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ファンタジーのリアリズム

 最近、ゲーム世界に入り込むという設定のアニメが数多く見られるが、そのほとんどがつまらない。設定自体が悪いとは思わない。アニメの手法を用いた実写映画『アヴァロン』(監督:押井守)やNHKの実写ドラマ『クラインの壺』は、VR技術を駆使したゲームの中だと明示されたにもかかわらず、現実と非現実が相互に浸食し合う展開で、胸苦しくなるほどの緊迫感が漂っていた。

 しかし、ここ何年かのアニメの場合、入り込むのがゲームそのものであっても(『ソードアート・オンライン』『ノーゲーム・ノーライフ』『オーバーロード』『ログ・ホライズン』『デスマーチからはじまる異世界狂想曲』)、ゲームっぽい異世界であっても(『Re:ゼロから始める異世界生活』『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』『ナイツ&マジック』『アウトブレイク・カンパニー』)、さして面白いとは感じられない。わずかに、主人公が「ゲームの規則」に対して疑問を覚える『灰と幻想のグリムガル』か、パロディに徹した『この素晴らしい世界に祝福を!』が、少し印象に残った程度である。


 私がこの手のアニメに批判的なのは、リアリズム精神に欠けるからである。「ファンタジーなのだからリアリズムとは無縁だ」と考えてはならない。ファンタジーだからこそ、強靱なリアリズム精神が必要なのである。

 リアリズムというと、19世紀後半から文学の分野で流行した「自然主義リアリズム」を思い起こす人が多いかもしれない。これは、社会の現実を見据え、そこに生きる人々を写実的に描き出す手法である。しかし、リアリズムは、自然主義の枠内に限られない。自然主義の場合は、現実の社会そのものを作品の設定として用い、その設定に対して人間がどのように対応するかをドラマとして描いた。これに対して、現実とは異なる設定を用いながら、自分の置かれたシチュエーションに対してリアルに応答するという形でのリアリズムもあり得る。

 ファンタジーとの関連で重要なのが、非現実的な状況を現実と通底した“リアル”として冷静に表現する「魔術的リアリズム」だろう。そのルーツは、カフカやボルヘスの小説にまで遡るが、特に盛んになったのは20世紀後半のラテンアメリカにおいてであり、カルペンティエールやガルシア=マルケスが代表的な作家である。

 ファンタジーに求められるリアリズムは、魔術的リアリズムと共通する部分もある一方、ファンタジー独自の軽やかな空想を阻害しないことが必要なため、敢えて区別して「空想的リアリズム」と呼ぶことにしよう(「ファンタスティック・リアリズム」では長すぎるし、「幻想的リアリズム」「非現実的リアリズム」も何かしっくりしないので)。


 リアリズム精神に欠けたファンタジーの典型が、浦島太郎や桃太郎のような民話である。竜宮城や鬼ヶ島にはどんな産業があり政治組織はどうなっているのか、真面目に考えても詮ない。これらは、教訓を引き出すためにあつらえた設定に過ぎないからである。だが、近年のファンタジーで描かれる異世界にも、竜宮城や鬼ヶ島に毛が生えた程度のものが少なくない。

 ゲーム風の異世界では、ヨーロッパ中世を思わせる光景が拡がりながら、街外れには魔術師が住み、森の奥にはドラゴンが棲息するといった状況がしばしば描かれる。ところが、こうした世界をつきつめて考えると、随所で破綻を来すことがわかる。少しでも魔術が使えるとなると、国家と魔術師の相克が問題になるはずである(この件に関しては、アニメ『ゼロから始める魔法の書』のレビュー参照)。また、ドラゴンが棲息できる森ならば、必然的に生態系が周知のものと全く異なる。


 魔術が使えドラゴンが棲息する異世界を描きながら、社会や生活のすみずみにまで目を向けた傑作として知られるのが、ル・グウィンの小説『ゲド戦記』である(アニメの『ゲド戦記』が批判されるのは、原作の良さが完全に無視されているから)。これに匹敵する作品は、日本では長いこと生み出されなかったが、70年代に入ると、まず女性漫画家によって斬新なファンタジー漫画が発表され、状況が変化し始める。その流れを受けて、80年代以降は、『風の谷のナウシカ』のようなリアリズム精神あふれる優れたファンタジーが、文学・映画・マンガ・アニメなどの分野で続々と誕生する。

