、初ライブ」では、スター性を感じさせる華やかなステージを見せてくれるが、もう一人のNANAである小松奈々は、心と体の隙間を埋めてくれる男を求めてフラフラするばかり。人間として薄っぺらで、描写にもシンパシーが感じられない。おそらく、監督の浅香守生は、奈々のような女が嫌いなのだろう(私も大嫌いである。首を絞めてやりたい)。奈々とナナの物語がほぼ半々ずつ展開される前半は、『Paradise Kiss』と同じくらいつまらない。
 しかし、後半に入ると、話の流れが大きく変化する。第26-27話における奈々とナナのすれ違いが予兆となり、事態は思いも寄らぬ勢いで深刻化していく。特に、花火のように儚い一瞬の幸福を描く第30話「決壊ギリギリ、ナナの心」から、破局が決定的となる第36話「ブラスト新曲!!」に至る人間ドラマは見応えがある。表面的には奈々が退っ引きならない状況に追い込まれるのだが、心が壊れるのはむしろナナの方だ。矢沢の原作でも、この部分の描写は、連載開始当初の軽いノリとは異なって、繊細なタッチで心の襞を巧みに描き出す。アニメにおける浅香の演出も素晴らしい。例えば、第36話のラスト、ナナが置き手紙を見つけた瞬間に画面がゆっくり回転し始め、奈々の部屋に入ると、巨大な月がのぞく窓がどこまでも遠ざかって異様に広い空間が現出する。ナナの心象の見事な映像化だ。
 おそらく矢沢あいの当初の構想では、性格も生き様も対照的な二人を対比しながら交互に描く予定だったろう。小松奈々は、男に依存し可愛い妻になることだけが願望のようで、その実、自分が勝手に作り上げたイメージの世界で自足しており、他人を傷つけても自覚のないまま平然と生き抜く図太さを備えている。一方の大崎ナナは、過激なファッションを身にまとい、いつも突っ張っているはみ出し者として振る舞うものの、心が脆く傷つきやすい。恋愛に関しては古風な考えの持ち主で、ステディ以外に好意を持ちそうになると、それだけで自分に怯えてしまう…。確かに対照的ではあるが、ドラマのヒロインとして見ると、読者/視聴者を共感させる力に差がありすぎ、この二人を同じウェイトで扱うのは無理がある。等分にエピソードを割り振って奈々とナナをバランス良く描く前半から、バランスを壊して大崎ナナに傾倒していく後半への転換は、意図せざる必然と言って良いだろう。
 後半では、ナナの精神的危機が大きなテーマになるとともに、彼女に関わる人々の人物像が掘り下げられる。目的達成のため高圧的に他人を操る怜悧なやり手に見えたタクミは、実は心に闇を抱えたナイーブな青年であり、歌姫として華やかなスター街道を歩むレイラは、密かに恋する人に顧みられない虚しさから彷徨する。誰よりも深い共感を持って描かれるのがヤスで、悟りきった人畜無害の存在に見えながら、本当に大切な人のためにはどんな犠牲も厭わない漢(おとこ)である。彼らの存在が重みを増すことで、『NANA』の世界は、表面的な風俗を超えて人間の本質に迫るドラマとなり得たのである。
 アニメの最終回、突如、話が数年後に飛び、状況がさらに変転することを示唆したところで幕が下りる。まるで第2期の予告のようで、局側もその気だったと思われるが、原作が中断したこともあって、続編は幻となった。しかし、それでもかまわない。たとえ制作されたとしても、第2期が陰々滅々たる話になることは目に見えているし、中絶にも思える終わり方は、むしろ余韻を残すための浅香のテクニックだとも感じられる。ちょうど、『カラマゾフの兄弟』のラストにおける「カラマゾフ万歳」の叫びのように。
 作画は全般的に丁寧で、好感が持てる。後期OPアニメの冒頭、胎児のように体を丸めたナナが宙から落ちて緩やかにバウンドする映像は、実に印象的だ。音楽バンドをフィーチャーしている割に練習を含めた演奏場面は少ないものの、時折挿入されるライブシーンは迫力充分。クラシックファンの私でも、ブラストはカッコいいと感じる。

DEATH NOTE

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作(大場つぐみ+小畑健の漫画)全巻既読。
 そこに名前を記入するだけで、人の死を自在に操れるデスノート。死神が人間界に持ち込んだこのノートを使って、法的に罰せられぬ犯罪者を自身の手で断罪する天才青年・夜神月(やがみライト)と、これを幼稚な正義感に基づく連続殺人として糾弾する名探偵・L(エル)との間に、熾烈な頭脳戦が繰り広げられる…という話のつもりらしいのだが…。
 天才的な犯罪者と名探偵の対決を見せ場にした物語は少なくないが、両者を同程度に描き込んだ作品で傑作と言えるものはほとんどない。ヴァン・ダインやクイーンらによる本格推理小説では、犯人が誰か分からないまま探偵が推理を展開するだけだし、犯罪者の側から事件を描く倒叙ものになると、探偵の推理はラスト近くになって漸く示されることが多い。両者を等分に描こうとすると、怪人二十面相と明智小五郎が対決する少年探偵団シリーズのように、どうしても掘り下げの浅い娯楽作品になってしまう。これは、ある意味、当たり前のことである。犯罪者でも探偵でもない作家が頭の中であれこれ考えてみても、双方の立場から見て齟齬のないようにストーリーを組み立てるのは至難の業だからである。
 それでは、『DEATH NOTE』の原作者・大場つぐみは、どうやってこの難題を克服しようとしたのか? 方法論は単純である。作品の中だけで通用するルール(主に、デスノートや死神が従うルール)を考案し、ライトとエルは、このルールに沿って頭脳戦を繰り広げることにしたのである。こうすれば、現実的な観点からすると少々おかしな展開であっても、作品世界における独自のロジックによるものとして、ストーリーの破綻を回避できる。例えば、デスノートに記入された内容が不合理なとき、どこまで記入者の思い通りになるかは状況によって異なるが、この曖昧さがあるため、ライトが無謀なやり方で事態を進展させても、「この世界ではこうなるのだ」と許容されてしまう。話が進むにつれて、頭脳戦における新たな戦略を可能にするためにルールが次々と付け加えられていき、それに応じてライトとエルの闘いは複雑怪奇なものになっていく。原作では、読者に提供される情報量が増え続け、説明のための文字が画の余白を黒々と埋め尽くす。ここまで来ると、もはや天才犯罪者と名探偵の頭脳戦を描くミステリではなく、とてつもなく複雑なクロスワードパズルを解かされている気がしてくる。
 率直な感想を言うと、原作漫画で興味を持てたのは第1部前半(単行本第1巻〜第5巻初め)だけであり、優れていると言えるのは、せいぜいFBI捜査官のペンバーと彼の婚約者が活躍する第2巻まで。この辺りまでならば、デスノートのルールは単純で、話の展開にも強引な点は少ない。「僕にしかできないんだ やろう!! デスノートで世の中を変えてやる」と意気込むライトは、まさに迷いのないラスコーリニコフであり、ソーニャと出会うことなくどこまでも突き進んでいくさまは、現代の『罪と罰』とも言うべき深遠さを感じさせる。このまま全4〜5巻程度の短い長編として話をまとめていれば、漫画史に残る傑作たり得たかもしれないが、おそらく「人気が出た作品は、落ち目になるまで引っ張るべし」という出版社側の意向によって、連載がダラダラと続いたのだろう。
 この、いささか尻すぼみの原作をアニメ化するに当たって、シリーズ構成の井上敏樹(『仮面ライダーアギト』など特撮ものに秀作の多い名脚本家)は、序盤は原作にきわめて忠実に、ルールが増えて話がややこしくなる中盤からは、細かな説明を省略してストーリー上の要所のみを描くという方法を採用した。それでも、第1部後半でヨツバのメンバーが登場してからはあまり面白くなく、第2部(アニメ第27話〜)に至っては、それ自体が不必要だったとの感を免れない。本作がテレビアニメ初監督となる荒木哲郎は、小畑健による美しい画を無難に映像化しており、一部でアニメならではの巧みな表現(例えば、第4話「追跡」Bパート5'43" における日光の扱い)を見せるものの、全体としては、ストーリーを追うだけで手一杯である(荒木は、この後、『黒塚』『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』『ギルティクラウン』などを手がけるが、いずれも作画は見事でありながら原作/脚本の拙さが災いして凡作の域を出ず、『進撃の巨人』でようやく真価を発揮できた)。
 そうした中で、不思議なことに、第25話「沈黙」だけが突出して高い完成度を示す。この回は第1部の最終エピソード(第26話は総集編)だが、話の展開を急がず、原作にないシーンをいくつも付け加え、登場人物の内面を深く掘り下げている。特に、ミサが独りで悲しげに歌を口ずさむ場面や、雨の中でライトとエルが会話する場面(鐘の音への言及が意味深)は、胸に深く刻み込まれるほど印象的である。原作を読破しアニメは必要ないと思っている人でも、第1〜5話とこの第25話、そして全編の大団円となる第37話は、是非見てほしい。

MONSTER

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 浦沢直樹の同名漫画をアニメ化した作品。私は、アニメ全編観賞後、比較のためにビッグコミックス版第1巻と最終巻のみ読んでみたが、登場人物の立ち位置やコマ割りまで含めて、きわめて忠実に再現されている。色彩や音響も原作の雰囲気を変えないように配慮されており、アニメ独自の要素で出色なのは、ED曲(特に、フジ子・ヘミングが歌う後半の「Make It Home」)など僅か。
 原作者の浦沢直樹が、現代日本有数のストーリーテラーであることは間違いない(とは言っても、通して読んだのは『PLUTO』だけだが)。社会問題にも目を向けたエピソードをいくつも織り込みながら長大なストーリーを展開していく手腕は、実に見事である。また、古今東西の映像作品に関する造詣が深いのだろう、ドラマや映画の名シーンを換骨奪胎して効果的に利用する。場面構成はきわめて映画的であり、そのせいもあって、映像化された作品が多い。本作の他、『YAWARA!』『MASTERキートン』がアニメ化、『20世紀少年』が実写映画化されている(テレビドラマ化された作品もあるそうだが、未見)。しかし、魂を揺さぶられる傑作かと言うと、どれもそれほどではないというのが正直な感想だ。
 『MONSTER』では、殺人の容疑をかけられた天才脳外科医・テンマが、警察の追求を逃れながら真犯人を探索する過程が物語の骨子となる。このプロットを聞くと、かつてアメリカで人気を博したテレビドラマ『逃亡者』を思い浮かべる人が少なくないだろう。(1)無実の罪を着せられた医師が長期にわたって逃亡を続ける、(2)医師は真犯人を見知っており、自力で探索を行う、(3)医師の有罪を信じる警部が、家族を犠牲にしてまで執拗かつ冷徹に捜査に当たる−−など、『MONSTER』と共通点が多い。『逃亡者』は、日本では64年から67年までテレビ放映されており(最終回の視聴率は30%を越えた)、60年生まれの浦沢がリアルタイムで視聴したかどうかは微妙だが、医師と警部の対決をより劇的に描いた93年のリメイク映画なら見たはず。『逃亡者』と共通するプロットのみに基づいてストーリーを構築したのでは、パクリの誹りを免れがたい。その点に配慮したのだろう、浦沢は、『逃亡者』では謎の人物とされていた真犯人の造形に力を注いだ。問題は、真犯人・ヨハン(彼が真犯人であることは冒頭から明らかにされる)が、作者の期待したほど印象的でないことにある。
 女性と見まがう金髪碧眼の美青年で、並はずれた知能とカリスマ性を併せ持ち、良心の呵責を何ら感じることなく平然と悪を遂行する…。そんなヨハンは、浦沢の思惑では、絶対悪の象徴となるはずだったろう。瀕死の重傷を負ったヨハンを外科手術で助けたことに負い目を感じるテンマがヨハンと対決するクライマックスは、「ヒューマニストは絶対悪に立ち向かえるか」という古くからの芸術的テーマを描き出す絶好の場面になる−−そう意気込んだかもしれない。しかし、残念ながら、ヨハンの人物像には、絶対悪を感じさせるだけのパワーがなかった。
 宗教戦争などを考えればわかるように、善と悪は常に相対的なものである。フランスで聖女と称えられるジャンヌ・ダルクはイギリスでは魔女扱いされ、イスラムの預言者マホメットは『神曲』で地獄に落とされる。それ故、世界の根幹を見通す透徹した理解力を持った絶対悪など、現実に存在すべくもない。人智を超える能力を授けられた者は、山岸凉子『日出処の天子』の厩戸王子のように、善悪の彼岸に行ってしまうだろう。ドストエフスキー『悪霊』のスタヴローギンやアニメ『サイコパス』の槙島は、ヨハンと同じく知性と美貌を備えた悪人ではあるものの、体制に抗う自分が相対的な存在にすぎないことを自覚している。レディ・マクベスやレクター博士も、絶対悪とは相容れない人間性を有する。彼らに比べると、ヨハンは、リアリティ(=ある状況に置かれた人間が当然示すはずのもの)に欠けるのである。
 浦沢は、ヨハンの人物像にリアリティを付与するため、バックストーリーとして、東西冷戦に絡む恐ろしい史実を採用したが、心理学的な裏付けがないこともあって、充分な説得力は得られていない。ヨハンにパワーが感じられないまま迎える大団円は、単に騒々しく大仰なだけで、いかなる経緯でそんな事態に陥ったか判然としないため緊迫感に欠ける。「本当の怪物」と題された最終章では、ヨハンの人格形成に決定的な役割を果たした出来事が紹介される。その描写は、ある有名な映画のクライマックスを借用したものだが、元の映画が思い出すだけで胸が苦しくなるほど悲痛なのに対して、『MONSTER』は、現実感が希薄で心に迫るものがない。
 浦沢は素晴らしい才能の持ち主であり、いつか世紀の傑作を発表するのではないかと期待している。『MONSTER』は、いまだ存在しない傑作のための足固めだと考えたい。

マリア様がみてる

【評価:☆☆☆】
 第1期(『マリア様がみてる』)・第2期(『−〜春〜』)・第3期(OVA『−3rdシーズン』)・第4期(『−4thシーズン』)全話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 女性同士の親密な関係を描く百合アニメの代表作とされるが、実際には、女子校にありがちな夢見る乙女たちの園を描いた純正少女アニメと言った方が、的を射ている。このことは、設定の一部が似ている『スロトベリーパニック』(駄作です!)などと比較すると、よくわかる。『マリみて』は乙女の夢想、『ストパニ』は男の妄想とでも言えば良いのか、両者に内在する方向性は正反対である。どちらも、女子校で学年の異なる生徒の間に親密な関係が生まれるが、『ストパニ』でこの関係が進展し周囲にさまざまな軋轢を生み出していくのに対して、『マリみて』では、些細なことでさざ波が立つものの、大きな波乱が生じることなく、すぐに元の穏やかな状態に戻る。この安定した関係性が、環境ビデオとして一日中流していたくなるような『マリみて』の魅力である。
 そもそも思春期の少女は、心の底で淑やかさを希求するものである。女性解放論者の中には、そうした思いは男性が押しつけた社会的な桎梏で、女性も男性のようになるべきだと主張する人もいるが、これは誤解だと言いたい。テストステロンのせいでアグレッシブになりがちな男性に対して、筋肉量が少なく攻撃性の乏しい女性は、生得的に穏やかな環境を好み淑やかさに憧れる。特に、肉体が急激に変化する第2次性徴期には、粗野で無神経な男子を遠ざけ、女子だけの閉じたサークルを作りたがるのがふつうである。しかし、彼女たちの願いに反して、こうしたサークルは、安定した状態を保持するのが難しい。それこそ社会的なしがらみのせいでサークルから引き離され、女性同士の協力関係は破壊されてしまう。だからこそ、『マリみて』の完璧なまでに穏やかで安定した世界は、乙女の夢想なのである。
 安定性の源となるのが、スール(姉妹)の契りによって成立する人間関係。これは、上級生が下級生を1対1で指導するという(舞台となるリリアン女学園独自の)慣習で、妹が姉を「お姉さま」と呼び、姉が妹の名を呼び捨てにするなど、上下の別が明確である。対等な二人の関係ならば、わずかな摂動で均衡が崩れてしまうのに対して、このように上下がはっきりしているスールの関係は、長期にわたって安定的に継続し、さらに、新入生が加わることで、次世代に受け継がれていく。中でも、「山百合会」と名付けられた生徒会は、この関係を後継者養成のために積極的に活用する。『マリみて』のメインストーリーは、山百合会幹部で淑やかさを絵に描いたような祥子と、外向的で明るい祐巳という対照的な二人のスール関係を軸に展開される。もちろん、現実の女子校で、こうした関係は成立すべくもない(下級生の生活全般を指導できる高校生など、ほとんどいない)。薔薇にちなんだ難解な呼称(「ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン」のような)を役職に用い、他の生徒には敷居の高い本部−−通称「薔薇の館」−−で日々お茶会紛いの会合を開く山百合会は、まるで乙女たちの秘密結社のようでいかにもありそうにないが、もし実在したら何と心地よいサークルだろうと思わせる不思議なリアリティを持つ。
 原作は、今野緒雪によるライトノベルだが、夢見る少女の戯れ言(と言うか、たわごと)に溢れ、読むのがつらくなって第1巻でギブアップした。これに対して、アニメでは、子供っぽい語りの大半がカットされ、引き締まった内容に改められている。シリーズ構成を担当した吉田玲子は、この後、『けいおん!』『ガールズ&パンツァー』『のんのんびより』などの人気作を手がける実力者で、いかにも間延びした原作第1巻全編を第1期の最初の3話にきちんとまとめたり、腐女子的な好奇心が感じられるいくつかの余分な設定(例えば、柏木の嗜癖)を削除するなど、適切な脚色を行った。落ち着いた画調によって優雅で淑やかな雰囲気が盛り上げられており、アニメとしての完成度はかなり高い。
 なお、生徒会の呼称や校歌に含まれる「百合」には、花言葉である「純潔」の意味合いが込められているが、大天使ガブリエルから受胎告知を受けるマリアの図像に処女の証として描かれる百合が、逆に艶めかしさを感じさせてしまう(私だけ?)ように、そこから全く別のニュアンスを読み取る人がいてもおかしくはない。本作が多くの男性ファンを獲得したのも、不思議なことではないだろう。

ひぐらしのなく頃に

【評価:☆】
 第1期『ひぐらしのなく頃に』・第2期『−解』全話視聴済み、原作一部プレイ済み。
 見ながら何度も吹き出してしまった。これでホラーのつもりなのだろうか?
 原作は、竜騎士07を代表とする同人サークルによるPC用ヴィジュアルノベルで、連続殺人事件を扱うミステリホラー風の作品。通常のAVGのように選択肢による分岐がなく、ストーリーは単線的である。メインパートは4つずつの出題編と解答編から成り、それぞれコミケで別々に発売された。私は、ネットで入手したバージョンをプレイしてみたが、第1シナリオ「鬼隠し編」の途中で馬鹿馬鹿しくなってやめてしまったため、PC版の全貌は把握していない。アニメ第1期では4つの出題編と解答編の一部が、第2期ではアニメオリジナルの「厄醒し編」と解答編の残り(うち、後半の「祭囃し編」が全編の大団円となる)が放送された(これ以外にファンサービス用のOVAも発売されているが、未見)。
 アニメの他、実写映画・漫画・小説など多方面でメディア展開された人気作だが、私は全く評価していない。以下、その理由を列挙する。
(1) ホラーとしては、ショッカーばかりで怖くない。
 ホラーがもたらす恐怖には、ジワジワと締め付けられるような心理的恐怖と、ワッと脅かされたときのショックという2種類があり、優れたホラー作品は、それぞれの怖さをもたらす場面を巧みに織り交ぜている。私が心の底から戦慄したホラーは、山岸凉子の漫画「汐の声」、映画『ローズマリーの赤ちゃん』『回転』、テレビドラマ「木霊」(『学校の怪談』の一編)などだが、これらは、全編にわたって心理的恐怖を少しずつ高めていき、終盤に極めつけのショッカーを持ち出すことで、見る者をおののかせる(「汐の声」は、独り暮らしの夏の宵に読んでしまい、熱帯夜なのに頭から布団をかぶって震えていた)。
 ところが、『ひぐらし』には、心理的恐怖を醸し出す場面がほとんどなく、ひたすらショッカーを小出しにしていく。ショッカーは、不快感・嫌悪感をもたらすもの(食べ物に針が入っているなど)、反日常的で見たくないもの(子供が残忍な表情を浮かべるなど)を突如提示して脅かすので、一時的な効果は絶大だが、何度も繰り返されると恐怖感は薄らぎ、むしろ滑稽に見えてくる。数ヶ月にわたって放映されるテレビアニメで心理的にジワジワと怖がらせ続けるのは難しく、正統派ホラーの成功例は『Another』くらいしか思いつかない(『serial experiments lain』や『モノノ怪』は変化球と言うべきだろう)。それ故、ホラーアニメでショッカーに頼りたくなるのは致し方ないのかもしれないが、それにしても『ひぐらし』での使い方は、手の内がすぐに露わになってしまい、能がなさすぎる。後半になると、人が死ぬシーンでも笑いを抑えられなかった。
(2) ミステリとしては、合理性に欠けアンフェアである。
 『Another』のレビューでも書いたように、ミステリとはもともと宗教的な用語で、不可解な現象の背後に条理が隠されている状況を指す。現象そのものが非現実的であってもかまわないが、真相は合理的でなければならない。しかし、『ひぐらし』は、この要件を満たしていない。
 離れた場所で起きる2組の連続殺人がなぜか関連しあう二階堂黎人『人狼城の恐怖』や、猟奇殺人が立て続けに起きているのにどこか不整合性を感じさせる綾辻行人『殺人鬼(覚醒篇)』は、いずれも、きわめて非現実的な出来事であるにもかかわらず、最後に明かされる真相ですっきりと筋が通る。これに対して、『ひぐらし』の全体的なプロットは、互いに無関係な2つの驚愕すべき事態が重なることを前提としており、奇跡のような偶然に頼っている。「鬼隠し編」など個々のシナリオは比較的単純なミステリだが、それでも筋が通っているとは到底言えない。おそらく、作者の竜騎士07は、扇情的なショッキングシーンを先に思いつき、それを一つの話として描こうと全体的なプロットを構想、最後に後付けで“真相”を考案したのだろう。キャッチコピーに「正解率1%」とあるが、ミステリに精通している人ほど正解できないはずである。
 もっとも、ミステリではなく一種のジグソーパズルとして見れば、それなりに面白いのかもしれない。
(3) ドラマとしては、心理的一貫性がなく感情移入できない。
 『ひぐらし』には、登場人物の人格が急変する場面が何度も現れる。その背後に何らかのトラウマがあるのか、心理的葛藤に起因する神経症かと思いめぐらしていたのだが…。
 私は、作中人物の心理を読みとる能力がかなり高い方だと自負しているが、『ひぐらし』をはじめ『インフィニット・ストラトス』『とある魔術の禁書目録』などの萌えアニメでは、登場する女の子たちが何を考えどんな感情を抱いているのか、どうしてもわからない。おそらく、作者自身が一方的な男性目線で女性を見ており、心理を想定することなく、キャラ設定と視聴者の反応予想だけに基づいてストーリーを展開させているからだろう。『ひぐらし』で人格が急変するのも、心理学的な裏付けのある話ではなく、単にその方が面白いからとしか思えない。言うなれば、外部駆動型のキャラであり、心のないマスコット人形なのである。
(4) 萌えアニメとしては、キャラが可愛くない(私だけ?)。
 『ひぐらし』の女の子が誰も可愛く見えないのは、私の感性がおかしいからかもしれない(アニメに登場する小学生女子で可愛いと感じるのは、『のんのんびより』の蛍くらい)。ただし、梨花の言葉遣いについては、言っておきたいことがある。
 アニメ(ないし、その他のサブカル作品)では、登場人物に奇妙な言葉遣いをさせるケースが少なくないが、なぜ彼らがそうした言い回しを使うのか理由がわかる場合は、個性として容認できる。ラムちゃんの「…だっちゃ」やイカ娘の「…でゲソ」は、出自の特殊性を示す口癖、黒猫の中二病的、あるいは、古泉の慇懃無礼な言動は、自身が自覚的に形成した人格に由来するものであり、いずれも、彼らが使うに相応しい。これに対して、梨花の「にぱ〜☆」「…なのです」「みぃ」などは、なぜそんな言い方をするのか理解に苦しむ。特に「にぱ〜☆」は、特定の感情を表す訳でも、肯定・否定などの態度を示す訳でもなく、単なるウケ狙いで唐突に発せられるため、ひどく不快に感じる。

ロミオの青い空

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作既読。
 私は、大人が見たときどれだけ人生の糧になるかという観点から評価するので、子供にわかりやすいようにストーリーやキャラを単純化している本作は星4つとしたが、子供に見せるアニメとしてなら、文句なしに星5つを付けられる。小学生の頃に視聴すれば、生涯の宝となる名作である。
 スイスの貧しい山村で平和に暮らしていた主人公のロミオは、冷害と山火事、父親の病気が重なって一家が困窮したせいで、煙突掃除夫となるため人買いに連れられミラノに赴く(これは、実質的な口減らしであり、年季奉公などという生やさしいものではない!)。物語は、そこで出会った親方一家や煙突掃除仲間との交流を中心に展開される。
 狭い煙突に潜り込んで煤を掻き落とすのに貧困層出身の小柄な少年を利用することは、18-9世紀のヨーロッパで実際に行われていた悪習で、煤煙には発ガン物質や肺胞・角膜を損傷する固く尖った物質が多量に含まれるため、健康を害し早死にする子供が続出した。急激に発展する都市部での需要に応じるため、貧しい農村で少年を集める人身売買も横行していたという。作中、人買いの船が転覆して十数人の少年が溺死するというエピソードが描かれるが、これは、実話を基にしている。19世紀末に児童福祉のための法令が整備されるまで、多くの少年が過酷な労働に苦しめられた。
 アニメの原作となったのは、リザ・テツナーが著した児童文学『黒い兄弟』(あすなろ書房)。もっとも、原作とアニメは、かなり異なる。原作は、著者がナチスに抵抗しスイスに亡命したドイツ人だということもあり、主人公(原作ではジョルジュという名前)が次々とトラブルに見舞われる中、煙突掃除の仲間と結成した「黒い兄弟」の団結力で克服していく話がメインとなる。これに対して、アニメでは、周辺人物がより深く描き込まれており、起伏に富んだストーリーが繰り広げられる。例えば、前半のヒロインであるアンジェレッタの場合、原作ではジョルジュ(=ロミオ)が親方の家に到着してすぐに出会うが、アニメになると、初めのうちは姿を見せずに陰からロミオを応援するという展開で、ちょっとしたサスペンスを生み出す。こうした脚色の妙は、全エピソードを執筆した島田満によるもの。彼女は、『うる星やつら』『魔法の天使クリィミーマミ』『ダーティペア』などの重要エピソードを担当した才能ある脚本家で、80年代アニメを支えた立役者の一人である。原作を読んでみるのも良いが、原作よりアニメ脚本の方が文学作品として遥かに優れている。
 原作とアニメで最も異なるのは、副主人公であるアルフレドの人物像。原作のアルフレドは、賢くリーダーシップはあるものの、普通の少年で登場シーンも少ない。一方、アニメのアルフレドは、社会の現状を俯瞰的に見つめる聡明さを持ち、高潔とも言える人柄を示す。出自も原作と大幅に異なっており、終盤のクライマックス(第27-30話)は、アルフレドを中心に展開される。文学作品などで高潔な人物が登場すると、批評家の中には「現実的でない」と批判する人もいるが、それは、彼らの心性が卑しく高潔さを理解できないからである。現実世界にも高潔な人士は(僅かながら)確実に存在しており、周囲の人に希望と目標を与えてくれる。特に、子供にとって、その影響力は絶大である。それだけに、せめて高潔な人物の登場する物語を、早い段階で子供に示してほしい。アニメ『ロミオの青い空』は、そうした物語の最高傑作の一つと言えよう。
 私が特に好きなエピソードは「ライバルはアルフレド!」(第16話)で、カセラ教授の自宅を訪れたとき、「シェークスピア、ゲーテ…」と呟きながらうっとりした眼差しで棚に並ぶ書物を見つめ、ヴォルテールを開いて嬉しそうに微笑むアルフレドの姿が愛しい。
 『ロミオの青い空』には、アルフレド以外にも印象的な登場人物が多い。アルフレドの才能に気づき書物を貸し与えたカセラ教授は、中でも素晴らしい人物で、実際の行動で少年たちを救う原作とは異なり、精神的な導き手として重要な役割を果たす。性格が対照的な両ヒロイン・アンジェレッタとビアンカ、ロミオたちと対立する狼団のリーダー・ジョバンニ、そして、頼りない恐妻家として登場しながら終盤では優しい心根を見せるロッシ親方など、いずれも忘れ得ぬ人々である。

男子高校生の日常

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 タイトルとは裏腹に、男子高校生の非・日常的な出来事をフィーチャーしたギャグアニメ。エピソードごとに出来不出来の差が大きいため、全体の平均として星2つ評価にしたが、神品と言っても良い傑作−−「男子高校生と文学少女」(第1話第5エピソード)「男子高校生と凸面鏡少女」(第2話第2エピソード)−−が含まれるので取り上げたい。「男子高校生と文学少女」は、早くからネットで話題になった作品で、私も、10回以上見ているのに毎回爆笑してしまう。「男子高校生と凸面鏡少女」では、出前ピザ店でバイトする高校生たちの日常的な会話が淡々と描かれ、大して面白くないなと思っていると、ラスト近くの一発ギャグでぶっ飛ぶ。最後、「不可能なら諦めろ!」と画面に突っ込んでしまった。この2編は、『はたらく魔王さま!』のお化け屋敷のエピソード(第10話)とともにDVDレコーダーに永久保存しており、心が折れたときの治療薬として使っている。
 ギャグアニメはコメディの一種だが、一般的なコメディが人情喜劇などドラマ性のある作品を含むのに対して、その場限りの笑いをもたらすギャグを積み重ねることで成立する(そもそも「コメディ」とは、『神曲(La Divina Commedia)』やコメディ・フランセーズといった用例からわかるように、もともとギリシャ悲劇のような高踏的な作品に対する人間的なドラマ全般を指す言葉である)。ギャグアニメをいかなる基準で評価すべきかは、かなり悩ましい。可笑しさの感じ方には個人差(あるいは、民族や社会状況による差)が大きいからである。『男子高校生の日常』と同じく高松信司が(第105話までを)監督した『銀魂』は、ギャグアニメとして人気が高いものの、内輪ネタと悪ノリとおふざけパロディが多すぎて、私は好きになれない。笑えるという点では『瀬戸の花嫁』『フルメタルパニック? ふもっふ』『監獄学園』などが鉄板だが、優れた作品かと問われると返答に窮する。個人的には好きなのに、下品すぎて人に勧められないものも…(『生徒会役員共*』では、磁気枕のネタで大笑いして恥ずかしかった)。作品を楽しめるかどうかの境はかなり微妙なようで、私の場合、『日常』の多くのエピソードではあまりに無神経な自己チューキャラに不快感を覚えるが、「日常の58」(第14話;焼きサバのエピソード)のように自己チューぶりが突き抜けると、もう可笑しくてたまらない(「日常の71/107」も本気で笑ってしまった)。
 ギャグアニメでは、エピソードごとにばらつきが生じやすいので、どの回が面白いか情報交換が必要となる。『銀魂』は全編の1割程度しか見ておらず、もしかしたら、見逃している秀作エピソードがあるのかもしれない。ギャグアニメの隠れた名作として私がお薦めしたいのが『gdgd妖精s』で、3つあるコーナーの2番目「メンタルとタイムのルーム」が面白い。特に、第2回(バンジーパン食い競争)、第6回(リアル黒ひげ危機一髪)、第8回(gdgd化粧配信)は最高!

SHIROBAKO

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 高校でアニメ同好会に所属し、それぞれアニメ関連の業種に就職した5人の女の子(仕事に生きる大人の女性だが、いずれも少女のような風貌なので、こう呼ばせていただく)を中心とする群像劇。アニメ制作の実態が克明に描かれており、これまでアニメレビューで知ったかをこいてきた私には、見るのがかなり辛かった作品。「絵コンテって、あんな風に描くのか!」とか「第2原画とはそういう意味だったの?」などと、視聴しながら一人で呻いていた。国立新美術館『ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム展』では『パプリカ』などの絵コンテが展示されたが、最近まで、部外者が絵コンテを目にする機会など(高価なアニメ本でも購入しない限り)ほとんどなく、私などは、漠然と映画のストーリーボードのようなものだと思っていた(『パプリカ』の絵コンテは実写映画のボードに比べて情報量が格段に多いが、コンテを切る人によって異なるらしい)。
 ただし、業界紹介アニメとしては見所が多いものの、1つの作品としてみると、どうにも物足りない。P.A.WORKSは、『花咲くいろは』に続く「働く女の子シリーズ」として本作を位置づけているようだが、働くことの意義を『花いろ』ほど深く追求できたかというと、心許ない。問題は、曲のない脚本にありそうだ。
 『SHIROBAKO』は、ストーリー構成・人物設定とも、きわめて単純である。ストーリーは、(1)(『えくそだすっ!』制作にまつわる)小トラブルとその克服、(2)(『第三飛行少女隊』制作にまつわる)大トラブルとその克服−−という2部構成になっているが、これは、シナリオ入門講座で「こういうフォーマットで書くと話が組み立てやすいですよ」と教授するような展開。2部構成の2クールアニメの場合、凝った脚本(虚淵玄の『PSYCHO-PASS サイコパス』など)では、第2部は第1部と視座を変えて作品世界を拡げるのに対して、本作は最後まで一本調子。取り上げられるトラブルも、制作の流れを妨げる現実的なものばかりで、1つ1つ障害を取り除き、最終的にアニメが完成すれば、全てが丸く収まる。映画制作の実態に迫った『アメリカの夜』で、トリュフォー(監督・脚本)が無理に1つのストーリーラインにまとめず、撮影現場の混乱をそのまま多元的に描いて迫力を生み出したのとは、対照的である。
 登場人物も、嫌われ者(タロー)を一人だけ用意して捨てゴマとし、それ以外は、ちょっとしたすれ違いや外的要因でトラブルを生み出すことはあっても、根は仕事熱心な善人ばかり。主人公の女の子たちには、仕事がうまくいかないという悩みはあるものの、人間的な葛藤は見られない(若い人に忠告しておくが、現実の職場はこんなに甘くない)。同じくアニメ制作現場を描きながら、嫌われ者を主役に据えてとんでもないドラマに仕立てた『妄想代理人』第10話「マロミまどろみ」とは大違いだ。
 シリーズ構成の横手美智子をはじめ脚本陣(吉田玲子・浦畑達彦)は実力者揃いで、この程度の脚本は鼻歌混じりで書けそうだが、おそらく、業界を描いた作品ならではの気苦労があったのだろう。想像するに、実在人物を仮名で登場させることは当初から予定されており、さらに、制作に携わったアニメーターが面白がってさまざまな内輪ネタを付け加えていったため、うっかりしたことが言えなくなったのではないか。「新世代アバンギャルドンの監督・管野光明」や「超飛空要艦マジダスの北野サーカス」程度なら笑ってすませられるが、「(水島精二がモデルだと言われる)木下誠一監督が、『ぷるんぷるん天国』で作画崩壊と最終回総集編をやらかして干された」というエピソードは、下手にいじるとアブなくなる。脚本の掘り下げが浅く、演出も無難なラインで抑えているのは、周囲に気を配った結果のような気がする。
 もっとも、主人公となる真面目な若手が、小さなミスを犯しながらも職場の仲間に支えられて成長する過程は、ウェルメイドな定番プロットで安心して見ていられる。「深刻なドラマはちょっと…」という一般的なアニメファンには、充分に楽しめる作品だろう。

屍鬼

【評価:☆】
 全話視聴済み、原作(藤崎竜の漫画)第1巻のみ既読。
 放送開始当初、小野不由美作品のアニメ化と思って見始めたものの、ストーリーやキャラが大幅に異なり、ひどく困惑した。だいぶ後になって、小説を原作とする漫画のアニメ化だと知り、漸く腑に落ちた次第である。
 小野不由美の小説『屍鬼』は、S.キングをも顔色無からしめるモダンホラーの傑作であると同時に、文学としてもきわめて優れている。私は平成文学のベストとして、現時点では、丸山健二『千日の瑠璃』と高村薫『新リア王』を上げる(両村上や、平野啓一郎・阿部和重・奥泉光らはあまり高く評価しない)が、『屍鬼』もこれらと同格である。90〜00年代に掛けて、日本の大衆文化は比類ない水準に達し、マンガ・アニメ・ゲームやJ-POPのような注目度の高い分野のみならず、ファンタジー・SF・ミステリなどの文学でも、欧米を凌駕する高度な芸術的達成を実現した。これほど日本が輝いていた時期は、歴史上数えるほどしかない(「失われた10/20年」などと軽々しく口にする視野の狭い人間とは、おつきあいしたくない)。『屍鬼』は、こうした現代日本文化の真髄を教えてくれる作品の1つだ。
 小野不由美が『屍鬼』で行ったのは、西洋的な怪異が日本の限界集落を襲ったときに何が起きるかを冷徹に見据える文学的実験である。すでに『十二国記』で、異世界に投げ込まれた平凡な少女が、どのような心境に陥り生き延びるために何をするかを緻密に描写した小野は、今度は逆に、怪異の方が平凡な日常の中に顕現するという設定を採用した訳である。怪異としては、あえて誰もが知る有名なものを用い、小説や映画で繰り返し描かれた「お約束」もそのまま踏襲した(私には、ヨーロッパを舞台にして同じ怪異を描いた有名な少女漫画の影響が感じられる)。その一方で、怪異に襲われる社会としては、地場産業が衰退し高齢化が進むきわめて日本的な集落を選んでいる。古くからの人間関係に縛られた旧弊で閉鎖的な社会がどうなるのか−−小野は、まるで死体を解剖する監察医のように、怜悧な眼差しで対象を分析する。描写は精緻を極め、2段組1200ページを越える大作なのに、弛緩する部分は全くない。100人を越す多数の人物を平行して描く多元的な視点を採用しつつ、ストーリー上の要所では、医師と僧侶という対照的な立場の二人に思いを語らせる。怪異に対して二人がそれぞれどのように対処するかが、作品を読み解く鍵となる。
 興味深いのは、怪異に直面しても、大半の人がそこから目を背ける点である。出来の悪いファンタジーでは、不思議な現象に遭遇した登場人物が即座にそれが何であるかを察知するが、これほどリアリティに欠ける描写はない。現実の人間の場合、いわゆる「正常性バイアス」のせいで、不都合な真実を黙殺し日常生活を維持しようとする。地下鉄サリン事件の際、周囲で人がバタバタと倒れ、パトカーと救急車のサイレンが鳴り響き、身体に中毒症状が現れているにもかかわらず、多くのサラリーマンがそのまま会社に出勤しようとした。東日本大震災のときは、大津波警報を耳にしながら、散らかった物の後片付けをしていて津波に呑まれた人が、おそらく何千人といる。『屍鬼』の集落でも、明らかに日常が蚕食されているにもかかわらず、人々はそれまで通りの生活を続けようとする。事態が手遅れになったとき、そんな集落に訪れるのは、怪異そのものよりも遥かに恐ろしいカタストロフである…。
 このような内容を持つ小説『屍鬼』は、文学として優れ、私には文字通り「巻を措く能わず」だったものの、子供には少々難しい。そこで、子供向けに藤崎竜によるコミカライズが行われたが、その際、小野は「原作をなぞるのみにしない」という注文を付けたという(Wikipedeaによる)。藤崎は、ストーリー展開をテンポアップし、多元的な視点を改めて恵や夏野ら年少キャラを物語の中心に据え、見た目に派手なシーン(静が結城家を訪れる際に文楽人形を抱えているなど)を増やしたが、結果的に、原作小説を豊穣なものにしていた実験性は失われた。アニメは、漫画版を原作としたもので、第1話では、集落の風習を描いた小説の序盤を大幅に省略し、一気に200ページ分ほど話を進めてしまう。また、奇抜な髪型を識別素性としたキャラデザは漫画よりもかなり劣化しており、酷く稚拙である。
 優れた原作を台無しにしたアニメは『SAMURAI 7』『寄生獣 セイの格率』など少なくないが、これらは、監督や脚本家の力量不足によるもので、厳しく指弾することは控えたい。しかし、『屍鬼』の場合は、プロデューサーの志の低さを問題としなければならない。傑作である小説と、派手ではあっても内容空疎な漫画が手元にあるとき、どちらを原作として選ぶべきか−−ここで、「アニメは子供の見るものだから」という安易な考えに従ったことが、私にはどうしても許せない。

ガールズ&パンツァー

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 タイトルを直訳すると「少女と戦車」−−その名の通り、萌えとミリタリを合体させた作品である。私は、時流に乗ろうとした萌えアニメはあまり好きではないのだが、本作のように、萌えキャラを活かすために世界の前提そのものを変更してしまったケースは、むしろ潔さすら感じられ、我ながら意外なことに結構楽しめた。
 私の定義によると、アニメにおける萌えとは、視聴者が作品内の特定対象(主に女性キャラ)をコンテクストから切り離して偏愛することであり、一般的な偏愛がそうであるように、通常はエロティックな要素が含まれる。萌えを引き出すために類型化されたキャラや状況を設定するアニメが萌えアニメであり、典型的な作品では、巨乳・メガネ・ツインテールなどの萌え要素を備えた複数の女性キャラが活躍する。中でも特徴的なのが、「幼女で天才」「頭が良いのにドジ」「感情を見せないがひたむき」のように、対立する2つの要素を併せ持つキャラで、表面だけ見ると複雑な人物像に見えるが、往々にして、置かれた状況とは無関係に自分の特性に適合した言動ばかり示すので、心のないただの木偶人形だと露見してしまう(逆に言えば、萌えアニメのフォーマットに則っていても、一筋縄ではいかない複雑な性格のキャラが登場する作品−−『涼宮ハルヒの憂鬱』『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(第1期)』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』など−−は、私の定義では、萌えアニメでない)。
 私はドラマ重視派なので、状況に即応した心理が描かれない萌えアニメは、概して好きではなく、特に、『Angel Beats!』『ひぐらしのなく頃に』『ソラノヲト』などのように、人の生死に関わる事態が進行する状況下で真剣味に欠けた萌えキャラの描写を優先させる作品には、嫌悪感を覚える。その一方で、萌え要素を総ざらえ的に並べながら、開き直ったかのごとく「世界は萌えのために」とでも言うべき状況を設定した『ガルパン』は、笑って許せるから不思議である。
 『ガルパン』の世界では、華道や茶道と並ぶ女性の嗜みとして、戦車を操る武道「戦車道」が女子高の選択科目になっているという。まず、この圧倒的なバカバカしさに気圧されて、否が応でも作品世界に連れ込まれてしまう。女性の嗜みとされるくらいだから、危険なことは何もない。砲弾が飛び交う中で防具なしに活動しても、カスリ傷一つ負わない。破壊された町並みも、あっと言う間に只で復興できる。戦車の中は狭く臭く、激しい振動で男でも音を上げるのがふつうなのに、女子高生たちは皆涼しい顔で、重労働であるはずの砲弾の装填も軽々とこなす。現実の戦車は膨大な排ガスを撒き散らし、鉛や劣化ウランの砲弾で重金属汚染を引き起こすのだが、学校公認なのだから、それもないのだろう。要するに、エコで安全、安価で手軽な兵器遊びのできる世界なのである。登場人物も、この世界に順応した姿で描かれる。多くの戦争萌えアニメで描かれるような、激しい戦闘の最中に恋愛にうつつを抜かしながら、仲間が死ぬと号泣するといった矛盾した言動は見られない。ふつうの女子高生がスポーツに打ち込むのと同じように、誰もが戦車道に対して(高校生の間という期間限定で)真剣になる。たとえ世界自体がバカバカしいものであっても、そこで真剣になる少女たちの姿は、清々しい。
 主人公が所属する大洗女子学園チームの戦車(いずれも実戦で使用された車両をリアルに描写)は、他チームの無骨な大型戦車に比べると、丸っこくどこか愛嬌が感じられて可愛い。小型戦車が大型戦車の間をチョコマカと走り抜ける場面では、つい笑いを誘われる。人殺しの兵器が可愛いとは不謹慎だと怒られるかもしれないが、戦車同士で撃ち合いをしても誰一人怪我をしない架空世界の話なのである。
 萌えアニメを作るならば、ここまで徹底させるべきだという見本のような作品である。

花咲ける青少年

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 原作は、89-94年にわたって執筆された樹なつみの少女漫画(これ以前に、前史に相当する短編が発表されており、単行本では序章とされたが、アニメでは省略)。樹なつみは、「花の24年組」による少女漫画革命を継承する世代の作家で、本作の他、『OZ』(90-92年)『八雲立つ』(92-02年)『獣王星』(93-03年;06年のテレビアニメも全話視聴済み)などがある。魅力的なキャラを軸にした巧みな心理描写やダイナミックな展開は素晴らしく、特に『OZ』は繰り返し読み耽ったものの、構想力にやや難があり、『OZ』や『獣王星』は、終盤でストーリーが混乱し辻褄が合っていない(『獣王星』のアニメ版は、シリーズ構成の吉田玲子がかなり話を繕っているが、それでもラストの唐突さはいかんともしがたい)。
 『花咲ける青少年』の場合も、ヒロインの花鹿(かじか)が日本の中学に留学して上級生に睨まれたり、父親から突然「夫探しゲーム」を持ちかけられたりする導入部(アニメ第1話)を執筆した時点で、作者がその後の展開をきちんと構想していたか、どうも疑わしい。実際、花鹿の友人としてサブヒロインになると思われた由依は、すぐに姿を消してしまう(いったん消えた由依が突如復帰するアニメ第9話「変わらないもの」は、彼女の健気さもあって、何回見ても泣き笑いさせられる)。幸いなことに、花咲ける青少年たち−−リーレン、ユージィン、ルマティ−−が勢揃いし、その内面が深く掘り下げられる中盤からはブレがなくなり、骨太の物語が繰り広げられる。政治的な混乱に立ち向かうルマティの勇姿が見所だが、私は、外見が美しいだけの敵役として登場しながら、後半になると、重い過去を背負った傷心の青年としての一面をあらわにするユージィンに心惹かれる。
 『花咲ける青少年』は、また、(『寄生獣』などとともに)原作からかなりの年月を経てアニメ化することの難しさを教えてくれるケースでもある。原作が連載されたのは、まだ携帯電話が普及していなかった時期だが、09年にアニメ化された際には、作中の時間をどこまで放送時点にあわせるか徹底されておらず、登場人物が携帯を使ったり手紙に頼ったりしている。本作に限らず、多くの視聴者が記憶を保持している十数年〜数十年前の近過去を描くことは、若いアニメーターの手に余るのだろう。だが、アニメ界の現状を鑑みると、過去作のアニメ化にチャレンジしなければならない事情が浮かび上がる。
 日本のテレビアニメは90年代半ばに面目を一新、私の見るところでは、2002年からの10年間に黄金期を迎える。しかし、その後、年百本を越える見境のない濫作のせいで、質的な低下が目につくようになった。特に、優れた原作の払底は深刻で、ここ数年は、なぜこれを…と不思議に思えるほど不出来な原作(主にライトノベル)のアニメ化が繰り返されている。少女漫画の分野では、70〜80年代に数多くの傑作が発表されたので、これを原作にすれば良さそうなものだが、少女漫画のキャラは、輪郭をぼかして瞳などのポイントを浮かび上がらせる繊細なタッチで描かれており、輪郭線を強調するアニメ画とは相性が悪い。『地球へ…』や『綿の国星』は80年代にアニメ化されたが、絵柄のミスマッチもあって、見るも無惨な失敗作となった(当時の少女漫画原作アニメで及第点を付けられるのは、アニメと言うより電気紙芝居に近い演出で原画を再現した『夏への扉』くらいで、『日出処の天子』アニメ化のオファーをきっぱり断った山岸凉子は賢明だった)。もし、原画の美しさを維持しながら動画にするCG技術が開発されれば、埋もれた傑作群が原作の宝庫として見直されるかもしれない。その際、先に述べたように近過去の描写がネックとなるが、アニメ『花咲ける青少年』は、この問題を考える上で参考になるだろう。

人間失格

【評価:☆☆☆☆】
 他作品を含む『青い文学シリーズ』全話視聴済み、各作品の原作既読。
 『青い文学シリーズ』は、近代日本文学の名作とされる『人間失格』『桜の森の満開の下』『こゝろ』『走れメロス』『蜘蛛の糸/地獄変』を、それぞれ異なる脚本家・監督によってアニメ化した野心的なシリーズ。『人間失格』は、その冒頭を飾った全4話の作品で、シリーズ最高作であるのみならず、純文学(SF・ファンタジー・ミステリなどと異なり、特定の企図に基づく設定を持たない文学)を原作とするアニメとしては、史上屈指の名作と言って良いだろう。
 太宰治による原作小説は、昭和23年に雑誌「展望」に掲載された著者最後の完成作。脱稿の1ヶ月後に太宰が愛人と入水自殺したことでも知られる。私は太宰の小説が苦手だが、それは、彼の作品が、完璧に練り上げられた虚構でも実人生と通底する私小説でもなく、虚構を作り上げようとしながら強すぎる自意識によって破綻したとも思える曖昧さに溢れているためである。『人間失格』は、その曖昧さが最も顕著に現れた作品だろう。バーのマダムから「小説の材料に」と渡された“狂人”(「あとがき」での表現)の手記に、「はしがき」「あとがき」を付け加えた体裁を取っているが、手記の内容は、「鎌倉で愛人と心中を図るも、女性だけ死んで自分は助かった」など、太宰自身の体験と重なる部分が多い。しかし、それでは自伝的作品かと言えば、そうとも言い切れない。道化を装って生きてきた主人公そのままに、戯画化した自分を描くと見せかけた虚構のようでもある。あるいは、もう一段深読みして、自伝を装った虚構を作ろうとして失敗、結果的に自己の内面を吐露してしまったと言うべきだろうか。
 こうした曖昧さをはらむ小説を、名匠・浅香守生(『GUNSLINGER GIRL』『NANA』)はいかに料理したのか? 一言で言えば、曖昧さを全て払拭し、完璧な虚構に作り替えたのである。これは、優れた原作を別のメディアに移し替える際の一つの方法論であり、原作と大幅に異なるからと言って批判すべきではない。ゆがんだ合わせ鏡が見せる不分明な虚像の如き原作は、破滅的な男の姿を冷徹に見据える強靱なリアリズム精神に満ちたアニメへと生まれ変わった。
 小説とアニメの違いが浮き彫りになるのが、鎌倉心中の描写である。原作では、心中を決意する過程が、次のような、具象性の乏しい観念の連なりによって語られる。「それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きていけそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました」。これに対して、アニメでは、男女の交情とその後の語らいがせつせつと描かれ、死を決意するまでの二人の思いが視聴者の心に直に響いてくる。江ノ電による道行きを経て断崖から身投げする直前、女は、友人から借りたという帯を丁寧に畳む(この部分は原作の記述通り)と、草履を無造作に脱ぎ捨てる(ここは原作にない)。主人公以外の内面に肉薄する描写の少ない原作とは対照的に、女性の心情を見事に描き出した名シーンである。
 『人間失格』に較べると、『青い文学シリーズ』の他作品はどうしても見応えに欠けるが、中では『走れメロス』が頭一つ抜け出た佳作である。原作の忠実なアニメ化ではなく、メロスの物語を芝居台本にする仕事を請け負った作家が、執筆中、友人との悲痛な体験を回想するというプロット。「愛する者のためなら死もまた甘美」という同性愛の物語を、厚い友誼を讃えるように語る太宰治の短編自体、どうにも居心地の悪い曖昧さを感じさせるものだが、これを作中劇として描きつつ、同性愛の香り紛々たる出来事を友情にまつわる信頼と裏切りの話として展開するアニメは、いっそう幻惑的である。中村亮介(『魍魎の匣』)の生真面目な作風は、もしかしたら本気で友情の物語だと思っていたのでは…と感じさせて、心地よい混乱を醸し出す。

UN-GO

【評価:☆☆】
 TV放送版全話視聴済み、劇場版未見(見る気が起きませんでした)。
 作品冒頭、「本作品は戦後無頼派を代表する坂口安吾が いまから60年以上前に発表した 短編連作「明治開化 安吾捕物帖」の 設定を近未来に移したフィクションである。…(後略)…」という字幕が出る。タイトルも「UN-GO(アンゴ)」なので、当然、安吾作品の翻案アニメ化と思われそうだが、実際には、原作とは似ても似つかぬ會川昇(脚本)のオリジナル作品である。
 『明治開化 安吾捕物帖』は、明治初期の東京を舞台とした推理小説で、まだ戦争の傷跡が各所に残る1950年から連載が開始された。顔のない死体やカルト教団を襲う怪異など次々起きる怪事件に対して、“あの”勝海舟が独自の推理を披露するものの悉く大はずれ、名探偵・結城新十郎が真の解決を付けるという内容。ただし、謎はありきたりでトリックも単純、「心眼」による推理も根拠の乏しい当て推量にすぎず、『不連続殺人事件』などを発表し推理作家としても高く評価される安吾にしては、面白味に欠ける。それでは、明治期の風俗で粉飾しながら戦後の退廃を剔抉する文学作品かと言えば、戯作調が強く人物描写が類型的にすぎ、『堕落論』や「白痴」の深い洞察には遠く及ばない。アニメ制作に際して、どうしてベースにしたのか不思議に思えるほどだ。
 これは全くの想像だが、バブル崩壊後の景気後退から立ち直れないうちに東日本大震災の打撃を被った日本のあり方を改めて問い直そうという企画が持ち上がり(アニメ放送開始は2011年10月)、第2の敗戦とも言われる現状を描くには、大戦後の退廃を俎上に載せた坂口安吾が参考になると考えたのではないか? その際、自由な改変が憚られる文学史上の名作を避け、過去の怪事件にかこつけて執筆当時の世相を取り上げた『安吾捕物帖』の手法に習おうとしたのかもしれない。しかし、独自のコンセプトを優先する會川昇を脚本に起用したのは、失敗だった。
 會川は、原作の設定をメタの立場から解釈し直すのが好きな脚本家で、RPGを思わせる異世界で「ゲームの規則」を探るキャラを登場させた『十二国記』(アニメーターの頑張りで傑作になった)や、原作者が思いつきで導入した「等価交換」というアイデアの不備を徹底的に追及する『鋼の錬金術師』などが代表作(會川がストーリー全体に関与した作品は、他に『THE 八犬伝 』『GAD GUARD』『シムーン』などがあり、私は十数本を見始めたものの、あまりにつまらなくて半分以上で挫折した)。映像化に当たって原作を大幅に改変すること自体は決して否定されるべきではないが、これが許されるには、原作に対するリスペクトが必要。會川のやり方は、原作を弄んでいるようにしか見えない。ドイツ精神の自滅を冷徹に予言したトーマス・マンの原作をイタリア側から切り返し、理性を崩壊させる美の極北を描き出したヴィスコンティの『ベニスに死す』を見習ってほしい。
 アニメ『UN-GO』の舞台は、日本が性懲りもなく戦争に首を突っ込んだ結果、国土と民心が荒廃した近未来。原作でヘボ探偵役を演じた勝海舟は、戦争の背後で暗躍したメディア王・海勝麟六に姿を変えて登場、怪事件についてもっともらしい推理を開陳することで、民衆に対する意図的な情報操作を行う。「最後の名探偵」結城新十郎が、人に一つだけ真実を語らせる超能力を持つ相棒・因果(原作では単なる脇役の戯作者)の助けを借りて真相を解明するものの、人々には届かない…。このプロットだけ聞くと、なかなか面白そうに思えるかもしれないが、実際には、安吾作品で重要になる精神的退廃に触れられておらず、サイドストーリーによる肉付けも不十分で、「コンセプトにこだわりすぎて内容は貧相」という多くの會川作品に共通の欠点を持つ。ミステリとして見応えがあるのは、第6話「あまりにも簡単な暗号」。逢い引きの日時を指示する秘密の手紙のはずなのに、誰にでも解読できる簡単な暗号が使われるという謎が示されるが、実は、かなりの程度まで原作(『安吾捕物帖』シリーズとは別の短編「アンゴウ」)に即して脚色されながら、ストーリー展開は原作の方が遥かに優れているという代物。逆に、第7-8話「ハクチユウム/楽園の王」では、原作(「愚妖」)と共通するのは「鉄道自殺に偽装した殺人」という道具立てのみ。新十郎がなぜかカメラマンとなり、戦争が起きなかった世界で戦争映画(安吾の「白痴」を思わせる)を撮影しているという、安吾作品とは作風が正反対の理知的な幻想譚だが、個々の人物の掘り下げが浅く、水島精二(監督)の凡庸な演出のせいもあって、成功作とは言い難い(作画はかなり優秀)。
 坂口安吾を取り上げるというチャレンジ精神に免じて3つ星を付けようかとも思ったが、再見しても魅力が(因果というキャラ以外には)発見できず、あえて厳しい評価にした。

キノの旅

【評価:☆☆☆】
 TV放送版・劇場版全話視聴済み、原作第2巻まで既読。
 バイクに乗って国から国へと旅を続けるキノの見聞を描く寓話風のファンタジー。ストーリーが特に優れているわけではないが、主人公キノのキャラが興味深く、つい見入ってしまう。
 舞台となるのは、それぞれ体制や技術水準の全く異なる小国(規模からすると、小さな町)が点在する世界。人間同士の殺し合いが見せ物にされる古代ローマを思わせる国があるかと思えば、ようやく飛行機が開発されようとする国から人間そっくりのロボットが稼働する国まで千差万別で、SFのように合理的な背景説明はされず、個々のエピソードを展開するための前提だと割り切った方がよい。「合理的でない」状況はキャラ設定にも見られ、キノが跨るバイク(作中では、モトラドと呼ばれる)のエルメスは、キノとふつうに会話を交わすものの、いかにも古めかしい外見(実在のオートバイがモデルらしい)で人工知能搭載とも思えず、「道具なのに心を持つ」というファンタジーのキャラである。キノとエルメスのコンビが寓話のような出来事の傍観者(ときに参加者)となって感想を語り合うシーンは、なかなかに示唆的である。
 キノは、キッズアニメ風に単純化された容貌に描かれており、感情が読み取れない。これが意図的な作画であることは、幼少期のエピソード(第4話)やOPアニメにおけるキノが表情豊かであることからわかる。この作品で声優デビューした前田愛の口跡も、感情表現を抑制し少し冷淡に感じられるほどだ(意図的な演技ではないのかもしれないが、キノのキャラとマッチしている)。一方、エルメスは、おどけた口調で率直な感想を述べているようでありながら、発言の内容は、単なるバイクにしか見えない外見相応に人間性の欠けた酷薄なもの。この二人の妙にかみ合わない会話が、人間の影の面を描いた寓話風のエピソードをうまく引き立てる。
 無感情に見える姿の根底にあるのが、キノの複雑な人間性である。最初に登場する場面ではふつうの若者に見えるものの、しだいに外見からは予想できない一面が明かされていく。原作(時雨沢恵一のライトノベル)では、冒頭から平凡なエピソードが3つ続いた後、第4話において衝撃的な形でキノの本性があらわにされ、続く第5話で背景となる過去の出来事が紹介されるのに対し、アニメになると順番が組み換えられ、早くも第2話「人を喰った話」で視聴者を驚かせる展開となる。予備知識のない人にとって、原作小説よりもアニメの方が作品世界に入っていきやすいだろう。
 個々のエピソードがもう少し練り上げられていれば、秀作と言える出来になったかもしれないが、残念ながら、物語としてはつまらない。原作・アニメ双方で冒頭に置かれた「人の痛みが分かる国」は、すでに内外のSFで何度も取り上げられたテーマを扱っており、「またこの手か!」と思ってしまった。原作を第2巻まで読んでみたところ、大半のエピソードが先行作品を指摘できる内容。文学と縁のない若い人ならともかく、大人が楽しめるものではない。アニメ化に当たって脚本の村井さだゆきがかなり手を加え、特に「本の国」(アニメ第9話)は原作と全く異なる内容にして盛り上げたものの、散発的な効果しか上げられなかった。それでも、キノの人間性やエルメスとの会話の面白さに加えて、演出も味わい深く、見て損はない。
 早すぎた問題作『serial experiments lain』で知られる監督の中村隆太郎は、あえて情景描写をシンプルにして視聴者のイマジネーションに訴える語り口がうまい。『キノの旅』でも、意味深な台詞を浮遊する字幕で表現するなど、中村らしい優れた演出が随所に見られる。「コロシアム」(アニメ第6/7話)に登場する残酷な国王の姿、「大人の国」(アニメ第4話)で描かれた美しい花園にも注目してほしい。2013年に58歳で病没したことが惜しまれる才人である。

すべてがFになる

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作(森博嗣『すべてがFになる』)既読。
 私の鑑賞眼に狂いがなければ、2015年のベストアニメである。
 森博嗣の原作は、ミステリと言うよりはパズルに近い推理小説(ミステリとパズルの違いについては、『Another』のレビュー参照)。孤島に建てられた閉鎖的な研究所−−ファンにはお馴染みのクローズド・サークル−−を舞台に、監視カメラによって人の出入りが全くないことが確認された完璧な密室で殺人が起きる…。密室殺人は、『モルグ街の殺人』以来、繰り返し取り上げられた定番テーマではあるものの、トリックに溺れてストーリーがおろそかになることが多く、近年の作品で傑作と言えるものはほとんどない(笠井潔『哲学者の密室』は傑作だが、タイトルとは裏腹に密室は重要でない)。おそらく、森は、完璧な密室の実現法をあれこれ考えているうちに本作のトリックを思いつき、そこから逆算し後付けでストーリーを構築したのだろう。そのせいか、話の展開は酷く人工的で現実離れしている。私は、人間性についてそれほど深く知っているわけではないが、それでも、ここに描かれた犯罪を遂行できる人間が地球上にいないことは、断言して良い。少し厳しい言い方だが、原作小説は「トリックがちょこっと目新しい風変わりな作品」でしかない(正直な話、私は森の小説が嫌いで、本作以外に2冊ほど読んだはずなのに、タイトルも内容も全く覚えていない)。
 ところが、アニメ『すべてがFになる』は、さして面白くもない原作の限界を軽々と越えていく。たとえ犯罪そのものが非現実的であっても、仮に、こうした犯罪が起きたとして、それを実行してしまった犯人や巻き込まれた第三者が、何を感じいかなる反応を示すのかを想像することは可能である。むしろ、設定が非現実的であるが故に、かえって極限的な人間の姿があらわになるだろう。アニメは、おそらく監督・神戸守の意向によって、原作で追求しきれなかったこの可能性に目を向け、ずっしりと重いものが腹の底に残る内容となった。
 主要登場人物は、OPアニメにも並んで描かれる犀川・萌絵・四季の3人。原作の設定によると、萌絵は、裕福な資産家の娘で世間知らず、高い知能と抜群の記憶力を持ち、柔軟な水平思考のできる天才タイプの美女のはずだが、アニメでは、これらの特質は、(ストーリーの上で必要となる記憶力と暗算能力以外は)笑いを誘うネタとしてたまに使われるだけ。そもそも、美人としてキャラデザされていない。犀川に思慕とも言えない複雑な感情を抱き、目の前で起きた両親の事故死がトラウマとなっている、鬱屈した女子大生として描かれる。さらに、アニメの犀川は、萌絵と相補的な論理的推理力を発揮する原作での活躍はどこへやら、冴えない風貌ばかりが強調され、一流大学の教官には珍しくもない“少し頭の良い変人”とされた。
 萌絵と犀川の人間性は、説明的な台詞だけではなく、映像表現を通じて的確に描き出される。例えば、過去の出来事について配慮に欠ける質問をして当事者から生々しい談話を引き出した直後、萌絵は、クッキーをむさぼるようにボリボリ食べ始める(第5話「銀色の希望」)。緊張の極みに達し心理的に行き場のなくなった人間が、肉体的なルーティンに逃避することを表す優れた描写である。あるいは、システム停止に伴う暗闇の中で犀川が異常な幻影を見る場面(第8話「紫色の夜明け」)。それまで無感情に見えるほど冷静だった彼は、その瞬間にひどく動揺し、「完全になろうとする不完全さだ…」と呟く。こうした描写を通じて、各人が血肉の通った人間であると示されたことにより、もともとトリックを実現するための設定にすぎなかった事件を一人の人間として見据える視座が提供され、事態の異常さがいっそう深く心を抉るものとなった。
 第5話の終わり近く、四季が誕生日プレゼントを贈るシーンがあるが、私は、これを見るたびに、知らず知らずのうちに歯を食いしばっている自分に気がつく。私がアニメを文学や絵画と同格の芸術ジャンルと見なすのは、アニメでしか描けない真実があるからだが、その最高の例がここにある。
 『すべてがFになる』は、万人向けのアニメではない。何よりも、密室トリックをメインとする推理ものという枠組みが、ハードルを高くする。非現実的な状況設定からドラマを紡ぎ出す作劇法は、文学や演劇に馴れていない人には理解しづらいだろう。おまけに、原作をかなり改変している(主要キャラの人物像だけではなく、動機や犯行の手順なども異なる)ため、原作ファンにそっぽを向かれる危険もある。しかし、こうしたハードルを乗り越えて作品世界に入り込めた幸運な視聴者は、人間の恐ろしさに心をかき乱されながらも、哀切を極めたラストシーンの意味(これがいつの時点の情景かを考えていただきたい)が理解できるだろう。

監獄学園

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 あらかじめ断って置くが、本作は、きわめて卑猥で尾籠で暴力的な作品である。子供には見せられない(勝手に見るだろうが)。大人も隠れて見た方が良い。私は、こんなはしたないネタで笑ってはいけないと懸命にこらえていたものの、「ウ●コ mp3」で耐えきれずに爆笑してしまった。前半は、男子生徒に対し「こいつら、真性のアホだ」と嘲り気味に笑っていたが、中盤から「もしかして、副会長って好い人?」「花ちゃんは、実は純情なのでは…」と思い始めると、もう、裏生徒会メンバーの一挙手一投足が可笑しくて可笑しくて堪らない。第10話「素晴らしき尻哉、人生!」で、捕虫網を手に真剣にバッタをつかまえようとする副会長の姿が映ったときには、転げ回って笑った。
 監督の水島努とシリーズ構成の横手美智子は、よほど馬が合うのか、水島の初監督作品『ジャングルはいつもハレのちグゥ』(未見)以降、『xxxHOLiC』『侵略!イカ娘』『じょしらく』『SHIROBAKO』などでコンビを組んでいる。両者とも実力があるので大はずれはなく、特に『イカ娘』は、この二人でなければ成功しなかったろう(実際、第1期で横手以外が脚本を担当した回や水島が総監督に回った第2期は、あまり面白くない)。『監獄学園』でも、これ以上やったら不快になるという寸前で見事に作品をコントロールしており、下ネタと暴力に溢れているにもかかわらず、見終わった後は爽快感を覚える。
 「クールジャパンを代表する」とおだてられて図に乗ったのか、テレビアニメ界では相変わらずの濫作が続いており、質の低下はもはや隠しようもない。原作の払底が最大の原因だが、制作時間が足りないせいか、脚本も演出も充分に練り上げられていない。漫画やラノベの人気作をアニメ化した作品でも、制作サイドが期待したほど成功を収められなかったケースがかなりある(『GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』などは、手を掛ければもう少し何とかなったはずなのに…と残念だ)。そうした中で、『監獄学園』は、実力のある者がきちんと作れば、原作が少々アレでも充分に面白くなることを示している。私は、2015年のテレビアニメの中で、この作品を『すべてがFになる』『暗殺教室』に次ぐ第3位にランクしたい(羞恥心に邪魔されて星3つしか付けられなかったが)。

FLCL

【評価:☆☆☆】
 全6話視聴済み。
 この作品は、象徴的なSFでも寓意に溢れたファンタジーでもなく、もちろんギャグアニメでもない。「狂騒的」としか言いようのない独特のテイストを湛えており、これを受け止められる感受性のある人には面白いが、そうでなければチンプンカンプンだろう。原案・監督が『新世紀エヴァンゲリオン』の副監督・鶴巻和哉、脚本が『少女革命ウテナ』の(と言うよりは、訳の分からない怪作『忘却の旋律』や『キャプテン・アース』の)榎戸洋司で、曲者コンビが好き放題やってくれたアニメである。日本よりも海外での評価が高いと言われるが、納得してしまう。
 私が狂騒的な作品と判定するのは、単に異常なバカ騒ぎが延々と繰り広げられるだけでなく、その根底に(しばしば悲劇的とも言える)明確なシチュエーションが存在し、バカ騒ぎはそこから必然的に派生するという構造を持つもの。言うなればロジカルな狂騒であり、ロジックがしっかりしていないと優れた作品にはならない。『輪るピングドラム』は傑作だが、『京騒戯画』や『血界戦線』は微妙。『マインド・ゲーム』は激賞する向きがある一方で(私のように)「これはちょっと…」と感じる人も多いようだ。『フリクリ』を制作したガイナックスには、『アベノ橋魔法☆商店街』や『天元突破グレンラガン』のように、狂騒的と言える側面を示す作品が少なくないが、いずれも『フリクリ』ほど弾けていない。『フリクリ』こそが、狂騒的アニメの代表と言えるだろう。
 アニメの舞台は、医療機器メーカー・メディカルメカニカ社の巨大アイロン型(!)社屋が丘の上にそびえる地方都市。主人公の小学生・ナオ太は、斜に構えた台詞(「一生かけてゆっくり死んでいくような毎日…」)を口にするものの、実はナイーブな感性を持つ普通の少年。ある日、ナオ太は、宇宙人かもしれない謎の女性ハルハラ・ハル子にベースギターで殴られた結果、ロボットのカンチをはじめ、不思議な物質を頭から次々と出現させるようになる。さらに、ハル子は、ナオ太の家に家政婦として住み込んで父親を骨抜きにし……いや、個々のストーリーを辿っても仕方ないだろう。登場するさまざまなガジェットも、何かの隠喩とは思わない方が良い(例えば、「街を救うためにナオ太が振るバットは、何を意味するか?」のように)。とにかく、奇想天外な事件が次々と起こり、ナオ太が醒めた目でそれを見つめるうちに少しずつ成長していくという、意外にストレートな物語である。個人的には、学級委員長ニナモリ・エリの苦境をナオ太が救った(のか?)第3話「マルラバ」が好きだ。最終回で彼女が走り高跳びするシーンは、何とも爽快。
 さまざまな技巧を凝らした表現も、注目に値する。特に、漫画風の画が微妙に動く場面が面白い(「手間が掛かるのに手抜きと言われる」という裏話が紹介される)。単なるBGMの枠に収まらないロックミュージックも印象的だ。

昭和元禄落語心中

【評価:☆☆☆☆】
 第1-2期全話視聴済み(以下のレビューは第1期に対して)、原作一部既読。
 牧水の「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」という歌を思い浮かべながら、グラスを傾けつつ独りで観たい、大人向けアニメの秀作である。
 本作でフィーチャーされるのは、タイトルにある通り、落語−−それも、「芝浜」「子別れ」「品川心中」などの大ネタを中心とした古典落語である。芸能をアニメで描くのは難しく、実演シーンの描写が秀逸なアニメは、ジャズを取り上げた『坂道のアポロン』など、ごくわずかしか思い当たらない。演劇・舞踊に関しては、実写映画ならば名作を指折り数えられるのに、アニメでは皆無と言って良い。これは、芸能が生身の人間を感じさせて初めて魂を揺さぶる力を持つのに対して、アニメの作画は抽象性が高く、芸能の持つ生々しさが失われてしまうからだと考える。ところが、本作は、二人の声優が渾身の名演を聴かせてくれたおかげで、話芸の極みとも言える落語の魅力が損なわれない稀有な出来となった。
 型にとらわれない破天荒な語り口で滑稽話を一気に聴かせる助六を演じるのは、「七色の声を持つ」と言われる山寺宏一。歯切れ良くぽんぽんと話を進めるテクニックは、さすがとしか言いようがない。一方、端正な口跡で情景を髣髴とさせる廓噺(くるわばなし)の名手・菊比古は、石田彰(『新世紀エヴァンゲリオン』のカヲル君)が担当する。クレジットを見ずに鑑賞した初回は、てっきり本職の噺家が声を当てていると思ったほど、落語特有の抑揚を自家薬籠中の物にしている。
 当初から天才肌の名調子を聴かせる助六に対して、若い頃の菊比古の噺は、端正であっても面白みがない。石田は、これをわざと下手に演じるのではなく、「うまいけれども、どこかちょっと…」という微妙な表情をつけて見せる。そんな菊比古がコツをつかむ瞬間を描いたのが、若手噺家による素人芝居が人気を博した後、二ツ目勉強会で披露する「品川心中」を独りで練習するシーン(第6話)。寄る年波に勝てず死を決意した花魁のお染めが、道連れになってくれる男はいないか思いを巡らし「あら、いた、独り者の…」という台詞で、菊比古は、まずふつうに発声して中断、次いで、「あ〜ら、いた!」と艶っぽく言い直す。落語に芝居の雰囲気を持ち込むテクニックを会得したことがわかる、見事な描写である。本番では、この台詞を口にする直前、菊比古が妖艶な流し目を見せるが、TBS『落語特選会』(劇作家・榎本滋民の名解説も懐かしい)で放送された昭和の名人・三遊亭圓生の姿を連想させる強烈な目力だった。そんな熱演に次第に客が引き込まれ、高座がいつしか廓の世界に変貌していく展開が素晴らしい。
 助六・菊比古に芸者のみよ吉が絡むストーリーも、見応えがある。二人の男に対して全く違う顔を示しながら、大人の視聴者には本心が透けて見えるみよ吉の描き方は、なかなかに心憎い。
 原作は雲田はるこの漫画。全編を通して有楽亭八雲の一代記となっており、まず、刑務所帰りの与太郎が登場する「与太郎放浪篇」から始まり、そこから過去に戻って「八雲と助六篇」、時代が下った「助六再び篇」と続く。アニメでは、「与太郎放浪篇」を1時間スペシャルの第1話(元はOVA)にまとめ、第2話から第1期の終わりまでが「八雲と助六篇」に当たる。好みによるのかもしれないが、私には、心理描写が原作よりも深みを増したアニメの方が、ずっと面白く感じられた。第1期の終盤、衝撃的な展開で幕切れとなるが、幸い、放送終了直後に第2期制作が報じられている。こんなにも第2期が待ち遠しいアニメは、何年ぶりかだった。
  林原めぐみの歌う主題歌「薄ら氷心中」(作詞・作曲は椎名林檎)も、実に意味深でステキ。

