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武本康弘の演出法
(これまでの執筆方針に従って、敬称は省略しています)

 本年7月に発生した京都アニメーション(京アニ)第1スタジオ放火事件で、多くのアニメーターが被害に遭った。あまりの悲しさに、言葉もない。犠牲者には、クレジットでたびたび目にする名も多い。最もショックを受けたのは、『涼宮ハルヒの憂鬱』『響け! ユーフォニアム』などでキャラクターデザイン・作画監督を務めた池田晶子と、これから記す武本康弘の死である。

 京アニは、当初、他社制作アニメの下請けを行っていたが、90年代後半から制作体制を整え、2003年の『フルメタル・パニック?ふもっふ』(監督:武本康弘)で元請けに参入。06年の『涼宮ハルヒの憂鬱』(監督:石原立也)で大ヒットを飛ばし、評価を不動のものとした。09年の『けいおん!』(監督:山田尚子)以前に元請制作された10本のテレビアニメのうち、9本を武本か石原が監督しており、この二人が京アニ独自の作風を確立する上で重要な役割を果たしたと言えよう(他の1本は木上益治が監督。また、山本寛が『らき☆すた』冒頭4話を担当)。

 私の個人的な感触では、石原が、他のアニメーターを乗せるのがうまいリーダータイプなのに対して、武本は、自分でキャラの人物像を練り上げていくクリエータータイプに思える。石原作品は、どれも丹念に作られ充分に面白いものの、キャラの掘り下げ方に原作に応じた違いがあり、石原個人の強烈な作家性はあまり感じられない。一方、武本作品には、好みのキャラは徹底的に内面を描ききろうとする強い意志が見て取れる。

 テレビアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』で説明しよう。武本が絵コンテ・演出を担当した「射手座の日」(第1期第11話)のラスト近く、コンピ研の活動に参加させてもらうようキョンに促されると、長門は表情を変えずに微かに頷いた後、横を向き髪で目が隠れた状態で「…そう」と言い、さらに口元のアップとなって「たまになら」と囁く。このとき、彼女が目を見せないことは、その3分ちょっと前、ハッキングによってゲーム中にプログラムを書き換える許可を求めて見上げたとき、瞳にキョンの姿が映っていたシーンと強烈な対比をなす。瞳の描写によって彼女が決意するに至った動機を示し、目を隠すことによって、今何に思いを馳せているかを視聴者に推し量らせるという演出なのである。こうした緻密な心理描写が、武本の得意とするところである。長門が活躍する他のエピソード、例えば、「涼宮ハルヒの退屈」(第1期第4話)や「ミステリックサイン」(第1期第7話)などと比較すると、その徹底ぶりがよくわかる。

 武本が監督したテレビアニメ第2期(総監督は石原)になると、内面の表出はさらに強烈になる。わずかなシチュエーションの違いを際立たせる微分的描写を探求した「エンドレスエイト」(第2期第12〜19話;これが同じ話の繰り返しに見えるようでは、まだまだアニメ道を究めていない)、原作を逸脱して古泉を人間的に描いた「涼宮ハルヒの溜息 V」(第2期第24話)では、アニメのキャラが現実をも凌駕する豊かな心を持った存在となる。

 こうした武本らしい表現は、彼のどの監督作品にも見られる。例えば、『氷菓』第18話「連峰は晴れているか」のラストで、千反田えるが何かを言おうとして言葉に詰まってしまうシーン。彼女の身振りと表情で、実際に口で説明するよりも遥かに多くの思いが伝わってくる。

 武本の演出法が最高度の達成を見せるのが、劇場版『涼宮ハルヒの消失』だろう。この作品では、ディープな心理描写がほとんど極限にまで達している。例えば、中盤のクライマックス、キョンの口からあり得ない名を聞いたハルヒは、その場に文字通り「くずおれる」。情動と身体反応が結びついており、彼女の受けた衝撃の大きさがあらわになる描写である。

 意志にコントロールされない身体表現を通じて人間の内面を描写することは、実写映画でも高度な演出テクニックを要する(小津安二郎『麦秋』のラスト近く、遮断機が下りて路傍に腰を下ろした父親が、そのまま立ち上がれず空を見つめるシーンなど)。『消失』では、こうした身体表現がたびたび用いられ、登場人物の内面を浮かび上がらせる。その中でも特に印象的なのが、長門のケースだろう。自宅に招き入れたキョンが帰り際に「あのさ、明日も部室に行っていいか? ここんとこ他に行く場所がないんだ」と言ったとき、彼女は、抑え切れぬ想いに、つい口元をほころばせてしまう。この長門の姿は、これまでに私が見たあらゆるアニメの中で最も切ない一言を導く。「宇宙人なんか珍しくもない。もっとあり得ないものを見ちまった」。

 『消失』を読み解く手掛かりとなるのが、公式ガイドブック『涼宮ハルヒの消失』(角川書店)に掲載された「演出家座談会 総監督・石原立也×監督・武本康弘×演出・高雄統子」である(放火事件で亡くなった二人が語り合う「作画監督対談」も切ないが)。作品のコンセプトを尋ねられて、石原が言下に「ラブストーリー」と答えたのに対して、武本は、制作前のディスカッションで「キョンの決心と回帰の物語」を提案したと語り、さらに、「キョンの再認識の物語」と言い換える(前掲書p.101)。底流となる情緒性を重視する石原と、登場人物の心理に目を向ける武本の違いが、明瞭に浮かび上がる。

 本作の古泉と長門について語る武本の言葉を引用したい。

 「(長門について)SOS団の中で能力は1位、2位を争うけれど存在はすごくはかない。いつ消えても、いなくなってもおかしくないような。そのアンビバレンツな感じが、胸にキュッとくるんです」(前掲書 p.108)
 「(古泉には)すごく悲哀を感じます。なのでアフレコの時には、古泉役の小野大輔さんに「ピエロの悲哀を出してほしい」とお願いしました」(前掲書 p.104)

この二人が作品の中でどのように描かれているか、じっくりと見届けてほしい。

 私は、これまでに3度『消失』を見た。最初に映画館で見たときには、周囲の目を気にして耐え抜いたものの、自宅で見た2度目、3度目は、全編の半分以上で嗚咽していた。もう1度見たいのだが、今度ははじめから終わりまで泣き通しだろうな。

(2019年09月14日)