アニメ雑文>[キャポックちゃんの]ちょっと深読み

アニメ絡みのトピックを取り上げ、独自の観点から深読みの(こじつけに近い)解説をします。あまり本気にしないで、気楽に読み流してください。


【見える子ちゃん】みこはなぜさとるに深々とお辞儀をしたの?
【重大なネタバレあり】

 アニメ『見える子ちゃん』は、物語の構成がねじくれており、序盤のちょっとエッチで他愛のないストーリーが、第5話辺りから急に方向性を変える。おそらく、原作漫画の展開をそのままなぞったのだろう。原作は、突飛な設定で読者の気を引くホラーコメディとして始まったものの、話が続かなくなったらしく途中で方針転換した。いかにもまとまりが悪く、優れたアニメになるとは思えない代物である。ところが、原作の構成をあまりいじっていないにもかかわらず、アニメの終盤(第10-11話)はドラマチックに盛り上がり、なぜか作画の質も大幅に向上する。その象徴的な場面が、第11話半ばで描かれる、ヒロイン・四谷みこが獣医師のさとると対話するシーン。

 みこは、臨時教員の遠野善が猫の死霊に取り憑かれているのを見て、猫を虐待した報いと思い込み下校時に後をつける。ところが、この疑いはまったくの誤解で、実は大の猫好きだった。自分の誤解から交通事故に遭わせてしまった善を見舞ったみこは、そこでさとると出会う。

 みこは、冒頭の何話かでエッチなお姉さんの役を振られていたものの、実際には、利発で礼儀正しく友達思いのお嬢様。男性との交際経験はないらしい(シスコンの弟くんが邪魔したのかも)。そんな彼女が、若いとはいえ大人の男二人に挟まれて、警戒しないはずがない。しかも、一人は恐怖を感じていた教師、もう一人は初対面の獣医師。ところが、彼女はさとるに対して丁寧に会釈する。

 実は、その直前に、善が「(捨て猫の里親について)僕にツテがあるから、そこで探したらいい…」と言ったのを廊下で聞きとがめたさとるが、「ツテって俺のこと? 俺んとこの動物病院を猫であふれさせる気か、善」と言い、善が「さとるか」と答えていた。会釈は、この会話を受けた行動である。

 女子校の生徒にとって、大人の男が名前で呼び合う光景など滅多に目にするものではない。名前呼びと会話の内容で一気に警戒心が解けたからこそ、みこは素直に会釈したのだろう。そこから、病室を出て病院屋上でさとるとみこが話し合うシーンへとつながる。

 小学校からの友人のさとるは、善が毒親による強圧的な支配のせいで感情を失ったように見えること、なんとか立ち直らせようと無償で手助けしていることを語る。「なんでそこまで?」と問うみこに対して、さとるは「友達が困ってたら助ける。それだけ」と笑顔で答える。涙が止まらなくなる名シーンである。

 仕事に戻ろうとするさとるを「あ、あの」と呼び止めたみこは、「ありがとうございました」と深くお辞儀をする。さとるは、みこのメリットになることは何もしていない。このお辞儀は、彼の行動そのものに対する人間としての感謝なのである。

 おそらく、こうした場面の描画を通じて、アニメーターがみこへの共感を深めていったのだろう。作画の質が向上したのは、共感に溢れているからである。優れたアニメが生まれるには、アニメーターの思いが重要なことを実感させる。


【DEATH NOTE】海砂はなぜ独り寂しく歌うのか?

 アニメ『DEATH NOTE』は、途中まで夜神月(やがみライト)とLの頭脳戦を足早に描いてきたのに、第25話「沈黙」になると、突然スピードが落ち、ヒロインの弥海砂(あまねミサ)が独りで街を彷徨いながら寂しそうに歌い出す(原作にない)シーンが挿入される。それまで歌パートのなかった海砂が、いきなり心情を託すようにアカペラで歌い始めたことは驚きであり、その儚げな歌声は、無防備だった視聴者の心に沁み通った。NHKFM「アニソンアカデミー」に海砂役の声優・平野綾が出演した回(2023年6月17日放送)では、この歌のシーンが「作品の中でちょっとそこだけ異質」と語られ、Lの声を当てた山口勝平が(おそらく収録直後だろう)「すごい良かった」と褒めてくれたことが紹介された。

 大場つぐみがストーリーを作った漫画『DEATH NOTE』は、冒頭数巻に限れば抜群に面白く、日本漫画史上の傑作と言える。だが、人気が出てからは(おそらく掲載誌「少年ジャンプ」の編集方針に従って)連載の引き延ばしが図られ、結果的に話が迷走する。月とLの対決に収まらなくなって登場人物が膨れ上がり、デスノートのルールは後出しジャンケンのように付け加えられていった。原作では、漫画としては異例なほど多量の文字を使って説明するが、アニメの場合、リアルタイムで語られる台詞を使うしかなく、ひどくわかりにくい。はっきり言って、話数が進むほどつまらなくなった。