僕だけがいない街

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 主人公の悟は、人の生死にかかわる事件に巻き込まれたとき、その原因が生じた時点に非意図的にタイムリープする能力を持つ青年だが、ある日、自身に直接関係する重大事態に直面した瞬間、18年前の小学生に戻っている自分に気がつく。そこで彼は、間もなく死ぬ運命にあるクラスメートの加代と再会する…。
 時間遡行を扱うサブカル作品は、近年、1つのジャンルを形成すると言って良いほど次々と発表されているが、語り手の独善的な視点でしか描かれていないケースが多く、優れた作品は少ない。そうした中で、アニメ『僕だけがいない街』は、タイムリープという特異な状況が引き起こすサスペンスを保ったまま、周囲の人物の内面を丹念に描写しており、実に見応えがある(監督は、『ソードアート・オンライン』で知られる伊藤智彦)。例えば、シングルマザーとして家事と仕事を両立させている悟の母親。ハンバーグをこねる優しい手つきが、リアリティを感じさせる。あまりに身近すぎて見過ごしていた母親の真情に心を動かされた悟が、つい手を合わせて「いただきます」と言い怪訝な顔をされるシーンが微笑ましい。この母親は、また、息子から「妖怪」と呼ばれるほどの洞察力の持ち主で、加代がきれいな服を着ているという重要なポイントにも、すぐに気がつく(これがなぜ重要なのかは、本編で確認していただきたい)。
 特に素晴らしいのが、加代と賢也という2人の小学生の描き方である。賢也は、事情が充分に飲み込めないながらも、加代の死の運命を回避しようと奮闘する悟に協力する(小学生にしては少し賢すぎる気もするが)。何の代償も求めぬその姿は、心から信頼できる友人がいることの大切さを、深く実感させてくれる。悟が自分のことを「正義の味方……になりたい人」と言ったときに賢也が口にする台詞−−「正義の味方ってさ、結果が出たからなれるってもんじゃないよ。お前はもうなってる」−−は、心に沁みる。一方、加代は、感情を表に出さない寡黙な少女(悠木碧のアテレコも見事)だが、時折心の内を見せる一瞬の描写がうまい。「私だけがいない街」という彼女の作文が読み上げられるシーン(第2話)で描かれる心象風景にも、注目してほしい。ずっと気丈に振る舞っていた加代が、ある物を見て号泣するところでは、思わずもらい泣きしてしまった。
 一応、ミステリ仕立てではあるものの、犯人は早い段階で見え見えになるし、終盤の展開はかなり無理筋、ラストの決着はご都合主義が鼻につくので、ミステリとしては大した作品と言えない。だが、小学生を中心に、人々が力を合わせて1人の人間を救おうとする姿は感動的であり、その部分だけで秀作と呼ぶに値する。

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 私は、『ユニコーン』よりも『Gのレコンギスタ』の方が面白かったという(オーセンティックなガンダムファンからすると)外道だが、その外道の評価によれば、本作は、ガンダムのテレビシリーズとして『ターンエー』に次ぎ『ゼータ』と並ぶ出来である。
 舞台となるのは、地球連邦とジオンの戦いを連想させる大戦争「厄祭戦」が終結してから300年経った太陽系。地球では、いくつかの経済圏が拮抗してかりそめの平和が実現されたものの、植民地である火星では、ハーフメタル資源が地球に搾取されるせいで民衆は貧困に喘ぎ、弾圧の手段としてヒューマンデブリと呼ばれる少年兵が酷使されていた。そうした中で、火星独立運動を主導する「革命の乙女」クーデリアは、支配者のくびきを脱した少年兵の集団・鉄華団に守られつつ、交渉のため地球に向かう…。
 放映開始前から大きな話題となったのが、人気作『とらドラ!』『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』に続いて、長井龍雪(監督)と岡田麿里(シリーズ構成)が3度目のコンビを組んだこと。もっとも、岡田に関しては、不安要素の方が大きかったかもしれない。実際、SFやファンタジーでは構想力の弱さが露呈して終盤でストーリーが乱れることが多く、『M3〜ソノキ鋼〜』は、佐藤順一というビッグネームと組んだにもかかわらず、シナリオの焦点が定まらず悲惨な失敗に終わった。ところが、本作の場合は、岡田が参加する前から企画が準備されており、さらに、長井がアイデアを次々と出しては岡田が整理するという形でストーリーが出来上がったという(バンダイチャンネル「クリエーターズ・セレクション vol.30 岡田麿里インタビュー」)。例えば、「火星から地球を目指す。その途中でドルトコロニーに寄る」というザックリとした構成や、「三日月というモビルスーツ乗りの天才がいて、オルガという団長がいる」という物語の軸となる関係性は、あらかじめ決まっていた。こうした成立過程が、骨太のプロットに岡田らしい人間味あふれる肉付けがなされるという好結果につながる。
 ガンダムの先行作品と直接の関係はないが、だからと言ってタイトル倒れというわけではない。「運悪く戦いに巻き込まれた子供たちが、宇宙船に乗って遠方の目的地へ向かう」「モビルスーツのパイロットがヒーローではない」などの点は、『ファースト』の初期設定と共通する。岡田の言によれば、長井監督は「いつも心の底から『ガンダム』や富野さんの話を嬉しそうにしている」ほどのガンダム好きで、「それで“ガンダム成分”が自然と入ってしまっ」たようだ。『ファースト』では、途中から方向性が変化し、アムロやシャアがヒーローとして前面で活躍するようになるが、『鉄血のオルフェンズ』にこうしたブレはない。三日月は最後まで、心の闇が深くどこか欠けた処のある天才であり続ける。途中から登場する正体不明のマスクマンも、シャアのような格好良さは微塵も見せず、最終話で明かす本心は、おぞましくも悲しい。
 近年増えている型にはまった薄っぺらなテレビアニメと比べて、登場人物は、脇役に至るまでいずれも陰影に富む。中でも興味深いのが、奇妙なキャラデザでコミックリリーフのごとく登場しながら、終盤では運命に弄ばれる悲劇性を体現するカルタ・イシュー。第22話における彼女のバトルは、見ていて悲鳴を上げそうになるほど凄まじい。
 血しぶきが飛び散る残虐シーンが少なくないが、それを打ち消すほどの感動にも溢れている。特に、作中で2度現れるクーデリアのスピーチは、彼女が単なる理想主義者から社会全体を俯瞰できるリーダーへ成長しつつあることを示しており、何度見ても涙を抑えられない。私にとって、ガンダム最高のヒロインは、長らく『ターンエー』のディアナ・ソレルだったが、クーデリアは、それに並び立つ存在感を持つ(髪の量が異常に多いなど外見に共通点が少なくないのは、意図的なキャラデザだろう)。
 …ところで、クーデリアの侍女・フミタンの名は、ずっと「ふみ」という日本名の愛称だと思っていたが、何と本名だった。フランス中世の実在の作曲家・ペロタン(カワイイ!)辺りから思いついたのだろうか。

蒼穹のファフナー

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 第1期『蒼穹のファフナー』−TVスペシャル『- RIGHT OF LEFT』−劇場版『- HEAVEN AND EARTH』−第2期『- EXODUS』全話視聴済み。
 次々と襲いくるエイリアン・フェストゥムに巨大ロボット・ファフナーで立ち向かう子供たちを描いた群像劇だが、複雑すぎる設定が物語を過剰に難解にした憾みがあり、特定の登場人物に感情移入して観念的な台詞をやり過ごさない限り、心から楽しむことは難しい。
 おそらく、企画段階では、次のような比較的単純なプロットが構想されていたと思われる。(1)子供たちは、平穏な島で暮らしているつもりだったが、実は全てが見せかけだった。(2)フェストゥムとの闘いやファフナーへの搭乗は、少年少女の心身を蝕み、その結果、彼らは次々と命を落としていく。(3)人類の内部にも対立があり、しばしば軍事衝突が起きる。(4)戦争での勝利という形で最終決着が付くことはない。こうしたプロットに沿って物語を膨らませていけば、面白いアニメになったかもしれない。しかし、ライターがSFとして内容が薄いと感じたのか、シナリオでは多くのSF的設定が付け加えられ、結果的に物語の見通しが悪くなる。例えば、フェストゥムの中枢とされるミールは、人類との関係性を示す鍵であるにもかかわらず、一部の登場人物が台詞で説明するだけで、その内実が具体的な映像を通じて明かされることはない。このため、ミールに対処する人類側の方針がなぜ統一できないのかわからず、第1期最終話で起きる出来事に対しても実感が湧かない。
 気になるのは、こうした設定を誰が考案したかである。クレジットによると、シリーズ構成は、第1期第15話までが山野辺一記(冲方丁が文芸統括として参画)、第1期第15話以降と第2期が冲方となっている。山野辺はSFプロパーではなくやや軽めの脚本が多いのに対して、冲方は重厚なSF作品をものする作家である。そこから推測するに、まず山野辺が、少年少女の悲壮な闘いを軸にしたプロットを構想し、冲方の協力を得てSF的な味付けをしたものの、設定がストーリーにうまく絡まない。例えば、島の平和が見せかけにすぎないと判明する場面は、衝撃的な出来事であるにもかかわらず、第1話の終盤であっさりと描かれるだけで話が膨らまない。そこで、第1期後半からは冲方が中心になってストーリーを作ったのだが、もともと観念的で小説向きのライターであるため、イメージを重視するアニメには重すぎる脚本になったのではないか。
 設定があまりに観念的であることを示す象徴的な文言が、キャッチコピーとしても使われる「あなたはそこにいますか?」だろう。この言葉は、何か深い意味を秘めているようでありながら、作中での使われ方はアンビギュアスで一貫性がない。フェストゥムが人類に対して発するときは、集団的自我に同調しない個別自我の存在を確認する問いである。第1期第13話で登場する人型フェストゥムは、「われわれは私を行動させる」といった言い回しをしており、フェストゥムが集団的自我を持つことを示唆する。この集団的自我にとって個人は調和を乱す存在でなので、「あなた(=孤立した自我)はそこ(=集団的自我から離れた場所)にいますか?」と問いかけ、人の心に侵入して集団的自我への同化を試みる。これに対して、人類側が、個人が孤立しているからこそ他者への共感が可能になり、豊かな感情を持てるのだと反論すれば、SFとしての一貫性が保てたはずである。実際、第1期第20話では、「ありがとう」と言い涙を流すことが、人間であることの証とされる。ところが、アニメで登場人物が口にする「私はここにいる」という切り返しは、むしろ集団への帰属意識を強調するもので、フェストゥムの問いかけとは方向性が食い違っている。
 どうやら、画にならないSF的設定について、アニメーターたちはそれほど真剣に受け止めていなかったらしい。彼らが力を注いだのは、翔子のバトル(第1期第6話)におけるような、少年少女が示す悲壮な姿の描写である。病弱だった翔子が、なぜあれほど攻撃的な闘いを見せたのか? アニメーターはSF的な発想をせず、この闘いが「自分には何ができるのか」を思い詰めた結果だと感じ取ったのだろう。SF的設定に対するアニメーターの無関心は、第2期に入るとさらに明瞭になり、フェストゥムは(数少ない人型のものを除くと)ただのモンスターとして描かれ、同化は精神的なものではなく身体の欠損のような物理的現象とされる。
 『蒼穹のファフナー』の見所は、難解で共感しにくいストーリーではなく、アニメーターによって創造された魅力的なキャラにある。『新世紀エヴァンゲリオン』などとは異なり、戦闘員のメンタリティは平凡で、どこにでもいそうな子供たちである。彼らが文字通り命を懸けて戦う姿は、あまりに悲壮で見ていて胸が締め付けられる。

エルフェンリート

【評価:☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作未読。
 以前にDVD第1巻のみレンタルし、あまりのおぞましさにそれ以上見る気を失った作品だが、美術評論家の平松洋氏がクリムト「接吻」に絡めて評した記事(2016年2月12日付日経新聞朝刊文化面「サブカルを触発したアート十選」2)を目にし、終わりまで視聴した上でレビューを執筆することにした。
 平松氏の評は、主にオープニングアニメを対象としており、「どこまでも優美にして荘厳。しかも、ラテン語詩の主題歌「LILIUM」の静謐な音楽が心に沁みる。絵画とアニメの融合という新たな境地が開かれている」と記す。ところが、私にとって、このオープニングは、クリムトの華麗で装飾的な絵画に作中のキャラを無理にはめ込んだだけで、酷く調和を欠き不快に感じられたもの(音楽は美しい)。本編に関して平松氏は、「血みどろのシーンが多く要注意」とコメントしながらも、「人類を駆逐する進化体と主人公の壮絶な運命を描いた「セカイ系」の快作」と好意的。だが、私には、単に扇情的なグロアニメとしか思えない。
 私が『エルフェンリート』に対して批判的なのは、プロットとシチュエーションがかみ合っていないためである。グロテスクな表現があるからダメだというわけではない。『サイコパス』では、管理社会で圧殺された心の闇がどんな形で噴出するかを描くために、『BLACK LAGOON Roberta's Blood Trail』では、正義と残虐さが両立し得るかを問いかけるために、グロシーンが有用である。これに対して、『エルフェンリート』は、人類を滅亡させる力を持った新人類「ディクロニウス」の残虐さを描くものの、なぜ彼らがそれほど残虐になるかについては、「DNAからの声に従って」と言うだけで、説得力を持つ形で表現できていない。監督の神戸守は、この作品の本質を「差別と救い」と述べている(VAPホームページ)が、作中で紹介される差別は平凡なイジメでしかない。強大な国家権力に対抗する唯一の可能な手段として、テロリスト時代に身に付けた殺害方法を利用せざるを得なかった『BLACK LAGOON』のロベルタとは、残虐さに向かう必然性の重みが違う。
 人類を殺戮することを宿命づけられたディクロニウスと、これを苛烈な手段で排斥しようとする人類の相克を描くことが『エルフェンリート』の基本プロットであるとすれば、登場人物の置かれたシチュエーションは、このプロットを支えるだけの強靱さを備えていない。例えば、ヒロインのルーシーは、頭部に受けた傷害が原因で記憶喪失になった上に、幼児期にまで精神的な退行を起こし、さらに、同一性障害を発症して記憶が回復するのは別人格に限定される。この、取って付けたようなシチュエーションのため、ルーシーの行動は各シーンごとに異なった人格によって支配され、内面的な葛藤は生じるべくもない。わずかに、第9話において自問自答するシーンが見られるが、『十二国記』第7話の同種のシーンと比べれば、いかにも表面的でおざなりな描写であることがわかる。だいたい、記憶が不分明だとするだけで物語が成立するのに、なぜわざわざ幼児期にまで退行させたのか? 私には、同じキャラに無邪気さと残虐さを付与するための方便にしか見えない。おまけに、主人公のコウタまでが記憶喪失だという設定で、原作者がいかに場当たり的にストーリーをでっち上げたかがわかる。記憶喪失は、M.デュラスが素晴らしい脚本を書いた『かくも長き不在』のように、うまく使えば内面を浮かび上がらせる手法として効果的である。実写映画ならば、他にも『過去のない男』『メメント』など名作が何本もあるのに、アニメでは、『ef-a tale of memories.』以外には(特定の事象に関する記憶だけが欠落するという現実にもよくあるケースを除けば)設定を活かした作品が見あたらない。
 どんな芸術作品でも、作者の思いを全て表現することは不可能であり、あくまで断片として提示されたものを受け手側が補完しなければならない。補完を行うには、登場人物の心理のような作品内部の連関性が手がかりとなる。ところが、ヒロインが記憶喪失で多重人格、行動を支配するのが何も考えない幼児か有無を言わせぬDNAの人格という『エルフェンリート』には、そうした連関性は全く見いだせず、ただ扇情的なシーンがバラバラに積み重ねられるだけである。これでは、センシュアルな興味を覚えることはあっても、人生の糧となるだけの実質を備えたものを作品世界から得ることはできない。本作は、海外でかなり人気があるが、それは、少女の全裸シーンや萌えとスプラッターの混交など、欧米のアニメでは決して描かれない扇情的な描写がなされ、「アニメのタブーに果敢に挑戦した」作品と見なされるからであり、ドラマとして優れていると評価されたわけではない(と思う)。
 ファンの怒りを買うかもしれないが、私は、ハクスリー『すばらしき新世界』のサヴェッジ・ジョンのように、敢えて言いたい。「でも、これはくだらない作品だよ」と。

ノーゲーム・ノーライフ

【評価:☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作未読。
 ニートで引きこもりの天才ゲーマー兄妹が、「全てがゲームで決まる」異世界に召喚され、そこで繰り広げられるリアルなゲームに挑むファンタジー。主人公がゲームの世界に入り込むという設定は、小説・映画・アニメで繰り返し取り上げられてきたが、サイバーパンク以降に流行した電脳空間への“ジャックイン”では、「所詮現実でない」という前提があるため、ゲーム内部で完結する物語にはなりにくい。押井守の映画『アヴァロン』やNHKドラマ『クラインの壺』は、現実と非現実の境界を曖昧にする作劇上のトリックによって、緊迫したドラマを成立させていた。これに対して、本作の場合、現実世界は第1話冒頭でわずかに描かれるだけで、それ以降は全てが異世界におけるリアルな出来事とされ、現実との関わりなど端から問題とされない。ゲームの合間に起きることも含めて、全てがゲームであるかのように話が進むのである。
 現実を遮断する方法論は、人物描写において顕著になる。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』や『絶対少年』などは、引きこもりの人物が感じるヒリヒリするような心の痛みを描き出していたが、本作の主人公が引きこもりだという設定は、ギャグのネタか天才性の証としてしか使われない。登場人物はいずれも内面に心理があるようには見えず、キャラに相応しい言動を示すばかり。特に、いじられ役のステフは、笑われるためだけに登場させられた可哀想なキャラである(でも笑える)。
 ゲームの話なのだから、ゲームの描写が面白ければそれでも良いが、私の見る限り、心理的な駆け引きもなく緊迫感に欠ける。主人公の兄妹は、「あらゆるゲームで不敗を誇る」天才のはずなのに、作中では、どうして不敗でいられるのか不思議なほど頼りない。例えば、第2話で描かれるジャンケン勝負では、相手の心理を読んだ戦法を取ったと説明されるが、このやり方は、せいぜい勝率を高くするだけで、必勝法ではない(ジャンケン唯一の必勝法は、テクニカル後出し−−すなわち、卓越した動体視力で相手の指の動きを見切って対応するもの)。第4話のチェス勝負の終盤、兄は「いつの世もそういう為政者の最期は、なぜか判を押したように決まってるんだ」と口にするものの、ゲームにおけるギリギリの局面でそうした事態に至る必然性はなく、どんでん返しが起きた理由は明かされない。第6話のしりとり勝負では、敗北が決定的になったジブリールが、兄が最初に「す×××」と答えたことを思いだし、この回答は「(あることが)可能かどうかを試しただけ。あの一発で、あの男は必要な情報を全て引き出していた。…(中略)…最初の一手でゲームは終わっていたのですね」と感嘆する。だが、答えた時点で何が起きジブリールがどう対応するか確実な予想ができない以上、必勝の戦略ではあり得ない。どのゲームでも、兄妹の戦い方は戦略性に乏しく、もとより『銀河英雄伝説』『DEATH NOTE』のような頭脳戦ではない。勝機が見えた段階で「お前がそうするのはわかっていた」という意味の台詞を口にすることがあるが、なぜわかったのかと突っ込みたくなる。兄妹がゲームに勝つのは、作者が勝たせると決めたせいでしかなく、途中からは、勝因についてのもっともらしい説明すらなくなる(特に、第9話以降)。つまり、この作品は、「何があろうと、ただひたすら勝ち続ける」という前提の下で、異常に仲の良い兄妹がゲームに興じる様を面白おかしく描いたアニメなのである。
 主人公が異様に強い作品は、古くからあった。ホメロスの『イリアス』は、ギリシャのアキレウスとトロイアのヘクトールの一騎打ちで有名だが、実際に読んでみると、アキレウスの方が圧倒的な強者として描かれており、英雄を愛する民衆の嗜好を反映している。それでも、アキレウスにはアキレス腱という弱点があり、死の運命は変えられない。『北斗の拳』や『シティーハンター』の主人公も、強いだけではない。ところが、近年のアニメには、本作をはじめ『ソードアート・オンライン』『魔法科高校の劣等生』など、主人公が文字通り最強で、決して負けない作品が少なくない。こうした作品がなぜ人気を呼ぶのか不思議だったが、おもちゃ開発者が口にした次の意見が気になった(日経BizGate「あなたは「ボツネタ」の数を自慢できますか?」2016/05/02)。最近の子供に関して曰く、「例えば、自分でゲームをするより、上手い人がプレイしている動画を見ている方が面白いとか。最初に聞いたときはびっくりしました。…(中略)…自分が試行錯誤して何とかクリアするよりも、他人の上手いやり方を見てる方がいい。答えや結果をすぐに欲しがっているのかも」。なるほど、こうしたメンタリティの持ち主ならば、理由もなく勝ち続ける主人公がやたら大見得を切る作品でも、面白いと感じられるのかもしれない。

アナと雪の女王

【評価:☆☆】
 ディズニーアニメ史上最大のヒット作になったのが不思議なくらいの凡作である。
 ウォルト・ディズニー在世時に制作された劇場用アニメ(『ジャングル・ブック』までの諸作)に比べて多くの点で見劣りするが、質の低さが特に明瞭に現れるのは、ミュージカルシーンである。オペレッタを起源としストーリー性を重視するヨーロッパのミュージカル映画(『会議は踊る』『シェルブールの雨傘』など)に対して、ボードビルの影響が滲むアメリカのミュージカルでは、何の脈絡もなく芸達者な俳優が歌って踊る場面が挿入され、ショーとしての芸を楽しむ気分で見ないと面白くない。そんな中で、ディズニーアニメは、生身の芸人に頼らずアニメーターによる絵画的なイマジネーションをベースにしたせいか、ストーリーの流れに沿って映像と音楽を結合させており、アメリカ映画らしからぬ優れたミュージカルシーンを実現した。森に降り注ぐ雨の音が音楽に昇華されていく『バンビ』や、体が宙に浮き始めた喜びがそのまま空中バレーのような飛行シーンへとつながる『ピーター・パン』の名シーン、あるいは、ジミニー・クリケットがしみじみと歌う「星に願いを」やレディーの不安を優しく拭い去る「ララルー」の美しい調べは、思い出すだけで感動が甦る。このような優れた先例があるにもかかわらず、『アナ雪』のミュージカルシーンは、ボードビルショーを思わせる演出に退行しており、以前のディズニーアニメにあった高揚感が得られない。歌唱中のキャラの身振りを見ると、ステージ上の歌手の動きをなぞったような大仰さで、モーションキャプチャによって作られたことが窺える。モーションキャプチャとは、マーカーを装着した人間の動きを撮影し、コンピュータで解析してベクトルデータに変換する技術で、3Dアニメ制作でも盛んに利用されるが、映像が元の人間の動作に制限されるため、表現の幅が狭い。
 モーションキャプチャを使ったとおぼしき映像は、『アナ雪』全編で多用されており、その必然的結果として、アニメで初めて可能になる自在なダイナミズムに欠けた、人形劇に近い作画となった。これは、ディズニーアニメの伝統に反するものである。ディズニー初の長編アニメ『白雪姫』では、長尺を維持するには生身の人間を感じさせた方が良いとの考えからか、俳優の演技をもとにヒロインを作画したが、かえって不気味さを感じさせるものとなった。このため、以後の作品では、ふつうの人間の出番を減らし、『ピノキオ』の大クジラや『バンビ』の動物たちなど、ダイナミックな動きを示すキャラが観客の視線を奪うように場面設計がなされた。ウォルトの死後、低迷していたディズニーアニメが復活するきっかけとなった『リトル・マーメイド』や『美女と野獣』も、その方法論を受け継いでいる。しかし、3Dアニメ時代になると、キャラの動きからダイナミズムが失われてしまう。
 ストーリー展開は、3Dキャラの特性を生かし、その持続的な動きを通じて叙述されるが、これは、日本アニメで独自の進化を遂げた、絵画的造形やモンタージュを積極的に活用する表現テクニックに比べると、いかにも説明的である。動きを止めて呆然と見上げる村人と視線の先に姿を現す巨人の頭部を対比的に描く『進撃の巨人』冒頭や、強烈なイラスト風の表現で非日常性を印象づける『魔法少女まどか☆マギカ』の魔女のシーンが持つ圧倒的な迫力は、『アナ雪』のような3Dアニメでは期待できない。キャラの表情も、目をすがめたり頬を膨らませたりと、ベクトルデータを使って描ける限定的なものしかない。3Dとは言っても、立体的なのはキャラと周辺の小道具だけで、奥行き方向の拡がりはあまりない。カメラとの距離感を丹念に描いた高橋良輔の低予算アニメ『FLAG』の方が、1億5千万ドルを掛けた『アナ雪』よりも遥かに奥行きを感じさせる。
 これだけ表現力が乏しいにもかかわらず、なぜアメリカで3Dアニメがもてはやされるのか? 端的に言えば、子供が喜ぶからである。子供は、表情の綾を読み取る能力が低く、モンタージュによる対比的表現も理解できないが、人形劇風の単純な映像ならば興味を持ち、アナが川に転がり落ちるような素朴なギャグでも大笑いする。子供にせがまれれば親は映画館について行かざるを得ず、その分、入場料も稼げる(私の母のように、小学校低学年の子供だけ劇場に入れ、自分は買い物に行くような非常識な親は少ないはずだ)。ヒット路線に沿った楽曲を宣伝で流し、ボードビルまがいのミュージカルシーンを挿入しておけば、大人もそれなりに満足するだろう。3Dアニメは制作費が高額だと言われるが、金が掛かるのは初期投資だけで、ひとたびソフトウェアを開発すると、後は使い回しできるため、ヒット作を出せれば資金の回収は容易である。アメリカ流のアニメビジネスが3Dに集中するのも、当然のことと言えよう。

うしおととら

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 原作は、藤田和日郎の連載デビュー作(90-96年)で、王道とも言える正統派の少年漫画。妖怪退治の呪力を持つ「獣の槍」を手にした少年・蒼月潮(うしお)が、妖怪・とらとの出会いを経て妖怪たちと関わりを深め、最終的には、大妖怪・白面の者と対決するまでを描く。多くの妖怪や人間との出会いと別れを繰り返すうちに、自分の生きる目的とあるべき姿を自覚していくうしおととらの姿は、なかなかに感動的である。こうした内容を持つ往年の大人気漫画を、連載から20年以上を経て敢えてアニメ化した理由は不明だが、『妖怪ウォッチ』や『ゲゲゲの鬼太郎』などのホンワカ系妖怪アニメで育った子供には、本作や『墓場鬼太郎』のような陰惨な作品は歓迎されないと判断し、かつてのファンをターゲットとして深夜帯に放送したのだろう。
 週刊誌の漫画をアニメ化するときには、連載2話分を放送1話にまとめるのが基本なのに対して、『うしおととら』の場合、400話以上ある原作漫画を分割3クール・全39話に圧縮したため、カットされたエピソードが多くファンには不満が残りそう。原作では、各エピソードごとに登場人物の内面まで丹念に描写され、終盤で彼らが再登場すると、さまざまな思いが脳裏をよぎり胸が熱くなる。これに対して、アニメは(特に後半で)ストーリー展開を急ぎすぎて、どうにも薄味の印象しか受けなかった。原作のダイジェスト版だと割り切った方が良いのかもしれない。
 しかし、いくつかの理由から、それでもアニメ化した意義は充分にあったと考える。1つは、白面の者の声が実に印象的だった点。原作を読んでいる際には想像もつかなかった声が、意外に甲高いにもかかわらず、まるで地の底から伝わってくるような禍々しさをもって表現されていた。私はクレジットを見ないまま鑑賞した後で誰が声を当てたか知ったのだが、「えっ、あの声優が!」と驚かされた。
 もう1つは、静止画の持つ力を適切に表現したこと(若い人にうまく伝わっていてほしい)。アニメ『うしおととら』では、バトルシーンが頻繁に現れるにもかかわらず、カットのつなぎ目に素早い動きや光の効果を挿入するだけで、ここぞという場面での画の動きは抑制されている。このことによって、藤田和日郎の原画が持つ迫力が、かなりの程度まで再現された。
 NHK教育テレビで不定期的に放送される『浦沢直樹の漫勉』は、日本のサブカルに関心を持つ人なら必ず見なければならない重要な番組で、作者がいかに苦心しながら漫画を生み出しているか、その瞬間を目の当たりにすることができる(さいとう・たかをが、下描きもなしに、いきなりゴルゴ13の眉毛をマジックペンで描き始めたときには、テレビの前で「何やってんの〜!」と叫んでしまった)。藤田が登場した回(2015年9月11日放送)では、新作『黒博物館 ゴースト アンド レディ』で亡霊が最後の決戦を挑んでくる姿を描く過程が放送されたのだが、下描きなしにペン入れしては、ホワイトで何度も修正するさまに驚かされた。最初に描いたものは、整った顔立ちの中に攻撃的な内面が浮き彫りにされており、人間ならば緊迫感に満ちた力作と言えるものの、亡霊としては何かが足りない。結局、藤田は、8回にわたって目を完全に描き直し、最終的に白目の部分に中間色を塗って、人間とは決して分かり合うことのない亡霊の目を描出した。この目を浦沢は「この世のものならざる目」と表現、さらに、『うしおととら』でうしおが獣の槍を持ったとき、伸びた髪の隙間からバンと目が出る場面に言及して、「とらを超えるほどの恐ろしさ」とも語った。
 アニメ『うしおととら』には、うしおや白面の者をはじめ、強烈な目を持つキャラがいくつも登場する。画を動かしすぎると、目が放つ禍々しい光が失われてしまうのだが、藤田の画を尊重して目の力を保ったままアニメ化したことは、評価に値する。

甲鉄城のカバネリ

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 安直な企画をもとに大河内一楼がでっち上げたつぎはぎだらけのシナリオを、剛腕の荒木哲郎が全力投球でぶん投げたため、空中分解する剛速球というとんでもない代物になった作品である。
 2016年春アニメは不作で、私は26〜7本を視聴したが、「大人が見て人生の糧となるか」という私的評価基準に照らして星4つ以上与えられるものは皆無、星3つの佳作は、本作をはじめ『ふらいんぐうぃっち』『ジョーカー・ゲーム』など5本、残りは全て星2つ以下である。出来の悪い作品は、企画が安直で、過去のヒット作から「いいとこ取り」を狙って失敗したものが大半。これらの凡作・駄作に比べると、『甲鉄城のカバネリ』は、遥かにスケールが大きく作画も美麗で迫力があるが、失敗の根源は同じである。
 本作の企画がどのように生まれたか、荒木哲郎のインタビュー記事(animate Times 2016/3/18)を読んでも、よくわからない。荒木の言葉を引用すると、まず「自分たちの資質がもっとも活きる企画」として「WIT STUDIOが得意とするアクション作画をメインに据え、荒木の得意なシビアでハードなジャンルの作品にする」という大前提があり、さらに、『あずみ』のような少女剣士が登場するヒロイン・アクションをやりたいという荒木の希望を加えて、プロデューサー陣に毎週のように企画を提出したものの、「ダメ出しを食らうという試練」が続いたらしい。そうした中で、ヒロインが戦う相手としてゾンビを提案したところ、反応が良く制作につながったという。しかし、「『進撃の巨人』と似たものを和風テイストで」という本質的な方向付けを誰が決めたのかは、はっきりしない。推測するに、安全策を志向するプロデューサーたちの思いを荒木が汲み取り、大ヒットした前作にあやかった企画にまとめたのだろう。
 『甲鉄城のカバネリ』が『進撃の巨人』とそっくりなことは誰の目にも明らかなので、類似点を数え上げることはしない。問題は、設定やストーリーを似せたものの、そこから話を膨らませられず、素材を羅列したまま不完全燃焼状態で終了した点にある。これは、脚本を執筆した大河内一楼の責任が大きいだろう。
 大河内は、アニメ的状況を利用して視聴者の共感を引き出すのがうまい脚本家だが、構想力が弱く、首尾一貫した骨太のプロットを考案するのが苦手のようだ。代表作『コードギアス 反逆のルルーシュ』では、プロットに沿って物語を展開させることができず、状況を一変させる新兵器が突如現れたり、登場人物がたびたび記憶喪失になるなど、いかにも場当たり的なストーリーとなった(それでも、個々のエピソードは面白い)。こうした脚本家(岡田麿里や吉田玲子もこのタイプだろう)は、キャラを立たせる台詞や意外な一面をあらわにする挿話に持ち味が感じられるものの、構想力のある脚本家−−伊藤和典をはじめ、佐藤大、井上敏樹、神山健治、虚淵玄ら−−に比べると、ストーリーを緊密に構築するのがうまくない。『甲鉄城のカバネリ』で大河内は、自身の引き出しの多さを手がかりに、さまざまな先行作品(『ワールド・ウォーZ』『アイアムアヒーロー』など)から面白そうな要素(融合群体など)を借用しては次々と付け加えていくが、(『進撃の巨人』における女型の巨人のように)基本的なプロットから導かれるものではないため、必然性に乏しく唐突の感を免れない。
 脚本の欠陥が最も目立つのが、人間関係の描写。ゾンビに対する攻撃力に差がありすぎるせいもあって、各人がバラバラに行動しており、協力や対立の関係が説得力を持つ映像で表現できていない。特に、途中から登場する美馬(びば)は、それまでの流れに乗らない因縁話を持ち込み、ストーリーが分裂するきっかけを作る。侍の来栖(くるす)も、面白いキャラでありながら、プロットにうまく絡んでこない。私ならば、菖蒲(あやめ)と美馬を1つのキャラに合体し、無名(むめい)と生駒という対照的な性格のカバネリを従え、暗い情念を秘めたまま、甲鉄城で一路金剛郭を目指すというストーリーラインにする。
 脚本の出来の悪さに比べると、作画は文句の付けようがないほど素晴らしい。中でも、甲鉄城をはじめとする装甲蒸気機関車は、迫力充分だ。荒木のインタビューによれば、企画の初期段階にはなく、ゾンビから歩いて逃げるという設定だったが、それでは締まりがないので、第1次・第2次大戦時の装甲列車のイメージを拠り所に、荒木が提案したという。私は、満鉄(南満州鉄道株式会社)の特急“あじあ”(特に、最後に作られた先頭車両が流線型のもの)を連想した。列車を舞台とした名作と言えば、実写映画ならば『鉄路の白薔薇』『バルカン超特急』『鉄道員』『北国の帝王』などいくつも思いつくが、アニメの場合、列車の持つダイナミズムがうまく描写された作品はほとんどない(『OVERMANキングゲイナー』『BACCANO!』は、ストーリーはともかく列車の描き方は甘い)。本作は、列車が力強く描かれたアニメとして、記憶されるだろう。

ストライクウィッチーズ

【評価:☆☆☆】
 第1期・第2期・劇場版全話視聴済み。以下のレビューは、第1期に対するもの。
 人間は、ここまでバカバカしい話でも大まじめに作れるんだと、嬉しくなってしまう作品である。もともとの企画はかなりミリタリー色が濃かったが、アニメ化の構想を練る段階で、大幅な方針変更があったらしい。この間の事情は、たまたま近所の図書館にあったノベライズ版『ストライクウィッチーズ 乙女ノ巻』(角川スニーカー文庫)に掲載された鈴木貴昭(アニメ版のクレジットは軍事考証・世界観設定)の解説を読んで、ようやくわかった(…にしても、受験生が大勢いる閲覧席にこの本を持ち込み、メモを取りながら読むのは結構恥ずかしかった)。
 鈴木によれば、2003年頃、島田フミカネのキャラクターデザインに基づく擬人化兵器ものが、メディアミックス企画として持ち上がっていたという。後の『艦隊これくしょん −艦これ−』が戦艦を女性キャラに擬人化しているのに対して、島田のアイデアは、小型プロペラが付いた「メカ脚」を装着した女の子が、第2次大戦中の戦闘機よろしく空中戦を繰り広げるというもの。アニメの登場人物に、(チャック・)イェーガーや(エーリヒ・)ハルトマンら実在したエースパイロットの名前が付けられていることから推測されるように、架空戦記としての性格が強かったと思われる。しかし、現実の戦争をベースにすると、少女たちが殺伐とした殺し合いを続ける内容になって、テレビアニメには向かない。そこで、鈴木と島田が「いかにして女の子を可愛くするか」という観点から設定を練り直したのだが、ここにテレビアニメで監督を務める高村和宏が加わったことで、決定的な方向付けがなされたと思われる。
 テレビアニメ版『ストライクウィッチーズ』では、なんと女子全員が下半身に衣服を付けておらず、パンツ丸出し状態である(日本女性は、なぜかスクール水着)。島田のイラストでも、スカートなしでパンツを見せているが、これは、メカ脚を装着するためという理由付けが可能。ところが、アニメでは、ふだんから誰もスカートを穿かず、男の兵士と会合を持つときも、その姿のまま堂々としている(クレジットによれば、島田がキャラクター原案、高村がアニメキャラデザイン)。だいたい、下着というものは、チラリと見せるから扇情的なのであって、常時丸出しでは色気もへったくれもない。作中では、パンツはズボンと呼ばれており、どう見てもローライズのショーツなのに、支給された軍服の一部だとか。ここまで徹底されると、もはや脱力するしかない。
 この軽さが、スタッフの肩の力を抜いたのだろう。謎の敵・ネウロイ相手に第2次大戦中の兵器で戦うという設定であるにもかかわらず、殺伐としたミリタリー色は見事に吹っ飛び、夢見る少女たちの思いをストレートに伝える作品となった。兵器の描写もあまりリアルではなく、戦闘よりも夜の飛行などの絵画的なシーンに力が籠もっている。特に興味深いのは、ストーリーである(脚本家はクレジットされておらず、シリーズ構成はストライカーユニットとなっている)。前半では、一方的に攻撃してきた敵を殲滅すべく激しい戦闘が繰り返されるばかりだが、後半に入ると、ネウロイとコミュニケーションができるのでは…という希望が見えてくる。こうした展開は、架空戦記という本来の構想にはなく、女の子を可愛く描こうと企画を練り直すうちに、自然と生まれてきたものだろう。バカバカしくも、優しく愛らしい作品である。
 残念ながら、第2期は、おそらく第1期で獲得した人気をより盛り上げようと作為的になりすぎた結果、あざとく底の浅い出来になった。第1期で示された希望を冒頭でいきなり否定した上、ミリタリーファンや美少女愛好家の受けを狙って兵器や下着をリアルに描写する場面が増え、見るに耐えない。私には、第1期と第2期は、全くの別作品に思える。2016年にはシリーズ新作が予告されているが、些かも期待できないのが悲しい。

仮面ライダー555

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 名脚本家・井上敏樹の底力が存分に発揮された傑作である。
 オリジナルの『仮面ライダー』は、71年に放映されたテレビドラマ。もともとの企画では、等身大のヒーローが悪の組織「ショッカー」の送り出す怪人たちと戦う子供向けアクションものだったが、途中から参画した漫画家の石森章太郎(クレジットでは原作)が、主人公自身がショッカーに改造された怪人で、バッタに似た異形の外貌を持つという設定を追加したことにより、本作にもつながる奥深さが生まれた。昭和期にシリーズ化されたドラマは、特撮技術の未熟さや子供向けという制約のため、十全な出来とは言えない。だが、これらを見て育った世代が、自分たちが真に楽しめる作品にしようと意気込んで制作したことにより、『平成ライダーシリーズ』は、(少なくとも初期の何本かは)大人の鑑賞に耐える力作となった。『仮面ライダー555』はその第4作に当たり、私の見る限り、同じく井上が脚本を執筆した『仮面ライダーアギト』(第2作)と並ぶシリーズ最高作である。
 本作の特色は、仮面ライダー(作中での呼称はない)よりも怪人(オルフェノクと呼ばれる)の側にスポットを当てたこと。オルフェノクは、その資質を持つ者が特定の状況下で死んだ後に転生する姿で、人間としての外見と記憶を引き継いだまま、超人的な強靱さと変身能力を身に付ける。物語は、第1話から壮絶な展開を見せる。恵まれた環境に育った穏和な青年は、交通事故に巻き込まれ長く植物状態を続けた後に死亡、オルフェノクとして復活する。だが、意識のない間に財産と婚約者を奪われたことを知らされ、狂乱したまま殺人を犯して逃走する。こうした悲惨な境遇に置かれたオルフェノク3人の始める共同生活が、前半における物語の1つの核となる。一方、謎の孤児院「流星塾」出身者のもとに、装着者を超人(仮面ライダー)に変身させるベルトが失踪中の塾長から送り届けられたことから、流星塾出身の少女を軸にベルト所有者のグループが形成され、オルフェノクと対立する。
 このままオルフェノクとベルト所有者が戦いを繰り広げるだけならば、単純なバトルアクションにしかならなかったろう。だが、井上は、バトルをメインにせず、複雑に入り組んだ人間関係の中で物語を展開する道を選んだ。2つの若者グループでは、各人が自分のあり方に悩み、しばしば行動方針を変更するため、グループの解体・再編が繰り返される。3本あるベルトは所有者が転々と変わり、そのたびに、対立と協力の関係が目まぐるしく入れ替わる。さらに、オルフェノクを利用する巨大企業や、研究の名の下に人体実験を行う警察機関などが介入、若者たちを翻弄する。しかも、多くの登場人物が秘密を抱えており、視聴者を含めて、ある者は秘密を知り別のある者は知らないというややこしい状況となる。1年間の長丁場にわたって、かくも錯綜した人間関係をこんぐらからせることなく、単独で全50話を描ききった井上の筆力は、驚異的である。
 途中、新規アイテムが脈絡なく手に入ったり、不自然なパワーアップが行われたりするのは、メインスポンサーだったバンダイの意向に添うための便法なので、大目に見てあげよう。また、人間関係に重きを置くあまり、移動の描写がかなり省略され、「なぜこの人物がここに!」と思えるシーンが少なくないが、これは、文学や演劇でも一般的に見られる作劇法なので、批判するには当たらない。
 主役級の若者が7人、巨大企業の社長や秘密警察のトップなど、ストーリー展開を左右する重要な役どころの登場人物を併せると17〜8人にも及ぶ群像劇であり、大人でも、かなり気を入れて見ないと話の流れに置いていかれる。やはりと言うべきか、子供には難しすぎたのだろう、視聴率やグッズの売り上げは、前作の『仮面ライダー龍騎』(13人のライダーが鏡の世界で延々とバトルを繰り返すだけの内容で、私には酷く退屈だった)より若干下がっている。しかし、誰がどんな秘密を抱えているかを把握し、各人の心理をきちんと辿ることができれば、無類に面白い作品であることがわかるはずだ。台詞にも味がある。例えば、ある人間は、オルフェノクに攻撃され致命傷を受けたとき、突然笑い出す。「何がおかしい」「いずれわかる、俺がなぜ笑うのか」。この台詞を覚えておけば、後で腑に落ちることになるだろう。悲惨で壮絶なラスト10話は、見ているだけで胸が苦しくなる(オルフェノクの王の造形が中途半端だったのは残念だが)。全編を通じて人の死を真正面から描くシーンが多く、子供向け番組の時間帯ながら、意図的に大人に向けた作品だと言って良い。
 『平成ライダーシリーズ』は、本作をピークとして、以後、作品の質が低下し続ける。私は、第8作『仮面ライダー電王』の序盤で、「大人が視る価値はなくなった」と判断し、視聴を打ち切った。

とらドラ!

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作第1巻のみ既読。
 ラブコメと呼ぶにはあまりに鬱屈しており、好きなタイプの作品ではないが、若い人にアピールする要素を多く含んだ良作だろう。ジャンルは、真正の学園もの。単に視聴者と同じ世代の若者が集まる場としての学園を描くのではなくではなく、学園が生み出すヒリヒリするような濃密な人間関係を見据えた作品である。
 親の職業によって人生路線があらかじめ決められていた前近代の青少年とは異なり、現代の中高生は、将来が未定で自己像が確立していない不安定な状態のまま、同じように不安定な何十人ものクラスメイトとともに閉鎖的な空間に閉じ込められる。その結果、他者は自分をどう見ているか不安になり、外見と内面の乖離に苦しむことになる。大人は、「自分という存在」が表層意識に属する社会的関係性にすぎないことを経験的に察知するが、若者は、社会的パーソナリティというペルソナ(仮面)の下に「本当の自分」がいると錯覚し、「自分とは何か」に悩み続ける。学園とは、そうした悩みが噴出する場であり、真正学園ものは、そこから目を逸らさない。
 『とらドラ!』に登場する高校生は、ほとんどが、外見と内面の食い違いに苦しんでいる。もっとも、原作である竹宮ゆゆこのライトノベルでは、この辺りの扱いはかなり戯画的だ。凶暴で喧嘩っ早いと思われているヒロインの大河は、実は、純情で思いやりのある女の子。父親譲りの目つきの悪さから不良と誤解される主人公の竜児は、掃除と料理の得意な家庭的な少年。この極端な落差で笑いを誘おうというのが、原作の企図である。これに対して、アニメは、底の浅い戯画化を避けて、外見と内面の乖離がもたらす苦悩を、前半は笑いにくるんで、後半はストレートに描き出す。この辺りの匙加減の見事さは、シリーズ構成を担当した岡田麿里の才覚によるのだろう(それにしても、「うっさい!吐くぞ!」「何を?」は名セリフだ)。
 外見と内面の食い違いや本当の自分の曖昧さ−−こうした問題に悩む点は、他の登場人物にも共通しており、祐作や亜美にも見られるが、特に深刻な状況にあるのが、実乃梨である。第4話で、彼女はバケツプリンの写真を教室に持参するが、私は最初にこのシーンを見たとき、ひどく厭な気分になった。バケツでまともなプリンが作れないことを知っていたからである。原作の記述によると、プリン作りは明らかに失敗で、ゆるくてまずそうな代物にしかならなかったことを、ギャグとして描いていた。しかし、アニメでは、実乃梨はプリン作りに成功したことを誇らしげに吹聴し、いかにも美味しそうに食べる自分を撮った写真を見せる。私には、それが、彼女の偏執狂的な性格の現れであり、クラスメイトが期待する人間像を必死に演じているように思われた。前半では、こうした“引っ掛かる”シーンがいくつも積み重ねられ、笑いのほとんどない後半へとつながっていく。
 もっとも、最初に記したように、私は『とらドラ!』が好きではない。自分の体験した高校生活とあまりに違っていて、感情移入できるキャラが一人もいないからである。最近のテレビアニメには、以前に比べて、リアルな学園もの−−『君に届け』『好きっていいなよ。』『アオハライド』など−−が増えてきたが、いずれも「どこの世界の話?」と思えるほど、私の体験と重なるところがない。「自分の高校時代は、まさにこの通りだった」と感じられ、たまらなく懐かしくなった唯一のアニメは、『涼宮ハルヒの憂鬱』である。

セロ弾きのゴーシュ

【評価:☆☆☆☆☆】
 高畑アニメの中で私が最も好きな作品であり、日本アニメ史に残る珠玉の名作である。
 宮澤賢治の童話は、映像作家の創作欲を刺激するのか、翻案物まで含めると映像化作品は数多くあるが、出来はどれもイマイチである。アニメで言えば、ますむらひろしのアイデアでキャラを猫に変更した『銀河鉄道の夜』や、制作中に急逝した岡本忠成の跡を継いで川本喜八郎らが完成した『注文の多い料理店』は、確かに力作ではあるものの、圧倒的な感動をもたらす原作には遠く及ばない。おそらく、その原因は、賢治作品が持つ豊かなイメージを、そのまま映像で置き換えようとしたことにあるのだろう。言語が生み出す詩的イマジネーションは、視覚に限定される映像よりも遥かに強烈なので、このやり方では、いかに作画に凝ったとしても、絵が言葉に負けてしまう。これに対して、本作における高畑勲は、映像で言語と張り合う愚は犯さない。背景(椋尾篁が担当)は濃淡の豊かな水彩画風に描かれ、美術作品と言えるほどの美しさでありながら、ストーリーに干渉せず全編を柔らかく包み込む。登場する人間や動物も、極端なデフォルメは避けられており、ごく普通のアニメキャラである。その一方で、原作の(時にややぎこちない)台詞は、ほとんどそのまま用いられ、賢治の詩的世界が鮮やかに浮かび上がる。
 高畑が心がけたのは、映像に技巧を凝らすのでなく、時代を超越した賢治の童話に現代的な意味を与えるべく、人物像をリアルに肉付けすることだった。ゴーシュは、原作にあるような演奏の拙い(やや年長の)職業楽士ではなく、いくら努力しても成果を上げられず、同僚からの同情にかえって傷ついて内向する、孤独な青年として描かれた。そんなゴーシュが、夜毎に訪れる動物たちとの交流を経て、人間として成長していく過程が、アニメ『セロ弾きのゴーシュ』の眼目である。高畑の(やや深読みとも思える)解説によると、「ごく平凡な青年が、ある目的に向かってやみくもに突進しているとき、自分の目的に係りがないとはいえないが、むしろ邪魔なこととしか思えない出来事に見舞われ、人と出会う。青年は迷惑がりながらもその出来事や人を受け入れざるを得ない。そして青年の心にいつしか真の自発性と他者への愛が生まれ、その力によって青年は飛躍的な成長を遂げる…」ということか(「青春映画としての「セロ弾きのゴーシュ」」;高畑勲著『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店)所収)。
 高畑の作品は、田舎の暮らしを手放しで礼賛する『おもひでぽろぽろ』や原作にない家族愛の描写を付け加えて統一感が失われた『ホーホケキョとなりの山田くん』に明瞭に見られるように、しばしばテーマ性にこだわりすぎて、完成度を損ねている。世評の高い『火垂るの墓』(私は、『となりのトトロ』と2本立てで公開された、塗り残しのある未完成版を見た)も、兄妹の悲惨な境遇を描くことに入れ込むあまり、何がそうした境遇をもたらしたかが曖昧にされており、好きではない。ところが、『セロ弾きのゴーシュ』では、原作から離れた人物像を設定したにもかかわらず、テーマに溺れて作品の出来が疎かにされるということがない。これは、作画と音響を担当したスタッフの努力の賜である。
 才田俊次が独りで描きあげたという原画は、身体の動きだけで多くを表現する描写力が素晴らしい。はたと倒れた猫を抱き上げようとするゴーシュの姿は、一瞬怒りを爆発させたものの根は優しい彼の心情を的確に表す(こうした描写に気づかないと、単に猫を虐めているだけのように見えてしまう)。この猫は、冒頭でリアルな動物の姿に描かれながら、ゴーシュのもとを訪ねたときには2本足で直立しており、その瞬間、「ああ、ファンタジーの空間に入り込んだんだ」とわかる仕掛けになっている。チェロの演奏シーンでは、実写をコンピュータでアニメ絵に変換する近年の作品と異なり、先に録音した音楽に合わせて丹念に絵を描いているが、首を傾げたり身を乗り出したりするさまが真に迫り、音楽演奏のダイナミズムが見事に描出されている。
 音響も魅力的だ。虫や水車の立てる自然音が、耳に快い。繰り返し挿入されるベートーヴェンの田園交響曲にも心躍るが、さらに楽しいのは、クラシック作曲家の間宮芳生が本作のために書き下ろした「印度の虎狩」「愉快な馬車屋」などのチェロ曲。特に後者は、子狸のナイーブさとうまくマッチしていた。指揮者の指示がやけに専門的なのは、間宮のサジェスチョンによるものだろう。
 制作したオープロダクションは、実力のあるスタッフを抱えながら、ずっと下請けばかり行ってきたアニメ会社で、「自分たちの作品を作りたい」という強い思いから、5年掛かりで本作を完成させた。その意気込みが、作品の至る所に籠められている。こういう作品に感動できない人は、アニメには縁がないと思った方が良い。

ふらいんぐうぃっち

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 新米魔女の真琴が、「魔女は15歳になったら独り立ちすべし」というしきたりに従って、横浜の家を出て弘前の従兄弟・圭の家に居候するところから始まる物語。この設定は、13歳での旅立ちが掟で定められた角野栄子『魔女の宅急便』の世界とそっくりだが、パクリというよりも、自分なら同じ設定でこんな話にするという一種の挑戦と見るべきだろう。『魔女の宅急便』のキキは、初めて訪れた街で配達屋を始め、仕事を通じて社会との関わりを深めていく(宮崎駿のアニメでは、さらに、自己の確立という大きなテーマが掲げられた)。これに対して、『ふらいんぐうぃっち』の真琴は、大した困難に遭遇することもなく、日々を楽しくまったりと過ごすだけである。魔女と言っても、常人と違うのは、箒に乗って空を飛べることと、使い魔の黒猫・チトなどの超常的な存在とコミュニケーションできることくらい(この点はキキと似ている)。都会から田舎に移り住んだ女の子が目にする「新鮮な日常」を描いた、癒し系アニメである。
 超常的存在を登場させることで日常に対する新たな視座を作り出したアニメには、突然神様になった中学生の戸惑いを描く秀作『かみちゅ!』をはじめ、『かんなぎ』『侵略!イカ娘』などがあり、いずれの作品でも、現実から懸け離れた特質がさまざまな出来事を引き起こすきっかけとして機能していた。しかし、『ふらいんぐうぃっち』では、こうした超常性の仕掛けはあまり有効に働いていない。超常性をフィーチャーしたエピソードは全編の半分程を占めるが、仕掛けが見事に決まったのは、第11話「くじら、空をとぶ」で背後からダイナミックに登場する空飛ぶ鯨くらいで、それ以外のマンドレイク、春の運び屋(『懺・さよなら絶望先生』の「春の郵便配達」を連想して笑ってしまった)、犬顔の占い師、泣き笑いを引き起こす菓子、恥ずかしがり屋の幽霊などは、どれもあまり面白くない。おそらく、原作者は、魔女を登場させるからにはこうしたサブキャラが必要と思い苦心して創作したものの、自身の資質にそぐわなかったのだろう、話の流れに無理が生じてしまった。
 『ふらいんぐうぃっち』の眼目は、むしろ、超常性の全くないごく当たり前の「魔女のいる風景」にある(ブリューゲルの「イカロスのいる風景」のように日常的だ)。例えば、第2話「魔女への訪問者」Bパートにおけるふきのとうの天麩羅作り(箸で油の温度をチェックする圭の手際の良さに注目)や第7話「喫茶コンクルシオ」Aパートの山菜取り(森の中に入ると急に生き生きする真琴の姿が微笑ましい)などの描き方で、あまたある日常系アニメの中でも際だってリアルであり、見ていて引き込まれる(第7話は、あまりに面白くて、つい10回近く繰り返し見てしまった)。
 こうしたリアルさは、日常を丁寧に再現することによって生み出される。第5話「使い魔の活用法」を例に説明しよう。圭の妹・千夏は、黒猫のチトが自分で戸を開け外に出るのを見て、何事かと跡をつけようとする。その際の母親とのやりとり−−「おかあさ−ん、ちょっと外へ行って来る」「はーい、どこに?」「わかんなーい」「えー!」「でも、きっとすごいとこ」「え〜っ!!」。子供らしく夢を膨らませて弾んだ声と、不安と驚きの入り交じった声の対比が絶妙である(2度の「えー」を見事に演じ分けたのは、御歳17にして芸歴20ウン年の井上喜久子、さすが!)。少し前屈みの姿勢で跡を追う千夏は、チトの行為がどれも魔法につながるものと深読みして高揚し、最後、全てを見通していたチトが自分を懲らしめたと錯覚すると、嬉しさのあまり飛行機のように手を広げて走っていく。質の低いアニメでは、往々にして、肘を曲げ軽く握った両の拳を上げたまま走る“女の子走り”が描かれるが、現実の少女は、バランスを取るとき以外、こんな不自然な動作はしない。千夏(あるいは、Bパートで全力疾走する真琴)の走る姿は、生身の人間をきちんと観察したアニメーターが丁寧に作画したもので、好感が持てる。
 舞台となった弘前の光景も興味深い。店舗や交通網がそこそこ整っていながら、道端にふきのとうが自生し、バスに乗って山菜取りにも行けるという『ふらいんぐうぃっち』の世界は、『のんのんびより』『くまみこ』に描かれた空想的なド田舎とは異なるリアルな半田舎で、都会人の憧憬を誘う。ちなみに、内装の素敵な喫茶コンクルシオは、藤田記念庭園洋館の中にある実在の喫茶店・大正浪漫喫茶室がモデルだそうだ(弘前観光コンベンション協会のホームページより)。
 傑出した作品のない16年春アニメの中では、本作がベストだろう。

ジョーカー・ゲーム

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 日中間の戦争が本格化していく時代を背景に、スパイ養成と諜報・謀略を目的として陸軍内部に設立された“D機関”の活動を描くスパイアニメ。アニメでスパイを描くのは難しく、これまでの作品で一定の水準に達したものは、超能力を持つスパイないし工作員を登場させた『DARKER THAN BLACK』と『閃光のナイトレイド』くらいしかなかったので、本作は、日本アニメに漸く現れたリアルなスパイものの佳作と言って良い。冒頭、「この番組はフィクションであり、登場する人物云々」というお決まりのテロップが流れるが、現代日本史の知識のある人なら、D機関のモデルが陸軍中野学校であることはすぐにわかるはずだ。
 20世紀初頭までは、国家による諜報活動といっても、あまり組織的なものではなく、特命を帯びた外交官や駐在武官が、要人と接点を持つ民間人をスパイとして登用することが多かった。ところが、覚悟に欠ける民間人は、スパイ活動が露見すると保身のために寝返りやすく、結果的に、二重スパイ・三重スパイが横行する事態を招いた。こうした問題を避けるため、イギリスのMI6をはじめ、プロのスパイを養成して任に当たらせる諜報機関が各国で設立される。陸軍中野学校は、「諜報・謀略の科学化」を掲げる岩畔豪雄(本作における影の主人公・結城中佐のモデルだろう)らによって1938年に設立されたスパイ養成のための秘密組織で、太平洋戦争中は、主に卒業生によって構成された特務機関(“F機関”と呼ばれるものもあった)が、世界各地で諜報・謀略活動を行った。
 陸軍中野学校における教育は、設立者の意向もあり、陸軍の内部組織とは思えないほど意欲的だった。教育内容は理論から実践に至るまで多岐にわたり、諜報活動に応用できると本職のスリに実演させたことも。学生の多くは士官学校ではなく東京帝大など一般大学の出身者で、軍人と見破られないため普段から平服・長髪でいることが奨励され、天皇制の是非などに関する議論や敵性語である英語の使用も普通に行われていたという。こうした特徴は、D機関の描写にそのまま反映されている。
 スパイが登場するフィクションを創作する際には、リアリティと面白さの匙加減が厄介である。現実の諜報活動は、要人と接触して情報を聞き出したり、貨物列車やトラックを監視して軍事物資の移動をチェックしたりするなど、きわめて地味である。『007』や『ミッション:インポッシブル』などの映画シリーズは、派手なアクションで人気を呼んだものの、リアリティは全くない。その点、柳広司による原作小説(これまでに短編集4冊が刊行されたが、私は、アニメ第1-2、4、5、12話の原作を収録した第1分冊のみ既読)は、現実味と娯楽性の間にうまく折り合いをつけている。時代背景を巧みに取り入れ、公的な支援の得られないスパイの孤独と非情さを浮き彫りにする一方で、D機関メンバーの超人ぶり(自白剤を注射されても、機密を守り虚偽の情報を喋ることができる)によって読者を楽しませ、ミステリ仕立てのストーリーで知的興味をかきたてる。日本映画史に残る傑作『陸軍中野学校』(監督:増村保造)では、市川雷蔵演じる良心的愛国者が、国を愛するあまり最も非人間的で残忍な行為を犯してしまう悲劇が描かれたが、『ジョーカー・ゲーム』にそうした深刻さはなく、あくまで娯楽に徹している。
 こうした作品をアニメ化するには、かなりの困難が伴う。原作は、謀略を扱う知的エンタテイメントらしく入り組んだ真相を用意しているが、地の文による説明を欠くアニメでは、その内容を視聴者に伝えるのが難しい。第5話「ロビンソン」や第10話「追跡」の真相は、1度見ただけでは(少なくとも私には)よく理解できなかったし、第12話「XX ダブル・クロス」のラストで結城中佐がなぜ温情を示したのかも釈然としない(このエピソードは、真犯人や動機が原作と異なっている)。全体に、時間が足りず説明が不十分だとの感が強く、あと10分あればもっと面白くなったという気がする。これは、テレビのアニメ枠で本編が21〜2分に限られるせいでもあり、ネット配信が主流になれば、尺の伸縮ができ表現の自由度が増すだろう。
 1話(ないし前後編に分かれた2話)ごとに舞台(日本・中国・欧州に及ぶ)と主役が変わるので、作画スタッフの苦労は相当なものだったと思われるが、質はかなり高い。真相がそれほど錯綜していないエピソードには引き込まれるものもあり、中でも、数日前の新聞を持っているという情報だけから列車内の犯人を炙り出す策略が小気味好い「アジア・エクスプレス」(第6話)や、孤独を強いられるスパイの悲哀を滲ませた「柩」(第11話)は、繰り返しの鑑賞に耐える秀作である。ただし、D機関メンバー全員をイケメンに描いたのはやりすぎで、各人の個性が感じられず、キャラデザの失敗と言わざるを得ない。

神霊狩 GHOST HOUND

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 最上級の大人向けサイコホラーと、子供が喜びそうなオカルト要素(第4話から登場)が混じり合った怪作。アニメは多くの人が参画して作るため、スタッフの意志が統一されていないと、作品の方向性が分裂することがある。シリアスでおバカなハードSFラブコメ『機動戦艦ナデシコ』などが典型例だが、本作も、士郎正宗(原作?)・小中千昭(シリーズ構成/脚本)・中村隆太郎(監督;本作が遺作)の思惑の違いが顕在化したケースなのだろうか?
 Production I.G. と並んで原作にクレジットされている士郎正宗がいかなる役割を果たしたのか、実は良くわからない。原作漫画は存在せず、Wikipedeaによれば、本人は企画に関わっていないという。原案とされる1987年の『GHOST HOUND』については、ファンサイトなどにも解説がなく、内容不明である。本作に登場する神霊の姿は、カンブリア紀の生物を思わせ、いかにも士郎正宗風だが、塩谷直義(『PSYCHO-PASS サイコパス 』)がデザインを担当した。バイオベンチャーが行う人工生命の研究や、神経ネットワークへのジャックインも、『ドミニオン』『攻殻機動隊』などを連想させるものの、アイデアの出所ははっきりしない。私の個人的な印象では、少年漫画を思わせるオカルト要素は、士郎正宗の絵やアイデアがベースにあるように思われる(確認はできない)。
 サイコホラー的な部分が、名作『serial experiments lain』でもコンビを組んだ小中と中村に由来することは明らかだ。本作の至る所に、『lain』と共通する雰囲気が感じられる。ただし、『エコエコアザラク 〜眼〜』『デビルマンレディー』などの脚本も担当した小中が、現実が壊れていく恐怖を描き出すのに対して、中村は、『キノの旅』などに見られるように、現実を直視することで見えてくる恐怖を演出するのが得意であり、微妙な違いがある。執拗なまでに繰り返される衒学的な議論(並行宇宙のような単なるSF的味付けではなく、「脳の中のホムンクルス」といった作品の本質にかかわるもの)を通じて、常識的な世界観が揺さぶられるのは、小中の筆力によるもの。一方、冒頭から何度も登場する少女の死体をはじめ、異様なリアルさで見る者の心を掻き乱す映像(OPアニメでは、化け物然とした神霊よりも鳥や昆虫の方が遥かに不気味!)は、中村の個性の現れだろう。現実と夢や幻想の境界を確定できず、見ていて不安な気分にさせられるのは、2人の方向性の違いに起因する。
 『神霊狩』には、根の深いトラウマを抱えた3人の少年と、憑依体質の少女が登場する。語り手の立ち位置にいる古森太郎は、幼い頃、姉とともに誘拐され、1人生き残るという悲惨な体験をした。今なおPTSDに苦しんでいるばかりか、家庭も崩壊寸前である。物語は、この誘拐事件の真相を巡る一種のミステリとして展開される。他の2人の少年も、それぞれ深刻な状況に置かれており、特に、第16話でピークに達する大神信と母親との確執は、実写映画でもなかなか見られないほどの緊迫感に満ちている。脇役も興味深く、PTSDの治療に当たるうちに自身が幻覚(現実?)を見るようになる臨床心理士や、有能な研究者でありながら不倫(生々しすぎて子供には見せられない)に走る女性医師の姿は、ハッとするほどのリアリティがある。老舗の蔵元で杜氏に抜擢されたのに、思うような酒が造れず悩む女性の話も、私好みである。しかし、バイオベンチャーでの人工生命研究や、少女を祭り上げる新興宗教のエピソードは、あまり面白くない。
 想像するに、小中は、さまざまなエピソードを結びつける核心として、神霊や幽世(かくりよ)といったオカルト的な設定(おそらく、士郎正宗のアイデアによる)を利用しようと企んだのだろう。しかし、頭で考えた設定なだけに求心力に欠け、各エピソードの紐帯としての役割を果たせていない。出来の悪いエピソードは、悲しいほど映像に迫力がないが、おそらく、監督の中村も、現実への関わりを重んじる自分の個性に合わないため、気が乗らなかったのではないか。こうして、さまざまなストーリーラインが統一感のないまま混在し、誘拐事件を中心とするサイコホラー的な部分が突出して優れているのに対して、それ以外は内容も作画もパッとしない作品ができあがったのだろう。
 中でも不出来なのが最終回で、多くのエピソードを統合する話になると思われたのに、何が真相なのか良くわからないまま、中絶のような形で突然終了する。25週にわたって全22話が放送されるという構成は、年末年始を挟んだにしても中途半端な話数であり、もしかしたら、何らかの理由で尺が短縮されたのかもしれない。
 優れた部分だけ抜き出せば、アニメ表現の到達点と言えるほど圧倒的な傑作なので、それ以外を軽く流しながら見る鑑賞テクニックが必要になる。

ミチコとハッチン

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 知名度は低いが、腐女子でない大人の女性にオススメの秀作である。
 ブラジルを思わせるラテンアメリカの国が舞台。凶悪犯を収容する刑務所を脱獄したミチコは、里親の元で虐待を受けていた9歳の少女・ハナ(ミチコはハッチンと呼ぶ)を連れ出し、元恋人のヒロシを捜す旅に出る。ミチコは、ハナがヒロシの子供で自分は母親だと主張するが、ヒロシは11年前に事故死したとされており、どこか辻褄があわない。いろいろな意味で少しアブないミチコと、真面目でしっかり者のハナが、旅先でさまざまな人と出会うロードムービー風の物語である(ミチコとハナが実際にどういう関係なのかは、作中で断片的に示された手がかりを組み合わせれば、簡単に推理できる)。
 何よりも素晴らしいのが、二人の人物造形。ミチコは、銀行強盗などの凶悪犯罪を繰り返し、粗暴で剛胆な女性のようでありながら、端々で精神的な弱さ・脆さを垣間見せる。ヒロシに対する思いが愛情かどうかも判然とせず、空想の世界を彷徨っているようにも思える。こうした性格設定は、終盤の展開において、大きな意味を持ってくる。
 一方のハナは、里親の虐待を耐え抜いてきただけに、人間性を踏みにじられることを潔しとせず、常に強い意志を持って行動しており、ミチコよりも遥かに大人である。言葉遣いが丁寧でギャングに対しても敬語を用い、違法行為を咎める高いモラルを身につける。短髪に扁平胸というボーイッシュな容姿なので、萌えアニメ好きの男性には受けないだろうが、10歳前後の少女としては、『のんのんびより』の蛍と並ぶ私好みのキャラである。個々のエピソードは必ずしも傑出していると言えないものの、人物描写が緻密なので、しばらくするとまた二人に会いたくなり、繰り返し見てしまう。
 ストーリーの上でギャングたちが重要な役割を果たすため、かなり激しい暴力シーンもあるが、毛嫌いするには及ばない。『BLACK LAGOON』や『GANGSTA.』などのギャングものに比べると、『ミチコとハッチン』は、コミカルなシーンも多く残虐さが抑制されていて、あまり嫌悪感を覚えない。ギャングたちも、単なる乱暴者ではなく、人間味豊かな存在として描かれる。特に、ストリートギャングのリーダーであるサトシ・バティスタが、ハナに対して最後に何をするか、きちんと見届けてほしい。こうしたヒューマニスティックな演出は、本作が初監督作品となる山本沙代の手腕によるものだろう。山本の演出のうまさが良くわかるのが、第7話「雨におちるモノトーン」である。男がミチコの髪をそっと弄ぶ仕草に漂う色気、主張を聞いてもらえなかったハナが床にぐったり横たわるシーンでのやるせなさ−−キャラの心理をくっきりと浮き立たせる描写が見事だ。
 山本は、『サムライチャンプルー』(監督:渡辺信一郎)で5話ほど演出を担当したが、『サムライ…』もロードムービー風アニメで、人間性をきちんと描きながら話をあまり重くしないところなど、本作につながるものがある。現代日本最高のアニメ作家の一人である渡辺の薫陶も受けたのだろう、視聴者に媚びず真摯にアニメを作る態度には、好感が持てる。
 声優について一言。本作では、ミチコ役の真木よう子をはじめ、主役級にプロの声優でない俳優やタレントが起用されており、抑揚のはっきりした所謂アニメ声とは異なる平板な発声をしている。実写映画では、身体の動きや顔の表情が加わるため、俳優は声だけで過剰に演技しないように努めるからである。アニメファンは、この平板な発声法に不満を感じるかもしれない。だが、『ミチコとハッチン』は作画の質が高く、キャラの心理が絵でしっかりと描写されているので、問題はない。画面が俳優の身体表現に匹敵する情報量を持っており、声の演技が前面に出すぎると、かえって視聴者が画面を読み取る際に障碍となってしまう。表面的には平板に聞こえる声も、画面と一体のものとして鑑賞すると、実は深い含蓄があることがわかるはずだ。もし、『ミチコとハッチン』の台詞が棒読みに聞こえるなら、脳が萌えアニメの悪風に汚染されていると思った方が良い。
 制作会社のマングローブは、2002年に設立されてすぐ『サムライチャンプルー』『Ergo Proxy』そして本作と、オリジナルアニメの秀作を立て続けに発表、その後も、『さらい屋 五葉』『神のみぞ知るセカイ』『サムライフラメンコ』など、味のある作品を作っていたが、質に対するこだわりが強すぎたのか、2015年に経営破綻、進行中だった伊藤計劃の傑作『虐殺器官』のアニメ化は、新たに設立された会社に受け継がれた(どこぞの京アニのように、無難な作品ばかり作っていれば良かったものを)。