 空想的でありながらリアルな異世界ファンタジーとして特に名を挙げたいアニメが、『灰羽連盟』『十二国記』『精霊の守り人』である。異世界の社会構成や風俗・習慣が綿密に考証され、そこで生きる人々の内面に深く切り込んでいる。見終わった後、勃然と湧き上がる感動は、圧倒的である。

 ドラゴンのような動物が存在するとき、生態系と人間社会がどうなるか−−その行く末まで考察した深遠なファンタジーが、上橋菜穂子の小説『獣の奏者』である(残念ながら、アニメ化作品である『獣の奏者エリン』には、原作ほどのリアリズム精神が見られないが、それでも痕跡を感じ取ることはできる)。また、アニメ『メイドインアビス』には、生きるために必死になる異形の動物の姿が、リアルに描かれる。


 現実世界に現実ならざるもの(異分子/異物)が紛れ込んで、さまざまな摩擦を引き起こす−−そんな状況を描く異分子ファンタジーにおいても、リアリズム精神の有無が作品の質を大きく左右する。

 出来の悪いファンタジーでは、不思議な出来事が起きたとき、登場人物はそれが何であるかを直ちに察知するが、現実では、人は正常性バイアスによって目をそらし、日常生活を維持しようとする(この点については、『屍鬼』のレビュー参照)。それでは、非現実の介入がどうしても無視できなくなったとき、人は何を思いいかなる行動をとるのか? そうした問題に自覚的なアニメには、『絶対少年』『もっけ』などがある。現実が依って立つ根拠すら危うくなったとき、人間がどうなるかを見据えたのが、『serial experiments lain』『神霊狩 GHOST HOUND』である。

 魔術という異物は、作者がファンタジーのあり方をどこまで熟考したかを示す試金石となる。現実世界において、魔術を使えることはとてつもない重荷となるはずだ。『空の境界』『魔法少女まどか☆マギカ』で描かれるのは、魔術師になってしまった者の苦悩である。また、魔術師や超能力者が国家権力に取り込まれる状況に注目したアニメとして、『Witch Hunter ROBIN』『DARKER THAN BLACK-流星の双子-』『鋼の錬金術師 Fullmetal Alchemist』などの名を挙げたい。

 近年、大ヒットした『ハリー・ポッター』シリーズに倣って、「魔術学校」という設定を採用するアニメが少なくないが、その大半が、魔術を事件のきっかけになるガジェットとしてしか使っておらず、掘り下げの浅い凡作にとどまる(『リトルウィッチアカデミア』のように例外的に優れた作品もある)。


ファンタジーのリアリズム

 異世界ファンタジーは、しばしば「ハイ・ファンタジー」と呼ばれるが、この語をゲーム的な異世界に適用することには抵抗がある。キャラに活躍の場を与えるためだけに異世界を設定した作品は、「ヒロイック・ファンタジー」と呼ぶのが適切だろう。私は、リアリズム精神の高低をもって、ハイ/ローの区別を付けることを提唱したい。

 誤解のないように断っておくが、ロー・ファンタジーだからといって、直ちにつまらないと決めつけるつもりはない。『夏目友人帳』のように、人間ドラマがきちんと描かれた感動的なロー・ファンタジーもある。しかし、ダンジョンや魔術学校を“お約束”通りに描くリアリズム精神の乏しいロー・ファンタジーに対しては、批判的にならざるを得ない。

 ここでは、異世界ファンタジーと異分子ファンタジーそれぞれについて、リアリズム精神の高低を書き込んだ表を示しておく(断りのない作品はアニメ)。もっとも、異世界ファンタジーと異分子ファンタジーの境界は明確ではない。『進撃の巨人』は、巨人の存在する異世界を描いたファンタジーとも、現実的な世界に巨人という異分子が紛れ込んだファンタジーとも言える。表では、やや恣意的に、『進撃の巨人』『鋼の錬金術師』を異世界ファンタジーに分類しておいた。

(2018年02月24日)