 アニメは原作の連載終了5ヶ月後に放送が開始され、当初は、原作にきわめて忠実に作られていたが、その後、出来の良くない後半をどう扱うか議論になったに違いない。私の勝手な憶測では、製作委員会か制作会社(MADHOUSE)で話し合いが持たれ、必ずしも原作通りにしなくても良いと結論されたように思われる。原作漫画では、第1部が59話、第2部が49話と同程度だが、アニメになると、第1部が25話(第26話は総集編)、第2部が11話と後半を軽くし、最終回も内容を変えている。

 アニメ『DEATH NOTE』のメインライターは、名手・井上敏樹(他に、井上と同じく特撮ヒーローものを得意とする小林靖子と米村正二)で、原作から離れる転回点として第25話を構想したのは、おそらく井上だろう。また、このエピソードは、はじめて監督を任された荒木哲郎(『進撃の巨人』)が絵コンテを担当しており、回想やイメージシーンを多用して圧倒的な表現力を実現している(荒木が単独で絵コンテを切ったのは、この回の他には初回と最終回のみ)。

 神回と言って間違いない第25話は、原作の枷を解かれた脚本家と監督が、自由な創造性を発揮した成果である。そう考えると、海砂が突然歌い出したことも腑に落ちる。「Misa no Uta」という何のひねりもないタイトル、心情をそのまま言葉にしたような歌詞、1分15秒という短い尺、後半にわずかなピアノ伴奏が付くだけのシンプルな作り---この歌は、パブリシティのためのキャラソンではなく、切り離すことのできない物語の一部として、脚本家と監督が挿入したのである。


【暗殺教室】カルマが解いた数学の難問とは?

 クラス全員が担任教諭(殺せんせー)の暗殺を狙っているという『暗殺教室』は、あまりにバカバカしい設定とは裏腹に、教育問題にきちんと目を向けた秀作である。特に、第1期・第8話「修学旅行の時間・2時間目」、第9話「転校生の時間」、第13話「才能の時間」、第2期・第5話「リーダーの時間」、第9話「2周目の時間」は素晴らしい。ただし、これらのエピソードは、自分を見つめながら自覚的に人生の選択を行うことの重要性を示す内容で、学習との関係は乏しい。勉強の方法論に関する限り、殺せんせーの考え方はやや古くさく、実際の中学校教育への応用性に欠ける。そうした中で、第2期・第12話「空間の時間」に登場する数学の試験問題は、勉強がなぜ大切なのかを教えてくれる好材料となる。

 実は、この問題はかなり知られたものだ。私も高校生の時に問題集で目にし、浅野学秀と同じやり方で解こうとして解けず、模範解答を見て「こんな考え方があったのか」と膝を打った記憶がある。画面に示された問題全文を引用しよう。

「右の図[この文書では下の図]のように、一辺aの立方体が周期的に並び、その各頂点と中心に原子が位置する結晶構造を体心立方格子構造という。NaやKなど、アルカリ金属の多くは体心立方格子構造をとる。体心立方格子構造において、ある原子A0に着目したとき、空間内のすべての点のうち、他のどの原子よりもA0に近い点の集合がつくる領域をD0とする。このとき、D0の体積を求めよ。」
体心立方格子の図

 A0として、立方体の中心(体心)にある原子を考えよう。答えるべきは、この立方体の内部にある各点のうち、頂点にある8個の原子よりも体心のA0に近い領域の体積である(立方体外部を考える必要のないことは、すぐにわかるだろう)。

 この問題を、浅野学秀のように、体心と頂点を結ぶ線分と中点で直交する面を考え、この面に囲まれる立体の体積を求める−−というやり方で試験時間内に解くのは、(数学の天才ならともかく)困難である。それでは、カルマはどうやって解いたのか?

 大切なのは、視点を転換すること。A0として、体心にある原子ではなく、頂点にある原子を選んだらどうなるかを考えてほしい(試験問題には、A0がどちらなのか指定されていないが、このこと自体がヒントである)。

 体心と頂点のように、2つある分類の項目を入れ替える変換は、数学で双対(そうつい)変換と呼ばれる。体心立方格子の場合、体心を頂点とする立体図形は、一辺の長さがaに等しい立方体となる。この立方体の体心は、元の体心立方格子の頂点に当たるので、体心と頂点を入れ替える双対変換を施すと、ある体心立方格子は、格子定数(この場合は立方体の辺の長さ)が等しく、全体として各辺の方向にa/2ずつ動かした体心立方格子に変わる。幾何学的に合同な格子なので、どちらの格子で体心にある原子に近い領域の体積を求めても、等しいはずである。これは、体心にある原子に近い点の集合と、頂点にある(=双対変換をした体心立方格子の体心にある)原子に近い点の集合とで、体積が等しいことを意味する。そこに気付けば、あとは簡単だろう。