甘々と稲妻

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 2016年夏アニメは、『あまんちゅ!』『ベルセルク』『バッテリー』が期待はずれで、見応えある作品がほとんどないという惨憺たる有様だったが、その中で佳作として評価できるのが、『91Days』と本作である(アニメではないが、虚淵玄が原案・脚本・総監修を兼ねた台湾の人形劇『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀』は、ムチャクチャ面白かった)。
 『甘々と稲妻』は、食べることについてのアニメであり、グルメ(美食家)アニメとは似て非なるものだ。グルメアニメはかなりの数に上るが、大半は料理に関する蘊蓄中心で(『美味しんぼ』『ワカコ酒』など)、話を盛り上げるためにしばしば料理対決を持ち出す(『食戟のソーマ』『中華一番!』など)。人気はあるものの、「食べる」という人間的な営為について深く掘り下げることは稀であり、私はどれも好きではない。そもそも、抽象的なアニメ絵で料理を美味しそうに描くこと自体が難しく、グルメアニメを見て、紹介された料理を食べたいと思ったことはない(『幸腹グラフィティ』は料理の作画が見事だが、あまりに官能的すぎて、逆に食欲が失せてしまう)。食べることをテーマにしたアニメには『ベン・トー』があり、半額弁当をゲットしようと必死に闘う若者たちを描いた佳作だが、過剰なまでの必死さがギャグとなるコメディであって、食べるという行為そのものに向き合っているわけではない。
 もっとも、食べることの意味を考えさせる作品は、どんなジャンルでも希少で、文学では水上勉のエッセイ『土を喰ふ日々』(北大路魯山人、吉田健一、開高健の著作は、やはりグルメ文学と言うべき)、映画では『バベットの晩餐会』『かもめ食堂』(どちらも、断じてグルメ映画ではない!)くらいしか思いつかない(漫画原作のテレビドラマ『孤独のグルメ』は、松重豊の食べっぷりがあまりに豪快で見入ってしまうが、これも食べることについてのドラマとは言えないだろう)。それだけに、『甘々と稲妻』は、食べることを正面から取り上げた貴重なアニメである。
 ストーリーは単純である。妻を亡くし男手一つで幼い娘・つむぎを育てる高校教諭・犬塚が、花見の途中で出会った少女・小鳥の助けを借りて、娘に美味しく食べてもらえる料理を作ろうと奮闘する話である。紹介される料理は、ハンバーグ、カレー、餃子、アジフライなどごくありきたりの日常食ばかり。素材や調理法は、どんな料理本にも載っている平凡なもの。犬塚も小鳥も、調理に関しては初心者なので、大根を切るのもおっかなびっくり、火加減・水加減もレシピに頼り切りである。それでも、美味しい料理を作ろうと真剣になる姿は、なかなかに感動的だ。
 このアニメの特色が端的に見て取れるのが、第1話「制服とどなべごはん」だろう。ここで登場する料理は、ただの白飯。ごく普通の米を土鍋で炊くだけである。しかし、それだけなので、かえって全ての虚飾が取り除かれ、料理を作って食べることが人間にとって何を意味するのか、視聴者に直に迫ってくる。白飯が美味しそうに炊きあがった瞬間、小鳥は、天を仰いで「お米が、炊けましたよ〜!!!」と叫ぶ。御飯が炊けるという日常的な出来事が、実は無上の喜びをもたらし得ることを、改めて確認させてくれる名台詞だ。その後の、見るだけで幸せになる食事風景。空腹と愛情をおかずにすれば、白飯だけでも最高の御馳走になる!
 後続のエピソードには多少の出来不出来があるが、私が最も好きなのは、第6話「おともだちとギョーザパーティー」。面白くて楽しくて、なんで涙が出てくるのだろう。
 何と言っても、小鳥のキャラ設定が見事である。ほっそりしているのに大食いで、巨大なパンや母親手製の弁当を、実に美味しそうに食べる。脇目もふらず食べることに専心するさまは、『大食い選手権』(テレビ東京)MC・中村有志の名言「食べること、すなわち、生きること」を思い起こさせる。食と情動が直結しており、欠勤した犬塚に何かあったのでは…と不安になったときには、授業中、教師の目の前で泣きながら早弁を始めるが、一見、唐突なギャグのようでありながら、見る人が見れば奥深さを感じさせる行動である(第8話)。
 つむぎも可愛い。路上に引かれた白線からはずれないように、「サメ、サメ」と歌いながら歩くところは、作中の女子高生ならずとも「何あれ、カワイイ!」と叫びたくなる(第7話)。声を当てたのは、まだ10歳の少女声優だそうだが、そのリアルさには感服させられる。

クロムクロ

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 面白い。面白さだけで言えば、2016年の全テレビアニメ(少なくとも、私が観た90本ほど)の中で3指に入る。ただし、ロボットアニメや萌えアニメのファンには、不満が残るだろう。あくまで、(私のような)SFテイストのロマンが好きな人向けの作品である。小学生の頃、E.E.スミスのスペースオペラを読み耽ったことを思い出す。
 基本プロットは、エイリアンによる地球侵略に対して、人類がロストテクノロジーを利用した巨大ロボットで反撃するというもの。前史が戦国時代にまで遡り、古風な発想の侍がロボット兵器を操るという点は、少し楽しめる。しかし、作中に登場するナノマシンやワームホールのようなSF的ギミックは、小説などで繰り返し取り上げられたものばかりで、さして目新しくはない。二足歩行しながら刀剣を振り回すロボットは、『SAMURAI 7』『ノブナガ・ザ・フール』に登場する機械化された鎧武者を思わせるが、物理的制約を無視し過剰にマンガ的で、見ていて鼻白む。
 『クロムクロ』の面白さは、こうした個々のアトラクションではなく、冒頭からラストまで一貫性を持って構想されたロマンにある。姫君と若侍の主従関係をベースに、由希奈とムエッタという二人のヒロインをうまく絡ませつつ、陳腐な恋愛譚に陥ることなく、ゆったりとストーリーを展開する。特に興味深いのは、あえて萌えアニメ風のギャグを借用しながら、きっちりとロマンに組み込んだところ。例えば、第23話では、ムエッタが胸元をのぞかせるあられもない姿で男の前に姿を現す。巨乳ヒロインの胸があらわになって周囲の男子が喜ぶというのは、ふつうは、男性向けサービスカットで、私は見るたびに不快になるのだが、このシーンは、同じ設定を用いながら、全く異なる方向性を示す。ムエッタは、異星人の環境で生活し、男も知らず食事も固形食ばかりだった。おそらく、パジャマは寝室だけで着るという習俗も、急遽用意したためサイズが合っていないこともわからないまま、部屋の外に出たのだろう。そんな思いを巡らしながら見ると、寂しげな表情のムエッタが愛おしくなる。温泉回(第18話)では、悲鳴を聞いた男子が壁を突き破って女湯に飛び込むというありがちなシチュエーションを、一時的なギャグではなく真剣そのもののシーンにつなげる。しかも、突如として国連のSSが登場し、視聴者に知らされていない動きがあることまで示唆する。
 アニメーターたちも、登場人物に思いを寄せながら作画している。作画というと、背景が美しいとかアクションが滑らかだといった点が注目されがちだが、これらは、金さえ掛ければCGで何とかなる表面的な要素にすぎない。真に重要なのは、人間の描き方である。『クロムクロ』は、人間の作画に関して、トップクラスの作品である。第19話「鬼が誘う宴」で、Bパート8'00"からの一連のシークエンスにおけるムエッタの表情に注目してほしい。彼女の心情を酌み取ったアニメーターが真摯に描いた見事な作画で、台詞がなくてもなぜ心変わりしたかがわかる。
 脇役では、ソフィーと茂住(もずみ)のコンビに惹かれる。ソフィーは、萌えアニメで良く見かける、大人びた口調で喋る金髪の天才幼女−−かと思いきや、単に小柄で童顔なだけの高校生。言葉使いが丁寧なのは、育ちが良いから。かたや茂住は、ソフィーを「お嬢様」と呼び執事のように振る舞いながら、胸をはだけたラフな格好で、本職の執事でないことは明らか。なぜ二人が「お嬢様と執事ごっこ」をしているのか直接は語られないが、最終回で茂住の本業が明らかになると、なるほどと腑に落ちる。
 ただし、他の脇役は、2クールアニメにしては数が多すぎ、カメラ小僧の茅原以外はキャラが充分に生かされていない。また、由希奈の両親−−所長という要職にありながら感情に流されやすく自分勝手な母親と、科学者にあるまじき非論理的な行動を見せる父親−−は、ともに役柄にそぐわないキャラである。脇役を減らして各人の人物像をもっと練り上げれば、さらに優れた出来になったろう。
 監督の岡村天斎は、『メダロット』(99年;未見)で監督デビューを果たしてから、『WOLF'S RAIN』(03年)、『DARKER THAN BLACK』シリーズ(07/09年)と、芸術的香気の漂う名作を発表したものの、『青の祓魔師』(11年)以降は、『世界征服〜謀略のズヴィズダー〜』(14年)『七つの大罪』(14年)など、娯楽作に徹している。『クロムクロ』もこうした流れを汲むものだが、娯楽作ではあってもロマンとしての結構がしっかりしており、見応えがある(もっとも、私としては、また『WOLF'S RAIN』のような作品を作ってほしい)。
 特に、ラスト2話が素晴らしい。必ずしもハッピーエンドと言えないにもかかわらず、主要登場人物の行う決断が必然的で、すんなりと受け容れてしまう。爽やかで感動的な大団円である。

フリップフラッパーズ

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 優れた作品かどうかの目安として私がよく採用するのが、「2度目・3度目に見たとき1度目よりも感動できるか」である。それだけ奥が深い作品かを判定するわけだが、本作の場合、繰り返し見るほど感激度が高まるという滅多にない体験をした。やや難解なせいか人気はイマイチであるものの、2016年テレビアニメ・ベスト3の1本に挙げたい。
 真面目だが決断力のない優等生・ココナは、空飛ぶサーフボードに乗った奔放で能天気な少女・パピカと出会い、彼女に引きずられるようにして、超人的能力を持つ姿に変身できる不思議な世界「ピュア・イリュージョン(純粋な幻想?)」を訪れる。そこで、あらゆる願いを叶えてくれる“アモルファス”(ガラスなどの非晶質を指す用語)を集めることになり、同じ目的を持ったヤヤカたちと衝突、激しいバトルが始まる…。『ふたりはプリキュア』『カードキャプターさくら』『魔法騎士レイアース』などの先行作をなぞったような出だしで、気の早い視聴者は先が読めたと思うかもしれない。だが、第3話で大きく方向転換し、はるかに深刻な重量級の展開となる。特に、第5-7話は、たいがいの文学や映画が敵わない完成度である。
 改めて見直せば明らかになるように、こうした展開は、はじめから周到に準備されていた。第1話の冒頭にいきなりルビンの盃が登場、続く夢のシーンに現れる少女は、騙し絵『娘と老婆』(見るポイントによって、若い娘にも醜い老婆にも見える)の娘に似ている。ココナが教室で読むのは、夏目漱石『夢十夜』の第七夜(どこに行くかわからない船に乗った夢)。さらに、学校の階段脇に掲げられているのが、サー・ミレイの作品でも知られるオフィーリアの死を描いた絵画。現実の残酷さに直面して狂気の内に心を鎖したオフィーリアが、溺れ死ぬ直前であることにも気づかぬまま、花で身を飾り無心に歌いながら水面に浮かぶシーンである。第1話前半でここまで並べられると、このアニメが、一貫した構想の下に緻密に組み立てられた知的な作品であることがわかる。
 クレジットには「原作 ピュア・イリュージョニスト」「ストーリーコンセプト 綾奈ゆにこ」とあり、誰がプロットを構想したかはっきりしないが、話の流れから受ける感触によれば、監督の押山清高が全体を掌握して作品を作り上げたと推測される。押山は、作品の数こそ少ないものの、恐るべき才能の持ち主である。『スペース☆ダンディ』第18話では、脚本・演出・作画監督などを一手に引き受け、シリーズものの一編とは思えない壮大な作品に仕上げた。本作のEDクレジットで、しばしば原画担当の一人として押山の名が記されることから、自分で積極的に絵を描いて、他のアニメーターを引っ張っていくタイプなのだろう。視覚的な発想がベースとなり、ストーリーが絵によって語られるため、言葉による説明が不十分(登場人物の台詞はしばしば意味不明)で、時に強引さも感じられるが、絵の迫力が尋常でなく引き込まれてしまう。
 見所は随所にあるが、特に気に留めてほしいのが現実世界の光景。ココナが通学する道筋には、丸っこく可愛い路面電車とカラフルな石造りの建物があって、ヨーロッパの古都(リスボンがモデルか?)を思わせる。田園を含む学校の敷地は異常に広く、校舎も湾曲した石造で、日本離れしている。その一方で、ココナが住むのは、かなり年季の入った日本家屋。時折、現代日本そのものといった、殺風景な都市景観が挿入される。こうしたバラバラの光景は、意図的に作品に組み込まれたもので、終盤では、ある種の仕掛けとして機能する。
 主要登場人物の過去が次々に明かされる第10-12話も衝撃的(冷酷なリーダーに見えたドクターソルトの正体は、あまりと言えばあまり…)だが、最も心を揺さぶるのは、最終回Bパートである。この部分の解釈次第では、作品全体の構図が、ルビンの盃や『娘と老婆』のように一瞬で反転しかねない。どう解釈するかは、視聴者一人ひとりにゆだねられる。
 2016年は、日本のテレビアニメにとって、悪い意味で転換点となった。テレビの枠に束縛されることを潔しとしないアニメ作家(片渕須直・新海誠・庵野秀明ら)が優れた劇場用作品を発表する一方で、テレビアニメの分野では、ヒット作から「いいとこ取り」を狙ったプロットに人気声優をキャスティングしただけにしか見えない、プロデューサー主導の安直な企画ものが幅を利かしている。質的には、低迷と言うより全面崩壊の状況に陥っており、4〜5年前の隆盛が嘘のようだ。そうした中で、本作のように、旺盛な創作意欲に基づいて完成された個性的なテレビアニメは、きわめて貴重である。多少のアラも目に付くが、そんなことを気にしてはならない。心あるアニメーターは、命を懸けてアニメを作っている。その意気に応え、作品の真髄を見極めるのが、視聴者の責任なのである。

true tears

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み(同名ゲームのメーカーが原作者としてクレジットされているが、アニメの内容は完全オリジナル)。
 近年、高校生のリアルな心情を真摯に描き出すアニメが増えているが、それでも、2008年に作られた本作が、この種の作品の最高峰である事実は揺るがないだろう。シリーズ構成の岡田麿里と監督の西村純二が、それぞれのキャリアにおける最上級の仕事をしている。
 舞台となるのは、制作会社P.A.WORKSが本拠を構える富山県の一地方都市。蔵元の一人息子である高校1年の眞一郎を中心に、両親が急死したために眞一郎の家に引き取られることになった比呂美、奇矯な振る舞いのせいで変人扱いされる乃絵と過剰なまでに妹想いの兄・純、今川焼き屋で働く活発な愛子と彼女に好意を寄せる三代吉という6人の高校生がメインキャラとなる。誰もが誠実で、自分の良心に従い他人を気遣っているにもかかわらず、心がすれ違い互いに傷つけあう。生きることのどうしようもない哀しさが、静かに浮かび上がってくる。
 初放送時に見たときには、自分を無理に奮い立たせようとする姿が痛々しい乃絵への思い入れが強すぎて、他の登場人物に対して共感が湧かず、あまり感動できなかった。特に、影のある性格なのに、クラスで人気のスポーツ少女という比呂美のキャラ設定には、無理があるように感じた。しかし、2度3度と見るにつれて、ライター(岡田・西村と森田眞由美が1話ごとにバトン形式で脚本を執筆した)とアニメーターが全ての登場人物に寄り添うようにして心情を深く描き込んでおり、それをきちんと読み取ることができれば、なまじの文学も敵わない深遠な作品であることがわかってきた。
 とある事情から眞一郎の母親に邪険に扱われる比呂美は、時に心が折れそうになりながらも、自らを厳しく律して懸命に生きている。言葉で表現されることは少ないものの、その内面は、哀しげな眼差しに的確に描出される。他の登場人物の描き方もうまい。予想外の出来事を耳にした三代吉は、呆然として何もない左右を振り返り、再び正面に顔を向けて泣き笑いのような曖昧な表情を浮かべる。ヘルメットのベルトを締めようと妹の頭に手を伸ばした純は、おとがい付近でふと迷ったように手を彷徨わせる。こうした描写は、アニメが持つ表現力の強靱さを実感させてくれる。
 特に、第7話から第9話に掛けてのギリシャ悲劇のような展開は、胸が締め付けられて苦しくなる。単なるイヤな女と思えた眞一郎の母親が、本心を明らかにする場面も心を揺さぶる(P.A.WORKS代表・堀川憲司インタビュー「【ぶらちな】真実の涙を描くために……。 アニメスタジオが翔び立つ時」では、この母親が「監督にとっての心のヒロイン」とされる)。アニメを子供の娯楽だと思っている人は、これを見て考えを改めてほしい。
 作画の見事さは、完璧と言って良い水準。眞一郎が踊りの稽古をするシーンでは、はじめのうちはあまり気が乗らなかったものの、次第に真剣になり、体勢の取り方や足の踏み出しがしっかり決まり始める。こうした変化は、彼の人生に対する姿勢をも象徴的に表す。わずかな動きで登場人物の内面まで描き出す作画の冴えを目にすると、近年のアニメにおける作画技術の衰退が情けない。
 監督の西村純二は、『逮捕しちゃうぞ』『今日からマ王!』『DOG DAYS"』などの娯楽作をメインに作る一方で、本作をはじめ『風人物語』『シムーン』『グラスリップ』といった芸術的なアニメも手がける才人である。中でも『グラスリップ』は、数人の高校生の内面に肉薄しており、表現の豊かさという点で『true tears』をも凌駕する。ただし、中心人物の心理的葛藤が明確にされない脚本の弱さが露呈して、全体としての完成度は『true tears』に遠く及ばない。この監督と有能な脚本家を組み合わせれば、優れたアニメ作品を生みだしてくれそうに思えるのだが、意欲のあるプロデューサーはいないのだろうか?

バーナード嬢曰く。

【評価:☆☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 東京・大阪では地上波の放送がなかったので見逃した人が多いと思われるが、本好きならば是非とも見てほしい快作である。私は完全にはまってしまい、全てのエピソードを10回以上、特に好きな第5話「三大奇書」と第11話「往復書簡」は3〜40回は見た。今なお、週に何回か見直している。1話が正味3分のショート・ギャグ・アニメなので、採点基準は他のアニメと異なるものの、喜んで5つ星を献呈したい(2016年唯一の5つ星作品)。
 登場人物は、読書家ぶりっ子の町田さわ子、ガチの読書家・神林しおり、ひねくれ読書人の遠藤君、シャーロキアン・長谷川スミカの4人。何と言っても、神林さんと町田さわ子のやり取りが絶妙である。読書家に憧れる町田さわ子は、怒鳴られてもバカにされても(アイアンクローで床に叩きつけられても、喫茶店でテーブル返しされても)神林さんにすり寄っていく。そんな町田さわ子を、しだいに憎からず思い始める神林さんの変化が、実にナチュラルである。
 作中で語られるネタは、どれもかなりディープ。第1話では、デイヴィッドスンの短編 "Or All the Seas with Oysters"(短編集『どんがらがん』収録)の翻訳タイトルが「あるいは牡蠣でいっぱいの海」から「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」に変えられたことに、神林さんが怒りを爆発させる。このタイトルは、「瀕死の探偵」で高熱に浮かされたシャーロック・ホームズが「なぜ海は牡蠣でいっぱいにならないのだろう、あんなに繁殖力が旺盛なのに…」と呟いたことに由来しており、「さもなくば…」の方が元ネタに忠実な訳である。しかし、デイヴィッドスンの短編は、身の回りがいつもと違う(例えば、引き出しの中に、ふだんは見あたらない安全ピンが入っている)ことから、もしかしたら、気がつかないうちに世界は侵略され周囲はエイリアンでいっぱいなのでは…とおののく主人公の恐怖を描いたものなので、「あるいは…」の方が不気味さを浮き上がらせて秀逸だ。
 このほか、なぜ神林さんは、ベストSFとしてステープルドン『スターメイカー』を挙げながら、すぐに「ジョーク、ジョーク」と笑い飛ばしたのか(『スターメイカー』はSF史上に残る偉大な傑作だが、私も読みながらしばしば意識が浮遊した)、読まずに書いたダイアモンド『銃・病原菌・鉄』のPOPで、町田さわ子が犯した大失策は?(この本は、遺伝子資源が文明の興亡を左右すると喝破したものであり、タイトルと中身がかみ合っていない)−−など、本を読んだ人だけがわかるネタが満載である。神林さんが、ディラン・トマスの詩とスタインベック『怒りの葡萄』をもとに、ノーラン監督の映画『インターステラー』を鋭く分析するくだりも、刺激的だ。
 ギャグもスマート。神林さんが町田さわ子から『ドグラ・マグラ』を取り上げようとする場面(だって『ドグラ・マグラ』だもん!)や、遠藤君の思いっきり外した「『星の王子さま』とか」(遠藤君、女子を見る目なさすぎ)も可笑しいが、極め付きは「メロス、激怒した?」。夜中に突然思い出して、布団の中で声を上げて笑ってしまった。
 読書家の生態をきちんと描き出した点も、好感が持てる。ページ下辺が微かにくっついた新しい文庫本について、「ページをめくる瞬間、小さくペリッと鳴るのが私は好きだ」と語る神林さんの独白には、多くの本好きが共感するだろう(昔の本は、まれに断裁ミスでページの折れた端がもろにくっついており、めくろうとしてビリッと破れギヤーと叫ぶこともあった)。友人と入った喫茶店で時間を持て余したとき、本を読み始めるのは非常識かと悩む神林さんの姿は、かつての私と完全に重なる(私は、無言で読み始めて嫌味を言われた)。神保町に実在する「ガチ感ほとばしる古書店」に間違って入り、しばし学術書を探す振りをしたとか、読む本がなくなって現国の教科書にまで手を出したとか、町田さわ子と共通する体験も多い。
 低予算ながら、作画は手抜きではなく要所を押さえている。アンナ・カヴァン『氷』の情景を描いた挿し絵風のシーンや、恥じらうように「それ、私も読みたい」と言う神林さんの可愛らしさなどは、特に印象に残る。主役二人の声優(小松未可子と喜多村英梨)は、負けず劣らず素晴らしい。病床にあった町田さわ子が死をテーマにした漱石『こころ』について電話を掛けてきた際、応答する神林さんの口調からこぼれ出る不安と気遣い、あるいは、ピンチョンを断るときの町田さわ子の台詞「…いちばん大事なことだヨ」の「ヨ」に込められたニュアンスなど、もう最高だ。早口で聞き取れないことがあるって? そんなの、5回も見ればわかる!!

【以下、ネタバレあり】
 本好きには堪らない快作だが、ある程度の知識がないと、面白さがわからないだろう。以下では、「見たけれど笑えなかった」という人のために、敢えてギャグのオチを説明しておく(未見の人は読まないように)。

 「メロス、激怒した?」という台詞の可笑しさについて(第11話)。
 この発言の元ネタとなるのが、2014年のアメリカ映画『イコライザー』。深夜のカフェで『老人と海』を読んでいた真面目そうな男に、まだあどけなさを残す風俗嬢らしき女性が「魚、釣れた?」と声を掛ける。
 ヘミングウェイの『老人と海』は、アメリカ人なら知らない人はいない国民文学だが、日本の『吾輩は猫である』や『人間失格』などと同じく、最後まで読んだ人は必ずしも多くない。小さなボートで一本釣りに出たキューバの老漁師が、長い格闘の末に巨大なカジキを捕らえる過程を描いた小説で、魚が釣れるのは終盤に入ってから。したがって、「魚、釣れた?」との問い掛けは、言外に「カッコつけてるだけでなく、ちゃんと読み進めてる?」というニュアンスを含む。
 ところが、おそらく『老人と海』を読んだことのない町田さわ子は、裏の意味を解さず、読書家同士のお洒落な会話に思えたらしい。真似をしたくなり、神林さんに『走れメロス』を持たせて、映画に倣った決め台詞を口にしようとしたものの、深く読み込んでいなかったので、有名な冒頭の一文しか言えなかった。お前がカッコつけてるだけじゃないか−−というオチである。

 『ドグラ・マグラ』のジレンマを理解するには、少し頭を使う必要があるだろう(第5話)。
 まず、町田さわ子が「文学クイズ!三大奇書と言えば?」と(「日本の推理小説」という縛りを無視して)質問、これに対し、神林さんが『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』と正答した上で、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を勧める(私は『黒死館』推しだが)。
 ところが、「読んだ者は精神に異常をきたすと言われている」との説明に町田さわ子が反応し、「(これを読んでいるフリをすれば)狂気の世界に心酔しちゃってるこの私、“取り扱い注意”みたいなアピールになりそう」と言ったことに、神林さんは激怒する。「(他人からどう思われるかを気にしていると)濃厚で価値のある読書体験は得られない」とまくしたてられ涙目になった町田さわ子は、「私が間違っていた…(中略)…今からどっぷりと溺れるように読み耽るよ、『ドグラ・マグラ』を」と答える。
 ここで、神林さんは、自分がとんでもないジレンマに陥ったことに気がつく。他人の目を意識した皮相な読みでは、読書家の本義にもとる。だが、町田さわ子のような頭が空っぽな人間が『ドグラ・マグラ』に没頭すると、精神に異常をきたしかねない。で、自分が勧めた本を取り上げざるを得なくなったわけである。

 ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』を巡るやりとりは、この本の内容を理解している人には噴飯物(第4話)。
 ダイアモンドは、遺伝子資源が文明の興亡を左右すると主張した。家畜化可能な大型動物は、海洋や緯度の差が運搬の障害となり、飼育域が限られる。例えば、インカ帝国は、熱帯地方の豊かな植生を利用して高度な文明を発展させたが、ウシのように農耕にも食用にも使える便利な大型動物がいなかったため、生産余力が小さく、また、人畜共通感染症に対する免疫が生じなかった。これが、少数のスペイン人に侵略されただけで、人類史上まれに見る壊滅的な文明崩壊が起きた原因だ−−というのが、ダイアモンドの考えである。
 『銃・病原菌・鉄』は、このようにグローバルな観点から文明史を説き明かした著作であり、タイトルは内容とあまり関係がない。にもかかわらず、読まずにPOPを作ろうとした町田さわ子は、奇妙なタイトルにこだわってばかり。「読んでから言え!」などと偉そうな口ぶりで、その臆面もない知ったかぶりが笑える。

Re:ゼロから始める異世界生活

【評価:☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作未読。
 本作は、ゲームに熱中したことのある視聴者をターゲットに、プレイ中に感じた情動を増幅し再体験させる装置として企図された作品である。実社会はゲームとは大きく隔たっていると身に沁みて実感し、ゲームに対する熱意を失った多くの大人たちには、全く面白くないだろう。
 日本で家庭用ビデオゲームが爆発的な人気を獲得するのは、1980年代後半から90年代に掛けて。特に好まれたのが『ドラゴンクエスト』などRPG(ロールプレイングゲーム)と呼ばれるタイプのゲームで、プレーヤーは主人公に同一化し、剣と魔法を使ってモンスターを倒しながらクエストを遂行、ステータスを高めていく。また、AVG(アドベンチャーゲーム)では、ストーリーの途中でいくつもの選択肢が提示され、適切な選択を続けた場合のみトゥルーエンドに到達し、そうでなければ、後味の悪いバッドエンドを迎える。RPGで主人公がモンスターに倒されたり、AVGでバッドエンドを迎えたりしてゲームオーバーになると、プレーヤーは(舌打ちして)セーブした地点からゲームを再開する。近年のアニメに、「過去に戻ってやり直す」という設定の作品が多い(ネタバレになるので作品名は挙げないが、すぐ思いつくものだけで1ダースくらいある)のは、かつてRPGやAVGに熱中した小学生が作る側に回り、ゲームの方法論をそのまま作品世界に取り入れたからと推測される。『Re:ゼロ』は、こうした方法論を「死に戻り」という形で基本プロットとしている。
 引きこもりのニートであるスバルは、コンビニ帰りに突如として異世界に飛ばされる。この異世界は「モンスターや亜人がおり、魔術も使えるヨーロッパ中世風の世界」で、ゲーム好きの視聴者なら、すぐに馴染める類型的なもの。スバル自身、直ちにその世界の風俗習慣を了解し、溶け込んでしまう。小野不由美『十二国記』で異世界に連れ込まれたヒロインが、状況かわからないまま、生き延びるために必死に努力するのとは対照的だ。スバルは、「俺の主人公設定はどこいったんだよ〜?」などと、しばしば世界に対してメタな言動を示すが、こうした言動をすんなり受け容れるには、アニメ視聴者がゲームプレーヤーと同じ立ち位置にいることが要請される。ゲームへの関心の乏しい視聴者は、第1話前半で脱落するだろう。
 『Re:ゼロ』最大の特徴は、主人公のスバルが何度も死に、そのたびに、当該エピソードの冒頭に戻ってやり直す点。RPGの場合、セーブ地点からの再開は、プレーヤーにとって退屈きわまりないケースが多い。これに対して、『Re:ゼロ』では、死ぬ直前に多くの謎を用意しておき、ミステリAVGのように、何度もターンを繰り返すうちに次第に謎が解かれていくという趣向にして、視聴者の興味をつなぎ止める。『Re:ゼロ』がかなりの人気を獲得したのは、このミステリ風の展開が面白いと感じられたからだろう。
 しかし、私には、この「死に戻り」の設定がドラマツルギーを破綻させているように思える。RPGの世界ならば、プレーヤーにとってゲーム内キャラは単に情報を提供してくれる駒であり、何ターン目であっても同じように接することが可能である。しかし、アニメ世界は、たとえ擬似的ではあっても、全てのキャラが血肉を備えた人間であるかのように構築されている。生きた人間である以上、「死に戻り」を体験したスバルとの間に(これから何が起きるかについての)情報の不均等があると、それなりの葛藤が生じるはずだ。だが、『Re:ゼロ』の場合、こうした葛藤はほとんど描かれない。典型的なパターンは、初期のターンでスバルが独善的に行動していたときには冷たい態度を取るが、何回目かのターンとなり、破滅的な運命を回避しようと奔走し始めると急に協力的になるというもの。スバルとシンクロしている視聴者からすると実に爽快だが、充分な情報が提供されていない人間の心理としては、何とも不自然である。例えば、当初はスバルに対して冷淡に接していたレムが、「魔女の残り香」などの条件が変わっていないにもかかわらず、あるターンから急に優しくなったのはなぜか? 全般的に言って、エミリアやベアトリスなど、スバルの近くにいる女性にこうした傾向が強く見られ、「頑張っている自分にご褒美を」という子供っぽい願望の具現化のように思われてならない。
 私は、文学や演劇と同様に、アニメでも、作中で形成される状況に対して個々のキャラがどのように応答するかを中心に作品を解釈する。このため、心理変化が不自然なケースに対しては、かなり厳しい評価をせずにはいられない。
 もっとも、この作品に対して低い評価しか与えないのは、傲慢にして怯懦、無思慮で自己中心的というスバルの性格が、私の最も嫌うタイプだからでもある。第16話で彼がプリシラに足蹴にされたときには、胸がスッとした(サド…だろうか?)。

GOD EATER

【評価:☆☆】
【ネタバレあり】
 全13話視聴済み、原作ゲーム未プレイ。
 残念ながら、新生ufotable初の失敗作と言わざるを得ない。
 ufotableは、もともと『フタコイ オルタナティブ』(05年)のような、ひねりの効いたマイナーアニメを作る会社だったが、岩上敦宏に指名されて制作した劇場用アニメ『空の境界』(07-10年)で面目を一新、その後、『Fate/Zero』(11年)『Fate/stay night [Unlimited Blade Works]』(14年)と立て続けに話題作を発表し、作画・音響のクオリティがきわめて高い日本有数のアニメ会社と目されるようになる。しかし、本作(初放送は15年夏)では、言い訳できない二重の失敗を犯してしまう。
 第1の失敗は、納期に間に合わず放送に穴を開けたこと。いきなり第1話を落としたのがケチのつきはじめで、4回にわたって「『GOD EATER』はこんなにスゴイ」という自画自賛の特別編が挿入され、挙げ句、放送枠を使い切って本編は第9話で中絶。半年経ってから、漸く完成した第10-13話を含む全編が放送された。新作ゲーム『ゴッドイーター リザレクション』の発売が15年秋に予定されていたため、その販促になるようにと無理なスケジュールを押しつけられたのが原因ではなかろうか(私の勝手な推測だが)。
 これだけならば、まだufotableに同情する余地もある。しかし、より重大な第2の失敗は、それまでの諸作に比べて、作品の質を著しく落としてしまったことである。「ここが悪い」と明確に指摘できる欠陥ではなく、脚本・作画・音楽など全般的に出来が良くない。
 作品の舞台となるのは、アラガミと呼ばれる異形のモンスターが現れ、人類が絶滅寸前にまで追い込まれた世界。対アラガミ用兵器・神機(じんぎ)を操れる能力者・GOD EATERたちによる、人類の生き残りを掛けた闘いが描かれる。原作は、プレイヤーがGOD EATERの一人となってアラガミを討伐するアクションゲーム。一方、アニメは、オリジナルキャラ・レンカとゲームの主要キャラ・アリサを軸に、強敵のアラガミ・ピターとの闘いを描くドラマとして展開される。ただし、このドラマがどうにも盛り上がらない。
 脚本の欠陥は、キャラの人間性が希薄な点に集約される。アリサは、幼少時の(よく考えると間抜けな)出来事が原因で重いトラウマを抱えており、その結果、物語半ばで深刻な精神障害を発症する。練り上げられた脚本ならば、彼女の精神状態が危ういことを示す描写を伏線として挿入し、発症が必然的な帰結であることを視聴者に納得させる。しかし、本作にそうした伏線はなく、アリサは途中まで勇敢にアラガミ討伐を続けながら、いきなり行動不能になる。これでは、彼女がいかなる思いを胸に闘っているのかわからず、共感しようがない。
 作画は、表面だけ見ると優秀に思えよう。だが、視覚効果こそ派手であるものの、キャラの状況が的確に表現されておらず、見る者のエモーションを掻き立てない。特に問題なのは、命懸けのバトルのはずなのに、どの程度の危険性があるのかが描かれず、その結果として緊迫感に欠ける点である。例えば、第3話では、飛んでいる輸送機の翼や胴体の上で闘っているのに、強風もなく高所であることのリスクが感じられない。第6話で、アリサとレンカは、激しい(=絵になる)戦闘の末に敗れ、どう見ても命を落とすほどの重いダメージを受けながら、簡単に息を吹き返す。さらに、神機を失って闘うすべがないままアラガミと遭遇したにもかかわらず、走るだけで逃げ切ってしまう(さすがに、この展開はまずいと思ったのか、短いカットを重ね、気の抜けるようなBGMを流してごまかしているが)。
 そもそもアニメーターたちは、何をどう描けば良いか、わかっていなかったようだ。最も強大な戦闘力を持つリンドウは、くわえ煙草のまま余裕綽々で、襲ってくる敵を確認もせずにあっさりとなぎ払う。それほど強いと言いたかったのかもしれないが、これは、実力のある戦士の態度ではない。黒澤明『七人の侍』において、最も強い久蔵が最初に戦う場面では、敵が現れるまで草花を弄んでいたのに、野武士が姿を見せた瞬間にスックと立ち上がり一瞬で切り倒す。戦場では僅かな油断で命を落とす危険性があると知っている真の戦士は、緊張感のない姿を敵に晒すことなど決してない。
 音楽も、キャラの心情とは無関係に、状況に即したBGMを流すだけなので、心に訴えることがない。
 興味深いことに、半年の間をおいて放送された第10話以降は、それまでの回と比べて見違えるほど質が高くなっている。特に、第10話のラストでレンカの姉が見せる眼差しは、アニメーターの深い思いが籠もっており、胸が締め付けられる。時間的余裕ができた結果、ufotable本来の力が発揮できたのだろう。逆に言えば、余裕がないのに受注したことこそ問題である。ひとたび質の低いアニメを作ってしまうと、ファンは確実に離れていく。粗製濫造の代償は大きい。

ユーリ!!! on ICE

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 作画は神懸かり的な完成度なのにドラマは空っぽ−−いかなる基準で評価すべきか迷う作品で、結局、折衷的な採点にした。
 描かれるのは、男子フィギュア・スケートの世界。実演を撮影したスケーターの動きをコンピュータでアニメ絵に変換しており、アニメとは思えない迫力である。
 私は、最近のフィギュアが好きではない。以前は、カタリーナ・ビットに代表される優雅な滑りが見られたのに、伊藤みどり登場以降、初めから終わりまでピョンピョン飛び跳ねるジャンプ中心の構成が主流となったためだ。決定的だったのは、ソルトレークシティー五輪で採点の不正が疑われ、その影響で採点法が変更されたこと。新採点法では、ジャンプやスピンなどの演技要素ごとに細かく基礎点が設定され、全てを集計してテクニカルスコアを算出する。演技構成点として演技力なども考慮されるが、ジャンプの基礎点がきわめて高く(例えば、スピンは最高で3.5点なのに対して、4回転ジャンプの基礎点は10点以上)、転倒しても1点しか減点されないので、選手たちは高得点を求めてジャンプを繰り返す。そうした演技があまりにアクロバティックで、見ていて美しくないのである。
 バレエにもグラン・ジュテのようなジャンプがあるが、フィギュアとは全く異なる。最も高くなる地点でピタリと動きを止めるため、まるで空中に静止しているかのようで、美しいポーズが目に焼き付けられる。これに対して、フィギュアのジャンプでは、静止どころかクルクル回りながら上下動するので、目まぐるしいばかり。4回転ともなると、選手の表情は全く見えない。トリノ五輪における荒川静香の素晴らしさは、得点にならないのに、終盤の山場で敢えて持ち技のイナバウアーを婉然と見せてくれたことにある。
 ところが、『ユーリ!!! on ICE』のスケートシーンは、ジャンプ中心なのに、迫力満点で美しさも感じさせる。まず、カメラの揺れが少ない。試合では、審査員にアピールしようとリンク上をダイナミックに動き回るため、選手を追い回す過程でカメラがフラフラと揺れて船酔いのような感覚を引き起こすが、本作では、アニメ用に演技させる際にカメラとの距離を大きく変えないように指導したのか、その弊が少ない。高速回転のジャンプの際も、くっきりと描いたキャラの顔をはめ込むので、画像が流れて表情がぼけることなく、実写以上の臨場感をもたらす。アニメ絵にする際の修正はかなり丁寧で、実写では氷上についたスケートの跡が目障りなのに対して、アニメでは、跡が目立たないように描画している。転倒する直前でカット割りするのは、意図的な演出ではなく、演技中にわざと転倒させることによる危険を避けた結果だろうが、優雅な滑りが台無しになるのを防ぐ映像上のメリットがある。スピンする姿をゆっくりズームアウトしたり、手足などのパーツのショットを挿入したりする演出も、なかなか効果的だ。ここに選手のモノローグがかぶさると、感興がいっそう増して引き込まれる。こうして、「実写よりも迫真的なアニメ」という逆転現象が実現された。
 スケートシーンの圧倒的な迫力に比べると、人間ドラマは、「ヤオイ(ヤマなし・オチなし・イミなし)」と呼びたくなるほど貧弱である。軸になるのは、メンタルの弱さからここ一番でのミスが多い勇利と、世界選手権5連覇後に電撃的に引退し、自ら望んで勇利のコーチとなったヴィクトルの師弟関係。モデルというわけではないだろうが、この二人は、あまりの強さに“皇帝”と呼ばれながら、ソチ五輪での練習中に古傷を痛めて引退したプルシェンコと、彼に憧れて子供時代は同じ髪型にし、ソチ五輪で入れ替わるように金メダルを獲得した羽生結弦(本番前の練習で初めて同じリンクに立ったとき、嬉しそうにプルシェンコの動きを目で追う映像が残っている)を連想させる。さらに、ロシアの美少年選手・ユーリも絡んで男ばかりの三角関係となるが、積極的なBL展開はなく、一緒に温泉に浸かったり同じベッドで寝たりしても、いやらしくない。他の選手とともに、スケートにいそしむイケメンたちの美しい姿態を堪能させてくれる(だけである)。
 本作で監督・シリーズ構成を担当した山本沙代は、全ての登場人物に優しい眼差しを向けた秀作『ミチコとハッチン』で、初監督とは思えない練達の技を示し、次の『LUPIN the Third −峰不二子という女−』では、軽やかな活劇だった旧作の『ルパン三世』から離れて、やや重すぎる人間ドラマを描き出した。ところが、『ユーリ!!! on ICE』では、ドラマは敢えて軽くして、スケートの描写に集中している。それだけスケートシーンの迫力に自信があり、余分な要素を排したかったのかもしれない。

天空のエスカフローネ

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 オーソドックスな少女漫画的プロットに、変形ロボットによるバトルを組み込んだ作品。日本アニメ界に独自の地歩を占める河森正治が原作・シリーズ構成を担当しており、彼が大きな役割を果たしたアニメの中で、(監督の渡辺信一郎が“マクロス色”を大幅に薄めた『マクロスプラス』とともに)最も好意的に評価する作品である。
 河森は、70年代末からメカデザインの仕事を通じてアニメと関わり、『超時空要塞マクロス』(82年)で、メカデザインの他、脚本・演出などを担当、その手腕が認められて劇場版監督に抜擢される。これ以降、メカデザインに留まらず、『マクロス』『アクエリオン』シリーズや『地球少女アルジュナ』(未見)『AKB0048』『ノブナガ・ザ・フール』で、原作/シリーズ構成/監督(総監督)などを担当した。特徴的なのが、さまざまな要素を強引に一つにまとめる手法。想像するに、「変形」という手段で戦闘機と巨大ロボットを結びつける変形ロボットの発想が原点にあり、さらに、エイリアンとの戦争にアイドル歌手の成長物語を絡める『マクロス』の仕事をしたことから、いくつもの要素を結合してアニメのストーリーを編み出す手法に傾倒していったのだろう。私には、こうした手法があまりに不自然に思え(アイドルの歌で戦闘が終息するなど、本気で納得できるだろうか?)、彼の作品に好きなものはほとんどない。
 そうした中で、『エスカフローネ』は、あまり抵抗感なく受け容れられる。その理由は、おそらく、あまりに多くの要素を詰め込んだ結果、かえって不自然さが見えにくくなり、さまざまな素材をドロドロになるまで煮詰めたごった煮のような味わいが生まれたからだろう。
 実際、『エスカフローネ』は、これでもかと言わんばかりに、ガジェットてんこ盛りである。「平凡な少女が、獣人や有翼人のいるファンタジー世界に飛ばされ、巨大ロボットを操る戦闘に巻き込まれる」という設定は、さして目新しくはない。しかし、そのロボットが、透明マントで身を隠したり、騎士を思わせる2足歩行形態と竜を模した飛行形態に変形する点は、SFとファンタジーの要素が混じっており、かなり斬新。分野を越境するこうしたガジェットは、作品の随所に見られる。ロボットの動力源となるのは、竜の体内で精製された魔術的な鉱石だが、強大な爆発力を有しており、原子力のメタファーでもある。一方、操作メカはワイヤを利用する前近代的なもので、『天空の城ラピュタ』などと共通するスチームパンクの趣を感じさせる。中盤では、失われた文明・アトランティスまで登場、技術への過信が孕む恐ろしさを描く物語となる。
 メインストーリーは、徹底的に乙女チック。ヒロインがタイプの異なる青年と少年双方に好意を覚えるといった展開は、少女漫画によく見られる常套的なプロットである。彼女がタロット占いを得意とし、その能力が後半で重要な意味を持ってくるのも、ありがちな話だ。ただし、サイドストーリーは変化に富んでおり、「異常なほど好戦的な美少年や、妙に疑り深い国王が、実は…」となる話の展開は、意外と面白かった。メインストーリーよりも細部の仕掛けに目を向けるのが、『エスカフローネ』を楽しむコツである。とは言え、やはり詰め込みすぎの感は否めない。作品を膨らませるためには、さまざまな設定を盛り込むのではなく、ストーリーを深く掘り下げるべきだろう。
 鼻の尖ったキャラデザは、さすがに時代を感じさせる(アニメキャラの鼻は時期によって大きく変化しており、現在は低い鼻が流行しているが、いずれまた高くなって、低い鼻が「時代を感じさせる」と言われるようになるだろう)。菅野よう子の音楽(溝口肇との共作)は、本作の2年後に作られた『カウボーイビバップ』ほど独創的ではないものの、感興を盛り上げるBGMとして効果的だ。

けものフレンズ

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み(キャラは同名のゲームに基づいているが、ストーリーはオリジナル)。
 17年冬アニメの中で、最も心を動かされた作品である。第1話が小学生向け学習アニメのような曲のないストーリーで、作画もかなり手抜き(CGを多用した結果、表情が歪んだり歩き方が不自然だったりする)のため、視聴を止めた人も多いだろう。だが、第4話「さばくちほー」辺りから急速に深みを増し、第7話「じゃぱりとしょかん」で作品世界の全貌が明かされると、まるで黙示録のような壮大な展開となる。
 舞台となるのは、砂漠や雪山まである巨大な開放型動物公園「ジャパリパーク」。火山から吹き出した神秘の物質「サンドスター」の力で、パークの動物たちはフレンズと呼ばれる可愛い女の子に姿を変え、弱肉強食の争いもなく日々を楽しくまったりと過ごしている。そんなパークに、ある日、記憶のない迷子の少女が現れる。彼女は、カバンを持っていたことからカバンちゃんと名付けられ、フレンズのひとり・サーバルとともに、自分のルーツを探る旅に出る。パークの各所を訪れるロードムービー風のエピソードが、中盤における見せ場となる。
 このアニメの大きな特徴は、見る側と見られる側の間で知識に格差があること。第2話「じゃんぐるちほー」前半で描かれる異様な光景を目にした視聴者は、パークがどのような状況にあるかを直ちに察知するだろう。また、随所にさまざまな手がかりがちりばめられているため、カバンちゃんの正体も、第10話「ろっじ」までに薄々気がつくはずである。しかし、フレンズたちは、何も知らない。
 登場人物の知らない情報を見る側に与えることの重要性は、ヒッチコックがトリュフォーとの対談で強調している(ヒッチコック/トリュフォー著『映画術』(晶文社))。例えば、部屋に時限爆弾が仕掛けられている場合、情報がなければ、突然の爆発に驚くだけである。しかし、見る側だけに情報が与えられると、登場人物がのんびりとしているのを見てハラハラし、「早く何とかして」と叫びたくなる。ヒッチコックは、これをサスペンスの源と見なしているが、それだけでなく、登場人物に対する気遣いを通じて共感が生まれ、作品世界に深く入り込むきっかけとなる。こうした作劇法は、シナリオ執筆の基本テクニックであるにもかかわらず、アニメのライターでうまく使いこなしている人は少ない(見るのが子供だと思って侮っているのだろうか)。本作では、意図的と言うよりも、ゲームの設定にアニメのプロットを填め込もうとして、結果的に知識格差が生じたようだ。
 フレンズは、もともと動物であるだけに、物事をあまり深く考えない。実際、自分たちが衣服を着ていることにすら気がつかない。萌えアニメでは、知性に欠けたキャラの言動を天然ボケと呼んでギャグのネタにすることがあるが、生まれつき頭の弱い人をあざ笑っているようで、見ていて不愉快である(賢いキャラのマジボケは愉快だが)。これに対して、フレンズの能天気ぶりは、その本性に従った自然な姿なので、いつまでも見守っていたい優しい気持ちにさせてくれる。
 知識格差の意味をわかりやすく示すのが、「ジャパリまん」と呼ばれる大きな月餅のような食べ物。フレンズたちは、どこからかジャパリまんを手に入れては、美味しそうに食べる。これがあるからこそ、肉食獣が草食獣を捕食する必要がなくなり、みんなで仲良く暮らせるのだが、そもそもジャパリまんとは、いったい何なのか? フレンズの中で際だって賢いアフリカオオコノハズクとワシミミズクのフクロウコンビ(キャラデザが凝っていて面白い)が、第7話で説明をしてくれる。その瞬間、見る者は、何も知らないフレンズがいかなる立場に置かれているかを了解し、「黄昏の楽園」という言葉が脳裏を去来して、「哀しさ」(「悲しさ」ではない)が胸を衝く。その哀しさ故に、私は、フクロウコンビが手をプルプル震わせながらカレーを食べるシーンで、いつも泣きそうになる(いや、何回かは本当に泣いてしまった)。
 最終回は、辻褄の合わない箇所もあり、おそらく当初の構想を少し変更したと推測されるが、これはこれで良い終わり方だろう。
 …それにしても、いつから食肉目はネコ目と言い換えられたのだろう。ネコ目イヌ科キツネ属って、お前は何者だ!(キツネだ)

【以下、ネタバレあり】
 『けものフレンズ』は、絵柄からは想像もつかないほど奥深い作品である(脚本・監督・コンテ・演出など多くの仕事を、たつきが一人でこなした)。台詞で説明されない設定も多いので、視聴者が頭を働かせて、ストーリーの背後に隠された意味を読み取らなければならない。例えば、第4話「さばくちほー」において、砂漠を走るバスがあまりに揺れるので、カバンちゃんが「この道、大丈夫ですか?」と尋ねるのだが、運転するラッキーさんは「まかせて」と取りあわない。おそらく、ラッキービーストはGPSなどの情報を用いて道なりに進んでいるつもりなのに、肝心の道路が砂嵐で埋もれてしまったのだろう。
 『けもフレ』の世界観を理解するためには、2つの作品が参考になる。
 1つは、H.G.ウェルズの古典的SF小説『モロー博士の島』。舞台となるのは、マッドサイエンティストのモロー博士が動物を人間に作り替えようとしている孤島。ここに迷い込んだ主人公が、獣人の間で何とか生き延びようとするうちに、カバンちゃんとは逆に、次第に人としてのアイデンティティを見失っていくさまが描かれる。モロー博士が獣人に自分を神の如く崇めさせる姿は、『けもフレ』でフレンズがラッキービーストを「ボス」、火山を「神聖な場所」と呼ぶ状況と重なる。
 もう1つが、フィリップ・ド・ブロカ監督の映画『まぼろしの市街戦』。第1次大戦中、フランスの小さな町を占領していたドイツ軍は、撤退する際に時限爆弾を仕掛けて町ごと吹き飛ばそうと計画、それを知って住民が逃げ出した後、監視人のいなくなった精神病院の患者たちが、もぬけの殻となった町に入り込む。事情を知らない斥候兵が訪れたとき、町には、異様にハイテンションな人々が楽しげに暮らしていた…。内容が内容だけに、現在では見るのが難しい「まぼろしの傑作」になってしまったが、本当に狂っているのは誰かと問いかけるラストは強烈である。『けもフレ』第10話「ろっじ」で、建物と家具は立派なのに、宿泊客が寝具のない裸のベッドにごろ寝しているのを見たとき、この映画の記憶が蘇って「ああ、そういうことか」と膝を打った。
 ちなみに、「ろっじ」のエピソードは、オオカミがオオカミ少年になったり、サーバルがさりげなくカバンちゃんと一緒に暮らしたいと口にしたり(サーバル流愛の告白?)と、見所の多い神回である。
 『けもフレ』には、回収されなかった伏線や解かれなかった謎が多い。最大の謎は、カバンちゃんがどこでカバンを手に入れ、なぜあれほど大切にするのかという点(「ろっじ」の回では、サーバルに「荷物置いたら探検しよう」と言われたのに、わざわざカバンを背負って出掛ける)。サーバルはどうしてミライさんの記憶を失ったのか、怖い目に逢うたびにカバンちゃんが「食べないで」と叫ぶのはなぜか、五合目付近にある飛行機の残骸らしき物体は何か(作中、飛行機への言及は「ろっじ」で1回だけあるが、そこで乗っていたのが誰かというと…)−−なども気になるが、特に怖いのが、最終回でカバンちゃんの手足が黒ずんでいるところ。これらを総合すると、アニメにされなかったもう一つのエンディングが浮かび上がってくる(最終回は、ミライさんの映像がそれまでの平面とは異なって立体投影されるなど、当初設定を急いで変更したと思われる部分がいくつかある)。
 『けもフレ』は、中毒性の高い作品だ。見るたびに気になる点が出てきて繰り返し再生するうちに、気がつけば、(1話見るのを1回として)延べ100回くらい見てしまった。一番好きなキャラは、何気に賢いフェネック。共感するキャラは、サラリーマンみたいに愚痴を言うリカオン(「オーダーきついですよ」)。一番気になるのはシロサイの鎧の下。一番心に響いた名言は、第7話でアフリカオオコノハズクが言う「おいしいものを食べてこその人生なのです」で、何度聞いても目頭が熱くなる(何度聞いても吹き出す迷言が、アミメキリンの「あなたはヤギね!」)。

【以下、重大なネタバレあり】
 『けもフレ』には、主人公の二人−−カバンちゃんとサーバル−−が、いずれも記憶喪失だという特徴的な設定がある。なぜ二人が記憶を失ったかについて、ストーリーの中では語られないが、あちこちにヒントが隠されているので、作者であるたつき監督の意図を読み取ることは困難ではない。
 第11話「せるりあん」では、カバンちゃん、キンシコウ、サーバルの会話で、セルリアンに食べられると記憶を失うことが示される。

  カバンちゃん「そう言えば、セルリアンに食べられたらどうなるんですか?」
  キンシコウ「死んでしまうと言うと、言い過ぎかもしれませんが…」
  サーバル「お話しできなくなるし、私たちのことも忘れちゃうもんね」

さらに、終盤でサーバルが巨大セルリアンに食べられたとき、狼狽したカバンちゃんが悲痛な声を上げる:

  カバンちゃん「食べられたら死んじゃうって…記憶がどうとかって!」

ここでわざわざ「記憶」という言葉を用いたことに、注意されたい。
 第12話「ゆうえんち」になると、セルリアンに食べられて(第10話でタイリクオオカミが語ったとおり)体がいったん溶けたカバンちゃんが、救出され元の姿に戻った直後、サーバルが尋ねる。

  「カ…カバンちゃんだよね?…わかる?…いちばん最初に会ったときにしたお話、覚えてる?」

ここでも、身体的な不具合がないかどうかよりも、まず記憶を問題とする。
 カバンちゃんがセルリアンに食べられても記憶を失わなかったのは、食べられる前と同じ脳の容量を持つ人間になったからだと推察される。サーバルも、体が溶ける前に救い出されたので、記憶を失うことはなかった。ただし、クライマックスで記憶喪失が起きなかったにしても、作者がこれほど《セルリアンと記憶》について執拗に語ったからには、そこに作品の謎を読み解く鍵が隠されていると推測してかまわないだろう。第10話「ろっじ」で、サーバルがミライさんの記憶を失ったことが示されるが、その原因が、暗々裏に語られているのである。
 私の推理によれば、サーバルは、動物だったときにサンドスターに当たってフレンズに変身し、ミライさんと仲良くなったものの、セルリアンに食べられて脳容量の小さい元動物に戻り、記憶を失った。ところが、動物の状態で再びサンドスターに当たり、フレンズへと二度目の変身をする希有な体験をしたと考えられる。
 カバンちゃんが怖い目に遭うたびに「食べないで!」と叫ぶのは、サーバルが食べられるのを見たミライさんの恐怖が微かに残っているからだろうか。第11話でサーバルが食べられたとき、カバンちゃんが身を捨ててまで助けようとしたのは、かつて助けられなかった苦い思いに突き動かされたからかもしれない。
 それでは、もう一人の記憶喪失者であるカバンちゃんは、なぜ記憶を失ったのか? ミライさんにサンドスターが当たってカバンちゃんになったとしても、脳の容量は変わらず記憶は失われないはずである。
 ここで思い出してほしいのが、フレンズがどうやって誕生するか、作中でなされる説明である。第9話「ゆきやまちほー」のエンディング後、PPPとアライさんらとの会話では、次のように語られる。

  「サンドスターが動物に当たると、フレンズになるんだ」
  「あるいは、動物だったもの、とかね」

この後で言及されるジャイアントペンギンが、数千万年前に生息した古代ペンギンの化石からフレンズに転生したものであることも、重要なポイントである。
 ミライさんも、PPPの発言と同じ内容を、ラッキービーストの口を借りて語る(第10話「ろっじ」)。

  「生き物や生き物だったものとサンドスターが反応して、フレンズが生まれますが…」

この台詞(および、これに続く「サンドスターに二種類ある」という説明)は、すぐ後でカバンちゃんが、

  「これ、ハカセたちに教えてあげたら、喜ぶかな?」

と語ったように、作者によって、その重要性がわざわざ強調されている。
 二度も繰り返されたこれらの説明では、フレンズに生まれ変わる元になるのが、「動物の一部」ではなく「動物だったもの」とはっきり述べられる。このことは、第12話「ゆうえんち」で描かれたストーリーと、明らかに矛盾する。そこから推測されるのは、第12話の制作に入る直前に、たつき監督が脚本を変更し、予定されていた物語とは異なる展開にしたということである。
 第12話が少し不自然なことは、それまで平面に投影されていたミライさんの映像が、この回の後半で、突然、立体映像になる点にも表れる(ラッキービーストが空中に立体映像を投影できるならば、第10話でタイリクオオカミが見た「大きすぎる白いお化け」は何だったのだろう)。
 それでは、本来予定されていた物語はどのようなものだったのか? 第10話「ろっじ」では、ミライさんと幼いサーバルの間で、唐突に奇妙な会話が交わされる(この会話は、それまでの話の流れにそぐわず、カバンちゃんがわざわざ「ミライさんて、絶対、いい人だよね」と言葉を添える必要があった)。

  ミライさん「えー! 最初、私が宇宙人だと?」
  幼サーバル「だって…(中略)…飛んでくるんだよ」

この「飛んでくる」とは、飛行機に乗ってパークにやってきたことを意味するのだろう。
 かなりの人数がいたと思われるパークの従業員は、本土との間を飛行機で行き来していたようだ。第11話には船が登場するが、これは甲板の広い荷物運搬船で、人を運ぶものではない。広大なパークには飛行場が建設され、従業員の移動に飛行機を利用していたと考えるのが自然である。
 そこで気になるのが、第11話「せるりあん」の中盤、「山」にカバンちゃんとサーバルが登る場面で、五合目付近に飛行機の残骸らしきものが描かれていたことである。墜落した飛行機には誰が乗っていたのか? 搭乗者は墜落後にどうなったのか? ミライさんとカバンちゃんの間には記憶を保持できない「動物だったもの」が介在すること、最終回でカバンちゃんの手足が黒ずんでいたことと併せると、不吉な推測が成り立つ。
 おそらく、本来の『けものフレンズ』は、無念の死を遂げた恋人たちが、前世の記憶を失った状態で転生した後、再び恋に落ちるというファンタジーの一類型をなぞった内容だったのだろう。なぜ、たつき監督が脚本を変更したのかはわからないが、オワコンのゲームを低予算でアニメ化したマイナー作品だと思って、自分の好きなように作っていたのに、気がつくとネットで人気に火がついており、あまりに個人的な内容にするのが憚られたからではなかろうか。

クラシカロイド

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 ベートーヴェンやモーツァルトら8人の大作曲家が「クラシカロイド」となって現代に甦り、音楽の超能力・ムジークを駆使してさまざまな状況に対処する−−と言うと、放送したのがNHKということもあって、何やら深遠な音楽アニメと思われそうだが、実際には、それらしきキャラが繰り広げる、何ともバカバカしいドタバタ喜劇である。初めのうちはさほどでもないが、第10話「愛しのジョリー」辺りからグングン面白くなり、第11〜19話(奇数話に優れた作品が多い)になると、『銀魂』や『おそ松さん』が生真面目すぎると思えるほど荒唐無稽なギャグが炸裂する。笑っているうちに、何だか幸せな気持ちになる素敵なアニメである。
 ここで重要なのが、「…っぽい」という巧みなキャラ設定。例えば、現実のショパンは、11月蜂起(故国ポーランドの市民がロシア支配に抗して起こした反乱)が失敗に終わったとの報を耳にして、激しい言葉を密かに書きつづった愛国者であり、本作に登場する引きこもりでゲームオタクのキャラとは異なる。しかし、大ホールでのコンサートを嫌って貴族相手にサロンでピアノ演奏を行い、健康状態が悪化してからは、静養のために愛人のジョルジュ・サンドとともにマジョルカ島を訪れながら、未婚の男女に対する島民の冷たい視線を避けるように、修道院にこもって前奏曲第6番「雨だれ」のような陰鬱な曲をひたすら作っていたのだから、引きこもりのイメージは実にしっくりする。真面目で不器用なベートーヴェンが餃子作りにひたむきだったり、女性遍歴が華やかだったリストが妖艶な女性そのものになっていたり−−そんなキャラ設定にニヤリと笑える人は、『クラシカロイド』の世界にすんなりと入っていけるだろう。楽聖クラスの大作曲家たちに混じって、なぜかバダジェフスカも甦りアイドル歌手をやっているが、「一発屋」と言われると激怒する(わかる人にはわかるはず)。
 大作曲家(もどき)の登場に合わせて、クラシックファンにはお馴染みのメロディーがふんだんに使われる。ただし、単に「現代風にアレンジした」のではなく、「クラシック名曲にインスパイアされたミュージシャンが自由に創作した」と言った方が適切。第17話「みかん!みかん!焼きみかん?!」では、みかん姿のゾンビ(!)となったベートーヴェンやリストがモーツァルトを襲うという超絶的にシュールな物語に、モーツァルト「トルコ行進曲」をベースにした「みかんゾンビマーチ」(作詩・編曲:tofubeats)がかぶさる。モーツァルトがゾンビたちと一緒になって、マイケル・ジャクソンの『スリラー』よろしく踊りまくるシーンは、涙なくして見られない(笑いすぎのせいで)。各回ともエンディングで劇中曲がリプレイされるので、見事な編曲テクニックをじっくり堪能してほしい。
 入浴中のシューベルトが、突如として鱒に変身する第13話「ます」も楽しい。はじめから終わりまで、「それどころじゃないだろう」と突っ込むのに忙殺される。
 一応、音楽アニメなので、音楽論が開陳される回もあるが、バッハの主張が正論すぎて面白くない(そこがバッハらしい?)。音楽にかかわるエピソードで最も素晴らしいのが、第15話「地獄の学園祭」。ミュージシャン気取りの少年がテクノポップまがいの自作曲を披露したのを受けて、クラシカロイドたちが手持ちの楽器をさらりと演奏するのだが、「ああ、音楽って良いなあ」と思わせてくれる。

幼女戦記

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作(カルロ・ゼンのライトノベル)未読。
 日本アニメ特有の「異物による現実の変容(仮に、変容効果と呼ぼう)」が最大限に利用された秀作である。「幼女の皮をかぶった化物」ターニャ・デグレチャフが、戦場でいかに有能かつ酷薄かを描く本格的ミリタリ・アニメなので、血の嫌いな人にはお勧めできないが、作品世界における社会的・軍事的情勢を的確に読み取れれば、「戦争とは何か」を深く考えさせられることは間違いない。
 舞台となるのは、少数の能力者が空中浮遊や爆裂などの魔術を操れるパラレルワールド。第一次世界大戦が起きなかったことを別にすると、1920年代(技術の異常な発展に伴って、途中から3〜40年代風の部分も現れる)の現実世界と良く似ている。かつての帝政ドイツを思わせる「帝国」は、「共和国」(フランス?)など周辺諸国と戦争状態にあり、近代兵器を活用した軍事力で勝るものの、「連合王国」(イギリス?)が共和国側を支援したため、苦戦を強いられる。そうした中、過酷なライン戦線で武勲をあげた9歳の魔導師デグレチャフは、新たに組織された第203航空魔導大隊の大隊長に就任、帝国のために奮戦する。「神の御名において、祖国を侵す輩に鉄槌を」とうそぶき、圧倒的な魔力で敵軍を撃滅していくその姿は、これまでに例を見ない幼きダークヒロインである。
 デグレチャフがなぜ大人を凌駕する知識と技量を持つかは、第2話で説明されるが、一種の言い訳なので、あまり真剣に受け止める必要はないだろう。実際、アニメ制作時に、この部分を全てカットするという案も出されたようだ(ただし、作成されたシーンでのストップモーションは実に効果的で、上村泰監督の演出は素晴らしい)。むしろ、理性を重んじる天才幼女が、大人の兵士(副官のセレブリャコーフを除く全員が男性)から成る軍を率いて戦闘を遂行する異常さを、そのまま受け容れていただきたい。デグレチャフの合理主義的な酷薄さが理解しがたいと感じた場合は、セレブリャコーフとレルゲン(帝国軍参謀将校)の言葉に注意を払うように。この二人は、彼女がいかなる行動原理に基づいているかを、直観的に察知している。
 冒頭で述べた変容効果とは、当たり前の出来事の中に何らかの異物が投げ込まれたことによって、出来事そのものの持つ意味が変質し、見る側に通例とは異なる認識を引き起こす現象。本作がもたらす変容効果がいかなるものかは、頭の中でデグレチャフを成人男性に置き換えてシミュレーションしてみれば、明瞭になる。主人公が幼女でなければ、『幼女戦記』の物語は、戦争の残酷さを描いた一般的な戦記物にすぎない。作中で魔術が使用されるものの、通常の戦闘行為と馴染んでしまい、変容効果は生み出さない。「進みすぎた科学は魔術と見分けがつかない」のと同じように、「常套的な魔術は科学と見分けがつかない」のである。心を振り回されるような効果を生み出すのは、戦闘を遂行するのが幼女だという、その一点である。
 例えば、デグレチャフ率いる大隊がダキア公国の首都を攻撃する場面(第5話)。ここで用いられるのは、敵を油断させる奸計であり、実行するのが成人男性ならば、非道な行為と蔑まれて当然である。しかし、幼女の顔をしたデグレチャフが甲高い声(悠木碧のアテレコが見事)で同じことを行うと、ユーモラスで巧みな知略に感じられ、続く事態に快哉を叫びたくなる。ダキア軍司令部に降り立った大隊メンバーが、銃撃されてもつまらなさそうな顔をし、デグレチャフの命令のもと瞬時に銃を構えるシーンは、見ていてゾクゾクするほど。私は、自分が戦争を憎む人間だと思っていたが、どうやら、無知で横暴な軍人に対する不快感が戦争への反発を増幅させていたようで、『幼女戦記』の視聴中は、破壊と殺戮によって高揚感を覚えることをいかんともしがたい。そして、すぐに心がうそ寒くなる。同じような情動変化は、コッポラの映画『地獄の黙示録』で、ワグナーをBGMに米軍の戦闘ヘリがベトコンを撃ち殺しナパームで森を焼き尽くす瞬間にも生じたが、良心を麻痺させる表現テクニックは、『幼女戦記』の方が意図的で巧妙だ。表面しか見ていないと好戦的に思える作品で、視聴者の鑑賞眼が問われる。
 「史実に似た戦争に魔力を持つ少女が参加する」という設定は、『ストライクウィッチーズ』『終末のイゼッタ』などでも採用されており、『幼女戦記』のプロットは、必ずしも独創的ではない。しかし、先行作の場合、少女であることは萌え要素として利用され、本作のように、戦争の本質を問いかける強烈な変容効果を生み出すことはなかった。その意味で、『幼女戦記』は唯一無二の作品と言えよう。

Wake Up, Girls!

