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ここでなぜ総集編?

 テレビアニメでは、シーズン途中で、それまでの粗筋を紹介する総集編が放送されることがある。なぜこのタイミングで総集編なのか、不思議に思う場合もあるが、その背景には、いろいろと難しい大人の事情があるらしい。

 かつては、放送期間が1年以上に及ぶ長期アニメが少なくなかった。手描きのセル画が中心だった時代には、放送開始からしばらくの間、膨大な手間をかけて大量のセル画を作成しなければならないが、回を重ねると、セル画のストックを使い回しできるようになる。このため、制作サイドは、負担を減らす目的で、できるだけ放送期間を延ばそうとした。当時は小中学生が中心的な視聴者だったので、放送が長期間にわたると、年齢が上がったのを機に途中から見始めるケースが増える。遅れて参入する視聴者のために、年1〜2話程度の割合で、計画的に総集編を挿入するのが一般的だった。

 90年代以降は、高校生以上の世代も積極的にアニメを観るようになる。このため、作る側も、鑑賞眼の肥えた視聴者を意識して、少しひねった総集編を作った。

 『新世紀エヴァンゲリオン』では、第14話「ゼーレ、魂の座」の前半が総集編である。この回は、編成の都合上、1月3日早朝の放送となり、見逃す視聴者が多いと予想されたため、総集編に当てたと言われる。しかし、第14話の後半は、客観的な叙述から一転、モノローグを通じて綾波レイの内面を明かす方向に進んだため、後で知った多くのファンが地団駄を踏んだ(私は幸運にも、リアルタイムで見ることができた)。

 『少女革命ウテナ』の場合、4部構成のうち最初の3部の最終話が総集編に当てられていたが、単なる粗筋紹介ではない。特に、第3部の総集編となる第33話「夜を走る王子」では、ラスト近く、ファンの胸を引き裂く大事件が起きる。見る者の心を自在に操るための、巧みな構成である。

 『桃華月憚』第19話「幕」では、主要登場人物の行う舞台劇という奇抜な形式で、粗筋が紹介される(この作品は、全体のストーリー構成も、逆再生という突飛な形式だった)。『キルラキル』の場合、第16話「女はそれを我慢できない」で総集編が始まると見せかけながら、わずか1分に圧縮、「展開の速いのがキルラキル。総集編もアバンで終わる」という鮮血の名台詞でまとめる。

 以上は、計画的に挿入されたケースだが、制作の遅れなどのせいで、やむを得ず総集編でお茶を濁すことも多い。いまだに語り草となるのが、『うる星やつら』と『WOLF'S RAIN』である。

 『うる星やつら』は、押井守がはじめて監督(クレジットはチーフ・ディレクター)を担当した作品。放送が始まって1年ほどは、原作を無難に映像に起こしただけで大して面白くないが、押井や他のスタッフが実力を身につけるにつれて作品の質は急激に向上し、83年の夏頃からは傑作のつるべ打ちとなる。ところが、84年2月公開の劇場版第2作『ビューティフル・ドリーマー』の脚本・監督に押井が全力を傾注、スタッフもかり出されたため、テレビ版の制作が間に合わなくなり、83-84年にかけて何回も総集編(あるいは露骨に手抜きの作品)が挿入された。

 押井は84年3月を以て監督を降板、制作会社もスタジオぴえろからディーンに変更された。その理由は明らかではないが、難解で過激な作風、原作者・高橋留美子と押井の確執に加えて、総集編の多さも問題となったのではないか。

 『WOLF'S RAIN』は、2クール全26話の枠で放送が始まったものの、途中で制作体制に問題が生じたのか、中盤で4週連続総集編が挿入され、結局、事実上の第22話で放送枠を使い切ってしまう。残りの4話は放送終了後に完成し、DVDに収録された。

 ちなみに、アニメ制作の裏側を紹介した『SHIROBAKO』には、「作画崩壊と最終回総集編をやらかして干された」監督が登場するが、笑っちゃいけないのに笑ってしまうネタである。

 計画的なのか制作が遅れたのか、判断に迷うのが『進撃の巨人』のケースである。

 総集編となる第13.5話「あの日から」の前週に放送された第13話「原初的欲求−トロスト区攻防戦 (9)−」は、驚異的なハイ・クオリティである一方、明らかに作画が間に合わなかったシーンがいくつも見られた。巨人に襲われたジャンをアニが救う場面で動画が欠落していたほか、不自然な止め絵に台詞だけを重ねたシーン、爆発・立体機動の情景描写における原画の使い回しなどである。また、シーズン終了後には、全体の背景を知る手がかりとなる特別編「イルゼの手帳」が放送されたが、これは、シーズン中に挿入した方が収まりのよいエピソードだ。こうした状況証拠から、おそらく、できれば総集編は入れたくないが、厳しくなったら第13話の次に挿入しようという腹づもりで制作を開始したものの、予想以上に事態が悪化したと推測される。

 このほかにも、監督・脚本担当の庵野秀明が途中で投げ出したとしか思えない『彼氏彼女の事情』、制作会社の体制に問題がありそうな『ガールズ&パンツァー』など、総集編の目立ったテレビアニメは少なくない。

 1クールアニメで総集編が放送されたときは、ほとんどが制作の遅れに起因すると推測される。ここ数年、この手の総集編がやたら増えたが、制作がきつくなったら総集編を挿入しようと予定していたとしか思えない。

 総集編ではなく、手抜きの特別編を挿入するケースも多い。最も有名なのは、『ふしぎの海のナディア』だろう。はじめの何話かで質にこだわりすぎ、予算と人的資源が不足して全てをGAINAXで制作するのが不可能になったため、全39話のうち第23-34話「島編」で、作画の大半を外国の下請け会社に丸投げするなど、計画的な手抜きを行った。これらのエピソードは、投げやりなストーリー、杜撰な作画など、ほとんど見るに堪えない出来で、多くの視聴者を失う結果になった(私は幸運にも最後まで見続け、神懸かり的な完成度の最終回では、テレビの前でむせび泣いた)。

 『ナディア』は、挿入された特別編がアニメだったので、まだマシである。『GOD EATER』では、スタッフのインタビューなどをまとめた実質的な「30分CM」が、1クールで4回も放送された。

 放送されたばかりのエピソードを繰り返す「いきなり再放送」という禁じ手もある。昔は、新聞記事になるほど稀だったが、最近では、『ろんぐらいだあす』『メルヘン・メドヘン』などで相次ぎ、並の放送事故になったようだ。『レガリア』では、「本来意図していたクオリティと相違がある」という理由で第4話までで放送中断、1ヶ月以上も間をおいて第1話から全13話を放送したが、見ていて「クオリティはどうなったの?」と思ってしまった。

(2018年05月19日)