 体心にある原子A0は、立方体の頂点にある8つの原子と対峙する。この8つの原子にとって、他の原子よりも自分に近い領域は、自分を取り囲む8つの立方体に等分に分割される。したがって、A0のある立方体の内部に限ると、頂点にある各原子に近い部分の体積は、原子ごとにD0の1/8となり、原子が8つあるので、トータルでD0と等しい。立方体の全体積を、体心の原子と頂点の全原子とで等しく分け合うことになるので、D0の体積は、aの3乗を2で割ったものとなる。

 カルマは、体心にある原子を自分自身に、各頂点にある原子をクラスメートになぞらえることによって、視点の転換を可能にした。アニメでは、映像を基にわかりやすく説明されているので、上の文章が難解だと思う人は、アニメを見ていただきたい。

 数学とは、単に公式を暗記して問題に適用するだけの教科ではない。物事を抽象化して考えるための手法である。ここで示した試験問題は、抽象化された数学的なモデルが、現実の状況とどのように結びつけられるかを示す好例である。


【のだめカンタービレ】エルガーのバイオリンソナタってどんな曲?

 抜群の才能を持ちながら個性的すぎてなかなか芽が出ない二人の音大生・千秋とのだめの成長を描くアニメ『のだめカンタービレ(第1期)』は、何と言っても、クラシック音楽の扱いが素晴らしい。原作マンガやドラマ版よりも感動的で、クラシックをフィーチャーしたアニメの最高峰と言って良い。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を取り上げたエピソード(第10-11話)では、まず千秋がソロパートを練習するシーンが描かれた。この曲は、巨大な手の持ち主だったラフマニノフが自分で演奏するために作ったもので、通常のピアニストには弾きこなせない超絶技巧が要求される(アシュケナージですら、和音をアルペッジョに置き換えて演奏した)。ピアノパートだけでは技巧的でわかりにくく、クラシックに詳しくない視聴者は、練習シーンを見て面白みのない曲だと感じたろう。ところが、本番でスラブ的な哀愁漂う管弦楽パートと合わさると、ピアノとオケの相乗効果によって、心を揺さぶる音楽となる。さらに、抑制されたモノローグとディズニー映画『ファンタジア』の「トッカータとフーガ」を思わせる華麗な映像が加わり、生涯にそう何度も味わえない感動体験をもたらしてくれた。

 クラシックファンならラフマのピアコンは何度も耳にしているはずなので、練習から本番への飛躍に驚かされなかったかもしれない。だが、第15話で千秋とのだめが演奏するエルガーのバイオリンソナタには、かなりのクラシック通でものけぞったに違いない。このソナタは、今でこそコンサートでしばしば取り上げられるものの、それは『のだめ』がヒットしたおかげであり、放送された当時は、知る人ぞ知る作品だった。私も、このアニメではじめて聴いたのだが、「なぜこんなステキな曲を知らなかったのか」と驚嘆した。

 エルガーは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活動したイギリスの作曲家で、若い頃は大人気を博したが、シェーンベルクやストラヴィンスキーが台頭した1910年代になると、伝統にしがみつく古くさい作曲家と見なされるようになる。『威風堂々』のような儀式張った行進曲を書いたり、ナイト(後に准男爵)に叙せられ王室の音楽師範になったことも、評論家に批判される原因となった。

 『のだめ』では、そんなエルガーの作品に光が当てられる。千秋の祖父はエルガーのファンで、その作品について「カッコイイ曲だろ。古典的だろうと単純だろうと、これが俺の音楽だという彼の気持ちがね」と語る。古くさいと批判されながらも自分を貫き通す生き方自体が、カッコイイのである。千秋の叔父は、音楽を捨ててビジネスに没頭する実業家のはずなのに、バイオリンソナタの演奏を耳にしたとき、「エルガーは『威風堂々』や『愛のあいさつ』…なら知っているが」と10曲近くスラスラと名を挙げ、図らずも、音楽愛を失っていないことを示した。

 私も、このアニメを見てからエルガーを聴き始めたが、1918-19年に作曲された4曲が特に好きだ。バイオリンソナタを筆頭に、ピアノ五重奏曲、弦楽四重奏曲、チェロ協奏曲と傑作が並ぶ。この4曲を作った直後の1920年、エルガーは最愛の妻アリスに先立たれ、そのショックで作曲できなくなったという。精神性を重んじた彼らしい逸話である。


【クロムクロ】ソフィーと茂住はなぜ「お嬢様と執事ごっこ」をするのか?
【ネタバレあり】

 『クロムクロ』は、SF的な設定にロマン豊かなストーリーを絡ませた秀作である。戦国時代にエイリアンの侵略から人類を守った巨大ロボット・クロムクロが、コールドスリープ状態にあった操縦者ともども発掘されるという発端からして、胸が躍る。互いに秘めた思いを抱く姫君と若武者の関係をベースに、現代に目覚めた若武者が、姫君の面影を受け継ぐ二人のヒロイン・由希奈とムエッタの間に繰り広げる物語は、近年のテレビアニメとして異例なほど波乱に富む。