【評価:☆☆☆】
 劇場版『Wake Up, Girls! 七人のアイドル』およびテレビ版『Wake Up, Girls!』全話視聴済み。劇場版は「これからどうなるんだ!」とやきもきさせる場面で終わり、それに引き続く物語としてテレビ版が始まるので、併せて1つの作品と見なせる。
 世にアイドルアニメと呼ばれるジャンルがある。『THE iDOLM@STER』『ラブライブ!』『アイカツ!』『AKB0048』『SHOW BY ROCK!!』などがそうで、かなりの人気があるらしく、多くがシリーズ化されている。ただし、私はいずれも肌に合わず、数話で挫折した。唯一、最後まで視聴することのできたアイドルアニメが、この『Wake Up, Girls!』である。
 批判を承知の上で敢えて言えば、アイドルアニメは、無邪気な夢を持つ子供(大きな子供を含む)向け作品であり、社会経験を積んだ大人には楽しめないだろう。「アイドルとして人気を獲得する」という明確な目標に向かってたゆまず努力していけば、いつか夢が叶えられる−−そんな甘い考えが通用するのは、子供の世界でしかない。作中、アイドルになるための試練として描かれる出来事も、せいぜい「ライブに客が一人も来ない」とか「ライバルにいびられる」といった程度で、それくらいなら大人社会では日常茶飯事(営業で顧客が一人も獲得できないとか)。頑張るだけで叶えられる夢に大したものはなく、社会的な状況を見据えながら知的に戦略を練り、時に唇を噛んで妥協しなければ、成功は得られないのである。
 アイドルが登場するアニメの草分け的存在である『魔法の天使クリィミーマミ』(83年)の場合、チーフライターだった伊藤和典によって、昨今のアイドルアニメよりも遥かに深い見識が盛り込まれた。ヒロインの優は、魔法の力で大人気アイドルになれても、心から願うことは叶えられないという非情な現実に直面する。アイドルになることは、自己実現のための一つのステップでしかない−−それが、視聴者に投げかけられたメッセージである。同時に、落ち目のアイドルがプロデューサーに軽んじられるといった、芸能界の残酷な裏面も垣間見える。
 それでは、『Wake Up, Girls!』はどうかと言うと、基本的には『ラブライブ!』のようなアイドルアニメの王道を踏襲しながら、所々に『クリィミーマミ』流の見識を盛り込んでおり、かなり好意的に評価できる。例えば、夢を売る商売でありながら中小芸能事務所の経営は厳しい、アイドルとは本人の才能よりもプロデューサーの企画力によって作られる“商品”である、売れないアイドルはかなり恥ずかしい仕事をこなさねばならない−−などが、きちんと描かれている(後二者は、主にテレビ版で)。その一方で、夢の実現を目指して頑張り通せば、確実に何らかの成果を手にできるという子供向けのメッセージも忘れていない。
 監督の山本寛は、図式的な関係性を持つ人間たちの描写に長けており、表現は丁寧でわかりやすい。劇場版では、小さなトラブルを少しずつ仕掛けながらラストに向かって盛り上げていく演出が巧みで、いかにもアイドルっぽい振り付けで歌い踊るライブシーンでは、柄にもなく感動してしまった。登場人物の苦悩もリアルに描かれており、子供が観ると鬱陶しく感じるかもしれないが、大人に勧められる数少ないアイドルアニメである。
 なお、本作は仙台を舞台としており、東日本大震災についても(特にテレビ版で)真摯に取り上げている。主演声優7人による声優ユニット「Wake Up, Girls!」は、イベントなどへの参加を通じて復興応援活動を行ったことが評価され、声優アワードで表彰された。


【補記】『Wake Up, Girls!』シリーズには、上でレビューしたテレビ版の放映後、同じく山本寛の監督で、劇場版2部作『Wake Up, Girls! 青春の影』『Wake Up, Girls! Beyond the Bottom』が公開された。この2部作は、悪くはないものの、無理に試練をでっちあげたようなシナリオで、以前の作品ほど感動的ではない。監督の山本がこの段階で「やり尽くした」と感じたのか、あるいは、何らかのトラブルがあったのか、2017年のテレビアニメ『Wake Up, Girls! 新章』は、劇場版2部作で共同制作を請け負ったミルパンセが単独で制作、監督は板垣伸が担当した。この『新章』は、大半のスタッフが前作とは異なり、ストーリー、キャラデザ、作画などが一新されたが、内容に深みがなく、「子供向けのスピンオフ作品」と解釈すべきだろう。

無限のリヴァイアス

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み。
 『十五少年漂流記』の宇宙版と言えるアニメは、『銀河漂流バイファム』などいくつもあるが、本作は、さらに一歩進めた『蝿の王』の宇宙版である。昨今のアニメとは異質な骨太の構成で、谷口悟朗監督渾身の力作と言って良い。
 ヴェルヌの『十五少年漂流記』は、事故で無人島に漂着した十五人の少年たちが、力を合わせて文明的な生活を実現する過程を描いた冒険小説で、孤立した子供たちが協力しあって難局を乗り切るという設定は、『バイファム』の他、『蒼き流星SPTレイズナー』や『機動戦士ガンダム』の序盤に受け継がれた。その一方で、ヴェルヌのオプティミズムに対する批判として構想された作品も多く、中でも、ゴールディングが1954年に発表した小説『蝿の王』は、『十五少年』そっくりに始まりながら、しだいに少年たちが獣性をあらわにし、悲劇的な破局を迎えるまでを描いて、人々に衝撃を与えた。その衝撃の大きさは、他の小説はさして面白くないゴールディングが、ほとんどこの1作だけでノーベル文学賞をもらったことからも窺えよう。
 『リヴァイアス』において、監督の谷口と脚本の黒田洋介は、宇宙で孤立した少年少女が混乱し争い始める状況を、『蝿の王』に倣ってリアルに描き出す。団結して安全な宙域まで航行するという目標が、いつしか「生きたい、生き延びたい、死にたくない」という最低限の欲求にまで落ちていく様は、見ていて胸が苦しくなるほど。これだけでも、アニメとしては尋常でない重量級の内容なのに、谷口は、さらに野心的な設定を採用する。孤立する集団を、何と総勢500人近い大所帯にしたのである。集団の規模が小さいと、内部分裂は見解の相違や相性の悪さに起因することが多く、個人的な諍いにしか見えない。しかし、これをちょっとした「社会」と言えるスケールに拡大したことで、人間の本性に由来する対立を描いた普遍的な作品となった。
 今から200年後の未来。航宙士養成のため十代半ばの訓練生を集めた宇宙ステーション・リーベデルタは、正体不明のテロリストによる襲撃を受けて制御不能となり、訓練生はステーション内部に隠されていた謎の大型外洋艦リヴァイアスに避難する。救難信号を発したものの救援は得られず、逆に、国家規模の陰謀を感じさせる執拗な攻撃を受ける。上級生が何とか艦内を統率しようとするものの、合理性を重んじる者、穏健な中道路線を主張する者、強権的な支配を良しとする者などが現れてまとまらず、リーダーが頻繁に交代するうちに、上級生と一般生徒の間の反目も強まる。こうして、誰が味方とも敵とも言えない中で、少年少女たちは、協調性のないエゴイストの群れと化していく−−その描写は、群衆の持つマイナスのエネルギーがいかに破壊的であるかを物語る。谷口が、500人という多数の人間を必要としたのも、道理である。
 ただし、群衆を登場させることは、アニメにとって諸刃の剣である。トルストイやバルザックは、数百人の人物を自在に操ったが、これは、言語の持つ観念性を巧みに利用したから可能だったのであり、絵と台詞だけで内面まで表現しなければならないアニメでは、きわめて難しい。監督の要求水準が高すぎてアニメーターがついていけなかったのか、充分な心理描写を欠いたまま類型化・戯画化されたキャラ(ブルーとその取り巻きやルクスンなど)も目に付く。その他大勢に関しては、ブリッジにいるメンバーであっても、誰が誰やらほとんど区別が付かない。一般生徒に至っては、行動が場当たり的すぎて、教育を受けた訓練生には見えない。初見の際には、こうした欠点が気になって、あまり感動できなかった。
 もっとも、これは私の読みが浅かったせいでもある。確かに、ブリッジで行動方針を決定する役付きのキャラについては、描写に不満が残る。しかし、一見中立的で平凡に思えるキャラ−−語り手の立ち位置にいる相葉昴治をはじめ、明朗闊達でリーダータイプの尾瀬イクミ、清楚だが影のある美少女ファイナら−−が、混乱の中でどのように変容していくかに注意を向けると、この作品の持つ真の怖ろしさが明らかになる。特に、第18話の攻防戦から終局に至るまでの人間ドラマは凄まじい。第25話のクライマックスで、昴治が絞り出すように口にする台詞は、胸を衝く。
 作画も素晴らしい。『リヴァイアス』の世界では、太陽系に「ゲドゥルトの海」と呼ばれる雲状のプラズマが拡がっており、宇宙空間を航行する艦船は、まるで潜水艦のように海の内部に潜ったかと思うと波を立てて浮上する。その動きは実にダイナミックで、劇的な視覚効果をもたらす。さらに、戦術を巡ってブリッジ内が紛糾する過程がじっくりと描かれ、状況をきちんと把握できる視聴者は、異様な緊迫感を覚えるだろう。宇宙空間でのバトルといえば、物理法則を無視した動きと激しい光の明滅で画面を粉飾するばかりの昨今のアニメーターは、本作を見習ってほしい。
 『リヴァイアス』は、完璧さには程遠い。だが、頭の中で描写不足やデザインの不備を修正し、語りきれなかったストーリーを補完すると、日本アニメ史上、類を見ない偉大な傑作が姿を現すことがわかるだろう。

かんなぎ

【評価:☆☆☆】
 テレビ放送された全13話視聴済み、原作(武梨えりの漫画)未読。
 高校の美術部に所属する仁が、それと知らずにご神木を使って精霊像を彫ったところ、これを依り代として産土神(を自称する)ナギが顕現、神としての能力をほとんど失っていたため、そのまま仁の家に居候を決め込む…。原作は、ナギの正体を巡る伝奇的な物語に発展するようだが、アニメは、序盤と終盤を除く大半が本筋とは無関係の明るいエピソードで構成される。一般的にはラブコメに分類されるものの、男子陣は高校生とは思えないほど奥手、一方、女子は(仁の幼なじみ・つぐみ以外)皆つわもので恋愛そのものよりも鞘当てに忙しく、ラブの要素はかなり薄い。おふざけギャグで笑いを取ることもなく、きちんとした脚本をていねいな演出で肉付けしており、大人が見ても楽しいソフィスティケイテッド・コメディの佳作である。第8-9話(「迷走嵐が丘」「恥ずかしい学園コメディ」)は、誤解が誤解を呼ぶ展開で、同じ脚本をエルンスト・ルビッチあたりが大人の俳優を使って演出しても、面白い作品になりそう。
 第8、9話以外の全ての脚本を書いた倉田英之は、台詞の端々にキャラの性格を滲ませるのがうまい。第6話「ナギたんのドキドキクレイジー」で、つぐみが「別に好きでこんなバイトしてるわけじゃないわよ…」とツンデレっぽい言葉を口にした後のやり取りは、何度見ても声を上げて笑ってしまう。確信犯的に視聴者を欺く第7話「キューティー大ピンチ!激辛ひつまぶしの逆襲(後篇)」(タイトルも意味深)は、原作にないアニメのオリジナルストーリーで、してやったりとほくそ笑む脚本家の姿が目に浮かぶ。
 山本寛監督の演出も巧み。そのテクニックは、ナギをアイドル歌手に見立ててショートコント風に描いたオープニングアニメに見て取れる。本編でのキャラの描き方で特に好きなのが、腐女子のような貴子とお嬢様に見える紫乃という美術部の先輩二人で、いずれも外見と中身が微妙にずれているところが味わい深い。
 倉田の脚本と山本の演出が見事にかみ合って絶品といえる出来になったのが、第10話「カラオケ戦士マイク貴子」。カラオケボックスは、劇場版『時をかける少女』や『僕は友達が少ない』『らき☆すた』などでも舞台装置として使われたが、本作がカラオケアニメのベストと言えるだろう。声優たちも、演出意図を的確に把握して、感動的なほどリアルに歌っている。ナギの歌う「ハロー大豆の歌」は、あまりに強烈な歌詞で覚えてしまった。エンディングで爆笑できるので、最後までちゃんと見ること。

櫻子さんの足下には死体が埋まっている

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作(太田紫織の小説)第3巻のみ既読 。
 標本士(動物の死体から骨を取り出して骨格標本を作る専門家)のお嬢様を探偵役とするミステリ・アニメだが、全体的に掘り下げ不足であり、もう少し工夫すれば遥かに面白くなったのにと惜しまれる。
 特に掘り下げが足りないのが、ヒロイン・櫻子さんの人物描写。彼女は、単なる職人的な標本士ではなく、生き物の死と、その死に取り残されるものに深い関心を持っている。知的で繊細な女性でありながら、内なるものに誠実であろうとするあまり、他者とのつながりを築くことができない。そうしたメンタリティは、例えば、アニメ第7話「託された骨(前編)」のBパートで、可愛がっていた猫の骨格標本を作ったことを巡って、(ワトソン役の)正太郎とやり取りしたときの言動から窺える。このときの櫻子さんは、他者が自分の内面に踏み込むことを峻拒する、まるで人形のような冷たい表情をしていた。このような描写を随所に配して人間性を浮き上がらせる描き方をしていれば、ドラマとして深みを増しただろう。しかし、アニメの制作スタッフは、人間ドラマを作ることよりも、通俗的な犯罪ものにすり寄る道を選んだ。
 制作陣のスタンスを端的に示すのが、櫻子さんが「さあ、謎を解こうじゃないか」と推理を始めるときに映されるイメージ。骨だけの動物たちが視聴者に向かって歩いてくる美麗な映像で、バンクシステムを用いて多くのエピソードで繰り返し使われ、場を盛り上げる。しかし、これではまるで推理ゲームのクライマックスであり、死が我々に何を残すかに心を向ける櫻子さんの心象風景にはそぐわない。また、櫻子さんが語る内容も、溺死体に見られる特徴などについての比較的平凡な説明で、スタッフがそう見せようとしているほど鮮やかな推理ではない。
 通俗性指向がはっきり窺えるのが、脚色の仕方である。第4-5話「呪われた男」では、原作で直接的な記述のなかった真犯人の描写を付け加え、「こんなに奥の深い犯罪なんだぞ」と見得を切るような内容にしているが、これでは、オカルト的な謎とその合理的解決の照応が不明瞭になり、ミステリとしての面白さが失われてしまう(実際、アニメの展開では、“呪われた男”がなぜあのような行動をとったのか、動機が判然としない)。第10−11話「蝶は十一月に消えた」も、余分な背景説明を取り除いて心理描写に当てた方が、すっきりと引き締まった内容になるだろう。アニメ・オリジナルの第12話はプロットに無理があり、ラストに至っては「第2期をお楽しみに!」と言わんばかりの宣伝にすぎない。原作にも無駄な記述が多く、脚色するライターの試金石となるような作品だが、残念ながら成功したとは言い難い。
 そうした中で、第6話「アサヒ・ブリッジ・イレギュラーズ」は、少し観点を変えるだけで同じ出来事の意味合いが全く異なって見えることをストレートに描いた、見応えのある佳編である(第2話「あなたのおうちはどこですか」もなかなかの出来だが、ミステリ・ファンには良く知られた話をベースにしたものなので、割り引いて評価した)。推理ゲームのような謎解きのための謎解きではなく、謎を解くことで人生を一歩進められるという話であり、エラリー・クイーンの名作『フォックス家の殺人』を思い出させる。殺人も暴力もないので、子供には不満が残るかもしれないが、大人のための芳醇なミステリと言って良い。

ハーモニー

【評価:☆☆】
 優れた原作を真面目にアニメ化しても、必ずしも傑作にならないという見本である。
 原作者の伊藤計劃は、ゼロ年代日本SFのベストワンと言われる『虐殺器官』(07年)で鮮烈なデビューを果たしたが、当時からすでにガンに冒されており、抗ガン剤治療の合間を縫うように執筆を続けたものの、2009年に34歳で早世した。完成できたのは、『虐殺器官』と第2長編『ハーモニー』、ゲーム『メタルギアソリッド4』のノベライズ『METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS』、数編の短編と評論だけであり、“試し書き”として編集者に渡された『屍者の帝国』プロローグが遺作となった(『屍者の帝国』は円城塔が書き継ぎ、長編として完成させた)。
 本アニメの原作となる『ハーモニー』(星雲賞および日本SF大賞受賞)は、『虐殺器官』で提示されたSF的コンセプトの多くを引き継ぎながら、作品から受ける印象は、ほとんど正反対である。どちらも、大規模テロと殲滅戦を経て、大国では徹底した管理による安定した社会が実現される一方、周辺諸国ではテロと内紛が続く世界を舞台とする。両作品で主題となるのは、大事件をきっかけに明かされる意識操作の恐怖である。しかし、『虐殺器官』が殺伐とした社会の状況を読者に否応なく突きつけてくるのに対して、『ハーモニー』は、どこか現実から遊離した夢想のような感覚をもたらす。この効果は、直接的には、記憶や知識から成るさまざまな断片をちりばめた語り口が生み出すものだが、その背景に、主人公・霧慧トァンが繰り返し回想する苦い出来事がある。
 女子高生時代、トァンは、安全で健康的だが心を束縛する管理社会に批判的な友人・御冷(みひえ)ミァハに惹かれ、その反社会的な企てに協力する……。
 思春期の主人公が、大胆な発想をする友人に導かれて社会の桎梏から抜け出そうとするプロットは、ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』や三島由紀夫『午後の曳航』など数多くの作品で採用されており、それ自体は目新しくない。ただし、キャラの描き方が大きく異なる。『ハーモニー』のミァハは、名前の響きが暗示する通り、どこか脆さを感じさせ、先行作の導き手(その多くは美少年)に備わるカリスマ性が見られない。それどころか、何度読み返しても、生身の人間としての具体的なイメージがほとんど湧かない。この捉えどころのなさは、終盤での急展開で重要な意味を持ってくるのだが、それだけでなく、作品全体に漂う非現実感の淵源にもなっている。
 『ハーモニー』で重要なのは、ストーリーそのものよりも、トァンがどのような思いでミァハを見ているかである。ストーリーは、作中で起きる事件の謎を、成人し紛争地帯で監察官の職務に従事するトァンが解明していく過程として展開されるが、はっきり言うと、ここで用いられるSF的設定は、科学的観点から見てかなり無理がある。人間の意識のあり方は、この作品で語られるようなものではないと明言して良い。しかし、SF的設定に無理があっても、管理社会に対して批判的なグループが取る行動は興味深く、科学的におかしな点には目をつぶって、ストーリーの流れに心を委ねようという気になる。そんな気になるのは、ミァハに対するトァンのアンビヴァレントな思いに共感できるからだ…原作小説では。
 ところが、アニメ化された『ハーモニー』では、ミァハの描写がいかにも表面的である。繊細な心の揺らぎを感じさせる重層的な語りが、アニメにありがちな美少女の発言に置き換えられたため、心に深く浸透してこない(声優は巧いのだが絵と馴染んでいない)。このため、ミァハの導きに素直に応じきれないトァンの惑いにも、説得力がない。登場人物の心理描写がおざなりになり、その結果として、SF的設定のおかしさばかりが目についてしまう。
 もっとも、「ならばミァハをどのように描けば良かったのか」と問われても、うまく答えられない。少女漫画に見られるように輪郭を曖昧にし、実際の発言かトァンの空想かわからないような形で台詞を重ねることで、ミァハの儚さを浮き立たせる方法も考えられるが、所詮は小手先のテクニックでしかない。
 アニメーターたちも、原作の繊細さを画で表現することは不可能だと感じたのだろうか、拡張現実を用いた会議や、空飛ぶ烏賊を思わせる異様な飛行機など、本筋とは関係ないどうでもいいシーンの作画にやたらリソースを投入し、過剰なまでに描き込んでいる。人が死ぬ場面も、無駄に派手で話の流れにそぐわない。もともと、あまりに観念的で映像化に不向きな原作だったと言わざるを得ないだろう。
 伊藤計劃の作品を順次アニメ化するという「Project Itoh」は、野心的な挑戦としてそれなりに評価すべきではあるが、少々無謀だったようにも思える。

無限の住人

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作(沙村広明の漫画)一部既読。
 体内に「血仙蟲」を宿し不老不死となった万次が、父を殺され母を陵辱された少女・凜の仇討ちに協力して、逸刀流の剣客たちと戦うアクションアニメ。ただし、原作の序盤のみをアニメ化したため、話が中途半端なまま終わることに加えて、原作が持っていた異様な緊迫感を再現できておらず、いかにも物足りない。
 原作漫画の最大の特徴は、主人公が不死だという、バトルものとしてはチートとも言える設定を採用したこと。もっとも、ほとんどのバトルものでは、どんなに強大な敵が現れてもヒーローが勝ち続けるのだから、不死性はある種の“お約束”なのである。その秘すべき“お約束”をあらわにしたことにより、漫画『無限の住人』は、逆に、宿命に翻弄される人間の悲劇性を描き出すことに成功した。
 逸刀流とは、形骸化した武道を実戦的な剣法へと変革することを目的とする流派である。命のやりとりを目指して真剣に戦う逸刀流の剣客と比べると、万次の剣技はかなり見劣りする。このため、戦いにおいてたびたび劣勢に立たされるものの、最後は、どんなに切り裂かれてもすぐに復活するという不死性が物を言う。そんなエピソードが何度も繰り返されるうちに、読者は、決して勝てない相手に挑戦せざるを得ない逸刀流の方に、共感を抱くようになるだろう。
 多くの人が誤解しているが、日本刀は、人を殺すのに好適な武具ではない。刀身が軽すぎるため、満身の力を込めて頸動脈などの急所を斬りつけない限り、表面を傷つけることしかできない。腹を突けば内臓を損傷して相手をほぼ確実に死に至らせる槍などと比べると、敵に優しい刀だと言っても良い。こうした武具が広く採用されたのは、戦国時代の合戦に参加する兵の大部分が、恩賞目的の農民だからである。彼らは命懸けで戦う訳ではなく、勝てば土地がもらえるから参戦するのであり、負けそうになれば平気で敵前逃亡する。こうした兵を殺す必要はなく、怪我を負わせるだけで逃げていく。日本刀は、彼らを相手にするのに好都合な武具なのである。合戦が消滅した大坂の陣以降、日本刀を用いる武道は、急所を狙うかどうかの決断すら回避して形骸化し、実戦には役に立たないものとなる。
 逸刀流は、人を殺せる剣法を理想とする。そのためには、日本刀とは異なる舶来の刀や投げ槍を使うことも厭わない。しかし、これは平和に向かう時代の潮流に逆らう態度である。そう考えると、致命的に見える傷を受けても復活する万次は、逸刀流がいかに足掻いても決して屈服させられない時代そのものの象徴にも思えてくる。万次は主役と言うよりは狂言回しであり、逸刀流の方こそ、勝つことの不可能な相手に戦いを挑まねばならない宿命を背負わされた、悲劇の主人公なのかもしれない。
 さらに、親の仇討ちを目指す凜の立場も、二律背反的である。彼女の父は、形式を重んじる武道家だったが、逸刀流の統主に殺された。このため、凜は、非力でも戦えるようにと隠し持つ短剣を投げる技を身につけ、親のかたきである統主を殺害しようとする。しかし、その行為自体、父親が目指した武道の理想から遠く隔たっている。
 原作漫画は、このようにそれぞれが象徴的な役割を果たす登場人物たちの姿を、迫力のある絵で表現する。アクション場面よりも、人物が不動のまま対峙するシーンの方が緊迫感に溢れており、そこで彼らの心情を読み取ることができれば、単なる剣客アクションではなく、人間ドラマとしての深さが実感される。
 ところが、アニメになると、象徴性を帯びた対峙のシーンが充分に生かされず、単なる斬り合いアクションとしてしか描かれていない。さらに、声優のアテレコが付いた日常的なシーンが加わると、もはや万次や凜がふつうの人間にしか見えず、平板な印象しか受けない。アニメが持つ時間芸術としての側面が、象徴的な原作が持つ緊迫感を奪い去ったとしか言いようがない(それでも、実写版に比べればまだマシだが)。

覆面系ノイズ

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 20数本視聴した17年春アニメ(新作)の中で、『正解するカド』とともに、最も高く評価する作品。恋する相手に気持ちを届けようと声を張り上げて歌う高校生・ニノが、同じ学校の生徒が結成したバンドにボーカルとして参加するところから始まる物語で、はやりのアイドルアニメではなく、バリバリのロックアニメである。
 私のイメージするロックとは、体制的な上品さを否定して自分の真情を託す音楽である。ニノも、人気を博して社会的成功を得ることを望むわけではなく、ほとんど衝動的に思いの丈を歌に込めており、本人がそれと意識していなくても、まさにロックミュージシャンそのもの。
 ロックを取り上げた日本アニメには、『BECK』や『NANA』がある。しかし、前者は、ロックに惹かれる少年の心情を真剣に取り上げながら、肝心な演奏の描写が平板で、音楽の持つパワーが表現できていない。後者は、初ライブを描いたエピソードこそ見事だったものの、ストーリーはふたりのNANAの恋愛模様が中心になっており、ロックの場面は少ない(登場する2つのバンドの一方は、ロックと言うより普通のJ-POPバンド)。タイトルでロックを唱ったアニメには、『SHOW BY ROCK!!』『幕末Rock』などがあるが、いずれも挿入歌としての扱いで、音楽を介しての自己表現というロックの本質を描いてはいない。
 こうした先例と比べると、『覆面系ノイズ』におけるニノの歌唱には、尋常でない迫力が感じられる。彼女が本気で(バンドメンバーの表現では“暴走”して)歌うシーンは、第1話の新入生歓迎会、第5話のテレビ出演、第11−12話の夏フェスと3度あるが、いずれも、腹の底から声を張り上げる歌い方で、興奮させられる。手で頭を押さえながら苦しそうに歌う姿は、「自分の思いを表現するにはこれしかない」という切迫感が滲み出ていて、共感のあまり、年甲斐もなくつい歌に合わせて体を動かしてしまう。声優の早見沙織が歌唱も担当しており、しばしば音程を外すなど(わざと)粗削りな歌い方をして、歌そのものが持つパワーを巧みに表現している。
 残念ながら、歌の合間に語られるストーリーは、かなり陳腐。ニノと思い人のモモが仲良くする小学生時代のエピソードは、見ていて気恥ずかしくなるほど。ニノに曲を捧げるユズの家庭環境も、いかにも図式的で描写に深みがない。高校生の作ったバンドが同級生に知られないままテレビ出演するほど人気を獲得したり、ギターをもらったニノが短期間でプロ並みの演奏技術を習得したりと、リアリティに欠ける点も多い。また、ニノが歌うシーンで、前後の絵に比べて露骨に見劣りする3D動画が挿入されるのは、興ざめである。フラッシュバックによる回想だけ残して過去の場面を全てカットし、歌唱を中心にした90分程度の劇場用アニメとしてまとめれば、かなり見応えのある秀作になるだろう。

正解するカド

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 ファーストコンタクトものに分類されるSFアニメの佳作。エイリアンとの遭遇をきっかけとして展開されるストーリーならば、『超時空要塞マクロス』など、従来のテレビアニメでもたびたび取り上げられてきた。しかし、相互理解の不可能性を描いたスタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』やストルガツキー兄弟『蟻塚の中のかぶと虫』などの深遠な小説群と比べると、ファーストコンタクトが持つ思想的・人類史的な意味にまで踏み込んだアニメは数少ない。そうした中で、『正解するカド』は、(発展水準の高低だけではない)異質な文明を持つエイリアンとの遭遇が人類に何をもたらすかという難問に挑んだ、貴重な作例である。
 素朴なファーストコンタクトものは、友好ないし敵対という単純な相互関係を問題とするが、それでは話が拡がらない。有名なアーサー・C・クラーク 『幼年期の終わり』では、一見友好的で世界から戦争や暴力を根絶するエイリアンに、人類を教導するだけではない、隠された真の目的があることが描かれ、ファーストコンタクトものの最高峰とも評された。ただし、私は、この作品が好きではない。ここで描かれる人類は、あまりに受動的すぎる。これは全くの想像だが、『正解するカド』の脚本(おそらくSF的設定や全体の構想も)を担当した小説家・野崎まども、『幼年期の終わり』に対する反発心を持っていたのではないか。終盤の展開には、「やっぱり人間はこうでなくっちゃ」と嬉しくなる。
 物語は、羽田空港上空に、突如、謎の立方体・カドが登場するシーンから始まる。カドから現れたヤハクィザシュニナの言によれば、彼は「この宇宙」とは別の高次元世界・異方からの来訪者で、カドは、異方と宇宙を結ぶ変換器だという。日本政府との交渉を開始したヤハクィザシュニナは、人類にとってオーバーテクノロジーと言える異方の力を次々と提供する…。
 科学的な観点からすれば、つっこみどころ満載だが、批判するには当たらない。SFやファンタジーでは、一つだけならば(薬を飲むだけで透明になれるとか、アマチュア研究者がタイムマシンを作ってしまうといった)大嘘をついてもかまわないという前提があるからだ。後出しジャンケンのように設定を付け加えていくのは好ましくないが、本作の場合、科学的におかしな点は、全て「人智を超えた力を持つエイリアンが来訪する」という一つの設定に含まれるので、素直に受け容れるのが鑑賞者のマナーである。この設定を受け容れてさえいれば、最終回における度肝を抜く展開が、存分に楽しめるだろう(正直、私が予想もしていなかった人物が登場して、「やられた」と笑ってしまった)。
 奇妙なタイトルは、ヤハクィザシュニナがたびたび「正解」という語を用いることに由来する(例えば、「常に思考し続けること、それが、世界における唯一の正解だからだ」)。それも含めて、本作では、セリフの一つひとつが、実に刺激的である。私が好きなのは、首相会見の際に流れる次の皮肉なアナウンス:「なお、本日の会見は、内容の重要性を考慮いたしまして、録画・録音・インターネットへのアップロード等に関する制限を設け《ません》」。
 登場人物の中では、政府代表として交渉に当たる沙羅花が、壊滅的なファッションセンスで可愛い(何だ、あの「くり」のTシャツは! 私なら、せめてサクランボにする)。フラクタルを利用したカドの表現など、3DCGを多用した作画は、努力の跡が窺われこそすれ、情動を揺り動かすほどではない。「誰も見たことのない光景」を描く場合には、キューブリックの映画『2001: A Space Odyssey』に登場する白く輝く部屋のように、既知の光景をわずかに変容させた方が効果的である。

ゼロから始める魔法の書

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 中世ヨーロッパとおぼしき世界を舞台に、魔女と獣堕ち(魔術によって半ば獣の姿になった人間)の旅を描くファンタジーだが、魔術と社会の関わりについて考察が浅く、単なる冒険ものの域に留まっている。
 オリエントに起源を持ち15世紀頃にヨーロッパに流入したヘルメス主義的な神秘思想によると、呪法や呪符などを用いれば、自然界に内在する力を魔術でコントロールできるとされる。この考え方は、一部の思想家に多大な影響を与えたが、魔術師もキリストと同等の奇蹟が行えるという発想につながるため、奇蹟を信仰の根拠とするキリスト教と衝突する。中世末期のヨーロッパでは、教会が、それ自体が奇蹟のようなゴシック様式の巨大堂宇を建設して民衆を引きつけ、神(=奇蹟を行える存在)の仲介者としての役割を独占していた。時の権力者たちも、教会と手を組んで余禄に預かる。そこに魔術師が介入し民間で活動を始めると、独占体制が揺らぐ恐れがある。教会や王侯が魔術を厳しく弾圧したのは、こうした事情による。
 一方、民衆も魔術師を支持しなかった。その理由は、端的に言って、生活に役立つ魔術が実行できなかったためである。日本では、オカルト色の濃厚な真言密教が民衆の信仰を集めたが、これは、開祖の空海が、唐で学んだ水理学や薬草学の知識を応用して、井戸を掘り当てたり病人を治したりした影響が大きいと考えられる。役に立つならば、たとえ教会や王の命令に反してでも、民衆は魔術を受け容れるはずである。しかし、ヨーロッパの魔術師は、生活に役立つ魔術を行えず、わずかに、呪詛のみが実行できた(ように見えた)。病原体に関する知識のない時代には、傷のある手で死体に触れたり、汚れた水を飲んだりしただけで、健康な人が急に病気になって死に至ることがあるのが、実に不思議だった。そこで、原因の分からない突然の災厄は、魔術師の呪詛によるものと見なされたのである。その結果、一部の人が恨みを晴らす際に頼りにする場合を除いて、多くの民衆は魔術師を嫌忌するようになる(いわゆる魔女狩りは、中世末期からルネサンス期に掛けて、民衆主導で行われた)。
 魔術師が権力者から迫害され、民衆からも嫌われるのは、必然的な理由があるのだ。
 ところが、『ゼロから始める魔法の書』では、そうした理由に目が向けられない。ヒロインの魔女・ゼロは、火を熾したり魚を捕ったりと、日常生活に役立つ魔術が行えるのに、なぜか民衆の支持が得られない。教会や王は、何を目的とするのか明らかにしないまま魔術に対する弾圧を続ける。社会的な背景が描かれず明確な説明ができないため、作劇上の便法として、弾圧や対立のきっかけとなる悪役を登場させざるを得ない。本作では、背後で悪役が策略を巡らしたために、さまざまな諍いが生じたことにしている(場合によっては、不運の連鎖のせいにする)が、それでは、各人の内面に葛藤が生まれる余地がなく、ドラマとして薄っぺらになってしまう。
 魔術や超能力を扱うサブカル作品は数多いものの、成功したと言えるものは少ない。アニメには、『Fate/Zero』『DARKER THAN BLACK』『Witch Hunter ROBIN』などの優れた作品があるが、これらはいずれも、応用範囲が限定された能力を扱っており、権力者がそれをいかに利用するかがストーリー展開の要になっている。生活に役立つ魔術や超能力を登場させると、ほのぼのとした子供向け作品にでもしない限り、深みのないありきたりの内容にしかならないことを、作者は自覚すべきだろう。

風人物語

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み。
 BS・CSでしか放映されなかったためか、知名度は悲しくなるほど低いが、静かな感動を呼び起こす佳作である。
 主人公は中学2年生のナオで、そこに二人の友人(女子)と一人の幼馴染み(男子)が加わる。風を自在に操る超能力者・風使いが登場するものの、ファンタジー色は限りなく薄い。ファンタジーの要素を日常生活に投げ込むことで、逆に、日常の持つ奥深さが浮かび上がってくる。『かみちゅ!』や『絶対少年』に近いテイストであり、中学生の姿を丹念に描いていながら、かつて中学生だった大人に向けた作品と言って良い。
 原案は、2002年の「第1回アニメ企画大賞」における大賞受賞作とのこと。もっとも、第2回の募集要項を見ると、シナリオ部門(シリーズもの)の応募要件が、第1話のシナリオと最終話までの1600字程度のあらすじとなっており、アニメの第1話がさして面白くないことから、短いあらすじをプロのスタッフが大きく膨らませて、優れた作品に仕上げたのではないかと推測される。アニメ企画大賞の審査員だった押井守が監修を務めたほか、監督・西村純二、脚本・じんのひろあきと、曲者たちが顔を揃えている。
 押井と西村に関しては、アニメファンなら説明不要だろうが、じんのについては、知らない人が多いかもしれない。彼は、1990年に吉田秋生の漫画『櫻の園』を映画化するに当たって、4つの短編を巧みにミックスして一つの物語にまとめ、日本映画史上に残る傑作を生み出す原動力となった。間違いなく素晴らしい才能の持ち主なのだが、才走りすぎて、『櫻の園』以外に傑出した作品はない(『ノーライフキング』は少し面白い)。しかし、やはり才走りがちな押井や西村と組み、三人の個性がうまく調合された結果、『風人物語』は、見応えのあるアニメとなった。
 中でも心動かされるのが、第5話「保健室物語」。熱が出たナオが寝ている保健室に、堅苦しい職員室が苦手な二人の教師がやってきて、養護教諭とともに冬休みの旅行の話題で盛り上がる。カーテンの向こうに生徒がいることも忘れて楽しげに語り合う声を、熱に浮かされたまま聞いていたナオは、いつしか、まだ見ぬ東南アジアの光景を(現実よりもかなり古風なものとして)幻視する。私が大人になったときにしみじみ感じたのは、「大人って意外と子供だな」ということだが、まるで学生のようにはしゃぐ先生たちの姿は、かえって時の流れの残酷さを感じさせて切ない。
 ナオたちに大人への扉を少しだけ開いてみせる最終話は、視る者に、決して戻ることのできない時間があることを実感させる。

異世界食堂

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 エルフやドワーフ、魔法使いに獣人剣士といった異世界のクリーチャーたちが、洋食屋の料理を美味しそうに食べる−−ただ、それだけの話なのに、見ていて何ともほっこりする癒し系アニメの佳作である。
 何の変哲もない町の洋食屋でありながら、なぜか空間がねじ曲がって、毎週土曜日だけ入り口がこの世ならざる世界に通じてしまう食堂が舞台。タイトルの“異世界”とは、“向こう”から見たときの人間界を指す。
 クリーチャーたちが食堂を訪れるまでのバックストーリーも簡単に語られるが、いずれも小話程度の内容であり、興味をそそられるほどではない。キャラデザは類型的、作画も並の出来で、1つの作品として見ると、取り立てて優れている訳ではない。なのに、何度も見たくなる。その理由は、我々からすると珍しくもない料理を、異世界の住民が、実に美味しそうに食べるからである。おそらく(飢えていない)人間は、独りで美味しいものを食べることよりも、美味しそうに食べる人を見ることに、より大きな喜びを感じる生き物なのだろう。我が身を削ってまで雛に餌を与える親鳥にも通じる、「最も原初的な共感」とでも言うべき感情である。
 食堂のメニューは、メンチカツ、オムライス、ハンバーグなどの定番が中心だが、デザート類になると、プリンアラモードやクレープまであり、町の洋食屋と言うよりは、むしろ、デパートや大型スーパーのレストランに近い品揃えである。多くの日本人は、子供の頃、そんなレストランに連れていってもらったことがあるだろう。こうした人は、クリーチャーが初めて目にする料理を物珍しげに検分し、一口食べて大げさに喜ぶ様子を見るとき、そこに幼かった自分の体験を重ねるに違いない。私の場合、デパートのレストランで生まれて初めてチョコレートパフェを食べたとき、(母が破滅的なまでに料理下手だったせいもあって)かくも神々しいほど美味な食べ物がこの世にあるのかと感動したが、それだけに、第3話に登場する皇女アーデルハイドの思いが良くわかる。
 魅力的なキャラはあまりいないものの、ただ一人、ひょんなことからウェイトレスになった魔族の娘・アレッタには、心惹かれる。真面目で素朴な働き者の少女で、古き良き(幻の)日本では珍しくなかったかもしれないが、今日日の人間社会では絶滅危惧種である。ボディソープを使ってシャワーを浴びるとき、「私なんかの体を洗うのに、お湯と香油を使うのはもったいない気がするのですが…」(第6話)と呟くほど謙虚で、「いい子だなあ」と心の底から思える。第8話で、好物のクッキーをすぐに食べ尽くさないように、「ああ〜ダメダメ、一度に5枚まで」と自制する姿はいじらしい…………(いや待て、一度にクッキー5枚は食べ過ぎだろう!)。

賭ケグルイ

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 限りなくインモラルで子供には見せられないが、妙な高揚感があり、大人には刺激的な作品である。
 舞台となるのは、生徒会による絶対的な支配の下で、莫大な金をやり取りする生徒同士のギャンブルが奨励される百花王学園。負けが込んで払いきれない借金を背負うと、「ミケ」「ポチ」と書かれた札を掛けられ、家畜扱いされる。そんな学園に、一見おっとりした美少女、その実、タイトル通りの本性を持つ蛇喰(じゃばみ)夢子が転校してくる。
 最大の見所は、通常は(ほぼ)普通の高校生なのに、いざギャンブルを始めると、次第に目つきが変わって異常になっていくキャラの姿。語り手の鈴井涼太だけがまともで、他の全員が、多かれ少なかれ常軌を逸している。
 映画・漫画・アニメなどの視覚的作品でギャンブルが取り上げられることは稀ではないが、描き方が難しい。人を最も興奮させるギャンブルは、ポーカーや花札、ルーレットのように、大半を偶然が支配しながら、ほんのわずかに戦略的要素が絡むゲームである。こうしたゲームで勝ちが続くと、実際にはただの偶然なのに、脳の報償系が活性化されたプレーヤーは、自分には運命をコントロールする力があるという全能感にとらわれて異様に亢奮する。これが、人が賭事にのめり込む心理的メカニズムである。しかし、こうした過程を視覚的作品で描こうとしても、偶然であることを的確に表現できず、見る者にハラハラドキドキ感を追体験させられない。このため、ギャンブルをどのように視覚化すべきか作者が自覚的にならないと、成功はおぼつかない(聴覚的な作品ではあるが、ドストエフスキーの小説にプロコフィエフが音楽を付けた歌劇『賭博者』では、登場人物がルーレットにはまって財産を蕩尽する最も劇的なシーンを敢えてカットし、周囲で囁かれる台詞を通じて状況を間接的に表現することで、逆に緊迫感を高めている)。
 本作では、ギャンブルのルールを少し変更し、知的な戦略が通用する部分を増やしてある。例えば、「選択ポーカー」では、ベットで賭け金を上乗せすることしかできず、最高金額を積んだプレーヤーが、強い役と弱い役のどちらが勝ちとなるかを選択できる(したがって、ブタでも勝つことができる)。さらに、プレーヤーがイカサマを行う場合には、どのようなイカサマが行われているかを、あらかじめ視聴者に説明する。想像すれば容易にわかるように、現実のギャンブルでルールの変更やイカサマが行われると、たいがいは興ざめになってしまう。だが、漫画やアニメでは、見る者が作中のゲームに対して頭を働かせる余地が生じるので、興味が増す(ギャンブルに詳しい人は、逆に面白くないかもしれない)。しかも、作中のプレーヤーは、常に最適戦略を採用するわけではなく、単にリスクを楽しむために無謀な賭に出ることもある。こうした予想外の展開が、物語としての面白さを増幅する。第10話から第11話に掛けてのエピソードは、特に成功したケースと言えよう。
 もっとも、私が『賭ケグルイ』で最も引き込まれた(つい、真似をしてしまった)のは、エンディングアニメである。こちらに向かって歩いてくる夢子を正面から捉えた映像だが、次第に亢奮が高まり、やがて法悦の表情を浮かべるまでを生々しく描いて、見る者を巻き込む。その姿は、クリムトの絵画のように、みだらで美しい。

メイドインアビス

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 2017年夏アニメのベスト作品と太鼓判を押したい。少年と少女が、地下深く開いた裂け目に潜っていく一種の秘境探検モノだが、キッズアニメ風のキャラデザを見て、ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』のような心躍る冒険譚と勘違いしてはならない。小栗虫太郎『人外魔境』に出てきそうな異形の生き物が蠢く陰惨な世界が拡がり、夢と絶望が交錯する。より深い階層に進むほど“アビスの呪い”が強くなるという設定は、ダンテ『神曲・地獄篇』を連想させる(今日日の若者はダンテなど手に取らないだろうが、イマジネーションの宝庫なので、寿岳文章の名訳で是非読んでほしい)。一筋縄ではいかない奥深い作品である。
 物語は、謎の大穴・アビスが口を開ける辺境の街オースから始まる。そこでは、アビスの奥底に埋もれる超常的な力を秘めた“遺物”の探索が組織的に行われ、経済を潤している。街並みを見る限り、文明は前近代の水準に留まっており、現代科学も遠く及ばない遺物をいつ誰が残したのかは、全くわからない。ある日、アビスの中で記憶を喪ったロボット少年レグを発見した少女リコは、伝説の探窟家で行方不明の母親ライザの跡を追うべく、レグとともにアビスの底を目指す。
 この作品でまず目を引くのは、アビス内部の生々しい光景。モンスターが意味もなく人間を襲う類型的なダンジョンとは異なり、そこで繰り広げられるのは、凄絶なまでの生存闘争である。例えば、ナキカバネと呼ばれる鳥に似た生き物は、餌として雛に与える目的でヒトを殺す。レグは、リコを守るために雛ごと焼き払うしかない。アビスで生き延びる必要上、リコとレグは動物たちを殺して食糧にするが、リコは見かけによらずワイルドで、見事に内臓を捌いて調理する。アビスの呪い故にしばしば嘔吐し、時に酷く傷つく二人の姿は、夢に向かって生きようとするとき、肉体ががいかに重荷となるかを改めて実感させる。
 興味深いのは、作中で男女の役割がくっきりと分かれているところ(もっとも、性別が明示されないキャラが多いので、外見から私が勝手に男女いずれかを判定したのだが)。リコとライザをはじめ、オーゼン、ミーティなどの女性陣は、何事にも前向きで逞しいが、何を考えているかわからない謎めいた存在である。一方、男性陣は、顔を隠して人間性が感じられないボンドルドを別にすると、多くが言葉遣いからして理知的で、計画に基づいて慎重に行動する。おまけに、いつも女性に優しい。レグの他、孤児院のリーダーやリコの男友だち、探窟家ハボルグらがそうである。中でも、ナナチ(男ですよね?)は、ぶっきらぼうな言動で他者に対する無関心を装うが、所作の端々に心根の優しさがにじみ出る。実に理想的な男子である。原作者のジェンダー観が反映されているのだろうか?
 背景の美しさは、昨今のアニメでトップクラス。湿気が多くもやった世界に、頭上から太陽光線とは異なる柔らかな光が降り注ぐ。そこに暮らすのは、たとえ外観がグロテスクであっても、モンスターではなく必死に命をつなぐ生き物たちであり、何とも愛しい。アニメは、これからストーリーが大きく展開するという段階で終了したが、是非、第2期を制作してほしい。
 下ネタも多いが、子供っぽい明るいものが大半なので、笑って許してあげよう。

【補記】アニメ第1期では、アビス内部の生態系が重点的に描かれたが、おそらく原作者が途中から「成れ果て」という現象に強く惹かれたせいだろう、第1期終盤、2020年公開の劇場版『- 深き魂の黎明』、2022年放送のテレビ版第2期『- 烈日の黄金郷』では、成れ果てを巡る物語が主題となる。私個人の評価では、成れ果てを過度にフィーチャーした劇場版は、いささかグロテスク過ぎてあまり好きではないものの、第2期前半で描かれたアビス深層の黄金郷を目指す探窟家たちのドラマは感動的であり、第1期と第2期は拮抗する出来だと感じる。

今、そこにいる僕

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み。
 水が失われ荒廃しきった世界。戦いが止められず、いつまでも殺し合いを続ける人々。人類の終焉が近いことを思わせる救いのない状況を描きながら、なお人間性に対する信頼を感じさせる佳作である。
 ストーリーの軸になるのは、現代日本から遠い未来へと飛ばされた剣道少年シュウと、生命を育む地球の象徴とも言える少女ララ・ルゥが被る苦難の数々だが、正直言って、この部分はさほど面白くない。シュウは、元気だけが取り柄の直情径行型正義漢で、人間としての厚みに欠けるし、ララ・ルゥは寡黙で何を考えているかわからない(彼女の正体は、中盤から徐々に明かされるが、設定に少し無理がある)。見るべきは、むしろ周辺人物である。脚本の倉田英之は、運命に翻弄される彼らの内面を丹念に描き出しており、きちんと読み取ることができれば、その思いが腹にずっしりと響く。
 例えば、残虐で誇大妄想的な支配者ハムドに忠誠を尽くす女性司令官アベリア。彼女は(第10話における指図などで示されるように)きわめて有能かつ理知的であり、ハムドの施政に未来がないことを理解している。にもかかわらず、なぜ彼の命令に従うのか?そこに浮かぶのは、頭が良すぎる故に、他に選択肢がないことを見切ってしまった人間の悲しさである。
 同じような悲しさは、少年兵ナブカにも見られる。彼は、本当に、全ての戦いに勝利すれば故郷に帰れると信じていたのだろうか? 自分にそう信じ込ませないと、もはや生きる道がないと知っていたからではないだろうか?
 あまりに多くの人が死ぬので、見ていて辛くなる。しかし、だからと言って、出口のない暗澹たる物語というわけではない。死に直面した際に、初めて人間らしい姿を見せる者や、子どもたちに希望を託す者が現れるからである。
 このアニメを理解する上で最も重要な鍵となるのが、子どもへの思いである。世界の終わりが近いのに、なぜ子供を育てるかと訝るララ・ルゥに対して、ある女性はこう答える。「世界が終わりだからって、自分の子を殺すわけにはいかないだろ。自分の子は最後まで育てる。それが母親ってもんだ」−−登場人物がこんなセリフを口にする作品が、単に暗いだけの鬱アニメのはずがない。
 何よりも、最終回におけるサラの決断に注目してほしい。人違いからこの世界に拉致され、最も悲劇的な運命に弄ばれてきた彼女が、なぜああした決断を下したのか、理解できない人もいるだろう。しかし、彼女が、残された全ての子どもを自分の子のように守ることを引き受けたと考えると、納得できるのではなかろうか。たとえ、過酷な未来が待ち受け、多くの子どもが命を全うできないとしても、それでも、誰かが彼らを守り、育てていかなければならない。そう感じたからこその決断なのである。

のうりん

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 岐阜県の農業高校を舞台に、農業や畜産業について勉強する高校生たち(および、教師約一名)の非日常的な日常が描かれる。農業関係の学校が登場するアニメには、他に『銀の匙 Silver Spoon』(畜産系の農業高学)『もやしもん』(農業大学の発酵学研究室)などがあるが、これらに比べると、本作は「おバカでエッチな」アニメが好きな人向けの趣味的な作品で、あまり深みはない。ただし、1話だけ感動的なエピソードがあったので、取り上げることにした。
 本作の登場キャラのうち、男性陣にはあまり凝った性格設定がされていないのに対して、女性陣は、いずれも性的(一人だけ金銭的)な方面に貪欲で、彼女らの強い欲望がストーリーを展開させるきっかけとなる。この結果、せっかく農業高校という興味深い場を取り上げながら、農業に関わる話題は脇に追いやられ、女の子たちが泥レスをしたり暴風雨のさなかに水着で飛び出したりと、若い男性視聴者を喜ばせそうなエピソードが中心となる。農業をフィーチャーしたアニメを期待すると、ガッカリさせられるだろう。
 時折、思い出したように農業問題を取り上げるものの、掘り下げは浅い。例えば、第10話「究極と至高の野菜対決!」では、品種改良し農薬で病虫害を防いだ作物の方が、伝統的な品種を無農薬栽培したものよりも、商品として人気が高いことが描かれる。これは、柔らかく甘味の強い食べ物を好み、どんなに健康に良くても、苦味や渋味を嫌う現代消費者の嗜好の表れである。しかし、作中で、こうした問題が深く追及されることはない。第11話「あかるいのうそん」では、都会から移住して農業を目指した夫婦の挫折が紹介されるが、挫折の原因は曖昧なままである。
 農業(および、林業・水産業などの一次産業)は伸びしろが大きく、日本がより豊かになるために最も注力すべき分野であるにもかかわらず、労働生産性が低いという根本的な問題が解決されず、オランダ・デンマーク・アメリカなどの農業先進国に比べて大幅に後れを取っている。ヒロインの林檎が第11話で口にする「農村から人がいなくなったから農業が衰退したんじゃなくて、むしろその逆で、農業に魅力がなくなったから農村から出ていったんじゃない?」という台詞は、問題の本質を剔抉する。しかし、そこから話を膨らませようとはせず、後継者不足をギャグにする方向へと向かう不謹慎さは、どうにも歯がゆい。若い人のために、農業の実情と構造改革の必要性を伝える面白いアニメがあればと思うのだが、現実には難しいようだ。
 そうした中で、第7話「号泣サラダ」は、「笑みを失った元アイドル」という林檎の設定を巧みに生かした、優れたエピソードとなっている。もっとも、シリーズ構成があまりうまくできておらず、第4話Bパート、第5話アバン(OP前の部分)を見ていないと話の流れがわからなくなる一方で、豊作の野菜を食べ過ぎて激太りするなどの、別の回にまわした方が適切などうでも良い話がいくつも挟まれる(野菜は食物繊維が多く、ドレッシングを掛けすぎない限り、食べ過ぎても太ることはまずない)。
 大人の視聴者は、第2、3話でげんなりすると思うので、キャラ紹介を行う第1話に続いて、第4→5→7話の順で(不出来な部分は流し見しながら)視聴するのがオススメである。 

Re:CREATORS

【評価:☆☆】
【重大なネタバレあり】
 全話視聴済み。
 原作・広江礼威(『BLACK LAGOON』)、監督・あおきえい(『Fate/Zero』『放浪息子』)という期待の顔合わせだったにもかかわらず、何とも煮え切らない残念な出来に終わった迷作である。問題は、リアリズム精神の欠如にある。
 基本プロットは、アニメ・マンガ・ゲームなどさまざまなサブカル作品の登場キャラ(被造物)が、作者(創造主)の手を離れてこの世界に具現化、そこで戦闘を繰り広げるうちに、現実そのものが崩壊の危機に晒されるというもの。タイトルは、作品内キャラを現実界で再創造するという意味での「レクリエイト」と、彼らに生命を与えるのは作者かファンかという問題提起「クリエイターについて」の掛詞だろう。この路線を徹底させた緻密なファンタジーとして物語が展開されれば、かなり見応えのある作品になったかもしれない。しかし、「作品内キャラのリアリティとは何か」という本質的な問題をおざなりにしたために、緊迫感に欠けた内容に終始した。
 アニメ・マンガ・ゲーム(およびイラスト付きラノベ)などのサブカルに描かれるキャラは、マンガチックなデフォルメや描写されない空白領域の存在によって、現実の人間とは大きく異なっている。この現実からのズレが、視聴者/読者/プレーヤーが感情移入する際に重要な役割を果たす。実写映画の場合、キャラと俳優の分離が困難なため、キャラへの偏愛は作品世界で完結されず、演じた俳優への愛着と混淆されやすい。これに対して、サブカルキャラには、決して現実と溶け合うことのないズレがあるだけに、ファンが自分なりの思い入れを込める余地が大きい。この思い入れを媒介として、彼らはファンの心に侵入し、身近でリアルな存在となるのである。
 それでは、『Re:CREATORS』で現界したキャラは、彼らが本来持っている現実とのズレをどのように調整したのだろうか? いくら目をこらしても、その辺りがどうしてもわからない。サブカルキャラの持つ“現実離れしたリアリティ”が、きちんと描かれていないのである。
 「アニメでサブカルキャラのリアリティを描くことなど、どだい不可能だ」と思うならば、アニメ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(第1期)』を見ていただきたい。第10話「俺の妹がこんなにコスプレなわけがない」では、登場人物の一人が作中で紹介されたアニメキャラのコスプレをするのだが、作画と演出が見事にかみ合って、(アニメの中なのに)生身の人間がアニメキャラになりきっていることが明瞭に描き出された。それを目にしたオタクたちが熱狂するのも、実に自然である。一方、『Re:CREATORS』では、現界したキャラの映像が大勢のファンの前で上映されるものの、どこまで現実に近づけた姿なのかが描かれていないので、ファンが大喜びする理由が判然としない(そもそも、異なる原作のキャラをまぜこぜにした番外編など、ハイティーンのファンに気に入られるはずがない。「仮面ライダー大集合!」ではあるまいし)。
 『Re:CREATORS』の肝は、クリエイターを喪失したまま現界したキャラが、作者の想像力が及ぶ範囲(および著作権)に束縛されることなく、ファンによる自由な二次創作を通じて、無敵になるというアイデアだろう。その力を抑えるためには、クリエイターそのものをレクリエイトしなければならない…。もっとも、アイデアとしては面白いのだが、サブカルキャラと生身の人間では再創造の重みが違うことが伝わらず、私は、この展開に感動できなかった。どうしても高い評価が与えられない理由である。
 本作について、アニメ脚本も多い小説家の辻真先が、好意的な批評を書いている(2017年11月26日付日本経済新聞「テレビアニメの冒険」)。おそらく、彼自身がクリエイターで登場人物を常にリアルな存在として意識している故に、サブカルキャラと生身の人間が同じ次元に並列される状況を、何の違和感もなく受け入れられたのだろう。被造物から「我々の世界を創った覚悟はあるか」と問われるシーンを見て「胸を抉られた」と語るところは、クリエイターの真情を感じさせて、興味深い。さらに、なぜ無敵のキャラである姫君が男装し舞台的な台詞を駆使するかについて、宝塚歌劇に言及しながら読み解いた部分は、物語の骨格を明確にする的を射た指摘である。

ボールルームへようこそ

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 せっかく競技ダンスという面白い題材を取り上げながら、うまく料理することができないまま話だけが先へ先へと進み、見ていてじれったくなる作品である。
 それまでダンスに全く関心のなかった主人公の多々良が、ひょんなことからダンス教室に入り、秘められた才能を開花させる−−いかにも王道のプロットなのに、彼が競技会で上位入賞できる実力を身につけるまでの展開に、説得力がない。かつてのスポ根マンガでは、主人公が文字通り血のにじむ努力を重ねるし、『ヒカルの碁』『ちはやふる』などの近年の作品では、主人公を高みへと誘う有能な指導者やライバルが登場する。しかし、本作の場合、多々良を成長させるこうした要因がないにもかかわらず、いつのまにか(時には競技会のさなかに勃然と悟って)高度な演技を行い始める。
 多々良が基本の型を夜通し練習するシーンなら、序盤にある。しかし、本作で取り上げられる競技ダンスは、社交ダンスが高度に進化したもので、リーダーとパートナーの息の合ったコンビネーションが要となる。その肝心な部分をどうやって多々良が会得したか、納得のいく描写がない。第9話「花と額縁」では、ほとんど打ち合わせもないまま、基本型に見せ場を織り交ぜたダンスを即興で踊っているだけなのに、「とんでもない量の情報」をボディランゲージでやりとりすることによって、パートナーの魅力を最大限に引き出し観衆を魅了してしまう。
 こうした語り口は、視聴者に迎合するものである。子供は、「自分には秘められた天賦の才があり、ほんのわずかのきっかけさえあれば花開く」と夢想しがちである。『ボールルームへようこそ』は、そのサンプルとでも言えようか。だが、これは儚い夢でしかない。天才は、かなりの才能の持ち主が物凄く努力するか、物凄い才能の持ち主がかなり努力することによってのみ、実現される(物凄い才能の持ち主が物凄く努力すると、大天才になる)。子供の夢に付き合っていては、人生の糧となる優れた成長物語を作ることはできない。
 ストーリーがそれほどでなくても、作画が優れていれば作品として評価できる。だが、ダンスシーンでは、派手な決めポーズを静止画で示すだけで、ダイナミックな動きは表現されない。わずかに、数秒の基本型を描くにとどまる。おそらく予算と時間が足りず、実演を撮影してトレースする余裕がなかったのだろう。
 スタッフも、画に力のないことがわかっていたようだ。セリフによるクドい説明と過剰なまでの効果音をこれでもかと重ねて、シーンを粉飾する。それが、私には、どうにも耳障りだ。また、原作マンガにある説明画を、そのまま動画に起こして表現力の不足を補完しようとする。例えば、ダンスを習熟するにつれて生じる身体感覚の変化を、「足が4本あるよう」と述べて、胴から4本の足が伸びる画を挿入する。しかし、それぞれのコマが独立した意味を持ち得るマンガならばともかく、時間の流れに沿って物語を叙述するアニメの場合、こうした観念的な説明画は、いかにも場違いの感を与える。
 いろいろと欠点の多いアニメだが、それでも、いくつかの感動的なシーンがある。特に私が好きなのは、終盤で敵役となる釘宮組のパートナーの描き方。第23話「伝統と進化」で紹介される私生活での彼女は、ボサボサの髪に愛想のない態度で、入浴場面でも全く色気がない。ダンスは趣味と割り切り、「私なんか」と投げやりな独白をする。ところが、競技の途中で釘宮が足を痛めたときには、無言のまま全力でサポートする。ほんのわずかの描写だが、人間味を感じさせて心に残る。
 こうした(金がなくても才能だけで作れる)シーンがもう少しあれば、競技ダンスという題材自体が充分に興味深いのだから、もっと面白いアニメになったろう。

小林さんちのメイドラゴン

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 原作に沿ったギャグ中心の展開と京アニらしい丁寧な絵作りが、どうにもちぐはぐになってしまった残念作。本作のように、絵のあまり巧くないネタ中心のギャグ漫画をアニメにしたケースには、『さよなら絶望先生』『バーナード嬢曰く。』などがあるが、これらは、アニメ化によって作品世界が充実した。しかし、本作の場合、私の見る限り、絵の下手な原作の方が美麗なアニメよりずっと面白い。
 制作会社の京都アニメーションは、これまで25本のテレビアニメを作っているが、そのうち18本は、物語性の強いラノベやAVGを原作とする(2本のオリジナル作品もストーリーもの)。一方、5本のアニメの原作として採用された漫画4作は、対照的に、いずれも短いエピソードを重ねるギャグ漫画である。おそらく、ストーリー漫画をアニメ化しても、なまじ画を中心とする視覚的な表現手法が似ているだけに、原作の劣化コピーにしかならないと判断したためだろう。漫画に基づく作品のうち、『らき☆すた』『日常』は原作に近いギャグアニメに起こしたが、『けいおん!』は、キャラを膨らませてストーリー性を与え、結果的に多大な人気を獲得した。2011年の『日常』以降、京アニはストーリーを重視する方向に傾いており、その流れに沿って、本作も『けいおん!』と同様の方針でアニメ化したのだろう。
 アニメ『小林さんちのメイドラゴン』で、京アニのスタッフは、近年の諸作と同じく、丁寧で緻密な絵作りによって物語を紡ごうとする。原作に比べると、登場するキャラは表情が豊かで、背景の情報量も大幅に増した。しかし、この丁寧さは、ギャグ中心の展開と馴染まない。
 『けいおん!』のように、登場するのが学校生活を楽しみたいふつうの女子高生ならば、ギャグを減らしオリジナルな展開を加えることも可能である。しかし、『メイドラゴン』は、異界から来訪したドラゴンたちが人間に姿を変え、ふつうに日常生活を送るという奇想天外な設定なので、シリアスな話を付け加えるのが難しい(最終話に原作と異なる展開があるが、あまり成功していない)。
 最大の問題は、他の京アニ作品と同様に表情豊かにしたにもかかわらず、キャラの内面が平板な点である。ヒロインのトールが、まじめな働き者のメイドである一方で、破壊と殺戮を行うドラゴンであることに代表されるように、大半のキャラは、極端な二面性を持つ。人間である滝谷ですら、会社ではキリッとした好青年なのに、社外でオタクモードになると、顔立ちも言葉遣いも一変する。こうした二つの面は、あまりに違いすぎるので、心理の拡がりにはつながらず、単に、キャラが分裂したようにしか見えない。
 人間に姿を変えたドラゴンならば、生きる上でそれなりの葛藤が生じるはずである。ディズニーの実写映画『スプラッシュ』では、人の姿となった人魚が、恋人に高級レストランで御馳走されたとき、大好物のロブスターを目にして、思わず手づかみで殻ごとバリバリと食べてしまう。笑いを誘いながら、同時に哀しさをも醸し出す名シーンである。このように、異物であることに起因する日常性との摩擦がうまく表現できれば、作品に深みが増しただろう。しかし、本作では、ドラゴンがメイドになるという設定は、ギャグとしてしか使われない。単なるギャグアニメならそれでもかまわないが、ストーリー指向の作画と方向性が異なるため、見ていて居心地が悪い。
 もっとも、主人公・小林さんのキャラだけは、アニメでもめっぽう面白い。社内では有能なSE、社外では酒飲みのメイドオタクというキャラ設定は、どちらも対人関係のスキルを必要としない点で、完全に両立する。かなりの高給取りらしく、部屋が手狭になったときは、即座に広いマンションに引っ越せるだけの貯えがある。ソファやベッドなどの家具は立派なのに、引っ越し荷物の整理もせず、ビールの空き缶や衣服も放り出したまま。だらしないのではなく、一人暮らしが長すぎて気を遣わなくなった感じが滲み出る。何ともリアルなキャラだ。玄関の前にドラゴンがいても、動じることなく部屋に招き入れるほど大らか(?)で、ドラゴン絡みの物語は、もしかしたら全て彼女の妄想かもしれないと思わせるところがある。

ぼくらの

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 人類の未来をかけて、子供たちが巨大ロボット・ジアースを操縦し、襲い来る謎の敵と戦う−−そう書くと、何やら勇壮で楽しげなアニメに思えるが、実際は、これ以上はないと言うほど陰鬱な作品である。基本的な前提は、ジアース操縦者が、敵との戦いで勝っても負けても、はたまた戦いを回避しても、必ず死ぬと運命づけられていること。勝てば(自分は死ぬが)人類に残された時間が少し伸び、負けたり逃げたりすると即座に(自分も含めて)人類が滅びる。この極限的な状況の中で、死に直面した人々の苦悩が描かれる。
 『ぼくらの』について語る際には、原作(鬼頭莫宏のマンガ)とアニメ(監督の森田宏幸が原作を大幅に改変)のどちらを好むか、旗印を鮮明にしておいた方が良いだろう。私は、アニメを見終わって何年も経ってから、原作の3分の1ほどを読んだだけだが、その範囲で言えば、アニメの方が遥かに優れていると感じた(原作ファンの多くは、逆に、アニメが原作の良さを失わせたと怒ったらしい)。
 原作マンガは、さながら「死に様カタログ」のようで、多くの人間がいろいろな形で死んでいく。すっきりとラストを迎えそうなエピソードでも、わざわざ二段落ちにして死者を増やす。登場人物は、単に死ぬだけでなく、いじめや陵辱など、これでもかとばかりに悲惨な境遇に追い込まれ、どこからも救いが得られないまま、無残な死を迎える。英雄的な死によるカタルシスなど、全くない。ここまで徹底されると、作者は、死を描くことを楽しんでいるようにしか見えない。
 死を正面切って取り上げたからと言って、重厚な話になるとは限らない。連続殺人を扱ったミステリがそうであるように、過剰な死は、逆に、死を希薄化し命の価値を減殺してしまう。死が運命づけられた子供たちは、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』などにも登場するが、この小説は、死の直接的な描写を避け、確実に死に向かいつつある少年・少女の日常を、情感を込めてゆったりと描き出しており、かえって死の重みがひしひしと伝わってくる。私は、マンガ『ぼくらの』を読みながら、かなり辟易したが、大勢が死ぬ悲惨さではなく、むしろ希薄化された死の軽さが耐え難かったのである。
 こうした原作マンガに比べると、アニメはずっと楽しめた。原作の連載中に制作されたため、ストーリーは途中(キリエ編後半辺り)で原作路線から逸脱し始め、ラストは完全な別物となる。話の流れだけでなく、全体的な印象も大きく異なる。死者の数が減った上に、死にゆく一人ひとりに寄り添う部分が増えており、原作を覆う暗澹たる雰囲気が緩和された。このことは、原作でも特に悲惨なカコ編・チズ編がどのようにアニメ化されたかを見ると、はっきりする。原作では、サディスティックなまでにいたぶられ、喚いたり冷酷になったりするだけだった二人が、アニメでは、心を持った人間として行動する。
 戦いのシーンも、アニメの方が見応えがある。原作のジアースが、ゴテゴテと突起のついた甲殻類のような外見をしているのに対して、アニメでは、細長い手足を持つ端正な容姿に改められた。動きも、身長500メートルという巨大さにふさわしく、ゆっくりと加速される。ビーム兵器の使用頻度が大幅に減り、戦いは、主に巨大ロボット同士の肉弾戦となるが、物理的にあり得ないほどほっそりしたジアースが、金属音を響かせながら重々しく立ち回る光景は、非現実性とリアリティが巧みにミックスされて、緊迫感に溢れた絶妙な効果を上げる(もっとも、激しい動きや派手な爆発のような子供だましがないので、子供には物足りないだろうが)。
 戦いの決着がどう付けられるかも、工夫されている。特に、モジ編の心理戦、キリエ編の意外な戦法などは、見ていてゾクゾクするほど。どちらも、戦いの後で操縦者が重要なポイントを指摘するが、バトルシーンからの流れを受け継いでおり、自然な展開である。
 ただし、後半に登場するアニメ独自の社会描写−−財界人の暗躍、政界の裏工作、やくざの関与、認知研のプロジェクトなど−−は、どれも類型的であまり面白くない。また、敵の正体と戦いが避けられない理由に関するSF的設定は、いかにも陳腐だ。特に、戦いの背後にいる支配者の姿は、少し考えるとわかるように、それ以外の設定と矛盾する。初放送の際、私は、支配者がチラリと映った段階で興味を失い、終盤は軽く流し見したが、最近になって改めて全編を見直し、少し後悔した。これらの部分は、大幅にカットした方が作品の質を高めるだろう。
 石川智晶(作詞・作曲・歌)による主題歌(OP「アンインストール」、前期ED「Little Bird」、後期ED「Vermillion」)は、どれもアニメ史上に残る名曲である。

少女終末旅行

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 序盤と終盤があまり面白くなかったせいで控えめな評価を付けたが、出来の良い中盤の数編だけに注目すると、2017年屈指の名作と言えよう。原作(つくみずのWeb漫画)の最終第42話が感動的なので、できればここまでアニメ化してほしい。
 作品の舞台となるのは、人類の終焉が近いことを示す無人の未来都市。そこを、ケッテンクラート(悪路も進める軍用車両)で移動する二人の少女・チトとユーリの日常が描かれる。
 「終末直前の世界を旅して回る」というのは、SFでは昔から人気のプロットで、特に、ニューウェーブと称されるイギリスのSF小説(ブライアン・オールディス『グレイベアド』、アンナ・カヴァン『氷』、J.G.バラード『破滅三部作』など)が有名である。ただし、本作と雰囲気が似通っているのは、むしろ、ニューウェーブ運動に先だって著されたネビル・シュートの小説を映画化した『渚にて』(監督:スタンリー・クレイマー)だろう。人影の消えたサンフランシスコ、風にあおられて転がるコカコーラの空き瓶−−そんな胸に突き刺さるような終末期の日常が、本作と通底する。
 外敵の襲来や戦争の惨禍、環境破壊による人類滅亡を描いたサブカル作品は多い。しかし、『少女終末旅行』の世界で何があったのかは、必ずしもはっきりしない。戦争が起きたことは、壊れた兵器が周囲に散乱している状況から明かだが、人間も動植物もいなくなったのはなぜか。都市から逃げ出したのか、目につかないところで死に絶えたのか。積層構造をなす巨大都市の周囲には低層の建物群が拡がり、遥か遠方には別の都市がぼんやりと見える。しかし、そこに生き残った人がいるかどうかは、定かでない。チトとユーリも事態が理解できていないようで、ほとんど場当たり的に旅を続ける。
 本作の面白さは、二人の旅における徹底した無目的性にある。食糧や水、燃料を補給しながら移動するものの、物資の不足に関する切迫感はない。無目的であるが故に、人間のレーゾンデートル(存在理由)を問う旅となっている。
 二人の少女のうち、チトの方が遥かに思慮深く、生きるための工夫を凝らす。手に入れた数冊の本を大切にし、自らも日記をつける知性派でもある。一方のユーリは、遊んでばかりの食いしん坊で、無知・無責任の塊であり、序盤の何話かは、その脳天気ぶりが無性に腹立たしかった。しかし、回を重ねるうちに、このどうしようもなく荒廃した世界で生き抜くには、ユーリのような存在が必要だとわかってくる。
 ストーリーらしいストーリーはなく、チトとユーリの見聞が脈絡なく綴られていく。序盤は(ユーリに腹を立ててばかりで)さして感興が湧かなかったが、第5話Cパート「雨音」になって、作品世界に引き込まれた。雨粒がヘルメットに当たって、廃墟の中で音を響かせる−−それを面白がった二人は、次々と音を立てる素材を並べていく。
 ユーリ「まるで音の洪水だね」
 チト 「もしかすると、これは音楽ってやつかもしれない」
その言葉通り、雨音の連なりが、しだいに音楽へと昇華していく。
 絶望の淵にあって、なお這い上がろうとする人間の力強さを描く第6話「離陸」は、開高健が好んで色紙に書いた「明日、世界が 滅びるとしても/今日、あなたは リンゴの木を植える」という言葉を思い起こさせる。第8話「記憶/らせん/月光」は、もはや崇高とも言える内容で、月光を浴びながら手を取り合って戯れる二人の少女の姿は、限りなく愛おしい。
 おそらく低予算で制作されただろうに、作画が見事だ。抽象的で読者の想像力に委ねる部分の多い原作に対して、アニメは、細部まで描き込んでいながら、想像力の障害とはならない。例えば、どこまでも続くパイプをリアルに描写することで、かえって、この世界がどのような状況にあるかを深く推察できる。何を描くべきかを正しく理解しているアニメーターの力量が窺える。
 場面に添えられた音響も素晴らしい。第8話「記憶」の冒頭で虚ろに鳴る風の音や、墓標のような壁の列を通り抜けるケッテンクラートのエンジン音。これらリアルなサウンドに優しく重なる静かな音楽。でしゃばらない響きが、視る者に深い感動を与える。
 『少女終末旅行』が描き出すのは、生きることの圧倒的な空しさと、ほんの時たま訪れる充実した瞬間だ。そこに、人間のレーゾンデートルが、ほの見えてくる。フランスの詩人・ジャック・プレヴェールのこんな一節を口ずさみたくなる。「天にまします我らの父よ/あなたは天にいてください/私たちは地上に残ります/ここは時々美しいから」

三ツ星カラーズ

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 子供の姿がリアルすぎるので、小学校時代を黒歴史として封印する中高生には嫌われるだろうが、30歳以上の大人には何とも愛おしい佳作である。
 主人公は、小学生のさっちゃん・ことは・ゆい。三人は、「カラーズ」なる秘密組織を結成、町の平和を守るために日夜活躍している(つもりでいる)。舞台となるのは、緑豊かな上野公園と、アメヤ横丁(アメ横)を中心とする下谷だが、特に、下町情緒あふれる下谷住民の描写が素晴らしい。東京の市街が持つ雰囲気の再現度では、『デュラララ!!』(池袋)『魔法遣いに大切なこと』(下北沢)『STEINS;GATE』(秋葉原)に匹敵する。
 誤解している人が多いが、江戸の下町とは、本来、現在の銀座線に沿った銀座・日本橋・神田あたりを指す。寅さんで有名な葛飾柴又は、「下町を連想させる」だけで、そもそも江戸に含まれない。上野は、17世紀後半になって江戸の拡がりとともに発展した地域で、高台に徳川家ゆかりの寛永寺の堂宇が立ち並ぶ一方、低地の下谷には下級武士の住まいが蝟集し、浅草や深川などとともに新興の下町となった。明治以降、戊辰戦争で焼失した寛永寺の境内は上野公園に改装され、東京大空襲で焼け野原となった下谷では、高架周辺の闇市からアメ横へと慌ただしい変化が生じたため、もはや目に見える江戸の面影は残っていない。だが、住民の心の中に、由緒正しい江戸っ子気質が生きている。
 アメ横近隣の住民は、みんな情に厚くて子供好き。地域の人気者であるカラーズの三人が、刀に見立てたバナナで切りつけると、「ヤラレター」と倒れてくれる(第3話)。三人のもとには、「盗まれた招き猫を探してくれ」といった依頼が住民から次々と寄せられるので、することには困らない(第10話)。アメ横と上野公園ではかなりの高低差があり、大人だと階段を上るだけで息切れしてしまうが、子供たちは平気で何往復もする。急ぐ必要もないのにひたすら駆け回り、見ているだけで元気を与えられる。
 カラーズの行動は、いかにも子供っぽく微笑ましい。食べられる野草があることを植物図鑑で知った三人は、非常事態に備えるべく公園内を探索、タンポポやクローバーなどを集める。実行力がハンパない彼女たちのこと、そのまま公園にコンロとナベを持ち込み、雑草を具にした鍋パーティを始めるのだが…(第6話)。誰もが「あるある」と思う子供時代の出来事を、ほんの少し斜め上に拡張しており、そのさじ加減が絶妙だ。
 私が特に好きなのは、第5話「どうぶつえん」。戦時中の悲話を描いた絵本「かわいそうなぞう」に感動した三人は、ゾウに食べ物をあげようと上野動物園に向かうものの、入場直後から当初の目的を忘れてあちこちに寄り道。ハツカネズミにさわれるコーナーでは、「どんどん増えるのに、ここにはちょっとしかいない。きっとこのハツカネズミが、ほかの動物のエサになっているんだ」と言って、説明のお兄さんを困らせる。ひどく移り気なのに、時々妙に論理的になる子供の特徴を、見事に捉えた傑作エピソードである。

ラーメン大好き小泉さん

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作未読。
 18年冬アニメの中で最も好きな作品であり、延べ60〜70回は見たが、小泉さんに対する個人的な思い入れが強すぎる気もするため、少し控えめに評価した。
 私は、ラーメンに興味がない。生まれてこの方、ラーメンを食べた店の数は十に満たず、最も美味しいと思ったのは都立中央図書館5Fの食堂。そんな人間なので、作中で語られる蘊蓄はチンプンカンプン(何だ、背脂チャッチャ系って?)、登場するさまざまなラーメンも食べたいとは思わない。にもかかわらず、小泉さんの魅力にドハマリしてしまった。
 いつも背筋をピンと伸ばし、生真面目そうな委員長ですら緩めるタイをきちんと締めて、喉元すら見せないクールな小泉さん。でも、なぜかラーメンが大好き(「大好物」なのではなく、ラーメンの存在そのものを愛している)。女性がラーメンを食べるとき、大きなドンブリを片手で持てないので、テーブルに置いて顔を近づけざるを得ず、食べる姿が見苦しくなりがちだが、小泉さんは、背筋を伸ばしたまま豪快にすすり上げる。現実では品のない食べ方なのに、アニメで見ると惚れ惚れしてしまう。美味しいラーメンを堪能して恍惚の表情を浮かべる小泉さんは、わずかにタイが緩み、襟の合わせがずれている。何て色っぽい!!
 基本的にはギャグアニメだが、やろうと思えばいくらでもできる悪ノリや内輪ネタを抑え、ある方向に深入りしすぎた人間のちょっと哀しい滑稽さを優しく描き出すので、好感が持てる。委員長と小泉さんが交わす「えっ?」「エッ!」「えっ??」「エッ!!」という「えっ」の四連発が醸し出すおかしさ(第8話)。あるいは、「この4人でご飯とか、超珍しいんだけど」という美沙の一言に続いて、各メンツが示す表情の絶妙な取り合わせ(第10話)。早朝に小泉さんとすれ違った悠のお兄さんが言う「いま美少女から煮干しの香りがしたんだ」は、究極の名台詞である(第6話)。
 主要キャラ4人は、萌えアニメにありがちな類型的ガールズグループではなく、いずれも人間味豊かに描き出される。中でも、何度拒絶されても小泉さんに接近しようとする悠の姿は、実にリアルだ。この手のストーカーには、私もつきまとわれたことがあるが、あしらい方さえ心得ていれば実害はなく、むしろ愛すべき存在である。旅行の際、小泉さんがキャリーバッグにラーメンを詰め、いつも身近に持ち歩くのを知った悠は、ポツリ呟く。「私はラーメンになりたい」(第7話)……ストーカーの鑑だ。

ハクメイとミコチ

【評価:☆☆☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 絵本のような作画で子供には面白くないかもしれないが、酸いも甘いも噛み分けた大人が見れば、芳醇なワインにも通じる深い味わいに心打たれること請け合いの秀作である。
 原作は樫木祐人のデビュー作となる漫画で、連載開始時のタイトル『こびと日和』に示されるように、身長10センチ足らずのこびとたちの日常が描かれる。彼らは、言葉をしゃべる虫や衣服を身につけた小動物と共に、自然と調和した穏やかな生活を送っている。家具や衣服は修繕した上でリサイクルされ、食事は竈で調理しハンドメイドとおぼしき食器を使う。19世紀の農村を思わせるライフスタイルだ。もっとも、自動車はなくても蒸気機関はあり、町の中心部には3〜4階建ての商店が密集するなど、それなりの文明生活を享受している。
 主人公は、木のうろにしつらえた部屋に同居する二人の女性。ハクメイは外で大工仕事をこなすガテン系で、気っぷが良く男前。一方のミコチは、料理と裁縫の腕を生かした内職をしており、細かいことに気がつく繊細さを持ち合わせる。二人は、酒を酌み交わし、一緒に温泉旅行に行くほど仲が良い。そのせいもあって、私は、第5話までハクメイが男で二人は事実上の夫婦だと信じて疑わなかったのだが…。ま、男前なら女性を亭主にするのもありか。
 原作漫画は、2次元の紙面にびっしりと描き込む密度の高い造形が特徴。アニメでは、アニメ美術の専門会社・草薙が、それ自体が芸術作品と言える見事な背景を創り上げた(草薙は下描きに相当する美術設定を行い、現場の作画スタッフが完成させたという)。
 さらに、安藤正臣監督による奥行きを強調した演出も素晴らしい。例えば、アニメ第8話「長い一日」の冒頭。原作では、横道への角に立つハクメイの姿が描かれるが、アニメになると、逆に、横道の奥からハクメイたちを遠望する構図。続く場面では、「ここは無法地帯」といった話をしながら三人が並んで歩く原作の画の手前に、チェスのようなボードゲームに興じる二人の怪しげな人影を描き込む。
 こうした奥行き描写は、素朴なリアリズムではない。まるで人形芝居の書き割りのようでありながら、画面のこちら側にいるわれわれを作品世界に引きずり込む効果を生む。現実離れした現実、非日常的な日常といったファンタジー特有のリアリティが、せつせつと心に迫ってくる。時折、縁取りした別画面を挿入するテクニックも、漫画ならば常套的なのに、アニメで見ると実に新鮮だ。
 本作以前に安藤が監督したアニメには、『トータル・イクリプス』『がっこうぐらし!』『クズの本懐』などがあるが、いずれも描写が過激なまでに扇情的で、視聴者にショックを与えようと小技を繰り出すという、私が最も嫌うタイプの作品である。このため、アニメ作家として全く評価していなかったが、『ハクメイとミコチ』は、それまでの見方を180度転換させるほど力強い。
 私が特に好きなエピソードは、第11話Aパート「夜越しの汽車」。ハクメイとミコチは、朝早くから釣りをするために夜行列車にいそいそと乗り込み、弁当を買ったり窓外の風景に目を凝らしたり。朝まだきの薄闇の彼方、月影が川面に映える。途中停車の駅でベンチに腰を下ろし、名物の玉茶を飲み交わすうちに、白々と夜が明け初める。ただそれだけのことなのに、ジワジワと心に沁みて泣きそうになる。
 日常系の醍醐味は、大人にだけわかるような気がする。40歳を過ぎて漸くジェーン・オースティンは面白いと感じ始めた私だが、こんなアニメに感動できるようになるとは、齢を重ねるのも悪くない。
 第10話Aパート「竹の湯」では、露天風呂に浸かりながら食べる酒の肴が、「イカの塩辛のあぶり」と「クキワカメとオクラのゴマ和え」。うーん、大人だな〜。

宝石の国

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作一部既読。
 アニメを見ている間ずっと、強い違和感を感じ続けた。表現したいものと表現されたものが、根本的に食い違う感じだったのだが、放映後に原作の一部を読んで、謎が氷解した。原作とアニメは、キャラとストーリーが共通するだけで、内実が本質的に異なるのである。傑作である原作を、単純な熱血バトルアニメに作り替えたと言って良い。
 原作となる市川春子の作品は、マンガと言うよりは「絵物語」、若しくは「詩のない詩画集」といった趣。すでに人間のいなくなった遠い未来、草木や蝶などを別にすると、活動するのは、人の姿をした動く宝石、海に住むクラゲのような生き物、それに、突如として中空に現出する月人と呼ばれる奇怪な存在だけになっている。物語は、宝石たちの日常および月人との闘いを軸に展開される。
 宝石がなぜ意識を持ち動き回れるかについて、「体内に特殊な微生物が棲息する」といったSF的な設定があるが、どう見ても後付けであり、真に受けない方が良い。おそらく、作者の市河は、宝石図鑑を眺めつつ自由奔放にイマジネーションを膨らませ、それを詩的な絵画に描き起こしながら、適当にストーリーを作り上げたのだろう。
 市川のインタビュー(「このマンガがすごい!WEB」掲載)によると、仏教校に在籍中、読んだお経に「浄土は宝石でできている」とあり、「その俗っぽい価値感というか人間らしい複雑味みたいなものがおもしろいな」と気になったそうだ。この視点は、そのまま『宝石の国』に生かされている。
 女性と男性の体で最も異なるのは、腰つきである。女性は、胎児を支えられるように骨盤が発達し、妊娠期間中に食糧が不足しても母子が共倒れにならないように、臀部(および胸部)に脂肪を蓄える。その結果、男性に比べてお尻が大きく、胴がくびれた体型になり、ボディラインだけで男女の別が判定できる。『宝石の国』に登場する宝石たちは、いずれも腰つきからはっきり女性に見えるものの、その一方で、スラリと伸びた手足と平らな胸が少年を思わせる。(少女漫画に描かれる)少年は、男性以前の「非・性的な」存在であり、宝石たちは、女性を少年化することで性にまつわる生々しさをなくしたキャラなのである。
 作品世界も、キャラ設定に合わせて、肉のしがらみを滅却した鉱物的なものとして描かれる。女性っぽい宝石たちを統率するのは僧形の大男で、一人の男と大勢の女性が同棲するハーレム的な構成なのに、生臭さを全く感じさせない。彼らが住むのは、異様に巨大な神殿風の建物。着るものは制服に統一され、恋愛沙汰もないまま、定められた仕事をこなすだけの日常生活が続く。
 宝石たちに襲いかかる月人は、帯状のひらひらした布を身につけ、インド神話に起源を持つ天人を連想させるが、瞳のないモノクロームの姿で生気がない(月人の正体は原作の後半で徐々に明かされるが、これもまた後付けとしか思えない)。
 市川が描く『宝石の国』で最も特徴的なのは、死による滅びのないこと。宝石たちは、砕かれても破片を接着すれば甦る。しかし、断片化した体の一部が失われるにつれて記憶は朧になり、性格も変化する。死なない代わりに、人間らしい同一性を保持できない。汚らわしさと尊さを併せ持つ肉体が人間にとって何を意味するのか、哲学的とも言える問いかけが静かに浮かび上がる。
 こうした世界観を表現するために、原作では、しばしば台詞のないコマが延々と続く。台詞がふんだんに盛られた場面もあるが、状況説明はわずかで、主にキャラの個性を際立たせようとする言葉ばかり。絵も説明的ではないため、一度読んだだけでは、何が起きたか判然としないことも多い。ストーリー漫画ではなく、繰り返し読むことを前提とした詩画集に近い。
 …というのが原作の『宝石の国』なのだが、肝心のアニメはと言うと、宝石と月人のバトルを中心に激しい動きが加わり、子供は楽しめそうな作品に変貌した。それで優れたアニメになったならば許せるが、私には、さして面白く感じられない。
 特に腹立たしいのが、(悪い意味で)ヌルヌル動く作画である。アニメファンの中には、この形容を褒め言葉として使う人がいるが、これは完全な誤解で、本来、けなし文句である。画の枚数を増やせば、かつてのリミテッドアニメのようなカクカクした動きではなくなる。しかし、「ため」を充分にとり、中割を調整して加速感を出さないと、まるで粘液の上を滑っているような、人間味を感じさせない機械的な動きになる。これがヌルヌルした動きで、下手な作画の代名詞である。
 アニメ『宝石の国』では、動きを抑制して世界観を静かに表出した原作の味わいはどこへやら、バトルシーンではボルツやアメシストが派手に飛び跳ね、金属化したフォスの手が物理法則を無視して膨れ上がる。CGスタッフが暴走したかのようなヌルヌルした動きは、見ていて気持ち悪い。
 もっとも、私のように、このアニメによって原作の存在を知ることができれば、それなりの意味があるとも言えよう。アニメを途中まで見て世界観に興味を持った人には、原作に乗り換えることをお勧めする。

宇宙よりも遠い場所

【評価:☆☆】
 全話視聴済み。
 南極観測隊の苦労話と女子高生4人の青春グラフィティを合体させたオリジナルアニメだが、視聴者を感動させようという作者の企みが透けて見えてしまい、私には楽しめなかった。
 南極大陸は、南極条約によって領有権が凍結された事実上の共有地で、いっさいの軍事利用が禁止されている。人間の立ち入りは、主に科学研究を目的としており、夏場には数千人の研究員が常駐する。研究内容は、極地生態系や大気圏の調査、澄んだ空気を利用した天体観測、隕石や氷床コアの収集など。しかし、相当量の鉱物資源・生物資源が確認されたことから、いつまでも平和であり続けられるか、不安な点もある。
 日本の南極観測は、白瀬中尉による探検に始まる。欧米列強が北極と南極に次々と探検隊を派遣する中、1912年に木造の漁船を改造した「開南丸」で南極大陸に上陸した。装備不足もあって南極点には到達できなかったものの、判断が速かったため、隊員全員が帰国を果たせた。白瀬中尉の名は、白瀬海岸・白瀬氷河から第3代南極観測船「しらせ」を経て、本アニメのヒロイン・報瀬(しらせ)につながる。
 戦後になると、まだ敗戦の痛手が残る1955年、欧米諸国に混じって(他国から「資格なし」と言われながらも)共同南極観測に参加。翌年出発した第1次観測隊は、初代南極観測船「宗谷」で東オングル島に上陸し、アニメにも登場する昭和基地を設営した。1938年建造の宗谷は、戦時中、輸送任務の際に何度も米軍の攻撃を受けながら、奇跡的に沈没を免れた強運の船で、引揚船・灯台補給船として使用された後、急遽、南極観測船に改造された。砕氷能力が低く、しばしば氷に閉じ込められたが、それでも南極への航行をたゆまずに続けた宗谷には、熱烈なファンが多い。
 もっとも、日本の国民が南極観測に胸を熱くしたのは、せいぜい1970年頃まで。毎年観測隊を派遣して科学調査を行うことの繰り返しなので、多額な資金が必要な割に、国民の関心は薄れがちである。本作では、文部科学省・国立極地研究所・海上自衛隊などが制作に協力しており、アニメの力を借りて南極への関心を呼び戻そうという下心が窺える。
 おそらく、制作サイドは、こうした意向を受けて、最も人気を得やすい“萌えアニメ”のフォーマットを採用したのだろう。民間による南極観測が始まったという設定で、スポンサー向け要員となる4人の女子高生が南極に向かう。しかし、白瀬中尉や宗谷の逸話に感動した私の目には、あまりに生ぬるく映る。
 女子高生が南極に行くこと自体は、アニメの設定として不適当ではない。女子高生が宇宙飛行士に抜擢される『ロケットガール』というアニメ(結構面白い)もあるのだから。問題は、その人数を4人にしたことである。
 “萌えアニメ”の特徴は、「作品世界におけるリアルとメタの2つの階層を混淆させる」点にある。本作で言えば、「資金繰りが苦しい中で南極行きに情熱を燃やす」人々のリアルな物語に、視聴者を喜ばせるための(天然ボケといった)メタ設定を加えた女の子を登場させる。
 4人の女子高生(一人は中退)のうち、母親が南極で行方不明になった報瀬だけは、南極への執念が自然に表出されるが、他の3人(キマリ、日向、結月)にとっての関心事は、友人との関係性に集中しており、南極行きは「非日常性への旅立ち」としてしか意識されない。特に、熱意と能力に欠けるキマリを南極に派遣するのは、資金の無駄遣いに思える。作品内リアリティを保つためには、人数をせいぜい2人に絞るべきだろう。にもかかわらず、全13話にわたって、4人のキャラ設定に合わせたエピソードを手際よく並べた構成になっている。これは、リアリズムよりも面白さを優先したことを示す。
 話を重くせずに深刻そうなエピソードを描くには、キャラに2つの面を付与するのが効果的である。脚本を書いた花田十輝は、このテクニックを徹底的に使い倒しており、例えば日向ならば、明るく前向きな性格と友人に裏切られた暗い過去の2つが与えられた(キマリは、天然ボケのキャラで一貫しているので、友人の目線を通じて人物像を分裂させた)。ただし、こうした2つの面は、物語の中でくっきりと分離されており、リアルな人間のように、さまざまな側面を持ちつつ、常にその間をフラフラすることがない。このため、人間的な厚みは描き切れていない。
 全体的な構成を見ると、友人関係のエピソードが、第3,6,10話で軽く、第5,11話ではやや重苦しく描かれる。南極に関わる出来事は、ずっと背景に押しやられていた後、終盤の第12話になって、思いっきり泣かせる事件として登場する。この構成のおかげで、視聴者はいかにも感動巨編を見たように錯覚しがちだが、私には、エピソードの並べ方が作為的に思われ、2度見て2度とも感動できなかった。
 とは言え、ここまで作者の意図が見え透いて感じられるのは、テレビアニメを1000本以上も見てきたことの弊害なのかもしれない。

夜は短し歩けよ乙女

【評価:☆☆☆☆】
 これぞ、大人のための知的エンターテイメント。裏読み、深読み、逆さ読み 読みのテクニックを駆使して読み解けば読み解くほど、面白さが増してくる。表面だけ眺めると、一貫性のない、やたら狂騒的なコメディに思えるかもしれないが、実は、『フリップフラッパーズ』や『けものフレンズ』のように、重層的で奥深い。オタワ国際アニメーション映画祭長編部門グランプリなど、国内外で数多くの賞を受けたのも当然だろう。
 原作は、森見登美彦による同名小説。これを、テレビアニメ『四畳半神話大系』に続いて、脚本・上田誠、監督・湯浅政明のコンビがアニメ化したが、『四畳半』と同じく原作を大幅に改変し、圧倒的な迫力を生み出した。
 森見の原作は、一見奇想小説のようでありながら、あくまで現実に起こりそうな出来事を過剰な形容で飾り立てたにすぎない。ジョン・バースやイタロ・カルヴィーノらによる本格的な奇想小説と比べると、ごくふつうの小説である。例えば、第3章「御都合主義者かく語りき」では、とある学園祭の光景が描かれるが、そこに登場するのは、事務局の目を盗むゲリラ演劇、「象の尻」のような奇怪な展示や「てんで分からん」自主制作映画、どうでもいいテーマで激論を戦わせる討論会など、おそらく森見が京大で実際に目にしたであろう事物ばかりである。
 これに対して、湯浅は、森見が少し夢幻的に歪曲した描写に楔を打ち込み、現実から完全に遊離させてみせる。例えば、ヒロイン・黒髪の乙女が射的で獲得した緋鯉のぬいぐるみ−−原作では、「桁外れに大きい」と言っても、せいぜい紐一本で背中にくくりつけられる程度だが、アニメになると、人体よりも一回り大きく、それを背負って歩き回ること自体がクレージーな代物に変貌する。ゲリラ演劇終幕の舞台となる「風雲偏屈城」は、立て看板やロッカーなどのガラクタが組み合わされた舞台装置だったはずなのに、アニメでは見上げるほど巨大な楼閣に。そこでは、役者が闖入したり転落したりと目まぐるしく入れ替わり、いきなりミュージカルになったかと思えば、突然空から鯉が降ってくる。乱痴気騒ぎと紙一重のアクションの連続で、見る者を幻覚状態に陥れる。
 4つのエピソードを並列的に配置した原作とは異なり、アニメは、冒頭からラストまで、一直線に突き進む。開始早々、酒をゴクリと飲み込む描写がいかにもありきたりで、「あれれ?湯浅も日和ったかな」と思わせるものの、それは計算ずく。このありきたりのシーンから、二人の主役のうち、黒髪の乙女は神に愛されているかのようにフワフワと上昇し続け、一方の先輩は、世間のどす黒さを見せつけられてひたすら転落する。二人の格差が増すにつれて、先輩が乙女を追い求める動きは常軌を逸脱、最終章(原作第4章「魔風邪恋風邪」に相当するものの、その片鱗はどこにもない)に至っては、スカートを翻して突風に吹き上げられた乙女と、脳内闘争のどん底に突き落とされた先輩が、なぜか道理を超越して交錯する。
 本作の最大の特色は、時間が異常に延びているところ。四季の出来事を順番に描いた原作の枠を壊し、すべてを一晩に凝縮する。映画『ローマの休日』では、昼まで寝ていたはずのアン王女が、美容院に行ったり警察に捕まったりした上に、さらにローマ観光をして夜はダンスパーティに参加するが、そんな永遠に続きそうな一日にも、最後にはシンデレラの刻限が訪れる。ところが、このアニメでは、春夏秋冬に及ぶ夜が延々と描かれながら、登場人物がなお「夜は短し」とうそぶく。さて、ようやく迎えた朝に何が起きるかと言うと…。
 願わくは、森見登美彦が本作を笑って見逃してくれることを。なにせ、原作を破壊し尽くしたのに、原作より遥かに面白くなってしまったのだから。

秒速5センチメートル

【評価:☆☆☆☆】
 少し苦手なアニメ作家である新海誠の作品中、最も好ましく感じる一編である。
 ほとんどの作業を個人で行ったデビュー作『ほしのこえ』以来、アニメビジネスの枠に収まらないインディーズ作家としての立場を貫く新海は、独自の作風を貪欲なまでに徹底させる道を歩んできた。究極的とも言えるほど緻密で美しい映像と、ちょっと笑ってしまうくらいベタな設定。そうした作風から窺えるのは、純粋なフォトジェニーを追求する発想法である。
 まず、ある場面が鮮烈なイメージとして脳裏に浮かび、そこから後付けでストーリーを組み立てていく−−おそらく新海は、そんなやり方で一つの作品を紡ぎ出すのだろう。したがって、ストーリーよりも個々の場面に強く没入することができないと、「セーラー服の女子中学生が巨大メカを操って宇宙人と戦う」(『ほしのこえ』)といった痛々しいほどのオタク趣味について行けなくなる。
 実は、私も暫くついて行けなかったクチで、すべての作品を見ていながら、「何か書かねば」という気には、なかなかなれなかった。しかし、何回か見返すうちに、新海作品には、設定の陳腐さを忘れさせる瞬間があることに気がついた。それは、場面に込められたリアリティが、圧倒的な強烈さを持って胸に迫る瞬間である。ここで言うリアリティとは、「その状況に置かれたとき、自分も登場キャラと同じように反応するだろう」と見る者に思わせる力−−共感作用の源である。
 新海の作品を、リアリティの(設定の陳腐さに対する相対的な)強烈さの順に並べると、次のようになろうか(カッコ内は発表年)。
 『秒速5センチメートル』(2007年)−『言の葉の庭』(13年)−『雲のむこう、約束の場所』(04年)−『君の名は。』(16年)−『星を追う子ども』(11年)−『ほしのこえ』(02年)
 『秒速5センチメートル』は、胸が苦しくなるほど、切なくやるせないアニメだ。この切なさは、恋する相手になかなか会えないという具体的なストーリーよりも、大雪のせいで無人の荒野に立ち往生した列車や、虫すだく宵闇の丘で一人ケータイを見つめる少年といった、フォトジェニックな光景によって掻き立てられる。よく考えると、ストーリー自体はありきたりだし、主人公は過去にとらわれすぎで、独白も私にはうざったく感じられるのだが、そうした欠点を凌駕するパワーが映像にある。ゆっくりと、しかし、確実に過ぎ去っていく時間の非情さ、どんなに強く願っても、それだけでは相手を振り向かせられない現実の頑なさが、個々の場面から強烈なリアリティを持って迫ってくるのだ。
 大ヒットした『君の名は。』で初めて新海誠を知った人は、この作品で、少し憂鬱な気分に浸ってみるのも良いかもしれない。

ウマ娘 プリティーダービー

【評価:☆☆☆】
 全話視聴済み、原作(スマホゲーム)未プレイ。
 美少女に擬人化された競走馬の話と聞いて、1〜2話見て鼻で嗤ってやろうと思ったのに、予想を遥かに超える面白さで、結局、毎回ワクワク・ハラハラしながら完走してしまった。戦艦や怪獣の擬人化ものとは段違いだ。2018年春アニメは不作(というより凶作)だったが、リメイク・続編を含めた全作品中、本アニメを最も高く評価する。
 何と言っても、疾走するウマ娘たちの姿が躍動的で美しい。ゲートが開いた瞬間、着飾った女の子がいっせいに走り出す光景は、それだけで見る者をウキウキさせる。人間の陸上競技を描いても、こうはいかない。人間の場合には、「現実」という枠に表現が制約され、見る側も自身の体験と重ね合わせるので、どこか重苦しさがつきまとう。しかし、ウマ娘となると、表現の自由度が大幅に増す。
 レースはタイムにして1〜2分、出走頭数も10人ほどなので、ただ全速力で走り抜ければ済むものではなく、駆け引きが重要。ウマ娘たちは、スピードを何段階にも切り替えられるため、前半では空気抵抗を減らすべく後方に位置取り、途中からダッシュするのが一般的な戦略で、力強く地面を蹴ると、人間には不可能な高速ピッチ走法に変わる。これを下手なアニメーターが描くと、手足をチョコマカ動かすギャグにしかならない。しかし、P.A.WORKSのアニメーターは、さすがに力量がある(作画監督はサテライトの椛島洋介)。動画枚数がそれほど多いようには見えないのに、中割のタイミングがしっかりしているからだろう、スピードアップしたことがはっきりわかる。
 何人かのウマ娘は極端な前傾姿勢を取るが、後方に尻尾がたなびいて、惚れ惚れするほど端麗である。前後左右と視点を変えても、描写にブレがない。空気の流れを描き込む技も冴える。
 ウマ娘たちの個性も、きちんと描かれる。例えば、メジロマックイーンがチーム・スピカに加入したとき、他のメンバーがお辞儀をしているのに、サイレンススズカだけが頭を下げていない(第6話)。こうした描写は、心根は優しいのに、プライドの高いスズカの性格を的確に表す。レースで追い越されるとき「無理〜!」と叫んだり、寝言が「もう食べられない」だったりと、ウマ娘たちの口癖が共通しているのは、見事なギャグ。
 登場するウマ娘たちは、ほとんどが実在の競走馬をモデルにしており、歴史的事実をうまくエピソードに取り込んでいる。主要キャラとなるスペシャルウィーク、セイウンスカイ、エルコンドルパサー、グラスワンダーは、現実でも同期(95年生まれ)のライバルで、1歳年長のサイレンススズカとともに、レースで戦った。競走馬の活躍期間は3歳から5,6歳まで、年数回のレースに出場するだけなので、これほど実力の拮抗する同世代馬が競い合うのは珍しい。
 アニメに描かれた弥生賞でのスペシャルウィークとセイウンスカイ、毎日王冠でのエルコンドルパサーとサイレンススズカの一騎打ちは、現実のレースをかなり忠実に再現したもの。ただし、これ以外については、出走ウマ娘やレース展開などで史実と異なる描写も多い。当時は外国産馬の出走が制限されており、アニメのように、エルコンドルパサーがダービーに出ることはできなかった。
 また、実際に起きた悲劇的な出来事については、視聴者のショックを和らげるような描き方をしている。
 それ以外の馬についても一言。
○シンボリルドルフ(1981年生まれ)…人呼んで皇帝。日本競馬史上の最強馬だと口角泡を飛ばして熱弁を振るうオジサマが多い。
○マルゼンスキー(74年)…実力No1なのに海外での受胎馬のため主要レースに出られず、唯一のチャンスだった有馬記念の直前にケガで引退。悲運の名馬として伝説になった。
○ハルウララ(96年)…地方競馬100連敗の記録と競走馬らしからぬほのぼのした名前で人気を呼んだが、ある日、突然馬主が変わって姿を消した。
○オグリ様(85年)…オグリ様です。誰が何と言おうと、オグリ様です。

ひそねとまそたん

【評価:☆☆☆】
 ミリタリーとファンタジーの要素がほどよく混じりあっており、前半は佳作と評価できるが、ラストはいただけない。
 日本には太古の昔からドラゴン(ないし他の幻獣やあやかし)が棲息し、政治に関与してきた−−という設定は、ファンタジーの一類型だが、そのドラゴンが、現代の航空自衛隊で戦闘機に擬態して日々空を舞っているというのは、心躍る空想である。このアイデアは総監督・樋口真嗣によるもの。彼が監督した実写映画『日本沈没』(06年)の撮影中、成田空港で航空ファンとともに次々と離着陸する飛行機を見ているうちに、「もしかしたら、あの中に飛行機じゃないヤツも紛れ込んでいるんじゃないか」と妄想、この話を脚本家の岡田麿里にしたところ面白がったのが発端だという(【インタビュー】特撮映画の名手・樋口真嗣が描く“お仕事アニメ”の本気度。航空自衛隊とドラゴンと…異色だらけの話題作『ひそねとまそたん』エンタメステーション(2018.04.15))。
 2014年の日本アニメ(ーター)見本市で発表され、後に長編化されNHKで放映されたアニメ「龍の歯医者」(原案:舞城王太郎、監督:鶴巻和哉、音響監督:庵野秀明)でも、空飛ぶ船に艤装された巨大な龍が登場するので、ドラゴンとメカを合体させるという発想は、ガイナックスで『ふしぎの海のナディア』や『新世紀エヴァンゲリオン』の制作に携わった庵野・鶴巻・樋口が共有する幻想なのかもしれない。
 航空自衛隊をフィーチャーするため、所々にミリタリー要素が見られるものの、バトルシーンはなく、むしろメカの極みとしての戦闘機を描くことに重点が置かれており、ミリタリー嫌い(でもメカ好き)の私にも楽しめた。戦闘機の発進や、整備作業でのギアダウン・エルロン調整の描写は、思わず「おぉ〜!」と身を乗り出してしまうほどマニアックである。

 このアニメを鑑賞する際にポイントとなるのは、ファンタスティックな設定やほんわかとしたキャラデザ(青木俊直)と、岡田麿里による「毒のある脚本」という取り合わせを、受け入れられるかどうかどうかである。私の評価を言わせていただければ、前半では両者がうまくかみ合って楽しめたものの、物語が大きく動く第8話以降は、話の展開が急すぎて脚本が設定から遊離し、それまで作り上げてきた作品世界が損なわれてしまったように感じる。
 『true tears』『放浪息子』『花咲くいろは』などに見られるように、岡田の脚本には、悪意がないのに周囲を傷つける、無神経で同調性の乏しい女性がしばしば登場する。他者の心が読めず自発的に行いを改めることはしないが、それでも悪意がないので周囲としては怒りようがない。まことに扱いにくい存在である。
 『ひそねとまそたん』では、主人公のひそねが、このタイプである。ふつうの人間には理解されにくいものの、ドラゴンのまそたんと整備士の小此木とは、なぜか心が通じる。ひそねがDパイ(ドラゴン・パイロット)としてまそたんを操縦できるようになるまでを描く序盤、他のDパイとの交流や不和を描く中盤は、かなり面白い。
 萌えアニメに登場する女性グループとは異なり、ひそねを含む同僚女性5人は、全員がそろいもそろってパーソナリティ障害を伺わせる変人たちで、男性目線で見ると可愛げがないだろう。だが、彼女らの心情に思いを寄せると、苦労しながら課題をやり遂げる過程に共感できるはず。2クールのアニメにして、同僚女性の描写を何倍かに増やした方が、見応えのある作品になったろう。
 1クールという制約からか、岡田は、この路線で話を膨らませることはしない。ひそね以外の描写が不充分なまま第8話で方向を転換、新しいキャラを導入して別の物語を語り始める。残念なことに、新キャラは、具体的な出来事ではなく過去の因縁を用いて性格付けされるため、リアリティに欠ける。結局、終盤では、同僚女性は脇に追いやられ、新キャラは共感できるほど内面が描かれず、訴えかけるものがないまま話が先へ先へと進んでいく。ラスト2話になると、重大事件に直面したひそねら何人かが、くるくると行動方針を変えるものの、その動機について説得力のある叙述がなされない。
 実は、終盤でジタバタするのは、岡田の脚本では毎度のことだ。構想力のある脚本家は、話の流れに無理が生じないような落とし所を見つけておくが、岡田は、そこまできちんと考えずに執筆を始めるのだろう。自然と内面が表出される台詞や、キャラの実情を象徴的に表す場面(例えば、Dパイが吐瀉物とともにベトベトになって吐き出されるところなど)には、岡田の才能が輝いているものの、全体的に見ると、骨格のしっかりした物語とは言い難い。『true tears』は、岡田を含む3人の脚本家がローテーションを組んでバトン形式で話を進めたため、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ(第1期)』は、岡田が参加する前に監督らがプロットを練り上げていたため、構成がかっちりした作品に仕上がった。だが、それ以外では、構想力の弱さを感じさせるものが多く、特に、ここ数年のテレビアニメ(『M3-ソノ黒キ鋼-』『迷家-マヨイガ-』『キズナイーバー』『鉄血のオルフェンズ(第2期)』など)では、その弊が目立つ。
 時間をかけて作品の構成をじっくり練り上げるという方法論を彼女が会得すれば、日本アニメを飛躍させる大脚本家に成長すると思えるのだが、どうだろうか。

銀河英雄伝説 Die Neue These

【評価:☆】
【ネタバレあり】
 日本アニメはここまで堕ちたかと慨嘆を禁じ得ない作品である。
 簡単に作品概要を述べておく。
 原作は田中芳樹が執筆した小説で、1982年から87年にわたって、徳間文庫から本伝全10巻・外伝全4巻(後に短編集1巻を追加)が刊行された。
 最初のアニメ化は1988年から2000年に掛けて行われ、主にOVAの形で発表された。以下のレビューでは「旧作」と呼ぶ。アニメ界のレジェンド・石黒昇が(一部を除いて)総監督を務めており、傑作の誉れ高い。
 一方、ここで取り上げるのは、2018年に発表された新シリーズ『銀河英雄伝説 Die Neue These』の第1期(テレビ版)「邂逅」全12話。以下、【作画】【物語】の2点を中心に、旧作と比較しながらレビューする。

【作画】
 アニメ制作を請け負った Production I.G が、旧作との差異化を図るために全力を傾注したのは、CGを多用した作画だったようだ。しかし、「何をどう描くべきか」という基本が疎かにされたため、表面的な派手さが目につくばかりで、作画の質はきわめて低いものとなった。
(1) 人間の描写:
 アニメは、ドラマを「動く絵」で表現する芸術である。実写映画ならば、カメラを回すだけでさまざまな情景を撮影できるが、アニメでは、一枚一枚作画しなければならない。このため、細密な描き込みは難しく、要所を押さえるテクニックが重要になる。心理描写の場合、未熟なアニメーターは、顔の表情に重きを置きがちだが、より肝心なのが、体幹の描き方である。
 明確に意識化されない情念は、腰の位置と、それに対する上体や四肢の関係に端的に現れる。『千と千尋の神隠し』制作中の宮崎駿を取材したNHKのドキュメンタリーでは、豚に変えられたことが信じられない千尋が声を限りに両親を呼ぶシーンで、若手アニメーターにダメ出しし自分で描き直す宮崎の姿が映し出された。このとき宮崎が描いたのは、少し前屈みになって両の手を胸元に引き寄せ、足許が定まらずに踏み惑う千尋の姿。彼女の心細さと必死さがダイレクトに伝わる、さすがの作画である。
 『銀河英雄伝説』旧作では、宮崎アニメと同様に、キャラの体幹がきちんと描き込まれていた。いくつかの実例を挙げよう。
 旧作OVA第2話「アスターテ会戦」Aパート終わりからBパートにかけて。中央突破戦法を逆手に取る敵の動きに気づくと、厳しい顔で座していたラインハルトは、前のめりになって「何っ!」と呟き、前傾姿勢のまますっと立ち上がる。だが、立ちすくんだのも束の間、すぐに体を横に傾けると、両手を肘掛けに置きストンと腰を下ろす。高揚感が吹き飛び、一瞬の動揺と狼狽を挟んでから、現実を直視できるようになるまでの心の動きが、見事に体現されたシーンである。
 一連のシーンの終わり、副官のキルヒアイスが、保護者のように優しい物腰で、「どうなさいます? 反転迎撃なさいますか」と声を掛けると、ラインハルトは完全に我を取り戻し、上体をわずかにひねって冷静に応答する。ほぼ完璧な戦略家であるヤン・ウェンリーに対して、ラインハルトは、カリスマ性こそ圧倒的であるものの、知謀に関して粗略な点がある。これを補うのが、大局観に優れ他者への共感に溢れたキルヒアイスで、アンネローゼの頼みもあって、真摯にラインハルトを見守る。二人の関係性が的確に表現されたのがこの場面であり、(特に女性の)ファンの胸を熱くする。
 ところが、新作の第2話「アスターテ会戦」では、ラインハルトとキルヒアイスが棒立ち状態のまま並んで会話するさまが、顔のクロースアップによって描かれるだけ。二人とも同じようにおたおたしており、「常勝の天才」が聞いて呆れる。
 もう一つ、旧作第14話「辺境の解放」で、同盟軍を陥れるラインハルトの機略を察知したヤンが、ウランフ提督に占領地を放棄して撤退することを進言するシーン。その場にいるのはヤンと副官のフレデリカのみ。きりっとした表情で機械を操作するフレデリカとは対照的に、ヤンは左手を卓に置き体を開き気味にして、ウランフが映る小さなモニターを覗き込む。総司令部の方針に反して独断で撤退を画策せざるを得ない重苦しい雰囲気が、巧みに醸される。
 一方、同じ場面を描いた新作第11話「死線(前編)」では、巨大なスクリーンを使ってウランフと会話するヤンの周囲に、4名の部下が何をするでもなくボーと突っ立ち、数百万将兵の命運が懸かった深刻な謀議であるにもかかわらず、「われわれの提督は賢いなぁ」とでも言いたげに薄ら笑いを浮かべる。見ていて胸クソが悪くなるシーンである。
 体幹を描くテクニックは、ヌードデッサンなどの基礎練習を繰り返すうちに身に付くものなので、にわか仕込みのアニメーターには難しいのかもしれない。もっとも、ここ数年のテレビアニメでも、『ふらいんぐうぃっち』『クロムクロ』『Wake Up, Girls!』など、人間の作画がしっかりした作品が少なからずあり、これらと比べると、『Die Neue These』の出来の悪さは突出している。
(2) CG:
 激しい戦闘場面でのCGこそ新作の売りなのだろうが、アイキャッチ効果があるだけでエモーショナルでない。CGがドラマに絡んでこないのである。
 このことを如実に示すのが、ウランフ戦死のシーン。旧作第15話「アムリッツァ星域会戦」では、味方の艦船を逃がすため後詰めで応戦していた旗艦に、ビーム砲が撃ち込まれる。爆風で背後の壁まで飛ばされ前のめりに倒れたウランフは、定位置で仰向けに倒れた参謀長と頭を並べる態勢となり、体を動かせないまま囁くように言葉を交わす。「参謀長、味方は脱出したか」「半数は…」「そうか」−−胸を衝く名シーンである。
 これに対して、新作第12話「死線(後編)」になると、艦隊戦を描く派手で空疎なCGが延々と続いた後、艦橋にいるウランフと参謀長の姿が爆煙(CG動画ではない)で覆い隠されるシーンとなる。画面外から二人のやり取りが聞こえるや、目を閉じたまま「そうか」と呟くウランフのアップとなってフェードアウト。つまり、派手なCGと人間が動く姿は、同時に画面に現れることがないのである。これは、CGスタッフと人間を描くアニメーターの連携が取れていないことを意味する。なるほど、CGがドラマに絡まない訳だ。
 そもそも、新作のCGスタッフは、原作をろくに読んでいないようだ。アスターテ会戦の終盤、ヤンとラインハルトの軍が、互いに相手の後背に食らいついてリング状の陣形となる。旧作が静止画で表現したこの状況を、新作は、モニター映像で示すのだが、1秒ほどの周期でクルクル回っており、どう見ても、両軍併せて数万の艦船が広大な宇宙空間で戦う光景ではない。何をどう描くべきか、スタッフ自身が理解できていない。
 小型戦闘機(スパルタニアン/ワルキューレ)による攻防戦は、新作でも何回か描かれるが、目まぐるしい動きばかりが強調され、3次元的な画面構成がおざなりにされるために、戦況の把握すら困難である。
 旧作第1話で描かれたアスターテ会戦序盤では、先手を取ったラインハルト陣営のワルキューレが空母の艦載機を重点的に破壊し、相手の機動力を奪ったことが、引きの映像で示される。ところが、戦術上重要なこの作戦が、新作では映像化されていない。
 帝国領侵入中に逆襲された同盟軍が、ポプランらエースパイロットをスパルタニアンで出撃させる場面。旧作第15話では、まず発進するポプランの主観映像から始まり、視点を細かく変えながら戦闘機同士による空中戦が描かれる。その後で、戦闘機を艦砲の射程に誘い込んで撃滅する帝国側の戦術が、客観的な視点から描写されるので、実にわかりやすい。一方、新作第12話では、発進したポプランらが敵と遭遇するまでは迫力があるものの、それからは戦闘機が画面狭しと動き回るばかりで、誰がどのような状況にあるのか判然としない。
 新作のCGは、小型戦闘機周辺だけを捉えた寄りの映像が中心であり、まるで戦争シミュレーションゲームの戦闘シーンのようだ(それとも、このアニメ自体が、ゲーム会社に売り込むための営業用サンプル動画なのか)。全般的に、新作は戦術を叙述することに無関心で、派手な映像を見るだけで喜ぶ(何も考えない)視聴者を想定したとしか思えない。

【物語】
(1) シリーズ構成:
 今回アニメ化されたのは、原作第1巻「黎明篇」のうち、序章から第8章「死線」まで。最大の山場である第9章「アムリッツァ」と、終幕となる第10章「新たなる序章」は、2019年公開予定の劇場版「星乱」全3話の冒頭に繰り込まれるらしい。
 なぜ、まとまりの良い「黎明篇」全編をアニメ化しなかったのかは不明。第8話の放送翌週に、キルヒアイス役の声優が作品紹介を行う退屈な特別番組「キルヒアイスのイゼルローン訪問記」が挿入されており、制作が間に合わなかったのかもしれない。
 旧作では、OVA第15話が「死線」の後半と「アムリッツァ」に相当するが、それ以前に外伝のエピソードなど3〜4話分が挿入されていたので、旧作・新作とも、同じ分量のストーリーを12話ほどにまとめたことになる。にもかかわらず、新作はいかにもスカスカで、単に粗筋を紹介するだけのような印象を受ける。
 全26話を使って原作の第1,2巻を描く旧作第1期では、戦闘シーンの派手な「死線」〜「アムリッツァ」をシリーズ真ん中より少し後ろにずらし、その手前に、敢えて本筋から離れたエピソードを挿入した。おそらく、シリーズ構成の河中志摩夫が、外見だけ派手で中身が空っぽなアニメにしないために、激しい戦闘以前に人間を描くべきだと考えたからだろう。
 新作のシリーズ構成には、こうした配慮が全く感じられない。年代記風の原作を大きく膨らまし、登場人物の内面に踏み込んだ旧作に対して、新作では、人物描写が杜撰で、ド派手なCGにばかり頼っている。それが、作品を空疎で見応えに欠けるものにした。
(2) 脚色:
 原作第1巻をそのまま映像に起こすだけでは1クールに届かないので、旧作・新作ともに尺を伸ばす工夫をしている。ここでは、双方で取り上げた「カストロプ動乱」のエピソードを比較しよう。
 これは、原作でわずか数ページ(徳間文庫版p.220〜p.226、鎮圧したキルヒアイスの事跡に関しては1ページ足らず)、動乱の概要が淡々と記されただけのエピソードなので、映像化するためには、具体的な情景をアニメーターが考案しなければならない。
 旧作では、首謀者マクシミリアンが、賄賂で得た莫大な資金で高価な防御兵器を購入、これを鉄壁だと信じて、古代ローマ風の居宅で淫蕩に耽るさまが描かれる。キルヒアイスによって防衛ラインが破られると、忠実な手下を身代わりに仕立てて逃亡しようと図るが、その手下に裏切られ殺される。欲にまみれた人間の愚かしさが、生々しく浮かび上がる。
 一方、新作になると、マクシミリアンは司令官として艦隊を指揮、キルヒアイスの策にはまって危地に陥ったのに、降伏勧告を受け入れず、腹立たしげに部下を打擲するばかり。結局、そのままでは生きる道がないと悟った部下に殺される。帝国に歯向かうマクシミリアンの心情には触れられず、無能な司令官が戦闘で敗北する過程を描いただけの、何の深みもない軍事エピソードでしかない。

【声優】
 旧作は、洋画の吹き替えを担当したことのある声優が多い。吹き替えをする際には、表情の裏を読み取り微妙なニュアンスを付けることが要求されるので、心理表現が巧みになる。これに対して、アニメ専門の声優は、声のトーンを大きく変えるのは得意だが、トーンを一定にして表情を付けるテクニックが未熟になりがち。
 『Die Neue These』の声優たちは、かなり頑張ってはいるが、それでも、旧作の若本規夫(ロイエンタール役)や塩沢兼人(オーベルシュタイン役)らの練達の技と比較すると、どうしても聞き劣りする。

【音楽】
 旧作は、マーラー、ブルックナー、ドヴォルザーク、チャイコフスキーらの名曲を、アレンジせずに使用している。クラシック音楽は、音色の豊かさ、ダイナミックレンジの広さ、構造の複雑さなどの点で、一般的なポップスとは段違いであり、音楽の持つパワーは圧倒的である(ただし、ビート感に欠けるので、音楽とともに体を動かすのが好きな人には、退屈だろうが)。旧作OVA第1話の冒頭、マーラーの第3シンフォニー(渋い選曲!)とともに重々しいナレーションが流れると、壮大な歴史物語の始まりを予感させ、胸が躍る。
 新作では、情景に適したBGM風の楽曲を流しており、良く言って無難である。

【キャラ】
 今風のキャラクターデザインにアニメファン歴30ウン年の私が文句を付けるべきではないのかもしれないが、ラインハルトがただのボンクラに見えてしまうのはいかんともし難い。旧作で、かつての猛将も歳を重ねて判断力が鈍ったかと思える描き方だったロボス司令長官が、新作では、無能を絵に描いたような顔立ちになっており、笑ってしまった。
 特に酷いのは、アンネローゼ、フレデリカ、ジェシカら女性陣で、あまりにありきたりなキャラデザなので、途中で他のアニメの似たキャラとすり替えても、誰も気づかないだろう。

ルパン三世 PART5

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 宮崎駿以降のアニメ作品で、最良のルパンと言って良いだろう。

【宮崎ルパンとの関係】
 モンキーパンチの原作漫画(1967年〜)は、アクションを主体にハードボイルドとエロティシズムの要素を加えた大人向け作品で、後期になるほどスラップスティックの味わいが濃くなる。
 宮崎駿は、テレビアニメ第1シリーズ(71年)で、低視聴率のために降ろされた大隅正秋に代わって途中から高畑勲とともに監督を務めたものの、すでに作画がかなりできあがっていたこともあって、独自性はそれほど感じられない。しかし、脚本・監督を担当した劇場用第2作『ルパン三世 カリオストロの城』(79年)になると、原作と全く異質の人情味あふれるルパン像を確立、名前を隠して参加した第2シリーズ第145話「死の翼アルバトロス」と最終第155話「さらば愛しきルパンよ」で、その方向性をさらに推し進めた。
 宮崎ルパンは、国家的規模の陰謀を扱う骨太のプロットを持ち、そこに笑いとアクションを適度にまぶしたウェルメイドな作品で、ハードボイルドとエロティシズムの要素は微塵もない。登場人物も、人間性豊かな生き生きとした姿に描き出される。「金持ちの3代目が、ヒマをもてあまし、倦怠感を漂わせていた」第1シリーズ当初のルパンは、「イタリア系の貧乏人で…(中略)…なにかオモシロイことないかと目をギョロつかせている」キャラに変更された(宮崎駿『「ルパン三世」とのかかわり』大阪アニメポリスペロ2周年記念講演)。次元は、本人はダンディなつもりなのに他者から見ると結構ダサいガンマニア、不二子は、肉体をチラつかせて男を利用するキャバ嬢的キャラから、独りで逞しく生き抜く現代女性へと変わった。
 こうした宮崎ルパンは、後続作品の制作者にとって、乗り越えるにせよ迂回するにせよ、常に意識せざるを得ない壁となった。毎年のように制作される日本テレビのスペシャル版は、宮崎に倣って、巨大な陰謀とウェットな人間関係を扱うストーリーが多いものの、『カリオストロの城』ほど感動的ではない(と思う。一部しか見ていない)。逆に、宮崎が抑制したエロティシズムや暴力性を前面に打ち出したのが、テレビアニメ第3シリーズや次元/五ェ門をフィーチャーしたスピンオフ作品だが、過激な表現ばかりが目についてストーリーに深みが感じられない。
 これらの後続作品に比べると、『ルパン三世 PART5』は、原作漫画とも宮崎ルパンとも距離を置きながら、内容豊かな見応えあるアニメとなった。これは、シリーズ構成の大河内一楼と、各エピソードを担当した脚本家たちの功績が大きい(最終回ラストを見た後で第1話冒頭を見直すと、シリーズ構成のうまさがよくわかる)。

【設定とシリーズ構成】
 本アニメでは、(宮崎ルパンに登場する)「世界経済を裏で操る黒幕」や「原爆を売る死の商人」といった、大仰でリアリティに欠けた悪役は避けられ、ネットで一儲けをたくらむ企業人のように、現代的なこすからい半悪党が中心となる。次元は、クールで凄腕のガンマンという本来の設定で登場するが、原作漫画ほど冷酷ではなく、時に人情味を見せる。不二子は、逞しい現代女性である一方で、利用できるときには色仕掛けも忘れない。新ヒロインのアミやドルマは、運命に翻弄される立場にありながら、ウェットな人間関係に縛られない陽性のキャラである。こうしたキャラ設定は、宮崎ルパンから利用できるところだけ拝借し、それ以外は現代のファンにアピールするように新たに創作したものである。
 特筆すべきは、巧みなシリーズ構成。悪役のスケールが小さいこともあり、2クールを一貫したストーリーで無理にまとめることなく、それぞれ4〜5話から構成された短い長編4編と、単発エピソードとなる短編7話に分割した。しかも、長編のうち3編でアミが重要な役割を演じており、独立した話を束ねた構成でありながら統一感が保たれている(長編と短編を有機的に組み合わせたシリーズ構成には、『機動警察パトレイバーTV版』や『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』などの先例がある)。
 短編のシナリオは、大河内を含む7人の異なる脚本家によって執筆されており、変化に富む。特に私が好きなのは、それぞれ五ェ門と次元を主役にした第12話「十三代目石川五ェ門散財ス」と第19話「7.62mmのミラージュ」、それに、古典的ミステリの愛すべきパロディである第17話「探偵ジム・バーネット三世の挨拶」だ。
 長編4編のうち3編は大河内が一人で脚本を書いており、いずれも情報技術(IT)が大きなテーマとなる。ITは、社会全般に関わり、スマホやSNSを通じて誰にとっても身近でありながら、その実態は専門家以外には理解できない。使い方によって、煩瑣な業務を一瞬でこなし、見知らぬ人とのコミュニケーションを可能にする便利なツールにもなれば、個人情報を抜き取り日常生活を見張る監視網としても機能する。こうした特性があるからこそ、「国家的陰謀を画策する巨悪」のような実感の沸かないキャラを登場させなくても、ITという現実的な対象が、善と悪の二面性を持った巨大な存在としての役割を担える。

【ITの光と闇】
 凄腕ハッカーであるヒロインのアミは、専用AIを「Hello Underworld!」というパスワードで呼び出す。この元ネタとなるのが、プログラミング初学者用テキストの1ページ目にきまって記される《あれ》。画面に「Hello world!」と表示させるだけの、単純なのに意味深なプログラムである。
 世界最初の実用コンピュータENIACは、スイッチや配線を切り替えて動作させる単なる計算マシンだった。ところが、ENIAC開発に協力したフォン・ノイマンが「プログラムをメモリーにロードする」という天才的な閃きを得たことで、さまざまなソフトウェアをインストールしさえすれば、アルゴリズムに基づく任意の情報処理が原理的に実行可能となり、人工的な知性(AI)への道が拓かれた。こうした知性が世界に向かって初めて発する言葉が、「こんにちは、世界」なのである。
 アミは、巨大化した電脳空間を世界に見立て、人間の側から逆に「Hello Underworld!」と呼び掛ける。アニメで描かれるハッカーは、しばしばキーボードを猛烈な勢いで打ち続けるが、現実のシステムエンジニアは、ショートカットやマクロを駆使するので、ホームポジションでキーを連打することはあまりない(私のようにフォルダーを移動するのにフルパスを打ち込んだりするのは、オールドファッションドな人間だけである)。SiriやAlexaに対するようにコマンドを音声入力するアミは、先進的な次世代ハッカーの姿を示す。
 『ルパン三世 PART5』で描かれるITは、情報社会の実相を的確に捉えたものである。第1話には、あらかじめ仕込んでおいたバックドアを使って不正アクセスし、電子マネーを盗み出す手口が紹介されるし、第3話では、工場に侵入したアミが、デフォルト管理者名とパスワードを入力するだけでシステムを乗っ取る。いずれも、きわめて今日的な話題である。
 第4長編(EPISODE IV)では、個人の実生活をネットですべて暴く「ヒトログ」なるシステムが登場するが、これを開発したのが、Facebookの創業者ザッカーバーグを思わせるアグレッシブな企業人であるのは、実に示唆的だ。Facebookでは、誰がどのメッセージに対して「いいね!」ボタンを押したかがデータとして収集されており、充分な量のデータが集まると、AIを使った分析によって、当人の性別や趣味はもちろん、収入や政治信条もほとんど丸わかりになるという。現在は、ターゲッティング広告の表示に利用されるが、それだけで留まるかどうか。善意で開発されたITのシステムが、いつまでも善意に基づいて運用されるとは限らない。
 ヒトログは、もはや単なる絵空事ではない。Googleで何を検索したかがわかれば個人情報は無尽蔵に手に入り、アンドロイド端末に搭載された位置情報アプリを使うと、どこにいるかもバレバレとなる(どちらのデータも、Googleが自社のサーバに蓄積している)。至る所に設置されている監視カメラと顔認証システムを組み合わせれば、町中でのプライバシーはないも同然。『ルパン三世 PART5』では、この問題に対してルパンがどのように対処したかが、第23話「その時、古くからの相棒が言った」で示されるが、これは解決策と言うよりも、さらなる恐怖の淵源となる。
 コンピュータやハッカーを描くアニメは数多いが、本作は、『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』『PSYCHO-PASS サイコパス』などとともに、ITをリアルに描いた数少ない例だろう。

 ここ数年、テレビアニメの質は低下の一途を辿っており、2018年春・夏シーズンは不作どころか凶作と言うべき状況だったが、続編・リメイクを含む全作品の中で、『ルパン三世 PART5』は『ウマ娘 プリティーダービー』に次いで高く評価できる佳作である(我ながら何て趣味だ!)。

リトルウィッチアカデミア

【評価:☆☆☆】
 名脚本家・島田満(みちる)の遺作となった作品である。
 島田は、80年代に人気アニメの脚本を次々と執筆したことで知られる。私も、心惹かれたエピソードのクレジットに、伊藤和典や金春智子らと並んで島田満の名が頻繁に現れることに気づき、脚本家の重要性を認識するきっかけとなった(当時はミツルという男だと思っていた)。特に好きなのが、『うる星やつら』の第119話「かがやけ! あこがれのブラ!!」や第145話「キツネのかた想い 恋すれどせつなく…」で、繰り返し何度も見た(純情キツネがカワイイ!)。『魔法の天使クリィミーマミ』の第37話「マリアンの瞳」、『ダーティペア』の第23話「不安だわ…!? うちらの華麗なる報復」も面白い。
 島田脚本の最高傑作は、1995年に『世界名作劇場』の枠で放送された『ロミオの青い空』(全話の脚本を執筆)だろう。登場人物の人間性をくっきりと浮き彫りにしており、教条的な原作小説より格段に優れている。中でも、副主人公のアルフレドは、原作と大幅に異なる知的で高潔なキャラに変更され、見る者に鮮烈な印象を残した。
 その後は、『るろうに剣心』『金田一少年の事件簿』『ワンピース』などで健筆を振るったようだが、私はあまり見ていない。唯一興味を持ったのが、シリーズ構成も担当した『ななついろ★ドロップス』(2007年)。18禁エロゲーを、気恥ずかしくなるほどの純愛物語に作り替えるという大技を見せた。10年代に入ってからは、(『リトルバスターズ!』(2012年)が楽しめなかったせいもあって)あまり注目していなかったが、最後に素敵なアニメを遺してくれた。それが、魔法学校に集う少女たちを描いた『リトルウィッチアカデミア』である(シリーズ構成を担当)。
 この作品は、若手アニメーター育成のためのプロジェクト「アニメミライ2013」に出品された短編(未見)に始まるシリーズの一編。短編が好評を得たことから、クラウドファンディングで資金を調達して劇場版『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』(2015年)が制作され、さらに、2017年にテレビアニメが放送された。島田は劇場版から参加。劇場版も悪くないが、何と言ってもテレビ版が秀逸である。
 『ハリー・ポッター』シリーズが爆発的な人気を呼んだこともあって、日本のサブカル作品でも、「魔法学校」という設定が頻繁に使われる。ただし、私の見る限り、成功と言える作例は少ない(『ハリー・ポッター』の映画化作品も、私は全く評価していない)。そもそも、魔法という反則的な技を使うからには、それに見合うだけのストーリーの論理性・整合性が必要なのに、そこまで気を配った脚本が見当たらないのだ。『魔法少女まどか☆マギカ』『空の境界』では、魔法が持つ潜在的な脅威や、それに伴う精神的負担に目が向けられた。だが、(魔法を容認する社会体制を暗黙の前提とせざるを得ない)魔法学校を舞台にする場合、作中で魔法をどう位置づければ良いのか? 並の作者は、魔法を「便利な裏技」として描くことしかできない。
 テレビ版『リトルウィッチアカデミア』で、島田は、善と悪の闘いとか家族の愛といった薄っぺらなテーマに逃げることはしない。彼女が描いたのは、魔法がもたらす「人生のアイロニー」である。夢を与えてくれるものが夢を奪い、最も敬愛する人が自分を最も傷つける。そんな事実を突きつけられて、なお前向きに生きるためには、何が必要なのか。すべてを鮮やかに解決してくれる“魔法”があるわけではない。心温まる展開でありながら、どこかほろ苦さを残す物語は、子供よりも、むしろ大人の心に沁みる。
 2017年に島田が58歳の若さで急逝した後、多くの人が追悼文を著したが、映画監督・金子修介の文章に泣きそうになった(『金子修介の雑記 "Essay"』2017年12月17日|livedoor Blog)。一緒に食事をしたとき、どちらもSF好きで「夏への扉」の話で盛り上がったといった些細な思い出の端々に、島田の生き生きした面影が浮かび上がる。映像化されなかった作品も多いようで、中でも、島田満、伊藤和典、じんのひろあきという超豪華脚本陣によるオムニバス映画『ウルトラQ ザ・ムービー』では、夢と夢が合成する「夢中デ眠ル」という怪獣の出ないエピソードを書いてもらったという。この企画が実現されなかったことは、何とも恨めしい。

ゾンビランドサガ

【評価:☆☆☆】
 タイトルから色物と思って気楽に見始めたが、意外にも、制作者のたぎる思いにあふれた熱血アニメの快作。ギャグ満載のアイドルものでありながら、少女たちの頑張りにグイグイ引き込まれ、最後には、感動大作を見た後のような爽やかな思いに胸が満たされる。
 本アニメの特長は、アイドルやゾンビをフィーチャーするアニメの弱点が、両者を組み合わせることでうまく相殺されたばかりか、逆に化学反応を起こして興奮を呼び起こすこと。2つの方向から見てみよう。
 (1) アイドルがゾンビである
 私は、アイドルアニメが嫌いである。これまで1ダース以上の作品を見始めたものの、ほとんどが数話見た段階で興味を失ってしまった。アイドルが、本人の才能や努力よりも、プロデューサーの企画力に左右される“商品”であることは、芸能界の実情を客観的に見れば明らか。この問題に目を背けて、まるで人気アイドルになることが究極の夢で、ライブに客が一人も来ないのが試練であるかのように描くアニメは、見ていて鼻白む(営業で客が一人も獲得できないなんて、大人社会では日常茶飯事)。これまで私が完走できた唯一のアイドルアニメ『Wake Up, Girls!』では、遣り手プロデューサーの冷酷な姿が的確に描出されていた。
 これに対して、『ソンビランド サガ』は、「ゾンビになってしまった」という人間存在の根幹に関わる試練が、7人の少女に突きつけられる。アイドルユニットのプロデューサー・巽幸太郎による無茶振りは完全にギャグ扱いで、芸能人として人気が獲得できるかどうかは二の次。重要なのは、いかにして人間らしさを取り戻すかである。ライブの成功は、あくまでそのためのステップでしかない。第7話や第12話のライブシーンが素晴らしいのは、単にショーがうまくいったからではなく、そこに人間としての成長が描かれているから。
 (2) ゾンビがアイドルである
 ゾンビを登場させたアニメは無数にあり、戦闘美少女がゾンビだとか、主人公がゾンビ萌えだとか、さまざまな変化球も制作されたが、「ゾンビになる」ことと真剣に向き合った作品は、ほとんどない(『スペース☆ダンディ』第4話くらいか)。ゾンビの本質を語るには死の描写が避けられないため、子供が主たる視聴者であるアニメで取り上げるのが憚られるせいだろう。
 ところが、『ソンビランド サガ』は、「ゾンビがアイドルになる」という無茶な設定を押し通すことで、ギャグで粉飾しながら死を描くことができた。登場人物の多くは、かなり悲惨な死に方をしているのだが、それをアイドルとしてのキャラ設定に使っており、あまり話を重くせずに、人の生き死にに視聴者の目を向けさせる。
 個々のエピソードは、きちんと読み解けばかなり奥深い。第2話で脱走した愛と純子が遭遇する事件は、「ただの人間であること」がそれだけでいかに大きな意味を持つかを示し、ゾンビの持つ哀しさを浮かび上がらせる。アイドル活動に乗り気になれない二人に対して、巽が口にすることば−−
「あいつらはゾンビィだが、生きようとしている。
お前らは、いつまで腐ったままでいるつもりだ」(第3話)
は、(ちょっと笑える)名台詞だ。
 主題歌「徒花ネクロマンシー」は、躍動感あふれる名曲。オープニングアニメの巽よろしく、ついつい曲に合わせてピョンピョン飛び跳ねてしまった(「年甲斐もなく」なんて言わないで!)。

SSSS.GRIDMAN

【評価:☆☆☆☆】
 当初は、次々に現れる怪獣を巨大ヒーローが倒していくだけの(大きな)子供向けアニメと軽く流し見していた。しかし、第6話辺りからしだいに深刻な展開になって引き込まれ、第10話でアカネが投げやりに最後のフィギュアを手渡したときには、昔の自分の姿と重なり本気で泣いてしまった。アニメを見て大泣きしたのは、『僕だけがいない街』第8話以来だ。2018年屈指の名作と言ってよいだろう。冒頭の何話かだけで視聴を打ち切った人は、是非、改めて最後まで見てほしい。
 原作は、1993年に放映された特撮巨大ヒーローもの『電光超人グリッドマン』。まだあまり普及していなかったパソコンを取り上げた先駆的な作品で、ヒーローも悪の首魁もコンピュータワールド内部に存在し、端末を介してリアルワールドに事態が波及するという内容。もっとも、アイデアは斬新だが、特撮が(90年代の作品としても)チープであり、大人が見るのはつらい。私は、動画配信サイトで視聴したが、数話でギブアップした。
 本アニメは、パソコン(90年代には最新鋭機だったかもしれないが、今では秋葉原でもなかなかお目にかかれないジャンク品)にヒーローが現れるという設定を原作から継承する一方、チャチなセットで表現された《コンピュータワールド》を街全体を包み込む《虚構世界》に置き換えることで、格段に深遠な内容を盛り込むことに成功した。最大の見所は、この虚構世界が異様なリアリティを持つところ。生活感にあふれながら殺風景、仲間が大勢いるのに孤独、平凡でなじみ深くて不気味。そんな生きづらさを感じさせる都市空間に、異形の怪獣たちが現れる。
 今なお制作されている実写版のヒーローものでは、怪獣/怪人の姿がいかにも作り物然としており、見る者は、自分は“こちら側”にいると感じながら、安心してヒーローの活躍を楽しむことができる。ところが、『SSSS.GRIDMAN』では、怪獣が姿を現す街の光景が、虚構のはずなのにやけにリアルで、見る者が属する現実と通底する。しかも、虚構世界自体がいくつもの階層から成っており、さまざまな階層が相互に侵食する(例えば、アカネのパソコン内部にいたはずのアレクシス・ケリヴが、いつの間にか実体化して登場する)。こうした描写と向き合ううちに、見る者は何が確実かわからず不安定な感覚にとらわれ、登場人物とともに閉塞した世界の息苦しさを感じ始めるだろう。特に、霧の彼方に「見えるのに誰も気づかない」怪獣がそそり立つ姿は、圧迫感を覚えるほど衝撃的だ。
 制作サイド(監督の雨宮哲が主導的だったと推測される)が意図的に多層構造を組み込んだことは、作画スタイルの使い分けに見て取れる。主人公の裕太、六花、将が暮らす生活空間は、錆の浮いたロッカー、蜘蛛の巣のような電線などに示される通り、陰鬱で重苦しく、不気味なほどにリアルである。ところが、怪獣とGRIDMANが闘う場面になると、一転してカラフルでキッチュな作画に変わる(それぞれ異なる作画チームが担当したという)。特に、メカが合体して巨大ロボになる過程では、マンガのように立体感のない画や、集中線を用いた過剰なエフェクトなど、完全に子供向けと思わせる表現が用いられる。そのせいで、華やかすぎて緊迫感に欠けるものの、おそらく、生活空間におけるリアルな描写との対比を際立たせるための、計算ずくの演出なのだろう。
 こうした対比的な作画スタイルは序盤から採用されており、注意深い視聴者は、かなり早い段階で気づいたかもしれない(私は、途中まで流し見していて、なかなか気づけなかった)。第2話で担任教諭とぶつかった直後、美しい音楽をバックに、がらんとした廊下の奥に佇むアカネの姿は、胸を締め付けられるほど切ない。ところが、同じ回の後半、くだんの教諭を襲う怪獣とGRIDMANのバトルシーンでは、思いっきりキッチュな作画に変わり、それをアカネがゴミ部屋でモニター越しに見て驚くという対比的な構図が採用される。一つの虚構世界がリアルとキッチュに分裂し、外側から見下ろすはずの者が、なぜかリアルな虚構と同じホリゾントに立たされるのである。
 虚構/現実という区分の曖昧さは、終盤に入るといっそう強調される。特に印象深いのが、第10話に登場する不細工な怪獣の姿。なぜノドに穴が開いているかを考えると、作品世界がいかに錯綜しているか、その一端が見えてくる。

 作画とともに指摘しておきたいのが、心理描写のうまさである。いかにも能天気に見える男性陣はそれほどではないものの、女性キャラは、ヒロインのアカネと六花をはじめ、六花の母親と友人、怪獣少女に至るまで、いずれも心理が丁寧に描写される。生きづらさから逃避しようとするアカネの苦悩は、多くの人の共感を呼ぶと思われるが、私が同じくらい惹かれるのが六花である。家でグタッと寝そべる姿は、太ももをあらわにしても色気の欠片すらなく、ただのだらしない女子高生にしか見えない。彼女は、生きづらさを受け流しながら、巧みに現実と折り合いをつけているのである。適度に距離をとった友人づきあい、熱心すぎないヒーロー支援−−ややもすれば、やる気がないように見えるその姿は、さまざまな体験を経て、世間を生き抜くための知恵を体得したことを窺わせる。そうでなければ、どうしてアカネに素敵なプレゼントを買ってあげられようか。

 一つ気になるのは、原作を提供した円谷プロが、アニメの完成度を気に入ってくれたかどうかである。近年、円谷プロはアニメに積極的に関わり始めており、ショートアニメ『怪獣娘』(公認プロジェクト)やNetflixでの世界同時配信が決まったフル3DCG『ULTRAMAN』(原作提供。神山健治と荒牧伸志のダブル監督って、なんか心配だな〜)などがある。『SSSS.GRIDMAN』もその一環であり、テレビ放送の最終回では、本編に続いて、GRIDMANが特別出演した『ULTRAMAN』の番宣が放映された。だが、本アニメの方向性は、もともとの巨大ヒーローものとはやや異質であり、作品世界の構造や登場人物の心理に重点を置く。古典的なヒーロー像にこだわる円谷プロと、制作スタッフの間に、軋轢が生まれていなければ良いのだが。

やがて君になる

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 女性同士の親密な関係を主題とするいわゆる「百合アニメ」は、これまで数多く制作されてきた。だが、登場人物の心理を細やかに描出し、最上級の文学に劣らない感銘を与えてくれる作品は、(他ジャンルならばいくつもあるのに)百合アニメにはほとんど見当たらない。理由を推測するに、制作サイドが女性同士の恋愛感情を的確に把握できていないからだろう。
 女性同性愛者を含むLGBTの割合がどれくらいか、さまざまな調査が行われているが、かなり信頼できるデータとして、7〜8人に一人という数字がある。「生涯の一時期に異性よりも同性に惹かれる体験をした」という緩やかなケースならば、3割以上とも言われる。つまり、同性愛とは、異常でないのはもちろん、少数ですらない。ごく身近に存在する当たり前の恋愛であり、日常的な出来事として描かれて然るべきなのだ。
 ところが、百合アニメでは、制作する側が(恋愛以前のケースも含めた)女性同士の親密さを特異なものと感じるせいか、意図的に日常性から遊離させた表現が少なくない。乙女たちの夢の園を具現させた『マリア様がみてる』は、親しみやすくはあっても過剰に理想化されている。「同性愛者である同性への片思い」という報われそうで報われない恋心をアイロニカルに描いた『ささめきこと』は、肝心な場面でギャグに逃げてしまう。『ユリ熊嵐』は、アニメとして優れているものの、同性愛は現代社会の不寛容を炙り出すためのきっかけでしかない。他の百合アニメも、現実離れした理想化やギャグへの逃避、あるいは身体的接触の過激な表現に重きを置き、女性同士の内面的関係性を深く掘り下げることはない。私の知る限り、唯一の例外は、女子高生同士の友情以上・性愛未満の関係を儚く美しく描いた傑作『青い花』である。
 『やがて君になる』は、女性同士の交流を日常性の中で表現した、比較的真面目な百合アニメと言って良い。メインになるのは、美人で成績トップ、周囲の信頼も厚く生徒会長を務める一見完璧超人の燈子(高2)と、恋愛感情が理解できず一見クールな侑(高1)。この二人の、ちょっとちぐはぐな関係が作品の軸となって、それなりに楽しめる。
 ただし、ドラマとしては批判したい点がいろいろとある。
 燈子が完璧に見えるのは、生まれつきの才能によるのではなく、優秀な姉への過剰な思いにせかされ、懸命に演技しているから。これは、少女マンガ(例えば大島弓子『草冠の姫』)で繰り返し描かれてきた性格類型であり、特に目新しいものではない。私は、このタイプの人間を良く知っているが、外骨格で身を護ろうとするので、内面は脆い。燈子は、まさにその通りで、自分を型にはめて見ない侑に対してのみ気を許し、まるで小さな子供のように甘えたがる。問題は、外面と内面の乖離という心理的特性を持つ主人公を登場させたにもかかわらず、これがドラマに生かされないところである。
 外骨格キャラは、常に身構えて生きているので、一般に自己抑制が効く。にもかかわらず、燈子の行動パターンは、すぐに侑とキスをしたがるなど、設定されたキャラにそぐわないように見える。体育祭のリレーで敗れたときには、子供っぽい素顔を人前でさらけ出してしまう。
 燈子が自分を厳しく律して、特別な状況下でしか甘える姿を見せないならば、彼女の素顔がどんな状況であらわになるかを巡って、緊張が生じるだろう。だが、こうしたドラマチックな要素は、ストーリー展開に利用されない。
 おまけに、侑は少々のことでは動じないクールな性格であり、燈子が一方的に甘えてきても、大した葛藤なしに突き放してしまう。こうして「甘えと突き放し」が何度も繰り返されるだけで、物語の転機はなかなか訪れない。作者は、二人の関係性を変化させるために、部活対抗リレー、生徒会劇、合宿など、きっかけとなるイベントを次々と導入するものの、いずれも、内面的な緊張から生まれた行動ではないため、一貫した心理ドラマにはならず、単にイベントの連鎖だけで話が進むように感じられてしまう。
 ストーリー展開に緊張感が欠けるとしても、作画によってキャラの内面をえぐり出すことは可能なはずだ。私が百合マンガの最高傑作と高く評価する吉田秋生『櫻の園』では、二人の女子高生が「大好きよ」「うれしい もっと言って」と言葉を交わすときの表情や手の動き、首のかしげ方などによって、彼女たちの心理がくっきりと浮き彫りにされる。しかし、アニメ『やがて君になる』では、こうした細部の描写が不充分で、燈子と侑は、いつも同じような表情にしか見えない。女性同士がどのような感情を抱いて向き合うのか、アニメーターが理解できていないようだ。
 こうした中で、第6話「言葉は閉じ込めて/言葉で閉じ込めて」だけは、例外的にドラマチックである。自販機ルームで燈子の“親友”である沙弥香が侑に厳しい言葉を投げかけるシーンでは、突然、画面が90度回転して、侑を圧倒する沙弥香の気迫が画面に満ちる。あるいは、飛び石の上で燈子が「そんなこと、死んでも言われたくない」と口にした瞬間、鉄橋を通過する電車の風圧で髪が乱れる。こうした描写の一つ一つが、彼女たちの心の内をあらわにする。第6話が突出して優れているのは、絵コンテを担当したのが、あおきえい(『空の境界 俯瞰風景』『Fate/Zero』)だったからかもしれない。あおきの監督作品には、トランスジェンダーの少年少女を優しく見つめた秀作『放浪息子』があり、彼が、疎外される者の内面を描き出すことに手腕を発揮するアニメーターであることがわかる。この水準の作画が続けられたならば、もうワンランク高い評価を付けられたのだが。

まおゆう魔王勇者

【評価:☆☆】
 全話視聴済み、原作(エンターブレイン版)第1巻のみ既読。
 昨今、主にライトノベルの分野で、外部の知識を持ったまま異世界に転生するという設定が盛んに使われる(『Re:ゼロから始める異世界生活』『幼女戦記』『転生したらスライムだった件』など)。2009年に2ちゃんねるの投稿小説として発表された本作は、その比較的早い作例と言えよう。ただし、世界的に見ると、ファンタジー文学の分野では同様の設定が古くから頻繁に用いられてきた。特に、1939年に発表されたディ・キャンプ『闇よ落ちるなかれ』は、崩壊直前のローマ帝国にタイムスリップした主人公が、印刷や簿記などに関する20世紀の知識を利用して、中世という暗黒時代の到来を防ごうとする話で、いくつかのエピソードは本作とほとんど同じである。
 『まおゆう』では、魔族と人類が果てしない闘いを繰り広げる、RPGによく見られた中世風の異世界を舞台に、近現代の知識を身に付けた英明な魔王(♀)が勇者(♂)と協力して、社会改革を推し進めようとする。もし、具体的な世界情勢と、それを改革するための手法の詳細が描写されていたら、大人の鑑賞に堪える作品となったかもしれない。しかし、地の文がなく会話のみからなる原作小説は、詳しい説明を意図的に避け、掛け合い漫才のようなぬるいギャグに終始する。文学愛好家がまともに読める作品ではない(私は、1ページ数秒程度で流し読みしたが、それでも、重要な部分を読み落としたとは思わない)。
 この厄介な原作をアニメ化したのは、監督・高橋丈夫とシリーズ構成・荒川稔久のコンビ。二人は、人間に身をやつした賢狼とひよっこ行商人の活躍を描いた名作『狼と香辛料』を作ったことで知られる。『狼と香辛料』は、中世ヨーロッパにおける経済活動に目を向け、先物取引やバブルの発生などを詳しく叙述した。『まおゆう』でも、原作者が説明を省いた部分を脚色や作画で補っていれば、それなりに面白くなったろう。しかし、完成されたアニメは、原作の限界を乗り越えようとしていない。漫才風の会話は、そのまま萌えキャラによるギャグとして描かれる。わずかに、近代的な四輪作農耕や商館における商人の光景に見るべきものがある程度だ。
 ストーリーにおける最大の欠点は、魔族の内情が充分に説明されないこと。経済優先の観点から和平が指向されるには、魔族と人類の間に互恵的な協力関係が確立されなければならないはずだが、魔族がどのような状況にあるかがわからない以上、その方向には話が進まない。魔族の側にいるはずの魔王が、なぜ人類の経済発展に尽力するのかも、理由が不明のままである。魔王に限らず、(一部の商人を除く)登場人物が特定の行動をとる動機がはっきりとせず、それゆえに、心理ドラマも生まれようがない。
 そうした中で、いくつかのエピソードは、突出した面白さを示す。特に、第9話「わたしは“人間”だからっ」は、農奴に生まれた娘の悲痛な心の叫びをストレートに描いて、圧倒的な感動をもたらす。伏し目がちだった少女が昂然と顔を上げて人々を見つめ、それに応えるように民衆が圧政者に石を投げつけるシーンは、胸が熱くなる。まさに、高橋・荒川コンビの面目躍如といったところ。原作を改変し、この方向性で統一されたアニメにしていれば、『狼と香辛料』に勝るとも劣らない出来になったろう。

ケムリクサ

【評価:☆☆☆☆】
 毎週、固唾を飲んで見続けた作品。元になるのは、同人サークル「irodori」が2010〜12年に制作した計30分ほどのOVAらしいが、未見。本作は、OVAの設定を受け継ぎながら大幅にグレードアップしたようで、2019年冬アニメのベストというにとどまらず、たつき監督の前作『けものフレンズ』とともに、ここ2〜3年で最高のテレビアニメと評価したい。
 荒廃した世界を、主人公(出自のはっきりしないヒトらしき少年と、ヒトの姿をした謎の姉妹たち)が旅する物語。都市文明が崩壊したことを窺わせる廃墟には、巨大な樹の根が伸びる。至る所にアカギリと呼ばれる赤い瘴気が漂い、人工物を思わせる昆虫が襲いかかる。どうやら、姉妹たちに必要な大量の水が得られる土地を探索しているようだが、世界の状況はよくわからず、ゴールも曖昧である。こうした不分明な探索行は、タルコフスキー『ストーカー』、カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』など、文明論的な作品でしばしば取り上げられてきた。
 舞台設定は、60年代のイギリスで流行したニューウェーブSF、中でもオールディスの『地球の長い午後』を連想させる。この小説では、人類が衰退し、植物の支配する世界が描かれた。生き残った人間は、知性の乏しい矮小な生き物に退化し、巨大な虫(実は虫に擬態した植物)から逃げ回るばかり。太く長い根を振り回して攻撃したり、脚のように動かして這い回ったりする植物の姿は、本アニメと共通する。
 もっとも、さらに遡及するならば、巨大な植物に文明が蝕まれる光景は、近代ヨーロッパの知識人が共有した終末幻想である。ボロブドゥールやチチェン・イッツァの遺跡は、密林に飲み込まれた状態で、19世紀前半の探検隊に発見された(現在でも、カンボジアに残されたアンコール朝の遺跡では、堅牢な建築物をガジュマルの根が崩壊させつつある光景が見られる)。微生物に関する知識の乏しい当時の隊員は、自分たちを苦しめる熱帯特有の風土病が、湿った土壌から発散される瘴気によるものと思い込み、自然の脅威が文明崩壊をもたらしたと信じる。帰還した隊員によって執筆された絵入りの探検記は、かなり高価だったにもかかわらず、ベストセラーになったという。
 世界がいつか巨大な植物に支配されるという終末幻想は、こうしてヨーロッパを席巻し、日本にわたって『風の谷のナウシカ』や本作のベースとなる。