 もっとも、ここで深読みしたいのは、脇役であるソフィーと茂住の物語。『クロムクロ』には、数多くのサイドストーリーが用意されている。その出来にはかなりの差があるが、この二人については、作中であらわに語られる以上の読み込みが可能で、実に面白い。

 ソフィーは、ロストテクノロジーに基づいて製造されたロボット(ジオフレーム)のパイロットを務めるフランス人美少女。言動が大人びており、萌えアニメでしばしば登場する金髪の天才幼女かと思わせるが、実は、単に小柄なだけの女子高生(飛び級したので年齢は14歳)。言葉遣いがお嬢様風なのは、育ちが良いから。

 一方、戦闘におけるソフィーのパートナー・茂住は、小太りな上に髪を染めシャツをはだけただらしない格好。なのに、ソフィーは彼をセバスチャンと呼び、執事であるかのように接する。茂住も、ソフィーの呼びかけに応じて、しばしば執事っぽい口調で話す。二人は、お嬢様と執事になりきった「ごっこ遊び」をしているように見える。しかし、命がけの戦闘のさなかに、なぜそんな悠長なことをするのか?

 その理由は、作中で断片的に語られる世界情勢に関係するようだ。発掘されたロストテクノロジーは、強力な兵器を製造するのに利用できる。軍拡競争の渦中に置かれた各国は、他国の兵器開発がどうなっているか、探り出そうと余念がない。日本の場合、国内に軍事教練を受けた経験者が少ないため、諸外国から人員を招集しジオフレームに搭乗させているが、当然、彼らがスパイである可能性も考慮して、対策を立てねばならない。

 ソフィーは、本国の治安部隊で研修を受けていたことからパイロットに採用されたが、やはりスパイの可能性は払拭できない。そこで監視役に付けられたのが、茂住である。彼は、だらしない外見とは裏腹に、陸上自衛隊所属の情報将校である。軍事機密を漏洩しないか見張るのが、任務だったのだろう。

 ところが、ソフィーは、国益よりも人類全体の未来を優先するグローバルな見識の持ち主だった(だからこそ、エイリアンに面会相手として選ばれた)。茂住も、彼女と行動を共にするうちに、その真情に打たれたのだろう。人類が危機に瀕しているのに内輪で情報戦を繰り広げているのが、バカバカしくなったのかもしれない。そんな息苦しい状況から逃れようとして始めたのが、「お嬢様と執事ごっこ」なのである。もちろん、ソフィーも承知の上である。物語終盤での会話から、彼女がとうに茂住の任務に気づいていたことが窺える。

 監督の岡村天斎は、『WOLF'S RAIN』『DARKER THAN BLACK』シリーズなど、象徴性が強く、作中で語り尽くされない謎を秘めた作品を得意とする。その彼が手がけた『クロムクロ』に、簡単には読み解けない裏の物語が隠されていたとしても、何の不思議もない。


【バカとテストと召喚獣】霧島翔子は結婚可能年齢を知らなかったの?
【ネタバレあり】

 『バカとテストと召喚獣』で独自の存在感を示すのが、学年トップの才媛・霧島翔子である。坂本雄二のお嫁さんになることを夢見てストーカーのようにつきまとい、雄二と親しくする男女に厳しく当たる。アニメの終盤では、強引にサインさせた婚姻届を手に雄二を伴って市役所に赴く。ところが、日本における結婚可能な年齢(婚姻適齢)は女性16歳に対して男性18歳であり、すごすごと引き返す羽目に。さて、翔子ほど高い知性の持ち主が、自分にとって大問題であるはずの婚姻適齢を知らないことがあるのだろうか?

 アニメ版の『バカテス』は、学園ラブコメという枠を守って非現実的なギャグが随所に挿入される一方で、登場人物の心理に関しては、かなりシリアスな描写が見られる。暴力シーンで被害者が骨折したり黒焦げになったりするが、これはあくまで過剰に装飾されたギャグであり、シリアスな心理描写とは一線を画して鑑賞すべきだろう。主人公・吉井明久の姉・玲は、屋外をバスローブで歩くクレージーな姿で登場するため、弟にキスしようとするのもエロチックなギャグと思われがちだが、彼女の弟に対する態度は思いやりにあふれ、常に逃げ場を用意してあるので、ギャグではなく、性に対して奥手の弟を優しくからかっているだけだとわかる。

 アニメーターたちがキャラの心理をきちんと推測しながら作画したことは、各場面での適切な描写にはっきりと現れる。例えば、主要人物が並んで床に座るシーンでは、美波が横座り、瑞希が体育座り(自分がどう見られているか自覚していない)、秀吉が正座と、キャラの性格を表す姿に描き分けられている。視聴者を笑わせるためのギャグはギャグとして割り切り、人間の描写は大真面目に行うのが、アニメ『バカテス』の特徴だと言ってよい。だとすれば、突飛に見える翔子の行動も、彼女の内面を慮った上での演出だと考えるべきだろう。