 『ケムリクサ』の特徴は、世界が荒廃した原因をなかなか明らかにしない一方で、至る所に文明のレガシーをリアルに描き込んだところにある。SFやファンタジーで「真相」を具体的に説明してしまうと、理に落ちた底の浅い作品となりやすい。これに対して、本作では、(第11話で一応の説明はするものの)多くの謎が解明されずに残される。このように、全体的な状況が把握できないもどかしさの中で、細部が異様なリアリティを持って迫ってくると、想像力が刺激され作品世界にのめり込める。
 リアルな描写としては、部品類の散乱するガランとした車両工場(第5話)、シャッターに「本日は終了」の文字が残る地下鉄構内(第6話)、お品書きとおぼしき札のある登山客向け休憩所のような小屋(第9話)などが見事である。中でも鮮烈なのが、第3話に登場するスペースワールドの廃墟。
 スペースワールドは、1990年、八幡製鉄所の遊休地に開業した遊園地で、スペースシャトルの実物大模型など宇宙がらみのアトラクションが用意されたものの、バブル崩壊で入園者が伸び悩んで2018年に閉園、見物人が見守る前でシャトルも取り壊された。『ケムリクサ』では、観覧車やジェットコースターなども閉園前の姿で描かれており、おそらく、「虚栄の文明」を象徴する光景として、たつき監督が選んだのだろう。
 世界を支配する植物と文明のレガシーを合体させた印象的なガジェットが、外に伸びたミドリちゃんの根によって動かされる市電の車両。半分壊れた車体は質感まで伝わるほど丁寧に描かれ、動物のように体を揺さぶりながらノッシノッシと移動する様は、それだけでゾクゾクするほど刺激的だ。

 りつ、りん、りなという姉妹のキャラも素晴らしい。昨今のアニメには、類型的なキャラ設定(「大人びた口調で喋る幼女」のような)が施され、どんなシチュエーションでも設定されたキャラ通りの応答しかしない、内面の貧相な登場人物が目立つ。しかし、『ケムリクサ』の姉妹たちは、いずれも人間味豊かに描写されており、共感させられる。
 中でもお姉さん格のりつは、巫女服をまとい、猫耳を生やして語尾に「にゃ」を付けるという“いかにも”な姿でありながら、言動の端々に思いやりにあふれた心根が感じ取れる。病弱なのにしっかり者で、第5話では、急にポロポロと涙を流したり頬を染めたりと、妙に色っぽく愛おしい。見ながら、何度も涙ぐんでしまった。第10話Aパート中頃、市電の窓越しにりなと何事か囁き交わしているが、これは続くシーンで水を飲まないという選択をする伏線となる。アニメーターが、単にストーリーを追っているだけではなく、キャラの心情を画に込めて描いていることがわかる。
 同じ顔をした4人のりなも可愛い。予算が乏しかったせいか、作画に安価なCGを利用しているにもかかわらず、内面を表すポーズがしっかりと決まるので、金をかけた大作よりも心理描写に力がある。

 本作には、原作・シリーズ構成・脚本・監督・美術デザインを担当したたつきの作家性が明確に現れる。たつき作品では、ヤオヨロズ制作の本作と『けものフレンズ』のほか、irodori制作の短編『傾福さん』を見ているが、いずれも、文明論的な骨太の構成と内面を深くえぐる心理描写に特徴があり、日々垂れ流しにされる凡百のテレビアニメを遥かに凌駕する。プロデューサーたちも、金に目をくらませていないで、こうした抜群の才能を持つ逸材を起用し、低迷気味の日本アニメを再興させてほしい。

けものフレンズ2

【評価:☆】
 放送開始前から悪い意味で注目された作品だったが、実物は予想の遥か斜め上を行った。第1期が「子供向けを装った大人の寓話」なのに対して、この第2期は「子供向けを装った子供騙し」である。
 大ヒットとなった第1期は、脚本・監督を担当したたつきの作家性が強く表れた作品である。原作(スマホゲーム)にないディープなSF的設定を付け加え、それぞれのキャラに厚みを持たせた。しかし、たつき監督は大人の事情で降板。それまで子供向けショートアニメやCM映像を作ってきた制作会社トマソンが、急遽第2期を任された。おそらく、アニメーターたちはかなり戸惑ったに違いない。完成作を見ると、脚本は練り上げ不足(と言うより支離滅裂)、キャラへの愛情も感じられず、どう贔屓目に見てもやっつけ仕事である。

 ストーリーは……(おかしい。1話も漏らさず見たのに、ストーリーが全く思い出せない)……措いといて、キャラの表現に関して第1期と比較しよう。
 第1期の制作を担ったヤオヨロズのスタッフは、キャラの内面を丹念に表現した。第1話終盤、独りでジャングルに向かうカバンちゃんをサーバルが見送るシーン。心配そうに前のめりになっていたサーバルは、カバンちゃんが立ち止まって振り返った瞬間、元気づけるように手を振る。カバンちゃんが歩き出すと、その手を胸の高さに保ち、振り返りそうになるとスッと挙げて再び振り始める。相手がこちらを見たから手を振ったのではなく、振り返ることを予想していたのである。そのまま手を挙げた状態で見守るが、カバンちゃんはいったん立ち止まりながらも、振り返ることなく歩を進める。二人の心情が胸に迫り、見ていて泣きそうになる名シーンである。
 一方、第2期では、キャラの内面が窺えるシーンはほとんどない。フレンズが手を振るシーンなら何箇所もある(例えば、第2話のレッサーパンダ)。しかし、いずれも棒立ち状態のまま大きく手を振るだけなので、心情は読み取れない。
 第1期では、「リアクションの入り」の描き方もうまい。第10話でカバンちゃんらがロッジの正面扉を開けたとき、受付にいたアリツカゲラは、微かに首を右にかしげてから「いらっしゃいませ」とお辞儀をする。客がほとんど訪れないロッジなので、誰が来たかを確かめる必要があり、間をあけてリアクションするのは実にナチュラルである。
 第2期におけるフレンズのリアクションは、直截的で間をとらない。第4話に登場するアリツカゲラは、アードウルフの「良い巣をたくさん知ってるフレンズがいるそうなんで」という台詞を受け、即座に「その通り」と胸を張って現れる。第1期で部屋を案内するエピソードに倣って、次々と巣を紹介するが、その姿は押しつけがましく刺々しい。ロッジを好きすぎて、工事前のガランとした洞穴まで激賞してしまう、ちょっとアイロニカルで哀しい第1期の姿とは大違いである。

 第1期のフレンズは、人間が残したレガシーの中で暮らしながらも、その意味は理解できない。そこにアイロニーが生まれ、作品を奥深いものにする。
 第1期で描かれるロッジは、部屋や家具は立派であっても、ベッドに寝具がなく客はその上でごろ寝するだけ。暗に、フレンズに管理能力のないことが示される。ところが、第2期のホテルでは、テーブルの上に氷で冷やされたワインが置かれ、ベッドにシーツが敷かれる(第10話)。
 第1期第6話での戦いのシーン。アラビアオリックスらは勇ましそうに幟を掲げるものの、そこに書かれている文字は「(フリ?)ーパス発売中」。一方、第2期のハブは、おみやげコーナーにそのものズバリ「おみやげ」という暖簾を掛ける。ほかのフレンズも、字が読めるようだ。
 第1期のフレンズは、なぜそんなものが用意されるのか考えもせず、ラッキービーストが配布するじゃぱりまんを美味しそうに食べる。これに対して、第2期では、ロバがキッチンカーでじゃぱりパンやじゃぱりチップス、じゃぱりソーダまで売っている(第1話;金は取らないだろうが)。社会の仕組みと、そこで生きるフレンズのライフスタイルが、まるで異なる。
 第1期のジャパリパークは、危うい均衡の上に成り立つ「黄昏の楽園」であることが示唆される。それだけに、知恵のある一部のフレンズが、パークの危機を乗り越えようとする姿は感動的だ。しかし、第2期になると、パークの状況もフレンズの行動原理もはっきりしない。
 第2期の脚本家(知らない人です)は、第1期から面白そうなネタを借用しただけで、作品世界の全体像を構築しようとはしない。好意的に解釈すれば、準備期間が足りなかったせいなのだろう。演出も、急なピンチヒッターだったからか、切れ味が悪い。うまく扱えば、ビジネスに利用できる強力なキャラクターに成長させられたかもしれない素材を、何とも能のないやり方でおじゃんにしてしまった。

風が強く吹いている

【評価:☆☆☆】
 学生のスポーツ活動を取り上げたアニメの中では、なかなかの佳作と評価できる。特徴は、駅伝をテーマとしたこと。駅伝は、「襷をつなぐ」という精神的な要素が共感を呼ぶせいかか、日本では特に人気が高く、箱根駅伝の視聴率は30%を超える。にもかかわらず、アニメであまり取り上げられなかったのは、「走る姿」を感動的に描くのが技術的に困難だったためだろう。陸上競技は一般にアニメ向きではなく、登場人物が陸上部に所属するという設定の作品が何本かあるくらいだ(『恋は雨上がりのように』『涼風』『天空のエスカフローネ』などで、実際に走る姿の描写はそれほど多くない)。
 原作は三浦しをんの小説だが、文章ならば、走ることの意味を観念的に表現できる。例えば、葉菜子が予選会で走る選手たちを見たときの心境は、次のように語られる。
「走る姿がこんなにうつくしいなんて、知らなかった。これはなんて原始的で、孤独なスポーツなんだろう。だれも彼らを支えることはできない。まわりにどれだけ観客がいても、一緒に練習したチームメイトがいても、あのひとたちはいま、たった一人で、体の機能を全部使って走りつづけている」(単行本『風が強く吹いている』(新潮社)p.237)

 こうした観念的な文章の表現力に匹敵する映像を生み出すには、かなりの力業が要求される。野村和也に率いられたProduction I.Gのチームは、この難題に果敢に挑戦した。
 「走る」ことの躍動感を端的に表現する動きは、頭部の上下動である。踏み出した足が着地した後も、胴体はそのまま沈み込んでいき、最下点に到達した後、足の蹴りが生み出す力によって、少しずつ加速されながら上昇する。加速度はニュートンの運動法則に従って質量に反比例するので、はじめのうちはゆっくりと、しだいに速度を増していくという加速運動が適切に描かれると、体の重さが実感され、それを跳ね返して走るという躍動感につながる。
 アニメーターたちが、頭部の上下動が持つ重要性を認識していたことは、第1話アヴァンにおけるカケルとハイジの身体描写にはっきりと現れる。走るカケルの頭部がリズミカルに上下動するのに対して、自転車で併走するハイジの頭はユラユラと左右に揺れる。切り返しによって二人の頭部を比べるかのように描写することで、走りの持つ力強さを表現する。それとともに、象徴的な形で、作品の主題も明確に示された。
 人間は、ずっしりと重い肉体に縛られている。しかし、力強く地面を蹴れば、まるで飛翔するように進むことも可能なのだ。
 予選会で大勢の選手がいっせいに走るシーンでは、選手ごとに上下動が少しずつ異なる。キングは顔を左右に振り、王子はやや顎を出し力なく手を下げる。そのほかの選手も、フォームに個性がある。おそらくコンピュータを利用して、実写映像をトレースしたのだろう。さらに、いかにも軽さを感じさせるピタピタというシューズの響きや、短く乱れのない息づかいが加わって、いやが上にも臨場感が高まる。細部まで神経の行き渡った、こうした描写を見せつけられると、葉菜子ならずとも「走る姿がこんなにうつくしいなんて」と感嘆を禁じ得ない。
 最も力が入っているのは、やはりカケルの走りである。原作では、レース中のカケルの内的独語が記される。
 「なんだろう、この感覚。熱狂と紙一重の静寂。そう、とても静かだ。月光が射す無人の街を走っているようだ。行くべき道が、ほの白く輝いて見える」(同書p.467)

この詩的な言葉の連なりを、アニメではどう表現するのか。第22話Bパートでは、心をそっと撫でるような優しい音楽とモノローグに載せて、客観的映像とカケル目線の光景が小気味よく重ねられるうちに、肉体が透明になって走りに没入するカケルの姿が描かれる。強い訴求力を持った名シーンである。

 ストーリーは、「弱小スポーツチームが有能な指導者を得て好成績を収める」という王道ものだが、『風が強く吹いている』の独自性は、指導する側のハイジとされる側のカケルが、ともに悩み多き駅伝選手だという点。二人とも、同じような挫折を経て、絶望の淵で苦しみもがき、ちょっとしたきっかけから再び立ち上がろうとする。まるで鏡像のように良く似た二人が、互いに相手の中に自分が目指すべき道を見出すまでの葛藤は、二重の成長物語(ビルドゥングス・ロマン)として感動的だ。このストーリーラインは、原作小説よりもアニメで強調される。
 他の8人の選手についても、人間性が原作以上に深掘りされる。私が特に感心したのがユキのエピソード。
 大学3年で司法試験に一発合格した秀才だが、女手一つで育ててくれた母親の妊娠・再婚に心乱され、クラブ通いに明け暮れていた。当初は駅伝への参加を誰よりも嫌がっていたものの、走ることの面白さに気がついてからは、予選会で仲間に有利になるようなコース取りをするなど知的な戦略の面で貢献する(第12話)。同じく秀才タイプの神童とは気が合うようで、駅伝1日目と2日目でランナーとサポーターの役割を交代する際の会話は、じんわりと心に沁みる(第21話)。高校時代に剣道で活躍したことが紹介されており、走力が並でありながら雪中の山下りで好走するという結果に無理がない(剣道では、踏み出す瞬間に足に1トン近い力が加わると言われ、足腰が鍛えられる)。
 走るのが好きなのに、体格が大きくなりすぎて長距離を諦めざるを得ず、自堕落になっていたニコチャン、理工系の国費留学生で、日本人以上に端正な日本語を話すにもかかわらず、アフリカ出身の黒人というだけで色目で見られるムサなど、味のある脇役も多い。話を重くしすぎないように、サラリと描写するところも好感が持てる。
 もっとも、露出度の多い双子と王子の描き方には、不満が残る。双子のジョータとジョージは、物事を深く考えず空気を読まない発言を繰り返すタイプで、マンガ的なデフォルメを施されるシーンも多く、ほとんどギャグ要員として使い倒される。この手のキャラは、出番をもっと減らすべきだろう。オタクそのものの王子は、体力が決定的に不足しており、なぜ駅伝に出場する気になったのか理解に苦しむ(私自身、高校時代に1キロ走って貧血で倒れ体育教師を慌てさせたクチなので、ふつうの人間が5キロ以上走れることが、そもそも信じられない)。
 他大学の陸上部員でありながら、しばしばカケルに突っかかる榊は、背後にそうせざるを得ない動機があることが充分に説明されず、単に陰湿なキャラにしか見えない。ハイジの指導も強権的に過ぎ見ていて不愉快であり、正直な話、中盤までは何度も見るのを止めようかと思ったほど。面白くなるのは、記録会での苦労が描かれる第11話辺りから。上記の総合評価があまり高くないのは、こうした欠点があるせいだ。

 しかし、アニメは、原作ではわずかしか描かれない六道大・藤岡の出番を増やしたことで、後半、ジワジワと盛り上がる。哲人のような藤岡に、往年の名ランナー・アベベの面影が重なる。
 9区を走り終えた藤岡は、ハイジ(=清瀬)に「清瀬、俺たちはいったい、どこまで行けばいいんだろう」と話しかける。原作では、藤岡がさらに「到達できたと思っても、まだ先がある。まだ遠い。俺の目指す走りは…」と語り、「清瀬は藤岡の目に、昏い絶望の光を見た。孤独に走りつづけ、追い求めつづける、走(カケル)と同質の翳りを認めた」と続く(同書p.469)。
 一方、アニメでは、藤岡が「あるのか、この先にゴールなんて」と語った後、「でもやめられない、だろ?」と言うハイジに「楽しんでこい」と言葉を掛ける。さらに、ハイジの「あいつはもっと強くなる。藤岡がカケルを覚醒させ、カケルが藤岡を駆り立てるんだ」という独白となる(第23話アヴァン)。
 長距離ランナーの孤独を照らし出す原作に対して、アニメでは、仲間とともに走りライバルと戦う喜びに目を向ける。この方向性が、見終わった後、「ああ、いいアニメを見た」という充足感につながるのだろう。

どろろ

【評価:☆☆☆】
 原作漫画『どろろ』は、手塚治虫が1967年から週刊少年サンデーに連載を開始した作品。1年ほどで連載を中断、テレビアニメ(1969年版)の放送に合わせていったんは再開したものの、実質的に未完のまま放棄された。他の手塚漫画に比べて陰惨でおどろおどろしく、人気作とは言い難いが、私にとっては、『鳥人大系』『地球を呑む』『奇子』『MW』などとともに好きな作品である。
 前回から半世紀を経て再度アニメ化された『どろろ』は、シリーズ構成の小林靖子が大幅にストーリーを作り替えており、原作漫画とも69年版アニメや07年の実写映画とも味わいが異なる。特に、主人公・百鬼丸関連の人物(実の両親と育ての親、弟の多宝丸とその従者)は、それぞれ原作にない複雑なサイドストーリーが用意されており、重厚な人間ドラマを作り得る顔ぶれとなっている。手足が無残に切り落とされたり、死体にカラスが群がるようなおぞましい描写は、21世紀の(子供向けでない)アニメならではと言って良い。
 ただし、作品として優れているかと聞かれると、首をかしげてしまう。原作漫画では、一コマの画に人間心理が凝縮され、何度も胸を衝かれる思いをした。一方、今回のアニメは、社会性を取り入れたストーリーが過度に重く、監督の古橋一浩が背景描写だけで手一杯となったせいか、なかなか感動が得られない。例えば、前半のハイライトである未央のエピソード(第5-6話「守子唄の巻」)では、原作よりもはるかに悲惨な境遇を設定したため、そのリアルな描写に力を入れるあまり原作が持っていた象徴性が失われ、かえって未央の内面をわかりにくくしてしまった。マイマイオンバが登場するエピソードの場合、原作では妖怪を妻にしてしまった男(鯖目)の虚脱感が画面から滲み出ていたのに対して、アニメ第14-15話になると、鯖目が務める領主としての責務に目が向けられる一方、マイマイオンバは単なる蛾の化け物に成り下がり、両者の関係性が深掘りされない。全般に、妖怪の描写は表面的に派手すぎ、人間の描写は社会性が前面に押し出されすぎて、両者の関わりが生み出すドラマがおざなりにされている。

【手塚治虫について】
 思うに、手塚は、近現代日本屈指のストーリーテラーだろう。エドガー・アラン・ポーの奇想とスティーヴンソンの冒険心、それにモーパッサンのシニシズムを併せ持ち、時にO.ヘンリーのように暖かく、時にアンブローズ・ビアスのように辛辣。一部を読んだだけだと、パクリも目立ち「それほどの作家?」と思えるかもしれないが、何といっても著作数が膨大。週刊連載を何本も抱えるという、現在からするとあり得ない状況の中、次々と高水準の作品を発表した。ストーリーが面白いので、2度目3度目であっても夢中になって読み耽ってしまう。それだけに、映像化の意欲を刺激されるらしく、アニメや実写ドラマになった作品は多い。手塚自身、虫プロを立ち上げて、『鉄腕アトム』などのアニメを制作した。だが、そこに陥穽がある。
 ストーリーテラーと書いたが、手塚は、文章ではなく、ダイナミックに視点を変える画と短く刺激的な台詞やオノマトペを駆使して、キャラの内面まで深く描き込んだ。そこに生じる流れは、映像が従う物理的な時間とは異質である。そのせいで、ストーリーの面白さに惚れ込んで映像化しただけでは、手塚漫画が持つ迫力の大半が失われてしまう。本人は、実際に描かれた以上のものを画面から感じ取れるからか、アニメ制作に(他者からすると才能の無駄遣いと思えるほどの)情熱を注いだが、虫プロ制作のアニメを含めて、映像化作品で手塚の原作に匹敵するものはほとんど見当たらない(『リボンの騎士』はアニメも面白いが)。

さらざんまい

【評価:☆☆☆】
【重大なネタバレあり】
 バンクシステムを使い倒した見事な作画、歯切れの良いカッティング、無類の可笑しさを醸し出す下手クソなミュージカルシーン−−多くの見所がありながら、それでも、『少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』という、テレビアニメ史上の頂点と言える傑作2本を作った幾原邦彦にしては、いささか物足りない。
 幾原の作品に共通して描かれるのは、表面から窺えない人間心理の不気味さと、こうした訳のわからないものを排除しようとする社会の不寛容である。このテーマは、『さらざんまい』でも取り上げられる。ただ、透徹した眼差しで現代日本の暗部を見つめた『ピングドラム』などに比べると、問題の取り上げ方が中途半端である。

【「排除の論理」の怖ろしさ】
 『さらざんまい』のメインプロットは、カズキ、エンタ、クジという3人の少年が、カッパ(らしき生き物)のケッピが与えるミッションを遂行し、クリアすれば報償として、どんな願いでも叶えられる希望の皿を受け取るというもの。これだけ見ると、少年向け冒険アニメの一パターンに思えるかもしれない。しかし、ミッションの内容と少年たちの状況を見比べると、そんなに生やさしい話ではないとわかる。
(以下、『さらざんまい』『少女革命ウテナ』の重大なネタバレがあります)
 ミッションは、異常な欲望に執着するゾンビ(カパゾンビ)の「尻子玉」を抜いて欲望を昇華させ、この世から消滅させるというもの。尻子玉とは、カッパが水に引き込んだ人間から抜き取って食うと言われる臓器で、抜き取られた人間は力を失い死んでしまう。本アニメの設定では、欲望の根源とされる(これって前立腺のことではないかしら。主要キャラはみんな男性だし、稲垣足穂のA感覚を連想させる)。
 ところが、カパゾンビの執着とは、概して単なる変態性欲であり、それほど悪辣な欲望ではない。例えば、ソバにこだわる男の欲望は、好きな女性が入った風呂の残り湯でソバを茹でて食べたいというもので、異常ではあっても反社会的というほどではない(私はリアルに想像してウゲッとなってしまったが)。にもかかわらず、尻子玉を抜かれたカパゾンビは、恥ずかしい一面を他者に知られたことを嘆きながら消滅する。それほどの罪だったのか?
 もっとも、現代日本でこのような性癖が暴かれた場合、その情報はSNSで拡散されて、「キモイ」と罵られ社会的地位を失うだろう。アニメのカパゾンビは、警官の(制服を着た)レオとマブに目をつけられ殺されたことが示唆されるが、これは、異常者を社会的に抹殺する「排除の論理」を象徴する。レオが拳銃を突きつけるとき、「欲望か愛か」と二者択一を迫るが、「清潔な愛なら容認するが、醜い欲望なので排除する」という強引な自己正当化に聞こえる(レオとマブは、欲望エネルギーの持ち主をゾンビにしてカワウソ帝国に送るエージェントなので、続くミュージカルシーンでは欲望を称揚する)。
 カパゾンビを消滅させた少年たちも、決して身ぎれいな訳ではない。カズキ、エンタ、クジは、それぞれ、「血縁の欠如を乗り越えた家族愛」「サッカーを通じて結ばれる友情」「家庭の窮状を救うための兄弟愛」で他者とつながっているように見えながら、その実、「ネット上でのなりすまし」「同性愛的な衝動」「殺傷事件への関与」という、人には知られたくない隠し事がある。これらは、カパゾンビが社会から排斥された要因と、それほど差があるわけではない。
 このように、断罪する者とされる者が、実は等しく罪人だというのは、幾原アニメでしばしば取り上げられる構図である。例えば、『少女革命ウテナ』。ウテナは、アンシーを薔薇の花嫁として非人間的に扱う生徒会メンバーに決闘を挑み、彼女を自分のものにする。しかし、物語終盤になると、ウテナ自身がアンシーの本心を理解していなかったことが示される。その意味で、ウテナと生徒会メンバーは大差なかったのである。
 ラストでウテナは闘いに敗れ、姿を消す。ウテナが去って平穏に戻った学園では、もはや彼女のことを思い出す人はいない。『さらざんまい』でも、カパゾンビが消滅すると人々の記憶からもスマホの待ち受け画面からも姿が消え、その存在は「なかったこと」にされる。社会にとって好ましくないものは、もともとなかったかのように扱われるのだ。『ウテナ』の場合、アンシーだけはウテナの消失を覚えており、社会に向かって一歩を踏み出すためのきっかけとする。しかし、カパゾンビを覚えている者は、誰もいない。

【社会問題の取り上げ方】
 幾原は、『美少女戦士セーラームーン』『少女革命ウテナ』と社会性の乏しい作品を発表した後、12年の期間をおいた『輪るピングドラム』で、社会問題を直視する姿勢を示した。この姿勢は、次の『ユリ熊嵐』にも受け継がれるが、『さらざんまい』になると、問題意識が形骸化しているように感じられる。
(以下、『輪るピングドラム』の重大なネタバレがあります)
 『ピングドラム』では、無差別テロ首謀者の子供というだけで、「きっと何者にもなれない」と社会から排斥される3人の少年少女が描かれた。そこには、決して贖うことのできない「原罪」という重いテーマが垣間見える。彼らに絡む人々は、いずれもテロと深い関わりを持ち、テロによって人生が狂わされていた。
 また、『ユリ熊嵐』は、正当な社会規範の枠に収まらない性愛を取り上げ、規範を逸脱した者に対する制裁を問題視する。
 一方、『さらざんまい』は、これら2作と同じく、社会が異質なものを排除する怖ろしさに目を向けながらも、その描写はあまり徹底されていない。そのことは、排除のきっかけとなるものが何かを考えると、わかりやすい。
 『ユリ熊嵐』で描かれる性愛のシーンは、見ていて息を飲むほど生々しい。しかし、『さらざんまい』になると、カパゾンビの変態性欲は戯画化されて表現され、笑いを誘うだけ。エンタが好きな子の笛を舐めるのは、思春期の男子にありがちなこととして容認できる範囲であり、カズキの女装はむしろ可愛らしい。3人の少年の隠し事で明確に反社会的なのは、ヤクザとつながりを持つクジの行為しかない。しかし、ヤクザの描き方は類型的で平板であり、彼らがどれほど悪行を重ねようと、ヤクザと無縁である大多数の視聴者には心の痛みを感じさせない。『ピングドラム』における憎しみの連鎖や、『ユリ熊嵐』のヒリヒリするようないじめに比べると、他人事なのである。
 「つながりたい」という欲望をテーマにしているにもかかわらず、取り上げる社会問題が小粒すぎ、社会性が充分に描かれていないとも言える。このテーマに関わるものとしては、SNSで無視されたために衝動的な無差別殺人に走ったケースや、社会になじめず引きこもりになってゴミ部屋で孤独死したケース、親からDVを受けながらなお赦しを請うた子供のケースなど、マスコミに注目された現実の事件が少なからずある。しかし、『さらざんまい』では、敢えてこうした事件には目を向けない。もしかしたら、『ピングドラム』におけるテロ事件の取り上げ方が批判を招き、幾原の腰が引けたのかもしれない。

【アニメ表現の極北】
 社会問題の取り上げ方は煮え切らないものの、『さらざんまい』の作画は、アニメ表現の極北とも言える水準に到達している。特に、バンクシステムを活用した見せ場が素晴らしい。バンクシステムとは、すでに使われた画をストックして使い回すやり方だが、近年のアニメでは、必ずしも手抜きではなく、象徴的シーンの繰り返しによってエモーションを高める目的で使われる。『ピングドラム』でも、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルが「生・存・戦・略〜!!」と叫ぶシーンで効果を上げたが、『さらざんまい』のバンクもそれに匹敵する。
 レオとマブが「カワウソイヤァ」を歌い踊る場面(私も一緒に踊ろうとしたが、動きが速すぎてついて行けない)、あるいは、カパゾンビとの対決に向けて、カッパの姿をした3人の少年が危なっかしく繰り広げるミュージカルシーン(地面にヘチャッと叩きつけられて慌てて起き上がる仕草の可笑しさ)は、何度見ても楽しい。

彼方のアストラ

【評価:☆】
【ネタバレあり】
 第1話で「ああ、よくある宇宙サバイバルものだな、これなら大外れはないだろう」と思って見続けたものの、ラストに至るまで唖然とするほどつまらない。興味のない作品は無視してレビューしないのが私の方針だが、これほどとなると、さすがになぜ面白くないのか分析したくなる。
 宇宙でのサバイバルを描いたアニメには、『無限のリヴァイアス』(99)、『蒼き流星SPTレイズナー 第1部』(86)、『銀河漂流バイファム』(83)、『無人惑星サヴァイヴ』(03)などがあり、作品のターゲットとされる階層はこの順に低年齢化していく。『彼方のアストラ』(以下『アストラ』と略す)は、内容からして最も対象年齢が低く、おそらく男子小学生を狙った作品だろう。小学生向けなのだから、科学的に杜撰だったり人間が描けていなかったりするのは仕方ないと言えるものの、もう少し工夫ができたのではないか。
(以下の記述は、読者が『アストラ』全話を視聴済みであることを前提しています)

【人間が描けていない】
 「人間が描けていない」と言うと「批評居士の常套句」と思われそうだが、私が指摘したいのは、緊張をはらんだ人間関係が物語を展開させるエンジンになるという、優れた文学や映画に共通するドラマツルギーが欠落している点である。類似作品と比較するとわかりやすいだろう。
 『アストラ』は、宇宙で孤立した少年・少女の集団の中に、彼らを遭難させた犯人が紛れ込んでいるというミステリー仕立てになっており、宇宙サバイバルものの金字塔である萩尾望都の漫画『11人いる!』とよく似ている。『アストラ』の原作者・篠原健太自身、その影響を認めている。
 『11人いる!』は、まず前半で人間関係をじっくり描き、後半に入ると、船内でウィルス感染が発生するという単一の危機に対して、登場人物がどのように反応するかを主題とする。外部との連絡を取るか、武器の携行を認めるかなどを巡って、すべての登場人物が、前半で描かれた関係に則って必然性のある反応を示し、読んでいて納得がいく。誰と誰が反目し、それを誰が調停するか。誰が慎重に策を練り、誰が積極的な行動に移るか。閉塞的な宇宙船の内部で、ビリヤードにように相互に衝突し反発しながら自分の意志に従って突き進む若者たちの姿は、「クルミの中の人間喜劇」と呼ぶに相応しい。
 一方、『アストラ』では、「航行中/惑星上で何度も危機が訪れ、そのたびに誰かが頑張って乗り越える」という話が繰り返されるだけで、人間関係が物語推進のエンジンにはならない。こうした展開が第8話辺りまで続き、さすがに危機のネタが尽きたのか、第9話からは、彼らが陥った状況の全体像が問題とされる。ただし、取り上げられるのは、クローンとか偽りの歴史といった外在的な出来事であり、直接関与するキャラがその場限りで主導的に行動するものの、『11人いる!』に見られるビリヤードのような連鎖的反応は生じない。
 断っておくが、私は、芸術作品はすべからく人間を描くべきだと言いたいのではない。円城塔の『文字渦』のように、人間を描かないからこそ大好きな作品もある。ただ、限定的な環境に置かれた集団に目を向けながら、心理描写が甘く、その内部にあるはずの関係性を物語の展開に利用しないことが不満なのである。

【心理のない木偶】
 心理描写の甘さがはっきりと見て取れるのは、グループのリーダーとなるカナタである。彼は、数年前にキャンプで事故に遭い、目の前で教師が死ぬのを目撃した。身近な人が死ぬと、それがトラウマとなって、なぜ自分が助かったのかと思い詰め、自己破壊衝動にとらわれ極端な行動をとるケースが見られる。しばしば危険を顧みずに他者を助けようとするので、一見英雄的に見えるものの、根底に自己の価値を否定する虚無的な思いがあり、心の翳りを隠しようがない。そうした人物を登場させた文学や映画は、すでに無数にある。当初、カナタが無謀な救出に繰り返しチャレンジするのも、同じくトラウマに起因する心理の表れかと推測した。しかし、いくら目を凝らしても、心の翳りは窺えない。かつて教師を助けられなかった悔しさを晴らすかのようにひたすら突き進む、単なる直情径行バカにしか見えない。トラウマどころか心理すらない木偶のようである。
 『アストラ』の作者(原作を描いた漫画家 or アニメの脚本家)が登場人物の心理について深く考察していないことは、彼らの行動全般に見られる不自然さにも現れる。
 例えば、第6話でウルガがルカを殺そうとするシーンがある。しかし、彼が復讐したいのはルカの父親であり、帰還して跡取りが失われたことを父親に知らせるまで復讐は成就しない。帰還できるかどうか不明な段階で、ルカに対する殺意が抑えきれなくなるのは、復讐者の心理として不自然である。
 また、第7話では、カナタらが発見したポリーナのコールドスリープをいきなり解除する。だが、このときは自分たちも危機的状況にあり、ポリーナを目覚めさせても助けられるという確証はなく、少しは躊躇するはず。にもかかわらず、アホのカナタだけでなく、理性的なはずのザックまでもが解除に同意した(ように見える)。
 不自然さが異常なほどと言えるのが、クローンの親たち。クローンである子供を犠牲にし、その肉体に意識を移植して自分の命を長らえさせる計画なのに、ザックやユンファなど何人かの親は、クローンを身近で育てていた。後に犠牲にする予定の子供を近くに置いて育てられる人間など、私には想像もつかない。そもそも、意識の移植という超技術が実用化されている社会では、もっとほかの手段があるのではないか。

【SFネタの大安売り】
 登場人物の心理がきちんと描かれるならば、設定された状況に応じて自然に反応するため、行動の連鎖が誘起されドラマが進行する。しかし、『アストラ』では、心理描写が甘いため話が拡がらず、新たな状況を何度も用意しなければならない。そのために、さまざまなSFネタを総ざらいして逐次投入するのだが、そうしたネタのほぼすべてで先行作品が指摘でき、目新しいものは見当たらない。
 ただし、SFのように斬新さが求められるジャンルであっても、既知の作品をまねたというだけでは、欠点と言えない。アニメで例を挙げよう。庵野秀明は『ふしぎの海のナディア』で『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』の名シーンをそのままパクったが、これは、「自分ならば同じ状況を遥かに感動的に大迫力で描ける」というチャレンジであり、その通りに実行して見せた。野崎まどが脚本を書いた『正解するカド』は、アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』のプロットをずっと踏襲しながら、最終回では、まるでオセロの盤面のようにすべてをひっくり返し、SFファンの度肝を抜いた。
 これに対して、『アストラ』のSFネタは、いかにも平板な使われ方しかしていない。前半では、アストラ号が訪れる惑星ごとに独自の生態系が紹介されるが、少し風変わりな生物や地球より極端な環境が描かれるだけである。知性を持つ植物が人間に寄生するオールディス『地球の長い午後』や、自己増殖するオートマトンが進化を遂げたレム『砂漠の惑星』の世界のように、想像力の限りを尽くしたものではない。
 そのほかのSFネタに関して、いくつかの例を挙げて先行作品と比較していこう(これ以外でも、空間転移を実現する球体など、手垢のついたネタが多い)。

両性体 : 男女2つの性を持つ個体を登場させたSFの最高傑作は、何と言っても、ル=グウィン『闇の左手』だろう。ふだんは中性的でありながら、発情期になると、そのときの性的志向に従って男女いずれかに分化するという設定。社会的危機のさなかに発情期を迎え、理性に逆らって肉体が変化する人物の苦悩が描かれる。一方、『アストラ』では、ルカが跡取りになれない理由を説明するのに両性体という事情が使われるだけで、苦悩の欠片もない。
ヘテロクロミア : 虹彩の色が左右で異なるヘテロクロミアが巧みに使われたのが、田中芳樹『銀河英雄伝説』(アニメ化作品が有名)に登場するロイエンタール。夫の子でないという証拠がヘテロクロミアという形で現れ、不義密通の表徴を世間に晒しながら生きることを余儀なくされた結果、屈折した性格の持ち主となった。これに対して、『アストラ』のアリエスの場合、ある人物のクローンであることを示すのにこの特徴が言及されるものの、それ以上に話が膨らまない。
クローン : 「全く同じ外見を持つ別人」という設定は昔から芸術家の関心を呼び、多くの作品が作られた。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、死んだはずの妻が主人公の前に現れたとき、それが自分の心が生み出した偽物だと知りながら、かつての過ちを繰り返すまいと真剣に愛する。「この愛情は本物なのか」という問いかけが、見る者に突きつけられる(レムの原作と大きく異なる展開だが、小説・映画いずれも傑作である)。同じ設定をクローンの側から描いたのが萩尾望都の漫画『A-A'』で、ラストで号泣してしまった。小説では、クローンとして生を受けた者の悲哀を描いたカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』が有名。一方、『アストラ』でクローンの一斉殺処分が計画されるのは違法に密造されたものだからであって、クローンであること、クローンに向き合うことの苦悩には触れられない。
偽りの歴史 : 権力者が偽りの歴史を捏造したという作品も、数多く発表されてきた。上橋菜穂子『精霊の守り人』では、王朝の正当性を主張するため、古文書の偽造や虚構の伝説の流布が行われ、真実を知る先住民が迫害される。常識的に考えて、歴史を捏造することの苦労は並大抵ではないはず。ところが、『アストラ』では、「最初の世代がみんなで口裏を合わせ、子供世代が真に受ける」という噴飯物の設定。あまりに不自然なので、展開に行き詰まった(あるいは、年号のつじつまが合わない点に気がついた)作者が、後付けででっち上げたとしか思えない。

【「子供だまし」ということ】
 『アストラ』で最初に訪れる危機は、アリエスが宇宙空間を漂流したことで、このときは、全員が手をつなぎ人間救命ロープとなって助けた。さしたる工夫もなく強引でご都合主義的だが、協力の重要性を目に見える形で描出したのだし、まあ、こんな展開もありだろう……1回だけなら。しかし、次にトランポリンの木にフニシアが取り残されたときには、実は十種競技の選手だったカナタが超人的なジャンプ力で飛び移り、都合よくそこにあった槍やパラシュートの形をした植物を利用して助ける。3番目の危機は予期せぬ事故により配電盤が破損したことで、なぜかそこにあった予備電源とケーブルを頑張ってつないで助かる…。さすがに、この辺りから失笑せざるを得なくなった。
 多くの子供は、「頑張れば何とかなる」と信じている。自分が学校や家庭でパッとしないのは、まだ本気を出していないからであって、環境が整い本気を出しさえすれば、すぐにもヒーローになれる−−そんな信念が揺らぐのは中学生頃からで、大人になると、成功するためには地道な努力と知的な対策が必要だと、嫌でも気づかされる。時には、唇を噛んで妥協し、戦略的な撤退や切り捨てをしなければならない。大人なら誰しも覚えのあるそんな体験に欠ける子供は、「頑張りさえすればうまくいくだろう」と根拠のない自信を持ち、その考えを裏付ける物語に熱中する。
 「子供だまし」とは、大人は見向きもしないが子供は喜ぶものを提供して歓心を買う手法である。「頑張って危機を乗り越える」という話ばかり繰り返す『アストラ』は、「子供だまし」にしか見えない。

【伏線の回収】
 ネットで検索したところ、「『アストラ』では伏線の回収が素晴らしい」という評価がいくつか見られた。私はかなり目聡い方だという自信があるが、「はて、そんな伏線あったかな」と当惑。調べてみると、どうも終盤で使われるガジェットを前半ですでに登場させていたことを取り上げ、伏線と呼んでいるようだ。私に言わせれば、これは伏線の名に値しない。漫画のように長期にわたって連載する作品の場合、後で何かに使えそうなガジェットを早い段階で仕込んでおくことは、ごく一般的。手塚治虫や萩尾望都も、そうした手法を採用している。『アストラ』におけるアリエスの映像記憶能力やウルガーの射撃の腕前などは、そんな仕込みだろう。
 優れた伏線は、鑑賞する側の型にはまった予測が実際の展開と食い違うことを、あらかじめそれとなく匂わせる。明確な叙述ではなく、「何かおかしい」という心のざわつきをもたらすものである。
 伏線の見事なアニメ作品として私が挙げたいのは、『PSYCHO-PASS サイコパス』(のっけから常守朱がやけに自分本位に行動する)、『輪るピングドラム』(公園脇のバラックが妙にカラフルで、二人の兄も異様に妹思い)、『フリップフラッパーズ』(街の光景と建物内部の状況が調和していない)など。『PSYCHO-PASS サイコパス』は、「反社会的な悪人を常守らが取り締まる物語」と予測させておいて、終盤で視聴者を善悪の彼岸に誘い込むが、その足がかりとなる伏線が、前半から至る所に張り巡らされている。こうした作品と比較すると、『アストラ』では伏線がないに等しい。

【プロデューサーの役割】
 『アストラ』の欠点は、大半が原作の段階から存在するものだが、アニメ化する際に修正できなかったのか。
 原作の修正を直接的に行うのは、脚本家である。こうした修正が巧みなのが吉田玲子で、単なるギャグ漫画でしかなかった『けいおん!』や『のんのんびより』を、「仲の良い女子高生の交流を描く学園ドラマ」や「心安らぐ田舎での癒やしの物語」に作り替えた。この種の修正をきちんと行えば、『アストラ』もそれなりに面白くなったかもしれない。だが、もともとラノベ作家でアニメ脚本の実績が乏しい海法紀光(シリーズ構成担当)には、少し重荷だったようだ。
 ただし、脚本家以上に問題視しなければならないのは、プロデューサーの役割である。最近の原作ものアニメの場合、あまりに原作そのままで曲のない作品が多いが、これは、原作から乖離しないようにと、プロデューサーが脚本家やアニメーターに釘を刺しているからではないかと推測される。
 原作ファンの中には、少しでも違う設定を導入すると文句を言う人がいる。収益を最優先するプロデューサーの場合、原作ファンにディスクやグッズを購入してほしいと考えるため、彼らの意に背くような作品を作りたがらない。これは、実写映画でも同様で、役者にコスプレのような衣装とメイクを施し、原作キャラそっくりにしてファンに媚びを売る。「全日本仮装大賞」ではあるまいし。
 優れた作品を作ろうと思うなら、原作から離れることをためらってはならない。ヒッチコックの映画『めまい』の場合、ボワロー&ナルスジャックの原作がラストに大ドンデン返しのあるミステリーなのに、途中で真犯人とトリックをばらしてしまい、後半では登場人物の心理を深く抉る。発表直後はミステリーファンから総スカンを食ったが、現在では、イギリス映画協会が発表した『世界の批評家が選ぶ偉大な映画50選』の第1位に選ばれるなど、映画史上最高傑作の1本と目されている。
 アニメのプロデューサーも、儲けのことばかり考えず、優れた作品を作るために配慮してほしいものだ。

キャロル&チューズデイ

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 始まってすぐ、チューズデイの家出シーンで、「ああ、上手いなあ」と思わず声が出た。昨今の手抜きアニメと異なり、作画がしっかりしている。窓から抜け出し勇んで歩き始めたものの、ギターが重くすぐに顎を出し、おまけに電動スーツケースが電池切れになってお尻で押す羽目に。そうした仕草の一つ一つに、少女らしいフワフワ感が滲み出る。誤って貨物車両に乗り込んでしまい、そのままヤギと一緒に旅を続けるところなど、世間ずれしておらず夢見がちな彼女の性格を浮き彫りにする。余計な説明はいらない。画がすべてを物語ってくれるのだ。
 『キャロル&チューズデイ』は、こうした質の高い作画を通じて、音楽がもたらす感動を人々に分け与える作品である。映像と音楽の豪華な競演(あるいは饗宴)と言って良い。
 映像と音楽がどのように結合されるか、その好例が第3話で見られる。Aパートの終わり近く、コインランドリーでクルクル回る洗濯物を見ながら、キャロルとチューズデイが足踏みと手拍子に乗せて歌い出すと、はじめは怪訝そうにしていた男性客が、いつしかリズムに合わせて体を揺らし手を打ち鳴らし始める。何と言うこともないシーンに思えるかもしれないが、私は、「人はなぜ音楽をするのか」という根源的な問いへの一つの解答だと感じて、涙が出るほど感動した。
 このアニメが持つ力強さは、ハイレベルなパフォーマンスに支えられている。近年はやりのアイドルアニメは、女の子の頑張る姿さえ描けていれば、歌や踊りが少々下手でも許容されるようだが、『キャロル&チューズデイ』は、そんな逃げを打たない。登場するミュージシャンは、いずれも歌唱の技量が高く、歌声は強い訴求力を持つ。純然たるクラシックファンでポップスやロックはほとんど聴かない私でも、劇中で流れる歌には魅了された(ただし、ラップ嫌いは治らず、第20話のラップシーンでは、音を絞って字幕だけ見ていた)。
 思うに、人間の声は、それだけである種の感応作用をもたらすのだろう。カレン・カーペンターや宇多田ヒカルの歌声をはじめて聴いたときの、一瞬息が止まるような感覚が思い出される。第16話で伸びやかなキャロルの歌声に誘われるようにフローラがそっと歌い始めるシーンには、作り物ではない説得力があった。数多くの楽曲の中で個人的に最も気に入ったのは、アンジェラの歌う後期ED「Not Afraid」。何かに憑かれたような必死さが感じられる歌唱である。
 原作・総監督の渡辺信一郎は、『キャロル&チューズデイ』の企画について、次のように表現した−−「音楽をネタとして扱うんじゃなくて、音楽そのものをテーマとした作品を作りたいということ。それは、音楽に対する清冽な思いであり、濁りなき衝動であってほしいということ。それを表現できるのは、きっと大胆で未熟で恐れを知らない17歳の女性たちだろうということ」(『アニメ!アニメ!(animeanime.jp)』ニュース2018.11.7 Wed)。この制作意図は、作品の中に間違いなく実現されている。
 渡辺は、現代日本最高のアニメ作家の一人だが、社会の趨勢に敢えて背を向ける反骨精神が旺盛すぎるため、作品を順調に発表できていない(本作も、流行のアイドルアニメに背を向けたものである)。ただし、クリエーターたちからは尊敬されているようで、海外からのオファーを受けて短編アニメを作ることもある。最近では、音楽プロデューサー的な仕事にも情熱を傾け、総監督という肩書きで参加した『スペース☆ダンディ』では、さまざまなミュージシャンに声を掛けて、テレビアニメとは思えないほど豪華な顔ぶれを実現した(ディスクやグッズの売り上げでは惨敗)。『キャロル&チューズデイ』は、さらに本腰を入れて音楽の魅力を追求した作品で、海外ミュージシャンが多数参加し、全曲が英語で歌われる。これほどの作品がどのようにして完成に漕ぎ着けられたのか、裏事情はよくわからないが、企画・製作として、共に渡辺の初期作品『カウボーイビバップ』を担当した実力派プロデューサー、ボンズの南雅彦とフライングドッグの佐々木史朗が名を連ねていることが、鍵だったのではないか。
 『キャロル&チューズデイ』で私が最も好きなのが、第5話「Every Breath You Take」における初ライブのシーンである。音楽ライブを見事に描出したアニメ作品には、『NANA』第15話「ブラスト、初ライブ」、『涼宮ハルヒの憂鬱(第1期)』第12話「ライブアライブ」、『覆面系ノイズ』第12話「とどきますように」などがあるが、本作は、感動の深さという点で、これらすべてを凌駕する。ライブハウス(というよりは演奏スペースのあるスナックといった趣の店)で、無名の少女二人が1曲だけ歌を披露。はじめは見向きもしなかった10人足らずの客が、歌声の純粋さに惹かれて少しずつ注意を向け始める。その過程が実にナチュラルに感じられる、衒いのない映像と音楽が感動的だ。
 難を言えば、終盤になるにつれてシナリオがやや教条的になり、それとともに映像と音楽の結合が序盤ほど密でなくなったこと。第1話Bパートでは、軋むようなノイズが混じるチューズディのアクースティックギターの音と、キーボードを弾きながら口ずさむキャロルのハミングを、少しずつ組み立てるように聞かせることにより、まさに音楽が誕生する瞬間に立ち会っているという至福の思いを味わわせてくれた。しかし、後半では、完成された楽曲の演奏を収録し、これに合わせるように作画したらしく、映像で語られる物語と随伴する音楽が溶け合っていない。特に、ストーリーの上で重大なポイントとなる第22話ラストでのアンジェラの歌唱シーンが、いかにもパワー不足である。
 このシーンは、アンジェラが自分の存在価値を懸けて歌うところである。なのに、音が映像に負けている。小手先の歌唱技術で小綺麗にまとめるのではなく、リパッティ最後のリサイタル(このリサイタルがいかなるものだったかは、ググれば多くの情報が得られる)のように、鬼気迫る音を表現してほしかった。楽曲も、視聴者の耳に馴染んだED曲「Not Afraid」を、この場面のために演奏し直して使った方が、感動を増したのではないか。
 第5話までなら、テレビアニメとしてここ5年間の最高傑作と言いたいのだが、少し減点せざるを得なかった。

この音とまれ!

【評価:☆☆☆】
 箏(こと)をフィーチャーした珍しい作品だが、芸術に打ち込むことがいかに心を豊かにしてくれるかが表現されており、単に物珍しさからでなく、芸術に関心のある人すべてに見てほしい佳作である(…と偉そうなことを書いたが、実は、第1クールだけで終わったと錯覚して、しばらく星2つ評価を付けていた。3ヶ月おいて放送された第2クールは、ひとつながりの話であるばかりか、第1クールより遥かに深い内容で、評価をアップした)。
 正直なことを言えば、新たなメンバーが加わったことで廃部寸前だった部が活気を取り戻すというストーリーは、学園もののド定番でいかにも陳腐である。箏職人の祖父に感化された元不良少年や、母親との軋轢に悩む家元の娘など、登場するキャラも類型的で人間としての厚みに欠ける。作画は、お世辞にもうまいと言えない。表情やポーズに心情がにじみ出すような表現ができておらず、演奏シーンは表面的なエフェクトに頼りすぎ。しばらくは平凡な部活アニメと流し見していた。
 ところが、第18話で堂島が箏曲部の指導を担当し始めてから、俄然おもしろくなる。彼女は、技術的に完璧であるにもかかわらず、内面から湧き上がるものがなく、自分には才能がないと自己嫌悪に陥っていた。しかし、真の芸術とは技術を磨いた先にしか存在しないのではないか?内面から湧き上がるのは単なる衝動に過ぎず、技術を磨く際のモチベーションにはなっても、それ自体が人を感動させるわけではない。
 箏曲部メンバーに対して、堂島は、一つひとつの音を磨き上げる技術指導に徹した。彼女自身、それが箏曲部のグレードアップにつながるとは信じていなかったようだ。にもかかわらず、コンクールで優勝したときの堂島の凜とした演奏をDVDで見た部員たちは、究極的な技術が何を生み出すかを悟る。こうして部員たちが堂島に深い信頼を寄せるようになり、堂島も、自分が箏の演奏家としていかなる存在なのかを理解し始める。技術指導に徹しながら、堂島と部員の間には、互いに相手を成長させる人間的な関係が醸成されたのである。
 第20話で、堂島が手本として部員たちの前で家元の娘と共演するシーンがある。私は、この場面を見ながら、不覚にもポロポロと涙をこぼしてしまった。部員たちの下手な演奏に比べると、表面的には技術が洗練されただけなのに、心を強く揺り動かされたからである。芸術が人を感動させるとはどういうことなのか、そんなことまで考えさせる名シーンである。

ヴィンランド・サガ

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 幸村誠(『プラネテス』)が2005年から連載中の漫画『ヴィンランド・サガ』(私は未読)のうち、ブリテン編まで(〜単行本第8巻)をWIT STUDIO(『進撃の巨人』)がアニメ化した作品。11世紀初頭の北ヨーロッパにおけるヴァイキングたちの血塗られた歴史を取り上げており、作中に登場するデンマーク王スヴェン1世とクヌート王子は実在の王族、主人公のトルフィンはアイスランド商人ソルフィンがモデルだとされる。タイトルのヴィンランド(「ブドウの地」の意)は、ヴァイキングが入植したとされる伝説上の土地で、しばしば北アメリカの一部(ニューファンドランド島など)に比定される。
 これは全くの推測だが、原作者の幸村は、途中で何度か作品の全体構想を変更したのではなかろうか。当初は、少年トルフィンの目を通して、農業生産性の低い北ヨーロッパの貧しさと、それ故に繰り返される略奪の残虐さを描き出すことが主眼だったように思われる。力の強い乱暴者が無残に人を切り刻む血なまぐさいシーンが延々と続き、私のように血の嫌いな人間には、どうにも耐えがたい。アニメの第1クールは、半分以上早送りしながら視聴した。
 しかし、第2クールに入った頃から、作品の方向性が大きく変わる。トルフィンは脇に追いやられ、代わって、圧倒的な存在感で場を支配するアシェラッドを中心に、クヌートとトルケルが重要性を増す。後二者は第1クールから姿を見せていたが、クヌートは顔がきれいなだけの軟弱な臆病者として、トルケルは戦好きの体力バカとして描かれた。その二人が第15話辺りから少しずつ様相を変え、第18話でまるで別人となる。彼らは、トルフィンに見られるだけの歴史の駒から、歴史を作る主体的存在に変貌するのだ。
 第18話「ゆりかごの外」では、負傷して「見る者」の立場となったアシェラッドをはさんで、クヌートとトルケルが対照的/対称的に描かれる。トルケルはトルフィンとの果たし合いを続け、クヌートは従軍神父と宗教的な会話を交わすのだが、トルケルのバトルが戦略上の意味を持たない不毛な行為なのに対して、クヌートの言葉は、一つひとつがずっしりと重い。無意味な争いに、愛を追い求める精神が対置される。
 「正しく愛を体現できる者はどこにいるのだ」と問うクヌートに対して、戦闘で命を落とした戦士の死体を目で指し示しながら、神父が語る。
「そこにいますよ、ほら。彼は死んで、どんな聖者よりも美しくなった。愛そのものと言っていい。彼はもはや、憎むことも奪うこともしません。彼は、このままここに打ち棄てられ、その肉を獣や虫に惜しみなく与えるでしょう」
 その言葉に、クヌートは卒然と悟る。
「わかってきた。この雪が「愛」なのだな。…あの空が、あの太陽が、吹き行く風が、樹々が、山々が…。なのに、なんということだ。世界が、神の御業がこんなにも美しいというのに、人間の心には愛がないのか」
 そして、力による略奪がいつまでも繰り返されるこの世に思いを馳せる。
「地を得て、代わりに失ったもの。最も大切なもの。そしてそれは、生ある限り私たちの手には入らぬもの。手には入らぬ。それでも、それでも追い求めよと言うのか、天の父よ」
 ここからラストまで、一段と高い視点から歴史の変転が見つめられる。
 最終第24話のタイトルは、「END OF THE PROLOGUE(序章の終わり)」だった。いったん脇に退いたトルフィンが、歴史を作る役割を担って再登場するのか、続編が期待されるところである。

【補記】(アニメ第2期について)
 農業生産性の低かった中世北欧を舞台に、貧しさから脱する手段が簒奪しかない人々の悲惨な生を描いてきたアニメ『ヴィンランド・サガ』は、第2期に入ってかすかな光が見えてくる(制作会社は、第1期のWIT STUDIOからMAPPAに変更)。
 第1期は、残虐な戦闘シーンばかりで見るのがつらい前半、人間の欲望と神の沈黙に目を向け深遠だが救いのない後半のいずれも、ひたすら暗い話が続いた。しかし、この第2期では、奴隷の身に落ちた二人の男が、残虐非道な出来事の狭間に希望のかけらを見いだすまでが語られる。平和を維持し実直に開墾を続ければ、豊かとは言えないまでも、困窮のどん底から這い出せるかもしれないという希望である。
 第2期には、第1期になかった見所が2つある。一つは、美しい女奴隷の悲痛な、しかし心を揺さぶられる物語で、ほとんどメインストーリーと言えるほどの厚みを持つ。もう一つは、以前とは打って変わって肝の据わったクヌートの姿。出番こそ少ないが、私にとって第2期で最も忘れがたい。
 物語が進むにつれて、暴力の愚かしさと空しさを語るエピソードが増える。挑発に乗せられた挙げ句、多くの仲間を死なせてしまった男は、涙で顔をグチャグチャにしながら、「俺にはだまって笑われる勇気がなかった」と呻く。特に感銘深いのが、トルフィンとクヌートが対峙するシーン(第22-23話)。「(襲撃した)農場から手を引いてくれ」と迫るトルフィンに、「余こそは帝王」と切り返すクヌートは、「余の力は人智を越え、不可能を可能にする。見よ(と荒波寄せる海岸に向けて手を伸ばし)余の力であの波を鎮めて見せよう」と豪語する。これに続くシークエンスは、息を呑む圧倒的な迫力だ。アニメ芸術の真骨頂である。
 前半はやや単調で退屈するかもしれないが、これは、終盤を盛り上げるためのお膳立てだと思った方が良い。

バビロン

【評価:☆☆】
【重大なネタバレあり】
 「どこかで間違えた」としか言いようのないアニメ。どこでどう間違えたかが特定できないので、星2つという中途半端な評価にせざるを得なかった。以下、いくつかの推測を記すが、原作とアニメの重大なネタバレがあるので、これから作品に接する予定の人は、読まないように。

【原作者が間違えた?】
 原作になったのは野崎まどの小説で、これまで『バビロン I −女−』(2015年10月)『バビロン II −死−』(2016年7月)『バビロン III −終−』(2017年11月)の3冊が刊行された (いずれも講談社タイガ刊、私はアニメ放送後に読んだ)。この3冊で完了したのか、第4巻が準備中なのか、中断されたまま執筆されていないのか、はっきりしたことはわからない。この原作小説からして何とも奇妙な作品であり、作者の意図が読み取れない。
 ここで扱われるのは、自殺の問題。自殺を扱った作品というと、従来は、フォークナー『響きと怒り』、漱石『こころ』、ルイ・マル『鬼火』など、自殺しようとする人の内面を見つめるものが主流だった。しかし、近年になると、伊藤計劃『ハーモニー』やソフィア・コッポラ『ヴァージン・スーサイズ』のように、意図が不明確なまま自殺する人を取り上げた作品が目立つ。『バビロン』は後者の系譜に連なるもので、なぜ自殺するのかわからないケースを描く。ただし、『ハーモニー』『ヴァージン・スーサイズ』が、理由不明であることが人間の曖昧な本性を浮かび上がらせるのに対して、『バビロン』では、魔性の女によって強制的に自殺に導かれており、「人間とは何か」という哲学的な問いかけとは無縁である。
 刊行された3冊のストーリーラインは、どれも同じである。第1巻では、政治的陰謀を匂わせる医学ミステリとして始まりながら、やがて医学から離れ、曲世愛(まがせあい)が登場して多くの関係者を自殺に導き、謎の解明を目指した正崎善の計画をぶち壊す。第2巻では、実質的な国家内国家である独立自治体・新域の首長選を巡る社会派ドラマとして始まりながら、やがて社会問題から離れ、曲世愛が登場して多くの関係者を自殺に導き、不正の暴露を目指した正崎善の計画をぶち壊す。第3巻では、国法が倫理に踏み込むべきかに関する論争の話として始まりながら、やがて法と倫理から離れ、曲世愛が登場して多くの関係者を自殺に導き、倫理の復権を目指した正崎善の計画をぶち壊す。
 すべて、ミステリやドラマのオーソドックスな展開が、曲世愛によって断ち切られ忽然と終了するというストーリーである。ギリシャ悲劇では、物語が混迷の度を深めたとき、しばしばからくり仕掛けによって舞台に神が降臨し難題を一刀両断にする。これを「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」というが、曲世愛は、まるで舞台そのものを壊してしまう機械仕掛けの破壊神のようだ。
 気になるのは、『バビロン』というタイトル。作中での記述から明らかなように、このタイトルは、堕落した社会の象徴として『ヨハネ黙示録』に登場する大淫婦バビロンを意味しており、直接的に曲世愛を指す。とすると、作者は曲世を神話的存在として捉えていたと推測され、彼女を機械仕掛けの破壊神として描いたとしても不思議はない。
 ところが、曲世愛が物語を断ち切るために利用するのは、接触した人を操って自殺させるという(まるでルルーシュのギアスのような)婉曲な手段でしかない。野崎まどは、なぜこんな手段を利用したのか? その謎を解く鍵が、第2巻で言及されるフロイトの学説である。
 フロイトは、あらゆる人間にエロス的な衝動(リビドー)と並ぶ《死の欲動》があると主張し、これをタナトスと呼んだ。正崎は、曲世が中学生の時に読んだとされるフロイト著『快感原則の彼岸』を、わざわざ取り寄せ熟読している。
 「正崎は繰り返し読んだ一連のページをもう一度見遣る。/死の欲動。死へ向かおうとする欲動。タナトス。デストルドー。それは、自我が抵抗し難い衝動であり、個体発生上もっとも古い原初的な欲動であり、悪魔的な生命の破壊衝動である。/全ての人間がそれを持っていると、フロイトは言っていた」(『バビロン II』p.187)
 曲世愛は、言葉を交わした人のタナトスを活性化させる能力を備えているようだ。彼女に接触した人が、まるでリビドーを抑えかねるように自殺に向かうことを考えると、野崎まどは、曲世を「タナトスとエロスを入れ替える」能力の持ち主としてイメージしたのかもしれない。もし、タナトスとエロスに関するフロイトの学説が正当ならば、『バビロン』は、この2つの欲動に支配される人間の性(さが)を直視した神話的物語として評価できる。
 しかしながら、タナトスとエロスを人間の根源的な欲動と見なすのは、はっきり言って滑稽な考えである。現代のまともな精神医学者ならば、フロイトのタナトス論を真に受けることはないし、大半の医学者は、エロス論にも否定的である。精神医学が未発達でヒステリーやPTSDに関する知見に乏しかった20世紀初頭ならともかく、神経科学のデータが集まった今日、無意識下の欲動という曖昧な概念を持ち出す必要性は全くないのである。
 自殺を法律で禁止するという発想は、法学的に見て論外である。現在、自殺に関する法的な議論は、自殺幇助・自殺教唆の問題を中心に、社会との関係という文脈で取り上げられるのが一般的。ALS患者など手厚い介護を必要とする人に見られがちな「他者を思い遣っての自殺願望」とどのように対処するか、抑鬱症状として現れる希死念慮をどこまで薬物でコントロールすべきか、自殺衝動の持ち主を狙った性犯罪をいかにして抑止するか、さらには、自爆テロのような過激な自殺を防ぐにはどうしたら良いか---自殺に関する論点は、こうした具体的な問題に絞られている。『バビロン』第2巻や第3巻で政治家たちが行う議論はあまりに皮相的で、自殺について深く考えてきた研究者に鼻で嗤われるような内容である。
 作中で語られる自殺論が、野崎まど自身の考えかどうかは判然としないが、もしそうだとしたら、医学的知識の乏しい作家の戯言でしかない。もちろん、第4巻でフロイト説を嘲笑する深遠な人間観を提示する予定かもしれないので、あまりに厳しい評価は留保せざるを得ないのだが。

【プロデューサーが間違えた?】
 アニメ『バビロン』は、TOKYO MXほかで2019年10月に放送が開始されたものの、原作第2巻の終結部に当たる第7話「最悪」でいったん中断、しばらく第1話から再放送した後、12月30日に、前半が第2巻のまとめ、後半が第3巻の導入となる第8話「希望」が放送された。それ以降は、時間帯を変えて第3巻に基づくエピソードが描かれたが、最終第12話「終」の終結部は、アレックスと曲世愛の退場の仕方が原作小説とは異なっている。
 全12話をわざわざ2クールに分割して放送したのはなぜか? 内容からして、視聴者の関心を煽ろうとしたとは考えにくい。この期に及んで、制作が間に合わなかったのか。あるいは、第7話の終盤が放送コードに引っかかる内容だったため、大幅な手直しが必要となったのだろうか(第8話冒頭には、「この作品には一部刺激的な表現が含まれます。児童および青少年の視聴には十分ご注意ください」という文言が表示される)。
 そもそも、「人々が欲動に駆られて自殺する」という過激な小説をアニメにすること自体、暴挙に近い。しかも、第3巻までのいささか中途半端と思える段階では、優れた作品にするのが困難だとわかるはずである。アニメ化の企画が発表されたのは2018年春であり、第3巻までの執筆ペースからすると、18年末か19年初頭に第4巻ができあがると予想された。そこで、全4巻を各巻6話程度の2クールアニメとするつもりで企画したものの、結局第4巻は発表されず、取り急ぎ各巻4話前後にまとめ直したのかもしれない。原作の内容を各話にどのような割り振るかを考えるシリーズ構成の担当者が(放送版にも公式サイトにも)クレジットされていないが、監督と並ぶ重要スタッフの名前が欠落していることから、制作現場がかなりバタバタしていたのではないかと想像される。この想像が正しければ、完全な企画ミスである。
 アニメ制作にあたったREVOROOTは、『刻刻』『フリクリ オルタナ』などで制作協力を行った会社だが、実績は乏しく、これまでのところ元請け作品は『バビロン』くらいしかないようだ。アニメ化を企画したのは、2014年設立という新興のプロデュース会社・ツインエンジン。出資企業の寄り合い所帯でアニメを作る製作委員会方式を改め、海外配信を行うことで1社製作を可能にするビジネスモデルを目指す(ちなみに、アニメやTVドラマでは、クリエイティブな作業を行うことを「制作」、金回りの実務を行うことを「製作」という)。もっとも、このやり方で優れた作品を生み出せているかどうか、微妙である。“尖った”原作を狙うあまり、描写が過激で見終わって不快になる作品が多いからである。ツインエンジンは、自社製作のアニメ『からくりサーカス』『どろろ』『ヴィンランド・サガ』『バビロン』『pet』をAmazonプライム・ビデオを通じて海外独占配信したようだが、これらの作品が海外のファンに日本アニメの最先端と思われたら、ちょっと口惜しい。

【アニメーターが間違えた?】
 アニメ『バビロン』は、人々が自殺する動機や曲世愛の正体がはっきりしないまま制作されたせいか、キャラの内面が充分に表現されていない。
 第3話「革命」の終盤、高層ビル屋上の端に立つ人々は晴れがましい表情をしており、次々と飛び降り自殺する瞬間には、まるで遊戯に興じるような笑顔を見せる。もし、この行為が活性化されたタナトスによってもたらされたのならば、欲動を制御しきれない狂気染みた表情か、逆に理性の喪失がもたらす法悦の境地を示すのが相応しいだろう。また、意識が完全に曲世のコントロール下にあるとすると、自由意志を感じさせない能面のような顔貌になるとも予想される。ところが、アニメで描かれたのは、訳もなく楽しそうに飛び降りる人々の姿である。まるで空中浮遊を試みるかのように、手足を奇妙に伸ばして…。こうした描写は、視聴者に行為の意味を考えさせることなく、単に、異様な不快感を与えるだけである。『バビロン』の作画は、何らかの意図を表現すると言うよりも、見る者を嫌な気持ちにすることを第一目標としているように思える。
 曲世愛のキャラクターデザインは、いかにもありきたりで、“大淫婦バビロン”にはほど遠い。原作の記述はあまりに観念的で、どのような外見かを確定できないため、仕方ないとも言えるが、アニメという具象的な表現に移し替えるのだから、もう少し工夫すべきだったのではないか。新域のトップとなる齋開化(いつきかいか)も、ちょっと頭の良い優男にしか見えない。山岸凉子「パイド・パイパー」の真犯人のような、見た瞬間に心を抉られる凄まじい顔立ちにしてほしかった。
 周辺人物も、生きた人間として肉付けされていない。例えば、正崎の助手の立場にいた陽麻(ひあさ)は、うまく膨らませていれば、野崎まどが脚本を書いた『正解するカド』の沙羅花のような面白いキャラになったと思われる。第5話「告白」Bパート、剣道の試合の後で、陽麻が「私は…“善くない仕事”を要求されていると思っていました」と語る。同じ台詞が原作にもあり、ここから彼女の人間性が浮き彫りになるかと期待したのだが、以後、彼女の内面に触れる描写はほとんどなく、どんな人物だったかわからないまま退場させられてしまう。たとえ原作になくても、絵の力によって人物像を形作ることは可能だったはずである。
 結局、観念的で心理描写に欠ける原作をそのままなぞるようにアニメに起こしたため、心に訴えるものがなく不快感だけが残る作品になってしまった。アニメーターが自主的に作品世界を膨らませられなかったのは、プロデューサーが原作から逸脱しないようにと要求したからか、監督や原画マンの実力不足のせいか、原因ははっきりしないものの、何とも残念な出来である。

映像研には手を出すな!