 オープニングアニメでは、次々と登場するキャラがいずれも瞬きをするのに、翔子だけがじっと目を見開いており、意志の強さを感じさせる。彼女の行動は、高い知性と強い意志に裏付けられた戦略的なものであり、決して思いつきで過激に突っ走るわけではない(もちろん、目を突いたりスタンガンで痺れさせたりと雄二を虐待するのは、独占欲の強さを表す象徴表現である)。したがって、婚姻届にサインを強要するのも、それほど雄二が好きだと伝えるための手段であって、本気で今すぐ結婚したいのではないだろう。婚姻届を受理されなかった翌日の翔子がサバサバしているのも頷ける。

 神童と呼ばれるほどの頭脳の持ち主である雄二も、そうした翔子の本心はわかっていたはずだ。結婚を巡る二人の大騒ぎは、暗黙の了解の下で行われた一種のゲームだったのかもしれない。雄二が異様なほど大げさに嫌がったのは、自分の役割を心得た見事な演技なのだろう。

 …というのが私の解釈だが、これは深読みに過ぎるだろうか?


【おおきく振りかぶって】西浦はなぜ桐青と互角に戦えたのか?

 高校野球を取り上げたアニメ『おおきく振りかぶって(第1期)』のクライマックスは、地方予選緒戦となる西浦と桐青の試合である。三橋・阿部バッテリーが所属する県立西浦高校硬式野球部は、1年生10人だけの新設チームで、監督は軟式野球部マネージャーだった女性。対する私立桐青高校は、 前年に甲子園に出場した強豪校。実力差は歴然としており、西浦のコールド負けは確実と思われた。しかし、予想を覆して、西浦は桐青に食らいついて善戦する。並の作品ならば、「西浦の選手ががむしゃらに奮闘したから」といった安直な説明で済ませてしまいそうだが、原作漫画の作者・ひぐちアサは合理的な理由付けを行った。野球に関する知識がないと少しわかりにくいことなので、説明しておこう。

 重要なのは、西浦野球部の二人の指導者が、選手から絶大な信頼を寄せられていること。女性監督の百枝まりあ(選手からは「モモカン」という愛称で呼ばれる)は、抜群のバットコントロール力を見せ、ガテン系のアルバイトで部活動の資金を稼ぐなど、実力と情熱で信望を勝ち得て生徒を引っ張る。顧問の教師・志賀は、生理学・心理学の知識があり、食事やマッサージなどの身体面、緊張のほぐし方といったメンタル面で合理的な指導を行った。二人への信頼を軸に全員がまとまり、試合中でも、相手選手に関して積極的に情報を交換し、熱中症にならないように水分補給を呼びかけ合うなど、チーム内部での意思疎通が密になった。これが西浦の強みとなる。

 桐青との試合では、地元テレビの映像を活用して情報を収集し、対策を練っていた。桐青のエースは技巧派で、決め球となるシンカーとフォークは打ちづらいが、直球とスライダーはそれほどでもない。また、キャッチャーの配球には、一定のパターンがあることもわかった。そこで、直球とスライダーに絞ってピッチングマシンで練習を重ね、モモカンが球種を予測しバッターにサインを出すことで、実力のない選手でもある程度は打てるようにした。

 一方、新設チームである西浦の情報を、桐青はほとんど持っていなかった。ピッチャーの三橋は、中学時代に正規の投球練習を受けられなかったせいで、異様に遅いクセ球しか投げられない。球筋を覚えられると、簡単に打ち崩せる。しかし、キャッチャーの阿部がコースを散らしたため、情報がないまま相手を侮って大振りを繰り返す桐青のバッターは、中盤まで打ちあぐねる。その結果、圧倒的な実力差がありながら、西浦が善戦できたのである。

 監督同士の読み合いも面白い。5回表、西浦攻撃でワンナウト1塁3塁の場面。ふつうならスクイズの好機だが、桐青の監督は、3塁ランナーが投手であり、本塁に突入して怪我をすると代わりがいないことから、スクイズと見せかけてボールを投げさせ、満塁にしてタッチプレーを回避すると読む(満塁ならばベースを踏むだけでアウトにできる)。ところが、モモカンは、中学時代にシニアチームに所属し硬球を恐れずにバンドできる選手がバッターだったことから、相手監督の裏をかこうと策を練って…。野球の知識があれば、凄まじいまでのサスペンスを味わえるシーンである。

 部活を扱うアニメでは、抜群の能力を持つ監督やコーチが強権的な指導を行うことも少なくない。しかし、『おおきく振りかぶって』では、選手の自主性を重んじながら情報に基づいて知的にスポーツを行う姿が描かれた。そこには、体育会系のノリとは全く異なる健全な部活のあり方が見て取れる。


【フリップフラッパーズ】階段脇の絵には何が描かれている?