【評価:☆☆☆☆☆】
 楽しい! ワクワクする! 何度も声を上げて笑い、手を叩き、涙ぐんだ。こんなに胸を熱くしたアニメ体験は、何年ぶりだろう。アニメを見ることの喜びが極まる。
 ストーリーは至って単純である。3人の女子高生が、新設した映像研究同好会でアニメを実作するというだけ。この1点に絞った脚本が、ストレートで力強い。構想力の弱い作家だと、話を進めるために次々と障害を持ち出し、そのたびに主人公が頑張って乗り越えるというご都合主義的な物語にしがちである(具体的な作品名も思い浮かぶ)。しかし、『映像研』では、アニメ制作のツールはあらかじめ学内に用意されており、協力者も続々と現れる。反対する教師は軽くいなされ、批判的だった生徒会もいつのまにかシンパに。こうして余計な障害がスムーズに取り除かれ、物語はアニメ作りの本質に突き進んでいく。

【細部へのこだわり】
 主人公の浅草みどり・水崎ツバメ・金森さやかは、それぞれ性格が全く異なる個性豊かなキャラとして設定され、それに応じて、アニメ作りにおける役割分担がきっちり決められる。浅草が設定と演出、ツバメが作画、金森がプロデュースを担当。第1話後半、出会ったばかりの浅草とツバメは、それぞれ個人的に描いていた設定画と人物像を重ねながら嬉々としてアニメ話に興じるのだが、あまりに楽しそうな姿を見るうち、作品世界に否応なく引きずり込まれてしまう。
 ツバメが目指すのは、動きの細部にこだわった作画。彼女の想いは、第6話での熱弁で浮き彫りになる。巨大ロボットの動画に関して、アクションそのものよりも反動や予備動作といった前後の動きの重要性を強調する---「懐に入られないように足を引く。…打撃の反作用で弾き返される。走りの予備動作。パンチの予備動作。ぐっと力を入れる瞬間。こういう動作がポイントなわけよ」。素早い動きや光の明滅といったアイキャッチ効果(いわゆる子供だまし)を使ってごまかすだけで、こうした基本の動きが描けていない“アクションアニメ”のなんと多いことか。ツバメの主張を実践した作品として私が思い出すのが『Fate/Zero』。エクスカリバーを放つ直前、ゆっくりと剣を振り上げるセイバーの姿が目に浮かぶ。
 ツバメのこだわりは、茶碗から投げ捨てたお茶がきれいな放物線を描いたり、怪獣の口の中で唾液が糸を引くシーンに現れる。こだわりのルーツが示されるのが、第7話のロケット打ち上げ場面。ガイナックス『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(および、CGスタッフの溢れんばかりの情熱にNHKが特集まで作ってしまった米映画『アポロ13』)へのオマージュでもあるこのシーンにかぶせるように、ツバメはアニメ愛をとうとうと語り続ける(金森が「情熱は気持ち悪いっすけど、まあ、わかりました」と受けるのも笑える)。

【緻密な設定】
 一方の浅草は設定に力を入れるが、そこに、自由奔放な想像力と現実を直視するリアリズムが共存することに注目したい。
 作品世界の隅々にまで詳細な設定を施すことは、表面的な面白さに留まらない深遠なアニメ(あるいは小説や漫画)を作るために必須の作業である。高畑勲の初監督作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)では、場面設計・美術設計というクレジットで参加した新人の宮崎駿が、舞台となる村の俯瞰的な全体像をはじめ、リアルな生活感が匂い立つようなイメージボードを描くことで、東映動画の歴史に残る名作を生み出した(興行成績では惨敗)。
 浅草の描くイメージボードも、豊かな想像力に彩られながら、リアルさを失っていない。これは、彼女が抱く世界像が、見慣れた光景をアニメ的想像力の作用で変容させた結果だからだろう。
 こうした変容は、浅草が描く画の中だけではなく、彼女がその中で生活している芝浜の街そのものにも及んでいる。そのことを具体的に示したのが、第9話のロケハンのエピソード。電柱からミサイルが発射され、地下に通じる階段が幻のらせん商店街に見えてくる。現実に空想が重ね描きされることで、実際には見えていない細部が、心を揺さぶるエモーショナルな存在として立ち現れる。
 彼女が見つめる街並みは、ダンジョンもどきのマンションやら校舎群が妙に入り組んだ高校やら、それだけで何かウキウキする光景である(もっとも、東京人は、「ビルの3Fに地下鉄が突っ込む」リアルダンジョン渋谷駅を見知っているので、この程度ではさして驚かないのだが)。アニメのようにエモーショナルな現実と、現実のように確固たる存在感を持ったアニメが入り交じり共鳴し合うのが、『映像研』の世界だと言っても良い。
 この作品の最大の特徴は、アニメの中でアニメを描いた点である。アニメ内アニメが登場する作品は少なくない(『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』など)が、大概の場合、作品内で描かれるアニメは枠となる作品世界そのものよりものっぺりと単純化される。そうしないと視聴者が混乱すると考えたのだろうか。ところが、『映像研』では、それほど単純化されていないにもかかわらず、現実とアニメの間をキャラが自由に行き来しても紛らわしさがない。作品内アニメは、ラフな下書きのような塗り残しのある線画で描かれており、枠となる作品世界と明確に区別されるからである。実は、こうした塗り残しのある作画は、きっちりと色を付けるよりも遥かに手間が掛かる。その手間を惜しまずに制作したからこそ、アニメのような現実と現実のようなアニメの間を融通無碍に行き来する、ムチャクチャ楽しい作品になったのだ。

【音響の素晴らしさ】
 『映像研』を語る上で忘れてならないのが、音響効果の素晴らしさである。SE担当の百目鬼(どうめき)が登場する第6話以降は、音響が映像に匹敵する力を持つことがはっきり示される。
 第10話で描かれたサウンドハンティングの一場面。腹の底に響くような大音量のチャイムを全員が息を詰めて録音するシーンでは、一音一音を大切にする百目鬼の心情が表出される。この少し後、彼女は、録音したばかりのチャイム音に、テンプに似たメカの動作音と鈴の音を切り貼りして一連の音型を作り上げるが、それを聴いているだけで、心をそっと撫でられたような不思議な感動が湧き上がる。『となりのトトロ』で枝から落ちた水滴が傘にパラパラと当たったときの音、あるいは、『少女終末旅行』の雨音(第5話)や『もっけ』のソラバヤシ(第16話)のように。
 第8話アヴァンで、百目鬼が映像に音を付け、浅草とツバメがいろいろと意見を言うシーンがあるが、どれも興味深い。特に、音楽を映像の動きと完全にシンクロさせず、少し遅らせることで効果を増すところが印象的。「音楽が観客より先回りして、押しつけがましかった訳ですな」という浅草の評言が的確だ。

【プロデューサーは何をすべきか】
 『映像研』は、マスターピースと言いたくなる見事な作画を通じて、アニメ制作のノウハウを惜しげもなく披露する。第2話では、いかにすれば風車が回っているように見えるかを、羽の角度の取り方、回転する物体に関する中割りの仕方、そして何よりも、風という目に見えぬ存在をどう描くかを、具体的な映像を使って教えてくれる。アニメ学校の教材として使えそうなほど、実用的である。
 最も感心したのが、第4話で紹介された尺を伸ばす方法。まずは風景の追加。止め絵でも、少しパンするだけで雲が流れ風が吹き抜ける意味ありげなシーンとなる。移動シーンは、空の割合を多くして動きの描画を減らし、横スクロールで背景をリピートする。極めつけは、人物の決めポーズ。アップにしてパンを繰り返すだけで、緊張感が高まる。3枚の画をリピートしながら、変化を加えた4枚目を時折追加すると、それだけで表現が膨らむ…
 これらの手法は、決して「いかに手抜きするか」ではない。むしろ、適度に間(ま)を入れることで、緩急をつけバランスを良くするためのテクニックである。やる気のありすぎるクリエーターは、むやみに力を込めるあまり作品のバランスを壊してしまう。尺を伸ばす作業によって過熱気味の思い入れを冷ますと、すっきりとした作品に仕上げられることが多い。
 このシーンを見ているとき、ふと谷崎潤一郎『文章讀本』に出てきた添削を思い出した。学生のつまらない作文をベースに、まず余分な表現を削ってすっきりさせ、次に文言をわずかに修正して余韻を持たせる。最終稿は、はじめの文章と少ししか違わないのに、心が動かされる名文に変貌していた。『映像研』で示されたアニメの添削も、表現のわずかな違いによって訴求力が大きく変化することを明らかにする。
 尺を伸ばす作業で重要な役割を果たすのが、実質的なプロデューサーの金森。彼女の行為は、納期に間に合わせるための無茶振りのようで、実は、リソースを的確に配分し直しているのである。資金の調達やPCなどのツールの手配も、彼女がいなければ不可能だった。
 浅草とツバメは、アニメを作りたがってはいても、どうすれば作れるかを知らない。もし『映像研』がこの二人だけでアニメを完成させる話ならば、アニメ好きの夢想がなぜか実現してしまう、リアリティのない絵空事になったろう。金森が有能なプロデューサーとして、目標を明確にしリソースを的確に配分したからこそ、アニメ作りが成功したのである。状況に合わせて方向性を修正したり、暴走する作家の手綱を引っ張ることもあるが、無理に枠に嵌めるのではなく、常に作家の才能を生かすことを心がける。現在のアニメ界に、これほどのプロデューサーが何人いるのか、心許ない。
 作品内では、金森の存在によってアニメを作りたいという熱意が実現に向かって動き出すが、それと同時に、『映像研』のスタッフは、作品の外部からアニメ作りの高度なテクニックを次々と盛り込んでいく。こうして、女子高生のアニメ愛とプロだけが持つ熟練の技が結合した、創作活動の極限を示す夢のような作品が生まれたのである。

【湯浅政明について】
 『映像研には手を出すな!』の原作は大童澄瞳の漫画。私はごく一部を読んだだけだが、悪くはないものの特に優れた作品とは思えない。アニメが傑作になったのは、湯浅政明(監督・シリーズ構成)の力が大きいだろう。
 湯浅は『クレヨンしんちゃん』における作画でアニメファンの間では知る人ぞ知る存在だったそうだが、私は見ていない。初の監督作品で批評家から絶賛された劇場用長編『マインド・ゲーム』(2004)や、有料TVで放送された『ケモノヅメ』(06)『カイバ』(08)も、有り余る才能をコントロールできていない感じがして、好きではない。しかし、2010年のTVアニメ『四畳半神話大系』で度肝を抜かれ、2014年の短編「急がば回るのがオレじゃんよ」(『スペース☆ダンディ』第16話)、2017年に公開された長編『夜は短し歩けよ乙女』と『夜明け告げるルーのうた』に至って、現代日本最高のアニメ作家の一人だと認識する。
 初期の作品は、作画崩壊と言いたくなるほどの極端なデフォルメ、モノクロームから派手な原色にわたる自在な色使い、長い静止が全速力での失踪に突如変転するダイナミズムなどが特徴で、ストーリーテリングには不向き。しかし、ノイタミナ枠のために制作した『四畳半』でコツを掴んだのか、これ以降は実験的表現が抑制され、高度なテクニックと良い意味での大衆性を備えた秀作を作るようになる。『映像研』は、そうした大衆的アニメ路線で最良の作品と言える。
 改めて言うまでもないが、アニメとは絵を動かす芸術であり、「すべて作者が意識して描いたもので出来上がっている」(第7話、浅草氏の台詞)。
 実写映画では、どうしても意に沿わない動きをするものが映り込んでしまう。カール・ドライヤーや小津安二郎などの創造的な映画作家は、望まない動きをいかに止めるかに腐心した。テオ・アンゲロプロスは『霧の中の風景』で、大人たちがじっと佇む間を子供が走り続けるシーンを演出したが、そんな演技を俳優に無理強いしたのは、社会における人々の位置を象徴的に表したかったからである。人間には制御できない出来事に悩まされることも多い。ジョージ・スティーブンスは、『シェーン』の冒頭で鹿がポーンと横に跳ねるシーンを撮影するためだけに、3日間待ち続けた。
 実写映画に比べると、アニメでは運動と停止を対位法的に組み合わせることも、物理的にあり得ない動きをさせることも可能であり、表現の自由度が大きい。さらに、絵画と違って動きがあり、漫画と違って音響を利用できる。アニメが最強の視覚芸術である所以である(ただし、膨大な枚数を作画しなければならないので、どうしても1枚1枚の絵の質が落ちるという難点もあるが)。湯浅は、こうした自由度を最大限に利用してアニメを作る。『映像研』の場合、先に湯浅作品を見てしまうと、多くのシーンがアニメ以外のメディアで表現するのがもはや不可能に思えてくる(無謀にも実写化されるようだが)。それこそが、湯浅マジックなのだろう。

【おまけ】
 強いて言えば、『映像研』は、女子高生の姿が生き生きと描かれながら、色気が全くない。定番の銭湯シーン(第7話)では、女子高生3人が全裸ではしゃいでいるのに。水崎氏よ、首に掛けたタオルで胸を隠すな!オヤジ臭い(浅草氏と金森氏は許す)。

ID:invaded

【評価:☆☆】
【ネタバレあり】
 あおきえい(監督)と舞城王太郎(脚本)という才人を起用し、SFとミステリを合体させた意欲作でありながら、SFとしてもミステリとしても未熟で、アイデア倒れの感が強い。
 基本的なプロットは、捜査官が連続殺人犯のイド(id)に潜入し、犯人捜しを行うというもの。犯人が不明な段階での潜入なので、現場から採集された「思念粒子」を使ってイドを再構築するという、かなり苦しい言い訳が用いられる。他者の心理世界への潜入は、ディック『宇宙の眼』などに起源を持ち、80年代に流行したサイバーパンク以降、SF作品で繰り返し用いられてきたが、本作の場合、SF的な状況説明は乏しい。それどころか、ジャルゴンを用いて擬似科学を装うことすらせず、精神分析学用語のイドと「井戸」「異土」を掛けたダジャレで視聴者を煙に巻く。ちなみに、フロイトのidは、精神を構成する要素のうち快楽原則に従う無意識の領域を指しており、明確に対象化できないため、単に「それ(ドイツ語のEs、ラテン語のid)」と呼んだらしい。本作では、殺意の根源となるイドが想定されている。
 潜入できるのは殺人を犯した者に限られ、イド内部に入ると記憶を失うが、なぜか自分を名探偵だと自覚し探索を始める---こうした設定に則って、連続殺人犯の心の闇に何が潜むか明らかにできたならば、面白い作品になったろう。しかし、底知れぬ殺意がどうして生まれたかを納得のいく形で提示することができず、犯人たちが猟奇的な殺人を繰り返す理由は明確にされない。
 すべての連続殺人犯のイドに登場するジョン・ウォーカーは、殺人衝動を引き起こす人間本性の具現かと思わせておいて、終盤では「こんなオチ?」とがっかりさせる姿に(某ウィスキーブランドを思わせる名前だが、本作では、酒がらみのネーミングやガジェットが多く、脚本家の遊び心を感じさせる)。繰り返し死体として現れるカエルちゃんについても、最終2話で妙にクドい言い訳じみた説明が積み重ねられるだけで、すっきりした謎の解明とはほど遠い。猟奇的な殺人や斬新な捜査方法には興味をそそられるものの、ミステリとしての結構はお粗末である。
 おぞましい殺人鬼が何人も登場する中で、私が特に興味を持ったのが、被害者の頭部にドリルで穴を開ける「穴あき」。自身の頭にも穿孔があり、数への偏執のような異常な思考を抑制するために、自ら脳を傷つけたことを窺わせる。人間の大脳新皮質は、かなりの部分が損傷されても身体的な生命活動を維持できるが、損傷箇所に応じてさまざまな高次脳機能障害を引き起こす。おそらく、穴あきは、そうした障害の何かに魅力を感じて、「世界に穴を開けたい」と念じる偏執狂になったのだろう。ただし、作中で高次脳機能障害についての説明はなく、よほど深く読み込まない限り、彼の行動は単におぞましさを感じさせるだけ(第5話で特定の行動障害が脳の損傷に起因すると説明されるが、医学的に正当な主張とは思われない)。「何かが失われることが救いをもたらすか」という哲学的な問いかけは、「たこや」の文字に象徴されるように、欠失部を使った記号表現という単なるパズルにすり替えられる。
 穴あき以外の連続殺人犯は、心理の肉付けがほとんどされておらず、その多くは、わざわざ登場させる必要があったのか疑問に感じるほど。物語としては、穴あきと墓掘りを深く追求するだけで、充分だったのではないか。
 脚本を執筆した舞城王太郎の小説は、『阿修羅ガール』(2003年、三島由紀夫賞)しか読んでいないが、人間ドラマよりも次々繰り出される言葉の面白さを追求するタイプで、正直言って、好きにはなれなかった。あおきえい監督のインタビュー記事(ひかりTV 特集『ID:INVADED イド:インヴェイデッド』独占SPインタビュー あおきえい×碇谷敦)によると、あおきが「大人のキャラクターが主人公で、ダークヒーローものがやりたい」とプロデューサーに相談し、舞城に依頼することになったという。ところが、舞城はシリーズ全体の構成を審らかにせず、いきなり第1話から順番に脚本を執筆することを望んだ。アニメスタッフは、最終的にどんな展開になるかわからないまま制作を始めたようだ。謎めいた雰囲気を盛り上げる序盤に対して、終盤がいかにも説明口調で、表現様式が照応していないのは、こうした執筆方針の結果なのかもしれない。
 あおきえいは、『Fate/Zero』『放浪息子』など数々の傑作・秀作をものしてきたトップクラスのアニメ作家だが、本作に関しては、あまり褒められる点はない。むしろ、作画は稚拙としか言いようがない。イドという心理の世界を描出する以上、その特質、例えば、パースペクティブがユークリッド的でなく遠近の感覚が失われる点や、他者の存在が不安定で立ち位置が揺らいでいることなどを、的確に表現するように配慮すべきだろう。しかし、『ID:invaded』にこうした配慮は見られず、シナリオをアニメに起こすだけで手一杯になった感じである。登場人物も、体幹の動きが捉えられておらず、棒立ち状態のまま手を動かすだけ。表情に至っては、まるで人形である。例えば、第10話で現実と非現実の境界が曖昧になるシーンは、作画がしっかりしていればそれなりに感動的になったはずなのに、人物の内面が充分に表出されていないため、同種の状況を描いた先行作品(筒井康隆『パプリカ』、押井守『アヴァロン』、NHKドラマ『クラインの壺』など)に比べると、いかにも平板で面白みに欠ける。

天晴爛漫!

【評価:☆☆☆☆】
 ここ数年、不出来な脚本のせいで残念アニメの多かったP.A.Worksが久々に放った快作。開拓者精神の残る資本主義黎明期のアメリカを舞台に、さまざまな思いを胸に大陸横断自動車レースに参加する人々の姿を描き出す。
 何よりも、この時代のアメリカが持つパワーと危うさを的確に表現した点が素晴らしい。経済が過激なまでに急成長するさなか、文字通り何でもありの状況。一昔前の中国を思い出させるが、国家が強権的でない分、よりカオティックである。
 金儲けのためなら違法行為にも手を染める強欲資本家、ヨーロッパに対する文化的ひがみを隠せない上級市民、経済発展から取り残され爪弾きされるアウトロー、そして、弱肉強食の社会で迫害されるマイノリティ。そうした人々が織りなすゴッタ煮的な情勢を背景に、銃と刀と拳が交錯するアクションにスチームパンクの味わいが絡み、濃密な人間ドラマが繰り広げられる。

【マイノリティへの視線】
 私が特に注目するのが、マイノリティに投げかけられる優しい眼差しである。
 最も好きなキャラはジン・シャーレン。レースに参加する紅一点の中国人女性である。近年のアニメにしばしば登場する、胸だけ大きな幼女体型のヒロインとは異なり、腕や胴回りが太く、華奢な天晴よりも遥かに立派ながたいの持ち主だ。これは、中国人で女性という二重の弱みを跳ね返すために、強い意志をもって体を鍛え技術を磨いた結果だろう。
 この時代には、清朝末期の混乱から逃れようと、大量の中国人移民がアメリカに渡っていた。彼らは、拉致されてきた黒人よりも前向きに社会に入り込み、過酷な労働を低賃金で引き受けた。アメリカでは、どんな田舎町にもなぜか中華料理店があり、チャプスイなる謎メニューが提供されているが、これは、調理経験のないド素人にもアメリカ産素材を使って作れる「なんちゃって中華料理」として考案されたものらしい。シャーレンは、中国人である故に、また、女性でありながらカーレーサーに憧れる故に、厳しい差別にさらされながら、なお希望を失わずに前進していく。
 インディアン(*)の少年・ホトトも興味深い。白人に父親を殺された恨みを抱いても、復讐の対象を無差別に拡大せず、手がかりを元に犯人を追求する。その理性的な態度に感心させられる。気候や動植物に詳しく、子供でありながら、レースでは的確なアドバイザーとしての役割を果たす。
 (*)「インディアン」は、北米中緯度地域の先住民を指す一般的な呼称(本アニメでは使用されない)。これは蔑称だとして「ネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)」と言い換える人もいる。ただし、インディアン自身は必ずしも否定的ではなく、彼らを対象としたアンケートでは、「ネイティブ・アメリカン」よりも「インディアン」を支持する割合が高いそうだ。
 メキシコ系とおぼしきアウトローのバッド兄弟は、いかつい外見とは裏腹に決して悪人ではない。こうしたメキシコ系アウトローは、国家間の領土争いに翻弄された住民の子孫かもしれない。19世紀半ば、アメリカは政情が不安定なメキシコに戦争を仕掛け、南カリフォルニアなどの領土を強奪した(米墨戦争)。アメリカ人は黒歴史として封印しているが、領土の3割を失ったメキシコの人々は忘れていない。

【最先端技術としてのガソリン自動車】
 本作のメインプロットとなるのがアメリカ大陸横断自動車レースで、多くの史実を織り込んでいる。
 1894年にフランスのパリ−ルーアン間で開催された世界初の自動車レースで1着になったのは蒸気自動車だったが、ガソリン自動車を売り込みたいメーカーの企みが奏功したのか失格にされた。翌95年のレースでは、ガソリン、蒸気、電気を利用する自動車が参加し、結果的には、完走した車両の大半がガソリン車だった。1900年前後、町中ではまだ蒸気自動車が多く走っていたものの、レースではガソリン自動車の優位が確実になったという(もっとも、当時の最高速度はせいぜい時速20〜30キロ程度だったが)。
 アメリカでは、95年に初の自動車レースが開催され、フォードモーターズが設立された1903年頃から自動車産業が飛躍的に発展した。アニメで描かれたのは、この頃の状況である。アメリカから(グレートモーターズを略した)GMやアイアンモーターズが、ヨーロッパから(BMWならぬ)BNWがレースに参加し、大手自動車メーカーの威信をかけて争った。
 時代遅れになりつつある蒸気自動車で参戦するのが、日本の天才技術者・天晴だという設定にも心惹かれる。時代の波に乗って突っ走ろうとするアメリカを、旧式の技術を最高度に磨き上げることで日本が追い上げる。欧米の物真似に終始した過去百年の軌道を修正し、職人芸を重んじる本来の日本らしさを取り戻そうとする心意気が、時代設定を超越して見る者の心に訴えかける。
 天晴が設計・製造した天晴号は、いかにも無骨でスマートさはないが、ジュール・ヴェルヌの天真爛漫な技術賛歌を感じさせて楽しい。堂々たるスチームパンクの美学だ。『屍者の帝国』や『甲鉄城のカバネリ』などのメカと比較してみたくなる。ちなみに、作中で示される天晴の愛読書は、ヴェルヌの『月世界旅行』。
 天晴号が豊かな想像力の産物なのに対して、エンジニアたちによる整備のシーンでは、自負心に貫かれた内面がきちんと描写される。第3話でシャーレンがレーサーへの夢をかけて勝負を挑んだエピソードのラスト、彼らが示したエンジニア魂に胸が熱くなった。

【主役コンビのキャラクター】
 主人公の天晴は、いつも技術のことで頭がいっぱいで、人付き合いは壊滅的に下手。難問を解く際に数式のイメージが現れるところは、福山雅治が主役を演じたテレビドラマ『ガリレオ』を思い出させる。天才性を象徴する顔の隈取りや背中の綱は、キャラクター原案を担当したアントンシクのアイデアだそうで、見事に効いている。
 一方、明治の世になっても侍の気概を失わない小雨は、外見に似合わず気配りできる常識人だが、時に異常なまでのひたむきさを見せる。天晴と小雨のような天才と常識人の組み合わせは、ホームズとワトソンをはじめ、さまざまなドラマを彩ってきた最高のコンビであり、二人の友情は、恋愛模様がほとんど描かれない本作にあって、数少ない華となる(BLではありません。念のため)。

【企画の変遷】
 ほとんど信じがたいことだが、橋本昌和(監督・シリーズ構成・ストーリー原案)によると、当初の企画では「近未来の大陸横断ゴルフ大会」という実につまらなさそうな話だったとか(dアニメストア 「橋本昌和 監督 dアニメストア独占インタビュー」より)。アニメでゴルフを取り上げても、人間によるショットと最終的にボールが停止する状況を、明瞭な因果関係で結びつけて描き出すことができない。結果的に、視聴者のエモーションを掻き立てることのない、平板な映像になってしまう。幸い、ストーリーを詰める段階でスタッフを集めてゴルフの打ちっぱなしに行ったとき、「この楽しさをアニメで伝えられるだろうか?」と感じプロットを変更したそうだ。ただし、「アメリカ大陸を横断する競技」という設定を残すことで、多民族が混在するワイルドで広大なアメリカのイメージが巧みに生かされた。
 このインタビューでは触れられていないが、おそらく、初期の自動車レースで蒸気自動車が活躍したという話をどこかで耳にし、作品のベースとして取り入れたのだろう。
 こうしたアニメを見ると、作品を成功させる鍵が、中心的な作家のイマジネーションにあることが明らかになる。橋本昌和によって「アメリカ+自動車+天才と常識人」という明確なラインが示され、スタッフ全員が同じ方向を目指して前向きに作業している。アニメとは共同作業を通じて作り上げる芸術であり、それだけに中心線がきっちりと示されることが重要なのである。

スーパーカブ

【評価:☆☆☆☆】
 人間心理を細やかに描き出し、子供よりも大人に訴える力が大きい秀作である。
 主人公は、クラスで孤立している寡黙な女子高生・小熊(ファーストネーム。姓は不明)。アパートで一人暮らしをしており、両親について作中では触れられない。当初は自転車通学していたが、坂道がつらいこともあってバイクの利用を思い立つ。近所のバイク店でたまたま安売りされていたのがホンダのスーパーカブで、この名車を購入したことから、しだいに周囲とのつながりが生まれてくる。同じくカブで通学している礼子と親しくなり、さらに、かつてカブ乗りだった教頭からは、前カゴをもらったりクーリエ(文書運搬)のアルバイトを紹介されたり。
 何よりも素晴らしいのが、言動を通じて小熊の性格を浮き彫りにする描写力。彼女が友人を作らないのは、恥ずかしがりとか人間嫌いのせいではなく、物事を自分の力で計画的に進めようとする強い意志を持つから。彼女の性格がよくわかるのが、深夜のコンビニで、駐車場に止めたカブのエンジンが始動しなくなったときである(第1話)。男の人が「どうした」と声を掛けてくれたのに、助けを求めない。ふと思いついて取扱説明書の該当項目を調べ、自力で解決する。
 取扱説明書を精読する姿は、その後も繰り返し描かれ、パーツの取り付けやオイル交換の際の慎重な作業態度とともに、彼女の内面を的確に表す。
 こうした性格描写の中で私が特に好きなのは、風よけのゴーグルを手に入れるシークエンス(第3話)。スピードを増すと目を開けていられないので、ヘルメットに取り付けるシールドを買おうとしたものの、端末から見つけられる商品はどれも3000円以上と高価。迷っていたとき、近くで塗装作業中の人が装着した保護メガネに目を留め、歩み寄る。
 この状況を人間観察力のないアニメーターが作画すると、途中でおずおずする動作を挟みそうなものだが、本作の小熊は、まっすぐ作業員に向かい何の躊躇もなく声を掛ける。彼女の性格を考えれば、この動作が正解なのである。風よけを手に入れるという目標のためになすべき行動をプランニングし、その通りに遂行しているので、迷いがない。
 ホームセンターでゴーグルを入手した後、順調に進んだことが余程嬉しかったのか、カブに乗った小熊は一人でニッコリ(と言うよりニンマリ)するのだが、その表情は結構ブサイク。女の子の笑顔はいつも可愛いと思っているアホな男子がいるが、あれは意図的に口角を上げた作り物。一人ほくそ笑むときにはかなり変な顔になり、うっかり鏡を見てギョッとしたりする。
 無意識の動作に関しては、他のシーンでも、アニメーターがしっかりと描き込んでいるのがわかる。例えば、小熊は、呼び掛けられたとき声のする方に首を回すというナチュラルな動きを、ほとんどしない。彼女が首を回すのは、内発的に行動するか、親しい知人の声を聞き分けたときだけ。「他者の心中を忖度して相手に合わせる」ことができないようだ。友だちがいないのも当然に思えるが、これが彼女の性格なのである。
 日常的な細部もリアル。ある日の昼食時、小熊はいつものように、タッパーに詰めたご飯にレトルトのおかずを載せて口に運び、思わず顔をしかめる。中華丼などが冷めたままでも美味しいのに対して、カレーは、温めて流動性を増さないと、舌の上でルゥが滑らかに広がらず味わいが出ないのだ。こんな、思わず「あるある」と言いたくなる描写が楽しい。
 ホンダのスーパーカブという特定商品をフィーチャーしたアニメだが、この点を問題視するには及ばないだろう。カブは、ソニーのaiboや日産のフェアレディZなどと同じく、エンジニアの思いが詰まったものであり、商品と言うよりは夢の結晶に近い。そんなカブが人と人をつなぐ紐帯になることを描いた本作は、人間の内面を見つめる新たな視座を提供してくれる。

ゴジラS.P

【評価:☆☆☆☆】
 SFとは畢竟、リアルなホラ話だ。ガルシア=マルケスらのマジックリアリズムと同じく、観念を自在に操作できる文学でこそリアリティの純度が高まるのだが、映像表現にパワーがあれば、映画やアニメでも優れたSFが生み出せる。『ゴジラS.P』は、怪獣を主役としたSFアニメの秀作である。
 ジャルゴンを撒き散らした脚本が(良い意味で)見事な目眩ましとなっているものの、話の筋は至ってシンプル。日常の片隅に非日常の兆しが現れ、しだいに異常性が増殖し、ついには世界崩壊へと至(りそうにな)る物語である。こうしたメインプロットは、黒沢清の傑作『回路』とそっくり。『ゴジラS.P』では、“紅塵”や“超時間計算機”のような謎を解く鍵かと思わせるアイテムが登場するが、『回路』における「ネットから幽霊が溢れ出す」という設定と同じく、一種のマクガフィン(話を進めるためだけに導入される設定・道具)だと割り切った方がいい。

【迫力ある怪獣の造形】
 『ゴジラS.P』の主眼は、怪獣たちの造形にある。CGを用いた滑らかな映像が、大迫力を生み出す。
 怪獣のデザインには、3つのパターンがある。第1は、ラドンやマンダのように、古生物学や神話、先行作品から原型を借用したもので、最も効果を上げている。第2は、ゴジラの造形で、『シン・ゴジラ』を踏襲し環境に応じて大きく変態する。『シン・ゴジラ』がなければ驚異的な表現だが、いかんせん、二番煎じの感は免れない。第3は、恐竜をベースに突起物やカラーリングで粉飾したアンギラスとサルンガ。ウルトラセブン以降のウルトラ・シリーズに登場する怪獣たちを思わせ、平凡でひねりがない。特に、サルンガのシーンはすべて興醒めであり、その特殊な役回りを考慮して、もっと意表を突くデザインにしてほしかった(諸星大二郎の描くモンスターのような…)。
 興奮させられるのは、何と言っても、ラドンとマンダが活躍するシーン。マンダは、東宝映画『海底軍艦』でムウ帝国の守護神として崇められる海竜。鱗をパタパタと動かし体を大きくひねる初登場シーンこそ素晴らしいものの、それ以降はほとんど活躍の場がなかった。ところが、『ゴジラS.P』では何頭ものマンダが波しぶきを上げて進み、迫力満点である。第5話アヴァン、マンダが振り上げた尾を自衛隊のヘリがかろうじて避けるシーンでは、思わず「おおぉおぉぉ」と声を上げてしまった。OPで尻尾だけ登場するところも、要注目。
 本アニメのラドンは、翼竜ケツァルコアトルスまんまの姿に描かれる。私は、あらゆる怪獣の中で、リトラリアとともにラドンが最も好きだが、操演が難しいせいか、実写映画では見せ場に乏しい(余談だが、米映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』のラドンは超絶的にカッコイイ。空中でキングギドラと激突する)。『ゴジラS.P』の場合、外見は私好みでないものの、鳥系の怪獣が活躍してくれるだけで嬉しい。中でも、第3話「のばえのきょうふ」は、初めから終わりまでラドンの独壇場。映画『ジュラシック・パーク』でヴェロキラプトルが人間を追い詰めるシーンに匹敵する、スリルとサスペンスを味わわせてくれる。後半でラドンが次々と墜落するところは、東宝映画『空の大怪獣ラドン』における哀切を極めたラストシーンへのオマージュか。
 ラドンやマンダの描写では、表面的な派手さを抑制しながら的確なコマ割りによって迫力を増しており、演出の技量が抜群である。これは、隠れた傑作『RIDEBACK』を作った監督・高橋敦史の手腕によるものだろう。高橋は『RIDEBACK』以降、本格的なテレビアニメの監督をしておらず、「干されていたのでは…」と気になる。これだけ才能があるのだから、もっと積極的に起用してほしい。

【脚本の妙味】
 見所の多い怪獣たちと比べると、人間はあまり好意的に描かれていないが、これはむしろ円城塔による脚本の妙味と言うべきである。
 ステープルドンやレム、ストルガツキー兄弟らの思弁的SFが好きな私は、小松左京や光瀬龍が幅をきかせていた頃の日本のSFは嫌いだった。しかし、今世紀に入って状況が変わる。惜しくも早世した伊藤計劃をはじめ、円城塔、冲方丁、宮内悠介ら70年代生まれの作家が、やや年長の飛浩隆らとともに、社会を飛び越えて世界そのものと人間の関わりを見据える作品を次々と発表し始めたのである(同じ頃、テッド・チャンやケン・リュウらによる中華SFも隆盛期を迎えており、SF文学界では世界的な地殻変動が進んでいるようだ)。
 中でも円城塔は、物理学科出身の理系作家として、現実とは異なる世界のあり方を追求する点に特徴がある。小説『文字渦』を(読む人が)読めば凄さがわかるだろう。アニメでは、『スペース☆ダンディ』第11話「お前をネバー思い出せないじゃんよ」と第24話「次元の違う話じゃんよ」の脚本を執筆した。この第11話は、高橋敦史が絵コンテ・演出を担当しており、『ゴジラS.P』での共同作業へとつながったらしい。
 円城の作品では、ウェットな人間関係の描写は極力避けられる。主要登場人物は、場の空気を読まず世界の本質に目を向ける変人ばかり。こうした特徴は、『ゴジラS.P』の脚本でも遺憾なく発揮される。
 主人公は、神野銘(♀)と有川ユン(♂)の二人。抜群の才能を持つ若い男女が協力してゴジラに立ち向かうというストーリーなのに、恋愛沙汰が全くないのが潔い。二人とも、自分の置かれた状況を客観的に判断できないようで、平然と異常な行動をとる。神野は、現実にはあり得ない生物を考えるのが研究テーマの院生だが、私も「時間が2次元の世界で知的生命は歴史をどう認識するか」などと真剣に悩んだことがあるので、「あ、同類だ」と思ってしまった。
 これ以外の脇役は、まともさが災いして危機に巻き込まれる不運な人々(ミサキオク職員・佐藤くんのような)と、主人公以上にクレージーな牽引役(葦原博士とか)に截然と分かたれる。一見マッドなようで、実は結構まともに巻き込まれていくベイラ・バーンがカワイイ。
 理系作家の脚本らしく、科学的トピックスが(事実を少し歪曲して)紹介されるところも楽しい。コンピュータを利用した分子設計によって、自然界に存在しない新素材を生み出す試みは、現在、多くの研究者が実際に取り組み中。負の屈折率を持つ媒質も、実現可能性があるらしい。ただし、作中で紹介されるアーキタイプのように、時間方向に負の屈折率で曲げるのは不可能。光子はボソンなので、反粒子が存在しないし…。
 ところで、シンギュラポイント(特異点)というホラ話をどう解釈すべきかというと、それは、「見る人が勝手に考えればいい」。

ワンダーエッグ・プライオリティ

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
(作品分析のため、ストーリー展開をすべてバラしています。アニメを見ていない人は読まないでください)
 自分のせいで身近な人に死なれた---そんな重荷を背負った少女の姿を描きながら、途中から脚本家が方向性を見失ったかのように、ストーリーがフラフラと迷走する。テーマが重すぎて執筆に行き詰まったのか、意表を突こうとして失敗したのか。いずれにせよ、とても残念な出来に終わった野心作である。
 「死なれる」とは、自動詞が受動態になった表現で、欧米の人にはほとんど理解されない日本語独特の言い回しである。喪失感よりつらく罪悪感ほど倫理的でない情動をもたらすが、本アニメは、「死なれた」としか言いようのない状況に置かれた少女が、どのようにすれば立ち直れるかという問題意識から出発する。
 この作品の基本的なプロットを表すのに、私は、「贖い(あがない)」という言葉を使いたい(作中では用いられない)。新字体で記したときの「購い」が単に金を払って物を買うことを表すのに対して、旧字体の「贖い」は、「代替物を差し出すことで罪の許しを得る」行為を意味する宗教用語である。少女たちは、自分が関わった死に対する苦悩から逃れようと、贖いの道を模索する。

 主要登場人物は、14歳の4人の少女。
 アイは、オッドアイ(左右の虹彩の色が異なる)という身体的特徴のために学校で苛められる。大人びた転校生の小糸が手を差し伸べるが、彼女は人気教師との関係が疑われて孤立、真相が曖昧な転落死を遂げる。アイは、自身が同じ教師に思いを寄せていたこともあり、小糸の本心まで慮ろうとしなかった。
 元ジュニアアイドルのリカは、彼女を熱狂的に推すちえみから金をせびりとり、挙げ句、容姿について暴言を吐いて遠ざける。ちえみは拒食症に陥って死んだ。
 ボーイッシュで同性に人気のあった桃恵は、友人と思っていたハルカから身体的接触を迫られ、動揺のあまり激しく拒絶。ハルカは自殺する。
 ねいるは、人工授精によって作られた天才少女で、大企業の社長を務めていたが、彼女の才能に嫉妬した妹あいるにナイフで切りつけられ、重傷を負った。あいるは、直後に飛び降り自殺をする(余談だが、ねいるの天才性は作中で描けていない。第9話の幾何学の問題など、少し数学の好きな中学生なら1分で解けるものだし、「オッカムの剃刀」などのキーワードを間違った形で引用する)。
 こうして4人の事跡を並べるとわかるように、死者に対する責任にかなりの差があり、罪の意識も異なっている。リカは最も強い罪悪感を抱き、自傷行為を繰り返しながらも、「罪悪感はあるが責任を感じる必要はない」と自分に言い聞かせる。桃恵の苦悩は「自分はどうすれば良かったか」という問いの形をとる。一方、アイとねいるは、明確な罪悪感を持たない。ねいるは被害者なので当然と言えば当然だが、アイの心情はアンビヴァレントで行動原理が曖昧である。
 もちろん、4人の心理がバラバラなのは人間らしさの現れであり、話の展開として何の不都合もない。問題なのは、その4人を特定のプロットにはめ込もうとした点である。

 オリジナル脚本を執筆した野島伸司は、『高校教師』など心の闇をことさら強調するテレビドラマの作家として知られる。今回が初のアニメ作品であり、おそらくその点を強く意識したせいだろう、過度に“アニメ的”なプロットを採用した。主人公が4人のガールズグループであること、異世界でのバトルが繰り広げられることなど、多くのアニメで採用されるフォーマットをそのまま使った。
 おそらく、野島による当初の構想では、異世界でのバトルを通じて、身近な死に対する贖いを遂行するというプロットだったろう。しかし、置かれた状況も死についての思いも異なる少女たちを、異世界バトルという共通の枠組みで扱うのは無理がある。戦う相手は極端に戯画化されたワンダーキラーと呼ばれるモンスターなので、死者への思いと結びつけられるような現実味に乏しい。バトルの目的も曖昧である。アイやリカは、バトルに勝利すれば死者が蘇ると信じているようだが、そう信じるに至った根拠は明示されない。
 そもそも、死者を生き返らせるというのは、物語として一種の反則行為である。魔法が使える世界を描いたファンタジーでも、死者の蘇生は禁忌とされる。ゾンビなどではない生きた姿への蘇りを描いた物語は決して稀ではないが、大人を納得させるだけの倫理的正当化ができた作品はほとんどない。私の知る限り、カール・ドライヤーの映画『奇跡』などごくわずかで、それも、死んだ直後に息を吹き返すケースに限られる。時間が経った後で恒久的な蘇生を果たすというプロットは、現代の物語としては無謀である。

 ガールズグループによる異世界バトルという“軽い”プロットと、贖いや蘇りという“重い”テーマを、執筆を開始した時点で野島がどのように結びつけるつもりだったのかは、わからない。『高校教師』などにおける投げやりなラストからすると、落としどころをきちんと考えていなかったのかもしれない。話が進むにつれて、いかに無理筋かがだんだんと見えてきたのではないか。
 本作は、2021年1月に放送がスタートしたものの、第8話として総集編が挿入されたせいで3月末までに収まりがつかず、6月に特別編(1時間枠だが、前半がまたも総集編で後半が実質的な最終回)を放送してストーリーを落着させた。1クールアニメで番外編が挿入され、以降の放送スケジュールが乱れるケースは、『ゴッドイーター』『バビロン』などたまにあるが、いずれも制作体制に問題が生じたせいだと思われる。本作の場合、脚本が間に合わなくなった---というのが私の勝手な推測である。
 この推測の根拠は、第8話以降、ストーリー展開がそれまでと全く異なるものになったこと。しかも、必要な伏線が張られておらず、後出しジャンケンのように新たな設定を追加し、結果的にストーリーが迷走してしまった。アイデアに詰まった脚本家が、破れかぶれに書いたようにも思える。
 最も奇妙な追加設定は、「死への誘惑」を生み出すAIを登場させたこと。これでは、身近な死に対する罪悪感といった、それまで築いてきた人間ドラマの辻褄が合わなくなる。物語構成上、どう考えても、このAIはない方がすっきりする。
 さらに、終盤で世界線の分岐という設定が加わり、死者の蘇りは、異なる歴史をたどったパラレルワールドでの出来事とされる。異世界バトルが死に対する贖いとして軽すぎるため、死の重みを相対的に軽減しようと企図したのかもしれないが、生と死の対立が持つ絶対性が失われ、少女たちの置かれた状況に切迫感がなくなってしまう。SF的な言い訳をせず、ファンタジーの枠内で筋道を付けてほしかった。
 「バトルの相手が、実は自身の傷ついた心が捏造した虚構だった」という新たに示唆された要素は、それまでの展開と整合的なので、当初の構想に含まれていたとも考えられる。特に、アイにとっての憧れの教師がワンダーキラーとして登場するエピソード(第12話)は、この世界を生きづらいものにするのが彼女自身の心であることを明らかにして、興味深い。しかし、ならば第2話の新体操部顧問や第4話の痴漢などについても、被害者自身の妄想であることを示す伏線を用意しておいた方が、作品の方向性が明確になったろう。
 終盤のエピソードは、どれも必要性がない上に後味が悪い。マンネンらお助けキャラが惨殺されるのは、旧約聖書に登場する犠牲の羊を思い起こさせ、異世界バトルが贖いに値しないことの代償にも見えるが、いかにも唐突である。 第10話に登場するトランスジェンダー少女のエピソードは、同じモチーフの下品な繰り返しに過ぎず、不必要だ。ねいるの妹あいるの描き方も、以前のストーリーと整合的でない。意表を突いた展開と言うには、あまりに場当たり的である。

 第8話以降の迷走は、どうも脚本家に責任がありそうだ。だが、その一方で、第7話までの脚本は充分に面白い。特に、第4話から第5話にかけての少女たちの言動には、各人の心情が見事なまでに浮き彫りにされており、近年のテレビアニメの収穫と言って良い出来である。14歳という悩み多き時期の女子中学生を取り上げ、その心の痛みを正面から描いた点は、高く評価できる。全体としては、構想に無理があり優れた作品とは言い難いが、それは野心的な企画が空回りした結果として受け容れ、中盤の何話かだけに意識を集中して鑑賞すれば、それなりに感動できる作品である。

Sonny Boy

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 学校ごと異世界に漂流した中学生36人のサバイバルを描いたアニメだが、元ネタとなる『漂流教室』(第1話で言及)とも『十五少年漂流記』(原題「二年間の休暇」が最終話のタイトルに)とも、テイストが全く異なる。クーデターや要人誘拐が起きているのにスイーツの話題ばかりが盛り上がるアニメ『ACCA13区監察課』の夏目真悟(監督・脚本)らしい、オフビートで象徴性の強い異色作である。
 何と言っても、異世界の設定が独特。第3話で天の声が「不条理が支配する世界」と語ったように、現実と多くの共通項を持ちつつも、ひどくいびつな世界である。ネット通販の荷物をアニメ的デフォルメのないリアルな猫が運んできたり、誰も気がつかないうちに目立たない生徒が真っ黒な像に変貌していたり。いちばん不気味だったのは、第10話でパーティ会場の大皿に、なぜか殻のままの黒ウニが山盛りになっていたこと。モンスターの襲来などよりずっと怖かった。
 回を重ねるにつれて、こうした異常さをもたらす原因が、個々の生徒(あるいは他の動物)に備わった超能力にあるらしいとわかってくる。ただし、この超能力は、SFやファンタジーに描かれる馴染みのものとは微妙に異なる。例えば、「リバース」は世界を元の状態にリセットする能力だが、その持ち主はなぜかコピーされて二人になっており、同時に能力を発揮するので結局何も変わらない。どんな泥水でもおいしく飲めるなんて、何と無意味な超能力があるのかと思っていると、第7話で住民が巨大なミミズや芋虫を美味しそうに食べており、ゾクリとさせられる。
 興味深いのは、条理なき異世界なのに、ルールだけは厳格に定められていること。多くの中学生は、このルールに従って安定した日常を送ろうとする。「無償で手に入れたものは青い炎を上げて焼失する」というルールのある世界では、スマホ上でやりとりできる仮想通貨で擬似的な売買が行われる。ルールさえ守っていれば、生活に困ることはない。アニメで描かれるのは、そんな不条理世界に適応した日常である。
 こうした異世界の有り様は、「現実」と呼ばれる世界とどこか似通っている。現実の中学生も、ルールに従って学校に通う限り、周囲が食事や住む家を用意してくれる。どちらの世界も、生きる上で不都合はないものの、どうにも息苦しい。作中、飛べない鳥の姿が何度も挿入されるが、それが現実にも異世界にも同じように現れるのは、何を暗示しているのだろうか?
 かなり難解な上、登場人物が多く感情移入しにくいにもかかわらず、妙な魅力があり、独り静かに繰り返し見たくなる。オープニングがなく、エンディングでは字幕に重なって銀杏BOYZの歌が流れるだけだが、それがまた作品にフィットして快い。

takt op.Destiny

【評価:☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 音楽を忌み嫌い演奏家を殺戮するモンスターD2の襲来によって、音楽文化が消滅しかかった近未来。そこで、名曲の魂を宿した戦闘少女ムジカートが、コンダクターの指示に従ってD2とバトルを繰り広げる。この設定は、音楽を不要不急だとして排除するコロナ禍の社会を象徴するものとも解釈できるが、そんな寓意的な解釈にこだわる必要はあるまい。作中で「なぜ音楽のために闘うのか」という理由が明確に描写されており、余計な説明がなくても登場人物に共感できるからだ。
 主人公・朝雛タクト(名指揮者・朝比奈隆にあやかったネーミングだろう)にとって、クラシック音楽は人生のすべてだった。優れた指揮者だった父親に憧れ、ピアニストを志す。隣家の美少女コゼットとは音楽を通じて結びつきが生まれ、しばし平穏が戻った街で行ったピアノ連弾は人々に感動を与えた。D2は、これらすべてを奪ったのである。父親は殺され、自身は右腕を失う。
 モーツァルトの名演で知られるクララ・ハスキルは、階段で転倒し頭を強打して亡くなったが、その最後の言葉は、翌日に共演予定だったグリュミオーへの伝言「大丈夫、手は守ったから」だったという。ピアニストにとって手がどれほど大切か、それを失ったタクトの苦悩がいかほどだったかを考えさせる。
 さらなる悲嘆をタクトに与えたのは、音楽が絆であることの象徴だったコゼットの喪失だろう。D2の襲撃によってコゼットは致命傷を負うが、ベートーヴェン第5シンフォニーの魂が宿り、タクトに使役されるムジカート「運命」として覚醒する。ただし、コゼットの人格は完全に失われ、「外見だけが同じ別人」となっていた。タクトはコンダクターとして「運命」と行動を共にせざるを得ず、他者の心中を全く忖度しない非人間的な言動を見せつけられる。それは、タクトが絶えずコゼットの影を意識し、「彼女はもういない」という絶望的な思いに苛まれることを意味する。
 タクトが抱く喪失感がいかに強烈だったかは、彼がD2を撃滅する際の残酷さに見て取れる。第3話で彼が「運命」に「やれ」と命じるとき、その憎悪に燃えた瞳は正視できないほど恐ろしい。ちょっと非人間的な戦闘少女を使役するバトルアニメは、『機巧少女は傷つかない』『ブラック・ブレット』など少なくないが、軽いギャグや萌え描写を繰り返すばかりで、「なぜ闘うか」という根本的な問いに答える作品はほとんどない。一方、『takt op.Destiny』の場合、タクトが「運命」を異様に酷使してまで闘い続ける理由は、胸に突き刺さるほどよくわかる。「運命」が妙な敬語を使い、やたらに甘い物を食べたがる姿は、滑稽さよりも悲しさを感じさせる。
 タクトの心情を直接的に感じさせるのが、第6話「朝陽-Rooster-」のエピソード。老人ばかりになった酒場で演奏される「ラプソディ・イン・ブルー」の、何と切なく心に沁みることか。ピアノを弾くタクトの背後に、一瞬コゼットの姿が浮かび上がるのを見逃さないように。
 ところで、このアニメはゲーム『takt op.』(未発売)の前日譚として制作されたらしいが、ゲームでも主人公の喪失感が的確に表現されるか心許ない。ラスト2話は、ゲームに接続するためなのか、大味なバトルばかり続いてひどくつまらなかったし。

ブルーピリオド

【評価:☆☆☆】
 藝大を目指す高校生の内面をリアルに描き出した佳作。美術系の学生を登場させるアニメには、『ハチミツとクローバー』『ひだまりスケッチ』などかなりの数があるが、その多くは恋愛や友情の描写に重きを置く。それに対して、本アニメは、原作者・山口つばさが藝大出身だということもあり、美術に無関心だった主人公が藝大を志望するに至るまでの心情が、独白や内的イメージを通じて的確に表現される。「人間にとって絵を描くとはどういうことか」という根源的な問いが、観る者に投げかけられる。
 主人公の矢口八虎は、人間関係を円滑化するだけの目的で、真面目に勉強して優秀な成績を収める一方、髪を染めタバコを吸い悪友と付き合っていた。そんな生き方にかすかな違和感を覚えたとき、ふと美術部に置かれた天使の絵を見て心打たれる。絵画への関心が呼び覚まされた八虎は、美術の授業で出された「私の好きな風景」という課題に対して、早朝のビル街を青一色で表した作品を提出するが、その素直な感性に惹かれた。私も、文芸坐オールナイトからの帰り、風俗街を足早に通り過ぎた先に現れた人気のない池袋の街並みを見て、清澄な寂寞とでも言うべき光景に胸を衝かれたことがあるからだ。青に塗り込めることであの空気感を表現する---これが、美術による自己表現の端緒なのだろう。
 美術に「こうすべし」という“決まり”はないが、「この技法を使うとこんな表現力が得られる」といった公式はある。美術教師や美大予備校の先輩たちが、対象の捉え方や視線誘導に関する基本公式を伝授すると、もともと真面目な八虎は、その公式が持つ意味を自分なりに理解しながら一歩一歩進んでいく。この堅実な成長物語が実に心地よい。
 興味深いのは、周辺人物に関する客観描写がほとんどなく、ほぼすべて八虎の視点で統一されていること。予備校仲間を「天才」とか「予備校でいちばんうまい」などと評するが、画面の隅々まで目配りできる視聴者には、彼らがそんな類型的な存在でないとすぐにわかる。「いちばんうまい」と言われた女性は、駐輪場で顔を覆ってすすり泣く生徒を踊り場から見下ろし、「落ち込んでる人見てると、あたしはまだ大丈夫って思えるじゃん」と自嘲気味に語る。誰もが壁に突き当たってもがき、ままならぬ状況に苦悩する。そんな陰鬱な光景を目の当たりにして、なお前に進もうとする八虎の姿は、生きることの意味を考えさせる。特に、矢虎が無為に高校生活を送っていたように見えた悪友と、将来の展望について語り合うラーメン屋のシーン(第7話)は、感動的である。
 最近目立つ派手で痛快なアニメに食傷気味の人は、こんな作品を独りでじっくり観るのも良いだろう。

リズと青い鳥

【評価:☆☆☆☆☆】
【ネタバレあり】
 高校の吹奏楽部で、それぞれオーボエとフルートを担当するみぞれと希美。ふたりは(一見)とても仲が良い。しかし、コンクールで演奏する自由曲「リズと青い鳥」での掛け合いが、どうもしっくりしない。その原因はどこにあるのか…?
 アニメ『リズと青い鳥』は、青春期の戸惑いや心の揺らぎを、優しく繊細に描き出す。声高な主張はない。わずかな仕草や言い淀んだ沈黙を通じて少しずつ明かされる真実は、切なくやるせなく、人生は見かけ通りではないというアイロニーを感じさせる。

【みぞれと希美】
 みぞれはひどく内向的で他者とのかかわりを避け、めったに感情を表さない。一方の希美は外向的でいつも取り巻きに囲まれ、感情豊かに会話する。表面だけ見ると、人付き合いが苦手で立場の弱いみぞれが、希美に庇護されているようでもある。しかし、制作した京都アニメーションのアニメーターたちは、そんな単純な関係でないことを画面にきちんと描き込んでいる。
 作品冒頭、みぞれと希美が校門から部室へと向かうシーン。石段の上で青い羽根を見つけた希美は、太陽にかざして「わっ何これ。めっちゃ青い。きれい!」と声を上げ、「あげるよ」とみぞれに差し出す。みぞれは、ぼおっとした表情のまま「ありがと」と微かに語尾を上げて受け取り、「なんで疑問形?」と突っ込まれる。二人の関係性が凝縮され、見ているだけで切なくなる名シーンである。
 そのまま先に立ってずんずんと進み、軽くターンしてから一段飛ばしで階段を上る希美は、常にどう見られているかを意識し自分を演出する。一方、希美の行為をなぞりながら数メートル後ろを付いて行くみぞれの姿は、外界との距離感を確認しつつ慎重に立ち位置を見定めているようだ。希美にとってのみぞれは、自分の演技を見つめる観客の一人。みぞれにとっての希美は、外界とのつながり方を示す唯一の指標で、それ故に強い思慕の対象でもある。相手への思いに、「親友未満」と「親友以上」という格差がある。
 もっとも、みぞれが頼りないのは外面だけ。そのことを示すのが、中盤でみぞれが独りオーボエを練習する場面から始まる(私好みの)シークエンス。オーボエ担当の後輩が「ダブルリードの会(吹奏楽部に4人しかいないダブルリード楽器担当者の茶話会)」に誘っても、「わたしが行っても楽しくないから」とすげない返事。確かに、みぞれが希美のように「朝ご飯に何を食べるか」といったテーマで会話を弾ませる姿は、想像もつかない。ところが、同じ後輩がリードを自作するみぞれに「あたしにもできますかね〜」と擦り寄ると、すぐに「今度教える」と答えて、後輩を感激のあまり泣かせる(後輩が何か言うのだが、涙声で聞き取れない…)。
 みぞれは、社会のさまざまな側面に対して適切に対応する柔軟性を欠き、そのせいでいかにも頼りない。しかし、自分には何ができるかをはっきり自覚しており、役割を果たせるとわかれば能動的に行動する。
 これに対して、希美は多くの後輩に慕われ楽しげに振る舞うものの、明確な上下関係が生み出す雰囲気を好んでいるだけで、その言動はあまり主体性を感じさせない。みぞれとの付き合いも、そうした上下関係の一つと捉えているようだ。みぞれをプールに連れて行こうとしたとき、「ほかの子も誘っていい?」と予想外の返答をされ、心底驚いた表情を隠せなかった(映像では、人が前を横切った瞬間に取り繕う)。他の同期生とは対等な会話を避けており、みぞれとの件で部長に責められたときには、まともに返答できない。精神の内奥においては、みぞれの方が希美よりも遙かに勁(つよ)い。
 希美の弱さが表に現れるのは、木管楽器の指導者がみぞれだけに音大のパンフレットを渡したと知ってから。音大進学を表明したものの強い決意があったわけではなく、周囲にふと「あたしさぁ、本当に音大行きたいのかな」と問わず語りに口にする。主役のつもりで演じていたのに、スポットライトが傍らを通り過ぎただけと気が付いた---そんな役者を思わせる情けなさそうな表情で。何度見ても、私はこのシーンで泣いてしまう。泣かせるシーンではないのに。

【人生のアイロニー】
 物語が進むにつれて、みぞれと希美の間のひずみはしだいに大きくなる。一見、とても仲が良さそうなのに、相手に対する思いのベクトルは微妙にすれ違う。社交的な希美が孤立したみぞれを庇護しているようで、精神の強靱さも気遣ってくれる友人の数も、希美よりみぞれの方がずっと上である。こうした外見と内実の乖離が前提となって、クライマックスの演奏シーンが強烈なエモーションを生み出す。
 この作品は、人生のアイロニーを強く感じさせる。アイロニーとは、表面的な意味と隠された内実が相反することを表す用語で、主に物語芸術に関して、登場人物の認識と現実の状況が食い違う場合に使われる。例えば、ギリシャ悲劇『オイディプス王』では、己を正義だと信じるオイディプスが前王殺害の真相を追究するうちに、真犯人が誰で自分は誰と結婚したのかという恐るべき事実を突きつけられる。まさに悲劇的アイロニーの極北である。『リズと青い鳥』も、これに似たアイロニカルな状況を描いた作品である。ただし、ギリシャ悲劇のように深刻なカタストロフはない。現実の人生でごくふつうに起こり得る、ささやかなアイロニーである。そんな事態を前にして、人は寂しそうに笑うしかない。

 ところで、この物語の後、みぞれと希美はどうなるのだろうか?アニメのラストはハッピーエンドと呼んで良いものだが、二人の性格と置かれた状況を考えると、幸せな状態がいつまでも続くとは思えない。みぞれが「ハッピー・アイスクリーム!」と声を上げたときも、希美はそれがゲームだと気づかない。親友同士のように振る舞いながら、互いに相手のことをよく理解していない状況は、大して変わっていないのである。想像するに、それぞれ別の大学に進学して疎遠になり、その後の人生ラインが交わることは、もはやないだろう。もっとも、それは必ずしも悲しむべきことではない。人生の一時期に、生涯の宝となる貴重な体験をしたという事実は揺るがないのだから。

【アニメにおける人間描写】
 『リズと青い鳥』は、みぞれと希美の内面を深くえぐった心理劇である。アニメは、小説や演劇に比べて心理描写に向かないメディアだと見なす人もいるが、そんなことはない。むしろ、言語による抽象的な観念に束縛される小説や、生身の俳優が持ち込む身体性を排除できない演劇に比べて、純粋に心理だけを描き出せるメディアである。
 アニメの強みは、個人が創作する小説などと異なり、人間が持つさまざまな側面を、各分野の専門的なクリエーターが磨き上げられる点にある。私は、プルーストやヴァージニア・ウルフの心理描写が好きだが、それでもこんなアニメを見せつけられると、言語表現の限界にいやでも気づかされる。クライマックスの演奏後にみぞれと希美が行う対話を使って説明しよう。
 台詞は、言語に対して鋭い感性を持つ脚本家が彫琢する。希美は、妙に冷めた見方でこれまでの経緯を振り返り、「違う」「希美」と言葉を挟むみぞれを無視して話を続けるが、途中でみぞれが強い語調で「聞いて!」と遮り、思いの丈を語り始める。「希美の笑い声が好き、希美の話し方が好き、希美の足音が好き、希美の髪が好き、希美の…希美の全部」。希美がそれに応えるように「みぞれのオーボエが好き」。
 声優は、台本だけではわからないニュアンスを言葉に付け加える。過去を振り返る際の、冷静さを装いながら端々に心のざわめきが現れる希美の口調。一方のみぞれは、口数が少なく自分の内面を説明しないが、かすれそうでかすれない口吻は、意外と粘り強い性格を感じさせる。
 劇伴となる音楽も、心理描写に欠かせない。対話シーンでは、当初、バックで音楽が鳴っていることにほとんど気づけないほどかすかな音の連なりが続くが、少しずつ明瞭になり、ほんのわずかな期間、明るく心躍るメロディを奏でたかと思うと、次の瞬間にはスッと消える。まるで、いつも揺らいでいる少女の心のように。
 何よりも素晴らしいのが、表情や仕草に魂を込めた作画。それまで意図的にこしらえた微笑ばかり見せていた希美なのに、ここでは視線が定まらない。一方のみぞれは、まっすぐに希美を見つめる。「大好きのハグ」をするときの、二人の手の位置、体の傾げ方、そして、感極まったようなみぞれとどこか曖昧な表情を浮かべる希美の対比。そのすべてが、二人の心の内を照らし出す。
 『リズと青い鳥』は、静謐なアニメだ。長広舌よりも途切れた言葉、目的を持った行動よりもちょっとした仕草の表現が素晴らしい。例えば、希美にもらった青い羽根を、みぞれが両手で包み込んで口元に寄せるシーンのような。シャープペンの持ち方、髪のいじり方、地面を蹴るときの足の動き---そんな些細な描写にも、アニメーターの思いが籠もる。
 アニメとは、間違いなく、日常の奥深さを描けるメディアである。

【監督・山田尚子】
 当然のことながら、アニメの人間描写が優れたものになるには、スタッフの意思が統一されていなければならない。そのために重要なのは、中心的なリーダーの存在である。アニメの場合、通常は監督がリーダーとなり、スタッフと綿密な打ち合わせをすることで、作品世界を明確に設定し、人物像に一貫性を与える。こうしたリーダーの役割は、制作現場の状況を伝える断片的な報告に示される(例えば、イアン・コンドリー著「細田守、絵コンテ、アニメの魂」では細田守、『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』DVDの特典映像では神山健治、第6回文化庁メディア芸術祭における『クレヨンしんちゃん アッパレ!戦国大合戦』上映前のトークショーでは原恵一が、それぞれスタッフとどんな議論をして作品世界を作り上げたかが紹介された)。
 『リズと青い鳥』がどのような状況で制作されたかはわからないが、監督・山田尚子のインタビュー(『リズと青い鳥』公式サイト liz-bluebird.com に掲載)を読んだ限りでは、テレビアニメの制作を通じてスタッフが原作に馴染んでおり、作品の方向性が自然と一致したようだ。インタビューから引用すると、「「少女たちの溜め息」のようなそっとした、ほんのささやかなものを逃すことなく描きたい」とのこと。
 山田尚子は、監督に抜擢されたテレビアニメ『けいおん!』(2009)で人気作家の座を獲得した。この作品はギャグ中心の4コマ漫画をアニメ化したものだが、アニメでは、話数が進むにつれて、ギャグが薄まる一方で物語の流れが滑らかさを増しており、監督の技量がストーリー重視の方向に成長したことを伺わせる。『けいおん!』の第2期と劇場版、テレビアニメ『たまこまーけっと』とその劇場版も評判を呼んだ。ただし、私の見る限り、話を淀みなくまとめるのはうまいものの、心理描写はそれほど深くない。クリエーターと言うよりは職人に近いという印象だった。
 (私の個人的な)評価が変わるのは、劇場用アニメ『映画 聲の形』(2016)から。聴覚障害者を主人公に人間のつながりを描いたものだが、イメージショットを多用し、流れよりも観客に何かを考えさせることを重んじる。アニメ作家として一皮剥けた感があった。
 続く作品が『リズと青い鳥』で、これまでのところ山田の最高傑作である(一般的な評価とは少し違うが)。『けいおん!』以来、多くの作品で協力関係にあった名脚本家・吉田玲子と、トップクラスの職能集団である京アニ・アニメーター陣の力が大きいとはいえ、山田が着実に成長を続けていることを示す。今後の動向に注目したい。

【『響け! ユーフォニアム』との関係】
 ここで、本作とテレビアニメ『響け! ユーフォニアム』の関係についてコメントしておこう。一言で言えば、まったく別の作品である。
 京アニは、武田綾乃のライトノベル『響け! ユーフォニアム』シリーズを継続的にアニメ化しており、2015年と16年にテレビアニメ第1、2期が放送(いずれも放送翌年に総集編が劇場版として公開)された。これらは高校吹奏楽部の人間模様を描く群像劇で、まじめに作られたウェルメイドな作品である(ただし、私好みではなく退屈した)。さらに、2017年のトークイベントで、石原立也監督による「2年生になった久美子(シリーズの実質的主役)たちの物語」(2019年公開)と、山田尚子監督による「みぞれと希美の物語」(2018年公開の本作)という完全新作映画2本の制作が発表された。この2本は、いずれも、トークイベントのすぐ後に刊行されたシリーズ第4長編『北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章』を原作とする。
 京アニは、決して大きな会社ではない。同じ原作の(したがってファンがかぶる)劇場用アニメを並行して2本制作するというのは、かなり無謀な企画である。なぜそんな決定をしたのか、私のような部外者は憶測に頼るしかない。おそらく、2016年に、興行収入250億円という超特大ヒットアニメ『君の名は。』が出たほか、興収50億以上のアニメが3本、京アニ制作の娯楽性の乏しいアニメ『映画 聲の形』も興収23億(興収額は日本映画製作者連盟発表のデータによる)に上ったことから、経営陣が劇場用アニメ制作に前のめりになったのだろう。
 原作小説『波乱の第二楽章』は前後編2分冊で、1本の映画にするには少し長すぎるため、2本に分割したと考えられる。ただし、前後編に分けるのではない。1本は、テレビアニメで登場人物の成長を見つめてきた石原立也が担当し、久美子らが2年に進級してからコンクールに出場するまでを経時的に描いた。不思議なのは、もう1本が、かなり地味なみぞれと希美のエピソードを取り上げた作品になったことである。
 山田尚子は、『聲の形』に先立つ『映画けいおん!』でも、それまでの京アニ記録だった『涼宮ハルヒの消失』の2倍以上となる興収19億円を達成しており、京アニ最大のヒットメーカーである。経営陣が彼女に大いなる期待を寄せ、その希望を最大限に受け入れたことは想像に難くない。こうして、山田が原作にとらわれず、自分の思うままに作ったのが『リズと青い鳥』なのである。
 近所の図書館にあった原作の一部を読んでみたところ、控えめに言って、本アニメとはかなり趣が異なる(…って言うか、「全然ちゃうやん」というレベル)。原作の北宇治高校は男女共学なのに、アニメでは男子生徒の姿が見えず、完全に“女の園”になっている。目を凝らすと、全体練習の際にちらほら男子が映っているのだが、後方でぼかされた姿に。廊下や下駄箱周りにもモブのように現れるものの、巧みに別の箇所へと視線誘導される。おそらく、本アニメだけを見た人の大部分が、女子校の話と思ったはずだ。敢えて「男子はいない」と錯覚させるような演出がなされている。
 原作には、部員たちの(擬似)恋愛の描写が過剰気味に現れるが、これもほとんどが省略された。それほど、みぞれと希美の関係に集中したかったのだろう。まるで、アンリ・ヴェルヌイユやエリック・ロメールら名匠の手になるフランス映画のように、二人の心理をじっくり描き出す。
 石原立也が監督した『響け! ユーフォニアム』は、原作にかなり忠実なようだが、『リズと青い鳥』は、登場人物が共通するだけで、作品全体の方向性が全く異なる別作品だと思った方が良い。それぞれのキャラも、かなり大きく変更された。部長の優子は、頭の大きなリボンがいかにも不釣り合いな、真面目で他人思いのリーダーとして描かれる。
 ただし、山田には原作から離れているという意識がなかったらしい。公式サイトに掲載された山田のインタビューでは、「原作の持つ、透明な、作り物ではない空気感を映像にしてみたいと思いました」「原作から受けたこの二人の物語の印象をそのままフィルムに落とし込んでみたいというのがまずありました」とある。原作に没入するうちに、行間を深読みしイメージが勝手に膨らんでいったのだろう。脚本の吉田玲子とも見解の相違はなかったようで、「あまり窮屈に打ち合わせるような感じではなかった」と語っている。
 本人に「原作とは違うものを」という気負いがなく、思うがままに作ったため、壊れやすい少女の内面を丹念に描いた、アニメ史上に残る傑作が誕生したと言える。もっとも、山田の感性は『ユーフォ』ファンと少しずれがあったようで、興行的には惨敗に終わった。

【おまけ---オーボエという楽器】
 本アニメでフィーチャーされるオーボエは、2枚のリードを向かい合わせに固定し、その間に息を吹き込むことで音を出す楽器。高音成分が多く震えるような切ない音色が特徴で、それに心惹かれる人も多い。ただし、本格的な演奏をしたければ毎回リードを自作せねばならず、やたらに手間がかかるのに、フルートのような華麗さに欠ける。希美がフルート、みぞれがオーボエを担当するのは、それぞれのキャラに見事にマッチする。
 オーボエの名曲と言えば、モーツァルトやリヒャルト・シュトラウスの作品が有名だが、私は、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハのオーボエ・ソナタ ト短調が好きだ。派手さはないが心に沁みる曲で、みぞれのテーマとして使えそう。

【も一つおまけ】
 作中でアニメ内アニメとして描かれるのが、コンクール曲のベースにもなった童話「リズと青い鳥」。大写しになった本の表紙に「ヴェロスラフ・ヒチル著」と明記されていたので、実在する童話かと思って検索したが見つからない。ネットの情報によると、映画監督のヴェラ・ヒティロヴァをもじって、武本康弘(京アニ所属の監督で放火事件で亡くなった)が考案した名前らしい。ヒティロヴァには『ひなぎく』というぶっとんだ快作があり、私は30年ほど前、これ見たさに唯一の上映館がある吉祥寺まで遠征した。武本監督とは、そんな趣味も一致していたのか---ちょっと涙。


【追記】
 上のレビューを執筆した時点では、原作となる『北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編/後編』のうち、近所の図書館にあった前編しか読んでいなかったが、その後、別の図書館から後編を借りて読むことができた(文庫本くらい買えって言わないで!金欠なんだから)。
 アニメが小説と趣を異にすることは前編と同じだったが、それが心理描写の深化にとどまらず、原作における客観的記述ともかなり食い違っていることに、少々驚いた。出来事の時系列や希美を諫める人物を変更したほか、みぞれと久美子の会話や、みぞれがオーボエソロで名演を示した後の指導者の対応など、ストーリーの上でかなり重要な部分をバッサリ切り捨てている。その一方で、原作では触れられない童話「リズと青い鳥」の細かな内容を、本編とは異なる技法を用いた映像によってたっぷりと見せる。ここまでくると、山田尚子がかなり確信犯的に原作を変更したのではないかと思えてくる。おそらく、原作(前後編)のプロローグ部分に記された希美とみぞれの関係に心打たれ、その部分をどこまでも拡大してアニメ化したのだろう。
 そう考えると、本作が『響け! ユーフォニアム』シリーズの一編として制作発表されながら、公開時にそのことを示す副題がなかった理由も見えてくる。京アニの経営陣は、完成間近になって、原作や(原作に忠実な)テレビアニメとかなり異なると知って驚いたのではないか。「響け! ユーフォニアム」と冠すると、これまでの路線を大きく逸脱したことに対して、ファンの批判が高まりかねない。そこで、独立した作品としても楽しめるという言い訳をしながら、スピンオフ作品として扱わない方針を固めたと推測される。結果的には、それが大爆死と言える興業成績につながったようだが。

明日ちゃんのセーラー服

【評価:☆☆☆☆】
 名門女子中学に入学した明るく元気な女の子・明日小路(あけびこみち)が、クラスメートたちを少しずつ友人思いの積極的な人間に変えていく。『風の又三郎』の女子中学版とでも言うべき作品で、女子校という閉ざされた空間の日常を情感豊かに描き出す。繰り返しの鑑賞に堪える秀作だ。
 原作はごく一部を読んだだけだが、少女の躍動的な肢体をコマ撮りのように表現する場面の多い絵画的な漫画(初出はWebコミック)。これに対して、本アニメは、絵画性よりも物語性を重視して人間描写を膨らませており、個人的にはアニメの方が好きだ。
 なんと言っても、《適度に》個性的なキャラが興味深い。大勢の生徒が登場する学園ものの場合、家庭の事情やスクールカーストなどの設定を導入することが少なくない。こうした設定は、社会性をはらんでいて物語を深化させそうだが、実際には、脚本家によほどの手腕がない限り、設定に縛られドラマがおろそかになってしまう。本作は余計な設定を置かず、日常生活から立ち上るほのかな個性をうまく生かしており、リアルで見飽きない。
 例えば、驟雨を逃れ小屋でふたり休んでいるうち、つい友人の膝枕でうたた寝をしてしまう場面(第3話)。ありがちなギャグにつなげず、現実に見られそうな素直な展開に好感が持てる。第6話の釣りシーンでは、イワナが目の前に現れおとなしかった少女の気持ちが高ぶっていく過程を、臨場感たっぷりに描く。
 気になったのが、ヒロイン・小路の両親。父親は仕事のせいでなかなか家に帰れず、母親は洋裁用トルソーを傍らに仕立て作業にいそしむ。ではなぜ、子供のほとんどいない過疎の村に移り住んだのだろう? 絵本に出てきそうな可愛い自宅は、よく見ると窓の木枠がかなり古びており、年代物の洋館をリフォームしたらしい。庭には家庭菜園が作られ、しっかりしたプランに基づいて人生を選択したことを窺わせる。この親にしてあの娘かと、納得できる。
 スタッフには、あまり有名でない女性が多いが、おそらく彼女たちの初々しい感覚が、表面的な派手さを追わず、一人ひとりの心のひだを優しく見つめるステキな作品を生み出したのだろう。

その着せ替え人形は恋をする

【評価:☆☆☆】
 色気づいた男子を喜ばせるエッチネタに溢れた作品だが、そこに目をつぶりさえすれば、まじめな男女の成長物語(ビルドゥングスロマン)として楽しめる。
 主人公の五条は、雛人形を心から美しいと思い、真剣に人形師を目指す高校生。伝統的な職人の家に生まれたせいもあって、同年齢の人と付き合いがほとんどなく社交性に乏しいものの、「クソ」が付くほどまじめな好青年である。
 ヒロインのまりん(「海夢」じゃ読めない!)は、ギャル語を駆使する今時の女子高生のようで、実は、まじめでひたむきな純情少女。好きなキャラになりきりたいという彼女の願望は、お遊びでもおふざけでもない。初めて雫のコスを身につけたシーンで、自分は本当に雫になりきれているかと不安げな表情が、彼女のひたむきな情熱を示す(第4話)。見果てぬ夢をどこまでも追い求める、熱きロマンチストそのものの姿だ。五条に「はい、北川さんは立派な雫たんです!」と言われたときの衒いのない満面の笑みは、見ていて涙が出るほど感動的である。
 五条がまじめで純情なのは誰の目にも明らかだが、まりんも同じくらいまじめで純情なことに気づいてほしい。際どい水着を五条に見せつけるので、恥じらいがないと思われそうだが、そんなことはない。空腹でおなかが鳴ったときには死ぬほど恥ずかしがっており、羞恥心の基準が一般人からずれているだけ。ジュジュのように尊敬できる相手ならば、きちんと敬語を用いるし、自分のミスで五条に余計な苦労をさせたと気づくと、涙を流して詫びる。すぐ「キモッ!」とか言って思考停止に陥る無気力な若者とは正反対の、まっすぐな「良い子」である。
 特に重要なのは、まりんと五条が、衣装作りを通じて共に成長していく点。資料画像を見るだけでなく、アニメをコンプリートしキャラに適した生地を選ぶところから始める五条の姿は、夢を実現するためには計画性・戦略性が必要なことをまりんに教える。第10話では、彼女が自主的に小道具を用意するシーンが描かれる。
 一方の五条は、まりんのために衣装を作り化粧を手伝ううちに、人形師として決定的に重要なことを学ぶ。「将来、いい人形を作りてえんなら、人形だけを見てちゃだめだぞ。いろんなもん見とけよ。いつか必ず実になるからな」(第7話)という祖父の言葉は、本質を突いている(ついでに言えば、アニメーターも同じで、生きた人間のデッサンを繰り返す修練を積まなければ、まともな原画は描けないと自覚すべきである)。
 毎回エッチネタが登場するものの、ギリ、苦笑して許せる範囲なので、大目に見てあげよう(もっとも、第2話でまりんが感じてしまうシーンは、ちょっと刺激的だったが)。

平家物語

【評価:☆☆】
 シリーズ構成・吉田玲子、監督・山田尚子というゴールデンコンビ(『けいおん!』『たまこまーけっと』『聲の形』『リズと青い鳥』)の作品でありながら、彼女らの才能を充分に生かせていない。
 当代きっての名脚本家である吉田玲子は、限定的な状況下に置かれた女性がどう反応するかを描写するのが得意。本物の戦車に乗って模擬戦をする(現実にはあり得ない)女子高生の心情も、リアルに語り尽くす筆力を持つ。しかし、キャラの人生経路があらかじめ全て決められてしまうと、あまりの窮屈さに想像力が働かなくなるのか、ひどく単調な人物造形しかできない。シェークスピアの悲劇をファンタジーアニメに作り替えたのに、ドラマチックな展開に欠ける『ロミオ×ジュリエット』などがその典型。
 同じく古典にファンタジーの要素を盛り込んだ本作でも、全員が運命に大きく翻弄されているにもかかわらず、社会と個人の相克がドラマを生み出すことがない。設定通りのキャラが既定の路線に沿って動き回るだけである。平清盛と源頼朝は、原作とは異なる戯画化された人物として。後白河法皇、平維盛、平敦盛、木曽義仲、源義経らは、伝承に近い類型的なキャラとして。平重盛は、脚本家によって亡者を見る超能力を与えられたものの、そこから人物像が深化されない。やはり、吉田には不向きの題材だったのだろう。わずかに、平徳子(建礼門院)だけが、滅びに向かう一族の悲哀を体現して興味をそそられる。
 山田尚子は、状況に応じた(主に女性の)心の動きを巧みに表現する卓抜した手腕の持ち主で、吉田の脚本と相性が良い。だが、今回は、陰影の乏しい脚本に流されたのか、キャラの人間性が表出されていない。また、キャラデザに漫画界のレジェンド・高野文子を起用したにもかかわらず、面白みが全く感じられない。高野は、『絶対安全剃刀』で認知症の老婆を幼女の姿で描き、人間に対する深い洞察力を示したが、『平家物語』のキャラは設定をなぞったようにしか見えない。顔ぶれだけは豪華な声優陣も、予算の無駄遣いに思える。ただし、平徳子に関しては、キャラデザもアテレコも味わい深い。原作であまり掘り下げられていないため、却って想像力の飛翔が可能になったのだろうか。
 総じて、企画ミスとしか言いようのないアニメである。

パリピ孔明

【評価:☆☆☆】
 現代日本に転生した諸葛孔明が、売れないクラブ歌手だった英子に策を授けて人気者に育てる物語。突っ込みどころ満載だが、うるさいことを言わなければ、それなりに良くできた娯楽作だろう。ただし、2つの点がどうしても気になって、私はあまり楽しめなかった。
 第一に、孔明の授けるのが、現実にはうまくいきそうもない愚策であること。三国志の故事にこじつけて話を作っているが、客の方向感覚を狂わせてフロアから逃がさないようにしたり(第2話)、ラップ勝負でKABE太人を立ち直らせたり(第5話)するエピソードは、どう考えても無理がある。第7話で登場する3つのアイテムが後に役に立つことを、孔明はなぜあらかじめ知っていたのだろう? もっとも、三国時代の孔明が現代日本の風俗慣習を熟知していたくらいだから、時空を超えて転生した際に予知能力も身につけたと考えればつじつまは合うが…。
 より重大なのが、第二の問題である。ミュージシャンの成功を描くアニメや映画では、音楽パフォーマンスを直接表現しなければならず、小説やマンガのように言葉でごまかすことができない。ところが、本作の場合、他の歌手と比較されるシーンで、英子の歌は(悪くはないものの)歌唱力も楽曲も特に傑出しているとは言えず、聴衆が英子になびく過程に説得力がない。
 この点は、過去の優れたアニメと比較するとはっきりする。『NANA』の初ライブシーンでは、歌唱・演奏・楽曲の質がいずれも高く、初めてライブを聴いた客が熱狂するのも納得できる。『覆面系ノイズ』のヒロイン・ニノが、思い人に届けとばかり苦しそうに声を張り上げる姿は、粗削りながら共感を呼ぶ。『涼宮ハルヒの憂鬱』の学園祭ライブで、ハルヒが文字通り熱唱し、長門が余裕綽々でギターの超絶テクを披露する好対照ぶりが楽しい。『ゾンビランドサガ』のライブは、自分が存在する意味を問いかける重みがある。『Wake Up, Girls! 七人のアイドル(劇場版)』ラストの雪降る舞台、金も展望もないまま制服姿で7人が懸命に歌い踊る光景は、感動的だ。
 パフォーマンスの裏付けが感じられない以上、現代の音楽業界に古代の軍事的な戦略が応用できるというアニメ『パリピ孔明』の基本プロットは、かなり無謀である。私の個人的な好みを言えば、第7話で七海が木箱を叩きながら歌うシーンだけは素晴らしいのだが。

オッドタクシー

【評価:☆☆☆☆】
 サイコサスペンス・アニメとして、『妄想代理人』(04)や『神霊狩』(07)以降の最上作と言って良いだろう。
 冒頭、何やらおぞましげな物体が海中深く沈んでいく。陰惨な雰囲気が漂う秀逸な出だしだ。暗く淀んだ空気感は最終回まで画面全体に横溢し、たまさか挿入される下手な漫才のようなギャグと相まって、胸苦しいほどのサスペンスを高める。テレビドラマのディレクターが見習ってほしい、卓越した演出である。
 本アニメの特徴は、登場キャラがすべて動物で表現されること。キャラが動物の姿をするアニメは数多いが、「なぜ動物か」という問いに自覚的でないケースが目立つ。(子供を喜ばせるための便法でなく)純然たる表現テクニックとして捉えると、動物キャラの登用は、人間性の減殺か動物性の添加か---のいずれかとなる。『BEASTARS』『キリングバイツ』などは後者だが、『オッドタクシー』の場合は前者と言って良いだろう。見るからに暴力団員や悪徳警官を思わせる風体の人間が登場すれば、そこからさまざまな連想が湧き、どうしても既存のイメージに囚われてしまう。しかし、動物の姿を強調されると、余分な連想が食い止められることで、作中で提示される事件や相関関係に意識が自然と集中していく。
 人間性が減殺されているため、例えばマネージャーの山本の場合、端正なキツネ顔が紛れもない誠実さを浮き彫りにし、誠実であるがゆえに状況がいかに切迫しているかが実感される。サルの柿花(Wikipediaによればシロテテナガザルらしい)が示したどうしようもなく愚かな言動に対して、何のためらいも同情もなく平気で大笑いし、直後、笑った自分にゾッとする。
 動物キャラは、識別素性としても有用だ。「この辺りでアルパカは彼女だけだ」という台詞に、素直に納得してしまう(それにしても、何でアルパカがあんなにいとおしく見えるのだろう)。
 ミステリー的な要素があるものの、事件の真相自体は、さして驚かされるものではない。注目してほしいのは、事件の周辺で多くのキャラが生き方をたわめられ、かつて抱いていた希望とは懸け離れた道を選ばざるを得なくなったこと。彼らが動物として描かれているだけに、逃れる術のない非情な宿命が直截的に胸に迫ってくる。

羅小黒戦記

【評価:☆☆☆☆】
 北京の小規模なアニメ制作会社で若手アニメーターが中心となって作った、純正中国産アニメ。作品に込められた熱気が高く、ラストは、大概の日本アニメを凌駕する感動を与えてくれる。
 何と言っても、作画の質が高い。中国でも増えている美麗な3DCGではなく、描線が単純な2Dアニメだが、ダイナミックな動きを的確に表現する。終盤のアクションシーンでは、魔術による闘いなのにリアルな身体感覚が伝わって、息を呑む迫力だ。
 例えば、破壊される都市から住民を救うために空間転移を行うシーン。背後から手前に向かう光の奔流で見る者をハッとさせた後、クッションとなる黒地のコマをあえて挿入せず、一瞬で場面転換する。そのタイミングが適切で、心を鷲づかみにされる。光や煙のCGで表面を粉飾するのではなく、「人間が空間を飛び越える」現象をいかに表現するかを考え抜いたアニメーターの力量が実感される。
 穏やかなシーンの描写も秀逸だ。私が好きなのは、主人公のシャオヘイ(小黒)が地下鉄に乗るシーン。周囲の乗客がシャオヘイを見て、猫耳に微笑んだりグッタリした姿を気遣ったりするところが素晴らしい。単なるモブではなく、心ある人間として生き生きと描かれる。この描写があるからこそ、心を乗っ取られて操り人形と化す場面の恐ろしさが痛切に心に迫る。
 3DCGのような派手さはないものの、登場人物の目線や仕草がきちんと描き込まれているので、セリフがなくても各人の内面が浮かび上がる。シャオヘイに対するムゲンの態度は、当初、背筋を伸ばしたままで冷たさを感じさせていたのに、都会に来てからは、肩に乗せた際に優しく目を向けるなど、少しずつ共感を深めていることがわかる。倒れたシャオヘイを前のめりになって見つめるとき、ムゲンの髪が前後にゆっくりと揺れる光景が印象的だ。
 物語は、少年たちの闘いを描き出す。正義が悪を叩き潰すといった、安直で独善的なストーリーではない。すべての少年が、自分が正しいと信じることのために、まっすぐ前を見据え文字通り命を懸けて闘う。正義と正義がぶつかり合う物語だ。シャオヘイに対して「何が悪か」という問いが度々発せられ、悲壮なクライマックスは見ていて胸が苦しくなる。
 日本アニメは、有能な作家が主導した少数の傑作を除いて質的に低迷気味であり、本アニメや日中合作の『詩季折々』が中国アニメの本流だとすると、日本はあと数年で追い越されるだろう。もっとも、中国でもアメリカと同じく、人気があるのは子供向け3DCGアニメらしいので、その心配は杞憂に終わりそうだが。

ユーレイデコ

【評価:☆☆☆】
 原案の湯浅政明と佐藤大、脚本の佐藤とうえのきみこら、くせ者たちの手になるストーリーは、先端的でかなり面白い。残念ながら作画と演出が今ひとつで、アニメとしての完成度は必ずしも高くないが、意欲作として評価できる。
 舞台となるのは、仮想現実(VR)や拡張現実(AR)が日常的に活用され、教育やショッピングでは、作中で「超再現空間」と呼ばれるメタバースが実用化された社会。ただし、高度な技術がもたらしたバラ色の未来などではない。カスタマーセンターによって常時行動がチェックされる、自由のない監視社会である。
 市民は、視覚情報デバイス・デコの装着を義務づけられ、そこに表示される“らぶ”という評価値に一喜一憂する。この“らぶ”とは、SNSの「いいね!」やフォロワー数と似ているが、実は、承認欲求を満たしてやることで市民を馴致する手段。物語は、“らぶ”を強制的にゼロにしてしまう「怪人ゼロ」が出没するところから始まる。主人公のベリィやハックは、住民登録されず管理対象とならない「ユーレイ」の立場を獲得し、自由人として管理の実態に迫っていく。ただし、この実態解明の描き方が、どうにも中途半端である。
 情報技術の過剰な発達がもたらす恐怖は、視覚的に表現しやすいからか、『電脳コイル』『フラクタル』『サイコパス』など、多くのアニメで描かれてきた。これらに比べると、『ユーレイデコ』における監視社会は、陰惨なディストピアとしての側面よりも、冒険の場という性格付けがなされており、切迫感に欠ける。ベリィらの行為は、管理者に逆らう命懸けの反抗のはずなのに、キッズアニメ風の作画のせいで遊び半分にしか見えない。また、表現の上でリアルとバーチャルが明確に区別されておらず、システムが機能しなくなったときの描写が先行作品ほど衝撃的でない。例えば、『電脳コイル』において、システムが個人情報にアクセスできなくなったときに起きるショッキングな出来事は、『ユーレイデコ』の楽しい冒険世界とは無縁である。
 第10話以降の物語展開は脚本がよく練られており、作画と演出にもう少し工夫があれば、かなり優れた作品になったと思われるのだが…

アキバ冥途戦争

【評価:☆☆☆】
 「パロディするなら、こんくらいガチでやれ」---自信を持って、2022年秋アニメのベストワンに推せる快作だ。
 日活無国籍アクションよろしく、コスプレとガンプレ(イ)のボーダーが華麗に取っ払われ、秋葉原を舞台にメイドたちが殺し合う。これを人間の俳優が演じると、どうしても人臭さが漂う。鈴木清順ですら、その弊を逃れるのに書き割り風の人工美を必要とした。ところが本アニメでは、「萌え萌えキュンキュン」のメイド姿が強烈無比の脱臭剤となって、人間社会の常識など気にせず血みどろアクションを堪能できる。
 ベースがパロディなので、動機付けのような細かな心理描写を抜きにし、設定だけでストーリーを展開する。ただし、「オリジナルとは異質な要素を混入することで作劇のパワーを方向転換する」というパロディの本質は、踏み外していない。
 パロディとは、ふざけることではない。『あしたのジョー』のパロディ(第3話)では、原作よりも遙かに激しいファイトが大真面目に繰り広げられ、見ていて熱くなる。第6話、嵐子が「このラーメンがあることで、自分はアキバでやっていけます」と言い、愛美が「何でもかんでも新しうなればええってもんじゃなぁ。変わっちゃいけん、変えちゃいけんものがあるじゃろ」と返すシーンでは、高倉健や菅原文太の姿が脳裏をよぎり、涙が出てきた。
 私が特に好きなのが、無数の野球アニメをパロッたエピソード(第8話)。死体を使ったギャグが古典落語の大ネタ「らくだ」の「かんかんのう」を彷彿とし、不謹慎ながら吹き出してしまった。
 泣いたり笑ったりできるアニメは少なくない。泣きながら笑えるアニメもある。だが、笑いながら泣いてしまうアニメには、久しぶりに巡り会えた。

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【評価:☆☆☆】
 「ゲーム世界に閉じ込められる」というと、最近では夥しい類似作があって珍しくもないが、本作は2002年という比較的早い時期に制作された佳篇。
 脚本家の伊藤和典は、1980年代、押井守らとゲームセンターに入り浸っていたというが、そのときの体験が作品として形をとったのが、2001年の実写映画『アヴァロン』(脚本・伊藤和典、監督・押井守)だろう。「ゲームに惑溺した末の精神崩壊」や「リアルとバーチャルの境界の曖昧化」などのテーマが提起されており、私は、『市民ケーン』や『2001: A Space Odyssey』に匹敵する傑作と評価する。
 『アヴァロン』の翌年に発表された『.hack://SIGN』は、伊藤がシリーズ構成と脚本の大半を担当し、こうしたテーマをテレビアニメの枠内に落とし込んだもの(本編25話+総集編1話、テレビ未放映の番外編2話は本編とほとんど無関係)。ゲームを中心とするメディアミックス企画「Project .hack」の一環という制約からか、『アヴァロン』ほど先鋭的ではないものの、真下耕一(監督)のミステリアスな演出と相まって、類似の設定を採用したテレビアニメの中では屈指の出来となった。特に、伊藤と(彼の弟子筋に当たる)横手美智子が共同で脚本を執筆した回は、人物像が奥深く描き出されており、アニメにおける脚本の重要性を実感させる。
 舞台は、不特定多数が参加できるオンラインRPG『The World』が大人気の近未来(と言っても、設定では2010年)。果たしてゲーム制作者が用意したイベントかもはっきりしない不可解な事件が多発し、なぜかログアウトできなくなったらしい司(つかさ)をはじめ、多くのゲーム内キャラが、ゲーム本来の冒険とは別の駆け引きを余儀なくされる。そうした中で、キャラとプレーヤーの間に横たわるある種の断絶が、少しずつ明らかになっていく。
 最近のアニメと比べるとアクションの描写はかなり地味で、派手なバトルの好きな人には勧められない。その一方で、登場人物の台詞一つ一つが意味深であり、プレーヤーがどんな思いでキャラに台詞を語らせているか想像すると、ゲームの背後にある現実の広がりが見えてくる。人生経験が豊富らしいベア(の中の人)の語りも興味深いが、私が好きなのは、内気そうな表情と戦斧を持つ姿がいかにもアンバランスな昴(すばる)。なぜ彼女がそんな状況に置かれているか考えると、いろんな推測が膨らんで楽しい。
 終盤の展開は、あまりに唐突で煮え切らないように感じる人がいるかもしれないが、この唐突さがゲーム世界に限定されたものであることに気づけば、なぜ伊藤和典がこんな終わり方を選んだかがわかるはずだ。
 梶浦由記による音楽は、テレビアニメの劇伴として最高度の水準にある。

大雪海のカイナ

【評価:☆☆☆】
 SF的設定は壮大だが、登場キャラの人物像に深みがない。うまく料理すればもっと面白くなった素材なのに、なんとももったいない残念アニメである。
 原作は、漫画『シドニアの騎士』でコアなSFファンを狂喜させた弐瓶勉の手になる(武本糸会が作画した漫画が、アニメに先行して発表された)。文明が崩壊した遠い未来なのか、水のない広大な「雪海」に点在する「軌道樹」からわずかな水を得て、人々が命をつなぐ世界。アニメ第1話では、軌道樹の上に広がる「天膜」の少年カイナが、水争いに巻き込まれ解決策を求めて雪海からやってきた小国の王女リリハと出会う。『風の谷のナウシカ』や『ケムリクサ』にも通じるワクワクする発端で、文明と自然の関わりを見据えたスケールの大きい物語を期待させる。
 残念ながら、そこからの展開は平板。軍事力で水源を確保しようとする大国の動きが描かれながら、水不足に対する切迫感が指導層に乏しい。守る側の交渉もおざなりのまま、当たり前のように戦端が開かれる。そのプロセスに迫力があればまだしも、人々の対応があまりに状況に即してひねりがないので、予想通りすぎて楽しめない。終盤になると、ほとんど伏線もなしに事態が急転し、性急な幕引きとなる。放映半年後に公開予定の劇場版につなげるつもりなのかもしれないが、テレビ版だけを見る視聴者にはいかにも物足りない。
 作画に関して言えば、背景は想像力をかき立てる見事な出来なのに、人物描写がなっていない。アニメでは、うずくまるときの体勢など脊椎の曲がり方を含めた体幹部の表現によって内面を描写するのが効果的。にもかかわらず、頭部や手足に無意味な動きが多く、漫画に比べても訴求力に欠ける。一部のキャラは口元を隠しており、体幹や眼が充分に描ききれていないせいもあって、心情が捉えられず人形のようで不気味。『シドニアの騎士』のアニメ化も行ったポリゴン・ピクチュアズが制作に当たったが、人物に関する作画技術は、むしろ後退したように感じられる。
 設定と背景画が優れているので星3つを付けたが、もう少し演出に力を入れてほしい。

プリンセスチュチュ

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 私は、『ARIA』以前の佐藤順一作品は小中学生向けだという偏見を持っていて、本作も長らく見る気が起きなかったのだが、暇つぶしのつもりで見始めて良かった。タイトルから予想される甘さは微塵もなく、ダークで錯綜したストーリーは、何とも私好みだったからである。
 『美少女戦士セーラームーン』にせよ『おジャ魔女どれみ』や『カレイドスター』にせよ、佐藤作品には、現実をベースとした世界にファンタジーの要素が入り込むという設定が多い。ところが、佐藤が総監督を務めた『プリンセスチュチュ』の場合、どこにベースがあるのかがわかりにくい。一応、やや古風な芸術系の学校(バレエのほか演劇や美術のクラスがある)が舞台なのだが、なぜか人間に混じってリアルな猫がバレエを教えている。主人公のあひる(少女の名前でもあり正体でもある)は、住んでいる町のイベントや店を知らない。
 ストーリーが進行するにつれて、どうやらすべてが「物語の中の出来事」らしいと判明する。もっとも、物語の中と外を分かつ境界は曖昧で、「何が本当か」がはっきりせずもどかしい。この曖昧さが、(特に前半「卵の章」における)胸苦しいほどの不安をもたらす。心の欠片を集めるというクエストが達成されても、高揚感は得られない。
 曖昧と言えば、バレエとストーリーの関係も、すぐにはわからない。深刻な場面になると、あひるはプリンセスチュチュに変身して唐突にバレエを踊り出すのだが、ジュテやピルエットなどの型が描かれるばかりで、バレエが人間同士の対決に関与する仕組みは明かされない。私自身、肉体を用いた芸術表現であるはずのバレエがストーリーから遊離しているように思えて、しばらく混乱しながら見ていたが、途中から少しずつ理解できた。本作におけるバレエは、いくつもの物語を結びつける媒介者として用いられている。それぞれのバレエ作品が依拠した物語が、難解なアニメを読み解くための鍵となるのだ。
 アニメの設定と直接結びつくバレエが、「コッペリア」「ジゼル」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」など。大団円となる終盤の展開は、オデットとオディールの役割が反転した「白鳥の湖」の陰画である。また、バレエ映画に翻案された「赤い靴」をはじめ、「みにくいアヒルの子」「シンデレラ」などの童話、ポー「大鴉」のような文学、必ずしもバレエ音楽に限らないクラシック作品(「展覧会の絵」「動物の謝肉祭」やワグナーの楽劇など物語性の強いものが多い)が直接間接に引用された。これらは、アニメを彩ると言うより、錯綜したストーリーをさらに複雑にし、視聴者に目眩く思いをさせ(てくれ)る。
 『プリンセスチュチュ』は、最後には愛し合う者が結ばれるとか善が悪を倒すといった、ありきたりのファンタジーではない。一筋縄ではいかないストーリー、何重もの設定が重ねられたキャラ(私は猫先生が好き!)、シュールすぎて笑えないギャグ---「見る人が見れば」どころではない、見る人が見ても混乱の極みに突き落とされるアニメなのだが、そこが逆に心に刺さるとも言えるだろう(星3つは全体の評価で、「卵の章」だけなら4つ星にしたい)。

天国大魔境

【評価:☆☆☆☆】
 何年か前の大災厄により文明が破壊され、人間を食い殺す怪物ヒルコが出没するポストアポカリプス的世界。少年マルと少女キルコが「天国」を求めて旅する物語と、近代的な教育施設で集団生活を送る異様な子供たちの物語が、交互に描かれる。ミステリ要素も加わって、最近では珍しい濃厚なロマンに溢れた秀作である。
 人類終末期にさまざまな場所を旅するというストーリーは、『少女終末旅行』や『けものフレンズ』など近年のアニメに少なからず見られるが、よりグローバルな視点で眺めると、バラード『結晶世界』オールディス『グレイベアド』など1960年代イギリスで流行したニューウェーブSFに源流がある。アニメ第11話には、ニューウェーブ流「終末旅行もの」の先駆けとなるネヴィル・シュート『渚にて』を、廃墟の一室でマルが読むシーンがある。
 一方、謎の施設で不思議な教育を受ける子供たちの話は、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』をはじめ、数多くの先例がある(私は黒沢清の映画『蛇の道』で哀川翔が主催する塾のエピソードが好き)。この2つのストーリーのいずれか一方だけなら、それほど魅力的ではなかったかもしれない。しかし、さまざまな伏線を張りながら両者を緊密に組み合わせ、時にコミカル、時に悲惨なサイドストーリーを添える見事な語り口は、見る者を捉えて放さない。特に、第8話「それぞれの選択」でタブレットを通じて伝えられるメッセージには、胸を衝かれた。
 さらに加えて、文明崩壊後の世界の描写が卓抜である。悲しいことではあるが、これは、さまざまな写真素材が入手可能になったおかげだろう。自然に逆侵略されつつあるプリピャチや双葉の街並み、阪神大震災後の傾いたビル群や市街戦の跡が生々しいウクライナの住宅地、かつての生活実感が残り香のように漂う軍艦島の廃墟とあまりの無意味さに圧倒される旧共産遺産---こうした写真を目にしたクリエーターたちが、人類終末期における街の姿を幻視したのかもしれない。
 本アニメでは、キルコとマルが訪れる街の情景が実にリアルであり、周囲との関係性を通じて二人の内面が伝わってくる。例えば、第5話「お迎えの日」におけるアパートのリアリティ。外出から戻ったキルコは、室内にマルが見当たらずパニックに陥るが、その心の動きは、生々しさを感じさせる部屋の描写と相まって、息苦しいほど強烈に迫ってくる(その後の軽いギャグとの対比もうまい)。
 石黒正数による原作漫画だけではなく、深見真の脚色もきわめて優れており、2023年春アニメのベストワンと太鼓判を押したい。
 話半ばという感じで終了したので、おそらく、さまざまな謎解きをする続編が制作されるだろう。もっとも個人的には、このまま理に落ちることなく終わる、余韻を漂わせたエンディングの方が好ましく思えるのだが。

地獄楽

【評価:☆☆☆☆】
 不老不死の仙薬を持ち帰れば無罪放免との約定の下、生きて戻った人のいない神仙境に、最悪の罪を犯した死罪人と、監視役となる打ち首執行人のペア10組が送り込まれる。彼らを待っていたのは、生き物とは思えない異形のモンスターと、美しい人間の姿をした不死の天仙たちだった…
 冒頭から斬首シーンや死体の山が描かれ、いかにも刺激の強い作品だが、変に扇情的(感覚的な情欲を煽る)なのではなく、人間の業の深さを感じさせ意外なほどエモーショナル(情動的、心を強く揺さぶる)である。激しいバトルをメインとするアニメの場合、登場人物を類型化して誰と誰がどんな闘いをしているかをわかりやすくするケースが多いのに対して、本アニメは、キャラ設定が複雑で一筋縄でいかない。そこがまた、アニメの見巧者には魅力的である。

 中でも主役の二人、サギリとガビマルは、人生経験を重ねるにつれて少しずつ変化する重層的な人物造形が施されていて、興味深い(他の登場人物では、ユズリハとシオンに興味を覚えたが、主役の二人に比べるとやや類型的だ)。

 サギリは、処刑を担当する職能集団に生まれ、その技を極限まで磨いたものの、女性であるが故に冷遇される。幼少時から間近に存在する「死」に関心を抱きながら、斬首に専念する生き方に疑念を覚えたせいか、登場してしばらくは、内省的なあまり無感情に見える。そんな彼女が、神仙境でのさまざまな体験を経て、心の奥底に秘めていた情念を表出するようになる過程が、感動的だ。
 サギリの技量は高度であっても打ち首に特化されたもので、実戦的でない。首を前に差し出していないと最高の剣技が発揮できない(第6話)し、寸止めはできても不意打ちに弱い(第3話)。剣戟に破れて組み伏されながら、相手がとどめを刺せないでいると、無防備に身を起こして「それは弱さじゃない、強さの種よ」と諭し始める(第3話)。彼女が、いかに刑場での作法に適合した生き方をしてきたかがわかる(他者の内面を忖度せず周囲への配慮に欠ける点は、他の執行人も同様である)。
 そのようにして形成された人格の故に、第1話のサギリはまるで無表情だったが、第2話の終盤で最初の感情解放が起きる。「気が重いんだよ、これから背負うものを考えたら」と言いながら圧倒的な強さで殺しまくるガビマルの姿を見て、自分に足りないのが「殺しを恐れぬ強さ」ではなく「殺した命を背負う覚悟」だったと気づき、涙を流したのである。
 その後の彼女は、段階的に感情を表に出すようになっていく。第3話の冒頭では、神仙境の草花が幻想的だと素直に(と言うか呑気に)驚く。ガビマルが彼女の体調を気遣ったり(第5話)妻の美しさを語ったり(第7話)すると、見ていてちょっと滑稽なほど面食らう。まるで、はじめて心を開いた少女のようだ。
 こうしたサギリの変化は、的確な作画によって描出されている。かなり力量のあるアニメーターが担当したのだろう、身体描写を通じての内面表現が見事だが、中でも目の描き方がうまい。一人語りの際のアップでは、モナリザのように左右の視線がわずかに異なる方向を向いており、表情に深みが生まれる。
 声優(花守ゆみり)もすばらしい。当初は低めの声であまり抑揚を付けなかったが、しだいに微妙な表情を持たせ始める。最近の声優は、ひとたびキャラ固有の声色を決めると最後まで変えない傾向にあるが、サギリのように成長するキャラの場合は、細かく調節するのが適切である。
 サギリがどんな風に描かれているかをじっくりと眺めると、日本アニメの最良の部分を味わうことができる。

 もう一人の主役であるガビマルは、サギリほどわかりやすくない。強圧的支配によって彼本来の性格が大きくゆがめられた上、超人的な身体能力によってあまりに多くの人を殺めてきたため、さまざまなパーソナリティが入り交じった、単純な理解を拒む人間になった。視聴者にとっても、他の登場人物にとっても。
 サギリの感情解放は、主にガビマルに対する共感を通じて実現される。それだけに、最終回でユズリハがガビマルに関してある疑問を呈したとき、サギリは異様なくらい動揺する。彼女の混乱した姿を目の当たりにしたとき、私はどうしようもなく胸が苦しくて堪らなかった。第2期の制作が決まっているが、見るのが怖い。

機動戦士ガンダム 水星の魔女

【評価:☆☆】
【ネタバレあり】
 近年、映画やWEBなどさまざまなメディアを通じて発表される機会の多い「ガンダムシリーズ」だが、本作は、プロローグがWEBアニメ、本編が分割2クールのTVアニメとして制作された。以下のレビューでは、すべてを併せて1本の作品として扱う。
 一言で評するならば、脚本に一貫性がない。いくつものモチーフを束ねて物語を構成しているが、単に並べただけで作品全体の方向性が見えてこない。TVシリーズとして前作に当たる『鉄血のオルフェンズ(第1期)』では、「自由を求める少年たちが、有能なリーダーに率いられて火星から地球に向かう」という明確なプロットがあり、さまざまなエピソードは、すべてこのプロットと関係づけられる。『水星の魔女』には、こうした骨格となるプロットが提示されておらず、話があちこち迷走する。
 本作の大筋を考えたのは、シリーズ構成としてクレジットされている大河内一楼だと思われる。大河内は引き出しの多いライターで、過去作で使われた多様なモチーフを引っ張ってきては、一つの作品に詰め込むのが得意だ。「ゾンビと侍とエクソダス」とか「吸血鬼と学園と巨大ロボット」のように、異質な題材をかなり強引に合体させて話を作る。
 シナリオ作りで大河内が中心になったと考えられる理由は、彼の関与した作品のモチーフが多く利用されていること。序盤で繰り広げられる「花嫁を決めるための学園内決闘」は、もろに『少女革命ウテナ』のパクリで、大河内はこのアニメのノベライズを担当している。第1期後半から宇宙規模の企業活動が重要な役割を果たすが、これは、大河内が「宇宙の会社員もの」という谷口悟朗のアイデアに触発されて脚本を書いた『プラネテス』の基本テーマ。終盤で重要になる「ロボット内部に人の意識が取り込まれている」という設定は、(オリジナルはおそらく『新世紀エヴァンゲリオン』だが)大河内の脚本による『革命機ヴァルヴレイヴ』で使われていた。
 もちろん、創作活動におけるモチーフの流用は大芸術家でもごく普通に行うことで、それ自体は何ら問題ない。問題なのは、流用されたモチーフがバラバラに並べられるだけで、ストーリーを推進するエンジンとして機能していない点(パクるならオリジナルを超えろ!)。
 例えば、学園での決闘という一種のお遊びなのに、なぜ高価な大型ロボットが使われるのか。ここに「運営企業に陰の目的がある」とか「密かに人体実験が行われていた」という要素を付け加えれば、その後の展開とリンクさせられるはずだが、そうした工夫は見られない。軍事行動が始まるきっかけも唐突。同性同士の婚姻や親子の確執なども、他のストーリーラインとほとんど結びつかないまま軽く流されてしまう。
 どうやらプロデューサーたちは、急増中のにわかアニメファンを取り込もうと、「国家間の大戦争を舞台にしない」「複数の女性を主人公とする」といった、予備知識がなくても楽しめる設定の採用に気をとられ、肝心のプロット作りは脚本家に任せきりにしたようだ。大のガンダムファンだった監督の長井龍雪が、いかにもガンダムらしい骨太のプロットを考案した『鉄血のオルフェンズ』とは大違いである。

【推しの子】

【評価:☆☆】
【ネタバレあり】
 第1話(90分特番)がどうしようもなくつまらなかったので見るのを止めようかと思ったが、止めなくて良かった。第2話で持ち直し、第3話以降は「悪くない」と言える出来になったからである。
 アニメ第1話は、原作漫画の最初のエピソードに相当する(らしい。私は、アニメ放映後に無料試し読みできる原作第3話までしか読んでいない)。この部分は、内容的にかなり問題が多い(以下、アニメ第1話のネタをいくつかバラします)
 ストーリーは、ファンの男が、応援していた女性アイドルの子供に転生するというアブない代物。冒頭、「もし芸能人の子供に/生まれていたらと/考えた事はある?」という文言が記されており、大人の知恵と前世での情報を持ったまま転生した子供が、芸能人に必要な容姿とコネを持つことの優位性を自覚して人生をスタートする物語である……かのように始まる。
 しかし、この路線はすぐに破綻する。容姿とコネ程度で人気者になれるほど芸能界が甘いのならば、何の努力もせずにガキが成功するだけの面白くない話に堕すからだ。それではと、大人の知恵を活用して芸能界を生き延びる物語にしようとしても、作者が斯界の事情に疎いらしく、三文小説的な展開しか思いつかない(原作第3話を私はそう読み解いた)。私も芸能界の内情には疎いが、少なくとも、宇多田ヒカルや佐藤浩市が親の七光りだけで今の地位を獲得したのでないことは、理解している。私の知る限り、成功した人はどんな分野でも、並の人間なら途中で止めてしまうような凄まじい努力を重ねている。
 原作漫画のストーリーを担当した赤坂アカは、ジャンプ誌上で同時連載となった『かぐや様は告らせたい』でも、同じパターンの失敗を犯している。名門校の秀才を主人公にしながら、優秀な学生がいかなる思考回路を有するか理解できていないことが見え見えで、実情に疎いまま思いつきでキャラをいじるエピソードばかりが続く。途中からは、秀才というキャラ設定を放棄したかのような展開になる。
 漫画『【推しの子】』の場合、「アイドルの子に転生する」という設定を重視しなくなるのがどの段階からかは、わからない(原作第4話以降を読んでいないので)。しかし、途中から方針を変更し、芸能界で起きるさまざまなトラブルに、転生前の情報ではなく常識的な世知で対応する物語に切り替えたようだ。アニメ第2話以降は、そうしたまともな内容になっている。
 ただし、まともとは言っても、面白いと評価できるほどではない(以下、アニメ第2話以降の内容に触れます)
 リアリティショーにおける自殺騒動のエピソードは、同様の事件が実際に起きてから日が浅いだけに、後味が悪い。原作者の言によると、日本の事件が起きる以前、アメリカでのケースを参考に構想したらしいが、たとえモデルにしたのでなくても、もう少し間をあけるべきだったろう。
 作中で取り上げられるトラブルは、俳優の主導権争いなど、話題性はあっても人間の内面に迫るものではなく、芸能レポーター(今では絶滅危惧種だが)が食いつきそうな話ばかりである。悪くはないものの底が浅い。ミステリ的な要素も、読者/視聴者を喜ばせる単なるサービスとしか思えない。
 ランキングなどを見ると、本アニメはかなりの人気を博している。これは、近年急増したにわかアニメファンが、内容の充実度よりも話題として盛り上がるかどうかを重視することの表れだろう。

NieR:Automata

【評価:☆☆☆☆】
 遠い未来の地球。アンドロイドと機械生命体が、支配者としての地位を賭して争いを繰り広げている。ただし、科学技術の裏付けがあるハードSFではない。きわめて寓話性が強く、その点を理解しないと、リアリティのないキャラ設定に不満を募らせてしまうだろう。
 ストーリーの上では、侵略者であるエイリアンの作った機械生命体と、人類脱出後に地球に残されたアンドロイドが戦っているという設定だが、それにしては、絵柄が奇妙である。機械生命体は、まるで中身が空っぽのブリキ製ポンコツロボットのよう。動作はぎこちなく、話す内容も幼稚だ。侵略の手兵としては、役立たずとしか思えない。一方、アンドロイドは異様なほど人間そっくりで、きわめて高度な技術に裏打ちされているにもかかわらず、戦闘能力は低い。ヨルハ部隊の隊員は、どう見ても、場違いのゴシックファッションに身を包んだ美少女と美少年そのものである。
 これは、寓話の描き方である。リアルな戦闘シーンを期待すると、肩すかしを食らわされるだろう。
 機械生命体は、外見が単なる機械なのに、ネットを介して集合すると個体にはない知性を形成する。対するアンドロイドは、人間に似た心性を持つが(あるいは、持つからこそ)、協力体制に欠け内部対立が絶えない。集合的知性として文明を勃興させつつある機械生命体と、内面は人間並みに豊かなのに社会活動が停滞しているアンドロイドという対立軸が、物語の根幹となる。
 ただし、コミュニケーション能力に関しては、ネットを使って一瞬のうちに同期できる機械生命体が、音声会話と単線的通信に頼るアンドロイドを圧倒するように見えながら、通信ハブを破壊されると一気に優位性が逆転する。このように、両者の対立・闘争は、現実のさまざまな状況を象徴して入り組んでおり、作品世界内部で完結していない。
 SFの中には、(H.G.ウェルズ『モロー博士の島』のように)寓話的な作品が少なくない。随所に科学的なジャルゴンを振りまくことで擬似リアリズムを装いながら、実は、強い象徴性を持つイメージを通じてさまざまな連想を生み出し、表面的なストーリーよりも遙かに多くの内実を語りかけてくる。鑑賞者は、リアリティの欠如に憤慨せずに、言外に示される事件の深層を読み解かなければならない。
 本アニメで私が好きなのは第7〜8話の展開で、二人のヨルハ隊員による探索行を通じて、背後にある事情が少しずつ明らかになってくる。あえて謎を残していくミステリアスな語り口は、単なるバトルものを超えた深みがあり、惹き付けられた。特に、二人が海に足を踏み入れつつ、姿を見せない人類に思いを馳せるシーンでは、口に出せない悲哀がひしひしと胸に迫る。
 残念ながら、この後、コロナ禍による制作トラブルのせいか4ヶ月の中断がはさまれ、放送再開後の第9〜12話では、アニメーターのテンションがかなり下がった気がする。特に、第10〜11話は大味なバトルシーンが中心となり、プロモーションのために表面的な派手さが要求された第1話と同じく、内容が薄い。第12話終了後に第2期制作が発表されたが、果たして第1期途中までの水準を取り戻せるかどうか。
 OPとEDの曲は、ともに私好みである。最近は、本編の内容とは無関係に人気アーティストの楽曲を採用するアニメが多い中で、この2曲は作品の雰囲気にしっくり馴染んでいる。ちなみに、ED曲のタイトルである「アンチノミー」とは「二律背反」のことで、人間は理性で解決できない根本的難問に悩まされるというカント哲学の要となる概念である。

わたしの幸せな結婚

【評価:☆☆☆☆】
 あらすじだけを追うと、悲惨な境遇に置かれていた女性が心優しい男性と婚約することで幸せをつかむという、フェミニストがブチ切れそうなシンデレラストーリー。だが、きちんと鑑賞すればわかるように、中身は全く違う。何よりも、ヒロインが勁(つよ)い。どうかすると、婚約相手よりもはるかに強靱な精神力の持ち主である。すがすがしいサクセスストーリーだ。
 舞台となるのは、路面電車が走り始めた明治後期の日本を思わせるパラレルワールド。柳と街灯のある商店街が描かれる(第3話)が、どちらも明治の銀座で始まったものなので、この時代と場所をイメージしているのだろう(一瞬、昭和の建築である服部時計店に似たビルが登場するのがお茶目)。「異能」と呼ばれる超能力が政治的に大きな役割を持ち、異能者の一族が貴族として重用されている。そんな社会で、異能の家系に生まれながら能力に恵まれず、父親に軽んじられ継母・異母妹から虐待される美世(みよ)が主人公。下女同然の扱いを受け、当世随一の異能を持ちながら冷酷で女性を寄せ付けないと噂される久堂家当主・清霞(きよか)のもとに許嫁として送り出される。しばらく同居するが、婚姻が無理と判断されたら即退去という暗黙の約定なのだろう。物語は、ここから当人たちの思いもよらぬ方向へと転がり出す。
 一見、ガラス細工のように繊細な美世は、常々、異能を持たない己の不甲斐なさを嘆くものの、その割には打ちひしがれることなく、状況を耐え忍ぶ勁さがある。状況に反抗する態度を「つよさ」と誤解する人がいるが、これは正しくない。社会の陋習を変えるのに必要な人脈があれば、反抗という手段も考えられよう。しかし、与えられた環境の中でただ一人生き抜かなければならない場合は、状況に逆らわずサバイバルのすべを模索するしかない。下手(したて)に出るというのは、実は最強の処世術なのである。
 父や妹に邪険に扱われていた美世だが、周囲には理解する人々がいた。上流階級に属さない女中や商人は、信頼に値する人を見抜けないと自分が窮地に陥るので、他者への評価がシビアである。美世は、こうした人々からの支持を得ることができ、文字通り微力ながら要所要所で助けてもらう(おにぎりを作ってくれたり)。
 美世の勁さは、彼女の日常生活に現れる。着物を買ってもらえなければ、自分で古着を繕う。下働きの仕事を押しつけられたら、その腕を磨く。久堂家に赴く際には、一人で路面電車を乗り継ぎ、地図を見ながら目的地に到る。正規の教育は受けていないようなので、放置された雑誌などを使って独学したのだろうか。知的で勤勉な努力家であり、したたかにサバイバルを果たしながら、凜とした女性へと成長する。『暗殺教室』の殺せんせーが口にする「清流に住もうがドブ川に住もうが、前に泳げば魚は美しく育つのです」(第1期第7話)という名台詞そのままに。
 下働きとして腕を磨いた経験は、後に清霞の部下をもてなすときに生かされる(第5話)。彼女が用意したのは、豪勢なご馳走ではなく心づくしの手料理。茄子の煮浸し、茹でた空豆、奥にあるのは蕗の薹の天麩羅か? 中央の姿焼きは、おそらく卓を華やかにするための飾り鯛で、酒を飲む間はそのままにしておき、最後に切り分けたり潮汁にしたりして、みんなで食べるのだろう。見ているだけで心が躍り、なぜか涙が出てくる。
 すべてがうまくいきそうに思えたのに、中盤からは少しずつ美世と清霞の間に行き違いが生じる。それゆえに起きた事件が第9話の後半で描かれるが、私は、見ながら篠崎誠の映画『おかえり』(傑作です)を連想した。この映画では、約束を守らない夫の態度に心を蝕まれていった妻が、ある晩、異様に豪華な夕食を作ってしまう。第9話で美世が清霞のために用意した料理も、人参をわざわざ花形に切るなど、かつての手料理とは異なって、どこか上辺を飾っているように感じられ、切ない。
 (冒頭の1章だけ試し読みした限りでは)原作のライトノベルも悪くないが、アニメ化の際に3人のライターによる脚色で細かな点に適切な修正が施されており、より感動的になった。例えば、美世が婚約者として久堂家を訪れるシーン。原作で途中まで付添がいたのに対して、アニメの美世は、実家に向かって一礼してから独りで出立する。彼女の立場と性格が自然と滲み出た、見事な表現である(郊外の電車内で向かい合わせの席にただ一人腰掛け、女中が握ってくれたおにぎりを食べるシーンも好き!)。ラスト3話は類型的で面白みに欠けるものの、それでも間違いなく2023年夏アニメの最高作だ。

MFゴースト

【評価:☆☆☆】
 ブームが再燃したのか、2023年秋アニメには、『オーバーテイク!』と『MFゴースト』というカーレースアニメの佳作が2本登場した。前者が人間描写に味があるのに対して、本アニメはレースシーンの映像が秀逸だ。
 原作者・しげの秀一の旧作『頭文字D』は、『MFゴースト』と同じく、スポーツカー仕様の市販車による公道でのレースを扱った作品で、1998年にアニメ化されたものの、いくつかの理由で私は嫌いだった。しかし、『MFゴースト』では、その多くが改善されており、好意的な評価に値する。以下、ポイントを列挙しよう(両作は『D』『MF』と略記。原作未読なのでアニメ限定の批評)。
 (1)『D』は、道交法に違反する危険な行為を賛美するような内容だったが、『MF』になると、自然災害で無人化した地域を走行する公認レースとされた。
 (2)『D』では、タイヤに負担を掛け車を傷めるドリフト走行や、意図的にタイヤを溝にはめる奇策のような、ノーマルなドライビングには好ましくないテクニックばかりが強調されており、おそらくメーカーのエンジニアは憤懣やるかたなかったろう。一方、『MF』では、空気抵抗を減らすためのスリップストリームの利用、追い越しの際の心理的な駆け引きなど、合理的な戦術に目を向けている。
 (3)登場人物の会話ないしモノローグによる説明しかなく、何が起きているか捉えにくかった『D』に対して、『MF』はアナウンサーによる実況中継やAI搭載ドローンによる追跡映像、モニタールームでの解析などを加え、レースの状況が格段にわかりやすくなった。
 (4)人間の描画がかなり拙かった『D』に比べると、『MF』は(うまいとは言えないものの)標準的な水準に達している。

 非力なトヨタ車を使用しながら運転テクニックで外国車を凌駕するというストーリー自体は、単純で面白みに欠けるが、レース映像の迫力に魅了され、(『頭文字D』は途中で投げ出したのに)最後まで興奮して見続けることができた。特に、「ボイスカウント」(第8話)におけるカナタとヤジキタ兄妹の駆け引き---兄の車を抜き去る瞬間、スローモーションになる演出も鮮やかだ---や、「時速300キロのドッグファイト」(第9話)のブレーキング勝負などでは、つい身を乗り出してしまった。
 時折挿入される軽いセクハラ映像は、ま、大目に見てあげよう。

ブルバスター

【評価:☆☆☆】
 突出した作品のない2023年秋アニメの中では、ベストワンに推したい佳作である。
 物語は、『地球防衛企業ダイガード』や『プラネテス』の系譜に連なる「SFお仕事アニメ」として始まる。基本的なプロットは、利益優先で隠蔽体質の巨大企業に下請けの零細企業が反抗するというもので、「親会社の引き起こした公害は巨大な害獣(巨獣)の発生」「下請け企業が大型ロボットを使って秘密裏に駆除する」という設定によって、SFバトルものとしての体裁が整えられた。
 おそらく、当初は、ロボットを開発した熱血漢がパイロットとして頑張りすぎ、経理担当者から厳しく咎められるというやり取りを、物語の軸に据えるつもりだったのではないか(原作小説は読んでいないのでアニメに基づく推測)。しかし、これだけでは盛り上がらない。実際、アニメ冒頭の数話は、かなり退屈である。周辺人物に目を配りながら群像劇として話を進めるうち、徐々に脇役だった何人かが生き生きと動き出し、血の通ったキャラとして独特の魅力を発揮し始める。物語はいつしか企業ものの枠から外れて「科学の暴走」という遠大なテーマに向かい、そのあおりを食って、ヒーロー役だったはずの熱血漢は影が薄くなる。
 こうした転換がどこまで意図的なものかは判然としないが、結果的に、作品の質は尻上がりに向上する(特に第7話以降)。キャラの成長が当初の設定とバッティングするせいもあって、出来の良い部分と悪い部分が(親会社の虚を突く高度な策略とハゲの特効薬を巡る滑稽な騒ぎのように)まだらになっており、全体としてはアンバランスさを感じるものの、特定のキャラに絞って物語を読み解いていくと、無類の面白さに舌を巻くだろう。
 私が特に興味を持った人物が、3人いる。
 零細企業の社長は、技術開発のキャリアを諦め下請け業務に専念しているが、私生活では妻と娘に去られ愛犬が唯一の語り相手らしい。そんな彼が、ラストで6人の社員についていかなる評価を与えるか、思い出すだけで胸が熱くなる。
 巨大企業で巨獣調査を担当する女性研究員---厳しい就業規則に縛られながらも、科学者としての良心を貫こうとする姿は、凜として美しい。逃げ場のない屋内で巨獣に襲われながら、予想外の膂力を発揮して他の二人をドアの外に放り投げたときには、心底惚れ惚れした。
 私が最も好きなのが、女性パイロットのアル美だ。寡黙でまったく可愛げがないが、言動の端々に、傷つきやすいナイーブな心性がにじみ出る。黙々と仕事に復帰したように装いながら、化粧する習慣がないせいか、泣き腫らした跡を隠せない。肩を出したキャミソールという尖ったファッションなのは、オシャレのつもりではなく、涼しく動きやすいからだろう。心の支えが必要なとき、母の形見である小さな十字架を握りしめる習慣があるが、紐の長いネックレスにすると何かに引っかかって危険なので、首輪のようなチョーカーを使う。どこかのブティックでオシャレ大好きな女子に混じって、実用性だけを考え買い物をするアル美の姿を妄想し、デレ笑いしてしまった。
 2023年の推しキャラNo1である。

薬屋のひとりごと

【評価:☆】
 作画の質があまりに低く、唖然とさせられる手抜きアニメ。
 原作はWEBの投稿小説。古代中国(らしき国)で人さらいによって後宮に売り飛ばされた薬師の娘・猫猫(マオマオ)が、知識を買われて毒見役に抜擢され、さまざまな事件に巻き込まれる(設定がマリア・スナイダーの『毒見師イレーナ』と似ているが、『薬屋』の投稿は『毒見師』の邦訳が出る前なので、影響があったかどうかは不明)。若手作家の著作にしばしば見られるように、シチュエーションの説明は細かいのに心理描写が薄い。アニメ化する際、この欠点を補うべく視覚表現によってキャラの内面を描き込んでいれば、優れた作品になったかもしれない。しかし、本アニメの場合は、原作よりもさらにキャラが薄っぺらに見える。

 アニメで心理を表現するには、体幹を中心とした姿勢の描写が重要である。絵がうまくなると、背中の丸め方や腰の位置によって、心の内をさらけ出せる。逆に、作画の雑なアニメでは、登場人物が棒立ちのまま、顔の表情だけを変える。せいぜい首を傾げたり手を上げ下げするくらい。
 では、『薬屋』の作画はどうか? 検証するため、第6話「園遊会」を見てみよう(本アニメは、10月第4週に3話分を一挙放送して始まったが、内容からして、『【推しの子】』のように初回でインパクトを与えるためではなく、単に制作が遅れただけと思える。そのせいか、話数の若いエピソードほど作画がつたない)。
 ○ストーリーの上で重要なシーンでも、登場人物が棒立ち姿で描かれる。侍女たちが言い争いをする場面では、姿勢ではなく表情と手の動きだけで諍いを表現しようとする。着席した高官たちは、全員が背筋を伸ばして微動だにしない(何と皇帝までも)。動画枚数の問題ではなく、原画の段階で動きが描けていない。
 ○時間と予算が足りなかったらしく、動画を省略してコピーで済ませるシーンが多い。群舞では全員が同じ動きをし、移動の際に(ギャグとして)数人まとめて横滑りすることもある。
 ○感情が激する状況になると、漫画チックなデフォルメによってギャグとして軽く流す。第6話では、猫猫の身振りに侍女が驚いて逃げ出すシーンで、表情や動作に極端な戯画化が行われる。こうした戯画化は全編で繰り返されており、激しい感情が具体的に描かれることはほとんどない。
 ○ストーリーテリングに必要な場合でも、ショットの積み重ねを省略する。猫猫が料理に毒が含まれることを指摘した際、大臣が毒の有無を確認をする過程で画がなく、台詞だけで説明するので、唐突でわかりにくい。
 ○キャラの特性を表すのに、エフェクトを多用する。宦官の壬氏は、原作で「天女のように美しい」と記されているが、アニメ絵では美貌が表現しづらいので、周囲のリアクションを工夫する必要がある。しかし、本作では、頭回りに星を散らすという素朴なCGでお茶を濁すだけ。女官のリアクションも、顔を赤らめ身をくねらす定型的なものばかり。
 ○中華風の建物が並ぶ背景は、有りものを組み合わせたらしく、全体にのっぺりした平面的な絵である。色調の調整も不十分で、きれいではあるものの奥行きが感じられず、人間関係がギスギスした後宮のおどろおどろしい雰囲気が表現されていない。
 以上に列挙した表現の仕方は、小学生以下をターゲットとするキッズアニメならば常套手段である。視聴者の読解力が乏しい場合は、容認できるだろう。だが、寵愛を取り戻すための閨房テクニックを耳打ちされ妃が赤面するような、かなりアブないシーンのあるこのアニメを小学生向けに作ったのだとしたら、少々不穏である。
 小学生向けでないとしたら、なぜこんな作画になったのか。ここからは推測の域を出ないが、私は、プロデューサーに責任があると考える。
 多くの識者が指摘するように、昨今のアニメ業界は度を超した濫作状態にあり、アニメーターのリソースが決定的に不足している。にもかかわらず、人気アニメが莫大な収益を上げるのを見て「アニメを作りさえすれば儲かる」と錯覚したプロデューサーが次々と作品を発注しており、結果的に、充分なリソースのない制作会社が無理して手がけるケースが多い。
 『薬屋のひとりごと』は、小説とコミックスの累計が2000万部を超えた人気作なので、プロデューサーは版権を押さえようと躍起になったろう。さらに、OP楽曲のために大物アーティストとブッキングし(ただし、完成した曲はアニメにそぐわないと感じる)、有名声優を起用することにも成功した。これで何とかなると思ったのかもしれないが、アニメの場合、作品の質を担保する上で最も重要なのは、制作会社(および監督とシリーズ構成)の選定である。現在、有名制作会社(某京アニとか某ufotableとか)は手一杯でなかなかつかまらない。本アニメの制作を担当したのは、ほとんど実績のない「TOHO animation STUDIO」と、一時的に結成されたチームが制作を請け負うという特殊な体制の「OLM」だが、有能なアニメーターを揃えた制作会社の手が空くまで延期するという選択肢もあったのではないか。
 監督・シリーズ構成という重要な役職をかけ持ちした長沼範裕(これ以前の単独監督作は『魔法使いの嫁』のみ)が、アニメ公式ホームページに「様々なご縁があり、この度『薬屋のひとりごと』アニメーション監督をさせていただく事になりました」と妙に低姿勢のコメントを記しているが、制作の裏事情が垣間見える。

地球外少年少女

【評価:☆☆☆☆☆】
 「AIのシンギュラリティ」というきわめて難しい問題に果敢に挑んだ傑作。原作・脚本・監督・その他もろもろを担当した磯光雄は、2007年のTVアニメ『電脳コイル』で、当時人気だったVR(仮想現実)より一歩進んだ技術であるAR(拡張現実)を取り上げ、先進的な技術に潜むリスクに警鐘を鳴らしたが、本アニメでも、生成AIに関する世間の騒ぎを尻目に、その遙かに先を行く自己進化型AIがもたらす脅威を描き出す。

【シンギュラリティとは】
 シンギュラリティ(特異点)とは、AIが人間以上の知能を獲得する技術的段階を指す。この段階に達したAIは、単に知的労働を代行するだけでなく、人間のあり方そのものを変革すると考える人も多い。もし、きわめて高度な知能を持つAIが、人間にはまったく理解できない活動を始めようとしたとき、我々はどう対応をしたら良いのか?---この問いに対する「正解」は、おそらくないだろう。
 一応断っておくと、現在のニューロネットマシンの延長線上に、シンギュラリティが到来する可能性は「ない」と断言できる。半導体から構成されたハードウェアは、脳が持つポテンシャルとは比較にならないほど機能が低い。最も懸念されるのは、ITリテラシーの低い人が、知ったかぶりAIの妄言を真に受けるリスクであり、AIに何ができて何ができないか理解した上で使うならば、大した危険性はない。
 しかし、「もしAIが人類を凌駕する知能を持ったら」という仮定に基づく思考実験を行うことは、技術倫理や哲学の観点から見て有意義だ。『地球外少年少女』は、そうした思考実験の成果と見なせる。

【作品の二重構造】
 アニメの舞台となるのは、近未来の日本製商用宇宙ステーション「あんしん」。そこに乗り合わせていた5人の子供---月で生まれ地球環境になじむリハビリ中の登矢と心葉(このは)、宇宙体験キャンペーンに参加した美衣奈(みいな)と博士(ひろし)姉弟、キャンペーン参加者ながらUN2.1(何?)の公認ハッカーでもある大洋---が、彗星の衝突で生じた混乱に立ち向かう過程がメインストーリーとなる。大人もいるが、子供と同行する2人はいろいろな意味で頼りなく、訓練を受けた管制室の乗務員たちとはなかなかコンタクトが取れない。こうして、立場も性格も異なる子供たちが協力しながら、多くの機能を失った宇宙ステーション内でサバイバルを果たすという、ハラハラワクワクの冒険物語が繰り広げられる。子供たちの行動はきわめて具体的に描かれ、宇宙サバイバルを取り上げたド派手な大作映画よりも、はるかに緊迫感に満ちている。
 ただし、優れた物語芸術の多くがそうであるように、『地球外少年少女』も、わかりやすいストーリーの背後で世界と人間の本質に目を向けるという二重構造を持つ。表面的なサバイバルの物語だけでも充分に面白く、多くの(もしかしたら大部分の)視聴者はそこまでしか目が行き届かないだろうが、映像を読解する力があれば、最も偉大な文学や映画と同じくらい深遠な内実を持ち、人生に多くの示唆を与えてくれることがわかるだろう。

【物語の前提】
 この物語には、前日譚がある。その概要は、第3話で登矢と大洋の会話(および背後に掲示されたパネル)を通じて明らかにされるが、ストーリー展開をきちんと理解するにはあらかじめ知っておく方が好都合なので、ここで(ネタバレにならない範囲で)説明したい。
 アニメで描かれた世界(現実世界のパラレルワールド)では、人類は2010年代に火星の有人探査を行っており、月には植民地が建設される。しかし、月生まれのムーンチャイルドに原因不明の疾患が発症し、ほとんどが幼くして死んだため、人々はしだいに宇宙開発に消極的となる。さらに、自己増殖するマイクロマシンで構成された最先端AIのセブンは、急激に成長して人間を超える知能を獲得したものの、しだいに意味不明の文言を出力し始め、セブンが設計した製品に不具合が多発するようになった。知能が高くなりすぎると「ルナティック」と呼ばれる制御不能状態に陥ると判断された結果、セブンは処分され、一般のAIには成長を制限する「知能リミッター」の搭載が義務づけられる。舞台となる宇宙ステーションでは、すべてのAIに制限が掛けられているが、登矢は、この制限を外すハッキング技術を持っている---というのが物語の発端である。

【ミステリ風の作品構成】
 アニメは冒頭から、いかにも楽しげな冒険物語に見せかけながら、小さな謎を次々と提示していく。例えば、登矢のパーソナルドローンが時折感知する不思議な光景は、何を意味するのか? 登矢と心葉の会話に現れる、インプラントの不調とは? こうした小さな謎はしだいに関連付けられ、やがて、「セブンはなぜ制御不能状態になったのか?」という作品全体に通底する問いかけへと集約されていく。
 『地球外少年少女』は、ミステリとしての明確な結構を持つ。謎をばらまきながらサスペンスを増大することで、(読解力のある)視聴者は真相を知りたいという思いを募らせるだろう。特に、途中から繰り返し引用される「セブンポエム」は、まるで預言書のように謎めいており、ミステリ好きをゾクゾクさせる。テキストのビッグデータから頻出単語を抽出して表示する(NHKの特集番組でしばしば見られる)映像テクニックも、なかなか効果的だ。
 アニメ後半では、謎に対する解答が示唆されるが、どこまで信じて良いかはっきりしない。そうした解答の一つによると、セブンは史上最高の知能を有しながら、どうも「人間」という概念を理解していないらしい。

【磯光雄という作家】
 磯光雄はきわめて佳作で、監督作品は『電脳コイル』と『地球外少年少女』のみ。他に作画などで参加した作品があり、『ラーゼフォン』のいくつかのシーンは、一目で「ああ磯光雄の画だ」とわかるほど個性的である。
 参加作品にはSFが多いが、彼自身、科学技術やSFに関する知識が豊富なようだ。最終第6話では、「11次元」という物理学用語が登場するが、これは、超ひも理論と関連する。「過去と現在が同時に存在する」といった、相対性理論の世界観も援用される。LANが機能しなくなったとき、(Bluetoothのような)P2Pを多段的に使うことでAI同士をつなぐというのは、現実的な手法である。
 『地球外少年少女』への影響を感じさせる先行作品としては、知能が高くなりすぎたAIが暴走するスタンリー・キューブリックの映画『2001:A Space Odyssey』、小型マシンが結合して高度な知性を生み出すスタニスワフ・レムの小説『砂漠の惑星』、地球外で誕生した子供に人類にとって不都合な異常が生じる萩尾望都の漫画『スター・レッド』、メインコンピュータがハッキングされる過程を映像で描写するテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(磯自身作画などで参加)が上げられる。小惑星探査機はやぶさ(初代)の帰還を思わせるシーンもある。
 圧倒的な才能を持つにもかかわらず監督作品が少ないが、それはおそらく、念入りに脚本や絵コンテを作り込むことに加えて、彼のイマジネーションをそのまま映像化すると金が掛かりすぎるからだろう。本作が、2022年にまずNetflixで世界配信されたことは、彼の置かれている立場を何となく推測させる。

鬼滅の刃 遊郭編

【評価:☆☆☆】
【ネタバレあり】
 大人気を博している『鬼滅の刃』シリーズだが、私はそれほど好きではない。主要登場人物一人ひとりに個別エピソードを用意するストーリーがやや盛り込み過ぎで、全体に話がクドい。個人的には、映画『ある殺し屋』(監督:森一生)で主人公が殺し屋稼業を営む理由をいっさい説明せず、ただ特攻隊の映像を一瞬インサートしたケースのような、ストイックでエッジの効いた演出に心惹かれる。笑いをとるためのマンガチックなデフォルメショットが随所に現れるものの、山岸凉子のスリラー漫画に突如挿入されるコミックリリーフほどの衝撃はなく、あざといウケ狙いに思える。
 それでも、『遊郭編』の後半にはのめり込んだ。何と言っても、宇髄天元という個性の強いキャラが最高に魅力的だ。第5話、帯の隠れ処でモウモウと立ちこめた煙の奥から姿を現すシーンには、本気でゾクゾクした。
 天元は忍びの出身である。忍びは権力者にとって駒でしかなく、謀略の陰で使い潰される運命にある。特に、情報収集のために肉体を利用させられる「くノ一」は、人間としての喜びを許されないまま果てるしかない。こうした定めに疑問を抱き忍びを抜けた天元は、生き残っていた3人のくノ一を「妻」として同道する。まね事でもいいから結婚の幸せを味わわせてやろうという、深い人間愛のなせる業である(と私は理解した)。
 天元の闘い方は本人が言うほど派手ではなく、爆薬などの小型武器を駆使し抜け忍らしい機略に富む(例えば、はじめて姿を現した妓夫太郎に立ち向かう場面)。戦闘力では煉獄に一歩譲るかもしれないが、情報を収集した上で隊員の配置と戦法を練り上げており、人心掌握に長けた知的なキャプテンといった風格がある。女性に好かれる所以である。
 バトルアニメでは、強大な敵を前に危地に陥った主人公が、もはやこれまでかという瞬間になぜか力に目覚め、怒濤の反撃に転じることがあるが、いかにもご都合主義的な展開で見ていて鼻白む。しかし、天元の場合、その弊が感じられない。彼には、スパイとして遊郭に潜入させた3人の妻と鬼殺隊若手メンバーを守るという責任があったからだ。
 ここで想起されるのが、「キンシャサの奇跡」と呼ばれたアリvs.フォアマンのヘビー級タイトルマッチ。「俺にベトナム人を殺す理由はない」と徴兵を忌避してタイトルを剥奪され、絶頂期を棒に振ったアリは、彼と互角だったフレージャーやノートンを2Rで沈めたパンチ力の持ち主・フォアマンの敵ではないと予想された。だが、試合途中までずっと劣勢だったにもかかわらず、8Rに渾身の一撃で逆転勝利を収める。
 後に沢木耕太郎が行ったインタビューで、「アリはなぜ、あなたの殺人的なパンチを無数に浴びながら、耐えることができたのだろうか」と問われたフォアマンは、一瞬遠い目をしてから、「アリには闘う目的があった……闘う目的さえあれば、人はどんな苦しみにも耐えられる」と答える(NHKスペシャル『奪還』1995年放送)。ベトナム反戦や黒人解放のシンボルとして若者やリベラル層から圧倒的な支持を集めていたアリは、ぶざまに倒れるわけにはいかない。彼らの希望を守ることが、闘う目的だった。
 守るべきものがある人間は、信じられない強さを発揮できる。その実例を知っているからこそ、『北斗の拳』のジュウザや『鬼滅の刃』の天元の闘いぶりが、理に反したものには思えないのだ。片目・片腕を失い全身を毒に冒されながら、なお不敵な笑みを浮かべて妓夫太郎に闘いを挑む天元の姿は、鬼以上に鬼気迫るものがある。

葬送のフリーレン

【評価:☆☆☆】
 多くのRPGが類型的なのを逆手に取り、類型から外れた視点で物語を紡ぐアニメ。私はゲーム世界を再説するサブカル作品は概して嫌いだが、本作は意外と楽しめた。主人公が「ゲームの規則」に違和感を覚える『灰と幻想のグリムガル』と並ぶ、“勝手にスピンオフ”タイプの佳作である。
 RPGでは、トールキンの『指輪物語』をなぞるように、得意分野の異なる数人の冒険者がパーティを組んで旅に出るという設定が多い。ラストで目的を達成すると、そのままエンディングになるのがふつうである。これに対して、本作では、その後に続くはずの別れに目を向ける。冒険譚とは異質な英雄たちの日常を描いており、そこが何とも快い。
 スマホなどさまざまなモバイルツールが発達した現在、他者と別れるためには意図的に連絡を絶つ必要がある。しかし、中世ヨーロッパを思わせるRPGの世界では、異なる人生行路を選択するだけで、人々は自然と音信不通になる。今の若者が経験しづらい、静かな別れである。フリーレンのパーティも、魔王を倒してからはバラバラになり、月日が流れるにつれ、鬼籍に入る者も増えてくる。長寿命のエルフ族であるフリーレンは、去りゆく人々を見送りながら、静かに日常生活を続ける。ほとんど感情をあらわにしないので、かえってその心の内をあれこれと想像し、『ポーの一族』や『ボマルツォ公の回想』に思いを馳せて(勝手に)胸を熱くしてしまう。
 私が好きなのは、僧侶ザインが絡むエピソード(第12-17話)。冒険者の夢をとうに諦めているザインをパーティに勧誘するのだが、その結末がどうなったかと言うと…。誕生日のプレゼントを巡るフェルンとシュタルクの諍いを優しく描いた第14話「若者の特権」、フリーレンたちが頑固ばあさんのささやかな願いを叶える第16話「長寿友達」が素晴らしい。
 残念ながら、視聴者の歓心を買うためか、何回か大味なバトルが挿入され、感興を削ぐ。特に、“断頭台のアウラ”のエピソードは、なぜ不用意に魔力比べを行ったか納得のいく説明がされず、見ていて腹立たしかった。第2クールの大半を占める「一級魔法使い選抜試験」も、長すぎて退屈だ。
 欠点は少なくないが、後味の良さは抜群である。本編を見事に受け止めるEDアニメ(前期・後期とも)が美しい。

火狩りの王

【評価:☆☆☆】
 日向理恵子によるファンタジー小説(第2巻まで既読)を、監督・西村純二、シリーズ構成・押井守、キャラクター原案・山田章博という豪華スタッフによりアニメ化した作品。2期に分けてWOWOWが製作・放送した。第1期前半はかなり期待を持たせる出来だったが、その後失速したので、あまり高い評価は付けられない。
 無謀な戦争のせいで火が災厄の元凶となった遠い未来、森に棲む炎魔の襲来を恐れながら細々と暮らす人類の末路が描かれる。物語は、紙漉きの村を出て首都に赴くことを余儀なくされた少女・灯子が、有力者から軍事研究を託された少年・煌四と出会ったことから、大きく動き出す。
 本作の特徴は、炎魔や神族などファンタジーの道具立てが使われながら、その背後にSF的な設定が見え隠れする点。遺伝子工学を利用した生物兵器や人体改変と解釈できる特徴が、あちこちにちりばめられており、人類を追い詰めた災厄が、実は科学技術の暴走によってもたらされたことを示唆する。文明水準が大幅に低下したため、人々はもはや、過去に開発された技術の中身を理解できなくなったようだ。原作小説では、第三者的な立場から事態を解説するのではなく、作中人物の視点に立ちつつ、方言を多用した神話的な語りで状況を巧みに曖昧化し、読者を幻惑した(と、私は解釈する。他の解釈も可能だろうが)。
 ただし、原作では曖昧な表現が想像力を刺激するのに対して、視覚的な明確さを備えたアニメの映像は、ファンタジーとSFの要素がバッティングして、見る者を混乱させるだけである。例えば、木々人(きぎびと)と呼ばれる部族は、原作では遺伝子操作によって植物的な外見に改変された人間ではないかと感じさせるが、アニメでは、動く樹木とも皮膚を木質化した人間とも思える、どっちつかずの表現になっている。炎魔が体液を改変された生物兵器と推測できるのに対して、途中で(ほとんど無意味に)登場する竜は、水墨画などに描かれたまんまのひねりのない姿で、ちょっと興ざめだった。
 こうした表現上の欠点は、物語への共感を妨げる。中盤から重要な役割を演じる神族は、原作によると、木々人や炎魔にも増して「圧倒的な恐怖」をもたらすという。しかるに、アニメ絵には恐怖感が少しも表出されていない。特殊な能力を内に秘めているというファンタジー的な設定も、背後に強大な組織の存在を示唆するSF的な設定も描かれず、みずらや水干をまとった少年の姿そのものである。映像は言語に比べてイメージの喚起力が弱いので、何らかのガジェットで補うべきだったろう。こうしたガジェットは脚本家が考案するのが一般的なやり方だが、押井守は昔から抽象性が高く難解な脚本を書くライターだったので、別に補筆役を加えた方が良かったかもしれない。
 全体として、やや観念的に過ぎる原作を充分に咀嚼できないままアニメ化した感が強く、いかにも消化不良である。動画枚数が極端に少なく低予算で無理に制作したようだが、予算が足りないなりに工夫する方法がとあったはずだ。イラスト風の静止画をあまり頻繁に挿入せず、ここぞという場面に限定して用いれば、視聴者に与えるインパクトがもっと増したと思われる。

怪獣8号

【評価:☆☆☆】
 「変身」は日本サブカルのお家芸だが、本作は、ウルトラマンや仮面ライダーのようなヒーローではなく、怪獣に変身するというスクリューボール企画(先例はいくつかある)。主人公の名前がカフカなので、小説『変身』をベースに、心ならずも変身能力を身につけてしまった男の苦悩や孤独を描く不条理劇かと思いきや、何のことはない、近年の異世界ものと同じく、チートな能力を授かったにわかヒーローが、バトルに明け暮れるというお話。
 面白くなるとは到底思えないプロットである。だが、見始めると、意外にも次回を楽しみにしている自分に気がついた。どうも、サブキャラの描き方に心惹かれたようだ。キャラ設定自体は、「圧倒的に強い女隊長」などかなり類型的で、“あのキャラそっくり”と思える人物も少なくない。しかし、時折ありきたりなストーリーから逸れて、生きた人間の手触りが感じられる。
 例えば、第5話でカフカの不規則発言に対して、亜白隊長が腕立て百回(少な!)を命じて立ち去るとき、一瞬微笑む。私は「この女、微笑むだろうな」と思いながら見ており、その通りの演出に満足したのだが、後で見返すと、笑顔はコンマ何秒という短いコマしかない。初見の際に見落とさなかったのは、立ち去るショットが二段構えで視線誘導されたからのようだ。意外に演出がうまいぞと感じた次第である。
 他の登場人物も、類型的なのに生き生きしている。アニメーターが共感しながら描いているのだろう。
 一つ批判的なことを言わせていただければ、展開を急ぎすぎている。人間的なドラマがほとんど描かれず、話を盛り上げるのに、より強い敵を次々と登場させるという安直なやり方を繰り返すばかり。バトルが派手な割に、ストーリーが単調だ。このままでは、「より強い」が延々と続く“パワーのインフレ”が起きて、話がまとまらなくなりそう(原作を読んでいないので、実際にどうなるかは知らないが、シリーズ構成・大河内一楼のお手並み拝見というところ)。

ザ・ファブル

【評価:☆☆☆】
 北野武の映画などを見ると、日本の男優はみなヤクザの演技が異様にうまいと驚かされるが、不思議でも何でもない。ヤクザ自身、自分を大きく見せようと思いっきり背伸びした演技をしている。演技の素人であるヤクザよりも、プロの俳優の方が上手なのは当たり前だ。
 ヤクザを登場させる作品の場合、この「ヤクザを演じるヤクザ」をいかにして表現するかがハードルとなる。近年のアニメには、子供に好かれる人の良いヤクザがしばしば登場するが、どんな場合でも演技を忘れない(まともな)ヤクザならば、あり得ないこと。その一方で、たとえカツアゲや麻薬の密売をしても、多くのヤクザからは生まれつきの悪人とは思えない雰囲気が漂う(私見。ヤクザを取材したドキュメンタリー番組の感触から)。少しやさぐれた一般市民が、精一杯演技をしているというのが、ヤクザの素顔だろう。こうした真のヤクザ像を描出できなければ、あまりに嘘っぽくて面白みがない。
 本作の場合、ヒットマンとしての技量を極限まで磨き上げたファブルは、もはや演技をする必要がない。ヤクザより怖いのに好人物---現実にはあり得ない矛盾したキャラを見事に体現する(特に、第12話「上には上。」では…)。ファブルと対照的に描かれるふつうのヤクザたちは、根っからの悪人ではなさそうな日常を送りながら、シノギが絡むと急に強面になる。こうした状況を、リアルロボットもので知られる高橋良輔が、ベテランらしい円熟した演出で巧みにアニメ化した。おかしく哀しくおぞましいヤクザの世界が、リアルに浮かび上がる佳作だ。