 押山清高のテレビアニメ『フリップフラッパーズ』は、随所にちりばめられた伏線を読み解いて、はじめてその真価がわかる作品である。もっとも、その伏線は必ずしもわかりやすいものでなく、漫然と見ていると看過してしまう。例えば、ヒロインのココナは、ちょっと古ぼけた日本家屋に「おばあちゃん」と住んでおり、朝食には納豆を食べる。ところが、一歩外に出ると、カラフルな路面電車が走り石造りの住宅が並ぶ、ヨーロッパの古都を思わせる街並み。学校の校舎は、異様に広大な敷地に建つ壮麗な建物なのに、内部の職員室や保健室は、何ともせせこましく日本的な雰囲気を漂わせる。「ここはどこ?」と思ってしまうのだが、こうした不調和な描写は、すべて伏線なのだ。

 そうした伏線の一つが、校舎階段の脇にある大きな絵画。木々に囲まれた沼か川に、何かが浮かんでいる。はじめのうちははっきりしないが、しだいに、シェークスピア『ハムレット』に出てくるオフィーリア水死のシーンであることがわかってくる。

 オフィーリアは、愛するハムレットに父ポローニアスを誤殺され、狂気の内に心を閉ざしてしまう。無心に歌を歌いながら花を摘んでいたが、川べりの柳に花輪を飾ろうと登ったところ、枝が折れて川に落ちる。裳裾が広がっていったんは水面に浮かんだものの、やがて衣服が水を含んで重くなり、川底へ引きずり込まれた。その姿は、ガートルードの口を借りて語られる。

しばらくは人魚のように川面に浮かびながら
古い歌をきれぎれに口ずさんでいました、
まるでわが身に迫る死を知らぬげに、あるいは
水のなかに生まれ、水のなかで育つもののように。
 (『ハムレット』4幕7場、小田島雄志訳)

 この情景は多くの芸術家にインスピレーションを与え、さまざまな絵画作品が描かれてきた。最も有名なのが、ラファエル前派の画家ミレイの油絵で、水を張ったバスタブにモデルを浮かべて描いたと言われるオフィーリアの姿は真に迫り、見る者の心を揺さぶる。『フリップフラッパーズ』の絵画は、こうした伝統を踏まえ、差し迫った運命に気づかないまま安逸な生活に溺れる人間の実像を象徴している。

 シェークスピアを引用したアニメは、ほかにもいくつかある。

 『英國戀物語エマ』では、鐘の音を耳にしたドイツ出身の女主人が、

聞け かの鐘の音を ディン・ドン・ベル
 (『テンペスト』1幕2場、福田恒存訳を原作漫画に合わせて修正)

と口ずさんで、「何だったかしら、あれは」と呟くと、背後で働いていたエマが即座に「テンペスト」と答える(第2期第5話)。この台詞は、シェークスピア作中でも特に有名で、日本で言えば「智に働けば角が立つ…と書いたの誰だっけ?」と聞くようなものだが、舞台となった19世紀英国の使用人は読み書きがやっと。別のシーンでは、メイド仲間がエマに手紙の代筆を頼んでおり、詩の知識があること自体が驚きだった(もっとも、原作漫画では「真夏の夜の夢」と答えており、エマと原作者のどちらが間違えたのか?)。

 『絶園のテンペスト』になると、冒頭からハムレットの名文句が引用される。

世の中の関節は外れてしまった。
ああ、なんと呪われた因果か、それを直すために生まれついたとは!
 (『ハムレット』1幕5場、野島秀勝訳)

この作品は、絶海の孤島に魔法使いが取り残されるという内容で、まさに『テンペスト』そのもの。その後も、復讐や恋愛を巡ってシェークスピアづくしの展開となる。


【ちはやふる】千早が倒れた原因は?

 『ちはやふる』第1期では、全国大会団体戦に出場しながら、エースの千早が急病で途中棄権するシーンがある。作中で病名が示されず、それまで健康そのものだった千早が急に倒れるのは、無理に話を作ったようだと感じたファンもいるだろう。だが、医学的に見ると、病状をかなり正確に描いており、ストーリー展開におかしな点はない。

 さまざまな症状から見て、千早の病気は、まず間違いなく偏頭痛である。偏頭痛は、低血圧の女性に多い病気で、幼児期には見られないが、思春期以降に急に発症する。偏頭痛の特徴と千早の症状を並べておく。

 (1) 偏頭痛は精神的ストレスと関係しており、過大なストレスから解放され脳血管が拡張すると発作が起きることが多い。千早の場合、必勝祈願に訪れた近江神宮で最初の前駆症状が現れており、「ようやくここまで来た」という思いが発作の引き金になったようだ。

 (2) 偏頭痛では、光や音の刺激など、ちょっとしたことで症状が増悪する。試合前、千早は、ふだんと違って大人しくしているが、これは悪化の予兆を感じた患者が本能的にとる態度である。

 (3) 偏頭痛には、吐き気、音や光に対する過敏症、さまざまな視覚異常や神経症状が伴う。千早には、これらの症状が複合的に現れている。

 (4) 激しい運動をすると、偏頭痛の症状は急激に悪化する。頭の痛みは、一般の人が想像するよりも激越で、立っていることもままならず、酷いときは文字通り昏倒する。千早は、団体戦ということもあって、無理に頑張りすぎた。

 (5) 偏頭痛の持続時間は数時間から数日。熟睡すると、脳の状態がリセットされて、症状が完全に消失することもある。千早の場合、一晩眠った翌日に何事もなかったかのように試合に出場するが、偏頭痛ならば別に不思議ではない。

 (6) 脳血管の拡張が関係する病気なので、頭を冷やすと症状が緩和される。翌年の全国大会で、千早は頭にアイスノンを付けて冷やしているが、おそらく、医者から冷やすようにと指示されたのだろう。

 (7) 偏頭痛の治療薬はないが、予防薬や症状を緩和する薬ならば、いくつか市販されている。最初の全国大会で倒れて以降、偏頭痛の発作が起きないのは、薬を服用しているからかもしれない。

 以上、20年来の偏頭痛持ちであるキャポックちゃんの解説でした。


【PSYCHO-PASSサイコパス】常守朱はなぜカレーうどんを食べる?

 『PSYCHO-PASSサイコパス』のヒロイン・常守朱は、公安局に着任早々、職員用の食堂で月見カレーうどんを食べる。これは、奇妙な行動である。ふつう、新任の若い女性は、服に黄色いシミが付いて見とがめられるのでは…と気にし、カレーうどんなど注文しない。常守の行動は、彼女が他人の気持ちを忖度せず、自分の規範に忠実なことを表す伏線なのである。実際、これに続くシーンでは、心理テストにパスせず「警察の狗」に甘んじている同僚に対して、自分がどんな職業にも就ける好成績だったことを得々と語り、相手を激怒させた。

 飲食のような日常的シーンを通じて登場人物の特徴を浮かび上がらせる演出は、視聴者が自分の体験と比較しながら意味するところを読み解けるので、映像作品でよく用いられる。実写映画『家族ゲーム』(監督:森田芳光)では、松田優作演じる家庭教師が、飲み物を常に一息で飲み干していたが、他のどんな行動よりも、その異常さを際立たせる優れた表現だった(松田自身が考案したとも言われる)。

 アニメも負けていない。

 『銀河英雄伝説』に登場するヤン・ウェンリーは、米軍兵士などが好むコーヒーを嫌悪し、ブランデーを入れた紅茶(火をつけてアルコール分を飛ばすような真似はしない)を愛する。ラインハルトが長身で金髪碧眼という所謂“アーリア人”を連想させる容貌なのとは対照的に、名前と外見から中国系だと思われるヤンだが、その言動からは、どこかでヨーロッパ的な習慣と教養を身につけたことが窺える。

 『甘々と稲妻』では、小鳥の食べっぷりが印象的だ。大食いの女子高生で、休み時間ごとに巨大な菓子パンを頬張っているが、昼食の時間になると、料理研究家の母親が作った弁当を取り出す。焼き魚やフキの煮物など凝ったおかずが入っており、小鳥は、それを何とも嬉しそうな表情で黙々と食べる。不在がちな母親に対して不満を口にすることがあっても、実は、互いに心が通じ合った仲の良い母娘だとわかるシーンである。

 このほか、『坂道のアポロン』のカツカレー、『僕だけがいない街』のベーコンエッグと味噌汁の朝食など、登場人物の内面や置かれた立場が読み取れる場面は少なくない。飲食物を単なる添え物として見過ごさず、演出意図を考えながら鑑賞すると、アニメをより楽しめるだろう。


【STEINS;GATE】エル・プサイ・コングルゥって、どういう意味?

 『STEINS;GATE』では、主人公の岡部倫太郎が、さまざまな中二病的言辞を弄するが、中でも印象に残るのが、つながっていない電話に語りかけるとき、最後に決め台詞として使う「エル・プサイ・コングルゥ」。原作となるPCゲームのライター・林直孝のインタビュー(DENGEKI ONLINE News (2009年11月20日)掲載)によると、「全く意味のない言葉」とされる。しかし、本作に登場する他の言葉は、「シュタインズ・ゲート(石の扉?)の選択」にせよ「アトラクタフィールド(アトラクタもフィールドも正式な物理学用語)」にせよ、全く無意味ではなく、何らかの元ネタがある。とすると、「エル・プサイ・コングルゥ」も、どこかから引っ張ってきた可能性が無視できない。

 実は、この言葉が意味を持つコンテクストがある。理論物理学の一分野である素粒子論では、運動方程式を決定する基本的な物理量としてラグランジュ演算子が使われ、ラテン文字のエル(L)で表される。素粒子論では、いくつかの場(フィールド)が取り上げられるが、その一つとして天才物理学者ディラックが提案したのがスピノル場で、ギリシャ文字のプサイが使われる。スピノル場のラグランジュ演算子は、エルに添え字としてプサイが付いた形となり、エル・プサイと読まれる。

 一方、「コングルゥ」に該当する英語には、「〜と一致する」を意味する “congrue” がある。つまり、「エル・プサイ・コングルゥ」とは、(三単現の s がないので)「スピノル場のラグランジュ演算子は〜と一致すべし」という意味になる。ラグランジュ演算子が何かと一致すると、それに応じて、どんな物理現象が起きるかが決定される。もしかしたら、ある特別なラグランジュ演算子になると、時間遡行が可能になるのかもしれない。

 この解釈の難点を言えば、 “congrue” という英単語は、現在ではまず使われない古語であること。もっとも、数学では、合同の意味で “congruence” という用語が頻繁に使われるので、数学の好きな物理学者が、ちょっと気取った言い回しとして、「エル・プサイ・コングルゥ」を使うこともあり得ないわけではない。

 ゲーム『STEINS;GATE』のシナリオを構想していたライターが、アイデアを求めて物理学の専門書をパラパラめくっているうちに、偶然、この部分に目が留まり、何となく語呂がよくて使ったものの、どこから引っ張ってきたか忘れてしまった…そんな推測も成り立つような気がする。


【涼宮ハルヒの憂鬱】長門は何を読んでいた?

 『涼宮ハルヒの憂鬱』に登場する長門有希は、汐宮栞やクラエスとともに、日本のアニメでしばしば描かれる文学少女の代表格。部室では、いつも熱心に本を読んでいる。では、何を読んでいるのか。

 画面から確認できるのは、サイモン・シン『暗号解読』、笠井潔『哲学者の密室』、阿部和重『グランド・フィナーレ』、綿矢りさ『蹴りたい背中』などで、かなりマニアックでハードな作品が多い(個人的には、ハイデガーを糾弾する哲学的ミステリ『哲学者の密室』がオススメ)。

 彼女が読んだ本の中で、物語の進行に重要な役割を果たすのが、ダン・シモンズ著『ハイペリオン』と続編の『ハイペリオンの没落』。まず『ハイペリオンの没落』を読んでいる長門の姿が描かれ、その後、間に挟んだ栞を見せる目的で、キョンに『ハイペリオン』を手渡すシーンとなる。なぜ、正続の順番が逆になったのか。

 栞さえ目に留まれば本は何でもいいはずなのに、自分が読み終えたばかりの続編ではなく、順番通り正編の『ハイペリオン』を渡さなければと考えるほど、長門が律儀だったのか(私は、そう解釈する)。あるいは、そこに書かれた内容に意義を認めたのか。

 『ハイペリオン』には、未来予測も可能な統合知性と時間を逆転させる謎の存在「時間の墓標」が登場し、長門の情報統合思念体やみくるちゃんのTPDDを連想させる。正統的なハードSFとして、かなり面白い。だが、『ハイペリオンの没落』になると、ほとんど支離滅裂で内容が把握しにくい(と言うか、私は途中から流し読みで済ませた)。自分たちと似たものがきちんと描かれているからこそ、『ハイペリオン』を選んだとも考えられる。

 そうだとすると、長門は、あの顔で結構食わせ物だと言えそうだが…。


【けものフレンズ】ラッキービーストって、何がラッキー?

 『けものフレンズ』では、フレンズの世話をしたりシステムメンテナンスを行うロボットが登場する。正式名称は不明だが、彼ら自身は「僕はラッキービーストだよ」と語る。しかし、自分のことを「ラッキー」と呼ぶのは、ちょっと奇妙である。

 ラッキービーストは、本来はパークガイドロボットであり、単に情報を教えてくれるだけでなく、バスを運転して目的地まで運ぶなど、パークの入園者にとって実に有用な存在である。しかし、広大なパークに比して数が少なく、ラッキービーストが同時に複数台目撃されることはほとんどない。パークがオープンしても、入園者がパークガイドロボットと出会う機会は、滅多に訪れなかったろう。「出会えたら入園者にとってラッキー」という意味で、ラッキービーストと名付けられたのではないか。

 ふつうの動物を表す animal ではなく、悪いニュアンスで用いられることの多い beast にしたのは、お伽噺などで人語を話す動物が beast と呼ばれるのを踏まえたのかもしれない(ディズニーアニメ『美女と野獣』の原題は “Beauty and the Beast” )。

 フレンズがラッキービーストを「ボス」と呼ぶのは、おそらく、人間の代わりだと思ってほしいという願いから、退去直前のパーク従業員がそう呼ばせたのだろう。もっとも、フレンズからすると、じゃぱりまんを配るなど自分たちに奉仕する役割に見えるので、ボスの呼び名に相応しい扱いはしていないのだが。